今帰仁村歴史文化センターの調査記録 
        
   
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2012年11月30日(金)

 本部町辺名地までゆく。辺名地の仲村家に古琉球の辞令書が三枚ある。辺名地は1665年以前は今帰仁間切の村の一つである。『琉球国由来記』(1713年)に辺名地村のウタキとして西森(神名:コバヅカサノ御イベ)が登場している。また「年中祭祀」のところに神アシヤゲと根所火神(根神火神)がある。祭祀は瀬底ノロの管轄である。

 『沖縄島諸祭神祝女女類別表』(明治17年頃)には「辺名地村・大辺名地村二ヶ所村 三ヶ所内 赤平ラノ御嶽・神アサギ・御火神所」とある。ここに出てくる大辺名地村は明治36年に辺名地村に統合される。

 大辺名地村は祭祀や神アサギなどから辺名地村から分かれ、再び統合したようである。辺名地村の存在は万暦32年(1604)の辞令書に「へなちめさし」(辺名地目差)とあり、へなち村の存在をうかがわせる。

 辺名地公民館の周辺はプシマ(大島)と呼ばれ根所火神の祠・神アサギ・辺名地地頭火神などの拝所や旧家などがあり、かつて村(ムラ)の中心地であった。神アサギの後方にウタキへの遥拝所なのか、いくつか拝所がつくられている。

 辺名地の御嶽(ウタキ)はウタキサンと呼ばれ、何度が移動しようでタキサン・フルウガミ・ナカヌウタキなどが地名として残っている。タキサンへの入口に小さな広場があり「昭和六年建設」「寄進」と刻まれた鳥居?がある。

  (工事中)

  
 ▲具志川ノロ叙任辞令書(1607年)   ▲辺名地の目差職叙任辞令書(1604年)  ▲謝花の掟叙任辞令書(1612年)





2012年11月29日(木)

  『琉球国由来記』(1713年)に登場する恩納間切のノロは、@恩納ノロ A真栄田ノロ B山田ノロ C安富祖ノロ D名嘉真ノロの5名である。それらの5名のノロは公儀ノロと見ていい。ところが、明治15年と17年の「のろくもい台帳」(諸禄処分による社禄調表:明治43年)には恩納間切のノロが一人も出てこない。「恩納間切(村:ソン)のノロは置県の頃にすでに処分されていたため、この際の給与から除外されている」とある。置県の際に合計249名の女神官(ノロ)がいたが、11人を除いて役俸が支給されている。その11人の中に恩納間切の5ノロが含まれていると見られる。後の6ノロであれば真壁間切のノロか。

 廃藩置県頃の恩納間切内の全てのノロ処分されている。その理由は何か。非常に興味深い。ノロ財産の継承問題で手続き書類が間に合わなかったのではないか。明治14年の内・蔵両卿からの達(第3974号)に、「一、恩納ノロクモイ始十三人の分現収高収高既に滅殺せし、今日に至りては更に廃給のものとして制外に附すべき事」とある。(上記では11人、下記では13人とあり確認必要あり)

 そのこともあってか『恩納村誌』で真栄田・山田・恩納の三ノロは公事ノロとされるが、安富祖と名嘉真の二人のノロは公事ノロではなく村ノロとされている。『琉球国由来記』(1713年)に登場するノロは公義ノロとみていいのではないか。

 明治14年の恩納間切のノロの滅殺のことがあって、安富祖ノロと名嘉真ノロを村(ムラ)ノロとしているのはそのためかもしれない。因みに恩納間切内のノロは「首里あむしられ」の管轄である。恩納ノロには古琉球の二枚の辞令書があり、公義ノロであることに間違いはない。


        ▲1658年のおんなノロの辞令書         ▲1607年のおんなノロの辞令書

 2012年11月27日(火)

 今日は今帰仁村湧川の羽地内海に浮かぶ島の一つヤガンナ島に本部暑のゴムボートで渡る。ヤガンナ島については、『角川地名辞典』(沖縄県:昭和61年発行)や平成4年に「写真に見る今帰仁」などでまとめたことがある。

 島の墓を回りながら、大分変っている。新しい墓に移葬した開き墓が目立つが、それでも墓の島に変わりない。今でも葬った墓があった。いくつか開いた墓を見せていただいた。墓の島であると同時に、村の移動、村の新設、そして塩田にまつわる伝承や塩田など近世の歴史的な場面として登場する。平成2年に島の墓調査をしたことがある。280近い数の墓を数えたことがある。感謝!

