歴史文化センターの調査記録
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調査記録(2010年6月)   山原のムラ・シマ講座へ
・調査記録(2010年7月)

2010年6月30日(水)

 奄美市の朝日小学校の99名の生徒がやってきました。奄美大島(名瀬)→徳之島→沖永良部島→与論島、そして沖縄本島(本部港)へ。そして那覇まで行ったのかな?奄美からやってきた生徒達に声をかけるようにしている。今帰仁グスクから与論島が見えましたか?」と。「見えました」との返事。「奄美から、何故沖縄に向って旅行するの?」の質問を投げかける。

 世界遺産の今帰仁グスクがあります。400年前まで奄美も琉球国のうちでした。一部の生徒達には、昨年奄美で首里王府から発給された勾玉やガラス玉、そして辞令書などの調査をしたことがありますよ。そこに展示されている勾玉やガラス玉は名瀬の博物館にも展示してありますよ」・・・

 最初はきょとんと顔をしていますが、何故沖縄へ修学旅行をするのか・・・・ それに気づいた生徒達は真剣に展示をみていきました。また、来てください!


 ▲奄美大島の隣の徳之島のカムイ焼きがあります!    ▲そのような勾玉は奄美にもありますよ!

2010年6月29日(火)

 大阪・奈良・三重・京都まで駆け足。一日、一、二ヶ所廻るのが精いっぱいである。大阪を拠点に動いてみた。一日一日宿を変えながらの旅と、移動日を無視した四日間の動きは体力的にきついと実感させられる。忘れる前にメモ書きしておきましょう。

 25日(金) 大阪(雨天)
  ・始発便(午前7時45分発:10時前には関西空港着)
  ・難波宮跡(10階から見る)
  ・大阪歴史博物館
  ・ビーズの鋳型
  ・銅の洗練技術
   
 26日(土) 奈良(大雨)
  ・平城宮跡(朱雀門・大極殿・平城京歴史舘・遣唐使船復元展示)
  ・平城宮跡資料館(ガラス小玉の鋳型・出土品など)
    (平城京は南北5km、東西6kmあるという。平城宮の入口が朱雀門である。復元されているのは
     宮のほんの一部である)
  ・平城京歴史舘(東アジア交流の歴史を紹介)

  ・橿原考古学研究所附属博物館(古墳時代出土品々)(常設展)
  ・玉づくり関連遺物(玉づくりの様子・鋳型・鍬型石など)(対外交流)
  ・唐草紋の世界(ミニ展示会)

 27日(日) 三重県(伊賀上野)
  ・伊賀上野城跡(伊賀文化産業城)
   伊賀上野城の石垣には圧倒される。また絵図や写真が多く遺されていて、また藤堂家の遺品が
   たくさん展示されていて、伊賀上野城と城下町の歴史をたどってみたくなる。

 28日(月) 京都(晴れ)
   二条城(京都駅から関西空港へ:最終便19時30分 21時35分着)
   二条城は若い時に、二、三来ているが記憶に残っていない。外掘り沿いに歩き東大手門から入城。
   二の丸御殿の内部を見て、東橋を渡り本丸御殿へ。天主閣跡にあがり、本丸御殿の外形(内部
   非公開)や内堀を画像にとりくむ。
   西橋から清流園へと廻り、収蔵舘へ。月曜日とあって「築城400年記念展示・収蔵館」は休館。
   二条城は興味深い歴史をもっているようであるが、そこまで目を通す余裕なし。
    チケットの裏に「元離宮二条城  二条城は、1603年(慶長8年)徳川初代将軍家康が、
   京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営し、三代将軍家光が、伏見城の遺構を
   移すなどして、1626年(寛永3年)に完成したものです。・・・」とある。


   ▲大阪歴史博物館から見た「難波宮跡」       ▲大阪歴史博物館からみた大阪城
       (天気が悪く、またガラス越しに撮影したのでボーとしています)

      ▲朱雀門(平城宮跡)                     ▲大極殿(平城宮跡)


    ▲橿原考古学研究所附属博物館      ▲畝傍山(標高約198m)麓右手に神武天皇陵あり


     ▲伊賀大野城の石垣と堀(三重県)                ▲伊賀大野城の天主閣


     ▲二条城の内堀と石垣(京都)             ▲二条城内堀の石垣(何積み?)

2010年6月24日(木)

   (25日〜28日まで休みま〜す)

 『諸志誌』(今帰仁村)の編集会議。「もくじ」(案)の再提示(確認のため)。諸志関係資料の一部紹介。編集会議の後、「諸志の青年団」の資料の提供あり。字誌に欠かせない貴重な資料である(27点:詳細は別の機会に)

【諸志の字誌】(もくじ 案)
口 絵(写真)
 字誌発刊のことば/字誌発刊によせて/字誌発刊を祝して/字誌発刊を祝う
 序 文
第一編 諸志の概況
  一、諸志の位置/二、諸志の自然環境/三、諸志の集落形態/四、諸志の人口の動き

第二編 諸志の行政
  一、字の行政組織/二、字の議決機関/三、字の歴代区長/四、字出身の村会議員/五、字の行政につくした方々
  六、各種委員長及び委員、理事など/七、字費の運用及び予算/八、班

第三編 諸志の歴史
   一、諸志の概要(歴史的)/二、諸喜田村の表記の変遷/三、志慶真村の表記の変遷/四、今帰仁間切の夫地頭と両村
   五、諸喜田(スクジャ)御殿/六、志慶真村の移動伝承/七、近世のノロ管轄と祭祀/八、『琉球国由来記』に見る祭祀
   九、諸志にある原石(パルイシ)/ 十、明治の村の人々/十一、二つの村の合併/十二、昭和十一、二年頃の諸志
   十三、諸志のムラヤー付近/十四、戦前・戦後をつなぐシマの人々/十五、戦後の諸志/ 十六、諸志関係資料

第四編 諸志の集落形態
  一、諸志の屋号/二、集落区分の呼称/三、アガリンバーリ/四、イリンバーリ/五、シリンバーリ
  六、ナファンバーリ/七、メーンバーリ/八、ダケランバーリ

第五編 諸志の地名
  一、字名(諸喜田・志慶真)/二、諸志の小字/三、諸志の小地名

第六編 諸志の農業
 イ、畑
  ・イモ/砂糖キビ/野菜/タバコ(乾燥場)/その他
 ロ、稲作
 ハ、現在の農業

第七編 家 畜
 イ、馬/ロ、牛/ハ、山羊/ニ、その他

第八編 諸志の年中祭祀
  ・二月ウマチー(二月十五日)
  ・ウカタビ(三月十三日)
  ・ウマチー(五月十五日)/ウガヌー
  ・ウカタビ(六月二十三日)
  ・ウンジャナシー(六月二五日)
  ・ウプユミ(七月後の亥の日)
  ・ウカタビ(八月吉日)
  ・トゥハヌウガン(八月十日)
  ・ウガヌー(九月十五日)
  ・ピーマチガナシーヌウガン(十月一日)
  ・プトゥチウガン(新十二月二四日)/ミチグイ

