山原のムラ・シマ講座(第19期:平成23年度)
                    

                               主催:今帰仁村教育委員会
                                    今帰仁村歴史文化センター

【第7回 山原のムラ・シマ講座】(今年度最終のフィールド)

                                          
(平成23年12月10日開催)
ムラ・シマ講座参加者のみなさん
                                      
        第19期 第7回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ

 今年度最後のフィールド調査となります。今回は東村です。東村には北から高江・宮城・川田・平良・慶佐次・有銘がある。今回は平良と川田を中心に訪ねることにします。沖縄本島西海岸に住んでいると、東海岸のムラ・シマを踏みこんで見ていくことはめったにない。前回は東海岸の久志でした。引き続き東海岸の平良と川田を訪れ、東海岸のムラ・シマの面白さを引き出していきましょう。

 東村は大正12年に久志村から分離・独立した村(ソン)です。分離以前の久志村(ソン)は南北68kmあり、13ヶ字から北側の5ヶ字で東村としました。翌年に一区を新設(高江)して6ヶ字となりました。現在の東村は名護間切の時代、大宜味間切時代、久志間切の時代、そして久志間切(村)から分れて東村となります。行政からすると複雑な歴史を歩んでいます。そのようなムラを祭祀と集落の成り立ちの視点で訪ねてみましょう。

☆12月10日(土) 午前9時歴史文化センターに集合
  ・平良と川田のレクチャー
  ・9時40分 大宜味村塩屋を通り、東海岸の平良へ。
  ・平良の根神屋(ニガミヤー)
  ・平良ノロドゥンチと神アサギ
  ・川田の神アサギ
  ・川田のお宮(勝宮)・ウフガー・根謝銘ヤー
  ・北山一族の伝承をもつムラ
  ・タケダーラウタキ(ヌル屋敷・神アサギがあった場所の伝承あり)
  ・イェーラガマ(根謝銘屋門中一族の拝所)
  ・東村山と水の生活舘

  (午後1時30分頃終了予定)


 ▲平良の神アサギ(中学生達が迎えの車を待つ)   ▲川田の旧家の根謝銘ヤーとオミヤ(勝宮)


【第6回 山原のムラ・シマ講座】
                                 
 (平成23年11月12日開催)
ムラ・シマ講座参加者のみなさん
                                      
        第19期 第6回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ

 今回は西海岸の恩納村恩納に続いて、東海岸の久志(現名護市)です。久志村(ムラ)は金武間切、久志間切、久志村、そして名護市と変遷を辿っています。久志間切が創設された当時(1673年)、久志村に久志間切番所が置かれます。しかし、10数年後には瀬嵩村に久志番所が移されます。

 久志村の前方の海域を山原船が往来していた時代がありました。組踊りの久志の若按司は久志村出身とのことで久志の若按司を祭った祠や墓などが、村の誇りとしています。番所跡は現公民館敷地の一画にあったようです。番所移転直後に建立された「観音像」(久志観音堂)は今でも健在です。観音堂一帯はアタイ原と呼ばれ、久志集落が移転する前の古島と見られます。

 そのような歴史を持った久志村内を以下の流れで散策します。

☆ 11月12日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
  ・久志村(ムラ)のレクチャー
  ・9時40分 歴史文化センター出発(マイクロバスで)
  ・名護市許田から東海岸へ横断。宜野座村松田から久志小(クシグヮー)へ。
  ・ウシヌモー(久志川・久志橋付近)
  ・ワータンジャー(渡地川)(現集落を見る)
  ・現公民館、体育舘前の広場、久富商店(共同売店)、イェヤーガー
  ・学校跡地
  ・久志の神アサギ
  ・久志ノロ殿内
  ・久志若按司の祠など
  ・ミヤギムイ(遥拝所)
  ・久志観音堂一帯(ハタイ原)・久志の若按司の墓
  ・ウイヌクムイ・シチャヌクムイ
  ・ヌルガー/メーダムイ
  ・ウガミ(ウタキか)
     (午後一時頃終了)

