2010年 沖縄県今帰仁村歴史文化センター    

        3の動き 過去の動き  

   ドイツ・オーストリアをゆく   HPトップへ なきじん研究(紹介) 山原の津(港)と山原船 
   
今帰仁の戦後60年の軌跡(企画展終了)  第16期ムラ・シマ講座[終了) 第17期ムラ・シマ講座(開催中)
   山原の神アサギ 奄美のノロ制度 喜界島(鹿児島県) 沖永良部島 与論島 奄美加計呂麻島
   阿嘉島 座間味島 粟国島 石垣市の村と小浜島(竹富町)  奄美大島の村々 伊江島
   ノロ制度の終焉 恩納間切のノロ 金武間切のノロ 久志間切のノロ 名護間切のノロ 本部間切のノロ
   今帰仁間切のノロ 羽地間切のノロ 大宜味間切のノロ 国頭間切のノロ

   【2005年の動き】 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
  
【2006年の動き】 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
   【2007年の動き】 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
   【2008年の動き】 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月  9月 10月 11月 12月
   【2009年の動き】 1月 2月 3月 4月 5月  6月 7月  8月 9月 10月 11月 12月
   【2010年の動き】 1月 2月 3月 4月 5月 6月

   北山(山原)の歴史と文化(企画展:終了)  根謝銘(ウイ)グスクと周辺の村々   ヨリサゲの祭祀(名護市仲尾次)
   企画展―村制100年の歩み―資料展―(終了)  国頭村比地(山原のムラ・シマ)へ  平成22年の桜情報
   古宇利島の祭祀(平成21年) ・21年度学芸員(博物館)実習 天底のワラビミチ  八重山の御嶽と集落 沖縄の歴史

2010年3月31日(水)

 本日をもって館長こと仲原は退職となりました。大学で12年間、今帰仁村で21年間資料館づくり、調査、研究など、存分働かせてもらいました。「歴史文化センターの動き」も徐々に引き継ぐことになります。ひとまず、本日で区切りとします。ありがとうございました。


2010年3月30日(火)

 早朝、古宇利の二月ウマチーがあった。二月ウマチーは麦の結実のウガンである。二月ウマチーは旧暦二月十三日から十五日にかけてのウガンである。五月ウマチーは昨年拝見している。二月ウマチーと五月ウマチーは同じ場所を拝んでいると思っていた。ところが、二月ウマチーと五月ウマチーでは、流れが異なっている可能性がある。

 今朝行った二月ウマチーを素描してみる。(  )の場所でのウガンがなかった。それは略したのか、それとも二月ウマチーではウガンはしないのか。それとは別にフンシーガミ(古宇利春夫氏)は夜中から夜半にかけて、人に逢わないようにして一人で廻っている)。(午前五時に間に合わせて島にいくことができず途中から参加。そのためハヤサンサチでの画像はなし)

 ・(ヌルヤーでのウガン:今回13日に行っている)
 ・午前五時頃 ハヤハンサチ(島の東側の海岸)でのウガン
 ・神アサギのフンシヤー寄りで、鍋に湯を沸かしムギ(ムギに見立てたヒエ)を炊く場面
 ・神アサギの内から東方(塩屋へ)のウガン
 ・(フンシヤーの離れでの語らい。五月ウマチーには行っている)

 午前五時前に区長さんがハヤハンサチ(海岸)で釣りをしている人達に、これからウガンが行われるので「場所を移ってほしい」と声をかけたという。その後、神人(今回は兼次フサエさん一人)を車でお連れし、そこでウガンを行う。それが終わると神アサギのフンシヤー寄りに俄かのカマドをつくり湯を沸かす。どこから沸くかで台風の様子を占うようだ。今回は「西側から沸きだしたので大したことはない」とのこと。

 たぎった湯にハヤハンサチで摘んできた麦(麦にみたてたヒエ)を入れ、湯がいた麦をお碗に入れて神アサギへ、ビンシーと一緒に持参していく。神人は神衣装で神アサギへ。

 ちゅくいむん(作物)の豊作祈願をする。神アサギでのウガンが終わると解散。フンシヤー(古宇利子)の離れでの団らんはなかった(二月ウマチーではないのか?)。







2010年3月29日(月)

