歴史文化センターの調査記録
       (2010年5月)

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6月の調査記録                                     (館長:仲原 弘哲)

平成22年5月29日(土)
 28日は宜野湾市での「沖縄県地域史協議会」があり参加する。宜野湾市野嵩と嘉数をゆく。野嵩は戦後の収容所の跡地(メーヌカー・郵便局や配給所跡・野嵩クシヌカー・警察や留置所など・配給所・MP事務所・洋裁所/役所・ハウスナンバー32のお宅・収容所入口付近を回る。、嘉数高地は日本軍の陣地跡や陣地豪やトーチカなどを回る。

 集落に入ると、すぐ集落の成り立ちがどうなっているのか。無意識に把握しようとしている。収容書の中心となった場所にいく途中、メーヌカーがある。またクシヌカーがあり、旧集落の形が見えてきそう。祭祀と関わるウタキやトゥンなどに立つと面白そう。一部しか見なかったが、頭では集落の成り立ちを頭で描いている。

 戦争で集落の被害は比較的少なかったという。琉球石灰岩の切り石を屋敷囲いが目につく。「野嵩収容所の主要施設図」(宜野湾市史 八所収)の一部を歩いてみた。頭で描いてみたが、もう一度宜野湾の野嵩を歩き、山原のムラ・シマとは異なる集落の形態がありそう。頭で描いてみた宜野市野嵩のムラの成り立ちが、ドドドーと崩れていきそう。それがまた面白い。近々、足を運んでみるか。嘉数も(嘉数高台公園の森はグスクではないか)
      (宜野湾市史の担当のみなさん、ご苦労さんでした。100名余の会員の案内)


       ▲「宜野湾市史 8 資料編七 戦後資料編」より 

【沖縄本島と周辺離島の村と八重山の村を見る視点】

 沖縄本島の近世の村、あるいは古琉球の村(ムラ)を知るには八重山の近世の村の発生を見る必要がありそう。『琉球共産村落之研究』(田村浩著:1927年)に八重山の近世村落の発生についてあるので、それをまず頭に入れることから。
  それを整理していると、八重山の村創設(新設)は、沖縄本島や周辺離島の村の創設とは大きく変わる。そこには、近世の先島と沖縄側への土地制度(地割と人頭割)の導入が大きく影響しているようだ(まだ、その比較研究はしていないので・・・。結論はこれから・・・)

 人頭賦課(人頭税)の導入でなされた村の新設や他の村からの人の移住が個々の村の成り立ちや島の村の祭祀や伝統芸能に大きく影響及ぼしている。先島は人頭賦課制、沖縄本島と周辺離島は地割制を前提に村々を見て行く必要がある。土地制が異なることを前提に村の成り立ちを見て行くことは両者を比較しながら見ることになる。先島の村について記したことがあるが、以下のことを念頭に入れずにみてきたので、しきり直しであるが、共通して動かないものがある。(これまで沖縄本島の村を見る視点で見て来たため理解できずにいた・・・)

【八重山の間切と村】
 ・慶長年間に検地を行い、寛永5年(1628)に租庸調を上・中・上・下・下々の男女頭数に賦課する。
 ・寛永5年(1628)に
大浜、石垣、宮良の三間切に分けて翌年(1629)に各村を定める。
 ・
石垣間切は登野城・竹富・黒島・花城・古見・新城・小浜の7ヶ村とする。
 ・
宮良間切は宮良・石垣・川平・中筋・波照間・フル?・平田・アラントの8ヶ村とする。
 ・
大浜間切は大浜・崎原・大城・白保・浮海・平久保・鳩間・西表・慶田城・与那国の10ヶ村とする。
 ・寛永9年(1632)に在番が置かれ、大和在番は慶応2年(1867)に廃止される。
 ・
正保3年(1646)に全島の竿入が行われる。
  (寛永年間からの間切や村の新設は人頭賦課のため)

【八重山の近世村の発生】(新設村)
 ・享保7年(1722)黒島村より400余名を宮良村の野底に分移し野底村を新立する。
 ・享保7年(1722)石垣、登野城、平得、白保、宮良の5ヶ村より700余名を石垣多宇田野に分移し桃里村を新立。
 ・享保7年(1722)小浜、その他の離島より600余名を古見、西表両村の間に自珍野に移し高那村を新設。
 ・享保19年(1734)竹富村より74人を崎枝村近辺の屋良部森に移して南風見村を新立。
 ・元文2年(1737)石垣登野城一ヶ村より533人を名蔵村に移し旧住民87名と合わせ600人として與人を置いた。
 ・寛延3年(1750)石垣村960人を分ち新川村を新設。
 ・寛延3年(1750)登野城1500人を分け大川村を新設。
 ・寛延3年(1750)平得村より400人、大浜村より400人を移し仲原村を新設。
 ・寛延3年(1750)白保村より686人を分移して真謝村を新設。
 ・宝暦3年(1753)伊原間村より48人、白保村より100人、竹富より200人を分けて安良村を新設。
 ・宝暦5年(1755)西表古見両村の間崎山地方鹿川、網取二ヶ村を本とし波照間より200人を移して崎山村を新設。
   
【明和8年(1771)の大津波による村の再編】
 ・明和8年の大津波で溺死9180人、牛馬、家屋、田畑、船舶、穀類などの流失夥し。
 ・真栄里、大浜、宮良、白保、伊原間、安良の6ヶ村は人家悉く流失、残家があるのは石垣四ヶ村と平得里の二ヶ村のみ。
 ・黒島・新城被害大なり。
 ・津波後平保より40人を安良村に分移し本村の24人と合わせて小村を立てる。
 ・津波後竹富より550余りを富崎へ分移して新村宇良村を建てる。
 ・天明5年(1785)宇良村を桃里村の属地盛山に移して盛山村を新設。
 ・安永5年(1843)痲疹が流行し安良村は僅か6人となる。そのため川平と野底村から25人を移す。
 ・津波後、真栄里は黒島より、大浜村へは波照間より、伊原間村へは黒島より分移し再建復興へ。
 ・享和3年(1803)8月再び疾病が流行し425人が死亡。
 ・嘉永5年(1852)の疫癘にて死亡したもの1843人。

【八重山の人口の増減】  
  ・1607年(慶長12)  5,500人
  ・1771年(明和8)  27.241人
  ・1755年(安永4)  18,119人
  ・1803年(寛政10)  15,957人
  ・1854年(安政元)  11,216人
  ・1912年(明治25)  16,900人
  ・1923年(大正12)  31,493人


平成22年5月27日(木)

 史料を見ていると、土地の種類が登場してくる。それらの土地に税を課したり、あるいは無税地であったりする。土地の全体像を把握しておく必要がある。例えば前日の宮城島でシナジーが出てくる。シナジーは塩田であるが、それには税が課されている。「塩田」のところを見ると、「国頭郡には大宜味間切にありて、間切・村・個人所有の別あり」とある。「山野」のところを見ると、「仲山」は「国頭郡大宜味間切のみにある地にして居住人の耕作地を保護するため山野より仕立てたるものなり」とある。それらの土地と地割対象地は? 地割制度や年銀などとの関わりはどうだろうか。

 ・竿入帳・・・土地・面積・測量台帳(名寄帳を編成するに必要な基本調査)(検地帳は竿入帳ともいう)
 ・名寄帳・・・土地の種類、田畑の上・下、長さ横の間数、坪数、石高を明示。
        (名寄帳・竿入帳ともに田畑の等級を上、中、下、下々があり)
 ・田方帳・・・石高及貢納を明記し、各間切を一括し各村毎に地番により調査計量あり