参考文献:わがまち・わがむら(名護市史) 民俗地図(名護市史)など

  
  ▲久志橋の向こう側がウシモー跡         ▲戦前のウシモーの様子(忠魂碑があった場所)

  
    ▲現在の公民館前の様子              ▲久志ノロ殿内              ▲久志の神アサギ

 
       ▲久志観音堂                  ▲久志観音像(石仏)


【第5回 山原のムラ・シマ講座】
                              
(平成23年10月8日開催)


ムラ・シマ講座参加者のみなさん
                                      
        第19期 第5回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ

 「ムラ・シマ講座」は恩納村恩納です。恩納間切(今の村)は1763年に金武間切の西海岸と読谷山間切の北部の村を分割して創設された間切です。北部(北山)と中部(中山)の村を統合した恩納間切、そして創設された間切の番所は恩納村に置かれます。

 また、ペリー一行が恩納間切の番所を訪れスケッチをしています。当時の恩納間切番所の様子が伺えます。また、以下の場所に立ち止り、恩納間切の中心となった恩納村(ムラ)で歴史・文化に触れることにします。恩納間切の恩納村(ムラ)、そこでどんな歴史が展開されたのか。恩納(ウンナ)の意味は?

 ☆ 10月8日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合

 ・恩納村の位置図

 ・恩納村のムラ・シマ(金武間切から)

 ・恩納村のムラ・シマ(読谷山間切から)

 ・海からみた恩納のムラ・シマ

 ・恩納村恩納(同村)

 ・恩納の集落移動

 ・金武間切の頃の恩納の

 ・現集落と二人の掟

 ・神アサギと殿(トゥン)を持つ地域

 ・恩納ムラ内の旧宿道と新宿道

 ・徐葆光と王文治の扁額

 ・尚敬王・蔡温の北山巡行

 ・恩納ナビーの琉歌(恩納岳)

 ・ペリー一行が遺した恩納間切番所(公舘)

 ・昭和9年の恩納での献穀田御田植式

 ・恩納間切番所付近の様子

 ・恩納ノロドゥンチ

 ・恩納の神アサギ(茅葺き)

 ・カンジャガー

 ・恩納ナビーの歌碑(昭和4年建立)


  
 ▲恩納グスク内の殿(ヤウノ嶽)           ▲浜崎嶽(東の御嶽)           ▲浜崎嶽内のカネクノ殿




【第4回 山原のムラ・シマ講座(参加者に公文送付)
                              (平成23年9月10日開催)

ムラ・シマ講座参加者のみなさん
                                      
        第19期 第4回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ


 今回の「ムラ・シマ講座」は今帰仁村今泊です。今泊は今帰仁村(ムラ)と親泊村(ムラ)が合併しています。そのため、合併以前と合併以後を意識しながら見ていく必要があります。かつてはムラヤー(村屋:公民館)が別々にありました。他の地域とは異なり祭祀は一体と成って行っていますが、神ハサギは別々にあります。

 また今帰仁グスク周辺にあった今帰仁村、親泊村、志慶真村が移動します。その時の今帰仁ノロ管轄のムラ(村)は、その三ヶ村でした。志慶真村が兼次村を越えた諸喜田村の南側に移動し、明治36年には統合され諸志村となります。そのこともあって志慶真村は今帰仁ノロの管轄からはずれ、中城ノロが祭祀を行っています。ただし、今帰仁グスクで行うウイミ(海神祭)の時、志慶真村出身の神人が参加していました。

 今泊の集落は今帰仁グスク周辺から麓に移動した移動集落(同村内での集落部の移動)です。先ほどの志慶真村は兼次村を飛び越えているので移動村です(村移動と集落移動は区別していく必要あり)。

 世界遺産の今帰仁グスクを抱えた村(ムラ)です。今帰仁グスク内の世界と村や集落との関わりを丁寧に見ていくと、グスクと集落、あるいはグスク内の世界と集落との関わりが、祭祀を通してみていくことができるムラです。移動集落と旧家の火神の祠など、そこにはウタキからグスクへ、あるいは按司家の移動や旧家の移動が故地に遺したもの、首里に引き揚げた監守一族の墓(大北墓・津屋口墓)などから、いくつもの法則性(習俗)を見つけ出すことができます。

