平成22年7月30日

 NHKの「戦争遺跡を歩く」?の取材がはいる。古宇利島のスルルガマを紹介。スルルガマの入口の看板は捜すことができたが、ガマまでたどり着くには困難である。そのような崖やハブのいる場所に避難することは、戦争であるが故のことである。2005年7月にもスルルガマに行っている。その時はボートで行っている。今回も舟の手配をする必要がありそうだ。スルルガマの近くまで記者さんと行ったがガマにたどりつくことはできず。陸からは困難かも。

 

 


平成22年7月28日(水)

 1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(197~198頁)(岩波文庫)を手掛かりに、運天(港)や周辺の様子を浮き上がらすことができないか。下にその様子を記した文章を掲げ、200年近くたった今、どのようになっているのか、いくつか拾ってみる作業をしてみた。19世紀初頭、運天(港)周辺の外国人がみた様子を画像でたどってみた。1816年の運天の風景が、今の運天にどれだけ見つけることができるか。そのことをテーマでの編集会議。

【バジル・ホールがみた運天(港)】
【1816年10月11日】

 
「この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。

 垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。
 浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りすることさえ認めてくれたのである。

 この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。

 村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。そこに木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある。全長約四分の一マイル(400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。

 半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。地面から急斜面を8~10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうがって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。

 この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。しんと静まりかえった荘重な雰囲気である。

だが一見したところ、ここは墓地本来の目的である墓碑や碑銘などの役割を示すものが何もないのは意外である。たまたま樹木や灌木の茂みの間に一本の道のようなものがあるのに気がついたわれわれは、その先に何があるのかつきとめようと、藪の間をぬって続いている小道をたどりはじめた。木や草は旺盛な生命力を示し、この日経験したさまざまの興味ある出来事によってわれわれの気分もまた高揚していたのだった。だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。

 この村は運天Oontingという名前である。那覇の首長たちが口にし、われわれがWinchingあるいはOonchingと記録したのと同じ土地であろう。

 われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル港と名付けられることになった。

 
※「公共の遊歩場」は運天番所の前の馬場後と見られる。「咸豊七年丁丑『御首尾扣帳』(今帰仁間切番所所蔵と
  宮城真治民俗調査ノートにある)に、「三月三日、五月四日は番所の前、アブシバラヒは仲原馬場、八月十一日
  親泊馬場に馬揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸重壱次自参、見物仕申候」とあり、三月三日と五月四日に番所の
  前で馬を揃えて重箱を持参して見物している。その様子から運天番所前に馬場があったことがしれる。
  「咸豊七年丁丑」は1857年である。
 
 「死者たちの場所」は、明治21年頃に修復する前の百按司墓のことであろう。 
 
 
 
            ▲明治末の運天港の様子(『望郷沖縄』所収より)


         ▲昭和35年頃の運天港                     ▲崖中腹にある墓


   ▲「いくつもの四角い穴」はこれか?         ▲「公共の遊歩場」は番所前の馬場のこと?


平成22年7月27日(火)

 詳細については「山原のムラ・シマ」講座の方で紹介するが、名護村(名護三ヶ村:東江・城・大兼久)を歩いてみた。これまで名護グスクについては何度か触れてきたが、三つの村(ムラ)の展開について、今帰仁村歴史文化センターが見る「山原のムラ・シマ」の視点での説明はしてこなかった(もちろん、名護市史や角川地名辞典や平凡社の沖縄の地名辞典などで説明されている)。名護三ヶを見ると、「山原のムラ・シマ」を見る視点のいくつかあるように思える。「ムラ・シマ」を見ていくには、行政村の歴史的な変遷、集落の展開、祭祀や拝所、三ヶ村に住む人達の歴史認識、所属する土地など、複合的な視点での見方がどうしても必要である。

 ・名護グスクの周辺の集落(集落の拡大以前:名護村)
 ・名護グスク周辺の集落の拡大(グスクの集落の拡大→東江・城・大兼久の集落は移動拡大するが名護村のまま)
 ・三ヶの集落が1738年頃行政村へ(東江村・城村・大兼久村)
 ・三ヶ村が統合(明治36年)して名護村
 ・名護村から東江・城・大兼久へ分離(明治42年)
  (昭和19年大兼久は大中・大東・大西・大南・大北区に分かれる。昭和22年に城から港区が分離)

【大兼久の護佐喜御宮】(主な拝所は名護グスク周辺)

  ▲「護佐喜御宮」の神殿と拝殿       ▲昭和4年竣工    ▲「護佐喜宮」からみた名護グスク

【東江の拝所】(主な拝所は名護グスク周辺)

   ▲キッチャの遥拝(名護グスク?)  ▲ティラヤマへの遥拝     ▲ニガミヤーの拝所

【城の拝所】(主な拝所は名護グスク周辺)

 ▲名護グスクへの遥拝所(城内のアパヌク)(城村開祖の廟碑)   ▲ヒンプンガジマル(大兼久?)