  土地の種類は以下の37ある。
    百姓地/浮掛地/叶掛地(カナイガカリ)/地頭地/地頭自作地/地頭拾掛地/地頭質入地/地頭村持地/オエカ地
    根神地/ノロクモイ地/仕明地/請地/払請地/屋敷地/墳墓地/浮得地/山野(計14に分類あり)/塩田/小掘
    浜屋敷地/浜余地/爬龍船置場/龕置場/試地/竿迦地/社寺地/馬場/城蹟/白仁石所/波上兼久
    灰焼地/番所敷地/村屋敷/庫敷地/山工屋取地


平成22年5月26日(水)

 沖縄本島北部(国頭村)へ向うとき、素通りする島がある。大宜味村の宮城島である。国頭村の与那で話を聞いていると「屋我地島と宮城島から塩売りがやってきていた」との話が聞かれた。また宮城島出身の方から「自分たちの出身は首里だと聞いているのですが・・・」と。そんなことが頭にあり、どんな歴史を持つ島なのか興味がある。宮城島は塩屋湾への入口にあり、ペリー一行が塩屋湾の丁寧な地図を描いている。湾内に一週間も停留した。「湾の南浜に鉄鉱、石炭及び硫黄を産する処あり」とあり、その調査もあったであろうが、12月末から1月にかけてのことで、湾の外へ出ることができなかったことも湾内に滞在した一因である。寄留してきた人々がどのような島の歴史を築いてきたのか興味がある。島の歴史をみてみることに。

 『正保国絵図』(1646年)に「いな城嶋 人居なし」とあり、まだ人が住んでいない。18世紀半ばに首里から移住してきた人達が集落をつくったという。宮城島は津波村に属し、明治12年後に津波村の小字になったという。1937年(昭和12)に津波と宮城島に橋が架かる。明治14年に塩屋を訪れた上杉県令日誌に「水を隔て、宮城島あり、島中小村落あり。渡舟相往来す」とあり、島の様子を記してある。今では津波と宮城島(宮城橋)、宮城島と塩屋との間(塩屋大橋)に橋が架かっている。昭和4年に大宜味村字宮城となる。

   『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行:18頁)に「宮城島は塩屋湾頭に横たわり周囲20町字津波に属す。人家十数軒塩田を
   有し朝夕炊煙立上りて湾内の風致を添えること一段なり」と。


 集落後方の山の麓にセメンガー・ナカガー・ウシガーがある。集落の前方にシナマー(砂庭)と呼ばれる平坦地がある。そこは塩田跡である。またニルミジーやヤフジーなどの地名があり、根路銘や屋古などの人達が宮城島の土地を耕していた名残りである。宮城島は首里などからの寄留の人々がつくった集落なので神アサギがないのは当然である。祭祀は中南部の形態と同様ではないか。山原の集落形態と異なっているのがいい(末調査)


         ▲宮城島の拝所                   ▲お宮とセメンガー


   ▲塩屋大橋から見た宮城島(右手の島)        ▲宮城島への宮城橋(奥の方が塩屋湾)

【知名町の小学生】
 知名町の上城小、田皆小、住吉小、知名小、下平川小の計86名がやってきた。今帰仁グスク跡を見学した後、歴史文化センターへ。そこで知名町と北山との関係、そして知名町住吉の福永家の古琉球の祭祀に関わる史料のこと。「福永家の生徒いませんか?」「先輩ならいますよ」と。「みんな福永家を知っているようなので、沖縄との関わりで話をします」・・・「上城小のみなさん、「隣に下城があります。そこに世の主の生誕地があります。琉球と関わる人物です。・・・。皆さんが今帰仁グスクにやってくるのは、沖永良部島と琉球が密接に関わった歴史をもっているからですよ」と。


    ▲知名町四校の生徒達         ▲今帰仁城跡、沖永良部島とも関係あるんだ!


   ▲知名町下城の世の主神社                ▲世の主の生誕地

平成22年5月25日(火)

【国頭村与那】
 24日午前中雨。11時頃雨の中、沖縄本島北部を北へ向う。どの字(アザ)にしようかと迷いながら奥間まで。そこで国頭村佐手で「与那ノロ」の墓について触れたことを思い出し、ならば国頭村与那だ! 与那ノロが管轄する村(ムラ)は『琉球国由来記』(1713年)では与那・謝敷・佐手・辺野喜の4つの村である。それには宇嘉村は出てこない。それ以前の『絵図郷村帳』には「おか村」として登場しているので村はあったのであろう。宇嘉の祭祀は与那ノロの管轄となっている。

 与那は①与那 ②明地 ③与那坂 ④九年田 ⑤仲福地 ⑥大袋 ⑦大道 の七つの小字からなる。集落に入ると、共同売店の前にノロドゥンチが目につく。それと各家庭に表札と屋号が掲げられている。そこから与那の集落の成り立ちが見えてきそうである。それと『琉球共産村落之研究』(田村浩著:昭和2年発行112頁)で与那の「本部落は辺土名方面より分れし移住せしきものにして、旧時は伊地村の農地にて原名を与那川原といい、往復して耕作に従事し居れり」、それと「部落門中は最も古きを上門、上謝敷、前の三とし、上門と上謝敷とは同一門なりと伝う」という。与那における門中意識の根強さが、今でも堂々と屋号を掲げていることと結びついているにちがいない。

 ①富里・・・前門中/上門中/上謝敷
 ②暗さ・・・前門中
 ③火吹・・・上門中/上謝敷
 ④穴泉

 与那のユヤギムイとウガミ(ウタキ)は海岸に近い所にあり、与那の集落の展開は、よそから来た人達が海岸から次第に内側にはり、カーに近い所にムトゥヤーがあり、そこから集落が展開している様相が伺える(集落の展開を詳細にみていく必要あり。これまでのパタンとは異なっている?)

 ノロドゥンチの位牌に、以下のようにある。「禅定尼」(ぜんじょうに)なので女性。代々の与那ノロの位牌とみられる。(与那ノロは一般の公儀ノロより特異な地位にあったのではないか。そのことは別調査で報告予定)

   ・花岳妙清禅定尼(乾隆35年3月6日死亡 63のろくもい)
   ・花岳永松禅定尼(乾隆47年9月26日死亡)(1782)
   ・夏岳宗天禅定尼(乾隆59年5月15日死亡)(1794)
   ・唯妙心信女(道光15年12月20日死亡)(1835)
   ・のろくもい(同治11年 明治5年12月20日死亡)(1872)

 
      ▲与那ノロドゥンチ                   ▲ノロドゥンチの位牌


     ▲シーラガー「後川)                        ▲フサトガー


          ▲ウサチガー                   ▲ウガミガー(拝川)

 
        ▲アンガー(穴川)              ▲ウンガミの時の「流れミャー」(向う側の浜)

【今帰仁村古宇利島】
 古宇利島で印部石(原石)が新しく確認された。これまで古宇利島には、以下七基の印部石が確認されている。古宇利島で八基目の確認は「さ いれ原」である。古宇利島で記号の異なる「いれ原」の印部石が五基である。同原名で記号が異なる印部石が二、三基ある例はある。畑地に置くと行方不明になるということもあって歴史文化センターへの提供となった。古宇利島の玉城ヨシジ氏で、前区長の小浜さん経由である(ありがたいもんです。感謝)。畑にするために印部石があった土手は動かされていた。確認された場所は、現在の「宿の前原」か「城原」である。小字の境界あたりなので、再度確認してみることに(調査:仲原・玉城菜美路)