 庭木の枝を剪定しようとしたら、周辺でメジロがけたたましく鳴き騒いでいる。もしやと思ってよく見るとメジロの巣があり、雛が三羽か四羽。巣立つまで剪定は延期なり。巣立つまで見守りましょうかね。



 富山県富山市、高岡市、大阪、岡山県岡山市、倉敷市、和歌山県和歌山市を駆け足で廻る。せいぜい城と博物館や美術館をみるので精いっぱい。富山県の三日間は雨でうっとしい気分での動き。岡山、倉敷、和歌山は天気がよく、興味深くみてまわる。

 来舘者から城の立地や規模、石積みなどについての質問が度々ある。それは日本の城を常識とした見方からくるグスクへの疑問であることに気づかされる。それを踏まえて対応しなければならないと。今回訪れた城の画像のみ(コメントする時間がないので)

・「戦後の天守閣の復元の先駆的となる」という(富山県:富山城:郷土博物舘)。



・高岡城跡(富山県)(天守閣は復元されていない)



・岡山城



・和歌山城
 異なった石や積み方が見られ、また場所によって石垣の勾配が異なり、学ぶものが多い。



2010年3月22日(月)

     (3月23日〜29日までお休みします)

 「沖縄の歴史 補遺伝説」(島袋源一郎著)にある出来事や記事に目を通すことに。目についた記事とそれと関わる出来事や、確認できた他の資料を添付してみる(4月から随時追加の予定)。すこし、これまで描かれてきた沖縄の歴史を腰を据えてみていきたい。「沖縄の歴史」のページを新設し、随時書き足していくが、今でも通用する論であったり、画期的なことを述べていたりする。それに出会うことの面白さ!


2010年3月20日(土)

 山原の港について「船税及焼酎税書類」(『沖縄県史 21 旧慣調査資料』から紹介することにする。

山原の港(津)

@炬港の様子(明治26,27年頃)(画像は近年)

 炬港(テーミナト)は運天港に接近し、仝間切内謝名、仲宗根、崎山、平敷、寒水、岸本の六ヶ村に亘る。本港も旧藩(明治5〜12年)の頃右六ヶ村の税品を収納したる所なれば、那覇との往復常に絶へず、然れども港内水浅くして大船を入るヽ能はざれば、道の島往復等の船舶此所に寄港するが如きことあらず。

  ・炬港は謝名・仲宗根・崎山・平敷・寒水・岸本の6ヶ村に亘っていた。
    (寒水村と岸本村は明治36年に玉城村に統合される)
  ・琉球藩の頃(明治5〜12年)六ヶ村の税の収納場所であった。
  ・那覇との山原船?の往来が絶えることがなかった。
  ・港内は浅く大きな船が入ることはなかった。
  ・道の島往復する船が炬港に寄港することはなかった。


     ▲近年の上空から見た炬港(河口)                ▲炬港の様子

 中宗根湊下、炬港と云う。
  由来は、孟氏大里親方宗森、進貢使をなし、中華に至り、帰国の時、颶風に逢い、夜な夜な津岸を迷っている時、神火の
  炬火が燃えるのを見て、この湊に着いたため炬港というなり。


2010年3月19日(金)

 午後から今帰仁村玉城の旧公民内にあった資料の搬出をする。玉城区は字誌の編集をスタートしており、また旧公民館を近々に取り壊す予定。これまで数件の公民館の取り壊しに立ち会ってきた。その度に戦後資料を収集することができた。今回も玉城公民舘資料を確認することができた。字誌に反映させることができそうである(詳細の目録は改めて報告する)

 50年前に画かれた小学生の絵が印象的である。名前があるので、それぞれの50年の人生をたどることができそうだ。公民館に50年前の絵を張り出してみましょうかね(40年前の写真は数枚提供した)。

【仮目録】
 ・公文書綴り(5冊)
 ・戦後の戸籍簿(1冊)
 ・家族しらべ
 ・徴収簿(各班)
 ・諸賦出席簿(1956年)
 ・貯金台帳(1955年)
 ・公民館日誌(1955年以降)
 ・賞状(原山勝負)(1949年)
 ・賞状(原山勝負)(1950年)
 ・賞状(排球大会)
 ・賞状(盆踊りコンクール)(1955年)
 ・学児成績簿(今帰仁初等学校及大井中等部)(1949年度現在)頭部
 ・その他


