2010年2月27日(土)

 以下のテーマで頭の中が回転中。今朝の地震の大揺れで、吹っ飛んでしまう。仕切り直し。歴史文化センターの展示や資料などに被害なし。今帰仁グスクの石積の崩壊(災害)はナシでした。

 ・運天港―歴史を秘めた港―(原稿書き)
 ・「沖縄県地域史協議会」との関わり(過去の資料を取り出して記憶を呼び起こし中)
 ・今帰仁上り(元祖神拝み)(過去に記された資料であるが、そのことが史実かどうかとは
         別の歴史をもっての拝みである。中部の一門の事例から)
 ・ウタキと集落と村(過去に記録があって、それにならったものではなさそう。しかし、ウタキと集落と
        村(ムラ)との関係で、いくつかの法則を見い出すことができそう)


2010年2月26日(金)

 今帰仁村の東方のムラ・シマの御嶽(ウタキ)を踏査してきた。ウタキをどう見るか。ウタキは集落(村人)との関わりで見て行かなければならない。ウタキは沖縄の人々の本源的な部分と関わっているからである。それと村の歴史と深く関わっている。湧川・天底・勢理客・謝名をゆく。

@湧 川(新設村)
 湧川は1738年に新しく創設した村である。湧川地内に我部村・松田村・振慶名村・(呉我村)があったのを羽地側に移動させ、そこに新設した村である。新設した時に、ウタキを造っている。村人達が、ウタキをどう造ったかが知れる。それと、湧川地内から移動した村が、移動後どう関わっているかをしることができる。

A天 底(移動村)
 天底は1719年に本部間切伊豆味地内から移動した村である。他地から移動してきた村が移動先で、ウタキや集落をどう造ったのかを知るモデルとなる例である。

B勢理客(ウタキと旧家跡と神アサギ)
 勢理客はウタキと集落との関係では一般的なムラである。ウタキの中のイベは祠が造られていて、そこに二基の香炉がある。文字が彫られている。

C謝 名(大島集落とウタキと神アサギ)
 謝名のウタキは旧集落の後方にある森である。ウタキを背にして南面に集落は発達している。旧家があり、そして神アサギなどがある。古島タイプの集落はウタキを背に南斜面に集落が発達する。謝名の大島は古島タイプの典型的な例である。


   ▲後方の森がウタキ(タキサンという)         ▲イベの前のイビヌメー          ▲ウタキ内のイベ

    ▲天底のウタキ(祠がイベ)            ▲神アサギの後方の森がウタキ


         ▲勢理客のウタキ(森)               ▲祠がウタキのイベ       ▲イベの香炉

  ▲謝名の神アサギ(後方の森がウタキ)       ▲ウタキ(お宮)への道         ▲ウタキの内部のイベ

2010年2月24日(水)

 「今帰仁上り」(ナチヂンヌブイ)や「東廻り」(アガリマーイ)がある。その中の「今帰仁上り」(元祖神拝み)について講演を引き受けている。ある一門の事例を紹介することに。一門の文書のタイトルは「今帰仁上り」とは記されていない。「今帰仁神御拝ミ造用取立帳」(昭和二年度:旧卯年)とある。「大宜味村M之方首里御元祖拝所造用取立割府入帳(明治丗二年九月) 丗年迄三ヶ年拝是ヨリ先ハ七ヶ年廻ニテ拝立候事」とあり、「首里上り」(元祖拝み」として行っている。明治30年まで七年廻りをしていたのを三年廻りに変更している。それだけでなく「大宜味村M之方ヨリ今帰仁間切湧川村新里屋ノ元祖拝ミ造用取立割府入帳」(明治三十四年辛丑十月)があり、湧川の新里家を元祖としての拝みがある。以下の資料から、それらの拝みの様子がみえてくる(詳細については別で報告の予定)