平成22年7月24日(土)

 山原(やんばる)研究のスタートを切ったのは20代後半からです。それも名護市(特に羽地)からでした。当時を思い起させる原稿(昭和62年:笹森儀助資料ファイル)がでてきたので紹介しましょう。ファイルの中に「笹森儀助資料調査から」と「名護・山原関係資料調査報告」と「青森県立図書館特別資料 笹森儀助旧蔵沖縄関係文献(企・写本)」、それと資料のコピーが数枚(笹森儀助関係資料のコピーの全部は名護市史編集室)あります。

 昭和62年(1987)3月15日から24日にかけて東京・青森・大阪へと「名護・山原関係資料調査」をしています。その調査報告が下の文書です。調査目的の一つに「笹森儀助の沖縄関係資料調査と収集」がありました。その時収集した資料の「百按司墓の模写・棺の図」や「金川鉱山事務所提出の届書」などの一部は活用してきました。また、活用されています。資料のほとんどが『南嶋探験』に収録されていますが、手書きの資料(明治26年:コピー)から笹森儀助の息遣いを感じながら見て行くことも大事かと。23年前の調査メモや報告、そして笹森儀助資料を手にしてみると、再度読み込みをし、山原をみていく必要がありそうです。

  (各地(その時は、東京・青森・大阪)に足を運んでの調査手法は20代後半からやっていたのだ。今では習慣になっているようだ)

  
   ▲「笹森儀助資料調査から」(仲原報告)         ▲「名護・山原関係資料調査報告」の一部(仲原報告)

  

平成22年7月22日(木)

 7月20日に「昭和10年の「諸志共同製糖工場建築略図」(昭和10年11月建設)と「諸志共同製糖工場」(昭和29年建設)の写真(諸志誌:玉城貞二氏提供)を紹介しました。昭和10年の製糖工場に関する資料から、昭和10年前後のサーターヤー組(後組合となる)について、詳細に記されています。詳細の全体については『諸志誌』に収録しますが、ここでは産業組合の動きを垣間見ることにします。
 
 昭和9年現在、諸志には四つのサーターヤー組が組織されています(四つのサーターヤーがあった場所の確認が必要)。「諸志糖業小組合」の設立は昭和6年です。「糖業振興計画実施要項」には、①優良品種大径種の指定統一導入全面普及及び促進 ②甘蔗共同苗圃の設置、共同耕作肥培管理など⑪の実施要項があり、「糖業小組合の目標」なども掲げられています。それだけでなく、甘藷作改善、稲作の優良品種の導入と二期作の推進、畜産の増産、堆肥の建設など、糖業のみでなく他の作物の増産などにも及んでいます。

 昭和10年第一回県主催の共進会で最優秀の成績を納め表彰されています。そのことが、諸志には戦前、戦後、戦後すぐの青年団の資料、そして「諸志共同製糖工場」(昭和10年)の設計書や「諸志糖業小組合」について資料がされていたことなどから、「諸志人気質」へと結びついていることに気づかされます。

【戦前】
 ・昭和4、5年頃共同浴場が諸志に創設される(昭和20年3月頃まで継続される)
 ・諸志糖業小組合(昭和6年8月設立)
 ・その頃、在来種から台中六十五号にかわり一期作から二期作へ(稲作)。
 ・諸志農事改良組合(昭和9年5月立)
 ・共同製糖工場の設立(昭和10年11月27日竣工)
 ・諸志産業組合を設立(昭和10年9月)
 ・精米所の設置(製糖工場の原動力を使用)(昭和13年5月)
 ・山釜水源地から導水、集落内各所に貯水タンクを設置(昭和13年)
 ・昭和14、5年頃共同理髪所を組合員で開設。
 ・諸志産業組合は昭和17年8月に今帰仁村産業組合に合併し、諸志支所となる。

【戦後】
 ・諸志・兼次共同組合の成立(昭和24年1月6日)(昭和25年12月20日解散)
 ・諸志共同組合(第一次)の設立(昭和26年1月3日~昭和48年解散)
 ・昭和29年2月10日製糖場建設し製糖開始する(製糖工場写真)。
 ・昭和31年1月6日糖業組合は諸志共同組合と合併する。
 ・昭和33年1月7日製糖工場は北部製糖社に譲渡する。
 ・諸志共同組合(第二次)の設立(昭和48年8月19日)

【昭和10年以前のサーターヤー組】 
   ①前サーターヤー組(山釜原製糖場組) 
       (蔗作農家人員32人、製糖場の棟数旧瓦葺2棟、圧搾機(鉄車) 牛馬けん引回転、三基、煮上窯二基)
   ②シヂマサーターヤー組(福地原製糖場組)
      (蔗作農家人員12人、製糖場の棟数旧瓦葺1棟、圧搾機(鉄車) 牛馬けん引回転、一基、煮上窯一基)
   ③阿旦門サーターヤー組(阿旦門製糖場)
      (蔗作農家人員15人、製糖場の棟数茅葺1棟、圧搾機(鉄車) 牛馬けん引回転、一基、煮上窯一基)
   ④ダケラサーター組(竹原製糖場組)
       (蔗作農家人員12人、製糖場の棟数茅葺1棟、圧搾機(鉄車) 牛馬けん引回転、一基、煮上窯一基)
  