【古宇利島の印部石】
  ① ヲ いれ原 ② レ いれ原 ③ (お) いれ原 ④ オ いれ原 ⑤ に あかれ原 
  ⑥ ひ あかれ原 ⑦ ほ あらさき原 ⑧ さ いれ原(高さ55cm・幅最大20.4cm・厚さ10cm)


  ▲印部石の拓本       ▲「さ いれ原」の印部石       ▲印部石があった場所(現況)

平成22年5月22日(土)

 今帰仁間切でも方切や村替えがなされている、一回目の方切は1690年頃であるが理由を直接示した史料は確認できていない。2回目は1736年で、今帰仁間切と羽地間切との境界線の変更ははっきりしている。久米島で村替えや方切が行われているので、久米島の事例から今帰仁間切の一回目(1690年頃)の方切や村替えの理由を知ることができるのではないか。

【村替えと方切の事例】
(久米島間切諸村公事帳)

 「雍正年間(1723~1735)、山城、儀間、嘉手刈の三ヶ字を村立てし、山城を仲里間切に、儀間、嘉手刈を具志川間切に村替えをした」と。

    「久米具志川間切山城村の儀、仲里間切嘉手刈二カ村差越、仲里間切内に村立仕置候故、地方人組候間、
     山城村仲里間切へ召成候へば
方切、正敷相成百姓勝手能候間村替被仰付度御物奉行安里親方御支配
     奉行奥平親方恩河親雲上申出私共にも同意奉存候條其の通被仰付度奉存じ候事 以上」

     「山城、嘉手刈二ヶ村の儀、両惣j地頭諸村おえか地、大小出入有候へば、兎に角現地方竿入被〆差引不仕候ては
     不叶儀に候故、両間切地方御支配仕置首尾不仕内に所中の通上納仰付云々 安里親方」

   久米島の仲村渠は具志川城の前後にありし前兼久、後兼久を移して村立したるものである。

   メモ 「君那覇由来記」から久米島の四グスクの領主の関係がしれる」(整理すること!)


平成22年5月21日(金)

 午前中、天底小学校で講演あり。校区の呉我山から運天まで、七ヶ字の生徒達の出身(字)を確認。自分達が住んでいる字の宝を探す目、家から学校までの間、あるいは友達の字の事。回りの変化に敏感な感性が育てば。学校の発祥地の碑の前を通るとき、そこに学校が産まれたのか。話したことを思い出したり、考えたりして欲しい。七つの字の全体的なことを仲原が話し、生徒に向けてわかりやすく石野がフォロー。画像(プロジェクター)は菜美次が受け持つ。

 低学年も高学年も最後まで聞いてくれました。おりこうさんでした。「ムラ・シマ講座」に参加した新川さんからお礼の言葉あり。みんなありがとさん。

 
      ▲天底小学校の体育舘で                 ▲父母の方々の参加あり

【今帰仁村仲宗根】
 天底の「山岳原」から仲宗根のマチを眺めてみた。そこから仲宗根の集落の展開の姿が今によく伝えている。仲宗根の仲宗根原が集落の中心となったところで、そこにウタキ(グスク)とそのイベ(お宮)、神アサギ、アサギナーがあり、ウタキを背にして集落が発達している。ところどころに大井川の流れが姿をみせ、かつての大井川の流路が想定できそうである。仲宗根のウタキはグシクとも呼ばれる例。

【今帰仁村玉城】

 向いには玉城の古島原があり、玉城集落の故地がみえる。そこにはウチグスク跡がある。下方には寒水村の集落跡やカー、そして岸本村のウタキの痕跡もみることができる。一帯は現玉城(玉城・寒水・岸本)の二度の集落移動や合併村、行政村として合併するが、祭祀は一体化しない(しにくい)という法則を見せる。(玉城のマッチャクまでいく)

 
   ▲後方の森が仲宗根のウタキ(グシク)          ▲崖の後方にウチグスクがあり玉城の古島原

平成22年5月20日(木)

 今帰仁村天底小学校が122年の創立記念日が明日である。そこで子供たちに「天底校区の歴史と文化」をテーマで話をすることに。1年生から6年生の147名に語るわけだから大変だ。校区には、7つの字(アザ)がある。今年から湧川が校区に加わった。新生天底小学校である。

 歴史文化センターでは字(アザ)をムラ・シマと呼んでいる。それには大事な理由がある(ここでは触れない)。自分たちが住んでいる字に、ちょっと目を向けると、そこには生きていくための、あるいは生きてきた人々の「歴史や文化」が数多くある。そのことに気づいてもらうことに。ムラ・シマを手掛かりに話をしていくが、遠くの歴史や文化も学ぶが、生活している地の歴史や文化を拾い、誇りに持てる鋭い感性を持った人物に育ってくれたらと常々思っている。どんな話に展開するかは生徒たちの「知ってる! 知ってる!」の反応しだいである(出だしは『今帰仁村要覧』を使うことに。数年前文章を書いた記憶が)。

  ・呉我山 ・湧川 ・天底  ・勢理客  ・渡喜仁  ・上運天  ・運天

 





【他間切からの移動村】
 今帰仁村天底をゆく。天底は1719年に本部間切の伊豆味あたりから、今帰仁間切の現字地に移動した村である。もちろん、1666年以前は今帰仁間切の内である。『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』では「今帰仁間切あめそこ村」と出てくる。『琉球国由来記』(1713年)の頃は移動前なので本部間切天底村である。天底村は他間切からの移動村である。今帰仁間切へ移動した天底村の天底ノロは天底村と伊豆味村、そして嘉津宇村の祭祀の管轄である。大正時代まで天底ノロは伊豆味村へ出かけて祭祀を行ったという。

 天底村の移動について、『球陽』の尚敬王7年(1719)に「本部間切天底村を遷して今帰仁間切に入る」とある。間切を越えた村移動であるが、大正時代までノロ管轄は維持した。その痕跡は今でも「神ウガン」(旧暦8月10日)に残っている。牛を潰して伊豆味へ提供している。村移動の理由は「疲弊」である。天底の中福原(下の図のピンク色)が仲宗根と勢理客との間に細長く入り入り込んでいるのは、移動してきた村が湿地帯の開拓で入り込んだためである。最初の集落移動地は外田原、そこから後原へ。

 天底は字誌をスタートさせるので公民館に立ち寄り、一年間の祭祀(ウガン)の確認をする。一年間祭祀の調査をすることに。というのは、村が移動してきた時、新しい地で何をつくるのか。ウタキ、神アサギつくり祭祀を行う。それは何を意味しているのか。現在地に村が移動する前から「天底村」はあったのであるから、天底の語義論は故地での意味解きをする必要がある。故地は本部半島の中央部の窪地である。それからすると天底(アミス・アミスク)は「高い所の窪地」からきた地名とみてよさそうである(現在地を想定して語議論をされる方がいるが・・・・)

 
  ▲後方の森が天底のウタキである(公民舘から)         ▲高い山の後方が天底の故地

 
       ▲天底青年会盆踊記念(1961年)                 ▲天底の一年間の御願行事


  ▲いびつな形で入り込んだ中福原(湿地帯の開拓が目的!)

