2010年12月30日(木)

 御用納めがすんでも、今年の締めができません。1月4日のラジオ番組(NHK)の予告をしましたので、それで今年の締めにします。正月休み中に、三、四本の原稿をアップしましょうかね。一年間、お陰さまで体調を崩すことなく、マイペースで過ごすことができました。しかし、ボケが多く回りに迷惑をかけることしきり。新年もボケの連続となりそうです(まだ、その自覚があるので大丈夫かな?)。

  よいお年をお迎えください! 一年間、ありがとうございました。


2010年12月29日(水)

一年間の動き(調査記録)を振り返ってみることにしましょうか。

 「正保国絵図」(1646年)に「異国船遠見番所」と与論島と古宇利島の二ヶ所に記されている。烽火台が置かれたのは、それより二年前の1644年のことである。烽火台が設けられたのは久米島、慶良間島、渡名喜島、粟国島、伊江島、伊平屋島、それと古宇利島と与論島にも「異国船遠見番所」がある。これまで訪れた遠見番所、火立所、火番所、火番台、火立森(ピータティファイ)と呼ばれる場所を手掛りに、各地の出来事を拾いあげてみる。まずは、目の前にあるアルバム(宮古多良間島)から。「烽火制と近世の琉球」として講義(「沖縄の歴史」)をしましょうかね(かき集めてみます)

 【沖縄本島】
  ・御冠船や帰唐船の場合は一隻の時は一炬、二隻の時は二炬を焚く。
  ・その他の異国船の場合は三炬を焚く。

 【両先島】
  ・地船と唐船は立火二つ
  ・大和船が三つ
  ・異国船は四つ
    (昼間は立煙のみで合図) 

 『球陽』(1644年)に「始めて烽火を各処に設く」
  本国、烽火有ること無し。或いは貢船、或いは異国の船隻、外島に来到すれば、只、使を遣はして、以て其の事を稟報
   するを為すこと有り。今番、始めて烽火を中山の各処並びに諸外島に建つ。而して貢船二隻、久米・慶良間・渡名喜・粟
   国・伊江・葉壁等の島に回至すれば、即ち烽火二炬を焼き、一隻なれば即ち烽火一炬を焼く。若し異国船隻有れば、即
   ち烽火三炬を焼き、転次伝へ焼きて、以て早く中山に知らしむるを為す。


沖縄本島北部西海岸の遠見台】(2009.7.7/7.13)
粟国島の遠見台跡と番屋(2007.11.11)
【宮古の遠見台】
【伊是名の遠見台】
【波照間島の遠見台】
【黒島の遠見台】
【竹富島の遠見台】
【渡名喜島の遠見台】
座間味島の番所山】(2007.11.25).
【古宇利島の遠見台】
【伊江島の遠見台】
【与論島の異国船遠見所】
【宮古多良間島の遠見台】

 多良間村は宮古島と八重山島の中間当りに位置する島である。島に渡ったのは21年前のことである。島には八重山遠見台と宮古遠見台がある。多良間島近海への遭難を掲げる(一部)が、遠見番も関わったであろう。
 ・福建省泉州府の人達21人が多良間島に漂着。翌年2月宮古島へ送られる(乾隆32年:1740)
  ・乾隆21年(1756)異国の小舟(3人)が漂着し、7月5日に宮古へ送り届ける。
  ・乾隆32年(1767)沖縄本島から宮古、八重山での御仕置のためやってきた役人が
     暴風にあい行方不明。
  ・乾隆51年(1786)1月7日水納島へ唐船が漂着破船する。乗組員25人で同月4日宮古島へ。
  ・嘉慶17年(1812)八重山島定番船が下島の際多良間島で破船し、乗組員は宮古島を
     経て八重山へ。
  ・嘉慶18年(1813)八重山御米槽船が多良間島で破船し、御物穀(穀税)は潜って引き揚げて
      宮古島から沖縄島へ送り届けられた。
  ・嘉慶19年(1814)八重山の飛船、久高丸が多良間島で破損、御物穀は潜って引き揚げ宮古島を
      へて王府へ届けられる。
  ・嘉慶19年(1814)朝鮮人5人が多良間島に漂着。
  ・多良間に異国船一隻、漂着す(1840年)
  ・多良間に異国船一隻漂着す(1844年)
  ・多良間にオランダ船来航す(1857年)(高田浜の顕彰碑)
  ・日本奥州の人、多良間に漂着する(1859年)
  ・多良間よりの上納運搬船漂流する(1873年)


