2008年 沖縄県今帰仁村歴史文化センター    

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  ドイツ・オーストリアをゆく   HPトップへ なきじん研究(紹介) 山原の津(港)と山原船 
   今帰仁の戦後60年の軌跡(企画展終了)  第15期ムラ・シマ講座
   山原の神アサギ 奄美のノロ制度 喜界島(鹿児島県) 沖永良部島 与論島 奄美加計呂麻島
    阿嘉島 座間味島 粟国島 石垣市の村と小浜島(竹富町)  奄美大島の村々
   ノロ制度の終焉 恩納間切のノロ 金武間切のノロ 久志間切のノロ 名護間切のノロ 本部間切のノロ
              今帰仁間切のノロ 羽地間切のノロ 大宜味間切のノロ 国頭間切のノロ

   【2005年の動き】 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
   【2006年の動き】 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
   【2007年の動き】 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
   【2008年の動き】 1月 2月
   北山(山原)の歴史と文化(企画展:展示の様子)
   

2008年1月31日(木)

 明治28年に発給された今帰仁間切の最後の地頭代(諸喜田福保)の辞令書と「勤職書」に目を通す。辞令書の文面は「今帰仁間切耕作當諸喜田福保 任今帰仁間切地頭代 明治廿八年九月三十日 印」とある。印は「沖縄県庁」の印である。これが地頭代の最後の辞令書というのは、明治31年に間切の地頭代は間切長となり、同41年には村長となるからである。

 「勤職書」は、この文書の表題部分が欠落しているため、琉球大学の島袋源七文庫の中に、「勢理客村湧川親雲上勤職書」とあり、それに因んで「今帰仁間切諸喜田福保勤職書」と命名した記憶がある(昭和57年)。辞令書と勤職書を公に紹介したことから、後に寄贈いただくことになる。

 二点の史料評価をするために手にしているのだが・・・。

 沖縄の歴史研究に手を染め始めた頃である。というよりは、それがきっかけで歴史に本格的に足を踏み込んだように思う。言語調査から入り数年、民俗調査に数年、宮城真治資料と関わって民俗と決別、昭和55年頃諸喜田福保の辞令書と勤職書をきっかけに歴史へ。10年近く歴史と悪戦苦闘している。その頃、「今帰仁村の村落の変遷」や「北山の歴史」や「運天の歴史」などをまとめている。そのころ角川の沖縄の地名辞典で羽地や久志地域を。そして名護市史で歴史原稿をまとめている。

 平成元年4月に今帰仁村に仕事場を移し、資料館(現在の歴史文化センター)づくりへと。準備室時代が7年あった。資料館(博物館)づくりに入ると言語、民俗、歴史、地名などと分野を分けて業務をすることができない状況であった。自分の専門としたい分野だけでは博物館は成り立たないのである。やってきたものには分野を問わず関わらざる得なかった。教育の分野まで。苦手としたのは、芸能や音楽、それと自然。それらは今でもお手上げである。申し訳ないと思っている。

 歴史に足を踏み入れるきっかけとなった「辞令書」と「勤職書」を手にしていると、30年余の沖縄研究の足跡を整理する時期にきたかと思う。表舞台に出ることは苦手だったな。今でもそうであるが。


  ▲今帰仁間切最後の地頭代任命の辞令書          ▲諸喜田福保勤職書の一部

2008年1月30日(水)

 明治36年の地図の整理にかかる。表題は「国頭郡今帰仁間切・・・村全図」とある。「沖縄県土地整理紀要」(土地測量の順序方法)から地図に関する情報を引き出していく。土地整理事業着手完成時期が一覧表で示されている。土地整理事業と言っても多種多様である。国頭郡の場合、以下のようになっている。
  ・土地処分   明治32年4月〜34年4月
  ・土地測量
     一等図根 明治33年10月〜34年3月
      二等図根 明治33年9月〜34年7月
      砕部測量 明治34年10月〜35年7月

  ・製 図     明治35年10月〜36年10月
  ・地価査定 
     ・地押調査  明治33年11月〜34年5月
      ・段別地価地租査定 明治36年1月〜明治36年10月
      ・土地台帳調製  明治35年1月〜36年10月