平成22年5月19日(水)

 国頭村佐手。佐手は国頭村の西海岸に位置する小規模の字(アザ)である。『絵図郷村帳』に「さて村」と出てくる。『琉球国由来記』(1713年)に佐手村とあり、祭祀は与那巫の管轄である。佐手に関心を持っているのは与那巫の墓が佐手のヤーンクシ(かつては離れ島)にあること。巫が他村にノロ墓があるのは、そう珍しいことではない。
  「与那ノロの墓は家の後島にある。最近まで一たんここに葬り、洗骨後与那の一門墓に移した。佐手ノロが与那ノロに先行
   した由縁によるものであろうか・・・」(『国頭村史』)


  ・マク名・・・ぼう こうぼう
  ・集落の後方に佐手の上(丘)
  ・義本王の偽りの墓と屋敷跡
  ・古い井戸
  ・枯れることのない湧泉あり(集落の発祥地か)
  ・佐手の上は前と新里一門が拝んでいる。
  ・根神は前一門の世襲
  ・白兼久は辺野喜からの移住者
  ・義本王の伝説あり
  ・大島からウンメーが家の後にきて村を築いたとの伝承あり。(家の後は奥武島と同様?)
  ・後島と佐手浜との間に深いところがあった。港?
  ・八月の海神祭は与那・謝敷・佐手の順に行われる。
  ・辺野喜・宇嘉は与那ノロの管轄であるが、上の三つの村とは様相を異にしている。
  ・与那から宇嘉まで校区は一つである(佐手小学校。ノロ管轄区である)
  ・神アサギあり。


      ▲国頭村佐手の集落(手前は小学校)          ▲佐手のヤーンクシ(かつては離れ島、ノロ墓あり)

【沖永良部島の小学生】
 和泊町の和泊・大城・国頭・内城の小学四校の生徒達(76名)がやってきた。何故今帰仁グスクに立ち寄ったのか。少しレファレンス。26日に上城・田皆・住吉・下平川の四小学校(計103名)がやってくる。



平成22年5月18日(火)

 大宜味村宮城、国頭村佐手、国頭村辺戸までゆく。辺戸における祭祀が今帰仁阿応理屋恵と密接に関わっていると見ているからである。特に辺戸における祭祀は王府の祭祀と辺戸村の祭祀、つまり王府レベルの祭祀と村レベルの祭祀が融合している、重なった姿が伺える。仮説として辺戸における王府レベルの祭祀は、1665年に今帰仁阿応理恵が首里に引き上げる以前、辺戸におけるクニレベルの祭祀の管轄は今帰仁阿応理屋恵の祭祀ではなかったのか。

 今帰仁阿応理屋恵が首里に引き上げた後、辺戸ノロの祭祀として肩代わりした部分があるのはないか。そのために『琉球国由来記』(1713年)では今帰仁阿応理屋恵が首里に引き上げている時期のことなので、肩代わりした辺戸ノロの祭祀として記載されている。それらの御嶽は辺戸巫(ノロ)の崇所となっている。大川(アフリ川)は御水取の時に大屋子が王府から参上し、公庫や聞得大君御殿から供え物が提供されている。それに辺戸ノロも関わっている。

 ヒチャラ御嶽は辺戸村のウタキである。そこに按司あるいは親方クラスの石燈籠がある。国頭按司(王子)、あるいは国頭親方なる人物の寄進だと見られる。宮城栄昌は『国頭村史』で「寛□廿一年四月十六日沙門太演」と判読され、寛永廿一年(1664年)とされるが、判読の誤りかもしれない(確認する必要あり)。その頃の碑文で日本年号を用いたのは「寛文」の数年だけである。また石燈籠の年号で確認したもっとも古いの今帰仁グスクの石燈籠(今帰仁王子)の乾隆14年(1749)である。石燈籠の設置は、それ以降流布していったのではないか。「大和めきもの」は厳しく禁止されていた時代である。

 石燈籠の年号は別にしても、辺戸村のヒチャラウタキで按司(王子)や親方クラスが石燈籠を寄進しているのは、そこでの祭祀は村の祭祀と王府の祭祀が一緒に行われていた姿がある。

【辺戸のクニレベルの祭祀】

 ・シチャラ嶽(本来、辺戸村のウタキ)
 ・アフリ嶽(冷傘・新神の出現)
 ・宜野久瀬嶽
 ・大川(五月と九月の御水取)

 (下の画像のアスムイ(辺戸岳)は、向かって右からイヘヤ、チザラ(シチャラ?)嶽、アフリ、シヌクシ(宜野久瀬嶽)の名が
  付けられている。シチャラ御嶽は辺戸岳にあるのではなく辺戸村の集落の後方にあるウタキとみている)。

【辺戸村(ムラ)レベルの祭祀
】(『国頭村の今昔』参照)


◎シニグ(ウンジャミと各年交互に行う)
 【1日目】
  ・旧盆後の初の亥の日
  ・初の日、三時頃シヌグ間(庭)に男女が集まる。
  ・各戸から一分の米を出し合ってミキを造る。
  ・部落の無病息災を祈願した後、その神酒を飲む。
  ・部落の女性たちは円陣をつくって歌を歌いながらウシデークの舞いをする。 
    (ガングミ・・・若い女性たちが咬んだ米でミキをつくった。今では臼でひく)
  ・ウスデークが済むと男がカリーつけにムカデ旗をもってアサギ庭に移動する。
  ・アサギ庭で女性たちがウシデークをする(夜遅くまで)。

 【2日目】(区長とシル神(男)が采配をとる)
  ・アサギ庭に男女が集まり、女性のみでウシデークを舞う。最後は余興。

◎ウンジャミ
  辺戸ノロと神女数人、アシビダムトゥ10人が中心と行う。

 【1日目】

  ・旧盆後の初の亥の日
  ・ノロと神女が夕方、シバ家(旧家)に集まり村の繁栄と無病息災を祈願して一夜を明かす。
   オモロの練習をする(ウングマイという)。
  ・一般女性はシバ家の庭でウシデークの予行演習をする。

 【2日目】
  ・ウングマイしたノロや神人たちの慰労をする。御馳走をシバ家に持参、今では金で。
  ・午後三時頃アシビダムトゥ10人がシバ家に集まり、白鉢巻に白衣をまとい、頭にガンシナを
   つけて各家庭を回り厄払いをする。六尺棒を持って各家庭を練り歩く。棒で戸を叩くことで
   厄払いをする。
  ・この所作が終わると、アシビダモトゥは田畑の厄払いをする。その後宇座の浜へ。
   ガンシナを浜へ。浜の洞窟にガンシナを置いて帰る。
  ・その時、一般住民はシニグ庭でアシビダモトゥを丁寧にもてなす。一般の人達はサカンケーを
   して集落に帰る。 

 【3日目】
  ・午後からアシビダムトゥに集まり、昨日のガンシナを海に流す。アサギ庭に集まってオモロを
   唄いながら舞う。それが終わるとウスデークをする。

 【4日目】
  ・夕方、ムラの女性達がアサギ庭に集まりウスデークをする。それで祭りは終わり。
      (猪狩りの行事があったが1970年頃省いた) 


   ▲国頭村辺戸の雨のアスムイ(辺戸岳)          ▲国頭村辺戸のノロドゥンチ


    ▲国頭村辺戸のシニグ間(庭)              ▲辺戸の神アサギ

 雨の中の久米島踏査(文化財回り、は回った順)。沖縄本島北部とは異なった視点で見る必要がある。まず、神アサギがないということ。ムラ・シマの祭祀が希薄であること。それは近世の村(ムラ)以前のムラ(マキ・マキヨ)の成り立ちを今に伝えている。沖縄本島北部では、ほとんど見られないヒヤの存在。それと三十三君の君南風(チンベー)が果たした役割と今帰仁阿応理屋恵が果たした役割。首里から派遣された北山監守と久米島の首里系の家譜をもつ一族が与えていた影響。琉球国―久米島―中国との航路の要衝地としての久米島。久米島の村と集落移動、集落とグスクの成り立ち、それが与えた久米島の歴史と文化などなど。