 当日は今泊の集落内(公民館前・マーウィ跡)で豊年祭が開催されます。今回はウイミ(海神祭)や豊年祭など、人々の動きを通してムラを見て行きます。それぞれ、どんな発見をしてくれるでしょうか。

☆ 9月10日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
   ↓ 出席の確認
    ↓ 今泊の概要説明
    ↓ (今年行われたフプユミ(大折目・海神祭)の様子をお見せします) 
   ↓ (バスで今泊集落へ移動) 
    ↓ 今帰仁ヌルドゥンチ(勾玉と簪拝見できるかも)
    ↓ ハサギンクヮー(今帰仁神ハサギ)/獅子小屋
    ↓ 今帰仁阿応理屋恵殿内(オーレーウドゥン跡地)
   ↓ シルバマ(白浜)(海岸)(薩摩軍の今帰仁グスク攻めの上陸地?)
   ↓ 津屋口(アカン)墓と墳墓記碑 
   ↓ クビリガー/鍛冶屋跡のガマ
   ↓ かつてのウドゥン屋敷跡地/マチンヒチャガー/ハンゼークヤーの神棚
   ↓ 今泊の公民館(コバテイィシ・フプハサギ・馬場跡・豊年祭会場/豊年口説碑))
   ↓ 歴史文化センター(13:00 解散予定)

  (午後2時豊年祭の道ジュネーが行われます。夕方から豊年祭が行われます。
   ご希望の方は豊年祭まで見学を!)

 (当日、大雨のため現場での説明は省略しました。)















①ハサギンクヮー(今帰仁神ハサギ・安次嶺神ハサギ)


 【シマウイミ】

 旧暦811日(9月8日)に行われる。拝む場所はハサギンクヮー(今帰仁神ハサギ)とフプハサギ(親泊神ハサギ)、獅子小屋のあるウッチハタイでウガンをし、獅子はプミチ(大道:マーウィ)に出て、獅子舞と棒の舞がある。この日はヨーハビで、災難払いの日である。今年は豊年祭のシクミの日とシマウイミが重なっている。奉納踊と棒術が今帰仁ノロ家とオーレーウドゥン前で行われた。

 シマウイミのハサギンクヮーとフプハサギでのウガンは終っていたので画像はなし。

 

 

     ▲今泊の獅子(一頭)

 

 

    ▲ハサギンクヮー(安次嶺神ハサギ)                 ▲ウッチハタイの獅子小屋

②オーレーウドゥン(阿応理屋恵殿内)


  

 

 
 

③シルバマ(白浜)


 
1609
年の薩摩軍の琉球侵攻と親泊。




④津屋口墓(アカン墓)(新聞記事)

 

壊された開かん墓(沖縄タイムス:19641229

 三百年前から入口が閉ざされたままという秘密のベールにおおわれた今帰仁村字親泊にある「開かん墓」が最近、なにものによってこわされた。この墓は文化財としても研究の対象にされており、文保委では28日新城徳祐主事を現地に派遣して調査をした。

 墓がこわされたのは二か月ほど前のことだが、さいきん子孫の具志川朝雄氏(具志川御殿)が調べてわかったもの。墓は親泊部落の東側海岸にあり石積みでつくられているが、正面のシックイでぬり固めた石がこわされ、あと石をハメこんであった。近くの人たちの話だと、二か月くらい前、夜中にハンマーで石をたたく音が聞えてきたという。