 土地整理事業は宮古郡と八重山郡は明治32年4月に始まり明治35年12月をもって完了し、翌年明治36年1月1日から地租条例及国税徴収法が施行された。国頭郡、中頭郡、島尻郡の三区と那覇区と首里区は明治36年10月をもって完了し、明治37年1月1日より施行された。

 村全図は六千分の一、村図には図根点、境界、宅地(赫黄の淡色)耕地不耕地(鉱禄お淡色)の概形、道路(赫黄の中色)、河川、海岸線、渉所、橋梁、渡船場、諸注記を地図に図示するとある。

 「地押調査手続」の第十四条に「見取図及字別村図ハ之ヲ編綴シ其表紙ニ郡間切村名完結年月日及従事者ノ官氏名ヲ記シ捺印スルモノトス」あるが、今帰仁間切村全図には郡間切村名まであるが、宜野湾市のように年月日や官氏名や捺印がない。

 「国頭郡今帰仁間切村全図」を「沖縄県土地整理紀要」の文面と合わせ見る必要がある。その地図から土地整理の目的は何だったのかを念頭にいれて読み込むことが重要である。


▲今帰仁間切兼次村全図    ▲今帰仁間切仲尾次村全図        ▲村全図の凡例

2008年1月29日(火)

  怠け癖がでたか!更新できず!


2008年1月26日(土)

 桜まつりがスタートしてから入館者が一日500〜1500名。これだけの来館者がこられると館内の交通整理が必要。

 展示のキャプション入れと展示の補足など。企画展示室で来館者の声を聞くのも大事。余りにも沖縄の歴史について知られていないことに愕然とする。ましてや「北山の歴史」となると、ミクロの世界に導いてしまったような。琉球(沖縄)は異国だったのだというところに魅力があるのだが。これまでムラ・シマの方々に向かっての博物館づくりをしてきたのだが、それだけ村外からの来館者となると、そこに向けての視点も必要となってくる。それは県立の博物館に任せたいものだ。




2008年1月25日(金)

 今帰仁村兼次小の4年生が、これまで学習してきた成果を今帰仁グスクで発表。以下四つのグループ。今帰仁グスクの筑城から滅びるまでの物語である。今帰仁グスクと結びついた伝説を演じる、あるいは身近な話、自分のものにしてくれたらと。もう一度やりたいと。
    @石切り妖刀(北谷菜切)
    A今帰仁御神(ナチヂンウカミ)乙樽物語
    B北山騒動(ほくざんそうどう)
    C名刀千代金丸


   ▲今日の学習の成果は今帰仁グスクで            ▲グスク内での発表は?


       ▲石切り妖刀「北谷菜切」                ▲今帰仁御神乙樽物語


        ▲北山騒動                           ▲名刀千代金丸


2008年1月24日(木)
 
 あれこれより道してきたが、「北山(山原)の歴史と文化」に戻って地堅め。展示の手直ししていると、ひとつひとつが懐かしくなってきます。来館者の声が聞こえるのでいいです。


2008年1月23日(水)

  『馬姓家譜』(小禄家)の九世馬亮功(仲里里主)の乾隆29年(1764)の12月6日に「同初六日蒙賜盛宴及看操」とある。馬亮功は乾隆26年(1761)12月9日に徳川十代将軍大樹家治公が前年父将軍家重公の跡を継いで将軍になったときお祝いの儀礼のために慶賀使として尚氏読谷山王子朝恒を派遣が決まると楽正を命じられる。同29年(1764)4月19日に江戸上りの無事を祈って三平等で祈りをする。6月9日に那覇を出港し6月13日に山川に到着、20日に鹿児島に到着する。鹿児島でいろいろあるが、7月23日に鹿児島を出発し、10月11日に大阪につく。13日に大阪で踊り狂言を観覧する。

 8月15日に大阪を出発して16日に伏見につく。19日伏見を出発して11月9日に江戸につく。その日に太守公(島津26代重豪公)に拝謁する。・・・乾隆29年12月6日「盛大な宴会があり、操りを拝見」している。操がどのようなものか。操り人形や人形芝居かと思われる。昨年から調査している山原の名護市川上、今帰仁村謝名、本部町伊豆味の操り獅子(アヤーチ)の導入に結びつくのではないか。

