2010(平成22)年9月30日(木)

 「地域文化に与えたノロ制度」(沖縄の地域文化論)と「沖縄の歴史を見る視点」(沖縄の歴史と文化)の大学での講義のスタートを切る。15週の連続講座は久しぶりなので、息切れがするかも。早速、二つの講座の学生達(100名余+50名余)(計150名)と顔合わせができたので一段落。二つの講座の講義内容は省略。「地域文化に与えたノロ制度」は、ガイド講座でも話題にする。

 ノロ制度が地域に与えた影響は大きなものがある。「三十三君」(37名)は、もしかしたら「間切数+三あむしられ」なのかもしれない。つまり、ノロ制度は首里王府が末端まで統治していく手段としたのではないか。ノロ制度は各ムラで行われていた祭祀を巧みに入れこみ、ムラの上に公儀ノロを配置し首里化していく。すると、ムラの祭祀と首里王府からの祭祀との兼ね合い。・・・


       ▲「ガイド講座」(歴史文化センター) ▲「沖縄の歴史と文化」(歴史をみる視点)(大学)


2010(平成22)年9月28日(火)

 「ノロ制度の終焉」と「ノロ制度に影響を及ぼした地域文化」なのか、それともノロ制度が地域文化にどう影響を及ぼしたのか」。両方の視点が交差しているような。どんなまとめになるか。楽しみだ!

  (多忙中なり)

 頭の中が飽和状態なので、宮古にでも飛んでみましょうか。1954年の宮古平良市の風景や建物(琉米文化会館)などである。



2010(平成22)年9月24日(金)

 名護市(旧羽地間切)の屋我と鐃辺名、そして我部までゆく。屋我ノロドゥンチが何故鐃辺名にあるのか。ノロが鐃辺名から出てもノロの名称が変更されずにある(今帰仁村(間切)の中城ノロも諸喜田村に移っているが名称はそのまま中城ノロである)。そのこと史料を踏まえて考えてみる。(久しぶりに各地の拝所等回って見ると窓やカギなどが壊されている)

 まず、屋我ノロが、いつ屋我村から頃鐃辺名村に移ったのか。屋我ノロが公儀ノロとして任命された時、羽地間切屋我村に居住していた家の人物、あるいは任命して屋我村に住んだということであろう。1625年の屋我ノロの辞令書がある。その時、「やかのろ」が屋我村に居住していたか明確に記されているわけではないが、屋我村に住んでいたのであろう。その後の『琉球国由来記』(1713年)に屋我巫女(ノロ)の記述をみると、「屋我巫火神」は屋我村にあり、屋我ノロは屋我村と鐃辺名村と済井出村の祭祀を掌っている。

 現在、屋我ノロ家は鐃辺名に移っているが、『琉球国由来記』(1713年)の屋我巫火神は屋我村に残っているに違いない。屋我村の集落は1858(咸豊8)年に墨屋原に移動している。ならば屋我巫の火神の祠は集落移動前の故地に残されている可能性がある(その確認がしたくての屋我行きである)。

 屋我村の集落は屋我グスク周辺にあったと見られる。屋我グスクを中心とした一帯は阿太伊でアテーと呼ばれる。アテーはアタイのことで集落の中心に付けられる地名である。移動前の屋我の集落の故地は、屋我グスクの周辺にあったとみてよさそう。そこにはヤガガーがありグスクとヤガガーを拝む祭祀がある。グスクにあがる近くに火神を祭った祠がある。祭祀場はお宮に統合されているが、ノロ火神は元の場所に残された一つではないか。グスク近くにある火神の祠は屋我ノロ火神の可能性がある(確認必要)。

 屋我ノロが鐃辺名に移ったのはいつごろから。屋我ノロに関する明治の史料がある。明治26年段階で屋嘉ノロクモイは鐃辺名村に居住している。明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」(田代安定)によると屋我村にノロクモイが一人いて、鐃辺名村に根神がいる。その頃、屋我ノロはまだ屋我村にいたということか。しかし、「午年羽地按司様御初地入日記」(1870年)を見ると、羽地按司が管轄する羽地間切を訪問した時、屋我地御立願の三番目にによひな(鐃辺名)村の「のろこもい御火神」を訪れている。その時、のろこもい火神は鐃辺名村にある。屋我村から鐃辺名村にノロが移り住んだ理由は、今のところ不明。

              証
          羽地間切鐃辺名村三拾九番地平民
                 屋我ノロクモイ  玉那覇マカ
        右ハ当社録仕払期ニ在テ生存シ当間切内ニ現住ノロクモイナルヲ証明ス
       明治廿六年八月九日 羽地間切地頭代 嶋袋登嘉
        国頭役所長 笹田征次郎殿

 宮城栄昌氏のノロ調査を見ると、ノロは鐃辺名にあるノロドゥンチ、ノロ殿内の根屋、アシャギ、島の川三ヶ所、大てら二ヶ所、小てら一ヶ所、群松。屋我のアシャギ、屋我グスク、屋我ガーも拝んでいる。
 明治32年の以下の資料(文書)と牛角の簪が一本保存されているようだ。


      国頭郡羽地間切鐃辺名村平民
              玉城喜三郎
              外三名
     明治三十二年二月廿八日付願
     屋我ノロクモイ死亡跡役採用ノ件聞届
          明治三十二年四月八日
       沖縄県知事男爵  奈良原 繁 (沖縄県知事印)
  

