今帰仁村歴史文化センターの調査記録 
        
   
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調査記録(2010年5月)   ・天底のタキヌウガン調査 やんばる研究会 本部町具志堅 奉寄進の香炉と上国
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調査記録(2010年8月)   ・調査記録(2010年11月)     ・2011年の桜の開花状況 Tam1へ Tama2
調査記録(2010年9月)   ・調査記録(2010年12月) ・23年度学芸員(博物館)実習  ・写真にみる今帰仁
調査記録(2010年10月)  ・調査記録(2011年01月) ・調査記録(2011年2月)へ 中城ノロが関わる祭祀
調査記録(2011年03月)  ・調査記録(2011年04月) ・調査記録(2011年05月)  琉球のノロ制度の終焉(企画展)
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2012年12月28日(金)

 御用納めです。一年間ごくろうさんでした。よいお年をお迎えください。ありがとうございました。


 今年、最後まで調査となりました。二軒の鉄工所(鍛冶屋)と天底のヤキバレモーまで。ヤキバレモーには牛焼場跡の窪地があり、牛肉の一部を伊豆味に届けていたようです。伊豆味に向けての遥拝所がありました。菜美路の案内で。一帯は天底の墓地地域。

 大城鉄工所は、国道の拡張で移転していました。移転先で鉄工所を行っています。大城清政さんは「私の時代でおわりかな」と。父の故大城清源さんから引継ぐ。大城清政さんは60代。「木炭は松にこだわっている」とのこと。松以外の木炭では温度調整が難しいとのこと。

 友寄鉄工所も国道の拡張で、間もなく閉めるようですが、また再開するようです。友寄隆厚さんは90才で現役中です。100才まで現役ですと。旧暦の11月にはプーチウガンは毎年やっているとのこと。鉄工所の建物は平敷の製糖工場の建物をそのまま買って建てたとのこと。40年になるかなと。

 年明けに両鉄工所で聞き取り調査を約束。

  
 ▲友寄鉄工所(夏の台風で屋根に被害)              ▲友寄鉄工所の作品

  
  ▲大城鉄工所のフーチ(炭は松)    ▲天底の牛焼き場の跡(ヤキバレモー) ▲伊豆味(故地)への遥拝所


2012年12月27日(木)

今帰仁村中央公民館の一画に茶室がありました。昭和50年に中央公民館と同時に建設されたのであろうか。その後、平成元年に大改築、その後も茅の乗せかえを行っている。30数年になると土台部分が朽ちてしまい、残念ながら、解体する運びとなりました。私は茶室の葺き替えや屋根の茅の修復、今回の解体まで、三度もつきあうことになりました。一本一本に番号を入れる役目。

 解体には教育長はじめ、教育委員会の職員、文化財、歴史文化センターの職員、図書館準備室のメンバーなどが見守る。見馴れた風景から消えていくのは寂しい。解体のウガンとテンプラの差しいれはミーコさん。

 簡易実測図、そして利用できる材や赤瓦は保管することにしました(公民館)。若者たちが復元してくれることを期待しましょう。(ごくろうさんでした)

 
              ▲茶室正面から              ▲茶室斜め後ろから


               ▲柱一本一本に記号や番号を(簡易図の作製)(玉城寿)


      ▲屋根の茅下ろしは長田補佐            ▲瓦下ろしは上間課長


        ▲最後の解体から片づけは今帰仁グスクの翔・健太郎・大地君など


2012年12月26日(水)
 
 「村落は社会的には門中を単位とし、信仰的には御嶽と火の神の殿の二本を柱として、社会的・宗教的活動を演じた。ところが、門中のほかに、社会的機構としてもう一つの共同体が生まれた。それは与(くみ)の組織である。
 ……貢祖は間切に責任を負わせたのであるが、間切は村に、村はさらに与を単位とsちえ賦課する形式をとったのである。そのため百姓地も与を単位として均分した。したがってこの与割制度は、土地制度・租税制度と関連して発生したものといえる。」(『沖縄庶民生活史』65頁:鳥越憲三郎著所収より)

 明治17年の恩納間切の「恩納間切各村調書」から与の実態を掲げる。与(中)と門中とが、村の個性や祭祀などに大きく影響を及ぼしていると見られる(個々の詳細は後でまとめる)

間切名   村 名  与の数  与の戸数(戸)  土地割替年期 
 恩納間切 名嘉真
安富祖
瀬良垣
恩 納
谷 茶
冨 着
前兼久
仲 泊
山 田
真栄田
 2
6
2
10
4
2
2
2
2
4
43
18
30
17
20
19
25
37
40
16 
15年
10年
10年
15年
10年
10年
10年
15年
15年
10年
                【明治17年調書】

※安富祖村・瀬良垣村・谷茶村・冨着村・前兼久村・真栄田村の6ヶ村は割換15年。
  恩納村・山田村・名嘉真村・仲泊村の4ヶ村は割換10年。
  戸数が増えた時には年限を早めて割換えすることがある。

【各御嶽ト唱ル神祠ヲ祭ルニハ村費ヲ以テスルカ。間切費ヲ以テスルカ。其時ハノロクモイ主祭タルカ。又ノロクモイハ神歌ヲ唱へ、神舞等ヲナスカ。其装束ハ如何】

 当(恩納)間切御嶽と唱るもの十ヶ所ありノロクモイ五人あり。祭事を掌る・祭事の装束は白衣なり。費用は村費を以てす。(御嶽の数は一村一御嶽とした数か。一村に複数の御嶽があってもいい)