     ▲今帰仁村玉城の旧公民館            ▲旧公民館の内部


       ▲整理をする戦後資料           ▲表彰状や賞状(戦後)

2010年3月18日(木)

 これから、明日の講演のレジュメづくり。6つの一門の拝みから「今帰仁上り(拝み)」と「下方廻り」を紹介。それぞれの一門がどんな目的で拝んできたのか確かめてみましょう。さて、これだけの内容どう話しましょうかね。

はじめに

1.大宜味間切の一門の今帰仁拝

2.湧川の新里屋

 ・新里屋建設の寄付者

 ・新里屋の内部と位牌など(1989年)

 ・新里屋の位牌と図像(現在)

 ・塩づくりとスガー御嶽とイベ

 ・ワルミのテラ

 ・開山長老の墓(黄金森)

 ・運天の大北墓

 ・運天には御神みの墓が・・・

 ・諸志の御嶽内の古墓

 ・諸志の中城ノロドゥンチの伝世品

 ・親泊ヌンドゥンチ

3.大宜味間切の同一門の首里下方御拝

 ・山田城/中城城/末吉ヌンドンチ/ベンのオタケ

  /其のまん御嶽/円覚寺/崇元寺/崎平川

4.東松田比嘉家の由来 (読谷村喜名)
 拝所 東松田の恩の元祖/浦添は筋拝/今帰仁は恩拝
     浦添の伊祖は血統の拝所など
 今帰仁と本部の拝所
     本部並里・満名の上ヌ殿内
     今帰仁の志慶真川/今帰仁ヌル火神/今帰仁城内の拝所など
5.今帰仁村諸志のパラヤー一統の拝み
 ・北山城のお参り拝み・五月五日の川拝・水神の霊を拝
6.今帰仁村今泊の尚来門中の東廻り
7.今帰仁村与那嶺のナビンチュミヤー(東氏与那嶺門中)の「御神拝日記」
終わりに


2010年3月17日(水)

 
今帰仁村天底の墾謝堂(クンジャドウ)の黄金森に新里屋と関わる開山長老の墓と言われるのがある。「開山長老は沖縄で初めて塩づくりをした人で、墓地は墾謝堂の黄金森のガジマル木の下の岩の下の穴に埋葬されている」(新里根家の系図)とある。それによると「新里屋の名称は佐敷村字新里より来たから新里屋という」とある。

 佐敷町(現在南城市)新里は「尚思紹王の父である鮫川大主が村立てで。鮫川が居住したのが場天嶽だという。

 ▲今帰仁村天底の墾謝堂にある黄金森          ▲黄金森にガジマルの老木があり、そこに墓あり

2010年3月16日(火)

 今帰仁村今泊の尚来門中の「東廻り(神拝み)」の事例を紹介することに。廻る場所が、一門にとってどういう場所かについては別で報告する。



【今帰仁村今泊の尚来門中の東廻】

・知念村久手堅

 一、斉場御嶽(せーふぁうたき)一ヶ所

 一、同所下の御川 一ヶ所

・知念村知念

一、知念御川 一ヶ所  字知念の日用の御川

・玉城村仲村渠

 一、仲村渠樋川 一ヶ所

・玉城村字玉城

 一、玉城のろ殿内  御日御月の御前

 一、同所火の神の御前

 一、同所大東(うふあがり)の御通し

・玉城々内

 一、御いびの御前

 一、御たましの御前   御門の側の御墓

 一、火の神の御前

 一、玉城按司の御墓の御前  

       城外岡の下表に あり

 一、御川  城下御引合所と承る

 一、のろ殿内 住居所の御棚三ヶ所 

    但し先代の御棚一ヶ所

 一、玉城樋川 一ヶ所  屋号赤嶺普天間屋、

        上のアタイのまち中村

・玉城村百名

 一、受水走水、二ヶ所 字知念幸地の守り拝所

 一、浜川の御嶽 一ヶ所

 一、やはらぢかさ 一ヶ所 浜川の御嶽東方 の海中に香炉及び石燈籠あり

・首里及びその近郊

 一、弁ケ嶽 三ヶ所並に御河〆四ヶ所

 一、崎山の御嶽並に崎山樋川 〆二ヶ所

 一、園比屋武御嶽

 一、龍樋

 一、平良樋川

 一、崎樋川 二ヶ所

・浦 添

 一、伊祖城御嶽並ニ御川 〆二ヶ所

 一、浦添龍福寺御霊前  現在はなし

    龍福寺は糸満に移り(大正の初期) それより泡瀬に移るとか。

      