  
 ・計71人 黒糖生産高(昭和9年頃の推計 550挺~60挺(1挺は120斤樽詰)
  ・黒糖製造に従事した製造人(明治末~昭和初期)
    
・上間仙五郎 ・与那嶺忠助 ・島袋幸五郎 ・島袋仙八 ・大城幸五郎 ・島袋幸一郎 ・大城彦信 ・金城松助
  ・各サーターヤー組には、それぞれ組長が選任され、組員の統率や事業計画、建設資金の調達、償還計画、
   各年度の生産見込み高、運転資金、夫役などを掌握。

  ・特に新設の当時は多額の設備投資金を要し、調達方法としても模合などをおこす。
  ・施設の補修、必要経費、一時借入、製造人手当など、終了時の清算。
      (大正末から昭和初期にかけて経済不況に襲われる)
  ・不況の打開策として「経済振興計画」が策定される。
  ・県下各町村に「糖業小組合」がモデル事業として実施される。諸志も県の一時の糖業組合の指定をうける。
  ・昭和6年度から砂糖キビ作農家が主体となって「糖業振興」事業を進める。
  ・組合の組織を中心とした集団的に統括された方法となり、農家の指揮は高揚。
   
※本部町健堅で墓調査(G家)の下見をする。

(内部の詳細の画像は略)
▲「墳墓新造風水法」(仲里家資料)  ▲本部町健堅のG家の墓(那覇からの移住)

平成22年7月21日(水)

 今帰仁村諸志の写真である。一枚は煙草乾燥場の完成祝いの集合写真。もう一枚は昭和初期の諸志の現公民館のある場所である。右側の写真の人物の確認調査はこれからだが、後ろの志慶真の神アサギ、そして丘陵地を開鑿してつくった道。今では想像つきかねない風景である。集落やウタキやウタキの中のイベ、神アサギなどの議論をしているのであるが、すくなくとも写真にある風景を念頭にいれての議論、そして説明する必要がある。

 志慶真の神アサギは移動しているし、開鑿する前の丘陵地に戻してみると移動してきた志慶真村が移動地で高い所に向けてイビを設けたことがうなずける(故地は真後の方向)。
         

 
   ▲煙草乾燥場の完成祝い(昭和30年代)             ▲諸志(志慶真)現公民舘敷地にあった神ハサギ(昭和の初期)

 
  ▲現在の志慶真のウタキのイビ          ▲昭和30年代の志慶真のウタキのイビ?

平成22年7月20日(火)

 今帰仁村諸志(諸志の字誌)から7枚の写真が届けられる。7枚の内の一枚を紹介する。下の左側の画像は昭和18年の「食糧増産戦記」である(それは別からの提供)。右の画像は昭和29年2月の「諸志協同製糖工場」が完成間近の様子である。それと『諸志共同組合のあゆみ』の中に製糖工場の設計図がある。「諸志協同製糖工場」の設計図は昭和10年11月建設された戦前の製糖工場である。『諸志共同組合のあゆみ』に設計図が収録されている。提供頂いた7枚の写真を使って「諸志誌」の編集会がを開くことに。

 昭和18年「食糧増産戦記」の画像に白いのぼりが見えるが、そこが昭和10年建設の「諸志協同製糖工場」である。二枚の写真を紹介したのは「諸志誌」へのこともあるが、一帯の耕地整理に関する五冊の帳簿があり、その中身は1735年行われた蔡温の羽地大川の改修と重なって見える内容である。今帰仁村西部耕地整理組合の「費用徴収簿」(昭和16年~18年)、「会計出納簿」(昭和18年度)、「会計出納簿」(昭和18年8月以降)、第二次食糧増産ニ関スル現金受払簿」(昭和19年1月)から、耕地整理の様子を浮き上がらせてみることに。


        ▲耕地整理の様子(昭和18年)             ▲昭和29年建設の「諸志共同製糖工場」


▲諸志共同製糖工場建築略図(昭和10年11月建設)

平成22年7月18日(日)

 昨年10月20日に本部町瀬底で墓調査の依頼をうけ調査をした。その調査結果(整理一覧と画像)を墓の主に還すことに。墓主の目的は、墓を新しく修復したので、そこに入っている厨子甕の銘書を呼んでもらいたいということと、先祖のどんな方々が葬られているのか。そして系図を整理したいとのこと。掘りぬきの墓をそのまま利用する形で、屋根や廻りをコンクリートで造り直された墓である。

 銘書の判読できたので古いのは⑤「乾隆四十二年丁酉八月廿八日」(1777年)と、同厨子甕にある「乾隆四十八年丁丑壱月廿日」(丁丑は癸卯の誤りか)(1783年)である。一番新しいのは「一九五四年旧十月八日 骨洗」とある厨子甕⑨で前の中心に置かれたものである(11基の厨子甕のタイプや筑登之や仁屋や夫地頭などの役職などについての報告は別にコメントした報告は別にまとめてある)