第九編 家庭や一門の行事
 ・一月の行事
 ・旧正月(元旦) 若水くみ 若松
 ・元旦の立ウガン 年頭の挨拶廻り
 ・三日初興し  トゥシビー  七日の祝い 十四日
 ・一月十六日(ミーサ)
 ・二月の行事
 ・三月の行事
   三月三日(浜下り)
 ・四月の行事
   清明祭(シーミー)と門中ウガン
 ・五月五日(ハーウガミ)
 ・六月の行事
    ヒチューマ
 ・七月の行事
    七夕/七月十三日〜十五日(ウンケー・ウークイ)
 ・八月の行事
   八月八日(トーカチ祝い・米寿の祝い) 八月九日(シバサシ)
   八月十一日(ヨーカビ) 八月十五日(十五夜・フギャギ餅)
 ・九月の行事
   九月九日(菊御酒) 九月のスーマーチー(墓参り)
 ・十月の行事
    十月一日 ピーマチ(火災予防)のウガン  立冬 タントゥイ
 ・新暦十二月の行事
     トゥバシリ(入口に御花・御合水・線香) 第十編 諸志の豊年祭
 ・豊年祭のプログラム

第十一編 諸志の移民と出稼ぎ

第十二編 戦争と生活
  ・沖縄戦への突入/疎開者/避難生活/収容所生活/帰郷/戦後の住宅事情/戦死者

第十三編 戦後の復興
   (公民館資料)

第十四編 人物
 ・諸志(諸喜田・志慶真)の先人

第十五編 教育
   ・村学校/明治の教育/・戦前の教育/・戦後の教育

第十六編 諸志の民話・伝承



       ▲諸志の字誌の編集会議          ▲「もくじ」の確認と資料の紹介(一部)

【諸志青年団資料】(目録:29点箱含む)
         ※諸志関係資料(平成22年6月22日受)
 ・【備品箱】(1947年年度之作)字諸志青年団
 ・今帰仁村諸志区青年団名簿
 ・沖縄島田井等地区今帰仁村(領収書・歌詞など)
  ・議事録(1947年度)諸志分団
 ・作業出欠簿(1947度)諸志分団
 ・会計簿(1947度)諸志青年団
 ・日誌(1947年度)諸志分団
 ・諸志青年文庫帳(1949年)諸志青年団
 ・会計簿(1949度)諸志青年団
 ・諸志青年団夜警巡回名簿(1950年4月以降)
 ・諸志青年団作業出席簿(1950年4月以降)
 ・会計簿(1950年度及1951年度)諸志青年団

 ・会計簿(1952度)(字諸志・・・)
 ・会計簿(1952年度)諸志青年団
 ・借用証書綴(1952年度)諸志青年会
 ・会計簿(1953年度)諸志青年団
 ・備品帳(1954年度)諸志青年団
 ・常会出欠簿(1954度)諸志青年団
 ・議事録(1954度)諸志青年団
 ・作業出席簿(1954度)

 ・作業出欠簿(1954年度)諸志青年団
 ・会計簿(1954年度以降)諸志青年団
 ・作業係台帳(1955年度)諸志青年団
 ・出席簿(1956年度)諸志青年団
 ・出席簿(1956年度)
 ・常会出席簿(1956度)諸志青年会
 ・図書貸出簿(1961 年9月以降)諸志公民館
 ・珠算帳(ノート)
 ・出納簿(表紙なし)

 戦後直後の諸志の青年達の活動やアザの動きが手に取るように見えてきます。戦後復興の立役者達です。改めて内容を紹介する予定。

 
    ▲「備品箱」に「議事録」や「備品帳」や「出席簿」など29点ほどがはいていました。

 
 ▲戦後すぐの青年団の動きが記されている           ▲「備品帳」や「出席簿」など

2010年6月22日(火)

 今帰仁小4年生の総合学習。50名余を一斉にやることに。今回は今帰仁村崎山と平敷の両字(アザ)を10名がやっつけることに。二つの字(アザ)のキワード(字にあるもの)を紹介していく。一人一テーマで発表。今日は二つの字(アザ)と10のテーマを50名余の仲間が友達の声を通して知ることに。次回の最初に、今日発表したメンバーが自分の感想を二、三行添えて発表することなります。

 生徒達にとって初めての授業だったので戸惑いも。一気に大人の世界へ引きこんでいきました。現場まで行きたがっていました。夏休みにグループで行くかも? 次回からは、大人顔負けの発表をしてくれると思います。(聞いたことを素直に書ければ)

 明日は6月23日沖縄では慰霊の日。戦争について、少し触れました。

 50名のみんさん、発表をしてくれた生徒、聞いてくれた生徒、次は君の出番ですよ(予習の必要なしです)。
                (生徒をサポートするのは、仲原・石野・菜美路の職員) 

 下に掲げた発祥地や井戸やカー、神ハサギなどを取り上げながら、ムラ・シマの個性をみつけ出していきます。そして発表する人の顔を見ると、何を話してくれるか浮かんできます。次が楽しみです。
  みんさん、頑張ってくれました。いい発表をしてくれました。

【今帰仁村崎山】
  ・崎山の発祥地   ・崎山の水源(すいげん)   ・崎山の神ハサギ
  ・神ハサギの周辺  ・公民舘と共同売店と集荷場 ・崎山の慰霊塔 ・崎山のウサバンタ

【今帰仁村平敷】
  ・平敷の様子  ・平敷の公民館  ・石を使った建物や石垣  ・平敷のガジマルと国道
  ・拝所の内部(火神・位牌・香炉・図像など)  ・平敷のウガンジュ ・ウガンジュの内部
  ・平敷にある印部石  ・平主大主の墓など


       ▲平敷グループの発表です。     ▲次は自分の番かな?しっかり聞いておかないと。


                                  ▲崎山グループも発表してくれましたよ。

2010年6月19日(土)

 沖縄県は梅雨があけました。今帰仁グスクとクボウヌウタキの上空に夏の雲が。青空と入道雲を見ると、外の調査がしたくなります。

 
   ▲梅雨あけの今帰仁グスクの上空                 ▲クボウヌウタきの上空

 間切のノロの遺品を見て来たが、ノロの引継で継承されてきたものなのか。献上したもの賜物なのか、そのことの確認は、記録されている今帰仁阿応理屋恵と伊平屋あんがなしなどの引継での進上物、あるいは賜物(拝領物)について整理することが先決。儀式の様子もうかがえる。

【久米のきみはえ】(三十君のひとり)(『女官御双紙』)
 ・前之より有来る物左に記す
  ・玉玻ら一連
    かわらの長さ三寸四分 廻り三寸三分 水晶玉数六十二星廻り二寸二分
    水晶玉数三十六星は廻り一寸六分
  ・金のかんざし一個
    三代先の君南風までは此金かんざしをもって公界し給うなり。このきめはゑ存命中に盗に
    あひ給う。行末しれず也。

 ・御賞賜左記
   ・ひらしや原名寄帳の内
   ・下田二畝  同米二斗
   ・千代の真頸玉一領  玉数六十□十七星内
      黄玉八百二十九星  青玉二千六百四十九星 赤玉七百九十一星
      白玉七百七十一星  深藍玉百八星  薄黄玉十八星 紺玉二百三十星
      志ら藍玉五百五十三星  香色玉七十八星



2010年6月18日(金)

 沖縄県博物館協会の研修会(読谷村で)に参加(仲原・長田係長・石野・菜美路)。


2010年6月16日(水)

 ノロの引き継ぎについての質問が多々あり。継承、あるいはノロ地(土地)、管轄など様々である。ノロの引継の基本は以下の通りであるが、様々な場面が生じてくる。その場で判断を下しているが、トラブルがある。それは土地整理の時の、ノロ地の処分、明治12年の廃藩置県によるノロ制度の改変など・・・が引き起こす引継問題。