     以上 合計 七十八ヶ所

 大正五年八月二十五日に出発して拝みたる日記よりこれを写す。

     一九五六年九月三十日

               新城 徳祐 印



2010年3月15日(月)

 今、「今帰仁上り(拝み)」について、いくつかの事例を整理している。最中、『あしびなぁ』(第17号:沖縄県地域史協議会)(2006年)に以下の「付記」が目にとまった。玉城村(現在南城市)仲栄真腹元屋の新垣家(屋号ナケーマ)の「道光拾壱年辛卯年六月仕立 諸日記」が紹介されている。その研修会に参加したかどうかの記憶がなく、また「付記」について気にもしていなかった。

 この一門の「門中巡拝記録」に以下(崇元寺拝み、佐敷間切・・・、今帰仁拝み)のことが記してある。三つの御拝みを始めた時期が明記されている。一門は第一尚氏六代の尚泰久(1454年即位)の二男腹のようであるが、無系の百姓のである。間切役人を出してきた一族のようである。

 今帰仁拝みは「親泊のろくもい拝み」をはじめ12ヶ所あるようである。原本にあたっていないので具体的な場所は資料をみないとわからない。ある一門の拝みを始めた時期、それと崇元寺拝みは一年置き、東廻りは五年、今帰仁上りは九年廻りの三つの拝みがある。尚泰久の二男を祖先と伝えられる四門中が同行しており、拝みの本筋を伝えており興味深い(但し、拝む場所が一族の歴史とどうつながっているかは、また別の問題)。

  (1)崇元寺拝みは道光11年辛卯年(1831)から始め一年置き。
  (2)佐敷間切新里村の場天御嶽、佐銘川大主屋敷跡の火神、上場天御嶽井戸、下場天御井戸などを道光21年辛丑年(1841)
   から五年廻りの拝み始めと記録される。
  (3)道光18年戊戌(1838)より上り始め九年廻りで、今帰仁間切親泊のろくもい拝み(今帰仁拝み、12ヶ所)とある。屋良・世礼・
   大仲栄真・仲栄真の四腹が同行する。


 一門は今帰仁上り(拝み)を道光18年(1838)から行っており(9年廻り)、今帰仁ノロ(親泊のろくもい)家の拝みもしている。歩いての今帰仁上りの頃は、そこに宿泊をしたかもしれない。


    ▲今帰仁ノロ家のカンザシ          ▲今帰仁ノロ家の勾玉と水晶玉

2010年3月13日(土)

 午前中、運営委員会の開催と第17期目の「ムラ・シマ講座」の終了式。今期も無事終わることができたと安堵感あり。そこから得たものを活用していただければ幸いです。生徒達は冊子を図書館や担任の先生や友達にあげると、何冊も抱えていきました。ありがとう。参加者、スタッフも御苦労さんでした。

 新年度から、これまでの「ムラ・シマ講座」は学校の総合学習と合体させた形で行う予定。月一回の講座は、山原(沖縄本島北部)域に広げた形で大人向けの講座を開催していくことを運営員会に提案。15名程の研究チームにしていけたらと考えている。
(果たして実現できるかどうか?! 研究の場を提供できればと)




2010年3月12日(金)

 明日(土)は「ムラ・シマ講座」の17期目の修了式。冊子も会場の準備はOKなり。私はほとんどタッチせず。明日は全体を見守るだけ?にしたい。一年間を振り返り、頭の整理をしましょう。みんなと一緒に。会場づくりは、玉城菜美路、冊子づくりは玉城恵。新年度からバトンタッチすることに。掲示された写真に、なぜか館長の姿があちこちに。いつもは館長撮影の画像が並ぶが、今回の展示画像はすべて玉城菜美路撮影のもの。修了式の準備できました。出席してください。一年間の活動を振り返り、冊子を贈呈します。