@首里拝所之造用現遣取立仕払帳」(明治丗年酉十月)
A大宜味村M方首里御元祖拝所造用取立割府入帳」(明治丗二年九月)
B大宜味村M之方ヨリ首里御元祖并御拝所之造用取立入帳」(明治三十一年戌九月)
C大宜味村M之方ヨリ今帰仁間切湧川村新里屋ノ元祖拝ミ造用取立割府入帳」(明治三十四年辛丑十月)
D今帰仁間切湧川村古元祖拝ミ造用取立割府入札寄帳」(明治三十四年辛丑十月改メ)
E大正十二年下方御願ノ造用現時帳」
F今帰仁神御拝ミ造用取立帳(昭和二年度:旧卯年)
G今帰仁拝ミ造用割府帳(昭和八年:酉年)
H首里下方御拝(M一門)(昭和十六年旧五月十五日記帳)

 昭和八年の「今帰仁拝ミ造用割府帳」から、一門の今帰仁拝みの場所を挙げてみる。
  ・湧川新里屋元祖拝ミ
  ・湧川字内川スヤノ製塩所(スヤーのウタキか)
  ・ヤガンナノ御墓
  ・運天ワルミノ寺
  ・運天大西ノ御墓(大北墓か)
  ・諸喜田御川(諸志のウプガー)
  ・諸喜田ヌンルチ(中城ノロドゥンチ)
  ・道端ガンサー(シゲマ乙樽ノ墓)
  ・親泊ヌン殿内(今帰仁ノロドゥンチ)
  ・城へ登口御川(親川)
  ・城へノボル道中(辺戸御通シ、伊波御通シ)
  ・城内へ入ル所(奥ノ山ヘ水ノ御礼)
  ・城内四ヶ所
  ・マンナ上殿内(本部町並里)

 「大宜味村M之方ヨリ首里御元祖并御拝所之造用取立入帳」から、首里や拝む場所を挙げてみる。
  ・恩納間切山田城への御川
  ・中城城へ
  ・中城城上ノ大屋
  ・中城のろくむい殿内
  ・其のはん御嶽(園比屋武御嶽か)
  ・びんノ御嶽
  ・円覚寺
    (崇元寺)
  ・崎平川
   (元祖本ハ首里山川村大城ナリ)



2010年2月23日(火)

 時々、他の地域に行くと「山原がよくみえる」という言い方をしてきた。昨年の10月八重山の竹富島と小浜島、そして今年の2月宮古島を訪ねてみた。これまで沖縄本島北部(山原)の「御嶽(ウタキ)と集落と村」についてまとめてきた。宮古・八重山の村々を見ることで「山原の御嶽と集落と村」について深く読み取ることができそうである。宮古・八重山など、他地域と比較していくことで興味深い近世、あるいは古琉球の村(ムラ)の成り立ちがみえてきそうである。そのこともあって新年度の企画展は「山原の御嶽と集落と村」をテーマに開催することに(予定)。展示項目は改めて。


2010年2月22日(月)

 
宮古島の砂川は『絵図郷土村帳』や『宮古八重山両島絵図帳』では、「おろか間切おろか村」と出てくる。砂川間切砂川村なので同村ということになる。近世紀には砂川間切の中心となった村と見られる。砂川の集落は乾隆36年(1771)の明和の大津波以前は、砂川元島遺跡は上比屋山遺跡の崖下の斜面にある。そこら一帯にあっために元島と呼ばれているようである。昭和49年から50年にかけて発掘調査が行われている。砂川元島の発掘調査で屋敷跡、石垣などが確認されている。また、その地に集落が形成されたのは、発掘された遺物から14世紀まで遡ることができるようである。(友利・砂川・新里・宮国は現在の集落は台地上にあるが、1771年の明和の大津波で海岸付近から移動したという:集落移動)

 「上比屋山遺跡」は14世紀〜15世紀にかけての遺跡との報告である。集落移動の経過をどう見て行けばいいのか。上比屋山あたりに集落が発達し、崖の傾斜地の砂川元島へ移動し、明和の大津波で上比屋山に戻り、そこから現在地に移動したのか。あるいは明和の津波で一部が上比屋山に戻り、一部は現在地に移動。上比地屋山に移動した人々がさらに現在地に移動したと見ていいのか。近世に移動した人達のモトゥが上比地屋山内にあるマイウイピャームトゥやアミヌヤームトゥなどではないか。