【今帰仁あおりやえと伊平屋ののろの代合】
 ・阿応理屋恵按司は国王の姉妹、あるいは王族の出身の関係から女官神職就任の際国王の
  拝謁が許される。
 ・一般のノロは国王の拝謁はない。
 ・阿応理屋恵按司は王城(首里城)に参上し、国王に就任の挨拶をする。
 ・国王から御酒を賜る。
 ・御印判(辞令書)は勢頭親雲上が首里殿内へに持参。首里大あむしられから授かる。
 ・(王府退出後、聞得大君御殿へ参上して聞得大君へ就任の挨拶をする。
 ・今帰仁あおりやえより、みはな、御玉貫一対を
 ・伊平屋ののろ二たかやの代合の時、手続きをすませ首里殿内火神の前へ。みはな、御五水を持参。
 ・玉がはらをはき立(勾玉を首からかけ)てて
 ・(曲玉は女官制度設置の当初に初代女官に授けたものを代々継承。前任者から直接受け取った)
 ・役地のノロクモイ地の譲渡、引き継がれる。

 ・明治17年度の石高換算額を基準にして明治末には国債証券を支給し、旧禄制を改革した。
   今帰仁阿応理屋恵按司
       米一石二斗八升
       麦一石二斗四升
    下大豆三石八斗八升       (換算額 13円6銭4分)
 ・明治36年の沖縄県土地整理によるノロクモイ地の処分
    阿応理屋恵按司の有する阿応理屋恵地は「ノロ」地同様処分す(今帰仁間切)

  ※ノロクモイ地処分について、ノロ地同様の処分をしたのであるが、そこには様々な問題が
    生じている。(具体例は「ノロ制度の終焉」でまとめることに)

【大アムシラレの代合】(真壁あむしられ)

 ・御玉貫一器を献上する。
 ・煙草一結完紙包で大勢頭部三人、大庫理アムシラレ三人、作事のアムシラレ三人へ配る。
 ・ (     )
 ・国王の御出座を御待ちして拝謁にあずかる。
 ・その時、御印判(辞令書)勾玉とを拝領し、御印判(辞令書)を頭にさして立礼四つする。
 ・進上した御酒は王妃によって国王に献上する。
 ・明治17年度の石高換算額を基準にして明治末には国債証券を支給し、旧禄制を改革した。

    ・真壁アムシラレ
       米二石五斗   (換算額 13円55銭)
    ・久米島君南風大アムシラレ 
       米二石八斗三升一合 (換算額 22円20銭4分) 

    (まだまだ続くなり)

【一般ノロの代合】
 ・ノロの交代には王府から辞令が交付され、役俸としてノロクモイ地の役地が与えられる。
 ・ノロクモイ地は地割の対称外。

 ・明治政府はノロクモイ地は金禄で支給。
 ・明治17年度の石高換算額を基準にして明治末には国債証券を支給し、旧禄制を改革した。
   ・今帰仁ノロクモイ  (換算額 10円64銭0分)
   ・共の加子イ     (換算額  6円59銭5分)
   ・仲尾次ノロクモイ  (換算額  3円44銭1分)
   ・岸本ノロクモイ    (換算額   4円30銭1分)
   ・玉城ノロクモイ    (換算額  3円96銭0分)
   ・湧川ノロクモイ    (換算額  2円69銭7分)
   ・天底ノロクモイ    (換算額 14円33銭6分)
   ・勢理客ノロクモイ  (換算額 16円054銭6分)
   ・古宇利ノロクモイ  (換算額 10円32銭3分)
 ・明治43年の「諸禄処分法」による額面(明治17年役俸を基準)
        (※恩納間切のノロは廃藩置県の頃に処分されていたため、ここでは除外されている)
  ノロに交付した国債証券は拝所の維持元資金として、消費することは許されず、それを基金として
  ゆくゆくは日本と同様な神社に引き直したい旨の達しがだされている。
     (そこらあたりの詳細は『琉球宗教史の研究』(鳥越憲三郎著)に掲げられているので参照)

女神官名 証 券   現 金   計
 阿応理屋恵按司 250円  11円280  261円28銭0分
 今帰仁ノロクモイ  200円  12円800  212円80銭0分
 供ノ加子イ  100円  31円900  131円90銭0分
 仲尾次ノロクモイ   50円  18円820  68円82銭0分
 玉城ノ加子イ   50円  29円200  79円20銭0分
 岸本ノロコモイ   50円  36円020  86円02銭0分
 湧川ノ加子イ   50円  3円940  53円94銭0分
 天底ノロコモイ  250円  36円720  286円72銭0分
 勢理客ノロクモイ  300円  21円120  321円12銭0分
 古宇利ノ加子イ  200円  6円440  206円44銭0分
              (今帰仁間切のみ)

【ノロの代合】(ノロの引継)(『女官御双紙』(中巻)
 一、今帰仁あふるやい代合の時、言上は御自分より御済めしよわちへ、
    御拝日撰は三日前に今帰仁あふりやいより御様子有之候得共、
    首里大あむしられより大勢頭部御取次にて、
    みほみのけ申、御拝の日は首里大あむしられ□御案内、
    赤田御門よりよしろて、按司下庫理に控居、
    大勢頭部御取次にてみおみのけ申、今帰仁あふりやいよりみはな一ツ
御玉貫一対
    作事あむしられ御取次にておしあげ申、按司御座敷御呼めしよわれば、
    よしろち美□拝申、
  天かなし美御前おすゑんみきちやにおがまれめしよわれば、
    御
持参の御玉貫、真壁按司かなしよりおしあげめしよわる
    相済、御飾の御酒より今帰仁あふりやいあに 美御酌御?御規式相済按司御座敷にて
    首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申相済みはい御暇乞
    大勢頭部御取次にてみおみのけておれ申
 一、同時
御印判せど親雲上より、首里殿内へ持来らる
    首里大あむしられより今帰仁あふりやいへ上申
 一、伊平屋島ののろ二かや田代合の時も、言上相済、首里殿内火神御前へ、
   みはな一つ、御五水一対持参にて、
玉かわら、はき立、御拝四つからめき申、
   尤御拝日撰前以引合有之候事
 一、
?間切のろくもい代合の時も右同断 

向氏与那嶺按司朝隣室の事例(康煕40年2月19日)(1701年)
 その時の今帰仁あおりやえは首里居住である。
 ・康煕40年8月朔日 首里の大あむしられに取り次ぐ日を撰ぶ言上
 ・8月3日御拝するようにと御返詞
 ・同3日御朱印首里の大あむしられより掟のあむから頂戴
 ・同4日巳の時前に首里大あむしられを列て御城(首里)上り
 ・すゑんみきふちやにて
 ・首里天嘉那志美御前へみはい御酒進上
 ・次に美御酌を御腸る
 ・次に同職真壁按司かなしへ御酒を献上 
 ・次に御菓子御茶を腸る
 ・按司御座敷へ
 ・首里の大あむしられを伴って御料理御菓子御茶を腸る
 ・御服を給て退城

 (進上物) 
  ・天嘉那志美御前へ   御花一  御玉貫一対  同御茶之子一籠飯
  ・
金釵一個  玉珈玻ら一連 玉草履一足 (前々より有気)

【那覇の大あむの辞令書】(1582年:同月日2枚)
   しよりの御ミ事
   もとの大あむかめい
   なはの大あむハ 
     もとの大あむかめい
 一人おとまそもいに
  たまわり申(候)
   しよりよりおとまそもいの方へまいる
 萬暦十年八月二日 


  しよりの御ミ事
   まわしまきりの
   うちま人ちもとハ
   あまもいのち
  一かりやたに二まし 
   ミやきとはる 
  又五十ぬきちはたけ 一おほそ
   あめくはる 
  このふんのおやミかない 又のろさとぬしおきてかないとも(ニ)
   御ゆるしめされし(候)
    もとの大あむのめい
  一人 おとますもいに
   たまわり申(候)
  しよりよりおとますもいの方へまいる 
  萬暦十年八月二日