【現在の屋我域】

 
▲羽地間切の屋嘉ノロ補任辞令書(1662年)   ▲アテー(原)にある屋我グスク


  ▲屋我グスク入口付近にある火神の祠         ▲アテー原にあるヤガガー

【現在の鐃辺名域】


▲鐃辺名にあるノロドゥンチにある火神の祠      ▲ノロドゥンチの側にある神アサギ

2010(平成22)年9月22日(水)

 国頭村の安田を訪れたのは古琉球の辞令書が二枚あったからである(現存せず)。ヤンバルクイナの鳴き声が聞こえたり、餌をついばんでいる姿が見られるムラである。

 二枚の辞令書は『沖縄県国頭郡志』(大正8年発刊)で紹介されたものであるが、「辞令書等古文書調査報告書」(昭和56年)でも「逸存辞令書」として二枚が紹介されている。同年月日で、二枚の辞令書が同時に発給さている。

 古琉球の辞令書で関心を持っているのは、「にしはらまきり」(西原間切)、「みやきせんまきり」(今帰仁間切)、「まわしまきり」(真和志間切)「とよミくすくまきり」(豊見城間切)、奄美の「せんとうちひかまきり」(瀬戸内東真切、「やけうちまきり」(屋喜内間切)、「なせまきり」(名瀬間切)「とくのにしめまきり」(徳之島西間切)、「かさりまきり」(笠利間切)など、まきり(間切)が登場していることである。

 ところが、後の村名に位置づけられる地名は登場するが、その後に「・・・むら」(村)とは出てこない。「あめくのさとぬし」(天久)、「きまのかなくすくの」(儀間、金城)、「大ミねのさとぬし」(大嶺)、「へなちのめさし」(辺名地)、「くしかわのろ」(具志川)、「ちやはなのおきて」(謝花)、「よなみねのうちま人」(与那嶺)「あたのさとぬし」(安田)、奄美の辞令書でも同様である。

 そのこともあって、古琉球の時代にまぎり(間切)の行政区分は成り立っているが、むら(村)の行政的な位置づけは、まだ十分ではなかったとみられる。村は近世の産物と言えそう。それは税制度と一体のものといえそう。しかし、税制度(行政的)な村が成立したのであるが、祭祀と関わる部分まで行政的な村にすることができずに、今に引きずっている。村の変遷を文献史料で整理しても、祭祀や神人の出自、あるいは首里王府の辞令が発給されるノロなどが絡んでくる。

 国頭間切の安田の辞令書に古琉球のむら(ムラ)の姿を見せるキーワードが内在しているのではないか。

  @国頭間切の安田里主所安堵辞令書(万暦15:1587年) 
  A国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(万暦15:1587年) 


  ▲メンバーから眺めた国頭村安田の集落    ▲シニグなどの祭祀場となる安田の神アサギ

2010(平成22)年9月20日(月)

 名護市真喜屋、国頭村辺土名(上島)、与那、安波、安田、辺戸まで行く。真喜屋は上地家の確認。与那は村墓とウガンの遠景、安波はノロドゥンチとウタキと安波川の河口、安田は古琉球の辞令書(1587年)に「のろさとぬしおきてかないとも(ニ) 御ゆるしめされ候」とあり、『琉球国由来記』(1713年)頃には安波巫女(ノロ)となっているが、辞令書の頃に安田にノロがいたということか。辺土名の豊年祭の道ジュネーが辺土名の公民館から上島のノロドゥンチまで行き、そこで奉納踊をする。上島と辺土名との関係。そのようなテーマを持っての国頭行きである(詳細報告は別に行う)。


      ▲安波のヌーガミ(ウガミ)           ▲安波ノロドゥンチ


    ▲安波ノロは上之屋一門から            ▲安波川の河口


          ▲安田の集落            ▲由来記でいうヨリアゲ森?


    
▲辺土名ノロドゥンチ(上島)      ▲辺土名の豊年祭(上島での奉納演舞へ)


2010(平成22)年9月18日(土)

 
名護市真喜屋(稲嶺)に「上地重福」が寄進した香炉が三ヶ所にある(稲嶺のマディキヤウタキ、真喜屋のウイヌウタキ、つるかめ拝所)。これまでどのような家の人物か、まだつかめていなかったが、『沖縄の古代マキヨの研究』(稲村賢敷著:135頁)で上地家について紹介されている。このように補足できる資料と出会うことは楽しい。香炉は上地福重が明治28年に上京し、帰ってきてから「奉寄進」したものである。

 「(真喜屋)巫女屋敷の西には幅一間位の通路があって、この通路を南に行くと約二十米程で、通路の西方に上地門中の根神屋がある。名護の天次嶽ではこの上地門中根神屋に相当する住居を掟神屋と称し、巫女の補佐役に当るという事であるが、真喜屋ノ嶽でもやはり上地門中の根神がこれを勤めたものであろうか。建物の内部は巫女屋と同じで神棚には御位牌を祭り、三ツ物の火ノ神が祭ってあった。」


 ▲マティキヤウタキの香炉(稲嶺)   ▲真喜屋のウイヌウタキの香炉 ▲真喜屋の「つるかめ」の拝所


 ▲[つるかみ」の拝所  ▲真喜屋ノロドゥンチの近くにあった上地門中の家(昭和30年代)

2010(平成22)年9月17日(金)

名護市汀間のウイミ(旧8月10日)】

 午後三時頃、汀間のサカンジョウ(三ヶ門)に神人などが集まる。サンカジョウ内でのウガンは世の神、ノロ神、根神の順に拝む。サンカジョウ内でのウガンが終わると、隣の祠へ。その祠はウタキグヮーのイベである。つまり、サンカジョウや神アサギなどがある森はウタキ(ウタキグヮー)である。サンカジョウの側のウタキグヮーの祠(イベ)を拝み、神人達は神アサギ内へ。旧8月10日の祭祀は名護市汀間ではウイミという。