 墓庭に建てられた碑によると、この墓に葬られているのは向姓具志川氏の先祖で三代目の北山監守宗真公となっている。宗真は1557年に生まれ1592年、35歳で病死した。北山監守というのは中山の尚巴志が北山を滅ぼしてあと、再び変が起こるのを封じるために、1422年から二男の尚忠を今帰仁城に駐留させたのがはじまり、ところで北山監守の一統向氏七世百、四、五十年の一族は、すべて今帰仁村運天の大北墓に合葬されていて、なぜ宗真公ひとりがここに葬られることになったのか、理由はよく知られていない。宗真は「らい」を病んだため別葬され、それで墓の口もないのだといわれている。

 新城主事はこの機会に墓の内部を調査しようとしたが、内側からも二重に石垣が積まれており、それをはずすと墓全体が崩れる恐れがあるので、外側の石積みを修復するにとどめた。やはり「秘密のベール」はとりのぞくことができなかった。

 新城主事は「北山監守の墓なのでおそらく中に宝物があると思ってやったのだろう。しかし、これまで調べた各地の有名な古墓にも身の回り品しかはいていなかった。開かん墓もそれと同じだと思う」と苦笑していた。

 

あかなかった古墳(琉球新報:19641230

 北山城三代目監守・尚真公をまつってある今帰仁村親泊区在俗称アカン墓(口ナシ墓・ツエグチ墓ともいう)を何者かが墓の入り口をこじあけようとした形跡があり、修復にあたった子孫の具志川家(首里)の人たちが28日午後、文化財保護委の新城徳祐主事の立ち合いで内部調査をしようとしたが、墓口があけることができず取りやめた。

 区民の話では九月ごろ、ツルハシをふるって墓をあばいている音を聞いた区民がおおく、昔から人々の間に「宝物が埋蔵されているのでこの墓はあけてはならない」と伝えられる昔話を信じた何者かが、宝欲しさにこじあけようとしたのではないかと新城主事はみている。


 この墓口は内部とそと側からの石での二重積みで、開くことができないようにつくられており、この日も無理にこじあければ墓全体が陥没するおそれがあると中止した。

 この墓は、北山城三代目監守・尚真公が約三百年前(ハンセン氏病)をわずらって死んだので俗称ツエグチ原(親泊区在)に別殿を設けて葬ったため、子孫は開くのを禁じられてアカン墓(開かない墓)と人々にいい伝えられているとの説が強い。中には不義などの行為で先祖の墓にいっしょにははいれなかったとの説もあるが歴史的考証がないという。歴代北山監守は皆運天区にある大北(ウフニシ)墓に葬ってあるが、この三代目だけが別葬されている。

 この日アカン墓をあけるといううわさでかけつけた人たちが墓の周囲に黒山をつくり、三百年来のナゾがとけるのではないかと見守っていたが、墓口が開かないと知って複雑な表情で帰った。

 

   

     ▲津屋口墓(アカン墓)              ▲墳墓記(1678年)

⑤クビリガーと鍛冶屋跡のガマ

 ガマのある一帯は親泊原のチェーグチと呼ばれる。クビリガーは掘り抜きの井戸のことで、ニークンガーの河口近くのクビリに因んだ名称とみられる。井戸は今でも残っている。ガマの中に鍛冶で使う鞴があり、そこで鍛冶屋をした一族がウガンをしている。鍛冶の跡に、漆喰をつくる石焼場として使われている。近くにアガリハンジェクークヤー(屋号)があり、そこがクビリの鍛冶屋跡のウガンをしているかは未確認。ハンゼェークヤーには鍛冶と関わる図像と鍛冶の道具が置かれている。かつて鍛冶屋をしていた家だとわかる。

 