 上の辞令書は「御褒美として地所焉然といへとも御朱印失却して年月日不相知二代の代あむより五代の大あむまでは御朱印御賜也。為証跡二代の大あむ御朱印左に記す」とある。

2010年6月15日(火)

 本部町伊豆味、今帰仁村呉我山、そして今帰仁村の崎山、平敷、謝名を踏査。村内の村々は来週から始まる小学校の総合学習のプログラムづくりのためである。どの字を廻っても面白い。

 本部町伊豆味のジングスクに足を運んだのは別の理由があってのことである。本部町伊豆味と今帰仁村呉我山あたりは今帰仁間切と本部間切、今帰仁間切と羽地間切との「方切」(間切境界の変更)、さらに1719年の天底村の村移動(本部間切から今帰仁間切へ)、1736年に呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村の村移動(羽地間切から羽地間切内へ)がなされ、それらの村が移動するとその一部に湧川村を新設し、呉我村〜我部村のあった場所は羽地間切から今帰仁間切に組み込まれた(方切)。そこらの変遷は数枚の図で説明が必要である。そのような歴史的な変遷を踏まえて、ウタキやグスクやノロ管轄、新設村、移動村などを見るべきである。

 本部町伊豆味にあるジングスクに視点をあててみる。1719年に本部間切にあった天底村が今帰仁間切地内に移動。天底村は伊豆味村と近接してあったと見られる。『琉球国由来記』(1712年)で「中森」は伊豆味村と天底村の二カ村の森(ウタキ)とある。天底村が伊豆味のどのあたりにあったかの資料は確認していないが、小字内原あたりだと言われている。移転前の天底村があった場所は、伊豆味の内原から呉我山(1736年まで呉我村があった場所)にかけてと見られる(元禄国絵図(1688〜1703年)でも。すると、ジングスクは天底村地内にあったことになる。ジングスクは伊豆味村ではなく天底村のグスク(あるいはウタキ)であるとの前提で議論がなされるべきである。「天底」の語義についてもである。
 
   ・1666年以前の天底村は今帰仁間切の村一つ。(本部間切域も今帰仁間切の内)
   ・1666年に今帰仁間切を分割し伊野波(本部)間切が創設されると天底村は本部間切
   ・1670年池城墓の碑(今帰仁村平敷)に「こかのおきて」(呉我掟)とあり、その時の「こか」
          (呉我)は今の呉我山にあり、今帰仁間切域である。 
   ・1690年頃羽地間切と今帰仁間切との間で「方切」がなされ、呉我村・振慶名村・我部村・
        松田村・桃原村が今帰仁間切から羽地間切へ(この時期に村移動はない)。
   ・1712年『琉球国由来記』では本部間切天底村、森(ウタキ)は伊豆味村と一つ。
   ・1718年 享保三年戊戌年天底村今帰仁間切へ村越被仰突候」
   ・1719年『球陽』で天底村は今帰仁間切へ移動(村移動)、嘉津宇村は具志堅村へ移動。
   ・1736年 呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村が羽地間切内部、屋我島へ村移動。
        (その時、羽地間切と今帰仁間切との間で「方切」がなされ、移動した村の跡地は
        今帰仁間切となる)
   ・1738年に移動した村跡地に湧川村を新設した。 
   ・1743年頃今帰仁間切は元文検地が行われている。天底で「ノ し□□原」(しつや原か)の
        印部石(ハル石)が確認されているが、現在地に移動した後のものである。
   ・明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」の伊豆味村に伊豆味ノ神アシャギと大島ノ
       神アシャギと二軒の神アサギがある。何を意味しているのか。(天底ノロは戦後間
       もない頃まで、伊豆味での祭祀に参加している。天底ノロの管轄は天底・伊豆味
       ・嘉津宇の三ヶ所村である。天底ノロの祭祀場の神アシアゲlを故地に遺している?)
   ・1903年(明治36)の「国頭郡今帰仁間切天底村全図」では我呉村の故地であった古拝原と
        古呉我原と三謝原は天底村に組み込まれている。
   ・1920年(大正9)に呉我山が分字した時、天底の小字であった三謝原と古拝原と古呉我原
        は呉我山の小字となる。


 ※ジングスクの上部はテラスになっているが、緑化木が植えられたようである。頂上部に登る
   途中にウガンをした痕跡が見られる。そこはグスク(ウタキ)のイビか。頂上部に僅かながら
   細長く人口的な石積みがみられる。ジングスクは伊豆味の内原と呉我山(今帰仁村)との間
   に位置する。ジングスクの下を大井川が流れている。かつての桃原農園がジングスクの上部
   あたりまで緑化木を植えた跡がある。

   (「移動した村(天底)」を見て行く時、移動前の天底も念頭にいれてみるべし。移動先で何を行い、また設置する
    必要があったのは何か?)


    ▲ジングスクの崖下にある墓           ▲ジングスクの頂上部への途中にあるイベ?


     ▲ジングスクの全景           ▲天底村があったという伊豆味の内原一帯(現在)

2010年6月12日(土)

 晴れました。曇り空。「山原のムラ・シマ講座」はフィールドワークです!昨日の雨はどこへやら。天気に恵まれました。

 午前9時歴史文化センターに集まった参加者にプロジェクターで訪れる場所のガイダンス。グスクの内部に様々な施設をみることができることに気づいてくれたら。島袋課長がバスの運転をしてくれたので、普段とは違い途中途中の歴史的なことの説明も(バスの運転ありがとうございました)。以下の場所をキーワードにして説明をする。

 帰りのバスの中で自己紹介と報告会。午後一時半に歴史文化センターへ戻る。お疲れ様でした(画像撮影は菜美路)

  @屋嘉比川の河口(そこから根謝銘(ウイ)グスクと田嘉里の集落をみる)
  A田嘉里のガンヤー
  B美里・親田・屋嘉比の村墓
  C旧道(宿道?)を通り城集落へ
  D城の集落(案内板)
  E城ノロドゥンチ(火神・位牌・御通しの香炉)
  F屋嘉比川(港)と浜集落、伊是名・伊平屋島が望める
  Gウドゥンニーズとトゥンチニーズの跡地と祠(今帰仁のクボウヌウタキが見える)
  Hグスクへの道筋(中庭・ビジュル・馬浴川など)
  Iグスク内の神アサギ
  J大城嶽(イベか)(田嘉里のウタキのイベ)
  K中城嶽(イベか)(謝名城・喜如嘉・大宜味のウタキのイベ)
  L地頭火神の祠
  Mウイグスクガー
  Nグスクの最高部
  O堀切
  Pウドゥンガーなど


     ▲城ヌルドゥンチで              ▲ウドゥン・トゥンチニーズの祠からグスクへ


     ▲グスク内にある神アサギ        ▲ウドゥン・トゥンチニーズから今帰仁が見える!