今回もそうであるが、葬られている方々と云い伝えの人物、そして系図との不整合にいつも悩まされる。墓調査の前には必ず、「古くて1600年代後半ですよ。500年は行きませんよ。書かれたものと必ずしも合いませんよ」と念押しをする。「私たちの役目は、調査記録をつくることです。必ずしも系図や言い伝えに合わしませんよ。もちろん参考にしますが」と。お盆も近づいてきましたので、お渡ししましょう(遅れてすみません)。墓調査をさせていただいた方々の先祖供養を、私もしないといけません。ウートゥトゥ


    ▲墓の内部の厨子甕の配置図               ▲墓室内部に置かれた厨子甕


    ▲「乾隆四十二年」のある厨子甕⑤と「同治三年」④とある厨子甕

平成22年7月17日(土)

 次回は1947年度の「議事録」を配布の予定。地名についての希望あり。

 「議事録」を打ちこんでいると「諸志青年修練道場建築」の目的(趣意書)と設計図があるので、関係する部分を抜き出して紹介する。「議事録」(1947年2月15日)に以下のように記されている。完成まで難渋している様子が伺える。

【1947年】
  ・2月15日 常会
    本夕常会を開催し左記の如く決議す。
    ・修練道場建設材料切出、明後日一日作業を以て行う事。(柱:ケタ)
    ・注意 山林保護員の許可を受く。集合を徹底的にやる事
       後、娯楽会を二十分位やり閉会。
  ・2月25日 常会開催
    ・明後日修練道場建築材料初出の件
  ・3月1日 修養会
    (新城紀秀先生の講話あり)
  ・3月4日 常会
    ・明後日建築材料山出しやる事
  ・4月22日 常会開催
    ・修練道場建設進行の件(大工の宅の手助をなし大工の大勢出席を省す。但し、一日作業にするか半日作業にするか?

  (工事中)

  諸志青年修練道場建築
 目的 一、新しい郷土沖縄を建設する任務を双肩に負ふ我等青年は確固たる信念を持って郷土建設の礎石となるを以て目的とす。
     一、青年団長上間一正指揮の下に五十名の団員が熱意ある字民の協力を得て終日此の大事業に萬心し、将来新沖縄建設の中核たる
      人物養成の目的を達成する意気で燃え上るのである。
  
  設 計  横三間半 縦三間 中に神棚を設け押入を設け玄開を構る。
  敷 地  元隣保舘跡に東向にして設計す。
  設計図   (入る)
  材 料  柱 二十六本 桁 七本 ハリ 十二本 棟桁 一本

  


平成22年7月16日(金)

 編集会議は午後7時半からである。「議事録」(1955年~56年)を中心に、その年度の出来事を中心に説明する。その中に出てくる「修養会」や「倶楽部」、そして青年団が中心となって行った「盆踊り」(エイサー)について(1957年旧7月16日)の「青年会盆踊記念」写真あり)。1956年12月1日の伊豆味区青年会のパイン見学は、諸志の山手を開墾してパイン栽培が行ったきっかけになっている(開墾とパイン栽培後の写真あり)。

 諸志の方々が登場する写真を写しだして、場所や人物などを思い出してもらう。本人がいたりする。次回も写真の紹介をすることに。


     ▲「議事録」の中身に目を通してもらう      ▲名前などの字があたっているか確認願います

 
           ▲青年団の「議事録」(1954~57年)を活字化して配布

平成22年7月15日(木)

 明日は諸志の字誌の編集会議がある。先日青年団に関する資料が提供された。青年団に関する写真が数枚あるので、それらの画像を見ながら話を伺うことに。盆踊りやエイサー、ここに全て掲げているわけではないが、戦後の青年団のみでなく、戦後の復興の話や戦時中の話など多岐にわたって伺うことができそう。そこで聞き取った話は字誌に収録する。写真の中には、編集委員の方々が何人かいらっしゃる。名前がポンポンでてきそうだ。今回の編集委員会は一段ともりあがりそうだ!


  ▲諸志青年団のみなさん(エイサー組)(1957年)           ▲盆踊りの青年団のメンバー(1957年)


   ▲諸志青年団の手踊りのエイサー(1957年)        ▲ある家の庭でエイサーを踊る(1957年)


        ▲諸志青年団の資料(26点)                   ▲あちこち廻っていくエイサー

  
    ▲昭和30年頃の様子    ▲諸志の集落内を通る道(現国道505号線)  ▲かつての諸志共同売店か

平成22年7月14日(水)

 『運天誌』の編集会議がある。口絵の一部を紹介することに。①運天の歩み(1) ②運天の歩み(2) ③運天の小字 ④ムラウチとジブの集落 ⑤クンジャー・ジラマ・トクヤマの集落 ⑥運天の漁港 ⑦運天の人々 などなど。編集委員の方々から、これまでの報告あり。毎月2回の編集会議を開いている。月1回は顔を出すことにする。今後の進め方についての話し合いとなる。口絵の紹介は次回に。







※学校職員10年研修会(午前中)


平成22年7月12日(月)