【地頭火ノ神・土地君等ノ神ヲ祭ルニハ其式如何】
 地頭の火神祭り費用は、地頭作得米より差出候なり。土地君等の祭なし。(地頭(脇)火神:名嘉真・冨着にあり)

【恩納間切の祭祀と休日】(祭祀は首里王府が認めた公休日である)
・二月の麦稲穂祭 恩納間切にはなし。
・四月アブシ払い  現時日撰を以て焼酎三合、美花米三合づつにて、各村ノロクモイ火神へ祭りなり。
            百姓家業を休む等は二日は休むなり。 
・五月稲の穂祭り。 六月稲の大祭 
            火撰を以て、村費にて神酒を備え、各村々、神アシアゲに於いて、ノロクモイ
            神祭をなす。百姓は稼業を休むのは三日なり。

※旧七月十六日・十七日両日は女のウシデイク(臼太鼓)と唱えて大抵二、三十才乃至四十才
  以下の女、村中皆打集まり太鼓をうって舞踏をなす。その衣服等は皆常の服の少しく綺麗な
  るものを着る迄には、定ったる衣服なし。また八月十日、十一日両日間は豊年踊りとて、男子
  大抵四十才以下のもの打ち集まり、組躍羽躍等をなす。 
            

【名護間切】

 ・正月は元旦より三日間遊ぶ。その内は童子共、巷々へ集りて遊申候。(三日
 ・二月は遊はなし。麦の穂祭る事あり(二月ウマチー)。
 ・三月は虫払いというて日を撰、一日人民耕作止、遊申候(一日)。
 ・四月はアブシ払いと云、日を撰二日耕作を止め遊申候(二日)。
 ・五月は稲穂祭りと云い、日を撰二日耕作を止め遊申候(二日
 ・六月は遊びはなし。稲の大祭りあり。 
 ・七月は十六日、人民耕作を止め遊申候。尤も童子共は饒鼓を用ひ各家庭を廻って遊ぶ事あり。
 ・八月は十日より十一日迄、人民耕作を止め申候。且豊年願いの為毎年組踊する村も有之申候。
 ・九月はなし。
 ・十月はたんとり(種取)と云う。日を撰て、二日人民耕作を止め遊申候(二日)。
 ・十一月はなし。
 ・十二月はなし。


【本部間切】
 ・正月は元日より四日間遊ぶ。その内は童子共巷々に集まりて遊申候。
 ・二月は麦の穂祭と云うものあり。その時は日を撰て、のろくもいは祭りをし、人民は二日間業を止めて各家にて遊ぶ。
 ・三月は、ウンジャメ祭(海神祭)と云うものあり、その時は遊ぶはなし。日を撰て、ノロクモイは火の神所に参詣して祭申候。
 ・四月は虫払いと云うて、日を撰て人民耕作を止め、牛馬を引き浜辺に出づる。その時ノロクモイ勤め済る間は、人民より牛馬
  に至る迄無食す。その勤めを済て後、各家に帰る。
 ・五月は大御願と云うて、ノロクモイ並びに人民烈りて火神所に参詣す。且稲の穂祭と云うものあり。その時日を撰て二日間
 
遊ぶ。
 ・六月は三月に同じ。
 ・七月は十六日、七月念仏と云う遊びあり。その時童子共、三味線を引きて人民の家々も廻りて遊び申し候。且大折目と云う
  ものもあり。その日は凡そ十八、九日頃より廿四、五日頃に限る。その時人民業を止むる村もあり、止めざる村もあり。尤ノロク
  モイは火の神所へ参詣して祭申候。
 ・八月は十一日ヨウカビと云う遊びあり。その時童子共、巷々又は毛へ集って遊び申候。且また、豊年願の為め三・五・七年
  一回組踊する事もあり。
 ・九月には遊びはなし。然れども大御願として、ノロクモイ並びに人民召し烈り。火の神所に参詣す。
 ・十月は遊びはなし。
 ・十一月は遊びはなし。 
 ・十二月は遊びはなし。


2012年12月25日(火)

 
午前中、古宇利小学校の調べ学習。「戦争当時の古宇利校と島の様子」と「古宇利島の民話」の話。民話はナミジさんが朗読。戦争をめぐる話もしっかりメモをとってくれました。今日の話をまとめて発表会にそなえるようです。楽しみです。いい質問ありがとうさん。

 

2012年12月24日(月)

 明日は古宇利小学校の子供達が学習にやってくる。先に質問がいくつも届いている。それに答えるために準備。戦争当時の古宇利島のこと。古宇利島の民話・伝承のこと。その解答を考えておきましょう。なかなか手ごわい質問です。

【沖縄戦の時の古宇利小・島の様子】

 ・昭和19年4月 学校名は古宇利国民学校。瓦ぶき校舎、カヤふき校舎もあった。
 ・昭和19年8月日本軍守備隊が今帰仁に駐留する。陣地構築などで動員がかかる。
 ・昭和19年9月頃伊江島飛行場の設営で生徒が徴用される。