【多良間往復文書控】(『多良間村史』第2巻 資料編Ⅰ「王国時代の記録」所収)がある。その中に「遠見番の報告」(明治16年正月18日~7月13日、明治20年3月~19年)がある。同書の解説されているように遠見番がどのような報告をしていたのか非常に興味深い。遠見番の報告(明治16年正月27日~2月6日)の例。
  明治16年正月27日 己酉曇天風寅之丑之方時々小雨降
          同28日 庚戌曇天風子丑之間
          同29日 辛亥曇天風子丑之間
        二月朔日 壬子曇天風寅卯之間
          同 2日 癸丑晴天風辰己之間
  一 火輪船壱艘四ツ自分申酉之間より走出前之沖より宮古島之様走通候事
          同 3日 甲寅曇天風子丑之方時々小雨ふり
          同 4日 乙卯曇天風丑之方時々小雨降
          同 5日 丙辰曇天風寅之方
          同 6日 丁巳曇天風丑寅之間七ツ時分より雨ふり    


        ▲平成元年に多良間島での沖縄県地域史協の研修会(八重山遠見台)


        ▲平成元年に多良間島での沖縄県地域史協の研修会(宮古遠見台)

2010年12月22日(水)

 運天港の写真の提供があった。運天港の護岸の移り変わりの一端を示す写真である。受け取った玉城菜美路のメモ(「当時、山原(やんばる)が好きで、おじいさんはよくやんばるに足を運んでいた。その頃の写真。戦後中(戦後間もない頃か)の写真である」と。

 提供いただいた写真の護岸の確認に運天まで行ってみた。現在の道路沿いにしっかりと石積みが姿を見せている。付近の方に伺ってみると、「戦後、最初の護岸工事で石積みのイシゼェーク(石細工)は玉城の人だった」。「護岸の石は名護の世富慶あたりから」などの話が伺えた。戦後間もない頃の大規模の護岸工事なので、記録が残されていると思われる。断片的な記事は二、三確認している。

 写真に写っているのは護岸工事をしていた方々の作業の出で立ちなのであろう。テンマ船もあり、帆を掲げて運航したと見られる。後方の森の形はほとんど変わることなく今に伝えている。戦後積んだ護岸と明治末の様子を比べて見ると、古くからの護岸をさらに積み上げたように見られる。あるいは古い護岸を包み込むように積み上げたのかもしれない。
 
 戦後積まれた護岸から海側を埋めたてて道路が通してある。以前の護岸の石積みは道路の淵とななっていて、石積みの上部が写真のようにしっかり確認することができる。一枚の写真の出現で、運天港付近の海岸線の変遷を明確にすることが可能である。 

 咸豊7年(1857)の『御首尾扣帳』(今帰仁番所所蔵:宮城真治)に、「三月三日、五月四日は番所の前、アブシバラヒは仲原馬場、八月十一日親泊馬場に馬場揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸重壱次持参、見物仕申候」とあり、三月三日と五月四日は運天番所前の馬場で馬を揃え、役人たちが七寸御重を持参して見物している。運天の番所前の様子が伺える史料である。



            ▲明治末頃の運天港の様子「望郷沖縄」より


    ▲運天の護岸前での集合写真(昭和15年3月)(水産教習生)


    ▲戦後間もない頃の運天港付近の様子                   ▲現在の運天港の護岸


   ▲戦後間もない頃の護岸(上の写真の護岸が道路の淵石として鋸っている)

2010年12月20日(月)