 厨子甕に銘書のあるのに出会わなかったが、塩田調査(平成3年)をした時の写真の厨子甕の蓋に「西ヌ 上間仁三 夫婦 妻 妙□ 女子」とある。年号は不明。当時島で撮影した緑色にカビた頭蓋骨が今でも脳裏に強く残っている。

羽地内海、ムラ移動や塩作りの歴史が(今帰仁村湧川)(平成4年4月) 

 嵐山から見るこの風景。内海に浮かぶ島がヤガンナ島、そして中央部の海峡がワルミ海峡(運天水道ともいう)、その右手が屋我地島(名護市)、左手が湧川から天底・上運天・運天に至る。その向こうに見えるのが古宇利島である。遠くには、伊是名や伊平屋島がかすかに見える。ヤガンナ島は、今帰仁村字湧川の佐我屋原に属する。嵐山の展望台から眺めるヤガンナ島周辺の美しさとは別に、墓の島や塩づくりの島としての歴史をもつ。

 181610月バジル・ホールは、ライフ号を運天港の入口付近に投錨し、三隻のボートで羽地内海や内海に面した周辺の村々、そして屋我地島や湧川の塩田などを確認し図面に記してある。羽地内海を湖と表現し、「長さ数マイルにおよび、たくさんの小島が点在している」と概況を述べている。

 1854年にはフランスの艦船が、その後の1856年にはペリーの一行も運天港から羽地内海まで足を伸ばし、図面を作成している。このように近世期末に外国船が琉球を訪れたとき、探険が試みられた場所でもあった。

 写真の左手に見える集落は湧川であるが、蔡温の林業政策で1738年に新設されたムラである。現在の湧川地内には、1736年まで振慶名や松田、我部・桃原などの村があり、移動させられ湧川村を新設した地域である。首里王府の政策によってムラ移動がなされ、湧川という新しいムラの創設がなされた。言ってみれば、政策的ムラ移動のあった歴史的な場所である。

 ヤガンナ島とその対岸(手々原)には塩田跡の石積みが今でも残り(写真参照)、昭和35 6年頃まで塩づくりがなされ、手前の船のある場所にも塩田があった。地籍図には、地目塩田として今でもある。

 羽地内海に面した我部村と塩にまつわる伝説や記録がいくつかみられる。例えば、1713年の『琉球国由来記』に、琉球国の塩は羽地県(間切)の我部村に始まるとか、『沖縄県国頭郡志』にはワルミの洞窟に一人の僧が来て住み、はじめて製塩の方法を人民に授けたなどの言い伝えを紹介している。湧川の下我部には、塩づくりと関わる塩屋の御嶽があり祠を建て祭っている。塩づくりの方法は別にして、1713年の『琉球国由来記』や1813年のバジル・ホールの図にも塩田があり、塩づくりがなされていたことがしれる。一帯は、山原の塩の歴史と深く関わる場所である。                      

 運天港が自然の良港として使われ、その奥にある羽地内海は船の避難場所として利用されている。嵐山の展望台に立つ時、眼下に見える島がヤガンナ島、別名墓の島。島と対岸に見える塩田跡が塩づくりの歴史や伝説をよみがらせ、そして蔡温の時代に政策的なムラ移動がなされた歴史などを思いめぐらしながら眺めるのもよい。塩田跡はそこに住み、塩づくりを営んでいた人々の辛苦をなめた塩辛い歴史的な遺産として今でも残っている。現在みることのできるあたりまえの風景であるが、そこに秘められた歴史をひもとく手がかりを与えてくれる場所であり、写真である。

 

 

 
  ▲板で閉じられた墓の内部(古い板もある) (40近い厨子甕あり)   ▲銘書のある厨子甕の蓋



2012年11月24日(土)

 明治23年調査の世帯数や人口のデータが出て来たので、明治の人口や今帰仁間切の村の世帯数について整理してみる。明治13年は『明治13年沖縄県統計慨表」(沖縄県史20、明治23年は「徴発物件一覧表」(陸軍省軍務局第一軍事課編集)より、明治36年は「間切島字及村」『沖縄県史20』より。