 ・昭和19年10月10日に沖縄全島で米軍の空襲が始まった。

 ・米軍の飛行機がひっきりなしに攻撃してきた。

 ・最初のころ、日本軍の演習だとおもって、命中するたびに西側の森でバンザイバンザイをしていた。

 ・アメリカの飛行機だとわかると、カネがガンガン、ガンガンうちならされた。

 ・全校生徒は泣くもの、走るもの、家に帰るものなど、大混乱となった。

 ・学校の東側の防空壕にかくれたもの。回りのコウ(ガマ)や岩かげなどにかくれたもの。

 ・10・10空襲あとは、毎日のように空襲があり、動いているもの、馬や豚やヤギなどをめがけて爆撃してきた。

 ・多くの家が家庭用の防空壕をもっていたようだ。

 ・古宇利島の沖合に待機していた米軍の軍艦から発射された火球が愛楽園に落ちて行くのをみた。

 ・愛楽園と運天港の爆撃は激しかった。

 ・10・10空襲で那覇の町の90%が焼ける。五万人が焼きだされる。全県で死者800人、家屋15,000軒余が全焼。

 ・古宇利島では校舎や拝所、民家などが被害をうける。

 ・10・10空襲後、天気がいいとB29偵察機がやってきた。

 ・昭和20年3月末になると空爆や艦砲射撃が激しくなる。岩陰や防空壕に避難しつづけた。

 ・昼間は壕にかくれ、夜になると壕からでて芋掘りややさいなど食べ物さがし。井戸からの水汲みは敵の焼夷弾の明かりを
  利用。

 ・壕の中の生活はモグラと同じ、ノミ・シラミ・ギンバエなどが異常発生。

 ・島の人達は、家庭の防空壕や岩場など、あちこちにかくれ、かくれしていた。

 ・昭和20年5月20日午後3時頃、艦砲射撃がトゥンジ浜に結集していた青年団に犠牲者がでた。

 ・どこも危ないということで、多くの住民がスルルガマに移動した(ガマの入口は大潮の干潮時にしかみえない)。

 ・スルルガマに隠れて数日すると、スルルガマの外で銃声が聞こえ「出てこい、出てこい」「命はたすけてやる」と呼びかけ
  られた。

 ・スルルガマの中は騒然となり、東と西の口から逃げ出すのもいた。

 ・昭和20年5月19日、20日に米軍の掃討戦があり、島の人々は水陸両用戦車2台で羽地の田井等に収容される。

 ・戦争前は島から関西に出稼ぎや移民した人達(ペルー・ブラジル・アメリカなど)から送金があり、またも模合などをして 資金
  をつくっていた。半農半漁であった。

 ・はだしでノーパン

 ・芋とミシンシル(味噌汁)

 ・かやぶき家で掘っ立てつくり、アダン葉のむしろ

 ・学校の弁当(昼食:芋三、四個)

 ・トイレのおしりふきはユナの葉

 ・草刈り・芋掘り・水汲み・家畜のえさやり・海に行ってイモ洗いなど  

 ・古宇利島の人達の避難は、屋我地の親戚や知人友人を頼って、物置や豚小屋などを利用させてもらった。

 ・屋敷の片隅や空き地にほったてこやをつくり、食料は古宇利島から運んで生きのびた。

 ・昼間は屋我地島の人になりすまし、荒地をたがやし、芋を植え、夜になると舟を漕いで島に渡る。

 ・芋や野菜をとり、隠しておいた穀物や塩、砂糖、味噌などを分けて持ちかえり飢えをしのいた。

 ・古宇利島への帰島は昭和20年11月半ばに許された。

 ・島への引き揚げると、島の人達は生き返ったように元気をとりもどし松やモクマオウを切りだし、茅や ススキを刈って家を
  つくった。

 ・米軍がひきあげた跡地に行って、テントや棒、板材や角材、ハンマー、ツルハシ、スコップ、毛布や布団、

 ・HPTの服や帽子、パンツや軍くつ、水筒、缶詰、タバコ、ダイナマイトなどを「戦利品」としてあげてきた。

 ・戦利品をもって与論島や沖永良部島に密航し、子牛や豚、ヤギ、鶏などの家畜を持ちかえり、家畜はどん どん増えていった。

 ・戦後の学校が開かれたのは昭和20年12月3日であった。

【質 問】
・戦争中の物資はどうしていたのですか?

・沖縄戦で米軍の空襲やかん砲射撃で、どこの市町村が被害をうけたのですか?
・戦後、古宇利小は教科書や黒板などがなかったそうですが、教科書や黒板はいつから使われた
 のですか?
・戦後の古宇利小の卒業生は何人くらい?
・学校の中に壕(ごう)などはあったのですか?

  
 ▲戦争中古宇利島民が隠れたスルルガマ  ▲スルルガマの内部       ▲スルルガマの内部から外を見る


【古宇利島の伝承・民話】



【質 問】
・古宇利島はほんとうに人類発しょうの地なんですか?
・古宇利島の民話であの世の子育てゆうれいの話が外にもあるのはなぜですか?
・アカングヮー墓のこと。
・セーマにおされたカマドゥーばあさんの話を聞いたのですが、ほんとうにいるのですか?
・古宇利島ではセーマ、大宜味村ではブナガヤといっているのはなぜですか。
・古宇利島でなぜ動物関係が多いのですか?