2010年6月11日(金)

 明日は今年度第一回目の「山原のムラ・シマ講座」、小雨の時は決行しますが、大雨だと舘内でプロジェクターを使ってやる予定。「根謝銘(ウイ)グスクと周辺の村」がテーマ。その準備は頭の中ではOKなり。しかし、コピー機のトラブルでレジュメの印刷できません。フィールドだと、どうしましょうかね。資料なしで・・・。ハハハ


2010年6月10日(木)

【大宜味村田嘉里のムラとウイグスク】
 大宜味村田嘉里は1673年以前国頭間切の村である。田嘉里の人々は根謝銘グスクのことをウチグスクと呼んでいる。集落後方にあるウイグスクの斜面は段々畑で、畑の畦道を通ってウイスクまで登っていたとのこと。またウイグスクから麓の集落が見通すことができ、ウイグスクへあがる道筋がいくつかあり、学校への近道だったという。

 1673年に国頭間切を二分し大宜味間切を創設した。その時、親田村・屋嘉比村・見里村は国頭間切にはいる。その後1695年に「方切」があり屋嘉比村と見里村は国頭間切へ移管され、『琉球国由来記』(1713年)では国頭間切内の村である。1719年に三ヶ村は国頭間切から大宜味間切へ再び移される。つまり間切境界の変更(方切)がなされている。田嘉里のかてつての三つの村はウイ(根謝銘)に祭祀場(大城嶽)がある。一つのウタキに二つのイベがあるタイプである。

  ・1673年以前の国頭間切は大宜味間切の大半をしめる。
  ・1673年に国頭間切は国頭間切と田港(大宜味)間切とに分割される。
       その時、屋嘉比村・見里村・(親田村)は大宜味間切
  ・1695年に「方切」があり、屋嘉比村・見里村・親田村jは国頭間切へ組み込まれる。
  ・1712年 『琉球国由来記』に、
         国頭間切
           親田村(ガナノハナ嶽:神名:シチャラノワカツカサ) 
           屋嘉比村(トドロキノ嶽 神名:イベナノツカサ)
           見里村(中城之嶽 神名:大ツカサ)
             (屋嘉比巫は浜・親田・屋嘉比・見里の四ヶ村の祭祀を管轄する)
       大宜味間切
           城 村(小城嶽 神名:大ツカサナヌシ)
           城巫火神(城・喜如嘉・大宜味・饒波の四ヶ村百姓参加)(按司・惣地頭・喜如地頭・南風掟・西掟・喜如嘉掟が
           参加)
               (城巫は城・根謝銘・喜如嘉・大宜味の祭祀を管轄) 
           根謝銘村(ガナハナ嶽 神名:シチャラノワカツカサ御イベ
  ・1719年に再び「方切」があり、屋嘉比村と見里村・親田村は大宜味間切へ
  ・明治17年?『沖縄島諸祭神祝類別表』の「屋嘉比村」には、以下のことが記されている。
           本ノロ1人、若ノロ1人
           ・同神拝所  ・上福地嶽  ・屋嘉比村神アシアゲ  ・見里村神アシアゲ
  ・明治36年に親田村と屋嘉比村と見里村が統合され「田嘉里」となる(屋嘉比巫管轄)。
        反対側の根謝銘村と城村と一名代村が合併し、謝名城村となる(城巫管轄)。
        ウンガミの時、城ノロはウイグスク内の中城嶽(イビ?)を拝む。グスク内の神アサギで
        祭祀が行われる。
        屋嘉比ノロはウイグスク内の大城嶽(イビ?)を拝む。グスク内の大城嶽のウガンが
        終わると屋嘉比の神アサギへ移動し、そこで祭祀が行われる。 
 

   ▲田嘉里(親田)にある拝所(神人を出す家)          ▲神屋の側のカー


      ▲屋嘉比ノロドゥンチ               ▲ノロドゥンチの内部


    ▲ノロドゥンチからウイグスクを見る           ▲屋嘉比の神アサギ

【徳之島の亀徳・伊仙・馬根の小学校】

 9日徳之島の亀徳小学校(20名)と伊仙小と馬根小学校(計27名)の皆さんが来舘。沖縄のグスクと日本の中世以降の城との違い。そしてグスクから出土する徳之島産のカムイ焼きについて。徳之島も琉球国の歴史・文化の時代があったこと。「カムイ焼きは時代を見て行く物差しになっているのですよ」。城をグスクと呼んでいるのは徳之島と同じ。

 ノロについての質問があり、「徳之島の手々に手々のろの辞令書(1600年)がありました。首里王府から出されたものです。ですからあの頃の徳之島は琉球国の内・・・」。そのような話になると生徒達の目が輝きます。真剣に沖縄の歴史を学んでいきました。
 

     ▲グスクってそんなものなんだ!          ▲今帰仁グスク出土遺物に目がむく!

2010年6月9日(水)

 本部町伊野波の城間家までゆく。13日(日)北谷真牛のことで城間家を訪ねる(本部〜今帰仁まわり)ための下見である。伊野波から満名上殿内までいく。(調査には文化財の山城、新垣、歴史文化センター石野、菜美路が加わる)

 城間家は教わっていた家とは全く別の家であった。最初尋ねた方に丁寧に教えていただいた。城間家は店をしていて、女主人(城間初子さん)は店を見ながら多忙のところ対応してくださった。「赤壁之賦」のお碗を拝見。箱に「秘伝 北谷真牛愛用之御碗」(赤壁之賦)とある。

 その青花(染付)の碗がいつ頃焼かれたのか、時代などについては専門の方にまかせて、「北谷真牛」とそのお碗がどう関わるのか。『鎌倉芳太郎資料集』(ノート編T)(沖縄県立芸術大学附属図書館・芸術資料館所蔵)に海神祭について、今帰仁村グスクでの例が、以下のように記してある(同書596頁)。昭和初期のその記録と『琉球国由来記』(1713年)の海神祭(大折目)、昭和30年代、そして近年の今帰仁グスクでの海神祭と比較できる記録である。そのことは別で報告するとして、「花の真牛」とある。「花の真牛」は「今帰仁グスクで行われる神役の一人である。

 北谷真牛と今帰仁グスクでの神役の一人である「花の真牛」とは同一の人物だろうか。北谷真牛は琉球における三大女流歌人の一人とされる。恩納ナビ・吉屋チルー(1650〜1668年)、恩納ナビー(生没不詳)、北谷真牛も北山の滅亡との話や北谷出身であるとの伝承があるが定かではない。北山との関わりが伝わっているのを見ると「花の真牛」は「北谷真牛」と同一人物と見ている節がある。琉歌の三大女流歌人とされるところからすると17世紀以降の人物であろう。

 北谷真牛がうたを歌うと、飛んでいる鳥でも止まって聞き惚れるほどの唄声であったという。

  北谷真牛ぎやねが 歌声打ち出(ジャ)せば  中べとぶ鳥も よどで聞ちゅさ(国頭郡志)

  北谷真牛じゃにが  茶谷真牛が
  歌声打ちじゃしば   歌声を出すと
  なかぶい飛ぶ鳥ん  空を飛んでいる鳥も
  ゆどぅでぃ聞ちゅさ  止って聞き惚れる

   (この歌が歌われるときは、妖怪が出現すと固くいましめられたともいう)

 碗にある「永楽年製」(1403〜24年)とあるが、その頃の人物とはいいがたい。碗に「永楽年製」とあるので北山滅亡(1416年)の頃の人物と結びつけたのかもしれない。

 島袋源一郎は『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で、花の真牛について興味深いことを述べている。
 「真牛も乙樽と同じく其年代を詳にせずと雖も、王妃となりし才媛なりきという。城内祭礼には今も猶ほ花の真牛とて綯爛なる七つの重ねの礼装をなして式典に臨む一の神職あり。乙樽と共に今帰仁ノロクモイに伴従す。其の祭典に用いし馬具一式は古筐に納めて字今泊比嘉某の家に保存せり。右の神職は即ち其の一族同姓中より出づ、之の以て考ふるに真牛も亦当時の神職の一人なりしならん」