 @サンカジョウ(三ヶ門)(世神・根神・ノロ神はクシグミから移動)(統合されている)
 Aウガングヮー(ウタキ内のイベ)(『由来記』の小湊嶽か)
 B神アサギへ(ウンバーリから現在地に移動)
 Cアサギ内でのウガン(ウプウガンへ遥拝)(『由来記』の大湊嶽か)
 Dアサギ内で勾玉や水晶玉、神衣装などのお披露目(年一回の)。

 神アサギ内にはテーブルと腰掛けが準備されていて、テーブルの上に勾玉と水晶玉とビーズ玉のついた首佩け(首に佩くことはなかった)。それらを入れる櫃が側に置かれる(胴部は茶の漆塗、蓋は黒、中心部から外に向けてヒビ割れあり)。衣装が置かれる。汀間ノロは汀間・瀬嵩・大浦の三ヶ村を管轄。

 神人にお神酒がつがれ、神人は正面、そして右手(ウプウガン)に向ってお神酒を備える所作をする(二回)。それが終わると参加者にお神酒が配られる。神人の前に御馳走が配膳される。参加者に勾玉、水晶玉、ビーズ、衣装などがお披露目される(年に一度)。(途中大雨となる)

 ・現在行われている祭祀場と以前の祭祀場の比較
 ・ウプウタキとウガングヮーを規模の大きさで見ていく必要あり(古い新しい、あるいは分離したではなく)。
 ・ウガングヮーにも鳥居があり。戦前にウタキを神社形式に仕立ててあったのを公園整備で鳥居は取り
  払われている)
 ・嘉手刈村と汀間村との統合。祭祀にどう影響しているのか?
 ・神アサギの移動
 ・ウプウタキとウガングヮーの二つの村のウタキが山手ではなく川沿いに位置する(他地域から移住してきた人々の集落?)
 ・『琉球国由来記』(1713年)に瀬嵩村に大湊嶽・スルギバル嶽・小湊嶽の三つのウタキがある。

 ・スルギバル嶽は大正14年に分離した三原(汀間のウンバーリ)にある。


        ▲汀間のサンカジョウ       ▲サンカジョウ内で勾玉や水晶玉が開けられる


 ▲世の神、ノロの神、根神の順でウガン      ▲神人の一人はサンカジョウから神アサギへ


 ▲サンカジョウの側の祠でのウガン▲ウタキグヮーでのウガン
  


▲神アサギ内で婦人方や村の有志と神人が合流▲神人はウプウガンに向ってウガン


 ▲勾玉や衣装などをお披露目(年一回) ▲ウガンが終わると参加者は直会(談笑)

 『琉球国由来記』(1713年)の久志間切汀間村とある。汀間ノロの管轄する村は汀間村・瀬嵩村・大浦村である。現在は汀間のみ。

      ▲ウプウタキの近景   ▲神アサギ跡からウプウタキ(左)とウタキグヮ(右)を望む


【古琉球の「間切・村(ムラ)・原(ハル)域】

 昭和60年頃、古琉球の「間切・村(ムラ)・原(ハル)域」を七枚の古辞令書から論じたことがある。下の図はその時のものである(『じゃな誌』(昭和62年発行)所収。

  1.辞令書の紹介
  2.「辞令書」から見た地方役人
  3.古琉球の間切・村(ムラ)・原(ハル)域
  4.「辞令書」にみる畑と田の単位

   (工事中)

 





2010(平成22)年9月16日(木)

 中学生のインターシップ今日で終了。二人の生徒を三人ががかりでの指導。博物館の職員の仕事の様子を体験してくれたらいい。四日間の実習で成長の跡が見られる。いい体験ができたはず。線の引き方、体で展示バランスをとる感覚、目には見えない、言葉では表現できない展示の手法。皆が共通してみている世界の表現の難しさ。そのあたり、少しでも感じとることができたのであれば幸い。明日から元の世界にもどるでしょう。いいこと。ご苦労さん。

 少し展示を進めてみた。印部石(原石)、祭祀と関わる場所や祭祀や神人家の遺品、かつての風景など。二人の調査ノートから天底と玉城の神アサギと説明文を展示させてみた。展示された印象は? 嬉しいやら、気恥しいやらの返答。いいこと。両親や友達をつれて見にきなされ! 見た人がどんな表情をされるか。そこが面白いのだぞ。学芸業務の大五味でもある。

 
 ▲二人の調査メモを展示してみた!       ▲一番目立つ所に張ろうか!?

2010(平成22)年9月15日(水)

 インターシップでの中学生。午前中、敷かれたレンガをあげて、伸びてきた木の根を取り除き、もとに戻す作業。また展示作業まで。前日の玉城調査や展示物の選び出しについての感想。@子守 A村の子供達 B農作業 C稲作 D物を運ぶ(運搬) Eかつての風景。


      ▲朝のミーティング                ▲展示作業中             ▲一コーナーの展示完了

2010(平成22)年9月14日(火)

 「山原のムラ・シマ」をテーマで講座を開いている。講座では数える数のムラ・シマしか訪れることができない。歴史文化センターとしては、山原のムラ・シマの全体像を把握しておく必要がある。その確認から(ゴッシクはまとめ済み)。ここで山原のみ掲げてみたが、奄美大島(加計呂間島含む)・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島、渡嘉敷島、座間味島、渡名喜島、粟国島、久米島、宮古、石垣島、竹富島、小浜島、西表島、波照間島、与那国島などの村の踏査は終えている。もちろん久高島や津堅島なども。「ムラ・シマ」レベルでの調査は、二巡、三巡目と、まだまだ続きそう。
     