 徳之島に「琉球的なもの」をいくつも見てきた。その多くが古琉球から引き継がれているもの見てよさそうである。グスクのつく地名やグスク(玉城・大和城・大城・宮城・山城など)、崖の下や崖中腹の墓、古琉球からのまきり(間切)、ノロ(ノロクメ)、按司などが今に伝えている。地名が琉球と共通するのが以下のように見られる。久志(久志)・母間(部間)・手々(手々)・兼久(兼久)・平土野(辺土名)・瀬滝(瀬嵩)・与那間(与那嶺)・面縄(恩納)・喜念(知念)など。琉球の歴史の三山統一以前、統一から島津の琉球侵攻まで、薩摩への分割以後とに分けて徳之島の歴史文化を見て行く必要があることを実感。グスクが機能していた頃の湊や中国などとの関わり。徳之島産のカムイ焼きの島外への移出。

 それと琉球の歴文化の上に薩摩からの導入、徳之島の人々が受け入れたもの、変容しながら受け付いているもの、古琉球から根強く継承してきたもの。それらが複合的に今に引き継がれている。そのような印象を持ちながらの徳之島(特に天城町)行きであった。


      ▲1日目の委員会                        ▲2日目の講演会


 ▲徳之島(天城町)の玉城城跡(建物後方の森)  ▲玉城城跡の上のテラス部分(畑地となっている)

2010年12月14日(火)

 15日~18日まで徳之島へ。調査と「徳之島と琉球」の報告の予定。レジュメを準備してみた。調査の目的は別にあるが、その報告は戻ってからする予定。
   はじめに
   1.島津軍の琉球侵攻と徳之島(1609年)
   2.西郷隆盛の流刑と奄美(龍郷)・徳之島・沖永良部島
   3.徳之島に漂着した船とその処理
   4.古琉球の辞令書と「まきり」(間切)
   5.琉球(首里王府)からの奄美へのノロ辞令書
   6.古琉球の痕跡としての地名、グスク地名、墓、入墨など
   7.奄美の琉球的なものの禁止
   おわりに




 大学での講義は「地域文化―国頭村辺戸―」を事例として。「山原のムラ・シマ講座」をベースにして。


2010年12月11日(土)

 国頭村辺戸までゆく。辺戸はクニの祭祀とムラの祭祀が混合している場所である。シチョラウタキにある石燈籠、そこでの御水取りのウガン。それとは別に辺戸の神人を中心としたムラの祭祀。安須森は辺戸の人々のウガンの対称になっていないようだ。今帰仁グスクやクボウヌウタキの祭祀に今帰仁阿応理屋恵が行っていた祭祀が、1665年に首里に引き揚げたことで今帰仁ノロが肩代わり。同様なことが辺戸のシチョラウタキでの祭祀に見られる。シヌグモーまで行ったのは辺戸や安田などではウンジャミとシニグが交互に行われている。それは何故だろうか。また、ウタキとイビとイビヌメーは明確に意識して説明する必要があることなど。様々なことを考えさせる場所である。いいムラです。辺戸は!
  (今年度最後のフィルドワークでした。参加者の皆さん。お疲れさまでした)

 ①オランダ墓
 ②宜名真集落とオランダ墓
 ③宜名真の「戻る道」と茅打ちバンタ
 ④當山正堅先生の碑
 ⑤義本王の墓
 ⑥シチャラウタキ(イビヌメーとイビ)
 ⑦大川(ウッカー)
 ⑧辺戸ノロドゥンチ
 ⑨辺戸の神アサギ
 ⑩シヌグモー
 ⑪辺戸の集落と安須森
 ⑫宜名真殿内

         ▲辺戸の宜本王の墓                 ▲辺戸の集落内の散策

2010年12月10日(金)

 明日は今年度最後の「山原のムラ・シマ講座」。レジュメづくり。国頭村辺戸は沖縄本島の最北端。それとクニレベルのウタキ(安須森)あるムラ(字:アザ)である。それと首里城が辺戸の大川(ウッカー)で「御水取り」の祭祀が行なわれる。もう、大川への道筋が清められているようなので、そこまで行くことは遠慮する。神アサギで説明することに。

 
      ▲辺戸の集落からみた安須森            ▲シチャラウタキのイビヌメー

2010年12月8日(水)