 幔幕(マンマク:長い幕)、瑞雲、月、太陽、三面六臂(さんめんろっぴ:三つの顔と六つの腕)の鍛冶神、女性(巫女服のような白い服に赤い袴姿:ハカマ)、男性(大和風の着物姿)、上半身裸の男性が三人(青の短パンを履いている)炭俵、箱鞴、台座、水入れ 柱 二段構造の青い幔幕(マンマク)、その下には白い柱が両脇に画面奥に向けて四本ずつ並ぶ。画面左に太陽と白い瑞雲(ズイウン:いいくも)、右に月と黄色い瑞雲が浮かぶ。その下中央、柱の間に立つ様に三面六臂の髪を逆立てた鍛冶神が(黄色い衣、左右一対で合掌、右手上に旗、右手下に斧、左手上に槍、左手下に剣を持ち、青い領巾(ヒレ)をつけている)箱鞴の上におり、左側に若い女性(鞴差し)、右側に炭俵三つ、箱鞴下には火床、その下に金床(カナトコ)、右側に金槌(カナヅチ)を持ち髪の逆立った男性が上半身裸で三人(前打)、反対側には、髭の男性が横座を務める。男の足下には鍛錬済みの刀が二本と鎌が二つ、鉄鉗(カナハシ)が三つ、替えの金床が置いてある。

  
    ▲鍛冶屋跡のガマ(プーチ:鞴)            ▲アガリハンジェクヤーの鍛冶神 

 

⑥プーミチ(馬場跡)とフプハサギ(親泊ハサギ)

 

      ▲プーミチ(馬場跡)               ▲フプハサギ(親泊ハサギ) 

【今泊のグスクウイミ】

 旧暦810日(97日)に行われる。行われる場所は今帰仁グスク内の神ハサギ跡である。参加者のノロ(代理)と区長、書記がでる。ノロは神衣装を持参していたが、雨が降り出したので羽織ることはしなかった。勾玉と簪の入った黒い箱を持参し(ノロドゥンチの仲尾次清治氏)、神ハサギ跡の香炉の向こう側に置いたウガンをした。拝む場所は城内の神ハサギ跡のみである。

 香炉の前にゴザを敷いて、そこでウガンをする。供えるものは線香と神酒(泡盛)であった。お菓子も準備してあった。そこでの祈りはムラや子孫の繁栄とユガフウ(世果報)である。

 

 

   ▲グスクウイミ(城内のハサギ跡)         ▲今帰仁ノロの勾玉と簪

 


【第3回 山原のムラ・シマ講座(参加者に公文送付)
                    (平成23年7月9日開催)


ムラ・シマ講座参加者のみなさん
                                      
        第19期 第3回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ



 梅雨が明け、時々低気圧で風の吹く日がありますが、夏まっさかりとなりました。夏負けせず、体調を整えつつおすごしでしょうか。今年はセミの鳴き声が少ないようです。台風の影響でしょうか。七月になると、勢いよく鳴き出すかもしれません。
 さて、7月(3回目)の「山原のムラ・シマ講座」は大宜味村の塩屋湾岸のムラを訪ねます。塩屋湾岸には、津波・宮城・白浜・大保・押川・田港・屋古・塩屋があります。塩屋湾岸を一周する形で廻ります。
 塩屋湾岸の田港・屋古・塩屋で、毎年旧盆明けの亥の日に行われる海神祭(ウンガミ)があります。同日今帰仁村古宇利島でも海神祭(ウンジャミ)が行われます。古宇利島の神人達は塩屋とは姉妹との認識があります。塩屋側ではどうでしょうか。
 田港は1673年に国頭間切と羽地間切の一部で創設された田港間切(後に大宜味間切)、同村で当初間切番所が置かれた村(ムラ)です。田港間切から大宜味間切に改称されたのは、番所を田港村(ムラ)から大宜味村(ムラ)に移設した時に、間切名が変わります。ところが、番所が大宜味村から塩屋村に移ります。明治40年まで塩屋村にあった番所(役場)は、大宜味に移転します。田港と塩屋は大宜味間切(村:ソン)の番所(役場)があったことで、村の個性に表れています。そのような村を訪れることにします。