                (「沖縄久米島―沖縄久米島調査委員会編」折込図より)

平成22年5月14日(金)

 歴史文化センターの運営協議会。新しく加わる委員の先生方への辞令交付。その後、今年度の事業計画の報告に対する意見等。新しいメンバーが加わり、平均年齢も大分若くなりました。世代交代です。
 
 15日~16日は「久米島ゆき」。レジュメの印刷・製本完了。天気はどうだろうか。

 
   ▲主幹から委員の先生方への激励の言葉       ▲学校との関わりが話題に

平成22年5月13日(木)

 学芸員実習の申込がありました。今年も、その時期がやってきました。どんな実習になるでしょうかね。14日は歴史文化センターの運営協議会、15日~16日は久米島。一つはキャンセル。それらの情報で脳みそは飽和状態。一つひとつ放出して、頭の中を空っぽにしないと次のがはいてきません。

 「君南風の司る祭祀」(山里克也氏)の報告(久米のきみはゑ五〇〇年 特別展図録所収)がある。祭祀を流れで見て行く立場から貴重な報告である。これまでの調査で「祭祀の流れ」(拝む場所)は、変化しにくいということをいくつも確認しているからである。久米島の君南風の祭祀の動きから今帰仁阿応理屋恵の祭祀の動きがどうであったのか。その流れをつかみたいからである。今帰仁阿応理屋恵の祭祀が見えてこないのは、ちょうど『琉球国由来記』(1713年)が編集された頃、今帰仁阿応理屋恵は首里に引き上げ、今帰仁グスクでの祭祀が行われていない時期である。それは今帰仁ノロが肩代わりをしている。残念ながら今帰仁阿応理恵の祭祀の様子は『琉球国由来記』(1713年)に記されていない。

 そのことがあって、久米島の君南風の祭祀の流れから、今帰仁城での今帰仁阿応理屋恵の祭祀をいくらかでも彷彿させることができるのではないか。クボウのウタキでの「首里天加那志美御前、・・・」の祈りの文言に僅かながら伺うことができる。

【君南風が関わる五月ウマチー】(旧暦5月15日)
  ・君南風殿内(午前中)(かつては君南風・仲地ノロ・具志川ノロ・兼城ノロなどが集まったという) 
  ・君南風は勾玉を首からかける。
  ・神棚の右側の香炉を拝む(首里の弁ガ嶽への遥拝だという)。
  ・正面の神棚(豊作の祈願)
  ・神衣装は白装束

  ・仲地蔵下(ナカチグヮチャ)へ (君南風が奥に座り豊作祈願をする)
  ・玉那覇蔵下(タマナハグヮチャ)(山里)へ。

     (君南風殿内→仲地蔵下→玉那覇蔵下)

【君南風が関わる六月ウマチー】(旧暦6月25日)
  ・午前中は五月ウマチーと同様の動きをする。
   (衣装は黄色(金色)で勾玉を首からかけ、鉢巻も金色、さらにミチャブイを被る)
  ・君南風殿内から行列をなし仲地蔵下へ。そこから玉那覇蔵下へ)
  ・午後からグスクヌブイ(城登り)(具志川グスクへ)

    (君南風殿内→仲地蔵下→玉那覇蔵下→具志川グスクへ)

   (グシクヌブイは、かつて具志川グスクと宇江城グスクを交互に行っていたという)
  ・グスク内でのウガン(具志川ノロの拝む場所は異なっている)(拝む場所の確認必要)
  ・グスク内でのウガンが終わると、グスクの門近くにあるトートー石での君南風のウガンあり。



       ▲久米島の君南風殿内(仲地)          ▲具志川グスクのトートー石(仲村渠)

平成22年5月12日(水)

 徳之島の伊仙町の小学校の生徒達がやってきた。「何故、今帰仁グスクにやってきたの?」と投げかける。そこで、その何故かを二、三分で。「今は北の方を向いているが、齢を重ねると南に向くからね」と。その一言を頭に入れておいて。それと世界遺産のグスクは、奄美も関わってきますよ」などなど。


    ▲墓の様子は徳之島と違うな!         ▲あれ! 石臼は徳之島にもあるぞ!

【久米島の君南風と今帰仁阿応理屋恵】

 山原から久米島を見るときに欠かせないのが君南風(チンベー)である。三十三君の一人が久米島の君南風である。また北山の今帰仁阿応理恵(あおりやえ)もその一人である。今帰仁阿応理恵の勾玉、水晶玉(ガラス)、草履?などの伝世品はあるが祭祀の内容についてはほとんどわかっていない。そのため、同久米島の君南風の祭祀から、今帰仁阿応理恵の祭祀を描き出したいと考えている。そのために、久米島の君南風の祭祀を丁寧にみていければと。

 久米島の君南風には辞令書が発給されている。1563年と1595年の二枚の辞令書が確認されている(戦前に)。『女官御双紙』に今帰仁阿応理屋恵へ「御朱印」「御印判(辞令書)の発給がなされている。それが1500年代であれば、久米島の君南風の辞令書と同様な形式のものであったであろう(備考に二枚の辞令書とも「鎌倉芳太郎ノート」からである)。

・君南風の大阿母知行安堵辞令書(嘉靖45年:1566)
            (「辞令書等古文書調査報告書」沖縄県 昭和53年)
    くめのくしかわまきり
    にしめのうちま人ちもとハ
    にしめのうちま人ちもとハ
    あまかちの内より    (あまかちはあらかき?)
   一二かりや三おつかたに六十九まし
    ひらちしやはる又□□□はるともニ
   又七十ぬき(ちはた)け□(おほ)そ
    はゑはる又はなう(はる?)
  (又)おち□(はる)又□□(はるともニ)
    このちのわくそ□この大あむかめはたまてハ
    御ゆるしめされ候
    一人きミはいの大あむに
    たまわり申(候)
  しよりよりきミはいの大あむか方へまいる
  嘉靖四十五年十月八日

・君南風の大阿母知行安堵辞令書(萬暦23年:1595)
            (「辞令書等古文書調査報告書」沖縄県 昭和53年)
   しよりの御ミ事
     くめのくしかわまきり
     あらかきちもとのきミはい
     大あむかのろち
   一 せちよくたに 十四ましこミなとはる
   又 十ぬきちはたけ□(おほそ)
     きし□□□
     このちの□□かり(しまくにの人の?)(て)ま
     つかいハ御きんせい(にて)候
     一人きミはいの大あむに
     たまわり申(候)
   しよりよりきミはいの大あむか方へまいる
   萬暦二十三年正月十二日

【二つの今帰仁アオリヤエ殿内の祠と遺品】

 「鎌倉芳太郎ノート」にヲーレウドンの遺品として、以下のように記してある(鎌倉芳太郎資料集ノート編Ⅱ)。その一部が残っている。
  ・曲玉一連 大曲玉 1ヶ 小曲玉 21ヶ  水晶玉 31ヶ
          水晶玉 80ヶ
  ・玉かわら一連 内 かわら一大形  同22ヶ 小形  水晶玉 116ヶ
  ・玉草履
  ・冠玉たれ 一連
  ・冠玉之緒 一連 