 羽地間切の番所跡をゆく。ムラ・シマ講座で案内できなかった場所である。番所のあった場所に火神の祠がある。その内部に祭られているのは池城殿内(親方地頭)と羽地御殿(按司地頭)であるという。羽地間切の地頭代は川上親雲上を名乗るので地頭代火神は川上村にある。そこにあった羽地(親川)番所は明治35年に仲尾次村に移転する(現在の羽地支所)。

 1853年にペリーの一行は勘定納港から上陸して番所のある親川あたりまでやってきた記録がある。明治14年に国頭地方を巡回した上杉県令の「日誌」に付近の様子を「門西に向ひ、門柱の両辺叢蓧の生垣あり。仏桑華、三段花盛にに開き、庭梅花を着け雪を欺く。東北に当りオツク(ウスク?)の大木あり。5~600年のものなり。其の南北に医院分局あり」とある。一帯には火神の祠や道筋や散在する陶磁器等の遺物、そしてカー(湧泉)や地名や屋敷跡地などに番所があった雰囲気が、まだ漂っている。

 羽地按司の初入りの時(1870年)、按司一行は親川村にある御殿火神、親川城、勢頭神御河、御殿御川、羽地間切番所御殿火神、親川城、勢頭神御河、御殿御川を訪れている。御殿火神は羽地間切番所にある祠だと思われる。番所がまだあった頃である。羽地間切番所跡地にある池城殿内と羽地御殿は大宜味村にある根謝名(ウイ)グスク登り口にあるトゥンチニーズ(殿内根所)とウドゥンニーズ(御殿根所)と同様の火神の祠とみていい。今帰仁グスク内にある火神の祠も同様である。


   ▲羽地(親川)番所跡(親川)               ▲番所跡の火神の祠           ▲番所跡の火神の祠の内部


    ▲番所への道筋             ▲番所への道筋に散在している遺物            ▲近くにあるカーヌハタガー

平成22年7月10日(土)

 「ムラ・シマ講座」を行います。羽地地域の三つのムラがテーマです。ムラ・シマをどう見せていくか。また、そこに遺されたものから、何を読み取り、なるほど、あるいは何故だろうかとの疑問を感じさせる。そしてその疑問に応えていくものである。今回名護市の振慶名と田井等、そして親川の三つのムラを歩いてみた。

 振慶名で見たもの、確認したものは、ウタキ、神アサギ、掟火神、そしてイビヌメー、イビ(神名が記されている)、イビの祠の建立は昭和□年と記されている。麓の根神屋は「二百年記念 昭和十一年八月廿日建立」とある。昭和11年は1936年である。振慶名村が移転したのは1736年である。イベの祠も移転200年を記念して建立したのであろう。故地の今帰仁村湧川の方向を確認する。振慶名の人々は村が移転したことを歴史に刻んでおかなければとの思いが伝わってくる。移転300年(2036年)にも、そのような記念事業ができる世の中だろうか。ウタキの頂上部から麓の集落。移動時の集落は明治13年には39世帯(200人)である。ならば1736年の移動の頃はもっと少なかったのであろう。

 振慶名のアガリヌフェー(丘)から向いの丘陵地をみる。そこは田井等のテーラグスクでウタキとも呼んでいる。ウタキの中に入ったことがないので、石積みや土塁があるかどうかわからない。報告書を見ると、デーグスクへのウトゥーシと別の所に香炉が置かれているようである。頂上部に二ヶ所の拝所があると記されているのでイベがあるのであろう。

 田井等はシドゥ神殿、イシドゥ神殿、ビジュルがある。今回寄らなかったがヤトゥバラ、その近くにもビジュルが置かれた石の祠がある。シドゥガミやイシドゥガミ、ヤトゥバルカミなどの祠は、神役を出した旧家のあとである。それらのある一帯(フシバーリ、かつてはウチバーリ)は近世の村(ムラ)以前のマキ・マキヨ規模の集落の姿が見え隠れする。イシドウ神殿の入口は鳥居があり、祠と鳥居は昭和9年に建立されている。親川と田井等の人々が出資して建立してある。親川村は1750年頃、田井等村から分村した村である。行政として二つの村になったのであるが、親川村が行政として独立できたのであるが、祭祀に関わる部分は分離することができない。その姿がそこに見ることができる。それはアブハミヌミャーの建設や豊年祭や祭祀は一帯として行われている。そこに行政は分離、あるいは統合しても祭祀は一帯化しないとの法則が見い出される。(そこで、地割制で隣の村に土地を持つ人は、どっちの村に納税したのだろうか?)