2012年12月22日(土)

 本部町備瀬のグスク(ウタキ)とウタキ内のイベ。備瀬の小島。小島そのものがウタキではないか。備瀬のウタキはウタキ、あるいは備瀬グスクともいう。その森の中にイベを祭った祠があり、香炉三基、その後方中央に石が一個置かれている。その石がイベである。備瀬の小島は恩納村恩納のヨー島と同様、島がウタキの可能性がある。その事例の一つとみることができるのではないか。

 備瀬の小島はミーウガンと呼ばれ、そこで祭祀が行われる。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)でいう「後の御嶽」と見られる。すると、小島そのものがウタキで島の中の拝む所がイベ。洞窟内にイベにしているのは恩納村では瀬良垣、今帰仁村の運天、名護市鐃辺名などがある。また、島をウタキにして島内にイベの祠を置いてあるのは恩納村恩納のヨー島、本部町備瀬のニーウガン(小島)がある。備瀬には二つのウタキがあり、それは備瀬には少なくとも二つの一族(門)、あるいはマク・マキヨを行政村にした痕跡とみることができる。(備瀬は明治になって小浜村と合体しているが、今のところ考慮していない)

 多くのウタキとイベ、そして集落との関係を見て来ると、『琉球国由来記』(1713年)でいう「神名:・・・イベ」が何か。それが見えてきそうである。


 ▲備瀬グスク(ウタキ)(本部町備瀬)     ▲グスク(ウタキ)内のイベの祠     ▲祠内の香炉とイベの石

  
 ▲本部町備瀬のニーウガン(小島)の洞窟    ▲ニーウガンのイベある洞窟        ▲洞窟内のイベ(石)


  ▲備瀬の小島(ニーウガン)(ウタキ)

2012年12月21日(金)

 恩納村塩屋、資料では『絵図郷村帳』(1648年頃か)に読谷山間切しほや村、前田村が登場する。ところが、その後の『琉球国由来記』(1713年)では塩屋村は登場せず真栄田村は登場する。また、『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)では「真栄田村」に「神アサギ二ヶ所、前ノ御嶽、ノロ殿内火神、塩屋ノ御嶽」とある。ノロ殿内火神と塩屋の御嶽は、現在の塩屋地区にある。

 資料に出て来る村名からすると、17世紀前半の頃、前田村としほや村が別々に存在する。ところが、『琉球国由来記』(1713年)には二つの村が一つの行政村となっている。その頃の真栄田村に真栄田地区と塩屋地区をまとめて真栄田村となっている。その様子は現在の塩屋地区に真栄田ノロドゥンチがあり、公義ノロが任命された時には、塩屋地区も真栄田村内であったことがわかる。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)でも、行政村真栄田村に塩屋の御嶽とノロドゥンチが記されている。二つのムラを行政村に組み込んだ痕跡が祭祀場にみることができる(行政は一つにしたが祭祀は一体化しない法則)

 塩屋のウタキのイベは「天神」として置かれている。ウタキとイベを通してみてくると・・・

  隣の与久田の集落と祭祀場の踏査は、まだしていないので、そことの関係も見る必要あり。


    ▲塩屋の神アサギ             ▲神アサギからみたウタキ    ▲ウタキ内の祠(イベ:天神)

 
 ▲御嶽から見た神アサギとノロドゥンチ跡  ▲塩屋にある真栄田ノロドゥンチ跡

2012年12月20日(木)

 以前、「集落・御嶽・イビ・グスクを見る視点」として、10項目あげてみた。恩納村のそれらの項目をもって前兼久を見ることに。ここで紹介する恩納村前兼久は、Aの移動集落の村、Dの新設した村と御嶽、Iの分村した村の御嶽の事例である。

 恩納間切前兼久村は冨着から分れた村、冨着からの移動集落でもある。『琉球国由来記』(1713年)の頃には分村している。『絵図郷村帳』(1646年頃か)に「上ふづき村」と「下ふづき村」とあり、「下ふづき村」が前兼久村となった可能性がある。『琉球国高究帳』には「ふつき村」のみでてくる。少なくとも18世紀初頭には冨着村(上・下)からの分村、あるいは故地からの集落移動があったと見てよさそう。

 そこでは分村して新しく村を創設した時、ウタキはどうなったのか。そして何故、その村で祭祀を行う必要があるのか。その必要性が首里王府を頂点とした統治の手段であったことが見えてくる。

 前兼久村は冨着村から分離、そして移動、さらに村の新設がなされている。移動先でウタキをつくり、イベ(現在祠)をつくり、イベは故地の冨着に向けてある。祠の内部には香炉が一つ。イベは森のクバの木か、それとも故地への遥拝としている。両方の意味にも読み取れる。

  @集落の発祥地と御嶽(ウタキ)
  A移動集落の村と御嶽とイベ
  B村移動と御嶽
  C複数村の御嶽
  D新設村と御嶽
  E複数の御嶽を持つ村
  Fクニレベルの御嶽
  G御嶽のイベを持つグスク
  H合併村と御嶽
  I分村した村の御嶽

 『琉球国由来記』(1713年)に「前兼久根神火神」があり、稲穂祭のとき、谷茶・仲泊・前兼久・冨着の四ヶ村の百姓が関わっている。祭祀をとり仕切るのはノロではなく前兼久根神である。山田巫は前兼久村を飛び越えて冨着村の祭祀をとり行なっている。前兼久村には由来記当時から神アシアゲが置かれていない。