   ▲今帰仁阿応理屋恵の火神の祠(今帰仁グスクの前方にあり)と祠の内部


▲今帰仁阿応理屋恵の火神の祠の後方にある香炉        ▲クボウヌウタキ

 ▲麓にある今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)祠  ▲祠内部にある位牌


▲今帰仁阿応理屋恵の屋敷にあるウドゥンガー      ▲今帰仁阿応理屋恵の遺品の一部

【ある一門(中頭)の今帰仁間切への祈願】(明治28年)(鎌倉芳太郎資料集 ノート)
  ・旧8月12日出立
        恩納間切安富祖村冨着屋へ一泊
  ・同13日 羽地間切伊佐川村へ一泊
  ・同14日 今帰仁間切下運天村本表御西御墓参拝仕同間切
親泊村のろ殿内一泊。
  ・同15日 
阿応理屋恵御殿並本部間切具志堅村上間之御鍍赤墓迄拝済下運天村玉城一泊
  ・同16日 恩納間切安富祖村富着之屋一泊
  ・同17日 同間切山田村のろ殿内御鍍拝済読谷山間切座喜味村赤平松田一泊
  ・同18日 右村のろ殿内御鍍迄拝済同日帰いたし候事
    
※阿応理屋恵御殿八御前
       内 火之神之御前
          伊平屋島へ御向
          国頭間切辺土へ御向
          アワシ御川
          中立御川
          かんきや森御川
            但 六行城内

        (のろ辞令書あり)

平成22年5月11日(火)

 沖縄県久米島のムラを見ていく時、沖縄本島(特に北部)と共通するものは何かを拾っていくことも必要であるが、本島の中南部、あるいは北部と異なるものがあるとの視点でみていく必要がある。その一つに本島北部に分布する神アサギ(アシャギ)が久米島にはないということ。中南部には殿(トゥン)が多く分布している。それと、ヒヤ(ヲヒヤ)の人物の登場がある。山原での祭祀は村(ムラ)が中心である。しかし久米島はムラ祭祀が非常に希薄である。今でいう具志川グスクや宇江城グスクや伊敷索グスクは、『仲里間切旧記』(1703年)では「仲里城御嶽(仲里城)」「いしきなは御嶽」「とんなは御嶽」である。当時、城(グスク)というより御嶽と見ている。そういう意味ではグスクは祭祀、それを行っているムラの人々と密接に関わっていることがわかる。

【久米島のヒヤ】
 ・世ナフシオヒヤトフ者(久米島具志川間切)
 ・ヲヒヤニ向テ云(久米島具志川間切)
 ・ヘドノヲヒヤ三兄弟
 ・俣枝ヲヒヤ(久米島具志川間切仲地村)
 ・西目ヲヒヤ(久米島具志川間切西目村)
 ・西平ヲヒヤ(  〃  )
 ・新垣ヲヒヤ(  〃  )
 ・兼城ヲヒヤ(久米島具志川間切兼城村)
 ・山城ヲヒヤ(久米島具志川間切山城村)
 ・久根城ヲヒヤ(久米島具志川間切山城村)
 ・堂ノ比屋(久米島仲里間切宇江城村)
 ・ヘドノヒヤ、ヘドノヒヤ一族(久米島仲里間切宇根村)
 ・堂之大比屋
 ・阿嘉のひや
 ・嶺井のひや
 ・志村のおひや(比屋定村)
 ・健堅之大比屋(今帰仁間切、後の本部間切健堅村)

【久米島のノロ管轄】
 久米島はちなは城を中心として儀間のろ、仲里城を中心としてグスクのろ、とんなはグスクを中心として儀間ノロ、それぞれのノロの領域があったようである。久米島全体の祭祀は君南風(チンベー)。
  ・ぐしくのろ  だう(堂)・仲里・かで川・ぐしく(宇江城)・ひやじょう
  ・宇根のろ  まじや・宇根・宮平・平良・泊まり・じゃなたう・あか
  ・比嘉のろ(1682年以降) ひが・しまじり
  ・儀間のろ  ぎま・しらだう・かでかる 

【仲里間切旧記】(1703年)に行政村以前のマキヨが登場
 ・嘉手刈まきよ ・森城まきよ ・なかのまきよう(しらどう) ・よりあけまきよ(儀間)
 ・あらさきまきよ(アーラ) ・東のまきよ ・ぐすくむらのまきよ ・宇根まきよ
 ・あらさきのまきよ(島尻) ・あやのまきよ(宇根) ・なかのまきよ ・あふらやいのまきよ(堂村)
 ・上うねのまきよ

【いしとうね(石塘根)】(嘉手刈)

 『仲里間切旧記』(1703年)に「いしとうね」の由来について述べている。
 昔、石たう祢、御たかべ所の始まりは、長いこと旱魃が続いて、人々の飲水さえ事欠いていたのに、嘉手刈まきよの根人である嘉手刈ひやの雄牛が逃げて、同所で水を飲んでいたのを嘉手刈るひやが見つけ、大旱の時に関係のないこのような所に水があるのは、・・・(『仲里村史 仲里間切旧記』大意参照)。


    ▲嘉手刈のトーニイシ(塘根石)          ▲ソナミ遠見番所の近くにある涙石    

平成22年5月8日(土)

 梅雨入りしたが、今日は入道雲がみえ真夏の空。梅雨はあけたか! 先週行った久米島の踏査メモの整理がまだ残っているなり。今帰仁グスクを舞台とした番組が本日(NHK にっぽん巡礼 BS 9:30)が放送されます。10日、13日、15日に放送されます(今帰仁グスクからのコマーシャルです)。そのような気持ちで訪れてくださると嬉しいですね。


      ▲晴れ間の今帰仁グスク      ▲歴史文化センターからの今帰仁グスク


平成22年5月7日(金)

 沖縄は梅雨に入りました。この時期に登場するのは長い物。昨晩は舘付近で二匹の長い物と出会う。もう一匹はハブ? バッテリーが切れて撮影できず。山やウタキや草道に入る時は気をつけましょう。アカマターは毒はないというが好きにはなりません。(翌朝みたら、姿を消していました。逃げ延びたのでしょう)



【久志間切瀬嵩】
 瀬嵩は久志間切創設以前は、名護間切の村の一つであった。久志間切創設以前の名護間切が東海岸まで広がっていたことは意外である。金武間切が西海岸に及んでいたのと同様である。久志間切の沿革の碑が番所(役所)跡地に置かれている。それには、詳細な沿革が記されている。

  我が久志地域、旧久志村は「久志間切」の時代から1970年(昭和45年)合併により名護市とまでの300年の長い歴史があります。その歴史をたどれば1673年(康煕12)に金武間切から二ヶ村(久志・辺野古)、名護間切から10ヶ村(大浦・瀬嵩・汀間・安部・嘉陽・天仁屋・有銘・慶佐次・平良・川田)を割いて久志間切を創設された。当初久志(現久志区)にあった間切番所は1687年(康煕26)に瀬嵩(現久志支所)に移された。1897年(明治30)に「久志間切場番所」が「久志間切役場」と改称され、1908年(明治41)には沖縄県島嶼町村制の施行により「久志間切役場」が「久志村役場」となった。1923年(大正12)に有銘以北が分かれ、東村が新設された。その後、三原・二見・大川・底仁屋・豊原が独立して行政区に独立した。


   ▲久志間切番所が置かれた瀬嵩            ▲久志間切番所跡碑


  ▲久志地区の沿革を記した碑

平成22年5月6日(木)