 短時間での踏査なので、危ういが、砂川の村(ムラ)、ムトゥを中心とした集団、そしてムトゥや里(サトゥ)の移動、移動したムトゥや里の人々が故地に何を遺してきたか。ムトゥという集団と祭祀との関わり、さらに複数のムトゥやサトゥをまとめた村(ムラ)やムラレベルの祭祀との関わりを丁寧に見て行く必要がありそう。それと近世の「人頭税」との関わりも。(沖縄本島北部の村(ムラ)とマキヨ、一門や引などの集団、そして一門や引から出す神人、それとムラにあるウタキのイビ。共通するもの、異なるもの。そこから導き出していけるものが・・・。


   ▲ウイウスムトゥ(上比屋山内)                 ▲ウファデーラムトゥ(上比屋山内)


    ▲クスウイピャームトゥ(上比屋山内)      ▲その森の中にムトゥや屋敷跡や拝所などがある

 砂川では御嶽(オタキ)をムトゥと呼んでいる(「宮古島の祭祀組織」蒲田久子)。そこに@前ウイピヤ A後ウチピャ Bウイウス CウイダテDパナタ Eタカギザマ Fテイラ G前キサマ H後キサマ Iマイヌヤー Jミャード Kピダモト Lイスキデの13のオタキが挙げられている。それらをムトゥと呼んでいるようである。

 森内にムトゥを要(かなめ)とした集団があり、その森全体がウタキ、ムトゥと呼ばれるのは、一族の旧家と見てよさそうである。それらのムトゥと呼ばれる複数の集団で村(ムラ)を構成していると言えそうである。ムトゥとは別に里(サトゥ)があり、それは複数のモトゥの集まりか。村の内部の小さな集団(マキ・マキヨ)に相当するものか。宮古の久松村は11里、平良の東仲宗根は17里からなっているという。このように宮古と沖縄本島(山原)の村の成り立ちを比較してみると、「近世の村」への変遷がみえてくる。

2010年2月20日(土)

 
宮古に着くと、早速狩俣と池間島へゆく。狩俣の集落には大きく四つのムトゥがあるという。四つのムトゥというのは、ウプグフムトゥ(大城元)とナーマムトゥ(仲間元)、ヂダディムトゥ(志立元)、ナーンミムトゥ(仲嶺元)である。狩俣は石垣で囲われ、三つの石門があったという。石垣内に集落を限定したという。人口が増えると他村に移したという。それは人頭税との関わりだろうか。与那国の久部良バーリが思い出される。

 狩俣から池間島へ。そこにもマジャムトゥ・マイヌヤームトゥ・アギマスムトゥ・マイザトムトゥなどのムトゥがあった。島尻の元島にも三軒のムトゥがあった。そこで詳細に記述することはでいないが、宮古の村(ムラ)を集落移動、ムラは複数の里(サトゥ)からなり、祭祀はサトゥを中心に行われるが、その中にはムラレベルにまとめられてのがありはしないか。例えば池間神社は散在するムトゥをまとめたのであろう。しかし、これまでの祭祀場も遺している。祭祀はサトゥと中心に行われる。

 集落が移動した時に故地に何を残しているのか。サトゥでありウブガーであったり、祭祀場や屋敷跡であったりする。宮古の村の一つひとつを村移動、集落移動、サトゥ、祭祀場など、そして祭祀を通してみると、沖縄本島北部では、ムラを中心とした祭祀となっている場面が多く見られるが、神人の継承や祭祀場と神人の関係をみると、沖縄本島北部では消えかかったのが、宮古の村々ではムトゥを中心とした祭祀が生きている。それは古琉球のムラの形を今に伝えているのではないか。それは沖縄本島の地割制度、先島の人頭税とも関わっているとみている。宮古の村のいくつか(狩俣・島尻・池間・飛鳥御嶽・野原・砂川・宮国元島・嘉手刈・保良・友寄など)を踏査しながらの印象である(もう少し整理してみたい)