          【明治13年慨表】      【明治23年調査】         【明治36年】
 村 名   世帯数  人口(男・女)計     戸数  人口(男・女)計    村 名  世帯数  人口(男・女)計
 今帰仁村  111 (269・274)543     114  (262・271)530     今泊村 346   (968・944) 1912
 親泊村  226 (626・561)1,187    226   (647・603)1250    ※ ※@  親泊と合併した字 
 兼次村  79 (177・203)380     80   (188・210)398     兼次村 83  (201・228) 429
 志慶真村  28  (82・66) 148     29   (89・74)163     ※ 138  (325・293)  618
 諸喜田村  94 (237・201) 438     94   (229・205)434     諸志村
※A  諸喜田と合併した字
 與那嶺村  93 (252・232)484     89   (263・238)501     與那嶺村 103   (272・287) 559
 仲尾次村  76 (182・178)360     86   (215・205)420     仲尾次村 91   (233・221) 454
 崎山村  108 (243・231)474    102   (231・240)471      崎山村  108  (223・249) 472
 平敷村  81 (194・199)393     89  (208・237)445      平敷村  93 (244・269) 513
 謝名村  163 (380・379) 759    151  (371・407)778     謝名村 172  (438・434) 872
 仲宗根村  123 (304・316)620    152  (333・364)697    仲宗根村  151 (342・375) 717
 玉城村  35 (69・65)134    42  (108・124)232      ※ 119  (334・308) 642
 岸本村  29 (89・80)169     36  (104・105)209     玉城村 ※B  岸本・寒水が合併した字 
 寒水村  13 (42・26)68     30   (63・57)120     ※B   
 湧川村  168  (503・483)986     193  (628・635)1263     湧川村  247 (856・770) 1626
 天底村  73 (179・157)336    93  (250・241)491     天底村  101  (304・283) 587
 勢理客村 126  (325・275)600     127  (351・348)699    勢理客村 138   (412・396) 808
 上運天村 133  (324・290)614    136  (405・366)771    上運天村  162  (463・436) 889
 運天村  70 (184・148)332    77   (204・207)411     運天村  85 (228・213) 441
 古宇利村  123 (286・253)539    125  (319・269)588    古宇利村  132  (318・332) 650
村数20  1952  (4947・4617)9564    1694  (      )10871      村数16 2231  (      )12289 
 ※@明治36年に今帰仁村と親泊村が合併し今泊村となる。明治39年に分れて、昭和48年に再び今泊となる。
   A明治36年に諸喜田村と志慶真村が合併し、諸志村となる。

   B明治36年に玉城・岸本・寒水の三ヶ村が合併し玉城村となる。
  ※明治41年にこれまでの今帰仁間切は今帰仁村(ソン)となり、村(ムラ)は字(アザ)となる。

 ここで恩納間切(村)の村(ムラ)と人口等を整理するのは、その後の恩納村の村の状況を把握するためである。明治36年まであった10ヶ村が、その後どうなったのか。例えば、現在の行政区の喜瀬武原・太田・南恩納・塩屋・宇加地がどのような変遷をたどっているのか。それらの資料で整理してみることに。それと寄留人の占める比率を見ることで、ムラの個性(祭祀を含めて)が見えてきそうである。

    【明治13年慨表】
              【明治23年調査】                    【明治36年】
 村 名  戸数  人口(男・女)計   村  名   戸数  人口(男・女)計    村 名  世帯数  人口(男・女)計
 恩納村 177  (401・423) 824    恩納村  176  (439・461)900    恩納村  198  (472・523) 995
 瀬良垣村 60  (139・154) 293    瀬良垣村  63 (167・180)347    瀬良垣村  68  (171・192) 363
 安富祖村 111   (193・188)381    安富祖村  151  (272・137)409    安富祖村  144  (349・356) 705
 名嘉真村 86  (229・198) 427    名嘉真村  88  (211・129)340    名嘉真村  113  (268・268) 536
 谷茶村 78  (215・227) 442    谷茶村  85  (221・218)660    谷茶村     91  (216・242) 458
 富着村  38  (105・119)224    富着村  42  (95・115)210    富着村  49  (106・127) 233
 前兼久村  51  (142・146)288    前兼久村  55  (145・156)301    前兼久村  72 (155・168)  323
 仲泊村  77  (231・258)489    仲泊村  82  (241・257)498    仲泊村  95 (270・277)  547
 山田村 80   (223・226)449    山田村  88  (268・273)541    山田村  80 (223・226)  449
 真栄田村  110  (264・251)515    真栄田村  106  (270・259)529    真栄田村    115 (289・281)  570 
村数10  868  (2142・2190)4332     村数10 936 ( 2329・2185)4735    村数10  1025 (2519・2660)5179


2012年11月22日(木)