【名護市久志~瀬嵩】
 沖縄本島北部の東海岸の久志から瀬嵩までゆく。1673年に久志間切が創設され、久志村に間切番所が置かれるが、1687年に久志村から瀬嵩村に番所が移設される。久志間切創設の時、名護間切から10村(邑)と金武間切から2村(邑)を分割して創設される。久志村から瀬嵩村へ番所が移動したことについては『夏姓謝花家譜』にあるようである(『南島風土記』東恩納寛惇著)。久志村は金武間切から分割した村の一つである。

 『球陽』尚貞6年(1674)の条に以下のように記してある。
 「始めて恩納・大宜味・小禄・久志等の四郡を置く。
   ・・・金武郡内に二邑、名護郡十邑、合して久志郡を設け、始めて尚経(豊見城王子朝良)・顧思敬(久志親方助豊)に賜ふ。
   共計十二邑なり」

 『球陽』尚貞20年(1688)に「観音像を久志郡に請安す」とある。
  「尚径(豊見城王子朝良)・顧思敬(久志親方助豊)、惣地頭たるの時、観音石像を請来し、其の宮を久邑に創建して之れを
   其の中に奉安し、以て崇信を為す。此れより後、村中の人民、毎月朔・望(十五日)・十八日・廿三日に、皆此の寺に至りて
   祈祷す。」

 観音堂を久志に創建する。村人が

 『夏姓謝花家譜』の概略は次の通りである。(20年前にそんなことをまとめたことがある)。
  康煕26年(1687)8月18日、名護間切百姓の訴えで、「公の文書の回送が西宿は恩納間切から名護間切へ、東宿は久志間切から名護間切へなされ、そのため名護間切の百姓は二重の駅費の負担を強いられる。その為同年に瀬嵩村と羽地間切の真喜屋村を結ぶ山道を開いて、東宿を久志・羽地・大宜味・国頭の各間切を結び、名護間切の負担を軽くした」という(『わがまち・わがむら』(名護市史:昭和63年)。

 久志間切志久(現在名護市)は久志間切が創設された当時、同間切の主村であった。1687年に瀬嵩村に移設したという。久志村に番所が置かれていたのは14年間である。その痕跡が見れないかと。当時の様子を見せるのは観音像である。久志の当原に今でもある。一帯は当原なので久志村の集落の中心となった場所と見られる。一帯は土地改良で地形が変わっている。その後方に上里グスク(ウガミとは別?)、メーダムイなどの拝所があり、集落移動の痕跡がみられる。

 久志は集落移動、グスク(ウタキ)が故地付近にあり、当原(アガイバル)の集落移動前の地名があり、前田原は現在の集落からすると後原である。故地から見ると前田原で、集落移動前につけられた小字名であることがわかる。久志は久志間切の一時期主村であるが、それとは別に山原のムラ・シマの成り立ちのモデルとなる村である。


  ▲当原後方にある上里グスク跡   ▲グスク(ウタキ)内にある拝所(イベ)


  ▲当原にある観音堂(1688年建立)   ▲観音像(石像)

【久米島踏査メモ】

【久米島仲里間切島尻】
 久米島の島尻へ。嘉手刈から儀間。アーラ岳の林道を通り島尻へ。久米島踏査は普段時計回りに回るが、今回は反時計回りに。現在の集落は小字島尻にあるが、クサト原とスハラ原(ウィンダカリ)から移動したという。村名の島尻は『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』に「久米仲里間切島尻村」とあり、変わることなく島尻である。

 『球陽』順治五年(1648)の条に、「久米島仲里間切島尻村籍内に、兼久村始めて建つ」とある。本文に「兼久村にかつて島尻大親の従人有り。名は古手大登という。始めて一屋を構え、此の処に移居す。後暫らく人聚り、遂に村と為る」とある。島尻村内に兼久村ができたという。つまり集落を移動し、村を創設したということである。近世初期の集落移動の様子を示している。

 クサト原に太陽石?と旧家の拝所(ニールチ)がある。一帯に集落があったと見られる。『琉球国由来記』(1713年)に比嘉御嶽と黒洲御嶽がある。島尻の石墓について『新城徳祐氏調査ノート』(なきじん研究10号:102頁)に「島尻部落は最近まで風葬の習わしがあった。50年前迄。海岸の石の上に棺を置いた。元はそこにクバが生えていた。そこを上泊と言う。棺の上に青いクバの葉をかぶせて放置した」とある。石積み墓に名称があるようで、アンター墓・ナカモー墓・ヌベル墓・ウルチ墓(『沖縄の地名』久米島島尻村の項)。葬られている人物は不明(数多くの石棺や厨子甕がある)


   ▲クサトにあるニールチの拝所 ▲島尻の太陽石(ウティンダ)石(崩壊している)


  ▲ミンルマイ近くの石積み墓        ▲大きな石上の石積み墓

平成22年5月3日(月)

【久米島踏査メモ】

【久米仲里間切の村】

 旧仲里村に登那覇城を瀬にした村々がある。真謝・宇根がある。低地の兼久地に移動し発達した集落である。それらの集落は移動集落である。真謝と宇根との集落と集落との境界は、他者には気づきにくい。そのため公民館を見つけて集落内を散策する。それでも、故地の確認は困難である。 

 

【真 謝】

 集落の西側にフサキナ山があり、旧集落は山間部にあったという。真謝村には真謝港があり、那覇と福建省との航路の要津となっていた。また君南風が首里へ行く時、真謝港から出て行ったという。『絵図郷村帳』では「久米中城間切まぢや村」、『琉球国高究帳』では「久米中城間切まちや村」とある。少なくとも故地の拝所の確認が必要。『琉球国由来記』(1713年)に真謝村に黒石御嶽と久米原御嶽がある。黒石御嶽は下阿嘉にある黒石森城公園のことか? 久米原御嶽は今の米原にあるのか。

 真謝の集落の外れに「大蔵下」があり、それは仲里間切の蔵元である。旧五月、六月のウマチー(稲穂・稲大祭)と関わる。『琉球国由来記』(1713年)に黒石御嶽と久米原御嶽が出てくる。真謝泊は「親泊」と謡われている。真謝集落内に仲里蔵元跡と菩薩堂(天后宮)がある。

 真謝には18の小字があり、集落のあるのは真謝、宇根原から移動した人、真謝原から移動した人、山手のフリチリ(古くは棚原)からの移動。今の真謝の集落の人々は山手に散在していた人々が麓の真謝(現集落)へ移動してきたと見られる。


     ▲旧仲里村真謝公民館        ▲下阿嘉の黒石森城公園


 ▲真謝にある天后宮(菩薩堂)(1756年) ▲仲里間切の蔵元(後の役場)跡


    ▲真謝漁港(現在)           ▲蔵元跡にある方位石

【宇 根】

 宇根の現在の集落は兼久地にあり、かつては登武那覇城の中腹あたりに集落があったという。故地に因んで宇根ムラとしたという。故地は小字の上宇根原だという。『絵図郷村帳』に「久米中城間切宇根村」、『琉球国高究帳』に「久米中城間切うね村」とある。両史料に出てくる「久米中城間切泊村(とまり村)」は宇根村に統合されたという。拝所は登武那覇城跡にある。神庭か? 乾隆21年の冠船の遭難事故があり、救助の功績で勅使から「福」字が与えられた。


 『琉球国由来記』(1713年)に宇根村に、トンナハ御嶽、世野久瀬御嶽、ヲレ御嶽、アフ御嶽の四つの御嶽が記されている。

 真泊は糸満などからの寄留の人達でつくる。真謝にあった港が真泊に港をつくり、真泊港、漁港と同時に那覇から高速艇が就航している。

 