 音正を命じられた馬亮功は「操」だけでなく、半能や伊勢神楽、能楽、狂言なども拝見している。琉球側からは琉球音楽の演奏、琉球舞踊、唐踊りなどを披露している。

 12月11日に江戸を出発して乾隆30年(1765)正月1日に伏見に到着。3日大阪、同13日大阪を出発して2月28日に薩摩の京泊、2月4日に鹿児島に到着。2月28日に乗船し3月3日鹿児島を出港して16日に帰国している。後に工能と能楽を演ずる踊奉行に任じられている。

 琉球側から江戸までいき、大和の芸能と接し、それらを琉球にももたらしたとみられる。そのことと操り獅子の導入と直接結びつけることはできないが、大和の芸能の琉球への導入の道筋が見えてきそうである。「操」についての記事は、まだこれだけしか目にしていないが、他の資料にも目配りしてみることに。


    ▲名護市川上           ▲今帰仁村謝名               ▲本部町伊豆味

2008年1月22日(火)

 今帰仁(北山)と関わる金石文を『金石文―歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会:昭和60年)からいくつか拾ってみた。今帰仁だけでなく、北山や山北府や人物なども碑文から拾ってみた。中山から北山という地をどう見ていたのか、それと三山統一後も琉球国王も出てくるが目立って中山(王)が使われている。三山統一後も中山を踏襲していった背景が見えてこないか。

 万歳嶺記と官松嶺記が建立されている場所が何故ミヤキジナハなのかがテーマである。吟味したことがないので、東恩納寛惇の『南島風土記』の説明を借用すると「ナチヂナーといい、今帰仁屋に作る」という。屋は居住地と解されているので今帰仁人が住んでいた場所が地名になったことになる。そのナチヂナーは今帰仁から行った人たちの居住地だったのか。1497年に碑が建立された頃には地名はあったのであろうか。あったとすると・・・

 玉御殿の碑文(弘治14年)に「ミやきせんあんしまもたいかね」とあり、今帰仁按司真武體金、第二監守一世の今帰仁王子(尚韶威)であり、玉陵に葬られた人物である。今帰仁グスクに派遣された尚韶威は亡くなると玉陵に葬る観念はどこからきたのか。北山監守が首里に引き上げた時の七世従憲は首里で亡くなり葬られたのは運天の大北墓である。

 以下の碑文をひも解いていくと中山からみた北山の世界をどう見ていたのか読み取れそうである。本覚山碑(1624年)の今帰仁思徳(いまきしん思徳)や内間御殿の御殿守を勤めてきた中山家の墓誌(1792年)に出てくる「今帰仁ちい」なる人物?は今帰仁とどう関わるのか。そのようなことをひも解いていくことも必要かもしれない。

・万歳嶺記(上ミヤキジナハノ碑文)(1497年)(首里山川)
・官松嶺記(下ミヤキジナハノ碑文)(1497年)(首里大中)
・玉御殿の碑文(首里金城町玉陵、弘治14:1501年)
・本覚山碑文(首里山川町金武家墓、天啓4:1624年)
・池城墓碑(今帰仁村平敷、康煕9:1670年)
・首里魚池碑文(康煕17:1678年)
・墳墓記(今帰仁村今泊、康煕17:1678年)
・改決羽地大川碑記(乾隆9:1744年、道光10:   )
・山北今帰仁城監守来歴碑記(今帰仁グスク:乾隆14:1749年)
・三府龍脈碑記(名護市:乾隆15:1750年)
・中山家墓誌(西原町小那覇:乾隆57:1792年)
・オランダ墓墓碑(1846年)(屋我地島)

(下の碑文は『金石文―歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会:昭和60年)より)
   
 ▲上ミヤキジナハノ碑文  ▲下ミヤキジナハノ碑文

2008年1月18日(金)

 国頭村楚洲で「沖縄県の世界遺産を手掛かりに沖縄の歴史」の講演と同村の比地(野生保護センター)で会議があり参加する。時間があったので先日問合せの「ヲ之印 よろんはま原」の原石の件で「山と水の生活博物館」に立ち寄る。職員(比嘉さんと肥後さん)と吉本勲氏に現場まで案内頂いた。この原石についてはすでに調査がなされている。