 宮古島の五つの遠見跡をみた。『球陽』(尚賢王四年の条:1644年)に、以下のようにある。

  
「本国烽火アルコトナシ、或ハ貢船或ハ異国ノ船隻来ツテ外島ニ至ルヤ、只使ヲ遣ハシ、以テ為メニ其事ヲ禀報スルコトアルノミ。
   今番始メテ烽火ヲ中山ノ各処、併ニ諸島ニ張ツ。而シテ貢船二隻、久米、慶良間、渡名喜、粟国、伊江、葉壁等ノ島ニ回至スレバ、
   即チ烽火二炬ヲ焼ク。一隻ナレバ即チ烽火一炬ヲ焼ク。若シ異国ノ船隻アレバ、即チ烽火二炬ヲ焼ク。転次伝ヘ焼キ、以テ早ク中山
  ニ知ラスコトヲ為ス。」

 
         ▲狩俣の遠見跡               ▲狩俣の遠見跡にある方位石

 
         ▲池間島の遠見跡                      ▲遠見跡への石段

 
           ▲島尻の遠見跡                   ▲遠見跡にある方位石


      ▲砂川の遠見跡(唐迎い岩)               ▲来間島の遠見跡への石積みの階段


2010年(平成22)年2月16日(火)

  (20日まで更新なしです)

 午前中、運営委員会。17日から19日まで宮古(沖縄県地域史協議会研修会)。「宮古から見た琉球・沖縄」(下地氏)、それは非常に興味あるテーマである。宮古の村々を回る予定であるが、特に「御嶽と集落と村」について、沖縄本島北部(山原)と比較してみたい。沖縄本島北部の「御嶽と集落と村」との関係がどうとらえられているのか。

 もしかしたら、宮古の「御嶽と集落と村」の関係は古琉球の姿を継承しつづけているのではないか。逆に沖縄本島北部では消えかかった「御嶽と集落と村」の関係が宮古島では、生き続けているのかもしれない(果たしてどうだろか?)。宮古の「御嶽と集落と村」の関係から、沖縄本島の古琉球のムラ・シマの姿を描きだすことができるのではないか。そんな仮説をたてながらの宮古ゆく(すでに、研究の成果があるでしょうが)


2010年(平成22)2月14日(日)

 今日は旧の正月である。今朝の古宇利島の旧正の様子を見てきた。今年はいいかなと思いつつ、調整がついたので朝の古宇利島へ。8時前にはお宮(クワッサヤー)の前に島の方々の顔がありました。正月のウガンにはフンシーガミ(古宇利春夫氏)、そして神人の兼次フサエさん。何人か神人の姿がみえていたが一般参賀。
お宮では兼次フサエさんが神衣装を着て、島の方々の健康、豊漁、豊作、商売繁盛などを祈願して乾杯。


 お宮での参賀の後は、アガリガー(東の井戸)、イリガー(西の井戸)、最後は集落の一番東側からナナムイナナタキへのウトゥーシ(遥拝)をして、今年のスタート。アガリヌハーでは、早朝に若水くみをした方も・・・。


    ▲島の方々がお宮で参賀           ▲兼次フサエさん(神人)のウガン挨拶で乾杯!


      ▲アガリヌハーでの初ウガン            ▲イリヌハーでの初ウガン


  ▲兼次さんはカー(井戸)まで下りずにウガン     ▲ナナムイナナタキへ向かって新年のウガン

2010年(平成22)2月13日(土)

 伊江村教育委員会に「鰐口」があるようだ。まだ実物は拝見しえいないが、『』沖縄の金工品関係資料調査報告書」で報告されている。「鰐口」に以下のように寄進された年号と、「上国之時」の伊江島の十三の役人?の名前が記されている。乾隆17年(1752)に伊江王子が上国したのであれば、随行して行ったのであろう。乾隆17年に伊江王子の上国の記事は未確認。その時、他の按司に同行したのだろうか。