 12月の「山原のムラ・シマ講座」は本部町辺名地です。アップしてあります。


2012年11月21日(水)

 諸志誌の編集会議。諸志の豊年祭の記録の確認作業。出演者名と歌詞の確認。踊りの歌詞は方言ですので、私はお手上げ。手書をスクリーンで写しだし、皆さんで確認。躍った経験のある方もいらっしゃるので、歌ってくださったり、名前の漢字の訂正など。ひらがなやカタカナで表記されいるが、方言音での読みの訂正など。活発に発言があり、冷や汗もの。



 



2012年11月20日(火)

 昭和52年頃の古宇利島のウンジャミ(海神祭)の写真(21枚)がとどきました。そのような写真や資料が届くと、いつも驚かされます。提供は仲宗根政善先生の教え子の一人(旧姓黒島達子さん)です。古宇利島で補充教員をしていた時のものだそうです。その他に仲宗根先生からのハガキや方言調査カードなど。ありがとうございます。
 
 写真に登場する古宇利島の神人たち。古宇利春男氏、兼次フサコさんなどの姿があります。島の方々から、お名前を伺うことに。


 @神アサギからナカムイに向ってのウガン         A神アサギ内でのウガン


  B神アサギ庭での餅落しの場面         Cフンシヤーの祠の前での舟漕ぎ儀礼


   D神道を通ってヒチャバアサギへ向う      Eヒチャバアサギでの儀礼(七回廻り)


  Fシラサ(岬)での神送りを終えて                Gヒチャバアサギでの餅配り


   H海神祭の儀礼が終るとハーリー競争     I第一桟橋あたり(旧公民館)からハーリーを見守る


2012年11月17日(土)

【国頭村辺野喜】

 国頭村辺野喜に焦点をあててみることに。各ムラ・シマの祭祀や伝承は歴史を根強く継承している。但し、その伝承が史実かどうかは別である。ムラ・シマの伝承や祭祀の中心となる一門(系統)がどこなのかで、特徴をみせている。そこで国頭村辺野喜についてみる。

 辺野喜の系統を「沖縄の風土記集」(国頭村編)で北山系が主だとある。もちろん、そこには北山系の一族の前に、元々地元と他からの系統の一族が移り住む。そこでムラの要(カナメ)となる一族が、どの系統なのか。特に祭祀に影響を及ぼしていると見られる。大半が北山系統。祭祀の中心は宮城家(ジョウメー)は中心になっているという。
   ・宮城家(ジョウ前)(北山城主の四男と結婚)
   ◎宮城姓は辺野喜の根屋
   ・山城姓北山系
   ・金城姓も北山系
   ・島袋姓は金城姓と同じ北山系
   ・大城姓は宇嘉の大城家(北山系)
   ・比嘉姓は北山系
   ・東恩納姓は首里系
   ・東江姓は伊平屋系
   ・高江洲姓は北山系
   ・山本・山川は本部町から

【琉球共産村落之研究】(田村浩著:昭和2年頃))には、13の一門が詳細に報告されている。
 一、門前(山城)  門前(村家、根神)/徳門―徳門小/栄門/竹二/吉門/アサギスヂ/アサギノハラ(神人)
 二、デゲンチャー(宮城) デゲンチャー(宗家)/上道/門口/六又/後/前田小/新屋小/山川
 三、シバー(宮城) シバー(宗家、神人)/上仲/神吉屋
 四、道原(宮城) 道原(宗家)/東/前田/宮城小/シリイ/浜門/新門
 五、上門(金城) 仲前(神人)/前原/上下リ口/金城/金城屋/前金城/上門(宗家)
 六、兼久 兼久(宗家)/上屋/新里屋 
 七、ハアタイ(島袋) ハアタイ(宗家)/ハアタイ小/イジュハタ/イジユハタ小/前地屋小
 八、前地(山城)(山城) 前地/前地小/前前地/前地屋小 
 九、大屋 宗家/大屋小/前血屋小/島袋屋
 十、門 門(宗家)/前門/新屋敷
 十一、道グリ 道クリ/大城屋
 十二、川端 川端(宗家)/上二
 十三、東恩納 東恩納(宗家)/前口/前口屋/寛三/・・・


 
    ▲辺野喜の現在の集落                 ▲辺野喜の神アサギ(2005年)

  
  ▲辺野喜の拝所(ウガミ)の一つ  ▲創立 昭和五年二月十四日の碑   ▲昭和57年頃(「国頭の村落」)