 田井等の神アサギの麓にヤンシリガーがある。ヤンシリは屋敷や集落の後方にあるカーということであろう。階段を上っていくと神アサギがある。広場となっていて大きな老松が数本ある。『琉球国由来記』(1713年)に田井等村に神アシアゲが二軒登場する。もう一つは「池城神アシアゲ」である。親川村が田井等村から分離する以前に二つの神アサギがあり、明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」(田代安定著)にも二つの神アシアゲが記されている。
 
 現在の田井等の神アサギは親川村が分離する以前から、場所の移動は別にしてあったことになる。二つの神アサギあり、明治13年の田井等村の世帯数は68、親川村は80世帯である。両村合わせた148世帯は大規模の村であったのであろう。そして一帯は米どころであった。神アサギは祭祀空間としての機能と穀物(税)を一時集積する役割を担っていたと言われている。すると、田井等村内の田井等側と親川側の穀物を集積する必要があった可能性がある。世帯数の多さと、税を納める集積するのに、すでに二つの神アサギを必要としている。そのことも村を分ける要因の一つにあったのかもしれない(村の分離の背景には様々なことが浮かんでくる)


   ▲出発前に情報を仕入れて           ▲「ムラ・シマ」の土台となっていたのは?


    ▲振慶名のウタキのイベへ                 ▲田井等の神アサギで


     ▲田井等アサギ付近の石段の道            ▲ヤトゥバラ近くのビジュル

平成22年7月7日(水)

 羽地地域(羽地間切:現在名護市)の振慶名、田井等、親川の三ヶ村(現在字(アザ)や区)をゆく。現場で三ヶ字の境界や、どの字に拝所やカーやグスクが位置しているのかの確認と「ムラ・シマ講座」のコースの設定である。バスを利用するので、どうしても駐車位置とバスが通れる道筋なのか、確認が必要である(特に、今回の場所は)
 
 「ムラ・シマ講座」は以下の順路で、そこからムラ・シマを見る様々なキーワードを確認していく予定。詳細は当日のレジュメ参照のこと。 

【羽地地区振慶名】

 移動村が移動先で何を設置したのか。設置する理由は?
 振慶名は我部ノロ管轄。前川一門、津波一門、玉城一門、屋嘉比一門(佐敷からの移住)
 金川が振慶名に流れ込む。


        ▲振慶名のウタキ                 ▲振慶名の神アサギ       ▲振慶名のウタキのイベの祠


        ▲振慶名の現在の集落             ▲ウペーフガー(振慶名)       ▲プンダガー(振慶名)

【羽地地区田井等】
 拝所の建設は田井等と親川に住む人達が共同出資。村を二つに分けたのであるが・・・。その一門の人々は両村に住んでいることがわかる。行政は分離したが拝所は元の場所。租税はどこに納めたのだろうか?


▲デーグスク(田井等)(親川・田井等のウタキ) ▲「せとう神殿」(昭和9年)田井等と親川にいる一門で建立


    ▲伊勢頭神殿(内部に扁額あり)     ▲伊勢頭神殿の前のビジュル        ▲ヤンシリガー(田井等)


 ▲田井等の神アサギ+ウタキのイビ?      ▲神アサギへの登り口      ▲アプハミヌミャーは両字で建設(田井等)

【羽地地区親川】
 親川が主だと見られるアプハミヌミャーは田井等からの登り口と親川からの登り口があり、建設の出資は両村。祭祀は一緒に行っている。アプハミヌミャーの地番は田井等にはいる。


 ▲アプハミヌミャーへの親川側の入口     ▲親川の村名となったウェーガー ▲アプハミヌミャーのビジュル(田井等地番)


     ▲親川(羽地)番所跡              ▲グスクの神アサギ            ▲ウドゥンシリガー(後方はグスク)

平成22年7月6日(火)

 7月4~5日、伊是名島(村)をゆく。まずは「ふれあい民俗舘」から。そこで銘刈家と名嘉家、そして二かや田(伊礼家・玉城家)の資料の確認をする。ある出版社の原稿書きのための伊是名島行きである(詳細は改めて)。名嘉家の隣くらいの石垣に「前□?護身三昧」の碑がある。石敢当の役割を果たしているのであろうか。

【4日の午後】
  ①ふれあい民俗舘(古文書によく出てくる「黄色地御玉貫」などが展示してある。
  ②銘刈家(報告書あり)
  ③名嘉家(報告書あり)
  ④伊平屋間切番所跡(学校跡地)
  ⑤伊是名の神アサギ
  ⑥ムラヤー(公民館)前の拝所
  ⑦伊是名港近くの拝所
  ⑧伊是名港
  ⑨勢理客の神アサギと根神屋
  ⑩勢理客の土帝君
  ⑪勢理客の集落外れの拝所
  ⑫勢理客の団地付近の拝所(神アサギ風の建物)
  ⑬メンナー山(拝所)(ウタキか、鳥居があり左縄がめぐらされている)
  ⑭尚円王御庭公園
  ⑮諸見の神アサギ
  ⑯尚円王生誕地(みほそ所)
  ⑰潮川
  ⑱仲田の神アサギ(仲田家の屋敷内)
  ⑲仲田の「二かや田」(伊礼家と玉城家)
  ⑳仲田のカー(集落外れのカーと拝所)