   神職行列の順序はサキモリ(先守)、ノロ、供ノカネイノロ、クロモリ、ヨリモリの五人相続き其後に神女
    数人を従へ(其の中に志慶真乙樽及
花の真牛の身代りあり)白衣の装束に白八巻をしめ大弓を持ち馬
    に乗りて(今は馬を牽くのみ今帰仁城内に登り本丸の祭場に於て唐船の模型を擁し七廻りりしたる後天
    神地祗を祀る。而して城の西方海神道ち称ふる間道より一同海岸に下り海水にて口を嗽ぎ、海神を拝し、
    更に神アシアゲに至りて漁りの真似をなす。此の祭りには男及び懐妊者を伴ふべからずといふ。


 碗に、以下のように記されている。「赤壁之賦」よく知られた話のようである。歌の上手な北谷真牛の伝承をもつ家が、「赤壁之賦」の漢詩を書いた碗を伝承しているのは、碗を手にした人物がよっぽど歌に精通していたと見られる。、
    赤壁之賦 
   壬戌之秋七
   月既望蘇子
   與客泛舟遊
   於赤壁之下
   清風徐来水
   波不興挙酒
   蜀客誦明月
   之詩歌窈窕
   之章□焉月(□は少か)

   「壬戌の秋、七月既望、蘇子客と舟を泛べて、赤壁の下に遊ぶ。
   清風徐に来りて、水波興らず。酒を挙げて客に蜀して、明月の詩を誦し、
   窈窕の章を歌う。少焉して月・・・・」


 
その後ろに以下のように続くようである。(碗の文字はどうにか判読できたが、意訳は借りものです・・・)

   東山の上に出でて、斗牛の間に徘徊す。白露江に横はり、水光天に接す。
   一葦の如く所を縦にし、萬頃の茫然たるを凌ぐ。浩浩乎として虚に馮り風に
   御して、其の止まる所を知らず、飄飄乎として世を遺れ独立し、羽化して登仙   
   るが如し。是に於て酒を飲みて楽しむこと甚。舷を扣いて之を歌う。







2010年6月8日(火)

 大宜味村の田嘉里と謝名城、喜如嘉、そして白浜(渡野喜屋)、饒波などをゆく。大宜味村田嘉里は明治36年に親田村と屋嘉比村、そして見里村が合併して田嘉里村となる。屋嘉比川の下流域の左岸に龕屋(ガンヤー)がある。龕屋の庇に「昭和拾八年八月落成」とある。この龕屋をつくった時の予算、田嘉里と浜との協議事項などが記されている。「2005年1月19日の歴史文化センターの動き」でも取りあげたが、「村墓」を理解するに欠かせない場面がみられるので紹介する。

 龕屋付近に親田・見里・屋嘉比の三ヶ村の村墓(ムラバカ)が今でもある。もちろん、周辺には門中墓、あるいは個人墓などが見られる。風葬と村墓、風葬の仕方に人骨を納める墓ができる以前の様子が伺える。今帰仁村に村墓があるのは古宇利島のみである。「・・・ガンサ」という墓地域がある。そのガンサは合葬を指しているのではないか。ガンサが人骨を納める墓ができる以前の風葬、村の合葬地帯であったのではないか。

 村墓をここで出しているのは、『琉球共産村落之研究』(田村浩著:昭和2年発行)の国頭村における共有墓地の写真を見ているからである。「国頭郡国頭村ニアル共有墓地ナリ。前方ハ筵ニテ蓋ヒ中ニ洗骨セル甕アリ、原始的風葬ノ遺制ナリ。後方ニアルハ近代的ナル洞窟墓ノ変型ヲ示ス」とある。写真を見ると、墓の前に筵で遺体を包んでいくつも置いてある。古琉球の一般的な葬り方(風葬)ではなかったのか。1609年薩摩の琉球侵攻以後、奄美諸島で土葬にさせられたのは、琉球の風葬には薩摩役人は耐えられなかったのではないか。古琉球のムラ・シマと風葬は切り離せないテーマにちがいない(古琉球の墓を近世の墓の様式で考えていやしないか?。玉陵や浦添ようどれはトップクラスの方々の墓)
   



      ▲屋嘉比の村墓              ▲見里の村墓            ▲親田の村墓



【龕史料】(国頭村字浜共同店沿革史より)
   昭和18年1月17日、龕修理ノ件ヲ協議シタルニ新建設ニシテ分離スルコトニ決シ、直ニ
  田嘉里部落ニ折渉シタルニ、現在ノ龕ニ大修理ヲカケ、尚ホ別ニ龕1個ヲ新造シ、両字ニ
  於テ確実値段ヲ定メ抽籤ニヨリ龕ヲ受取リテ分離スルコトトナレリ。

  同4月15日、金壱千百円也ニテ新旧龕ノ新修築ヲ名護町親泊完修氏ヘ請負契ヲナセリ。
  同7月30日、新旧・分離申合ノ為メ、字田嘉里字浜ノ2ケ字幹部会ヲ開催シ、左ノ通リ議決確
          定セリ。
   1.龕工親泊氏ヘ金五拾円也賞与ノコト
   2.新旧龕ノ評価決定
     金七百円也 但シ新龕価格
     金四百円也 但シ旧龕価格
    右ノ価格ニテ両字抽籤ノ結果、新龕ハ字田嘉里、旧龕ハ字浜ニ当リ、各分離スルコトト
     ナレリ。
  同8月1日
   1.新旧龕ノ新修築終了御願並ニ旧龕ノ33年期一切ノ御願ヲ終了シ、後龕ノ分離御願ヲ
     行ヘリ
     分離行列、御願終了後直ニ上原区長、仲原会計ヲ前棒、金城兼徳氏ヲ後棒、旗持ハ
     大嶺、宮城両村会議字有志等ニテ田嘉里旧龕屋ヨリ途中行列賑々シク浜ノ新龕屋ニ
     安置セリ。
   2.龕評価及龕屋新築費御願費其他一切経費報告(一切経費金七百拾六円壱銭也、共同店
     支出) 

    左ニ将来ノ参考ニ御願奉供物次第ヲ記ス。
       着手御願        中御願       落成御願

     扇  2本          同 上      豚頭皮共1頭分
      筆墨各2本           〃       足骨4ツ
      白紙20枚            〃       内臓各部ヨリ
      酒  3合            〃       エビ14
      線香j燐寸           〃       カミ14
      米ウンパナ9合        〃       白米1升
      豆腐5合            〃       扇子1本
      昆布種油            〃       筆墨2宛
      白モチ1組            〃       白紙20枚
      洗モチ1組            〃       肴ハチ2ツ
      醤油肉1斤           〃       丸魚2ツ(両方)
      ウチャヌク14(一方7ツ宛    〃       スクカラス14
      卵2個              〃       鶏2羽、卵2個其ママ酒2升
  龕ノ修理御願33年期御願一切終了済、龕屋ノ年期御願ハ未了ナリ。



2010年6月6日(日)

 雨です! 天底のタキヌウガンはやるのかな? きっとやるでしょう。神行事なので?!