 村が分かれても祭祀を行う必要があるのは、土地制度との関わりもあろうが、首里王府が出した公事帳を見ると、それぞれの祭祀の休息日(神遊)が決められている。祭祀は現在の土、日など、国が認めた休日に相当する。そのために、村が分かれても、あるいは新設された村で祭祀を行う必要がそこにあったと見ることができる。
 ・移動・新設村である。
 ・移動地にウタキを創設
 ・ウタキの内部にイベを置いてある(現在祠あり)
 ・祠内に香炉が一基。(イベを示すもの)(向きは故地への遥拝か)
 ・根神を置き、根神が祭祀を行っている。

  
  ▲後方の森が前兼久のウタキ          ▲ウタキ内の祠(イベを祭る)     ▲祠内の香炉

2012年12月19日(水)

  「グスク・ウタキを見る視点」として整理したことがある。

【山田のウタキとイベとグスク】
(恩納村のウタキ・イベ・殿・グスクなど)

 恩納村山田は『琉球国由来記』(1713年)のころ読谷山村と称されている。それには「オシアゲ森」のウタキがある。読谷山(山田)村には、オシアゲ森の外に、山田巫火神と神アシアゲがある。そこに山田グスクて何ら記されていない。18世紀初頭には山田グスクは祭祀場としての機能も失っている。グスクは読谷山(山田)村の人々のウタキ(イベ)、つまり山田村の発祥と関係が薄かったと見るべきであろう。山田グスクを築いた一族は他地域からの集団なのであろう。(グスク内にイベがあれば別だが)

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の山田村の祭祀場は神アサギ・後ノ御嶽・ノロ殿内火神があげられている。そこでもグスクでの祭祀はない。後ノ御嶽はメーヌカーがあるので、それに対して後方にあるのがウタキである。山田村の発祥と関わるウタキは後ノ御嶽で、そこでも山田グスクは山田村の発祥と関わるものではなさそうである。そこに護佐丸父祖の墓があるように、その一族と関わるグスクとみてよさそうである(今帰仁への遥拝所の性格もあろうが、山田村のウタキでもある)

 森全体が後ノ御嶽で、その中にイベの祠がある。イベの祠内に三つの香炉が配置されている。殿(トゥン)の祠内の配置である。恩納グスク内の殿と同様である。山原では少ないが中南部のイベのタイプ。祠の後方にはクバ(ビロウ)が繁茂。クバをイベにしている可能性がある。

  
   ▲山田のウタキへの入口        ▲ウタキ内のイベの祠       ▲祠内に三つの香炉を配置
  
 ▲山田のウタキjから眺めた山田グスク      ▲旧集落内にある神アサギ跡  ▲建物内に火神が祀ってある

2012年12月18日(火)

 「集落・ウタキ・イベ、そしてグスク」をキーワードで、恩納村の名嘉真・安富祖・瀬良垣・恩納、さらに谷茶・冨着・前兼久・仲泊・山田・真栄田・塩屋まで一気に踏査。台風の影響で木の枝や葉が吹き飛ばされ、普段見ることのできない場所までスケスケ。見逃していた拝所の確認がいくつかできた。今回の踏査を踏まえて、ウタキとイベ、殿の内部の香炉とイベ、ウタキ内にあった集落、『琉球国由来記』(1713年)に登場する真栄田巫(ノロ)、その時塩屋村が登場してこないが、塩屋地内に真栄田ドゥンチがあることなど、いくつか説明できそうである(すでになされているであろうが)。中頭と国頭との境界領域にある恩納村(間切)の個性が見えてきそうである。(ここでのスタンスは一つのキーワードで見ようではなく、まずは一つひとつの型(個性)としてとらえてみることに)。

瀬良垣のウタキとイベ

 瀬良垣ではウタキをウガンと呼んでいる。ウタキの森の上の方の踏査はしていないが、そこに拝所があれば違った説明になるが、ウタキの中に写真のようなガマがある。そこに古い石の香炉が三基置かれ、すぐ後に鍾乳石がある。それがこのウタキのイベにあたる。

 ただし、『琉球国由来記』でいう「ヨリアゲ森」(二つの御前)が、そこかは未確認。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の「前ノ御嶽」が、現在のウガンと言えそう。瀬良垣はフルジマからの移動伝承があり、そこにウタキがある可能性ある。それとは別に現在のウガン(ウタキ)の形態は、ウガンと呼ばれ森が御嶽(ウタキ)で、ガマの鍾乳石がイベとなっているとみていい。ガマの中にウタキのイベになっている型。(そのような事例は、今帰仁村の運天のテラガマがウタキのイベになっている)

 
  ▲瀬良垣のウガン(ウタキ)                ▲ウタキの中の洞窟の中にあるイベ


【冨着のウタキとイベと集落】

 冨着は集落移動、前兼久の分村など興味深いことがいくつかある。集落が麓に移動しても故地にウタキ、神アサギ、旧家跡、カーなどを遺している。また冨着から分れた前兼久、集落が移動、分村した時、ウタキを造り、祭祀を行うことは何を意味しているか、興味深いテーマである。