  辺野喜にはイームイ(ウニキウタキあるいはタキサンと呼ばれる)、ウガミがある。イームイが古いウタキ、ウタキはメーソーにあり、そこもウタキやウニキウタキと呼ばれる。祭祀を行う旧家は川の右岸にある。

2012年11月13日(火)

 今帰仁村諸志の上間仙信氏の「豊年踊記録字諸志」(昭和52年旧8月)のノートがあります。字誌に反映させるため筆耕中ですが、一部紹介することに。

  (工事中)

【今帰仁村諸志の豊年踊記録】
(カッコ内は師匠です)

・明治26年 (村頭は兼次村の玉城森太郎であったと伝えられる。兼次・志慶真・諸喜田合同で実施)
  同30年 ?
  同34年 吉徳
  同38年 吉徳
  同42年 吉徳
・大正3年 吉徳
  同7年 高良  (鶴亀 松竹梅別々に舞う)
  同11年 島袋盛助(安村) (ヤグザイ・松竹梅鶴亀組合わす)
  同15年 実施 島袋盛助(前田)
・昭和5年 実施 内間孝保(前田)
  同9年 実施 金城亀次郎(板良敷)(芸長宮城仙三郎)(女子の村踊参加)
  同13年 実施 玉城亀次郎(板良敷)
  同17年 実施 内間正雄(金城サト)
  同21年 実施 島袋吉昌(玉城盛義、小那覇全幸)
  同25年 実施 高良盛二(上間昌成)
  同29年 実施 内間利吉(上間長久)
  ●同32年     内間利吉(1957年の豊年祭:下の画像)
  同37年 無
  同41年 無
  同45年 無
  同49年 無
  同52年 実施 芸長大城豊吉 区長島袋幸雄 

【村踊りの件】

【あやぐ踊り】
 あやぐ踊りは男女の青年が共に交わり共に踊り楽しむ。普通の踊りと違って多人数で踊る独特な踊りである。その歌の起原は宮古島から伝えられしものであるが、踊りは玉城盛重先生が創作舞踊として、特色の踊りである。その特色を後世に諸志村の踊りとして残すべく現在に至っている。
  男女共に踊りを楽しみ、共に交わり、和を求めるべき特色ある総踊りである。
 この踊りは諸志にて始めたのは大正十五年。時の諸志踊りの師匠玉城盛義先生(盛重先生の子息)が諸志村の踊りとして最も適した踊りであることを推奨して、今日まで村踊りの中に組入れて村踊りの一つとして続けられている。
  (歌詞略)

 昭和9年度以前は男のみで女は村踊りに参加してなかったが、その当時はカズラを使用して女装をさせたのである。昭和9年度から女性も参加させて女性独特の美を踊りに添え、今に至る。今日まで若さ並びに壮年男女で舞子としてのくk見合わせであったが、昭和五二年度から老年組、婦人組、小中高学生、村外在住の特殊芸能者も参加して実施して結果上々であった。


【やぐざい踊り】
 この踊りはは狂太郎踊りの一種で猿に変装して敵討ちに出立つ姿で狂太郎踊りの特色をなした踊りで、これも一つの創作踊りの一つとして、大正十五年玉城盛義師匠が村踊りとして最適な踊りである事を推奨して今日に至っている。

 この踊りには独特な猿舞にふさわしいやぐら踊台を使用して四名の者がやぐら舞台を使用して空中回転しつつ特色な芸を取り入れて観衆をあっとさせるスリルある踊りである。

 左記のような踊台に四名が乗って四名が空中回転する。

【やぐさい】
 (イ)うさいぬ とまいぬ やぐぜーまーぬサー やぐざい さらみらんば ヒチ ながもるー エイ スラーヨー
 (ロ)ありがとまいぬ やぐぜーまーぬ サー やぐざい ちくてん節ば ひちながもるよ エイ スラヨー「ハワ」

 さまわー□しのじーまーやー スリ やーまぬ みんぼーざーがる かにや三貫がに うずみぬ くずみ りんぬ 
 めーぬやくやく くちよや 三味線する 山田ぬろとき むんぐる しんぐる きじむん ざーしぬ まつし 
 松山のみんぼうざーがる 二ツぬ みんぶに ちんちきて ターチヌミンブニ チーンチキタクト スリ 
 イーメンメン チリチリテン スリ イーメンイーメン チリチクテン
 山いらばーぬよー 山入りたちじ取てとない たみすーしや 山入りぬたーちんぼなよ