 「ヲ之印 よろんはま原」の原石について吉本氏から現在地に置かれるまでのいきさつを伺うことができた。それと、原石があった場所はヨロン(ユンヌ)バル、その海岸はヨロン(ユンヌ)バマだという。それと「与論の人たちが立ち寄った場所」、あるいは漂着して一時住んだ場所なのか不明である。「なんらか与論と関わる場所ではないか」と。それが地名となったとみられる。そうであれば、1743年当時、すでに原名があったことになる。ならば、それ以前に与論と関わる出来事があったことになる。地名になるような出来事があったのであろう。それに久志間切川田村か宮城村あたりに漂着、あるいは救助、山船の往来などの記事があるかもしれない。探してみることにする。

 『東村史』(第1巻)の「東村の小地名」にユンヌガマがあり、「与論の人が、ここで浜ヤドリをして、漁をしていた。また、川田の人が与論から牛を購入してきて、この浜へおろしたところである」(27頁)とある。原石が設置された1743年には「よろんはま原」の地名がすでにあったわけで、それからすると、それ以前に与論と関わる大きな出来事があったのではないか。

 久志間切は、まず左方と右方に分け、針図(測量)は五つ(東・西・南・北・中)のグループに分かれて行ったようだ。田畑に一々イロハ番を附し・・・など、当時の測量方法などいろいろなことが読み取ることができる。


▲「ヲ之印 よろんはま原」の原石           ▲ユンヌバマ(与論浜)の様子

 久志間切で元文検地(1737〜50年)は乾隆8年(1743年)のようである。明治26年6月23日久志間切を訪れた笹森儀助は元文検地の竿帳と図面を久志間切番所(瀬嵩)で見ている。絵図の一に以下のように記されている(『南島探検T』(東洋文庫)所収)。

  一、久志間切針竿之儀、左方右方二手分ケヲ以テ針竿仕、山野并田畑巻数左方何番右方何番ト帳并図ニモ
    相記置候事。

    附図ノ儀ハ、一分ニテ五間積ヲ以テ相調候事。
  一、一番総方切久志・国頭両間切境タカイ(高江か)ト申所。両土手真中ヨリ竿相始メ、竿末アッチョト申所。杣山
    左百四十竿ニ留メ置候事。
  一、二番総方切シナカチ浜ト申所。杣山境九百十八竿。用竿始、竿末久志・金武両間切境赤瀬ト申所。杣山針
    本両土手真中ニ留メ置候事。
  一、山野并田畑竿本之儀、惣方切土手并其竿本立置候。依場所方切便遠キ所ハ、山野・田畑・土手并其竿数ノ
    内ヨリモつり出、竿本相調立候事。
    山野・田畑ノ差分ハ、墨ニテ一糸差シ通シ置候。つり竿ハ朱引、革筋ハ藍、宿道并番所ヨリ村往来通ノ道筋ハ
    黄黄ニテ相通、杣山ハ薄墨ニテ彩置候事。
  一、間切惣廻リ五十八里四里四十四町八分七厘八毛
           (略)
   乾隆八年 御支配奉行
            東氏   知念筑親雲上政福
            向氏   恩河親雲上朝村
            翁氏   当銘親雲上盛喜
            毛向氏 玉城親方安三
            馬氏   幸地親方良友
            武氏   富浜親方崇賀 
          針図中方

          針図南方
          
          針図西方

          針図北方

          竿図東方

           竿頭武氏  富浜里子親雲上崇象
        しらへ済
          帳しらへ役向氏
             羽地里親雲上朝庸
    
   (詳細は別で)

2008年1月16日(水)

 13日〜15日まで奄美大島と瀬戸内町の加計呂麻島へ。加計呂麻島はほぼ踏査する。奄美大島側は宇検村は宇検からスタートして焼内湾岸沿いの集落を。佐念から平田辺りまではどうにか回る。最後の屋鈍は日が暮れトボトボ集落内を散歩。屋鈍(宇検村)から西古見(瀬戸内町)に回り込む予定にしていたが、車の通れる道ではなかったので断念して戻ることに。そこから瀬戸内町古仁屋までは相当な距離。それも曲がりくねった道。空港から一気に宇検村に向かうつもりが、途中の集落に立ち寄ってしまう。

