今帰仁村歴史文化センターの調査記録 
        
   
(2013年6月)  
                         
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                                      (館長:仲原 弘哲)
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調査記録(2010年4月)                                 
調査記録(2010年5月)   ・天底のタキヌウガン調査 やんばる研究会 本部町具志堅 奉寄進の香炉と上国
調査記録(2010年6月)   ・山原のムラ・シマ講座へ 平成22年度学芸員実習 北山系統一族のムラと一門
調査記録(2010年7月)  ・企画展―山原のムラ・シマ―  ゆらゆら日記1へ  ゆらゆら日記2へ(9月)
調査記録(2010年8月)   ・2011年の桜の開花状況 Tam1へ Tama2・琉球のノロ制度の終焉(企画展)
調査記録(2010年9月)  ・23年度学芸員(博物館)実習  
・写真にみる今帰仁   仲宗根資料目録
調査記録(2010年10月)  ・調査記録(2011年1月)  ・中城ノロが関わる祭祀
調査記録(2010年11月)  ・調査記録(2011年2月)
調査記録(2010年12月)  ・調査記録(2011年3月)   ・調査記録(2011年4月)   ・調査記録(2011年5月)  
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調査記録(2011年10月)  ・調査記録(2011年11月) ・調査記録(2011年12月) 
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調査記録(2012年9月)   ・調査記録(2012年10月) ・調査記録(2012年11月)  ・
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調査記録(2013年5月)  調査記録(2013年7月

2013年6月29日(土)

 兼次小3年生が2グループでやってきた。一グループは菜美路が、もう一グループは館長が対応。今帰仁グスクは校区の今泊にあります。今富士山が世界遺産になって喜んでいますね。今帰仁グスクも皆が生まれるちょっと前に世界遺産になり、全国から注目されたのですよ。そして、全国から25万人余りのお客さんがやってきます。ちょこちょこ来て勉強して下さい。

 今帰仁グスクから出土したお碗や皿などが、歴史文化センターに展示してあります。その多くが中国からのものですよ。名前のわかっている三名の北山王の名前を教えてましょう。ハニヂ・ミン・ハンアンヂ。以上

 
     ▲兼次小3年生グループが館長と一緒に勉強。「まとめ」たことを四名で発表

 本部町東に忠魂碑(大正4年11月)、戦俸軍人御名之碑(昭和9年12月吉日建立 本部町在郷軍人遺族会)、慰霊塔(1957年7月31日建立)がある。慰霊塔の裏面に「昭和二十年第二次世界大戦に於いて戦没せる勇士の納堂」とある。本部町のいくつかの字(アザ)に慰霊塔があるが、東にあるのは本部町全体の慰霊塔。戦前の忠魂碑は村(ソン)や町全体に一基であった。

   
▲本部町東にある忠魂碑(大正4年11月設立とある)  ▲正面に忠魂碑(大正4年)、左側に慰霊塔(昭和32年)

 
          ▲「戦俸軍人御名之碑           ▲「昭和九年十二月吉日建立)   


 
  ▲本部町東にある慰霊塔(1957年建立) ▲慰霊塔の裏面

2013年6月28日(金)

 昭和60年に今帰仁村湧川の鎌城原付近の小地名調査をしたことがある。その時の調査報告が見つかった。その時、スクミチ(宿道)が小地名として残っていることに気づかされた。この時(昭和60年)の調査の前書きで「今帰仁村は、純農村地域である。そこには、私達の祖先が生活と関わってきた土地がある。生活と関わる中で付けられた地名、あるいは地形にちなんだ地名がある。そして、現在まで受け継がれてきた。これらの地名は、その土地を理解するために、あるいは歴史をひもとく上で貴重な資料(史料)ともなる。地名は地形と切り離して考えるわけにはいかない。・・・・・・湧川の鎌城原も、土地改良が予定されている地域であり、いずれ土地の改変がなされるところである」(広報なきじん 昭和60年3月号)。

 その時の調査メモにスクミチがある。「宿道と記し、王府時代の主要道路。カーソー(川竿)から湧川小・中学校の裏(北)側を通る旧道。この区間は、小さな谷間(迫・サコ)に沿って道路ができている」と。30年近い前の調査記録を見ていると、鎌城原の地名の一つひとつを丁寧に拾っている。スクミチをはじめ、フシクブ、ヘークブ、ウプンチャなど興味をそそる地名もある。

 