☆ 7月9日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
    ↓ 出席の確認

    ↓ 塩屋湾岸の概要説明
    ↓   (バスで出発) 
    ↓ (津波・白浜・宮城・大保はバスの中での説明となります) 
    ↓ ダチガー(北山監守引上げに反対した人物定水和尚の退隠した場所)
    ↓ 田港のウタキ(イビナ嶽)・植物群落
    ↓ 田港の旧家/ハンゼェーク屋跡/田港のハーリー舟
    ↓ 田港の神アサギ/ヌル殿内・ヌルガー/根神屋/根謝銘/根謝銘屋
    ↓ 屋古の神アサギ/ハーリー舟など 
    ↓ 塩屋の青年浜(シナバ)/神アサギ/根神屋/森川子の祠(釜石)
    ↓ ハーミジョウ(祭祀のスタートは根神屋で、終りはハーミジョウで)
    ↓ フンチャ墓(村墓)
    ↓ 兼久浜(古宇利島が見えるでしょうか)

    ↓ 「花売の縁」の琉歌碑/塩屋の集落をみる/番所跡
    ↓ 歴史文化センター(13:00 解散予定)

☆ 持ってくるもの(暑いですので飲料水や帽子など。熱中症にならないように気をつけましょう)

☆ ゴツゴツした岩場を歩きますので運動ぐつで来てください! 
  サンダルやぞうりではダメです。ケガをします。
  ♪お休みをするときは電話してください! 56‐5767 歴史文化センターまで
  ♪雨がふったら、歴史文化センターの中で行います。
  ♪保険料(600円)まだの方は、当日お願いします。

今回は「大宜味村ふるさと発見ガイド」を活用させていただきました。ありがとうございます。






      「大宜味村ふるさと発見ガイド」より    

【田港村は田港間切創設時の同村である】

 1673年に国頭間切と羽地間切を分割して創設された間切である。間切創設当初は田港間切、1713年の頃には大宜味間切となっている。間切名の改称がいつなのか、明確な史料の確認はまだだが、17世紀末と見られる。その頃(康煕34年:1695)に国頭間切と久志間切との境界線の変更(方切)が行われている。その時、田港間切の田港村にあった番所を大宜味村に移動し、間切名を大宜味間切と改称した可能性がある。番所があった田港村のウタキに20余の香炉が置かれているのは番所があったことを示しているのかもしれない。香炉が置かれた(奉寄進)年代は1800年代以降。大宜味村のウタキに10数基の香炉が置かれているのも番所が置かれていたことに起因しているのであろう。ただ、塩屋にも番所が置かれていたので、同様の数の香炉がウタキにあるかもしれない(未確認)。

 大宜味間切の番所は田港村→大宜味村→塩屋→大宜味(大兼久:昭和5年分離:現在)

【タキガー(滝川)】(寺屋敷)(「沖縄県国頭郡志」「大宜味村史」)

 滝川のほとりに寺屋敷と称する所あり。260年前定水和尚が居た所の跡だと伝えられている。定水和尚は(土地の人はダチ坊主と呼ぶ)首里新城家の祖先で王府に仕えて重職にあった人で寛文5年(1665年)国王尚質王重臣を集めて尚真王以来派遣していた北山監守を撤廃せん事を諮る。時定水は北山の地が僻遠にしてまだ教化が普及しないから撤廃は早いとなし意見の不一致となる。王嚇と怒り曰く「汝何の故を以てか尚早しとなす。予不徳にして感化未だ国頭に及ばざるの謂んるか。と詰責され定水答ふる能はず、官職を辞し仏門に入り剃髪して定水と号し閑静なる塩屋湾の東隅に退隠して悠々余生を送る。

 後定水は剛直なる民本主義の政治家で彼の在職の際八重山に於ける人頭税の荷酷なる事を説き、其の廃止論を唱え、又親々が往昔その領地を異にして食封を受けている者あるを本法とし、其の一を王府へ返納させしむべきことを提議する等の剛直無欲の人だった。彼は日本思想家で数回北京に赴き、彼地にて和歌を詠めるもの多しと、
 
 新城家口碑に
   定水はその後法用ありて上首せしことあり。時に国王自ら前非を悔い、度々仕官せんことを勧め給いしが固く辞して受けず
   直ちに大宜味に帰りば家族流涕止まざりきという。