 冨着のウタキは下の画像の森全体をウタキである。その森の中にイベがある(今は祠にしてある)。中を見ると線香を立てる香炉のみである。それがイベである。ウタキ内、あるいは近接して神アサギや地頭火神の祠(脇地頭)、旧家がいくつかある。ウタキを構成するのはイベだけでなく、神アサギや旧家などの集落を含みこともある事例である。

 『琉球国由来記』(1713年)の「アフシマノ嶽」が大島の御嶽とするならば、今でいうウタキと見てよさそうである。また『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)でいう「冨着御嶽」もそこと見てよさそう。ウタキのイベを祠にしてあるが、イベは石の一つだった可能性がある。一つのタイプである。 


     ▲森全体が冨着のウタキ          ▲御嶽(ウタキ)の中にある祠(イベ)  ▲祠の内部に香炉が一基


【真栄田のウタキとイベと集落】

 まず、下の画像のように森全体がウタキ。その森(ウタキ)を構成しているのに、イベだけでなく集落があり、神アサギを取り込んだタイプ。真栄田村は隣の塩屋を含む時代がある。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)に二つの神アサギが記されており、「前の御嶽」は真栄田村、「塩屋の御嶽」は真栄田村の内の塩屋側のウタキである。行政上、二つの村として認められていないが、祭祀は真栄田村という行政村になる以前の祭祀形態を踏襲している。真栄田ノロが配置された頃、真栄田と塩屋は一つと捉えられていたことが伺える。真栄田ノロは塩屋側に任命され、真栄田ノロドゥンチも塩屋側にあるのは、そのことを示している。真栄田の神アサギはウタキのイベ(神殿)と神アサギ(拝殿)と一体になっている。

 真栄田村のウタキ(森)に集落があり、イベ部分と近接してあった。神アサギとイベとは合体してお宮の形式をなしている。祠の中に三つの香炉と一つの石が置かれている。奥の一つの石がイベである。イベの前に三つの香炉が置かれるタイプである。

  
 ▲体育館のある森全体がウタキ    ▲ウタキ内のイベの祠(神アサギと統合) ▲祠の中のイベと三つの香炉

2012年12月15日(土)

 出勤前に今帰仁村湧川に立ち寄る。「沖縄の地域研究」で「湧川の按司道と香炉」について触れたので、その確認のため。『湧川誌』に「按司道」について「昔、按司が居住して往来したという按司道が新里家を起点として、四方八方に通じていたという。この道が時代と共に発展して今日の農道や交通路となったと思われる」(25頁)とある。「沖縄の地域研究―湧川の按司道と香炉」

 按司道沿いに香炉が六基あり、最近置かれた香炉もあり、お参りする方がいるようだ。香炉の奥はカー(今は枯れた窪地)になっている。石の香炉の銘が判読できないが、明治以前の香炉であることは間違いない。湧川村を領地として授かった地頭(脇)と関係あるか。あるいは湧川親方朝喬の薩州ゆき(乾隆23年:1758)、向氏湧川親方朝喬の乾隆29年(1764)と関係あるか。

 湧川村の創設は1738年である。湧川地内に振慶名村、我部村、松田村、桃原村などがあった地域である。村の多くが寄留士族である。そのため豊年祭や祭祀は中南部的である。

 
        ▲湧川ノロ殿内跡        ▲ノロ殿内の香炉(三あり)

 
 ▲メンピャーからノト殿内とウタキをみる    ▲按司道の起点となったという新里家


 ▲按司道沿いの香炉(六基)     ▲香炉の向う側の窪地は池      ▲新しい香炉あり

 ▲棒や路次楽など奉納が行われる     ▲新里ヤーの前の按司道         ▲池沿いの按司道

2012年12月13日(木)

 勢理客のインガ集落、インガ(インガガー:犬の湧泉か)の確認、そして古宇利島の遠見所と印部石(オ いれ原)の確認。古宇利島は久しぶり。時々、足を運ばないと変化の激しいことよ!

 
  ▲今帰仁村勢理客のインガガー(犬湧泉か)      ▲古宇利島の遠見所(異国船遠見所)


  ▲古宇利島の遠見所から伊是名と伊平屋島がかすかに見える

2012年12月12日(水)

 師走になると、あれやこれやと会議が多いです。今晩は、「諸志誌」の編集会議。前回の豊年祭の続きです。諸志の出席者とプログラムや出演者や歌詞などの読み合わせや確認作業です。



 


【勢理客のインガ】(安井忠松氏)

 今帰仁村勢理客にインガという集落がある。インガがどのような語義なのかも不明のようである。インガ一帯の様子を安井忠松氏が「幸地新蔵先生ご夫妻の故里―インガ―」(『幸地新蔵先生の思い出』(51頁)として綴られている。

 「山岳から字勢理客を通り過ぎるとゆるやかな坂道になる。この辺りからインガ中道とよばれた石道、砂利道が続く。しばらく行くと大きな水溜まりがある。道路づくりのとき古宇利の人々がインガは水の無いところだからついでに池を掘ったとのことで、今に「古宇利ぐむい」と呼び伝わっている。

 フイグムイの上はシナグ道(シニグ道か)といって渡喜仁、白間方面から天底校に行く通学路になっていて、インガ中道と交叉している。その道を南にちょっと行くとカマボコ型の小高い森で四方がよく見渡される。伊平屋沖を通る船もよく見えるので、名護の「白い煙、黒い煙」と同じように、兵隊や外国渡航の人を見送るために、青松を大量に燃やして、煙をモウモウと上げていたところである。