【5日の午前中】
 ①伊是名グスク
 ②グスクの周辺(石囲い、七合目あたりのカー、祠、麓のカーなど)
 ③伊是名玉御殿(拝領墓)(報告書あり)
 ④葺きかえられた番所跡
 ⑤仲里節歌碑
 ⑥□□□崎(伊是名グスクの全景が見える)
 ⑦サムラー道(途中)・銘刈ガー・四殿の墓(銘刈家・名嘉家・伊礼家・玉城家)
 ⑧龍神銅
 ⑨陸ギタラ(慰霊塔あり)
 ⑩海ギタラ(付近に墓、伊是名港から近くまでいける)
 ⑪アハラ御嶽
 ⑫風の岩(伊是名の集落、伊是名グスク、陸・海ギタラ・アハラ御嶽などが望める)
 ⑬美織所(チヂン岳)
 ⑭アーガ山(雨乞い拝所四ヶ所を確認。燃やした灰が結構残る)
 ⑮諸見の土帝君
 ⑯逆田(諸見・内花・伊是名・勢理客・仲田が水田をつくっている)


    ▲伊是名グスクへの登り道                ▲諸見の土帝君


 ▲サムライ道の途中にある銘刈ガー       ▲最近葺きかえられた勢理客の神アサギ


 ▲「護身三昧耶」の石碑

平成22年7月2日(金)

 恩納のノロ関係の引き出しを整理することに。『恩納村誌』で扱われた資料を確認しておく必要がある。『琉球国由来記』(1713年)に記されている濱崎嶽が恩納グスクを指しているのか。それとウガングヮーと呼ばれている森は重要なウタキの一つではないか。というのは、その麓にフルジマカーとカネクノ殿があり、恩納の一部の人達が住んでいた場所の痕跡である。カネクノ殿には両惣地頭や恩納ノロの祭祀場である。兼久一帯に住んでいた小集落のウタキの可能性が高い(一帯は古島と呼ばれ、神アサギもそこにあったという)。森の頂上部にある祠はカネクノ殿(ウタキのイベ?)の可能性はないか。

 恩納間切内のノロは他の地域のノロとは異なった動きが見られる。そのことについては、詳細な別資料での確認が必要。一般ノロの継承は、首里大あむしられ、真壁大あむしられ、儀保大あむしられのいずれかの殿内に参上する。恩納間切のノロは首里大あむしられである。そこに参上し、火神の殿に新任の報告をする。王府からの辞令書は大あむしられの手から授かる。勾玉は女神官制度が敷かれた時の初代のノロに授けたものを代々継承される。その際前任者から直接受け取る。役地としてノロクモイ地の譲渡あり。役俸としてのノロクモイ地と呼ばれる役地が付与される。村の良地の田畑が与えられる。ノロ継承の願書は、ノロの親類及び間切役人の連名、領主の惣地頭の副申をもって王府に提出される。

 明治政府はノロクモイ地からの実収穫高料を報告させ、明治17年度の石高換算額を基準として、明治末に一時国債証券を支給して旧禄制度の改革を行っている。ノロクモイ地の収穫高は明治15年と17年に調査報告がなされた。王府時代には
毎年末に収穫高を王府に報告することになっていた。ところが、恩納間切の全ノロの収穫高の報告がなされていない。

 「女神官の数は置県の際に合計二百四十九名があり、このうち十一人のノロを除いては、すべて役俸を給与されていた」とある。恩納間切のノロは役俸を給与されなかった十一人にはいていたことになる。明治14年の内務卿と大蔵卿からの達(第三千九百七十四号)に、「一、恩納ノロクモイ始め拾三人之分現収高既ニ滅殺せし今日に在りては更に廃給のものとして制外に附すべき事」とあり、明治15年の「社寺調査原書」と「諸禄処分による社禄調表」(明治43年)に恩納間切のノロが除外されているのはそのためである。明治以降の恩納間切内のノロ関係を複雑にしている要因になっているようだ。

「社寺調査原書」と「諸禄処分による社禄調表」の調査の目的は? 何に結びついていったのでしょうか・・・。ノロ制度の廃止と各字のウタキの神社化の資金などへ。そして「ノロ制度の終焉」へと結びついていくいく・・・


   ▲恩納村恩納の神アサギ       ▲恩納ノロ家(ヌンドウルチ)           ▲ノロ家の屋敷にある拝所


    ▲恩納グスク内にある殿(トゥン)         ▲カネク殿の近くにあるウガングヮー

『恩納村誌』から整理(工事中)
 恩納村内のノロ  琉球国由来記
  のノロ
辞令書     
 恩納ノロ(公儀)  恩納巫


 神女はノロ、根神を入れて49名、神アサギに充ち満つ状態である。一年間の祭祀行事は比較的保存され、それにウムイが残っている。舟のウムイ、海のウムイ、山のウムイ、しらちなのウムイがある。



 (恩納ノロの一年間の祭祀の流れを整理必要)
【五月十五日稲穂祭】に例
神人と区長はじめ村有志が神アサギに集まる。神女がウムイに合わせて、ころがた臼を猪にみたてて弓で射る。その後、グスク拝み、城内の殿でのウガン(シロマシ神酒・キウリサシミ・シブイサシミ・麦神酒・イモ神酒などを捧げた。神酒の原料は各戸から提供。グスクでの祭祀後、瀬良垣の祭祀へ。残った神女はグスクからマーニの葉柄を携えて兼久之殿へ。四隅にマーニを差す。・・・