 
                                    ▲湧川のスクミチ(ハーソー)(現在)

2013年6月26日(水)

 今日は今帰仁村対の宿道(スクミチ)の痕跡を踏査する。変わってしまって、期待外れかも。
1.湧川のスクミチ
2.クンジャドウの一里塚あたり
3.天底(かつての勢理客)への宿道筋
4.勢理客からインガ付近
5.上運天(ギマラ道:間切番跡碑)
6.上運天の馬場跡(ウンシマの拝所付近)
7.運天集落(運天番所跡)への二つの道
8.大正13年の運天トンネル
9.運天から渡喜仁へのスクミチ(松並木)
10.勢理客(天底)から玉城のフルジマへのワータンジャ
12.今帰仁村の主要のスクミチ(与那嶺の一里塚跡)
13.諸志御嶽内と集落を通る宿道
14.兼次学校前の宿道(かつての松並木)
15.兼次〜今泊(ミチバタガンサ)(旧松並木)
16.今帰仁ノロ家の前(プイヌモー〜集落境)
17.今帰仁グスクへのハンタ道
18.今泊から村境の具志堅(ジャニーガーラ:かつての並松)
19.具志堅の奉行毛(ウマチモー)
20.クシのスクミチ
21.名護―(本部・今帰仁)の三つ土堤

 
  ▲今帰仁村湧川のスクミチ(ハーソー)        ▲運天から渡喜仁へのスクミチ

 
▲明治31年頃まで大井川を渡るスクミチ(ワーンジャー)  ▲運天公民館前のスクミチ

2013年6月22日(土)

 6月19日(水)神社あるいは神社化された字(アザ)を踏査してみた。すべて踏査する時間がないので、数ヶ所のみ紹介します。

【・・・神社・お宮】とある字(ムラ・シマ・区)

【今帰仁村謝名の御嶽と神社】(平成24年6月7日記録)
 今帰仁村「謝名神社」は昭和9年旧8月19日竣工です。御嶽に神社を建立したタイプです。数ヶ所にあった拝所を神社に合祀したが、神アサギ周辺の拝所は戦後再び造られています。鳥居があり、御嶽のイベは神社(神殿)の後ろに残されています。そこに「同治九年午九月 奉寄進 松本仁屋」の香炉があります。
 神社化に向けて動いたのは「発起者 区長 外有志一同」でした。神社建立に向けて寄付者名は全て世帯主です。神アサギを神社に組み込むんで拝殿にはしていません。謝名神社を建立し受け入れながら、これまでのムラの祭祀も行っています。つまり、神社化を受け入れつつ、これまでの祭祀も行うということに注視する必要があります。

 『琉球国由来記』(1713年)には謝名村にはウタキは記されていないが、ウタキやグシク(グシクンシリー)などの地名がある。「お宮」とも呼ぶ。


▲昭和9年にウタキに建立された「謝名神社」 ▲「謝名神社」の碑

【鳥居の設置】

 今帰仁村平敷

【ノロドゥンチを神社化】

宜野座村宜野座

【座間味村阿嘉島】以前阿嘉島のノロ宮(ノロ神社)について触れたことがあるので紹介。

 粟国島で、戦後祭祀を復活するのに躊躇している部分がある。それは、どうも明治43年の「社録処分」、そして昭和初期の各地の神社の建立、さらに昭和18年の「沖縄県知事事務引継」が大きく影響していると見ている。つまり、国策として部落の御嶽や拝所を廃止しようとする動き、部落レベルで根強く継承されてきた沖縄の祭祀。神社建立とノロクモイ廃止に向けての動きは、現在根強く継承されている祭祀の流れが読み取れる。

 今帰仁村上運天のお宮、本部町伊野波のお宮、国頭村辺土名ヌルドゥンチなどにある「敬神」の変額は、「一村一社建立」によるものに違いない。それとは別に、昭和初期に神殿と拝殿を建立した時期がある。その動きについて確認の必要。昭和初期に建設された神殿と拝殿。昭和18年の「一村一社建立」による建立があるようだ。 
 
・昭和18年 全県的に「一村一社建立」を目的とした「神社建立調査会」によるウタキ・
  ウンガンジュ調査あり。
・県当局は沖縄県神社創立計画書を作成、ウタキを神社に移行することにする。