 またそこの松並木の中に「蛸捕い松」という伝説があった。
 むかし勢理客の神女がその松の下を通ると一羽の鳥が大きなタコをくわえて止っていたので神女一弓で射落したという。それを嘉例(カリー)としてその名が伝わっているとのことである。

 シナグ道(シニグ道か)を東に行くとすぐインガ部落である。インガのことを伊武川とも当地してあるが、その理由もインガという名称も古老に聞いてもわからない。

 部落を更に東に行くとギラマ道を通って、運天に行くのである。
 昔はインガ中道からギラマ道は枝ぶりのよい松並木が運天まで続いていたが、今は一本も残っていない。この道は、運天に今帰仁間切の番所(後に役場)があった頃、西端の今泊から二里の道を腰に弁当をぶらさげて、テクテクと番所通いをした旧村道である。

※インガは犬カーか。インガ集落は高台にあり、その麓にカー(湧泉)があり、そのカーはイヌが見つけたことに
  由来するかもしれない。



          ▲インガ付近の様子(平成3年)

2012年12月8日(土)

 「山原のムラ・シマ講座」は本部町辺名地でした。辺名地へは渡久地から曲がりくねった坂道を上っていった時代がある。今でも車が交叉するには困難である。今回もマイクロバスとタクシーと出っ食わしてしい、タクシーに相当の距離をバックしてもらった。見事な石垣のある家は、調べてみたら石垣のある屋敷とフールは故外間氏所有のもののようだ(下の画像:「本部町の町の移り変わりと人々のくらし」より)。かつて大辺名と呼ばれたように谷茶と大浜を含んでいた。
 
 辺名地の集落は台地上にあり、旱魃などが続くと、渡久地から車や馬車で水を運んでいた。旧暦の5月9日は大御願の日で、辺名地神社や神アサギあたりには地元方々をはじめシマを出て行った人達が集まり大いに賑わったという。

 大浜は昭和22年に辺名地から分区、長小掘川から一字をとってつけた名称である。昭和19年に辺名地から分れた区である。谷茶原にあった集落だったので谷茶区とされた。分区しても祭祀は辺名地と一緒に行っている。旧暦7月23日のシニグには漁船主たちが拝みに参加する。また正月にはアサギの近くに豊漁旗が掲げられる。

 一人ひとりの報告から、次年度も継続して行う決意。お疲れ様でした。感謝!

 
   ▲辺名地の旧家の屋敷の石垣とフール(豚小屋兼トイレ)         ▲故外間氏の屋敷内のフール


      ▲監視哨の跡(現在)   ▲今年度最後のフィールドでしたので一人ひとりの感動的な報告あり!

2012年12月6日(木) 今帰仁村の墓―事例―

 今帰仁ノロの墓の内部を見る機会があった。夏の台風で今帰仁ノロ墓の石積みが崩壊してしまった。内部を見てほしいとの連絡があり、早速職員を伴ってノロ墓へ。横穴の掘り抜きの墓で、積まれた石は比較的やわらかいものである。正面の墓口は海石(珊瑚石灰岩)で非常に軽い。

 石製厨子甕が三基、御殿型の陶製厨子甕が二基、御殿型の陶製(素焼?)の厨子甕一基、蓋のない無頸(ボージャー)一基の計七基が納められている。向って右側にはイケがあり、そこには厨子甕に入れる以前のノロの遺骨とみられる。つまり、厨子甕に入っているノロの以前のノロの遺骨とみてよさそうである。

 今帰仁ノロ宅(ナキジンヌンドルチ)に立ち寄り、位牌も見せてもらった。ノロ墓の厨子甕に葬られているノロは位牌にあるノロと見られる。(その中の無頸(ボージャー)の甕についてははっきりしない)。

 位牌にあるノロより古い方のノロはイケに置かれているとみてよさそうである。石製(厨子甕)に洗骨して葬る習慣以前の時代のノロの葬り方。今帰仁ノロの位牌の古い方は戒名しか記されていない。山原では1700年代から位牌に銘を書き記すとと厨子甕に洗骨を納める習俗になったと見られる。一般的な墓の事例からも。

【墓地内の厨子甕】

 @ABCとボージャ(無頸の厨子甕)には銘はなし。但し、Bには文字らしきものがあるが判読不能。銘はないが、位牌ののろの1〜6代とほぼ一致している(一基のみ不明)。

 @石製厨子甕(銘なし)
 A石製厨子甕(銘なし)
 △B石製厨子甕(銘判読できない)(四代ノロクモイか)
 C御殿型焼き厨子甕(銘なし)
 Dに「五代のろくもい 仲尾次タマ 歳四拾壱」、「明治参拾八年正月弐拾弐日死去 
   明治四拾壱年拾壱月弐壱五日洗骨」とある。
 Eに「大正十五年寅十月十六日死去 六代乃ろくもい 仲尾次たま 二五才 
     昭和六年旧十二月三日洗骨」とある。
 F無頸の厨子甕(銘なし) 

【位 牌】(〇は墓地ののろくもいと一致)
   〇大正十五年寅十月十五日死去 六代乃ろくもい仲尾次タマ
    ・古岸妙寿信女
    霊 位
    ・寿林妙霊信女
    ・心安妙寿信女
   △四代明治五年丙寅五月二十二日死去 歳三十九
   〇五代乃ろくもい 明治三十八年巳正月二十二日死去 歳四十一
  