 二日目加計呂麻島からの戻りに瀬戸内町の清水・嘉鉄・久根津・油井までは踏査できたが阿鉄で日が暮れ、そこから名瀬市街まで。2時間近くの夜道の山越え道のドライブ。二度と来るまい、そしてレーサーになるつもりかと一人言。

 15日名瀬市街から奄美空港まで、途中のムラへ足を運ぶ。龍郷町の秋名・嘉渡・円・安木場・龍郷、その後は古琉球の辞令書に登場する旧笠利町の喜瀬、笠利まで。そこで時間切れ。その後、大きなハプニングに遭遇。飛行機の出発時間を遅らせるハメになりかけた。到着便が遅れていたためセーフ。空港で足止めされるとは。逃亡者か。収穫の多い奄美大島行きでした。(加計呂麻島の一部アップ)

 
   ▲ショチョガマが行われる場所(龍郷町秋名)      ▲平瀬マンカイが行われる岩場の一つ

 
      ▲西郷南洲謫居跡(龍郷)                  ▲西郷隆盛上陸の跡地と西郷松(久場)    


2008年1月12日(土)

 
午前中「沖縄の世界遺産」を中心とした歴史の講演原稿の整理(17日)、午後から沖縄工業高等専門学校の4年生が6名やってきた。今帰仁グスクをめぐる歴史や文化について。2時間半ばかりの質疑応答。いろいろ調べてきての質問なので、あれやこれやと頭の回転が早くなる。このHPで下調べしての参上なので即中身へ入る。
  ・北山の時代の公易の件
  ・東南アジアの陶磁器
  ・北山が滅ぶまでの経過滅んだ年代
  ・北山が滅んだ後、慣習を置いた理由
  ・今帰仁グスクが中南部と異なるところは?
  ・監守はどんなことをしたのか?
  ・監守一族が首里に引きあげができなかったのは?
  ・引き揚げした後の今帰仁グスクの状況
  ・監守時代の前期と後期の違い
  ・今帰仁阿応理屋恵との関わり
  ・火神の起源
などなどの質問あり。これで「まとめができそうだ!」と。自分達でイメージする北山の歴史象を描いくれるといいですね。石積みのできる感性と力のあるロボットや陶磁器の年代決定できる機器を発明してくれるといいのだか。


    ▲沖縄工専の学生6名             ▲話題となった今帰仁グスクの大隅(ウーシミ)

2008年1月11日(金)

 これまで1609年の薩摩軍の琉球侵攻を扱うのに『琉球国渡海日々記』と『喜安日記』などを見てきたが、『馬姓(氏)家譜』に以下の記事がある。馬氏一門で『馬氏家譜解説』(昭和55年)として訳して発刊されている。その事件の時の人物は馬良弼(名護親方)である。

 薩摩軍の琉球侵攻の時、薩摩軍の3000名の数が、激戦をしたイメージと結びついているが、実のところ和議が成立し激戦は避けられたのではないか。一部戦いはあったようであるが。

 万暦三十七年己酉(慶長14:1609年)三月、前から琉球が薩摩に対して綾舟の派遣を止めたため薩摩に対して
 礼を失い、そのため薩摩の藩主島津家久公は、その大将樺山権左衛門殿と副将の平田太郎左衛門殿に命じ
 軍艦を率いて我が琉球を討たしめ、礼儀を失した罪を問わしめた。惟うにわが琉球国は以前から日本国と隣国
 としての交際を行い綾舟を派遣して常に往来してきたのであった。その理由は一つには小国の琉球が平和を保
 つためには、大国日本の機嫌を損じないようにするということと、もう一つは、往来することによって国の富の不足
 を補い、民を豊かにするためであった。