 山田ノロ(公儀)  山田巫 (ノロ位牌)   大正初年まではノロ、若ノロを入れて七人の神女がいたという。以後後継ぎがなく、最近(昭和50年頃)までノロと言われているが名実の伴わない存在となっていた。三人のアンシーがいた。

ノロ墓は久良波にあり。『琉球国由来記』(1713年)で山田村のウタキは「オシアゲ森 神名:サケノイベヅカサ」とある。その森(ウタキ)が山田グスク内にないことに注目する必要あり。
久志家から出る神人の出席がないと祭祀は開始されないという。ノロが富着の神アサギへの同伴者。最後の山田の根人はアガリ家の主人か? 稲大祭のときノロが富着から帰ってきた翌日、祭祀が終わった報告をグスク・護佐丸先祖の墓、殿内小でウガンをし、その後神アサギで村人の歓待を受けた。 
 真栄田ノロ(公儀)  真栄田巫    約80年前(昭和50年頃から)にノロが死に、その後ノロの争奪があって塩屋からノロと根人が出るようになった。そのノロも根人も亡くなり、祭祀は区長によって保たれている。  
 安富祖ノロ(ムラノロ)  安富祖巫    戦前までノロ・根神・ウッチ神その他を入れて七人だったが現在(昭和50年頃)ではノロ・根神だけとなっている。どうにか祭祀は行われているが、根人も出自の家が亡んでいなくなって区長が代表として世話をしている。  
 名嘉真ノロ(ムラノロ)  名嘉真巫    昭和8年頃までノロ・若ノロ・クシレーなどと司祭その他を入れて九人の神女がいた。それに男性の根人・ニブ取り・扇(クバ製)持ち二人いた。  




平成22年7月1日(木)
 『恩納村誌』の編集委員の朝からの会議。村誌編集の件が目的であるが、今度の「山原のムラ・シマ講座」で「羽地按司御初入」を一部テーマとするので首里から羽地間切への途中宿泊した名護・恩納の両間切番所跡をいく。首里から羽地間切真喜屋村の宿舎に来るまでの宿泊地が出てくる。首里を出発し、読谷山間切宇座村で一泊、次に恩納間切恩納番所、そして名護間切名護番所、羽地間切真喜屋村へ。首里を出発して羽地間切真喜屋村まで三泊四日の旅である。14人の一行は、名護間切番所跡と恩納間切番所跡地まで首里から徒歩でやってきたのである。

 史料に出てくる場所が確認できると、記録された出来事と、その時代を彷彿させながら読み取っていくと非常に面白い。恩納間切番所で一泊した一行は、昭和15年頃の風景の中を歩いていったのだ!


        ▲名護間切番所は銭川森(ジンガムイ)の麓から現在の博物館敷地に移転したという


        ▲現在の恩納間切番所跡地              ▲昭和15年頃の恩納村役場と恩納松下


      ▲昭和15年頃の恩納松下からの様子           ▲恩納松下の歌碑からの現在の様子


午年羽地按司様御初地入日記(1870年9月3日~26日)(『地方役人関連資料』名護市史資料編5)
 ・1870年9月
  赤平仲尾親雲上(919歳まで御殿奉公)。檀那様が羽地間切にやってくる。
 ・93日  羽地按司をお迎えてのために93日に出発。
 ・96日  羽地按司出発日に首里に到着。
         台風のため出発を延期する。
 ・98日 首里を出発する。読谷山間切宇座村で一泊する。
 ・99日 恩納間切番所で一泊する。
 ・910日 名護間切番所で一泊する。
 ・911日 羽地間切番所に到着し真喜屋村で宿泊する。
 ・913日 按司一行は親川村にある御殿火神、親川城、勢頭神御河、御殿御川
                仲尾村のろ火神真喜屋のろ火神御嶽で御立願
 ・914日 按司一行は屋我地島へ渡って我部村のろ火神御嶽饒平名のろ火神いりの寺東の寺で御立願
      (お昼の休憩所は饒平名村我部祖河大屋子の家でとる。済井出村屋我村を巡検し真喜屋の宿舎に帰る)
 ・915日 羽地間切主催の歓迎の宴が行われた。
 ・916日 羽地按司からのお返しの御馳走の招待。
        真喜屋村の宿舎へ赤平仲尾親雲上が参上した。
    (招待者:間切役人(サバクリ・惣耕作当・惣山当・文子・御殿奉公した者・各村から下知人など)
          神人14人、勘定主取・80歳以上の老人達)

 ・917日以降
    羽地按司一行は羽地間切の以下の家に招かれる(以下の6家)。
    仲尾次村の下の松田仁屋(仲尾次ウェーキ)、上の仲尾親雲上
    伊差川村の古我知大屋子(伊差川古我地屋)
    川上村の現真喜屋掟(新島ウェーキ)
    源河村の現呉我村(源河ウェーキ)
    我部祖河村のこしの宮城仁屋(我部祖河ウェーキ)
 ・926日 羽地按司一行は帰途につく。

 
   
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