   
     ▲台風で全面が崩壊したノロ墓             ▲墓の内部を伺う

 
   @A墓の向って左側に石製厨子甕      B正面奥の石製厨子甕

  
  C御殿型の籐製(素焼?)厨子甕       D五代目ののろくもい      E六代目ののろくもい

 
  ▲イケの六名以前のノロの遺骨    ▲無頸(ボージャー)の厨子甕

 
    ▲今帰仁ノロ家の位牌                ▲六名のノロの位牌


2012年12月5日(水)

「奉寄進 咸豊九年 本部按司内」の香炉と本部按司

 本部町の具志堅・伊野波・並里・辺名地に「奉寄進 咸豊九年己未」の香炉がある。これまで確認しているのは六基である。香炉が置かれているのはウタキのイベ、イベの前の祠、そしてお墓の前である。奉寄進の香炉と上国で報告してある。

 
  ▲辺名地のタキサンのイベ香炉        ▲神殿内の祠の香炉       ▲松田仁屋の墓の香炉

 
上の香炉は本部町辺名地の三ヶ所にある香炉である。「咸豊九年己未九月吉日 奉寄進 本部按司内 松田仁屋」とあり、同一の人物である。咸豊九年は1859年で、「本部按司内」とあり、本部按司殿内のことではないか。そこに奉公していた人物が「松田仁屋」なのであろう。その年本部按司朝章が、順聖院様が薨逝なされたので薩摩に派遣されている。六月十日に薩州に到着し、十月六日に帰国している。薩州に赴いていた時、御殿奉公していた松田仁屋が寄進した香炉なのだろうか。他の事例からしても本部按司の上薩州と無縁ではなかろう。香炉は神アサギの後方の祠の中にある。シニグの時に、拝所の扉を開けるので拝見することができる。

 「奉寄進 咸豊九年己未九月吉日 本部按司内 ・・・仁屋」である。人物は並里と伊野波は渡久地仁屋で同一人物とみられる。具志堅は具志堅仁屋である。他の香炉では並里仁屋や仲村渠仁屋などの人物名が見られる。崎本部のウタキのイベの香炉には年号は不明だが、「金城仁屋」とある。


 ▲本部町並里のウタキのイベ        ▲本部町伊野波の拝殿内     ▲本部町具志堅の拝殿の香炉

2012年12月4日(火)

【隆武年の辞令書】
(中国動乱期の琉球の辞令書)

 『比嘉春潮全集』(第一巻 歴史篇T)の後のグラビアに「のろの辞令書」として掲げてあり、本文に「のろ辞令書」についての説明が見つからない。「中国の三藩動乱と沖縄」(201頁)の琉球のスタンスを示すものとしてのものであろう。そのことについて、島袋源一郎は『補遺伝説 沖縄の歴史』(317頁)の「明・清の乱と琉球の態度」でこの辞令書を挙げている。「承応二年(1653)王尚質より今帰仁間切中城のろくもいに賜はりし辞令に、隆武八年と記されている。是れ即ち靖南王の称へた年号で清の福臨の順治十年に当たっているのから考えれば、あるいは順治を称へ、あるいは隆武を用い、その間日和見的態度にいたと推定することが出来る」とある。

 伊波普猷は「その頃から進貢使は空道と称する琉球国王の印璽を押した白表を携帯していて、万一支那の革命の時は直ちに之に表文を認めることにしていたという。以て当時如何に事大主義なりしかを察知すべきである」と。

 隆武年は動乱で1年しかないが、琉球では隆武八年(順治10年:1653)まで架空の年号を用いたことになる。中城のろ辞令書であるが、架空の年号を7年も使っていたわけである。動乱中の弘光元年(1645)の辞令書、それと隆武三年の辞令書があるが(辞令書等古文書調査報告書:沖縄県文化財調査報告書)、二点については動乱中、動乱間もない頃なので、当時の情報の流れからすると致し方ないのかもしれない。

  
     ▲隆武八年の年号の辞令書              ▲隆武三年の辞令書

2012年12月1日(土)

 島袋源一郎著の『伝説補遺沖縄歴史』(昭和7年)にように記されている。

【義本王の末路と南山佐久真王子の行方】 
 国頭村辺戸の口碑に依れば、義本は本島の最北端の辺戸に下り、長者佐久真方に身を寄せたと伝え、辺戸御嶽の北与論島に対している所に辺戸霊御殿と称し、土俗の墓とその赴きを異にする一墳塋があって、昔から義本王の墓と伝えている。墓の周囲は高さ四尺の石垣を繞(めぐ)らし、中に方一間、総高八九尺の石塔を築き、その形恰も屋根の様である。該墳墓は数十年前、尚侯爵家より改修せられたもので、中には方五勺の大陶棺を納めてあるといわれている。その佐久真家は旧藩時代には代々この霊御殿及び尚円王の遺址義名真御殿の看守を勤め、その他の夫役は一切免除されていたという。なお古老の説に依れば、同家には王の衣冠宝物などを秘蔵していたが、七、八十年前同家祝視融の災に罹り遂に焼失して伝わらないと。
  (他の説も紹介)

 
    ▲義本王の墓と言われている辺戸の霊御殿(2006年撮影)