【狂太郎踊り】

 大正15年玉城盛義先生が推奨した創作踊で一つの敵討ち出立の踊りに創作して、その出立場面に演ずる。狂太郎ユンターが特色あるmので、沖縄の歴史を背景にしたユンターで創作舞踊の中に取り入れてある特色を劇舞踊である(一つの組踊的劇舞踊である。そのユンター歌詞は左の通りである。(略)

【旗頭の起原】(旗頭は神が天から降臨する所)

 祈りと慶びを天に通ずるべく光をはなち空高く吊り上げて祈りと慶びを表現したものである。尚舞台装置に伴う一種の装飾でもある。又氏子衆の祈りと願いの目印でもあるので、今日まではあ旗頭を先頭に氏子衆並びに踊り子共が道ズネーの先頭を行ったものである。

 今では花火を天高く打ち上げて、その慶びと祈りを天に通ずる事の表現とよくよく似ている。その製作は、その昔箱型のものが、今日の菊花に改造し今日に至っている。その改造は大正15年上間仙太郎氏が改造したものである(菊花型に)。 

【長者の大主】

 村踊の総元とも云われる踊りでムラ始まって以降、特殊な組み合わせである。
 1.長者大主は子や孫、また孫を引き連れて村の豊年と子孫繁昌の祈願をして子孫を踊らす。
 2.幼児もお伴ともをしてスンサーミー踊り(竹作もの)、風車持参で)踊る。
 3.扇子舞、昔の王家の男性衣装でかぎやで風節で扇子舞をする。
 4.口説はやしは、青年に踊らしてはやしはその通りで昔風の言葉ではやす。
 5.最後に大主も踊って共に幕内に入る。

長者の大主台詞
うーとーと みおんぬきやらび 吾んやこの村の百二十なゆる 長者の大主
年や年まさい 世果報 うちちち 尚ん豊の御代願えていく 今日のゆかる日や
今日のまさる日や 子御孫、また御孫、ひち御孫連れて踊狂言仕組まちあやびむの
踊らちにゆみ かきやらび 遊ばちにゆみかきやらび うーとーと あーとーとー
御慈悲ある御代や波風ん静か 尚ん豊かぬ御代願えてい 御守りの光 ちいまさい まさして
子御孫 繁 昌ぬ御願えさびら とーとー子お孫のちや 踊て御見かきり遊しで御見かきり
    (工事中)

【字アサギ敷地の件】

 敷地地計画
  一、内間家の畑を買う。または代替地を求めて交換する。
  二、俊一宅東側を整地する。
  三、内間家の畑の土は俊一家東側に敷き均す。
  四、憲徳、□正の畑を移動、又は代替して整地する。
  五、内間家畑東側を整地する。
  六、舞台東側を整地する。
  七、久男山林買入れて整地する(交換)。
  八、豊吉の畑買受けする。
  九、宗久の山林買受けする。
  十、仲村家の東側を整地する。その土で以て久男山林跡に整地する。
  十一、道路は西側にするか、東側にするかを決定して総均しをする。
  十二、将来の公民館敷地の決定の決定がお宮敷地に決定した場合、その位置を変更する。
  十三、東置場を見当して設置する。
  十四、島袋家の元道路を買入するか否を見当して敷地整備を計画する。
  十五、整地する当たり
     1.岩盤が出るか否かを見当すること。
     2.土の捨て場を見当すること
     3.土止め垣の見当をすること 

【字踊りの起原と今日までの記録】
 一、古老人¥の話によると学事奨励の為に始められたと伝えられている。
 二、昔琉球の政治は祭政一致の政治であり、その目的達成のため、村(ムラ)行政上神を尊び人の和を求め、祭事と子孫
   繁昌を祈願し、村全体の平和と発展を期すべく、神アサギ前処で、奉納踊りとして□えた村行政の一環であったかと
   思う(上間)。
 三、昔は兼次村、志慶真村、諸喜田村、三村合同で踊りを仕組み、各村交互に神アサギ前庭で豊年踊りとして催されたと
   伝えがある。
 四、三ヶ村時代は明治27年までと伝えられている。二ヶ村時代は明治28年から明治36年。明治36年に諸喜田村と志慶真
   村が合併する。
 五、挙行日程は以下のとおり。
   三ヶ村時代は不明。
   二ヶ村時代から昭和21年まで亥書乃以下の通り。
  旧八月七日 前スクーミ
      九日 正 日(両日は諸喜田神アサギ前庭)
  旧八月十一日
       十三日(両日志慶真アサギ前庭)
       十五日 諸喜田アサギ前庭
 六、昭和25年は諸喜田・志慶真アサギを合祀のため、現在の場所(アガリンヘェ)に神アサギを建設し、合祀して奉納踊り
   を実施した。昭和29年まで五年御廻りで実施した。その後、昭和52年に24ヶ年振りの奉納踊りを以下の通り実施。
     十一日 前スクーミ(前仕組)
     十三日 正 日 