 午後3時から天底の神アサギに村の方々が集まりタキヌウガンを行う。99歳で神行事を行う新城栄一さん。杖もつかず、また祈りも神行事の日もきちっととり、ウガンのときひざまずき、しっかりと行っている。新城栄一氏の父である故新城金吉氏の神行事を見させていただいたことがある(平成元年のサーザーウェー写真)。親子の男神人の神行事の記録をとらせてもらうとは有り難いものである(感謝)。本日の行事の全体報告は「天底のタキヌウガン」として玉城菜美路が報告する(火曜日に)

 
     ▲神人をつとめる新城栄一さん              ▲神アサギでの御願(ウガン)


  ▲ニガミヤーでのウガン(ムラの人達)         ▲天底のウタキ(クシヌウタキ)でのウガン


【今帰仁村天底】

 天底を見て行く場合、どうしても天底の歴史を踏まえておく必要がある。それを踏まえないでいると、議論がひっくり返る場合がある。「天底」の村名もそうである。移動当初は今の天底の外田原(神アサギ・ウタキ・ネガミヤー・天底ノロドンチがある)あたりに集落が形成され、次第に天底校付近へ集落が移動している。
 
 天底に元文検地(1743年頃)の印部石が一基確認されている。「ノ □□や原」(しつや原か)である。天底村の移動は1719年なので、元文検地が行われたのは村が移動してきた後である。「しつた原」は今の小字にはない。現在の天底は、中福原・山岳原・城石原・後原・安谷原・新久保原・外田原・毛川原・和呂目原・墾謝堂原・地呉骨原の11の小字からなる。

  ・1646年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『絵図郷村帳』)
  ・1648年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『琉球国高究帳』)
  ・1666年 今帰仁間切を分割して今帰仁間切と伊野波(本部)間切となる。
         (
天底村は本部間切にはいる)
  ・1668年 「今帰仁間切 あめそこ村」(『琉球国郷村帳』)
  ・1690年頃 今帰仁間切と羽地間切との間で「方切」がなされ、呉我村は羽地間切に組み込まれる。(呉我山地まで羽地間切)
  ・1701年 「元禄国絵図」に「今帰仁間切之内 あめそこ村」とあり、
本部半島の中央部に描かれている(天底村の位置)。
  ・1712年 『琉球国由来記』では「今帰仁間切天底村」である。(
村の位置は伊豆味付近)
        (天底村故地での祭祀)
        ・伊豆味・天底二ヶ村に「中森 神名:カネマツノ御イベ」とある。
        ・天底村 神アシアゲ  ・天底巫火神
   (天底村・伊豆味村・嘉津宇村は天底ノロの祭祀管轄。伊豆味と天底二カ村の御嶽の中森は今の伊豆味のウタキか)
  ・1719年 
天底村が伊豆味付近から現在地に移動する。
  ・1736年 1719年まで天底村と隣接していた呉我村(羽地間切)が1736年に羽地間切(現名護市)に移転する。
        羽地間切へ呉我山から湧川地内にあった呉我・振慶名・我部・松田・桃原の村を羽地間切内部に
        移動させ、その地を今帰仁間切に組み入れる。それらの村を移動させると、そこに湧川村を新設する。
  ・明治13年 天底村の世帯数73戸、336人。内士族49戸、332人。今帰仁村では士族の比率の高い村。 

  ・明治17年? 「沖縄島諸祭神祝女類別表」
           ・ノロクモイ火ノ神所  ・根神火ノ神所  ・神アシヤゲ  ・クカナレ嶽 
           ・伊豆味に伊豆味の神アシアゲと大島の神アサギがあり、大島のアシアゲは天底の故地の神アサギ?)
  ・明治21年 天底に天底尋常小学校が後原に造られる。
  ・大正8年  呉我山が分字した時、天底の三謝原と古拝原と古呉我原は呉我山に編入された。
           (明治36年の「今帰仁間切天底村全図」には三謝原・古拝原・古呉我原がまだ天底村にある)


 

2010年6月5日(土)

 明日は今帰仁村天底のタキヌウガン調査あり。『天底の字誌』をタキヌウガンに集まった天底の方々に協力の声掛けをする予定。「タキヌウガン」などの調査記録が字誌に収録されますのでと。調査記録は早速画像で公民舘に提供していきます。また勉強会もスタート。「地域からいただいたのは地域に還す」のが歴史文化センターがとってきた方針。それは健在なり!

【天底のサーザーウェー】(調査:平成元年7月27日)
 平成元年(1989)7月(旧6月24日)の天底のサーザーウェーの調査記録である。この調査は「すくみち」(第5号)に収録してある。後に『なきじん研究 2号』に再録。当時、歴史資料館準備室(平成7年に歴史文化センターに名称変え)時代の調査である。平成3年(1991)にも調査しているが、その年にサーザーウェーに新しく婦人会の踊りが組み込まれたことが記憶に残っている。

 タキヌウガンの調査にあたってサーザーウェーのことも引き出しておくことにする。当時の職員の姿も思い出される。また、サーザーウェーの歌はレジカセで流しながらであった。タキヌウガンはサーザーウェーと別の祭祀であるが20年経ってどうなっているだろうか。(今年の天底のサーザーウェーは8月4日(旧6月26日)調査予定)


      ▲天底の神アサギでのウガン            ▲神人が神アサギからムラ人に向ってのウガン


   ▲神アサギに向ってススキをサン仕立てる        ▲サンを手渡すと漕ぐ所作をする


▲サンを持ち鼓を叩きながらニガミヤーとヌルドゥンチへ      ▲ヌルドゥンチから神アサギに戻る


  ▲アサギ庭に待機していたムラ人と踊り          ▲神行事が終わると区民に向って区長の挨拶

【サーザーウェー】(『山原の土俗』島袋源七 大正14年)
 大正の頃の天底のサーザーウェーの概略を記してみる。現在行われている様子と大正の頃を比較してみる必要あり。その変貌ぶりがよくわかると同時に、祭祀の何が今に伝えられているのか。そのような比較ができる調査記録が必要だと実感させられる。

[1日目]
  ・旧6月25日(26日)に行われる。(今は旧暦6月の最後の亥の日)
  ・当日神人(ノロ・ウチガミ・根神)等が祝女(ノロ)殿内に集まる。
  ・白装束で頭にはチヌマチ(三味線蔓)を冠にして被る。
  ・手に団扇を持って字内の根所を数軒廻る。
  ・道々団扇を振り振りサーザーウェーの唄を歌いながら練り歩く
  ・むかしは各戸を廻ったという。
  ・それが終わると字の南側にある神アシャギに行き、ノロ以下の神人が祈願して宴をやる。
  ・男の神人はノロの前に出て座り祝いの言葉を述べる。
  ・終わりに左の親指と人差し指で輪を造り、右手の人差指を入れる
  ・その後に漁取りの真似をして筵で子供等を追いまわす
  ・その時追い回されて神人の筵を被せられたり、捕まったりすると一生太ることができないという。

[2日目]
  ・神アシアゲで漁りの真似をする。人を海豚に見立てて筵を被せ、槍で突き捕獲する。


2010年6月4日(金)

 今帰仁村玉城は明治36年に玉城・岸本・寒水の三つの村(ムラ)が合併した村である。玉城村は明治41年に今帰仁間切玉城村から今帰仁村字玉城となる。現在の玉城は三つの村(ムラ)の合併の歴史をもつことを念頭に入れて見ていく必要がある。

 字玉城は、以下の小字からなっている。(アザナの小字名は意味ありげな地名! グスクのアザナと同義か?)
   @寒水原(パーマ)  Aソーリ川原(ソーリガー) B岸本原(キシムトゥ) Cウチ原(ウチバル)
   D古島原(プルジマ) E外間原(フカマバル)   F東アザナ原(ヒガシアザナ・ウイバル) 
   G西アザナ原(ニシアザナ)(別字のとき呉我山へ)