 間切名 村 名 (踏査済) 未踏査地    備   考
 国頭間切 @辺戸 A奥 B安田 C安波 D宜名真 E宇嘉 F辺野喜 G佐手 H謝敷 I与那 J伊地 J宇良 K辺土名 L奥間 M桃原 N鏡地 O比地 P半地    
 大宜味間切 @田嘉里 A謝名城 B喜如嘉 C饒波 D大兼久 E大宜味 F根路銘 H塩屋 I屋古 I田港 K白浜 L宮城 M津波  G上原 J大保  
 現東村(久志間切) @高江 A宮城(魚・宮城) B川田 C平良 D慶佐次 E有銘(現東村)    
 羽地間切(現名護市) @源河 A稲嶺 B真喜屋 C仲尾次 D田井等 E親川 F川上 G仲尾 H振慶名 I伊佐川 J我部祖河 K古我知 L呉我M饒平名 N屋我 O我部 P済井出      
 名護間切(現名護市) @喜瀬 A幸喜 B許田 C数久田 D世富慶 E名護(東江・城・大兼久) H屋部 I宇茂佐 M安和 N山之端  F宮里 G為又 J中山 K旭川 L勝山   
 今帰仁間切 @今泊 A兼次 B諸志 C与那嶺 D仲尾次 E崎山 F平敷 G謝名 H越地 I仲宗根 J玉城 K呉我山 L湧川 M天底 N勢理客 O渡喜仁 P上運天 Q運天 R古宇利    
 本部間切 @瀬底 A崎本部 B健堅 C大浜 D辺名地 E谷茶 F渡久地  I伊豆味 J並里 K伊野波 N浜元 O浦崎 P古島 R謝花 22.嘉津宇 23.具志堅 25.備瀬  G東 H大嘉陽  L山里 M野原 Q大堂 S北里 24.新里 26.山川 27.石川 28.豊原   
 久志間切(現名護市) @久志 B辺野古 D大浦 E瀬嵩 F汀間 H安部 I嘉陽 J天仁屋 A豊原 C二見 G三原  
 金武間切 @金武 A伊芸 B屋嘉(現金武町)
C漢那 D惣慶 E宜野座 F松田(現宜野座村)
   
 恩納間切 @名嘉真 A安富祖 B喜瀬武原 C瀬良垣 D恩納 E南恩納 F谷茶 G前兼久 H仲泊 I山田 J真栄田 J塩屋   K宇嘉地   
 伊江島(現伊江村) @東江上 A東江前 B西江上 C西江前 D川平村    
 伊是名島(島尻郡) @伊是名 A仲田  C諸見 D勢理客 B内花  
 伊平屋島(島尻郡) @田名 B我喜屋 C島尻 D野甫 A前泊  

【恩納村山田を踏査】

 恩納間切の創設は1673年のことである。金武間切の一部と読谷山間切の一部をとって恩納間切が創設される。1673年以前の史料には、恩納間切は登場せず、恩納間切の村は読谷山間切と金武間切として登場する。恩納村・瀬良垣村・安富祖村・名嘉真村が金武間切から、前田(真栄田)村・古読谷山(山田)・蔵波村・仲泊村・富着村・塩屋村が読谷山間切から新設恩納間切へ。山田(読谷山)村について触れることに。

 山田村に注目しているのは、山田(読谷山)村に山田グスクがあるが、『琉球国由来記』(1713年)に山田グスクについて何ら触れられていないこと。金武グスクについても同様。また山田グスク内に拝所がない。『琉球国由来記』(1713年)に山田(読谷山)村に「オシアゲ森」(神名:サケノイベヅカサ)とある。山田グスク内に拝所(イベ)があれば、別であるがそれが確認されない。ならば、オシアゲ森(ウタキ)は山田グスク内ではなく、遥拝所とされる場所がウタキのイベとみていいのではないか。

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年頃)の山田村に「ノロクモイ、嶽ノ筋ナイ神、嶽ノ筋ナイサクッキラノ神」、そして「神アサギ一ヶ所、後ノ御嶽、ノロ殿内火神所一ヶ所」とある。恩納村の旧集落の北側にある下の拝所は「後ノ御嶽」とみてよさそうである。仲松先生は「うとうし御嶽」とされるが、旧集落から見て、後方に位置しているので「後ノ御嶽」としてもなんら不思議はない。つまり、山田村のウタキのイベは山田グスクにはない、後ノ御嶽内にある。

 明治34年の山田村の図をみると、後ノ御嶽のすぐ下方にノロ殿内や中ノトンチ跡など旧家が何軒かある。『琉球国由来記』(1713年)の段階で、グスク内にノロを中心とした祭祀を行う拝場所がないというのは、そのグスクはその集落(後の村)のウタキとは関係がないということ。ムラのウタキにグスクを造ったわけではないことになる。その視点で見ると金武グスクの影が薄いこと、そして山田グスクはウタキでなく、山田村のウタキでない場所にグスクを造ったことになる。グスクと集落の祭祀との関係を見る一つの視点になりそうである。山田村あるいは山田グスクは山原ではなく、中頭地方であるとの視点で見ていく必要がありそう。