 


2010年3月11日(木)

 (ノロ関係資料の整理)(収穫あり)


2010年3月10日(水)

 冬戻り。

 (大宜味村の歴史やムラ・シマのことで頭はいっぱいなり)
  (他課から資料の搬入)


2010年3月5日(月)

 「今帰仁上り」(拝み)でどうしても外すことができないのが今帰仁村湧川の新里屋である。そのこともあって新里屋の調査をすることに。その日も何組かの方々が訪ねてきた。「そこは昔から拝んでいるのですが、どういうところですか?」と逆に聞かれる始末。掲げてある系図の説明をしてくれる方もいらっしゃるが、理解できず。そのことが、新里屋を拝みやってくる理由なのかもしれない。少しは説明がつくように調べてみることに(管理されている仲里さんに感謝)

 避けては通れないテーマの一つ。驚かされるのは8基?の位牌である。「今帰仁上り」や「東廻り」などの神拝の資料(家文書)に目を通していると興味深いことがわかる。家文書に出てくる、その家の歴史(野史)で書きつづられていることが史実なのかどうか。その視点で見て行くと、その多くが史実とは言えない資料群である。もう一方で、史実かどうかとは別に野史に登場している場所場所を何故拝むのだろうかとの疑問。疑問を持ちながらも、元祖が関わった場所だというコース。

 野史の部分を史実かどうかを追いかけるのか。史実とは別にそれぞれの一門で行っている「今帰仁上り」などの現象。伝統的に行っている現象が亡くなると「琉球の姿」を失っていくことでもある。
 
 (時間がないので・・・)

 
                ▲新里家と離れの拝所


                     ▲新里家の火神や位牌や図像など

 
 ▲北山按司の位牌   ▲太子大君 開山長老の位牌   ▲湧川奴留之元祖位牌  


▲思次良湧川按司長男などの位牌
  ▲新里筑登之等の位牌       ▲新里大主の位牌      

 
  ▲今帰仁之子思次郎等の位牌
      ▲(撮影不良)           


2010年3月5日(金)

 「玉城誌」の字誌の編集会議。今回は特に、寒水村・岸本村・玉城村が明治36年に合併されるが、それ以前の三つの村を明確にした上で、合併後の玉城を見て行かなければならないと。そうすることで、疑問に思っていたことを解くことができる。なるほどと。



  メ モ
是の年(明治五年)十一月九日、太陰暦を廃して、太陽暦を用い、是の年十二月三日を以て明治六年一月一日とす。同時、又、来年一月一日以後、時鐘の制を改めて二十四時制を採り、且何字の唱呼を更めて、何時とする旨、達せらる。

※『尚泰侯実録』
 ・天保十四年(1843)
   弟(尚泰侯)は具頭王子尚弼、後ち今帰仁王子と更む。功に依りて男爵を授けられる。
 ・弘化四年(1847)
   二月十三日在番奉行、倉山作太郎夫、使番新納四郎右衛門、異国方野元一郎、用達谷元
   十郎等運天港検分の為、国頭今帰仁間切に出立し、十六日、屋我地古宇利等の諸村より
   港内水深に至るまで具に実査し、二十一日帰途に就けり。・・・

2010年3月4日(木)

 今帰仁村字玉城内の寒水集落跡地をウタキ(イビ)と拝所(神アサギ・根神殿内など)とカー(ミナジガー)を手掛かりに見る。これまでパーマ(寒水)のウタキと言われていた大井川沿いのウタキ(現在はなし)は『琉球国由来記』(1713年)でいう岸本村の「オホヰガワ嶽」と見られる。1700年代当時、1862年に三つの村が移動するが、移動する前の記録である。すると、大井川沿いのオホヰガワ嶽は岸本村のウタキで岸本村が付近にあったことになる。岸本村の集落が岸本原あたりに移動するが、そのウタキは岸本村の人達がウガンをしている。寒水村と岸本村は岸本ノロ管轄の祭祀なので両方の神人がそのウタキの祭祀を行っている。