 明治36年の「国頭郡今帰仁間切玉城村全図」を見ると、寒水村は寒水原、岸本村は岸本原、玉城村は外間原に集落がある。それとは別に山手に寄留した人達の家が散在している。古島原は玉城村の集落があった地域と見られ、明治36年頃には古島原から外間原に集落が移動している。玉城村の集落の移動は『球陽』の記事によると1862年である。その時、寒水村と岸本村の集落移動が首里王府から許されている。
 玉城の神アサギの側に「玉城殿堂建設記念碑」(昭和六年一月建設)とある。裏面に「玉城ハ元古嶋原ニアリシガ(紀元二千五百二十三年?)元治元年申子現今外間原ニ移転す」とある。『球陽』では三ヶ村の移動は記事は「尚泰15年」(1862)となっているが、碑文では元治元年(1864)である(碑文の判読確認が必要)。いずれにしろ、玉城村の集落が古嶋原から移動したことの記念碑である。その時、玉城石・ウペフ殿内・玉城勢・内神殿・シリトンガ・掟伊ビ並火ノ神所・□蔵の拝所(殿堂社名)を整備している。

 建設に関わった代表者名が記されている。
   ・長田松四郎  ・山城幸太郎 ・平良幸貴  ・田港朝清  ・當銘□光
   ・建設者 小波津宗助

 今回の「玉城誌」の編集会で報告できなかったこと。次回に回しますが、忘れてしまうのでメモしておきましょう。次回は「三ヶ村の歴史」でも。

 「今帰仁間切玉城村全図」(明治36年)に、ウタキ(岸本ウタキ)・大井川の流れ・サカンケー・寒水の神アサギ・玉城公園(神アサギ・ペーフ殿内・ノロドゥンチなど・たなはら御嶽)などの無税地が確認できる。

【琉球国絵図郷帳】(1648年頃) 【琉球国高究帳】(17世紀) 【琉球国由来記(1713年) 
      ・玉城村            玉城村            玉城村
      ・きし本村           きしもと村           岸本村
        ×                ×             寒水村
【移動前の寒水村・岸本村・玉城村の祭祀】(1713年)
 『琉球国由来記』(1713年)の頃は、三か村が移動する前である。そのことを念頭に入れて読み込む必要あり。        
  ・玉城村にコモキナ嶽(神名:コシアテモリノ御イベ) 玉城巫崇所
         玉城巫火神
         神アシアゲ
  ・岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨリアゲマチュウノ御イベ)岸本巫崇所
         岸本巫火神
         神アシアゲ
  ・寒水村に神アシアゲ(岸本巫崇所)

 
▲三ヶ村合併の玉城村全図(明治36年)         ▲赤色が集落(玉城村全図の一部)

 
          ▲編集委員会の様子                ▲編集委員会の様子 

 
  ▲玉城集落の移転記念碑              ▲ウペフ殿内の祠

2010年6月3日(木)

 『玉城の字誌』(今帰仁村)の編集会議がある。今日は玉城の地名と屋号、フルマチ(古町)などテーマとする。他に玉城のマッチャクの原稿が一部あがっているので編集をしてみたので配布。二、三資料を提供してムラの方々に語ってもらうことにする。聞き役に回れたらと!

 玉城の公民館の資料の中に40年前の子供たちの絵が80枚余りある。40年前の絵を手掛かりに当時のことを思い出してもらおうと目論んでいるが・・・。ともこ、しげみつ、ひろみ、ひろやす、たつこ、たけし、ゆりこ、みちこ、ゆみなどの名前がある。それらの絵を手掛かりに40年の「世の中の動き」を語れる方は語ってくれたらと期待したい。




         ▲40年前の子供たちの絵です。字誌にどう活かそうか。 

2010年6月2日(水)

 明治17年の「問答書」から今帰仁間切の地割と人身売買の実態はどうだったのか「問答書」から、いくらかでも把握しておく必要あり(『琉球共産村落之研究』所収より 田村浩著)。

【今帰仁地方旧慣地割ニ関スル問答書】(明治17年)
 ・問  百姓地は各家に於いて古来所有の儘(地所の割換ありと雖も坪数の増減なきを言う)之を保有するか又は村内
     戸口の増減に従い之が分配を為すことあるや、その方法手続き如何。
 ・答  毎戸古来所有の儘之を保有せず。戸口の増減に従い之を分配す。その方法は村中吟味の上毎戸人員の多少農事の
     勤怠と資産の厚薄を見合はせ持地数を定め之を分配す。
 ・問  然らば戸口の増減に従い之が分配をなすや
 ・答  否地所割換の年に之を分配す
 ・問  農事の勤怠資産の厚薄を見合はあせ配分するとき、例へば一家三人の人口に二地を与へ一家五人の人口に一地を
     与える事あらん。然る時は其の分配方に差別あるが如し。右様の事に付苦情を生ずる事なきや。
 ・答  然り一家三人の人口にて二地を取り又五人の人口にて一地を取る事あり。然ると雖も右は人民中協議の上取り計らうこと
     なれば苦情等の起りし事なし。
 ・問  百姓地を割換するは何年に一回なるや。臨時割換することあるや。その法如何。
 ・答  一定の年限なし。凡そ六年乃至十年目に割換す。又時の都合に由りては臨時割換する事もあり。其の方法は村中吟味し
     実地立合見分の上之を取は計ふ。
 ・問  右割換年限は田畑共同じきや。
 ・答  然り田畑共前条の通り。
 ・問  百姓地地頭地を相対譲与或いは質入する等の事あるや。その取扱い振如何。
 ・答  内分にて質入れする等の事あり。その取扱振は相対口上の示談に止まる。
       (以下、工事中)

【今帰仁地方旧慣人身売買ニ関スル問答書】(明治17年)
 ・問  凡そ身を売るは貢租欠納に係るか。
 ・答  然り総べて貢の欠納に係る。
 ・問  従来貸借のため、妻妾子弟を抵当となせるや。
 ・答  無し
 ・問  婦女は総べて娼妓となるや。
 ・答  然らず。従前は娼妓となりし者なし。然し置県後は娼妓となりしこともあり。  

   (以下、工事中)


2010年6月1日(火)

  6月になりました。梅雨はどこへやら。今日は真夏の空になっています。

 
    ▲今帰仁グスクの空にも入道雲                ▲クボウヌウタキ(今帰仁)

 出版社の原稿を整理するために、名護市から国頭まで踏査する。まとめてきたが、流れに沿って整理し直すことに。普段、自分のテーマや思いつきで動いているため、企画された流れにそって整理するのはのは苦手である。しかし、そうは言っておれません。流れ沿って整理するには、踏査して並べ変えた方が早いか(大宜味村以北は大丈夫。本島側を片づけて伊江島、伊是名島、伊平屋島も再度踏査した方が早いか)。

  ・名護市の湖辺底 ・名護市許田の手水 ・名護市数久田の轟の滝 ・名護市内にある三府龍脉碑記
  ・ヒンブンガジマル ・名護グスク  ・宮里の前の宮  ・屋部の久護家  ・安和のクバの嶽
  ・部間の権現  ・本部町の瀬底島  ・本部町瀬底島の唐帝君  ・本部町の渡久地 
  ・金武町の金武グスク跡 ・金武大川  ・金武観音寺  ・當山久三像及び記念舘  ・忠魂碑 
  ・宜野座の大川グスク(宜野座ノロドゥンチ) (・久志の観音堂  ・辺野古の一里塚)
  ・海洋博記念公園  ・山里のカルスト地形  ・本部町具志堅の神アサーギ (今帰仁村は終わっている)
  ・羽地内海  ・我部祖河の高蔵(旧羽地村)  ・親川グスク(旧羽地村)  ・羽地大川(旧羽地村)
  ・羽地大川改決碑記(旧羽地村)  ・屋我地島(旧羽地村)  ・運天原のオランダ墓まで。

 
    ▲名護市許田の「手水の縁」の湧泉               ▲名護市の湖辺底港

  
▲名護市数久田の轟の滝        ▲宜野座村の宜野座ノロ殿内         ▲金武町金武の観音寺