 因みの後ノ御嶽のイベにある三つの香炉は、山田村のアガリ家系統、ノロ家系統、久良波(山田統合される)の松田系統と関わるものかもしれない。



    ▲恩納村山田の「後の御嶽のイベ」    ▲御嶽のイベの近景

 
 ▲「後の御嶽」のイベへの道          ▲旧集落跡から「後の御嶽」を臨む


【恩納村山田】

【絵図郷村帳】(1643年頃)
  
(金武間切の内)
   ・おんな村 ・せらかち村 ・あふそ村 ・中間村
  (読谷山間切の内)
   ・前田村 ・古読谷山村(山田村) ・くらは村 ・仲泊村 ・下ふづき村 ・上ふづき村 ・谷茶村 ・しほや村


【琉球国高究帳】(1648年頃)
  (金武間切の内)
   ・よくた村 ・前田村 ・古読谷山村 ・ふつき村 


【恩納間切の創設】(1673年)

【琉球国由来記】(1713年)
  ・恩納村 ・真栄田村 ・読谷山(山田)村 ・富着村 ・瀬良垣村 ・安富祖村 ・名嘉間村 ・前兼久村
  ・谷茶村 ・仲泊村 


【間切村名尽 附宮殿官衛名 全】(1713〜1719年間)
  ・恩納村 ・真栄田村 ・安富祖村 ・瀬良垣村 ・名嘉真村 ・谷茶村 ・仲泊村 ・富着村 ・前兼久村
  ・蔵波村 ・
山田村

【間切村名尽 全】(1738年以降)

  (恩納間切部分落丁)

【御当国中村位定之事】(1738年以降)
  ・仲泊村 ・前兼久村 ・塩屋村 ・真栄田村 ・蔵波村 ・古読谷山村 ・富着村 ・谷茶村 ・恩納村
  ・瀬良垣村 ・安富祖村 ・名嘉真村


【沖縄県統計慨表】(明治13年)
  ・恩納村(177戸) ・瀬良垣村(60戸) ・安富祖村(111戸) ・名嘉真村(86戸) ・谷茶村(78戸)
  ・前兼久村(51戸) ・仲泊村 ・山田村(80戸) ・真栄田村(110戸)

  ※恩納間切で世帯数の一番多いのは恩納村の177戸である。その恩納村に恩納掟と久留原掟の二人の掟を置いたのは     世帯数が多いことが一因していると見られる。金武間切の金武村(500戸)に金武掟と並里掟の二人の掟を置いたのと同    じか。もう一つは土地制度(地割)で租税の多さ、二人の掟にあたえだけの収益があったのであろう。

2010(平成22)年9月11日(土)

 「ムラ・シマ講座」は金武町金武へ。金武・並里を踏査しながら、以下のことが頭に浮かんできた。一つひとつ整理してみる必要あり。参加者のみなさんご苦労さんでした。金武の方々から大きなハンバーグの差しいれがあり、ほおばって食べました。お陰様で最後まで持ちました(今朝、体調を崩しかけていたので!)。バス運転の課長、感謝。

   ・マチに見える旧ムラの痕跡
   ・古琉球のムラ・シマの姿(近世の行政村以前のムラ)
   ・一つの行政村(ムラ)に複数のウタキといくつものイベあり。
   ・金武王子や金武親方と金武間切、同村との関係
   ・金武王子や金武親方の薩州行と金武間切の奉公人と香炉
   ・歴史史料と祭祀空間でみる金武村
   ・集落区分の四つの村渠(ダカリ)(後村渠・仲村渠・東江村渠・京村渠)
   ・金武村に配置された二人の掟(金武掟・並里掟)
   ・金武グスクの存在の薄さ(ウイヌモー)
   ・御嶽原の二つの拝所(ウガミ・中森)の香炉
   ・モーシムイ(仲村渠)付近の集落形態(ウタキ・旧家・カーカーなど)
   ・金武区と並里区との境界線の不明さ
   ・金武区と並里区の人々の村の歴史認識

 @金武間切金武村の出てくる資料。(並里も)
 A金武村(現字)の小字
 B金武の集落区分(後村渠・京村渠・仲村渠・東江村渠)
 Cトゥムスズウタキ(ウタキ内のイベ)
 D根神ヤー
 Eアナガー
 F金武ノロドゥンチ
 G神サギ(アサギ)跡
 H金武グスク門の岩?
 Iウイヌモー(金武グスク?)
 Jウガミ
 Kナーカムイ
 Lキンタガー
 Mキンタのウタキ(イベ)?
 Nウドゥンヤシキ跡
 Oウドゥンガー跡の祠
 Pキンタ旧村跡付近の旧家
 Qモーシムイ
 Rウッツカー(金武大川)


 
         F金武ノロドゥンチ               Lキンタガーの分水

2010(平成22)年9月10日(金)

 これまで収蔵庫に寝かしてあった松の輪切りを展示(ヌンドゥルチモーにあった松の一部)。樹齢は約200年である。樹齢に出来事を重ねてみるか。今帰仁間切が今帰仁村になった頃。廃藩置県の頃。ペリー一行の一部が今帰仁に来た頃などなど。

 新城徳佑氏(故人)は今帰仁村内の松について貴重な資料を遺してある。氏の調査記録ノートは『なきじん研究』10号に収録。展示した写真パネルの二点は新城氏撮影である。松に関する記録を拾ってみた。

【今帰仁街道松喰虫の処理状況】(1956年)