・昭和18年知事事務引継書類に「一村一社建立ニ関スル事項」として以下のように記してある。
   県下ニ於ケル神社ハ官幣小社波上宮、沖縄県護国神社、県社沖縄神社、郷社世持神社
   ノ外無格社ニ琉球八社(略)ノ十三社ニシテ、尚外ニ固有ノ神祇ヲ祀ル御嶽、拝所アルモ、前記
   ノ如ク正規ノ神社少キ為、時局下敬神崇祖ノ実ヲ挙ゲ国民精神ノ昂揚ヲ図ル要切ナルモ之ガ
   普及徹底ニ障碍トナル点少カラズ、就テハ神社ナキ五十町村ニ対シテ五年計画ヲ以テ一村少ク
   トモ一社ヲ建立セシメ県民斉シク祭祀ヲ厳修シ、敬神ノ本義ヲ完フシ・・・・神国郷土ノ基礎ヲ築
   カシメントスルモノナリ(『県史料近代T』(552頁)。

 『座間味村史』(上)によると、「こうした方針に基づいて各町村の古来からの民間信仰の対象である御嶽が、1944年(昭和19)3月を期して神社に移行させられることになったのである。それによって、県内に900あまり存在する御嶽が村社60社、未社(部落)150社を目標に統合されることになり、そしてそれまで神事を司ってきたノロらは当分傭人として用い、次いで正規の神職に切り換えることになった。ただその前に神職候補者を町村長に推薦させ、那覇の世持神社か護国神社で講習を受けさせ、神職として新たに養成することになった。」(326〜327頁)
 

       ▲イビガナシのお宮                 ▲御殿(木下の建物)


▲神社と一体化された阿嘉ノロドゥンチ(ヌル宮)        ▲阿嘉ヌル宮

【ウタキを神社化】した事例(宜野座村漢那)
 「漢那宮」は『琉球国由来記』(1713年)でいう「ヨリアゲ森」(ウタキ)である。そこには二つのイベが置かれている。ウタキを神社化した事例の一つである。祠の中に二つの香炉(咸豊□年)が置かれ、中央部に新しいセメントの香炉が置かれている。神社化するにあたって、神は「氏神」としてある。手前に二つのイベも配置し、ウタキへの配慮もなされている。ウタキ名は「漢那宮」とされる。

 そこでも神社化した(合祀)一方、本来のウタキの姿の復活も見られる。神殿(祠)の内部のご神体としてイベを祀ってあるが、最近その後方にイベを設置してある。

 説明版に以下のようにあり、神社化していく時代の背景が読み取れる。
   「沖縄戦前、海浜性の樹木が繁るユアギモーの聖域であるイービメーの一帯には、左縄が張り巡らされ、男子禁制の
  場所でした。
   また日支事変の影響による軍事思想の高揚により、1938年(昭和13年)には、漢那出身の海外在住者の寄付等によっ
  て、イービメーの石灰岩の上に神道風の神殿が造られています。
   その後、イービメーは「お宮」と呼ばれるようになり、太平洋戦争時、漢那から出征する青年は、お宮で武運長久を
  祈願しました。
   なお、お宮を建てる前、イービメーの岩の後には、骨神を入れた骨甕が安置されていましたが、現在、その骨甕は
  お宮の脇に造られた祠に納められています。」

 
▲鳥居と神殿(平成9年再建)    ▲昭和13年建立当時の「お宮」(写真は説明版より)

 
▲イビヌメーの後方にあった骨神は神体にしなかった。祠内(神殿)の内部(御神体は氏神)

2013年6月21日(金)

 午前中、京都府立大学(歴史学科)の学生が「今帰仁の歴史・文化」をテーマで来館。今帰仁の概況と文化財(今帰仁の文化財ガイドブックを活用して)、そのあと慰霊塔(忠魂碑)についてレクチャー。ある博物館と集客での展示概要。その館にとって興味深い人の流れについて。

 


2013年6月17日(月)

 18日から20日まで、歴史文化センター(館内)くん蒸のため、HPも休みます。

 「今帰仁と戦争」の企画展の準備にはいる。

 
  ▲戦争遺跡と村内の慰霊塔のコーナー            ▲戦争への道のり

2013年6月15日(土)

 宜野座村宜野座と漢那の踏査。「やんばる学研究会」の会誌(創刊号:150頁)編集(入校)、平敷の「てぃーびガジマル」の校正、ある本の1000頁(上・下)の最終校正など。そして「ムラ・シマ講座」で頭も体力が突きました。お疲れさん。でも、金武町からの参加者からターイモのパイ?の差し入れがあり、また元気もりもり。ありがとうございました。また、金武町近くにしましょうかね。