【出演計画表】
 一、芸順の検討、確定 プログラムの作成
 二、衣装の検討、確定 着付けの調整 前景の確認
 三、出演準備 衣装、化粧、出演前三番目まで 一切調える(進行係の指示を守る)
 四、音楽部との連携(進行係があたる)
 五、幕引の実施、拍子木(進行係があたる)
 六、プログラムの掲示(進行係があたる)
 七、芸人は指定場所に待機する。
 (心得)
 八、芸人は各自衣装及芸具を準備中に確認する。
 九、出演は進行係の指示に従う。
 十、出演後の衣装及円具は指定場所に必ず返す。
 十一、芸人は時間を厳守する。
 十二、芸人は順序を正くする。
 十三、芸人は衣装着付後、観客場に顔を出さないこと。
 十四、出演後は進行係の指示に従う。
 十五、証明係は付き切りで協力する。

【1957年の諸志の豊年祭】

 

【踊に関する経費】
 明治時代のことは記録なし。古老からの聞き取りもなし。
 大正15年以降は上間仙信氏の記録より。
 ・踊りに携わるものは字夫(アザブー)にして一日五分宛与える。
  @その賦課は夫(ブー)の過不足として字賦課基準に依って賦課処理する。
  A賦課基準は資力、人口、世帯に賦課する。
  B字夫の一日分基準金額は金二十銭とした(当時は一日三十仙〜五十銭)
  C出夫関係を記録に依って受払(持ちやい ハタミラチャイ 過不足ともいう)と
    いう用語で賦課を整理する。
  ※昭和17年まで、その通りの計算と記憶する

 ・踊経費特別徴収
   人口一人 五銭宛の記憶している。
   その他は寄付金、踊こもち(特別会計)及寄付金で充当。
   師匠は中南部の芝居師上の人を雇ってきた。
    玉城/板良敷/前田/上間昌成/安村守重/字諸志の書記した人(金城かまた)
 


2012年11月10日(土)

 山原(やんばる)漬がまだ続きます。明日は「やんばる学研究会」。

 午前中、山原のムラ・シマ講座は国頭村奥間。天気はくもり。飛び入りの高校生もいました。@土帝君 A番所跡地(奥間小学校) B番所(役場)火神の祠 C奥間ノロドゥンチ/奥間神アサギ D金万川 Eアガーリ(座安家) Fアマングスク(奥間グスク) G奥間カンジャーヤー H金剛山/経塚 I現奥間公民館/奥間の十二支/奥間集落/奥間の大綱引き J旧公民館跡(がじゅまる公園) Kイジミガーなど。

 土帝君での祭礼は旧暦2月2日であるが、飛び入りの高校生達に土帝君の前でミミチングリーをしてもらった。両手を交叉させて耳をつかみお辞儀をして、反時計回りに七回回る。他の参加者はできません。高齢のため・・・。いい体験ができたでしょう。それと生まれ年の猪の前でハイ、ポーズ!

 やはり、山原は研究の宝庫であり、そして限りなく面白い地である。山原の地を誇りに思い、そしてこよなく好きだからこそ、調査・研究を30年近くも継続できているのであろう。


            ▲土帝君の祠               ▲奥間ノロドゥンチで


         ▲金万川で               ▲アガーリの玄関前の「かぎやで風の碑」


    ▲アガーリでシシガナシの説明       ▲金剛山の祠(内部に二つの碑)              


 ▲飛び入りの高校生も猪の前で(猪生)     ▲お二人は丑年生まれです

【国頭村奥間の年中祭祀】(旧)
  ・1月の正月ウガン(立御願)七人神
  ・2月2日 土帝君の祭礼
  ・3月吉日 三月御願
  ・4月アブシバレー
  ・5月15日若草ウガン(三穂を供える)
  ・6月吉日 ウガン(新米)
  ・7月獅子舞い/ウンジャミ(五字の神人)/7月26日ウタカビ
  ・8月の十五夜(綱引きと豊年祭は交互)
  ・9月9日のウガン
  ・10月5日 金剛山での祭礼
  ・11月吉日 タヒナウガン
  ・12月鬼餅