 仲原馬場より平敷に向って5本目から4本伐倒、皮を剥いでかき集め焼却してあり、根元も各々焼かれている。
 松喰虫はサソリの様に節のついた太く長い鋏を持った蚤□の虫で皮と幹の間に棲んで居り、表皮を喰う。「其の予防の方法が現在なく、被害松は伐倒して焼却する方法以外にはない」lと経済局で語っている。
 今泊の停留所の側の俗にプイの毛と言う所に被害松が3本あって、これも平敷の松と同じ様に処理されていた。尚大きな老木は中が白蟻に食いつぶされて空洞となり、2、3日前に亀裂を生じ通行人等に対して危険であるため、警察の申し出もあって伐倒した。
 今帰仁街道松並木410本の中、今回伐倒したのが8本で差し引き402本しか残っていない。斯様にして折角祖先が育て上げ風致上、又旅する人々に憩いの場を与え、懐しがられているが松喰虫の為に伐倒せざるを得ないことは返すも残念である。


【今帰仁街道松並木】(1956年12月5日)

 ・謝名部落中通り東  22本   ・謝名部落中通り西 41本  ・今帰仁校下 26本 ・仲原馬場 54本
 ・平敷の東 43本 ・ヂニンサ 5本 ・仲尾次(両側) 19本 ・与那嶺 61本 ・諸志 4本 ・兼次校前 36本
 ・シュク原 19本 ・今泊ノロ殿内毛 4本 ・今泊西 46本


【松喰虫被害松】(1957年10月4日)
 ・北部営林所にて、今帰仁街道指定松
 ・馬場から西方 2本  ・今泊シュク原 3本  ・風倒木 計18本
 ・謝名(馬場) 5本  ・越地 4本  ・仲尾次 1本  ・与那嶺 3本  ・兼次 3本  ・今泊 2本


  ※大正中頃、馬場の周囲だけに96本あった。

 
  ▲宿道街道沿い(兼次校前)(1956年)              ▲1959年仲原馬場調査メモ

 


2010(平成22)年9月9日(木)

 「金武町金武(金武・並里)のレクチャー。「マチにムラの姿を見る」がテーマ。行政村と行政村になれなかった並里。並里に「つぶた村」(慶武田村)の痕跡を見る。「つぶた村」(慶武田村)が並里へ?


 墓調査の依頼あり(10月28日)。一部展示替え。金武町金武の御嶽原にある中森とウガンの香炉は、金武王子や金武按司の大和旅(薩州や江戸上り(立)、あるいは随行していった奉公人が寄進したものに違いない。しかし、香炉に年号や寄進者銘が摩耗で判読できないのは残念。


【中山世譜】
より
・天啓7年(1627) 尚氏金武王子朝貞、慶賀で2月薩州へ10月帰国。
・崇貞2年(1629) 尚氏金武王子朝貞、謝恩で薩州へ。
・崇貞7年(1630) 尚氏金武王子朝貞、年頭使で薩州へ。
・崇貞11年(1638) 尚氏金武王子朝貞、2月15日薩州へ6月帰国。
・崇貞16年(1643) 尚氏金武王子朝貞、5月薩州薩州へ、翌年江府へ冬帰国。
・順治9年(1652)  金氏金武親方安實、4月25日薩州に到着、江府へ、10月帰国。
・康煕9年(1670)  尚氏金武王子朝興 尚貞王即位で正使として6月薩州へ10月帰国。
・康煕26年(1687) 尚氏金武王子朝興、6月6日薩州に到着10月3日病卒。
・康煕52年(1713) 尚敬王の即位で尚氏金武王子朝佑、正使として6月9日薩州、翌年江府へ、翌3月帰国。
・道光13年(1833) 向氏金武按司朝英、太信院様の香儀で6月22日薩州へ、10月12日帰国。
・道光20年(1840) 章氏金武親雲上正孟、8月19日薩州に到り11月11日帰国。
・道光26年(1846) 章氏金武親方正孟、年頭の慶賀と広大院様の三年忌などで5月10日薩州へ翌年9月23日帰国。



 ▲金武公民館側のウガンの香炉(約20基)   ▲中森の香炉(約10基)


    ▲慶武田川の分水         ▲慶武田川の後方にあるウタキのイベ?


 ▲ウドゥンガーの拝所とウドゥンヤシキ跡の火神 ▲慶武田川後方のウタキ周辺にある旧家の一つ

2010(平成22)年9月8日(水)

 展示替えを進めている。それには大きなねらいがある。そこには数多くのテーマが潜んでいる。そこからテーマを引き出していくのは観覧される方々である。これまで数多くのパネルを作ってきた。その一点一点に情報を注ぎこんできた。展示替えは、その情報の整理である。テーマを絞って整理した展示は目的としていない(ムラ・シマを基本とした展示はくずさない)。テーマを絞ってきたために数多くの資料を没にしてきた苦い経験がある。

 仲原馬場の松が台風で折れてしまった。その処理が今日行われた。枝まで空洞になっていたため、樹齢を数えることはできず。直径98cm(60cmの所)、空洞の直径約60cmであった。






2010(平成22)年9月7日(火)

 
諸志の展示替えをする。

【金武村 T】
 雨の中、金武町金武まで。これまで何度か足を運んでいるが、他のムラ・シマと異なり、なかなか地理的感覚がつかめずにいる。それで、今回は素直に感覚的に歩いてみることにした。金武町役場の側を通ると、最初に目に留まったのがトゥムスズ御嶽、それは『琉球国由来記』(1713年)にでいう「トムツヅイベ」のことであろう。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)でいう「字御嶽一ヶ所」のことであろう。金武村と密接に関わる御嶽であることに間違いはない。