「乾隆十七年壬申 奉寄進 九月吉日」(表)、「東江 知念 伊是名 与那城 内間 東江 野原
西江 儀保 知念 儀保 山城 知花十三人 上国之時」 

   (工事中)

2010年(平成22)2月12日(金)

 今帰仁村謝名にイビという湧泉(カー)がある。そこのイビ(湧泉)はウタキのイビとは異なるが、湧泉(イビ)の上の方の森はウタキではないか。

 今でもハーウガミが行われている。かつては水が溢れるほど湧き出ていたようで、水の流れ出る窪みがみられる。イビは謝名の仲原集落の北側にあり、集落より低地に位置している。戦後、イビの上の方に製糖工場があり、そこから水を汲み上げて利用していた。
 
 マーハーは謝名の小字頭にあり、地目は湖沼である。頭原に地目の田が七筆あり、その中の一筆はウペーフ名義(個人名)である。そこは神田で稲の穂(五月ウマチー)をとり、謝名のウタキ(お宮)などの拝所に供えていた。そこはイビの近くである。イビでの村の祭祀はないが、ウタキ(イビ)名称からして、かつては祭祀が行われていたかもしれない。イビの水生活用水として使っていた人たちが、一門のハーウガミとして拝まれている。

『宮城真治民俗調査ノート』に以下のような記録(大正13年頃の調査か)を見つける。

  ・謝名、当日(五の稲穂祭)ウペーフが藁の冠、白衣装、大ユの杖をつき、真川(マーハー)の西の方のウエp−フ田を七回巡り、
  穂をとる。イェヘン、イェヘンと知らせる。逢ふたものは、杖にてぬかる。今一所のウペーフ田?はイビ川の東にあり。サンナンチ
  田は百五十坪位、植える時は、川の湧に御願。



    ▲かつて利用されていた痕跡が見られる             ▲今帰仁村謝名のイビ(湧泉)

2010(平成22)2月10日(水)

 名護市汀間のウフウタキ。汀間は『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』に「名護間切てま村」と出てくる。それと嘉手刈村がみられ、「名護間切かてかる村」とあるが「当時無之」とある。「当時無之」は『絵図郷村帳』の頃には無く、それ以前にはあった村ということか。すると『絵図郷村帳』の頃には「かてかる村」は汀間村にすでに統合されていたことになる。名護間切あるいは久志間切に「かてかる村」は出てこないので、『絵図郷村帳』の頃には統合されていたと見てよさそうである。「かてかる村」があったことは今でも伝えら、また小字に「嘉手刈」があり、そこが「かてかる村」の故地であろう。

 『琉球国由来記』(1713年)に久志間切汀間村に「スルギバル嶽」と小湊嶽」が出てくる。「小湊嶽」は「御嶽小」(現在のウタキグヮー)とみてよさそうである。『琉球国由来記』の「スルギバル嶽」は大正14年に汀間から分離した三原にある同名ウタキである。「大御嶽」は嘉手刈村のあった左岸の河口の大湊嶽(今でいうウフウタキ)である。汀間の集落は嘉手刈側から移動してきた一族が三分の二を占めているというから、『琉球国由来記』(1713年)の大湊嶽はフプウタキと想定してよさそうである。ウフウタキとウタキグヮー(小湊嶽)は規模の大きさでの呼称である。どちらも汀間集落内の一門のウタキである。下のクガニモリ御嶽はスルギバル嶽に相当するものか。

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」には、汀間村に以下の拝所(七ヶ所)が記されている。
  ・ノロクモイ火ノ神壱ヶ所  ・根神火ノ神一ヶ所  ・御嶽小一ヶ所  ・神アサギ壱ヶ所
  ・大御嶽一ヶ所  ・カニマン火神一ヶ所  ・クガニモリ御嶽

 『琉球共産村落之研究』(1927年:田村浩)で「汀間村落発生ノ形式」141〜143頁)として、以下のように述べている。そこに集落移動とウタキ、近世のムラは複数の集団からなっているが、祭祀は行政村(ムラ)になる前の形を根強く継承している様子。複数の集団が一つの行政村にさせられた時、祭祀はどう対応しているのかなどの姿がみえてくる。