 これまでウスクガジマルの大木のある森は、何かという議論がなされている。そこには香炉が三つばかりあり、ウタキのイベの可能性が高い。そこは寒水村の人々のウタキと見てよさそうである。1862年現在地に移動する寒水村の集落がウスクガジマルのある付近から大井川沿いにあるミナジガーあたりにあったと見られる(寒水原)。この杜の香炉は寒水村の複数の一門のよりどころ(イベ)と見ることができる。

 一帯を寒水村と岸本村、そして1862年の村移動、それとウタキや祭祀場や二つの神人の出自などの関係、拝所は移動前にもどして整理してみると、村の成り立ちが見えてくる。


    ▲ウスクガジマルの杜は寒水村のウタキ(イビ)と見られ、香炉は複数の一門のイビと見られる。



       ▲この杜の広場はサンケモーと呼ばれ、拝所がある。石が一基置かれ、遥拝所となっている。


       ▲寒水原にあるキジキナガー(寒水村の人々がハーウガミを今でもしている)

2010年3月3日(水)

 今帰仁村玉城の寒水原をゆく。玉城は明治36年に玉城・岸本・寒水の三つの村が合併した字(アザ(である。寒水原は寒水村の集落の跡地と見られる。玉城・岸本・寒水の三ヶ村の集落は移動し、また故地に戻るという変遷をたどっている。それと『琉球国由来記』(1713年)の頃から、岸本ノロが岸本村と寒水村の祭祀をつかさどり、また玉城ノロは玉城・謝名・平敷・仲宗根の四つの村の祭祀をつかさどり、それは今に継承されている(但し、祭祀の多くがうしなわれつつある)。玉城の字(アザ)は三つの村の統合なので、以下のことを念頭に入れてみていく必要がある。

  ・三つの村
  ・村の統合
  ・村(ムラ)移動と集落移動と祭祀場
  ・二人のノロと管轄村と祭祀
  ・三つの村の祭祀場

 玉城は@寒水原 Aソーリ川原 B岸本原 Cウチ原 D古島原 E外間原 F東アザナ原 G西アザナ原の八つの小字からなる。小字名に三つの村の故地が伺える。寒水原は寒水村の集落、岸本原は岸本村の集落、古島原は玉城村の集落の故地と見られる。

 寒水村跡地(寒水原)を訪ねてみた。寒水村の集落の跡地に何を遺しているのか。ミナジガーというカー(湧泉)があるのは、地図上以前から知っていたが、現場を確認するのは初めて。そこには「一九五三年建設」の碑があった。碑の前にカー(湧泉:今は枯れている)があり、旧正月にお参りした跡があり、線香が置かれていた。集落の範囲は確認できていないが、確かに集落(家々)があった痕跡がみられる。ミナジガーは大井川の傍にある。明治13年の寒水村の世帯数は13戸、人口68人(男42、女26)の小規模の村である。小規模の村であったことが、明治36年の統合につながったと見られる。


▲寒水原にあるヤナジガーの碑(右写真のハウスの後方) ▲左側は大井川、ハウスから右手に集落があったか?


    ▲国頭郡今帰仁間切玉城村全図(明治36年:三つの村の合併直後)


                 ▲現在の玉城の字図


       ▲上空からみた玉城域(平成5年の撮影)

2010年3月2日(火)

 小学生達23人が道具の学習。23の道具を使っての学習です。限られた時間、それと余裕がない生徒達なので、しばらく我慢くらべ。それをクリアする楽になり、一気に成長します。両方とも、もう少し我慢。次には大きくなります。そこからが、楽しいのですよ。

 一人ひとりが道具一つずつ絵にして発表しました。絵や聞いたことをしっかりと書きとめないと、いい発表ができません。ここでは、道具を絵にし聞いたことを書いて、それを発表するのがねらい。「とても勉強になりました」や「たくさん道具をみました」は禁句なり。

 2時間近くびっしり。頑張ってくれました。書いたのは、しっかり残しておいてください。また、使いますよ。








2010年3月1日(月)

 今帰仁間切に岸本ノロがいた。現在、岸本村は玉城に統合されている。統合は明治36年である。岸本ノ加ネイ(岸本ノロか)に関する以下の資料がある。4日に『玉城誌』の編集会議あるので話を引き出すための資料を整理。玉城(岸本ノロ管轄の岸本村と寒水村の祭祀)を紹介する。玉城・岸本・寒水の三ヶ村は、村移動やノロ管轄、村の合併などがあり、また祭祀との関わりなど複雑である。そのため、村別とノロ管轄に分けて整理が必要。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の岸本村の祭祀場として三ヶ所があげられている。ノロは岸本ノロクモイである。