 定水は死後首里の弁が岳の下にある拝領の墓に葬られ、其の祭祀料として百ガネーの土地を賜はり、此の地は今位牌を安置してある蓮華院(万松院)の有する所となっている。また塩屋小字の大川に塩屋山川なる旧家があるが此の敷地は同家の先祖がダチ坊に親しく仕えそのよしみで現在の敷地を定めて呉れたとの伝説がある。



【琉球国由来記】(1713年)での祭祀
 ・底森 神名:イベナヌシ 田湊村
 ・ヨリアゲ嶽 神名:オブツ大ツカサ 塩屋村
 ・田湊巫火神 屋古前田村 (按司からの提供物あり)
 ・屋古・前田村での祭祀
   ・百人御物参/稲二祭/束取折目/柴指/ミヤ種子/芋ナイ折目/三日崇
            稲穂祭/稲穂大祭/束取折目/海神折目/柴指/芋折目

 ・城村・喜如嘉村(按司・惣地頭からの提供物あり)

【沖縄島諸祭神祝女類別表】(明治17年頃)
 田港村 本ノロ一人 若ノロ一人(塩屋)
      田港村神アシヤゲ/屋古前田村神アシヤゲ/塩屋村神アシヤゲ/根路銘村神アシヤゲ 


      ▲田港の神アサギ             ▲屋古の神アサギ              ▲塩屋の神アサギ
     
【塩屋湾岸を謡ったウタ】
  ・宵も暁もなれしおもかげ 立たん日やないさめ塩屋の煙(干瀬節)
  ・肝いさみいさで二人うちつれて 大宜味番所なまど着ちやる(亀甲節)

  ・恋し屋古田港しなさけはかけて いきやし塩屋港渡といちゆが(国頭親方)

【脚本花売縁大浦節】
  ・まこと名に立ちゆる塩屋の番所、なかやまやくしやて港みめに
  ・沖の綱舟エイヤエイヤと浜に寄せ来るは、道急ぐ人もよどで聞ちゆさ だんじゅ首里那覇も音にとよむ
  ・まこと名に負ふ塩屋港、出船入船絶間なく浦々諸舟の舟子共 苫(トマ)を敷寝の肘枕
  ・哀れに歌う節々を 聞くにつけても袖ぬるる山の端出づる月影に 海人の釣舟こぎ烈れて沖の方にぞ出でゝ行く(センスル節)


 
         ▲塩炊きの祠                 ▲塩炊きに使った焼け石 

【塩屋湾】
 渡野喜屋(白浜)の岸より渡し舟に乗って塩屋の浜に着く。この間を塩屋湾という。深碧藍のごとき潮水遠く湾入して平良港との間一地峡を抱し、前面には宮城島横はりて朝夕炊煙の立ち上るを眺むべく、後方は翠黛を粧へる中山を負い、山水の雅趣宛然一幅の油絵に似たり。
 以前大宜味番所は此の風景絶佳なる塩屋湾頭に位して眺望を恣にせしが西部に偏せるの故以て大宜味に移転した。


      ▲塩屋番所があった場所(現小学校)                  ▲塩屋湾(シナバ浜)

【田港ノロドゥンチ】


    ▲田港ノロドゥンチ                   ▲ノロドゥンチの内部           ▲隣にあるヌルガー

【根謝銘と根謝銘屋】

 
      ▲根謝銘(ニジャミ)(草分けの家)

 
      ▲根謝銘ヤ(ニジャミヤ)               ▲根謝銘ヤの内部 

 
     ▲兼久浜から眺望できる古宇利島

【塩屋の海神祭の流れ】塩屋のウンガミ宮城竹秀氏参照:1986年)

・旧盆明けの最初の亥の日
・田港→屋古→塩屋
・起源については不明(但し、『琉球国由来記』(1713年)には行われている)
・ウグヮンマール(御願廻り)とウルイマース(踊り廻り)(隔年毎)
   (ワラビミキマール・ハーブイマール・チヌマキマールともいう)
・ウグヮンマールの年は、ウガンや供え物が多くなる。
・ウルイマールの年は、ウガンが簡略化される。
・ウルイマールの二日目は塩屋で踊り、屋古と田港ではサーサーが行われる。