 汀間の集落は嘉手刈から移動してきた集団の勢力が強かったようである。汀間集落の嘉手刈からの集団(ウフワ−ラ引)が三分の二を占めたようであるのでウフウタキはその集団(一族)のウタキである。また小字嘉手刈るに位置している。ウタキグヮーは仲田引一門のウタキと言えそうである。その一族も現在地に移動しているのでウタキグヮーは遥拝場所ではなく祠はウタキグヮーのイベである。ウフウタキに対して小さいウタキと呼んでいるもので、どちらもウタキである。
 
   汀間は「ウフワーラ引ハ元南方嘉手刈ヨリ移住シ汀間ノ部落ヲ構成シタルモノニシテ、仲田引ハ東北二、三町離シタル後方丘陵
   地帯ニアリシタリ故ニ部落ノ東北部ハ仲田引ニシテ、南部ハウフワーラ引多シ、ウフワーラ引ハ嘉手刈ニテ西大屋。根神屋トシ
   テ根神ヲ世襲シ、門中・・・・


 嘉手刈に住んでいたウフワーラ引一族は、嘉手刈に住む以前は? 河口のウタキの位置からすると、どこからか、河口あたりの嘉手刈原に移住してきて、近世初期にさらに汀間(現在地)に移動している。


    ▲汀間のウフウタキ(嘉手刈原)              内の拝殿 


    ▲ウタキ内の神殿(イベ)          ▲汀間川の下流域(左側がウタキ)

2010(平成22)2月9日(火)

 久しぶりに外を歩いてみた。 人間ドッグ、それと運転免許証の更新。その後、時間があったので名護市の東海岸へ。瀬嵩・汀間・嘉陽・天仁屋と回ってみた。どの字も面白い。瀬嵩は神アサギが新しく建設されていて改めて調査することに。嘉陽について紹介するが、ウタキ(グスク)と集落の関係を見るモデルとなる村(ムラ)の一つである。

 東海岸に回ったのは、1673年以前の名護間切は名護湾域だけでなく、東海岸の旧久志間切域まで及んでいる。それは何故だろうか? 名護間切だけでなく、1673年の金武間切を分割して恩納間切を創設する以前の金武間切の領域と共通しているからである。それは首里王府が山原の間切域を決める理念があったように思われる。近世の間切を分割した時には沖縄本島の山手の稜線で東と西に分けている。それ以前の間切は西海岸から東海岸に及んでおり、コンパス型と表現しているのだが。

 嘉陽は1673年以前は名護間切域の村で『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』には「名護間切かやう村」とある。1673年に名護間切の東海岸の村と金武間切の一部で久志間切が創設される。『琉球国由来記』(1713年)で嘉陽(楊)村とある。嘉陽村に浜板敷嶽と嘉陽城嶽と嘉陽城所火神がある。

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」には、嘉陽村に以下の拝所(五ヶ所)が記されている。
  ・神アサギ  ・根神火ノ神  ・ノロ殿内火神  ・城御嶽  ・浜御嶽

 ここで城御嶽とあるのはウイグスク(嘉陽グスク)、浜御嶽は『琉球国由来記』(1713年)の「浜板敷御嶽」、今でいうイリヌウタキ(ティンナウタキ)と見られる。二つのウタキからすると、嘉陽は少なくとも二つ以上の集団からなっているとみられる。城御嶽とあり、御嶽(ウタキ:杜)がウタキ、あるいはグスクと呼ばれる事例である。

 ウイグスク(嘉陽城嶽)の頂上部には「紀元二千六百年」の記念碑があり、ウタキを神社化してあり、神殿部分(本来ウタキのイベ)に何ヶ所かの拝所を合祀されている。神アサギはそこにあったのか?
 