   ・ノロクモイ火神 ・神アシアゲ ・嶌ノ大屋子火ノ神(岸本村)
   ・根神火神 ・神アシアゲ ・ウホンニヤ嶽(ウフンジャ嶽のことか)

  沖縄縣指令第一四五號
     国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
           大城清次郎
            外七名

   大正二年十月十七日附願岸本
   の加ネイ大城カマト死亡跡職
   大城カマド採用ノ件認可ス
     大正三年三月十八日
   沖縄縣知事高橋啄也 沖縄県知事印
    

 

 『琉球国由来記』(1713年)に、どう記録されているか。
 岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨロアゲマチュウノ御イベ)とある。岸本村は二度ほど移動しており、『琉球国由来記』(1713年)頃は、ウタキの位置からすると、寒水村(寒水原)のあった場所にあったと見られるので、注意が必要。同書の「年中祭祀」の所に岸本巫火神と神アシアゲがある。岸本巫の管轄である。岸本巫が管轄する村は岸本村と寒水村である。

 岸本巫火神で行われる祭祀(『琉球国由来記』)は、以下の六つである。岸本・寒水の二カ村の百姓と岸本巫が関わる。
    ・麦稲祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目
    ・山留
    ・大折目次三日

 岸本の神アシアゲでの祭祀は、百姓・居神・岸本巫が関わる。
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲穂大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目

 寒水村は『琉球国由来記』(1713年)にウタキの記載はない。神アサギでの祭祀は、
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナリ折目
    ・大折目次三日 

【岸本の神人】
 ヌル/根神/ウペーフ/イガミ/ニブサジ

【岸本の拝所】
  ・神アサギ ・ウカー ・ウペーフ殿内 ・ヌルドゥンチ ・ヌルウグヮンヤー ・岸本ヌシー

【寒水の神人】

 根神/ウペーフ/イガミ/ニブサジ

【寒水の拝所】
  ・根神殿内 ・神アサギ ・獅子殿内

【岸本の祭祀】

 ・二月十五日(二月ウマチー)
 ・三月十五日(三月ウマチー)
 ・四月十五日(タキヌウガン)
 ・五月十五日(五月ウマチー)
 ・六月十五日(ウチマチー)
 ・六月廿五日(稲穂を供える)
 ・七月二十日(ワラビミチ)
 ・七月最後の亥の日(ウプユミ)
 ・八月九日(ワラビミチ)
 ・八月十日(神人ウガミ)
 ・九月七日(ミャヌウガン)
 ・十一月十五日(ウンネー)

【寒水の祭祀】
 ・二月十五日
 ・三月十五日(ウチウマチー)
 ・四月十五日(タキヌウグヮン)
 ・五月十五日(ウマチー)
 ・六月十五日(ウチウマチー)
 ・七月最後の亥の日(ウワイ・イーヌヒー)(ウプユミ)
 ・七月二十日(ワラビミチ)
 ・八月十日(カミンチュウガミ)

 それとは別に、年中行事がある(一部は神行事と重なる)

【岸本の年中行事】 
 【1月】
  一月一日(正月)/三日(ハチウクシー)/四日(仕事始め)/七日(ナンカヌスクー)
  十四日(ショーグヮチグヮー)/十六日(ミーサー)
 【2月】
  十五日(ニングヮチウマチー)
 【3月】
   三日(サングヮチサンニチー)/四日(学事奨励会)
 【4月】
   アブシバレー/五日(カーウガン)/十五日(グングヮチウマチー)
 【6月】
   二十五日(ウユミ)
 【7月】
   七日(タナバタ)/十三日〜十五日(お盆)(ウンケー・ウークイ・盆踊り)
 【9月】
   九日(キクザキ)
 【11月】
   トゥンジー(冬至)
 【12月】
   二十四日(フトゥチウガン)/三十日(トゥヌユルー)

【寒水の年中行事】

  (省略)