【国頭村奥間の小字】(10小字)
 奥間/島野原/宇志川原/鏡地原/筋道原/大兼久原/前原/大謝原/大保謝原/前代原

【琉球国由来記】(1713年)
 ヒヨウノ嶽 神名:赤丸ノ御イベ

 【奥間巫火神】
  稲二祭、海神折目、芋折目、三日崇(奥間巫)
 【神アシアゲ】
  稲穂祭・稲穂大祭・海神折目・芋折目(両惣地頭・首里大屋子・奥間掟・奥間村百姓) (奥間巫)


【沖縄島諸祭神祝女類別表】(明治17年頃)
  奥間村の拝所(7ヶ所)
   ・アメ城嶽桃原アシヤゲノロクモイ火神神アシアゲ土帝君金剛山
根神屋
 奥間ノロ…座安家(アガリから任命)(長女)
 若ノロ……座安次男家の長女
 

2012年11月7日(水)

 図書館の委員会、ムラ・シマ講座、やんばる学研究会の裏方などで身動きがとれません。

  明日から沖縄県地域史協議会の研修会。国頭村です。ヤンバルクイナーやノグチゲラなどの鳴き声が聞くことができるでしょう。

   (しばらく休みます)


2012年11月2日(金)

 「やんばる学研究会」の開催についてアップ。

 午前中、兼次小学校の3年生(26名)が今帰仁グスクの麓のエーガー(親川)からハンタ道を通り、歴史文化センターまでの自然を見つめるで踏査。交流センターではギンブナ(タイウ)やエビやカニ、それと為朝ハゼを観察。台風跡の枯れ木を眺めながら、ミームングスクで学校を眺める。ハンタ道の石道を歩きながら、数多くの植物を確認。最後は歴史文化センターでプロゼェクターを使って、空中分解した頭の整理。

 植物に触れ、風の音、鳥の声、オオシマゼミを見つけ、鳴き声を聞くことができました。いくつの植物の話をしたでしょうか。月桃・桑の木・モクマオウ・トウツルモドキ・ハゼノキ・フクギ・赤木・黒木などなど・・・。

 午後は別の会議・・・。


 ▲親川からミームングスクまで。そこで一服!    ▲数多くの植物や小動物を確認!


▲交流センターの水槽の前で哲郎先生の説明をきく。興味深々 ▲歴史文化センターで頭の整理

2012年11月1日(木)

 11月の「山原のムラ・シマ講座」(6回)は国頭村奥間です。国頭間切の番所のあったムラです。

  兼次小学校の4年生グループから新聞が届きました。五つの新聞記事は記名でまとめてあり、読んでいてムラ・シマの様子がよくわかります。ありがとう。

【今泊シーサー新聞】(・松田愛良 ・玉村冬吾 ・上間海叶 ・仲宗根海吏 ・玉城大暉 ・尾花翔也
      ・仲原柊華 ・玉城旬海 ・稲福萌々花 ・上間来夢)

 ・今泊のフクキ(仲宗根) ・稲作について(稲福) ・今泊の二つの公民館のひみつ
 ・今泊の二つの神ハサギ(尾花) ・ニークンガーの橋(玉城) ・今泊の馬場跡(松田) 
 ・ししまいは大切ですごい!(仲原) ・かじやの跡みたことありますか?(上間) 
 ・エーガーのやくめ(玉城) ・シバンティナの浜(玉城) ・ちみ石(玉城)

【ハイサイ兼次新聞】(玉城美空・大城ひらり・諸喜田乃愛・比嘉仁衣那・大城椋)

 ・なぜ兼次小学校なの? ・兼次の古島 ・兼次のウイヌハー ・りっぱないしがき 

【琉球諸志新聞】(新川玲夢 ・小波津琉輝 ・座間味凛 ・金良祐梨 ・玉城望愛)

 ・諸志のきれいな赤墓 ・ウプガー ・諸志の豊年祭 ・植物のトンネル ・ふんじろう

【沖縄ユナミィー新聞】(島袋花津葉 ・与那嶺夢樹 ・金城海 ・仲里帆華 ・上間まき)

 ・赤木一番 ・伝説の家(仲宗根政善先生の生家) ・新しい神ハサギ ・いれいとうをたいせつに
 ・ヤシダガーとユナンガー 

 
             ▲新聞を届けてくれた兼次小4年