 
▲歴史文化センターで宜野座と漢那のレクチャー      ▲漢那ノロドゥンチでの説明

2013年6月14日(金)

 今週は以下のテーマで頭と体が動きまわっています。さて、明日は「宜野座村のムラ・シマ」をテーマとしたムラ・シマ講座です。宜野座と漢那の一部踏査。興味深い二つのムラです。

 ・戦争遺跡
 ・慰霊塔
 ・戦争と関わる資料
 ・企画展―今帰仁と戦争
 ・墓確認
 ・湧川の塩田跡

  
     ▲運天の防空壕       ▲運天の海軍の施設?           ▲呉我山の慰霊塔


2010年12月1日(水)から調査が進んでいません!

 今帰仁村上運天の浮田港(現在運天港という)にある特殊潜航挺(蛟竜隊)の魚雷艇の収納壕(字有地)と、同村渡喜仁のハキジヌメーの壕(個人有地)までいく。上運天の魚雷艇の格納庫は数ヶ所にあったというが、今のところ一ヶ所確認できる。確認できる格納庫は上運天の『琉球国由来記』(1713年)でいう「ウケタ嶽」とあるのが、このウタキである。ウタキへの登り口に「浮田御願所」(昭和63年)と掘られた碑がある。「運天港から浮田港にかけて数ヶ所に壕があったけどよ」とのこと。「その壕の前に網、いや木の枝を被せて隠してあったさ」とのこと。

 渡喜仁のハキジヌメーの壕は、運天の浮田港から2kmほどの場所にある。戦前、仲宗根にあった製糖工場から浮田港までトロッコで黒砂糖を運搬していたという。その路線を利用してハキジヌメーの壕から浮田港まで魚雷艇に関わる品々を運ぶ予定ではなかったか。その壕を掘った方々から話を聞いたことがあるが、その壕は使われなかったのではないかと。

 魚雷艇の格納庫だと聞かされていたが、内部の構造をみると、格納庫にしては魚雷を格納するというより、いくつかの部屋があり、指令室や弾薬や炊事場などの施設として掘られているのではないか。その壕を掘るのに動員された婦人達に古宇利島の方もいる。「女性も動員されたのですか?」の問いに、「あっせー、男の人達はみな戦争に駆り出されているさ。女しかいなかったさ」と。


▲上運天の浮田港にある魚雷艇の格納庫の内部。   ▲格納庫の内部から(内部は天井が崩壊)


  ▲渡喜仁のハキジヌメーの壕。内部でいくつかの部屋に分かれている。

2013年6月11日(火)

 「羽地域の歴史とムラ」をテーマとした講演を行う(やんばる学研究会)。蔡温と羽地、羽地朝秀(羽地按司)と羽地についても触れる。「改決羽地川改碑記」と「三府龍脉碑記」について、報告したことがある(『名護碑文記』(昭和62年)。書き改めなければならないヶ所があるが、当時の記億を呼び起こして、そこから元文検地と印部石、羽地大川沿いへの村(ムラ)移動、そしてノロ管轄、移動先での祭祀などについて述べることにする。「「三府龍脉碑記」では都の移転、屋部川の開鑿などについて述べることに。まずは、当時のことを思い起こすために、当時のまま掲載することに。

【改決羽地川碑記】

 この碑は、親川の小字碑文の前」(ピームイヌメー)の小高い丘(ムイ)にたち、県指定の史跡(文化財)となっている。ピームイヌメー(碑の丘の前)という呼び方は、そこに碑が建ったことによる。

 現在(当時)建つ碑は、道光10(1820)年に再建されたものである。碑再建の理由は、「原碑敗壊に因り」と記すように、碑が壊れていたことや、そのままでは改修の顛末を後世に伝え難いとの判断による。しかし、再建された現碑も百五十年余りの歳月を経て、刻まれた文字の大半が判読できないほど磨滅している。

 最初の碑の建立は「皇清乾隆九年歳在申子仲春穀旦」、つまり1744年陰暦二月吉日で、蔡温が羽地大川の改修工事を竣工させてから八年三カ月後のことである。文の謹撰は副通事鄭文龍常健による。