 然しながら三司官の一人謝名親方鄭迥は心がひねくれて素直でなく、政治を自分の思うままに行い、そのため
 薩摩に対して失礼は行為をなしたためこのような結果もなってしまい、尚寧王はもはや言い訳をする機会を失っ
 たものと判断して、降伏する以外に道はないと考え、三司官の良豊と菊隠和尚等に命じて、大急ぎで国頭今帰仁
 の運天港の沖合いに行かしめ、薩摩の軍船を迎えて、それに乗り移り、今帰仁の敵陣に到り、罪を認めて失礼
 の詫びを入れ、抗戦はしない旨を伝え、服従するの誠を認めてもらい、和議を申し入れさせた。

 菊隠和尚等は、薩摩軍大将の返事を持って大急ぎで首里に帰って国王に報告jし、良豊は一人で人質になって
 薩摩軍の中に置かれて道案内となり、薩摩の軍船と共に那覇港に到り、那覇において和議の条約を結び、その
 ために本格的な戦い避けることが出来て戦禍を免れたのである。

 この事件の時、尚寧王は城から出られて、しばらくの間、良豊の家に滞在なされた。その年五月尚寧王は薩摩
 に服従の誠意を示すため薩摩に出向かれ、その際良豊は王命により留守番役として首里城をお預かりしてお守
 り申し上げた。

 


2008年1月9日(水)

 伊平屋島の野甫村は島で一島一ノロである。社禄調表(ノロクモイ)」(明治43年)に野甫のろくもいとあり、『琉球国由来記』(1713年)に野甫ノロ火神、野甫ノヲヒヤ火神、大山御イベがあり、いずれも公儀祈願所である。昭和30年代に拝所を統合し神社にしてある。野甫は弁之神社(お宮)である。集落内にヌンドゥンチ(伊豆味家)がある。現在神アサギはない。イリチャヨー(旧8月13日)という儀礼があり、アマイ神がノロ神をさがすストーリーになっているようだ。大山嶽(大山御イベ:神名セロマン)は公儀祈願所で野甫ノロ担当の拝所となっている。

 
     ▲弁の岳(お宮:弁之神社)                    ▲神社の側の拝所


  ▲野甫集落(ヌンドゥンチ付近)(2003.6.1)         ▲野甫ヌンドゥンチ?(2003.6.1)

2008年1月8日(火)

 6日7日の両日、ノロ殿内調査で伊平屋島→伊是名島に渡る。両島のノロ殿内やノロ、それと三十三君クラスの阿母加那志(あんがなし)と南と北の二カヤ田アムについて確認したいことがあってである。「諸禄処分による社禄調表(ノロクモイ)」(明治43年)に伊平屋(伊是名含む)は、伊平屋ノロクモイ・伊是名ノロクモイ・野甫ノロクモイ・我喜屋ノロクモイと伊是名掟神が記されている。それより古い『琉球国由来記』(1713年)には伊是名ノロ・我喜屋ノロ・田名ノロ・アムガナシ・二カヤ田ノロ・アマミヤノロ?とある。ノロだけでなく、ウタキ(グスク)と集落との関係が奄美大島と同様な展開をなしているような。それと『琉球国由来記』(1713年)の伊平屋で登場してくる「・・・ヲヒヤ」(旧家の当主?男の神人?役人?)の存在が気になる。

【伊平屋村の田名ノロ殿内】
 伊平屋村田名のノロについて複雑なようである。田名は田名村・久里村・ガヂナ村が統合された伝承を持っている。そのこともあってノロも三村出身のノロを仕立てている。また、伊平屋ノロクモイ(ノロ)は田名ノロを想定している。『伊平屋村史』で前記三つの村(マキ規模)の統合があり、各村からノロを出していると。それとイヘヤ祝女(ノロ)は殿内に住み、ウッカ御嶽を担当、テン祝女はアジヤ御嶽、アサト(安里)祝女(ノロ)は城嶽を担当するとある。(そのことは、集落と神人の出自との関係を示しているようで非常に興味深い。古宇利島の七森七御嶽とそれぞれの御嶽を担当する神人に通ずる)。

 
田名の祝女(ノロ)殿内は大正4年に瓦葺きにし、田名屋(脇地頭)は大正10年に瓦葺きに改築したが、昭和27年に各拝所をお宮を造り合祀し伊平屋ノロがお宮の司となり田名神社と呼ぶようになったという。今回訪ねてみたら、田名屋(お宮?)、隣りに神アサギ、さらに右手にノロ殿内がある。場所は変わったが神社の形式も残しながら神アサギはもとに戻したということか?