 明日は「久米島の歴史と文化」をテーマに講義をします。グスクとムラとの関わり、ウタキとグスクとの関わりを中心に講話。11月久米島で報告したものに近世の久米島の歴史的なことを追加することに。
「ムラ・シマ講座」の「国頭村辺戸」のレクチャ。ノロ関係の史料の整理。17日には辺土名高校生達の講話の依頼。その日へ徳之島なので職員にお願いすることに。ハイ

 





2010年12月7日(火)

 「地域文化―伊平屋・伊是名島のムラ」(大学)と初任研(高校)のレクチャーがある。それと玉製品(勾玉と水晶玉(ガラス)、「ムラ・シマ講座―国頭村辺戸―」、さらに徳之島の天城町など次々と続く。一つひとつ片づけていきましょう。






2010年12月4日(土)

 今帰仁グスクまで登る。天気よし。50名の「沖縄カレッジ」の皆さんへの講話。関心のある方々なので、質問があれこれ。グスクから歴史文化センターに移り、そこでまた歴史談義。「今帰仁グスクは1416年に滅びるが、監守は1422年に置かれるが、監守が置かれるまではどうだったのか?」。運天にいく時間がなかったので舘内で運天の歴史を説明。運天での関心の一番は「源為朝公の琉球渡来」のことである。

 ありゃ、まだ先週まで蝉が鳴いていて、今日の青空の天気で夏気分。ところが「桜が咲いていますよ」と教えてもらい、改めて夏よさよなら、冬がやってきているのだと季節感を改めることに。





2010年12月3日(金)

 明日は「県民カレッジ」のメンバー(約50人)がやってくる。「北山の歴史」と「運天の歴史」のレクチャーをする。来週の火曜日の大学のクラスは伊平屋と伊是名島をテーマに講義。


2010年12月2日(木)

 中旬、徳之島までいくのでその下調べ(特に天城町)。時間が許せば徳之島町と伊仙町まで。これまで数回行っている。しかし、天城町については上滑り。2007年に行った時、徳之島町から反時計回りに回っているが天城町の途中で終わっている。これまで古琉球の琉球的なことを視点に見てきたような気がする。グスクや墓や間切、薩摩の琉球侵攻の徳之島での様子など。

 今回は天城町のムラと集落、そこに眠っている歴史や文化遺産を拾いだしていくことを狙いとする。以前、徳之島に漂着した出来事を拾った記憶がある。それと手々(現在徳之島町)の古琉球の辞令書のこと。時間があれば手々まで行くことにする。2007年の調査ノートを見ると、当時の関心は、
  徳之島の三つの間切(西目間切・東間切・恩納(面縄)間切)
            間切の中の噯
    ・西目間切(岡前噯6ヶ村・兼久噯9ヶ村)
    ・東間切(井之川噯7ヶ村・亀津噯5ヶ村)
    ・面縄間切(喜念噯7ヶ村・伊仙噯9ヶ村)
それとグスクや地名などである。今回は、それらも頭にあるが・・・。依頼者の意向に沿った中身にしなければならない。まだ、企画書が届いていないので取り急ぎ各ムラの出来ごとや文化遺産の抽出をしておくことに(15日までにはまとめる)。

 
   ▲徳之島三町の字(ムラ)          ▲天城町平土野港           ▲天城町瀬滝のセンター

①西阿木名
 ・三京線刻画
 ・西阿木名遺跡
 ・下原1遺跡
 ・下原2遺跡
 ・下原3遺跡
 ・下原4遺跡
 ・明治20年(1887)に大島の阿木名と区別するために西阿木名村と改称する。
 ・アギナはせり上がった焼畑の地のことか?(天水田をアギタという。アギナのナは地名空間を示す語)
 ・瀬滝の南に位置する。
 ・東部に井之川岳、丹発山、剥岳、南部に犬田布岳あり。
 ・北を秋利神川が流れる。
 ・西の谷を下ると「おおよし」の集落あり。
 ・秋利神川を下ると阿木名泊がある。
 ・西阿木名内に秋利神、三京田(みきょうだ)、花徳道などの地名がある。
 ・西目間切兼久噯の村。
 ・正保琉球国絵図に村名の記載なし。
 ・海岸部に「あきり神川」とあり「歩渡り」ともある。
 ・「三州御治世要覧」に西目間切十五ヶ村のうち「阿木名村」とある。
 ・山手の拝所あり。
 ・マチャンの泉あり(断崖、水質よし)。
 ・阿木名泊は猟師が利用した港、密貿易を行った湊で秋利神に近い。
 ・軍人山寺があり、明治に破壊を逃れるため牛の守神、権現様などの名称変えをする。