 この羽地大川改修工事は国家的大事業であった。この工事の経緯については、「羽地大川修補日記」(1736年)に克明に記されている。それによると、雍正13(1735)年7月に大雨が降り、大洪水となった。これまで度々反乱を起こしていたが、今回の大洪水は羽地間切では手に負えず、王府に修補(復旧)を願い出た。それを受けて、王府は蔡温を総指揮者として多くの役人を羽地に派遣した。8月22日には東海岸から羽地大川を経由して羽地に入り、早速被害状況を見て回った。24日に川筋の測量を終え、26日にほぼ工事図面の作成を終わった。25日には上様(尚敬王)も現場を視察している。その工事には、羽地間切はもとより山原の各間切、さらに離島の伊江島からも人夫(夫役)が徴集された。9月2日から11月15日までの80日余りの間に延べ人数にして10万人以上を要した大工事であった。

 近世琉球におけるこの大土木工事は、様々な点で注目される。まず技術的には、中国の地理学(今でいう風水・国土計画・都市土木工学を合わせたもの)を身に付けた蔡温が総指揮をとり、川の流れを逆流に正すことを基本とした。

 決壊箇所を含め、川筋の形を「金形、水形」に直し、堤を整え草を茂らせて補強とした。河川敷の堤を取り除き、用水は「浮溝」によることにした。工事から以後の管理まで一貫した技術・理論が使われている。

 第二に、工事着手まで僅か十日間に、調査・測量・設計をはじめ、人夫の手配と使役を含む全ての準備を整えたことである。そして、工期は三ヶ月足らずという迅速さでった。

 第三に、9月から11月というのは、当時では米作準備の一番大事な時期であった。この時期に、延べ10万人に及ぶ百姓を徴用することは、大きな危険を押しての事業であった。

 羽地大川を改修し、流出した田を整備することが、羽地地域の安定に加え、琉球王府にとってそれでょの重要課題であったわけである。この事業に要した莫大な経費は、全琉すべての「正頭」に賦課された。

 この「羽地川改決碑記」は、単に蔡温が行った大川の改修工事の業績を顕彰しているばかりでなく、山は原間切から10万人余りの人々が夫役に駆り出されたことも忘れてはならない。


 
▲現在の改決羽地川碑記        ▲図は名護市史(中村誠司氏作図)

  
 ▲羽地ダムから現在の大川をみる       ▲河部祖河川の下流域   ▲下流域で奈佐田川は河部祖河川と合流

 羽地ダムから流れ出す羽地大川、かつては田井等・振慶名方面へ流れていたが、昭和13年に仲尾次へ流域の変更、完成する(左)。真中の画像は上流部で金川(ハニガー)、途中から我部祖河川となる。途中内原あたりからも流れ(深田川)が合流する。右の画像は下流域で奈佐田川と旧羽地大川と合流し呉我で羽地内海へ流れ出る。

2013年6月8日(土)

 今帰仁村湧川の佐我屋原のやがんな島と手々原の塩田跡を踏査する。四名の方々の案内を兼ねていたので、頭の中は塩漬け状態なり。明治36年の「今帰仁間切湧川村全図」と上空からの画像を出してみた。戦後「一筆限帳」で塩田の地目と当時の塩田所有者が確認することができる。現況はそのほとんどが原野である。ここでの目的は、かつての塩づくりについての調査を目的としている。

 今回の踏査で水門への海水の流入の場所の設置は風水を見たのか、あるいは海水が入りやすい場所に設置したのか。塩田の高さは満潮時、干潮時も勘案しているようである。塩田近海の海水の濃度の測定をしてみるのもいい。塩づくりをした方々の家には道具類があるかもしれない。昭和30年代まで一帯で塩づくりがなされているので、聞き取り聞き取り調査も急ぐ必要がありそうだ。

 散乱している塩田の石垣もいくらか元にもどせないだろうか(所有者の了解が得られそうなところがある)。そんなことを考えながらの踏査と、20年前の調査を思い出しながら・・・。7月の「山原のムラ・シマ講座」は湧川の予定なので、今日の踏査はその下調べみたいなもの。びっくりするような塩炊き場をお見せしましょう。蚊やアダンの中ですからご用心。

  
▲明治36年の湧川村全図      ▲上空からみた塩田跡地            ▲明治27年に発行された地図(塩田)

2013年6月7日(金)

 「今帰仁の戦争」の企画展の準備にはいる。戦争に関わる戦前、戦後資料、関係資料を取りだし作業。宮古島報告は改めて行います。(しばらく、多忙なり)