【久米仲里間切公事帳】(雍正13年)(仲里村史:口語訳より)
  (唐船方)
  ・唐船の見える時、昼は遠目番所に筵旗を揚げるから、在宅の者並びに田畑に出ている人達は、港の方へかけつけて
   集まること。
  ・
そなみ遠目番所も右に同じ。
  ・早船を一隻、真謝泊に用意しておき、唐船が沖合を通過すると、大和横目並びに夫地頭、大さばくりの中から一人、掟、
   目差の中から一人、船頭一人、佐事一人、船員二十人が早船に乗り組んで、那覇まで警護し、高所へ、経過を報告し、
   御物奉行所へも報告して帰島すること。

  ・唐船が、兼城泊へ碇泊中は夫地頭、大さばくりの中から一人、掟、目差の中から一人、文子一人、船頭一人、佐事一人、
  人夫拾人、交替交替で昼夜詰めて勤務し、ご用をはたすこと。
  ・仲里、具志川両間切で炬竹三百結づつを常時用意しておくこと。
  ・唐船が出港の時、久米島の君南風殿内、兼城のろ殿内、宇根のろ殿内、中城嶽の計四ヶ所への海上安全のおたかべ
   (祈願の言葉)を造って使うため八月一杯に御船手から出張中のさばくりで、それを受け取って持ち帰り、その各々(四ヶ
   所)に届けておいて、唐船の出航が近づいたらおたかべをすること。

 ・五月一日から唐船が帰ってくる日まで、
そなみ、堂崎の両遠目番所に、毎晩てらし灯をつけておくこと。

   (異国方)
  ・
遠目番は、堂崎、そなみの両遠目番所十二人で一ヶ所に二人ずつ分けて昼、夜詰めて、油断なく監視し、いろんな船が
   通るのでよく気をつけて識別をし、それを蔵元へ報告すること。
    夜は烽火を立てることになっているので、この時もまた右同様にすること。
  ・疑わしい船が見えたならば、早速蔵元へ報告し在番所へも報告、何れも(蔵元も在番所も)かけつけてきて、見きわめ、
   異国船であったら、在番の指図に従って、諸事を、きまり通りやること。


 楚那見(ソナミ)に遠見番所が設置される。久米島具志川間切には西銘と具志川に遠見番所が置かれた。
堂崎から渡名喜、渡名喜は座間味へ、座間味は渡嘉敷へ、渡嘉敷は前島へ。前島は小録へ、小録から首里王府へ。

 

 宇根ノロの祭祀。

 


▲真泊港後方の森にトナミ遠見番所跡あり    ▲遠目番所の火立跡

 
   ▲旧仲里村宇根公民館              ▲宇根にある登武那覇城跡


 下の拓本は仲里間切宇根村の喜久村家の掛床である。新城徳佑資料の拓本の一つである。1756年仲里間切で冊封船が座礁した時の功績で賜わったもの。「口上覚」に時の様子が記されている(『仲里村史 第3巻資料編』)。人物は喜久村絜聡(片目地頭代)。「扁額・聯等遺品調査報告書」(沖縄県文化財調査報告書 第44集:昭和57年)を見ると、「丙干夏月長全塊書於姑米行署」とあるようだ。「福」の上の陽刻は以下のように記されている。
          穆斎
          全魁
          之章



  (拓本は新城徳佑資料より)


平成22年5月1日(土)

【久米島踏査メモ】
 久米島の比嘉は以下の辞令書のことがあったためか、行きすぎては戻りを二、三度。『絵図郷村帳』に「中城間切ひか村」、『琉球国高究帳』では「中城間切比賀村」とある。『琉球国由来記』(1713年)では「久米仲里間切比嘉村」。比嘉村には「十三里御嶽」と「名幸御嶽」が記されている。

 比嘉村は山手から現在地(兼久地)に集落が移動しているようである。『沖縄久米島』(沖縄久米島調査委員会編)「移動村落とその集落形態」(275頁)で「比嘉はこの村が背後の丘陵の谷間に立地していた当時の村名であり、そこから下降して現在のように真謝と同じ型の兼久村落を形成したものである」とある。また、『球陽』の順治5年(1648)の条「久米島に謝武村始めて建つ。謝武村は、原、比嘉村より分る。夫地頭に比嘉と曰ふ者有り」を引いている。


   ▲久米島(仲里村)比嘉の公民館         ▲集落の後方の山手に比嘉集落があった?
 
【久米島仲里比嘉】
 久米島の比嘉(旧仲里村)と関わる辞令書が三通ある。その一枚が新城徳祐氏資料(写真)にある。まだ修復されていない状態である。二枚は「辞令書等古文書調査報告書」(昭和53年:沖縄県教育委員会)で報告されている。報告書を参照すると「昭和53年10月30日~11月1日久米島調査、三通確認」とあり、また「仲里村真謝 与座氏」とある。

 この三通の辞令書から辞令書をめぐっていくつか興味深い疑問にぶっつかる。まず、比嘉大屋子の三通の辞令書を所蔵されている与座氏が仲里村真謝在であること。もともと比嘉村に住んでいたが、真謝へ移り住んだのか、それとも真謝村で役職として比嘉大屋子を給わったのだろうか。

 三通の辞令書の補任関係をみると、康煕50年のは比嘉大屋子を比嘉尓也へ、康煕52年のは前比嘉親雲上へ、康煕56年の辞令書は比嘉祢也へ賜っている。一枚目と二枚目は同一人物なのか、別人なのか判断しかねる。二枚目と三枚目は位階が親雲上から祢也へ下ることはないので別人とみられる。同家に所蔵されているとすると、前者と親子、それとも兄弟?

 「久米島具志川間切諸地頭作得帳」(康煕30年:1691)に山里大屋子、仲村渠大屋子、上江洲大屋子、山城大屋子、浜川大屋子が登場するので、仲里間切でも村名を被せた大屋子がいて、比嘉大屋子はその役職についた一人であろう。

 以下の辞令書が発給される以前、「久米島仲里地頭代比嘉、比嘉川の水を引き、田水を補ひて旱災に防へ、真謝・宇根・比嘉。謝名堂の四村永く其の利を得」(尚貞30年:1690)がある。比嘉親雲上なる地頭代が登場している。その頃から首里王府から辞令を発給される人物のでる素地がある村だったのかもしれない。因みに『琉球国由来記』(1713年)での仲里間切の地頭代は宇根大屋子(後に宇江城親雲上となる)で、夫地頭の一人に比嘉大屋子がいる。辞令書に登場する比嘉大屋子は夫地頭の一人とみられる。

【久米仲里間切比嘉大屋子職補任辞令書】(康煕50年:1711年)
   首里之御詔
     久米仲里間切
     比嘉大屋子者比嘉   
     尓也給之
   康煕五十年辛卯六月三日

【久米仲里間切比嘉大屋子職補任辞令書】(康煕52年:1713年)
   首里之御詔
     久米仲里間切比嘉
     大屋子者前比嘉親雲上   
     給之
   康煕五十二年癸巳九月十三日
 
【久米仲里間切比嘉大屋子職補任辞令書】(康煕56年:1717年)
   首里之御詔
     久米仲里間切
     比嘉大屋子者
     比嘉尓給之
   康煕五十六年丁酉四月七日  

  
     ▲康煕50年(1711年)と康煕52年(1713年)「辞令書等古文書調査報告書」より

  
         ▲この二枚の辞令書は同一のもの(左は修復後、右は修復前)