 ならば、付近に旧家があるはずである。一帯は金武村の後村渠である。そこにトゥスズの御嶽、ノロが拝むという穴川、神サギ(神アサギ)、根神(ヌガミー)、ウチガミなどがあるようだ。それらの拝所は金武・並里の人達が拝んでいるようで、金武村の集落の発祥と密接に関わるとみていい。そこで根神(ヌガミー)と金武ノロドゥンチ、神サギ(アサギ跡)、さらにウイヌモーへ。ウイヌモーは金武グスクだろうか。

 『琉球国由来記』(1713年)に金武グスクについて何ら触れられていない。金武按司(きんのあんしまさふろかね)と1501年の玉陵の碑に登場する。ウドゥン屋敷跡や金武巫(ノロ)火神の前でのウガンに両惣地頭からの供え物があるので、金武グスクがあり、そこに金武按司が住んでいた時代があってよさそうである。1700年代に金武グスクについて触れられていないのは、理由があってのことだろう。



  ▲トゥムスズ御嶽(遠景)      ▲金武グスクの門の石? 近くに神サギ跡


    ▲金武ノロドゥンチ            ▲ウイヌモー(金武グスク?)

【並里 U】


  (工事中)


2010(平成22)年9月4日(土)

 台風が去り、片づいたととたん台風10号のが接近。台風対策をし一段落。午後から「山に残された歴史―発掘されたやんばるの生業」をテーマで文化講座(於:今帰仁村歴史文化センター講堂)。移動展 発掘調査速報展(9月4日〜9月19日:談話室)が開始。

 ・大宜味村大保川上流域の生産遺跡群 片桐 千亜紀(沖縄県埋蔵文化財センター)
 ・金武町奥首川上上流周辺の生産遺跡群 安座間 充(金武町教育委員会) 
 ・恩納村大港川流域の山の生産遺跡跡群について 崎原 恒寿(恩納村教育委員会)
 ・本部町伊豆味集落内にある藍壷と琉球藍生産について 幸喜 淳(財団法人海洋博覧会記念公園管理財団)
 
 一人ひとりに印象を述べることはできないが、新鮮な気持ちで報告を拝聴させてもらった。いい報告でした。山手での生産遺跡のほとんどが、寄留してきた人々が土地制度(地割)で集落内に居住できず山手や海岸周辺に居住したことと切り離せないテーマである。特に明治初期の廃藩置県前の大量の移住と無縁ではないであろう。そんなこととダブらせながら報告を聞かせてもらった。御苦労さんでした。感謝! 台風接近の中の参加ありがとうございました。

   


2010(平成22)年9月3日(金)

 墓部分の展示替えをする。当り前に見ている墓であるが、再度いくつか確認する。歴史的な墓と位置付けている墓がいくつもある。百按司墓、大北墓、津屋口墓、板門墓、誌板のはいていた墓、オランダ墓、大和人墓などなど。

 それと今帰仁村全体の字(アザ)の紹介と、今回は古宇利島と仲宗根の展示替え。仲宗根に大正5年に役場が運天から移動してくる。戦後すぐの「今帰仁村役所」の看板と戦後すぐ建設した役場の前での職員の集合写真。今帰仁村にはマチらしきマチは仲宗根のみである。昭和30年代の仲宗根のマチの様子。それと戦前、戦後の仲宗根の方々。豊年踊りの道ジュネーも展示する。






2010(平成22)年9月2日(木)

 31日と1日、台風の影響で停電。その後片づけに追われる。パソコンも停止状態で更新できず。(あちこちにダブって書いています!)

【国頭村与那の海神祭】

 これまで国頭村与那の海神祭(ウンジャミ)は見たことがない。それで今年は与那の海神祭の調査をすることに。その前に、どのような視点で見て行けばいいのか。その下調べから。調査に入る前に、1969年に発行された『沖縄民俗』(琉球大学民俗クラブ)から「ウンジャミ」の流れを把握することから。

 40年余経過した今日どのように変貌しているのか。その視点での調査をしてみることに(調査がうまくできるかどうか?)。また古宇利島の海神祭や他の地域の海神祭と比較してみることも。海神祭の三日前の酉の日はミタベー、亥の日は海神祭、海神祭の翌日の子の日はワラビウイミとして行われる(どのように変貌、簡略化されてるか!)。


【与那の集落形態】

 『琉球国由来記』(1713年)でいう「ヨリアゲ森 神名:ソコモリノ御イベ」は与那集落入口の右手の森である。そこはウガミと呼ばれている。近くにユヤギムイの拝所がある。この二つの拝所と集落との関係を見ると、どうも与那村は他地域から移動してきた集落ではないか。自然発生的な集落とみるならば、チブヤーウイと呼ばれる森がウタキであるのが自然である。ところが、チブヤーヌウイは「豊年の神」との観念で見られている。与那と同様なウタキと集落との関係にあるのは国頭村奥、安波、宇嘉などがある(詳細は省く)(移動の時期について16世紀前半を想定している)。

 チムヤーヌウイに三つの香炉が置かれている。そこでの祭祀を確認したいと思っている。豊年祭の時、男達はそこから衣装をまとい降りてくるという(国頭村安田のシニグの時、三つの山から男達が降りてくるのと同様?)。そこから三つの香炉は与那の上門(36戸)・上謝敷(14戸)・前門(16戸)(『琉球共産集落之研究』(田村浩:大正末か)と関わるのではないかと想定している。『沖縄県国頭の村落』(昭和58年発行)では6つの門中があるとされる。