 ▲嘉陽の集落付近から眺めた嘉陽城嶽(ウイグスク)   ▲ウイグスクへの階段道


      ▲ウイグスクの中腹あたりの道            ▲頂上部のテラス入口の鳥居


   ▲頂上部にある神殿や建立記念碑        ▲神殿内の香炉と火神        ▲火の神を祭った祠

2010(平成22)年2月7日(日)

 さくら祭りもあって、あれこれ多忙なり。まつりは終わりますが、桜は旧正月(2月14日)まで、咲き続けていそうです。見逃した方は、これからでもどうぞ。普段の日は混んでいず、ゆっくりとご覧になれます。


2010(平成22)年2月3日(水)

 旧暦12月20日は古宇利島の祭祀の一つ、ウットミパットミがある。『新城徳祐ノート』(1962年調査)に「この行事は、ノロ・掟神・プンシ屋の神人(男)・マーグスク屋の神人(男)がシラサに集まり、塩屋に向かって祈願をする。その年の神お願いの最後であるとの報告祭だと言う」とある。宮城真治は「ウットミ、パットミ」は「打ち止め、余とめ」とされる。ウットミは方言の打ち止め、パットミは方言のパットー(留める)の意味か。つまり、一年間の神行事の終わりとみられる。(昨年のムユウイミ

 ムユー折目のムユーについては先学者はなんら述べていないが、ムユーはムルー(みんな、全部)の意味か。全ての神行事の節目、折目の意味か。

 旧暦の12月20日なので今年の祭祀の終わり、閉じる祭祀ということになる。一年間古宇利島の祭祀の調査をしてきたが、昨年このウットミパットミ(ムユー折目)を調査している。「古宇利島の祭祀研究」には今日の調査記録が収録されることになるか。

  (これから調査なり。小雨。祭祀は天気に左右されることはないのだ!)


   ▲お宮(クワッサヤー)でのウガミ        ▲シラサの岬で塩屋に向かってのウガミ


   ▲岬まで行けずお宮で塩屋へのウガン      ▲サブセンターでお酒で御苦労さん


      ▲お宮(クワッサヤー)の内部         ▲塩屋に向かってウガンをするシラサの岬

2010(平成22)年2月1日(月)

 20年前から調査をしてきた古宇利島の祭祀を整理している。その変貌ぶりに驚かされる。ここ20年間の変わり様は、明治以降100年の変化(衰退)に匹敵するのではないか。古宇利島の祭祀の一つひとつを『古宇利島の祭祀の研究』として納めることに。

 今日は『沖縄県国頭郡志』(大正8年)、『神の島、古宇利島』(宮城真治:昭和2年頃調査)、『新城徳祐氏調査ノート』(1958年、62年)、「古宇利島のサーザーウェー」(歴史文化センター調査:平成3年)、そして「サーザーウェー調査」(平成21年)を紹介しながら、祭祀を歴史的な視点(歴史史料)としてまとめているが、果たしてうまくまとまるかどうか。古宇利島の14の祭祀をその方法でまとめている。

 夜のライトアップの今帰仁グスクまで足を運んでみた。どう言葉にすればいいのか!?




 
 
2010年 沖縄県今帰仁村歴史文化センター    

        2の動き 過去の動き  

   ドイツ・オーストリアをゆく   HPトップへ なきじん研究(紹介) 山原の津(港)と山原船 
   
今帰仁の戦後60年の軌跡(企画展終了)  第16期ムラ・シマ講座[終了) 第17期ムラ・シマ講座(開催中)
   山原の神アサギ 奄美のノロ制度 喜界島(鹿児島県) 沖永良部島 与論島 奄美加計呂麻島
   阿嘉島 座間味島 粟国島 石垣市の村と小浜島(竹富町)  奄美大島の村々 伊江島
   ノロ制度の終焉 恩納間切のノロ 金武間切のノロ 久志間切のノロ 名護間切のノロ 本部間切のノロ
   今帰仁間切のノロ 羽地間切のノロ 大宜味間切のノロ 国頭間切のノロ

   【2005年の動き】 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
  
【2006年の動き】 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
   【2007年の動き】 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
   【2008年の動き】 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月  9月 10月 11月 12月
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