  
        ▲平良新助翁資料(戦後の人脈・・・)                ▲新城(相川)徳佑ノート

2013年6月4日(火)

 明日は宮古での研修会。50年前の宮古のアルバムに目を通してみる。いつもその変わりように驚かされます。宮古の下調べする時間がないので・・・。昨年多良間島、宮古島を訪れているはずだが。

 
  ▲宮古の街では、まだ馬車での運搬       ▲宮古の漲水港での木造船づくり


   ▲宮古神社(屋根には十字架)        ▲宮古中央郵便局(隣の石垣は警察署)

「羽地の語義」

メモ
 琉球の梵鐘の鋳造場所について、「琉球のこれらの梵鐘は往時羽地村金川に鉱山もあり、琉球で出来たという伝説も多い」。「琉球の梵鐘について」(外間正幸氏)参照のこと(『沖縄県文化財調査報告、1956〜1962年』)。
 『沖縄の地名考』宮城真治の「羽地という地名の本義に就いて」に目を通す。

2013年6月1日(土)
 
 「羽地地域の歴史とムラ」(仮称)をテーマに講演をする予定です。羽地地域の歴史は30年前、『角川の沖縄の地名』辞典の執筆で関わり、沖縄研究のスタートの地でもあります。そのこともあって思いの深い地域です。

 久しぶりに「羽地地域の歴史」的は出来事を整理してみます。羽地間切域の「方切」と村(ムラ)移動、羽地大川(大浦川)の改修と村移動など。それと「羽地」の語義について伊波普猷と宮城真治の論争があります。両先生とは別の視点から考えてみます。(果たして、その結末は!)

 ここでの「羽地域」は羽地間切(旧羽地村)域を指しています。「羽地」の語義から考えてみる必要があると常々考えている一人です。

 『絵図郷村帳』(1649年)と『琉球国高究帳』(1664年)では「羽地間切」である。それ以前の「おもろさうし」(第13巻―71)では「いへの はたころ あちにせ(に) なりよもい まはねぢは あんしおそい みおやせ 又はなれ はたころ あちにせ なりよもい」、同巻―72では「しも月か たちよれは あん まちよれ まはねじ まはねじや きもからも さらん 又 わかなつか たちよれは」とあり、羽地は「まはねじ(ぢ)」(同書で表記が二つ)(真羽地)と謡われています。音としては「ハニヂ」か「パニヂ)か。

   

 「はねちまきり」(羽地間切)のノロ関係の辞令書が二枚あり、そこでは、「はねしまきり」(両者ともはねしです。1622年と1625年頃は、公文書(辞令書)の表記の過渡期で、羽地間切の表記は、まだひらかなで「はねしまきり」である。「おもろさうし」では「ぢ」と「じ」とあり、辞令書では「し」と表記されている。ハニジあるいはパニジの音を「はねじ」「はねぢ」「はねし」と表記したのであろう。その表記を漢字の「羽地」を充てたとみられます。

 
   ↑
  首里の御ミ事
    はねしまきりの
    屋かのろハ
    もとののろのうまか
  一人おとうに
    たまわり申候
  天啓五年四月廿日

 
    ↑
  首里の御ミ事
  はねしまきりの
  大のろくもひ
  もとののろのうまが
 一人ひやかなに
   たまわり申候
  天啓二年十月一日

[大浦川と羽地大川]

 1735年の『修補日記』では「大浦川」、改修後に「羽地川」、「羽地大川」と呼ばれるようになります。すると、羽地の名称は羽地大川に由来するとは言えません。羽地大川に由来するのであれば「大浦間切」となったであろう。『琉球国旧記』(1732年)の「江港」でも「大浦江(川上邑)」とあり、羽地間切の名称にあてられるようなりっぱな川ではなかったのでしょう。大浦川から羽地大川への名称替えは、蔡温の大浦川改修工事がきっかけです。

 「おもろさうし」や二枚の辞令書は、大浦江(川)と呼ばれていた以前のことです。ですから羽地大川に「羽地」の語義を求めるのはどうだろうか。ならば、別の視点で考えられないか。

「羽地の語義」についてへ


・「羽地間切の方切とムラ」
・「羽地大川の改修とムラ移動」
・「羽地間切の主村と番所」
・「親川(羽地)グスクと羽地(親川番所)
・羽地間切のノロ管轄と祭祀
・羽地按司と羽地間切の村々
 その他