      ▲チブヤーウイの三つの香炉   ▲チブヤーウイへの階段   ▲フサトガー

【与那ノロドゥンチの位牌】

 『国頭村史』(宮城栄昌著)に与那ノロに関わる記事が以下のように記してある。
  「最も古い一族は大城家(屋号上門)でノロ・若ノロ・根神などは同系統から出した。上門には雍正四年(1726)の死亡者(ノロ?)の位牌があり、ノロ殿内には1770年から1872年までに死亡した五人のノロの位牌がある。上門のノロは17代世襲されたという。ノロ墓は国頭村佐手にある。



    ▲ノロ殿内にあるのろの位牌     ▲国頭村与那にある与那ノロ殿内


       ▲与那ノロの遺品      ▲与那ノロの墓のあるヤーンクシ(国頭村佐手)

【与那の海神神祭から見えてくるもの】

   (古宇利・安田・比地などとの比較)

『山原の土俗』(島袋源七著:大正14年)
 ・与那の祝女は同村与那・謝敷・佐手・辺野喜・宇嘉の五ヶ字の祭祀を掌る。各字に神人はいる。
 ・ウングマイ 
  
祭の三日前の夜、神人だけでアシアゲに集まって、儀式を行う。その夜は神アシアゲの周囲の民家の男は、
  総て他家に行って宿泊せねばならない。また夜外出する事はいたく禁じられている。


 ・祭の当日
   神人は祝女殿内へ集まる。その時各字から来た神人(男)は儀式用具を持つ様になっている。
   即ち宇嘉の神人は月を持ち辺野喜の神人は太陽を持ち、佐手・謝敷の神人は太鼓を打つことになっている。
   用意が整うと行列をして神アシアゲに参る。月と太陽はウチバという。


 ・神アシアゲ内
   アシアゲに至ると図のように着席し祝女は祈願する。
   祈願が終わると大勢頭は弓を持って庭にかざってある冬瓜で作った猪を射る真似をして幾度もねらいを定め
   直す。その間ムラ神は猪を両方から囲み立て大勢頭に加勢をなす。遂にこれを射れば、根神・ウチ神・祝女
   等は大勢頭とムラ神を取りかこんで太鼓を鳴らす。ウチバは特に歓喜の情を見せて踊り狂う。


 ・ナガレ

   しばらくして猪を持ち神人は行列をして浜に参る。大勢頭は猪を砂中に埋めムラ神と共に弓の先でその上を
   つつき山に向って礼拝す。神人は頭にかぶっていたカブイ(トーカンラという蔓草で作ったもの)を海に流す。それ
   で式が終わる。


 
                       ▲マサグ浜でのウガン

※「山原の土俗」からの文書が『鎌倉芳太郎資料集』(ノート編U)に納められている。

『沖縄民俗』(1969年調査:琉球大学民俗クラブ)調査

 ・三日目の酉の日にはミタベー(神人がヌンドゥンチでウンジャミがあることの予告の祈願)。
 ・七月盆明けの亥の日
 ・ウンジャミの日、神人はヌンドゥンチに集まり祈願をする。
   シンメーダキ、ウサギヤビティ、ムヌマキン、カジマキン、シミミソーラングトゥ
   健康ニカミブリンシミソーリ
 ・祈願が終わるとアサギへスネーイ(行列)
   シル神二名と村人一名の計三名が三日月と満月の模型と太鼓を持つ。
   村神は弓や弓矢を持つ。
 ・アサギにつくと村の人々と一緒に健康祈願をする。
   (ウンコイ庭での七回廻りと祈願が記述されず)
 ・村神、根神は扇を右手に持ち、左手で縄をつかまえて揺り動かしながらエーヒドゥヌサチーのオモロを謡う。
 ・他の神人はアサギで見守る。
 ・何ももたずに、縄もつかわないで円陣をえがきエーアカムヤー、続いてエークガチンヌーのオモロを謡う。
 ・その後、青年達が網で魚を取る真似をする。籠に魚にみたてた木片などを入れて山の神に供える。
 ・スブイ(冬瓜)かカボチャでヤマシシ(猪)の形をつくり、村神のメーウンニー家のおばあさんが弓矢で射る。
 ・弓矢で猪を射って東に向って弓を三回あげる。
 ・まさぐ浜に行く。(他部落の神人を見送る)
 ・イスヌウカミ(磯の御神→海の神)へ猪を供える。
 ・それが終わるとヌンドゥンチに行き、祭りの終わりを告げ、謡い踊る。
 ・与那部落所有の田のムッチマシから収穫した米で作った餅を、四部落(宇嘉・佐手・辺野喜・謝敷)からは
  一戸当りエーヌクヮ(魚の一種)十尾を竹で串刺ししたものを三組づつアサギで供えて神人に配る。
 ・与那区民一人当り米一合ずつ徴収して神人に一人当り三升ほど配り、残った米で翌日使うホイヤーミチ
  (神酒)をつくる。(当時(1969年)には金を徴収している)
 ・海神祭の翌日(子の日)はワラビウイミと称し、昼頃アサギの広場でユノウシ(椀)にホイヤーミチ(神酒)を入
  れたのを一対お膳に置き男一人で飲む。この時、一人の神人がホイヤー、ホイヤーと掛け声をかけながら太
  鼓を叩き、後ろ側の一人の神人が男の耳をつかまえ揺り動かす。神酒がこぼれてしまう。神酒がこぼれあふ
  れる程作物ができて欲しいとの祈願。
 ・その日はノロ・若ノロ・ウスー(御主)は招待客であり、駕籠に乗って見守る。拝みをするのは根神が中心で
  ある。
 ・根神・掟神・ウフシル神・村神(2名)の計5名はアシビガミ(遊び神)と呼ばれアサギマーで踊る。

 

歴史文化センターの調査記録 
        (2010年9月)             

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