②瀬 滝
 ・長竿遺跡
 ・秋利神線刻画
 ・大津川の南に位置する。
 ・南を秋利神川が流れる。
 ・西目間切兼久噯のうち。
 ・正保琉球国絵図に「西目間切之内せたき村」とある。
 ・「琉球国郷帳」(1668年)に西目間切三ヶ村のうちとしえ「せたき村」とある。
 ・「三州御治世要覧」( )では西目間切三ヶ村のうちに「阿瀬滝村」とある。
 ・1852年(安政3)当時、砂糖樽の津廻運賃は樽一挺につき平土野から秋利神まで米七合とされる。
 ・秋利神川西岸に倉跡とされる地がある。
 ・地内の戸森は琉球松の山地で用材とした造船が行われていた。
 ・船田に残る岩の無数の舟の絵。鍛冶の鞴の筒先が出土。
 ・「おもろさうし」(第13)に「徳山の 親御船は・・・」は瀬滝を謡ったものか。
 ・秋利神川の川岸の断崖に古く風葬墓に用いられて洞穴が残されている。

  ▲天城町瀬滝地区構造改善センター

 ③大津川
 ④兼久
 ⑤平土野
 ⑥天城
 ⑦浅間
  ・天城町の中央部のやや北側に位置する。
  ・東に馬鞍岳あり。
  ・阿布木名村との間に湾屋川が流れる。
  ・大久柵・拝山・鬼入塔・湾屋・湾屋道・塩満
  ・湾屋は海に臨む港
  ・
 ⑧岡前(前野)
 ⑨松原
 ⑩与那間
 ⑪当部
 ⑫三京


2010年12月1日(水)

 今帰仁村上運天の浮田港(現在運天港という)にある特殊潜航挺(蛟竜隊)の魚雷艇の収納壕(字有地)と、同村渡喜仁のハキジヌメーの壕(個人有地)までいく。上運天の魚雷艇の格納庫は数ヶ所にあったというが、今のところ一ヶ所確認できる。確認できる格納庫は上運天の『琉球国由来記』(1713年)でいう「ウケタ嶽」とあるのが、このウタキである。ウタキへの登り口に「浮田御願所」(昭和63年)と掘られた碑がある。「運天港から浮田港にかけて数ヶ所に壕があったけどよ」とのこと。「その壕の前に網、いや木の枝を被せて隠してあったさ」とのこと。

 渡喜仁のハキジヌメーの壕は、運天の浮田港から2kmほどの場所にある。戦前、仲宗根にあった製糖工場から浮田港までトロッコで黒砂糖を運搬していたという。その路線を利用してハキジヌメーの壕から浮田港まで魚雷艇に関わる品々を運ぶ予定ではなかったか。その壕を掘った方々から話を聞いたことがあるが、その壕は使われなかったのではないかと。魚雷艇の格納庫だと聞かされていたが、内部の構造をみると、格納庫にしては魚雷を格納するというより、いくつかの部屋があり、指令室や弾薬や炊事場などの施設として掘られているのではないか。その壕を掘るのに動員された婦人達に古宇利島の方もいる。「女性も動員されたのですか?」の問いに、「あっせー、男の人達はみな戦争に駆り出されているさ。女しかいなかったさ」と。


▲上運天の浮田港にある魚雷艇の格納庫の内部。   ▲格納庫の内部から(内部は天井が崩壊)


  ▲渡喜仁のハキジヌメーの壕。内部でいくつかの部屋に分かれている。
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        (2010年12月)         
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