 田名ノロ殿内や神アサギ、ダナヤーなどは旧小学校敷地より下方にあった。「ノロ制度の終焉」を結論づける姿を伊平屋村田名でみた思いがする。2003年4月に伊平屋島を訪ねている。工事中であった。当時、田名についてコメントすることができなかったようだ。)
 
 今回、後方の後岳(標高約230m)の頂上部まであがる。前回、四十肩痛だったため途中であきらめたことがあった。田名に入るまでに伊平屋村の資料館で田名グスクは野面積みがあることを確認していたので、まだかまだかとフーフー言いながら上りつめた。八合目?あたりに正門らしき石積みを見つけると、そこから頂上部まで一足とび。頂上部に香炉が置かれている。イベである。後岳そのものがウタキであり、またグスクでもある。それと田名の集落との関わりに関心がいく。頂上部に池?(カー)があり、伊是名グスクにあるイシジャー(高所にある)と類似性をみる。


  ▲田名屋(平成15年竣工)    ▲田名の神アサギ(平成15年竣工)   ▲田名ノロ殿内跡か


    ▲田名グスクの石積み(入口か)            ▲頂上部にある拝所(イベか)


    ▲イベの側にあるカー(池)と香炉          ▲八合目あたりからみた田名の集落


【伊是名ノロ殿内】


 ▲伊是名村伊是名にある伊是名ノロ殿内跡          ▲ノロ殿内の内部

 (※伊平屋島と伊是名島のノロについては別にまとめることにする)

2008年1月4日(金)

 仕事はじめ早々、古宇利島から「ひ あ加れ原」の原石(印部石:印部土手)が古宇利区長さんを通して届く。ありがとうございます。早速、採拓してみました。久しぶりなので腕は鈍っていないか。東の島と東の原石なので、今年はいい年になるかもしれません。歴史文化センターは。「奄美大島の村々」も少しアップ。

 古宇利島にあるもの(現場)二基、個人の庭さきに一基、歴史文化センターに四基(今回の含む)の計七基である。「ひ あ加れ原」の原石は個人の住宅にあったのを歴史文化センターに寄託されたものである。元あった場所がわかれば(東原には間違いないが)、現場に戻す約束である。

 蔡温が陣頭指揮をとった元文検地(1737〜50年)で起点として使われたものである。古宇利島の小字の一つに「東原」があり、アガイバイと呼んでいる。もう一基あり「に あ加れ原」の原石である。「あがり」の「り」を表記の法則をもって「れ」としている。古宇利島にある「いれ原」(三基)の「いり」(西)の「り」を「れ」と同様な表記がなされている。それは首里王府役人の表記の仕方(約束事)なのかもしれない。方言音をどう表記するか興味深い。

 


2008年1月3日(木)

 あけましておめでとうございます。新年もよろしくお願い致します。新年はどのような動きあるのか楽しみです。数多くの年賀状ありがとうございます。

 さて、今年は今帰仁村運天からのスタートとなる。『運天誌』(約600頁)の字誌の発刊を11月目標としている。今年は『運天誌』を頭の隅にいつでも置いておくため運天港を訪れてみた。一般的に言われている運天港、そして村内(ムラウチ)集落、運天番所跡、馬場跡(現在道路)などを確認する。運天港というと、源為朝公渡来伝説、海東諸国紀の雲見(運天)津、百按司墓、大北墓、1609年の島津軍の琉球侵攻、大和人墓、対岸のオランダ墓など数々の歴史と関わる出来事がある。

 運天の歴史は今帰仁グスクの歴史と肩を並べるものだと位置づけている。運天の歴史は二本の柱の一つを描くことでもある。運天港は規模としては小さな港であるが、沖縄の歴史を見ていくのに、また琉球の人たちの個性(県民性)をつくりあげた港ではないか。そのようなことも含めて見ていく予定である。果たして?!
       

      ▲運天のムラウチ集落                  ▲運天(間切)番所のあった場所


    ▲番所前に馬場があったという!            ▲かつて良港として機能していた運天港