【ウンガミの前日】
 ・ウンガミの前日の晩(それぞれの元屋や神屋に集まりウンケー(お迎え)をする。
   (ノロはサンアンムとシマンホーを従えてヌン殿内で御迎えをする。翌日のウンガミを告げる)
   (ウンケーの唱えあり。豊作・豊漁・ハーリーの無事(航海安全)の唱えあり)

【ウンガミの当日】

 
①田港のウフェーヤ
   ウフェーヤの祠で祈りをしてノロ殿内へ向う。
 
②田港ノロ殿内
  ノロ殿内での祈りが済むと、サンナムとシマンホーが鼓を叩きながら神ハサギへ。ノロを先導する。

③田港の神アサギ

  神アサギにはノロの外の神人達がアサギに集まる。
  ノロが到着し、揃うとアサギの東側を流れるタンナ川へ行き、ミヂナデー(水撫をする)
  ウンケーの酌がはじまる。
   ヌルはアサギの後方の山に向い、他の神人達の座るトムトゥ(座)は決まっている。
   (ウンガミの始まりを告げる)
   (神の来臨のお礼と門中の方々の健康・五穀豊穣・ハーリーの無事を祈る)
   (他の神人や参加者一同手を合わせる)
   (四(田港・屋古・塩屋・白浜)から出された神酒が配られ、各々の門中から出た神人を拝み
    ムリ餅(四角)を戴く)
    
芭蕉着の神衣装を着た神人は田港と屋古の神アサギに参加する。白地の神衣装を着た神人は
     田港アサギのみに参加する。???(要確認)
   田港の神アサギでのウガンが終るとシマンホーが叩く鼓と共にマタザイ(又サイ)を持った
  シマンホーの先導で屋古アサギへ向う。

 ④屋古の神アサギ
    アサギの広場へ。太い柱を中心にクムー(クモの巣)がかけられている。
   芭蕉の葉の屋根と下にはムシロ代わりの場所の葉が敷かれている。(根路銘の座もある:空席)
   ヌルはアサギを背に海の方に向いて座る。他の神人の座は決まっている。
   中央の柱の廻りにシマンホー(男性)が車座になる)
   ムルのウンケー酒が始まると屋古の屋古ナーカと前田家からヌルに花米と神酒を供え、ウトゥイケー
   (盃を交わす)をする。
   屋古神アサギではアシビガミとスリガミに分かれる。アシビガミはハーブイ(ノシランを竹に輪に
   垂らす)を被り、弓を持って「ヨンコイ、ヨンコイ」と唱えながら柱の廻りを回る(七回)。途中、白
   衣装に着替える。ノロも白衣装に着替え、チヌマキ(ツル草の冠)をのせ、勾玉をかけ簪をさす。
   二回目は五周して終わる。
    (ユンコイは果報・舟漕ぎ、弓の所作は猪狩り)
 

⑤ファーリンクヮ(フビバン)
   屋古のフルガンサから出発。ファーリーンクヮ(若青年が20人位)、続いてウフバーリ(40人余)
  が、それぞれ三艘づつ出発する。各舟にファーリーガミが二、三人乗り「エイサー、エイサー」
  と声をかける。かけ声と同時にクバ扇を打ちふる。対岸の塩屋では各村の婦人達が藁鉢巻姿
  で腰までつかって、手サジを振り、鼓を叩きながら舟を迎える。

⑥ノロの行列
   陸路のノロの行列(シマヌホーが鼓をたたきながら)が通ると、ファーリーのメンバーや海の中の
  婦人達はノロの行列に手を合わせる。沿道沿いの方々も手を合わせておがむ。

⑦ヌルの行列は兼久浜(ナガリ)へ
   兼久浜(ナガリ)に着くと、シマンホーは四本のマタイザイを渚に立てる。ヌルを中心に他の神人や
  その一門の方々が海の方に向って拝む。(古宇利島に向っている。その意識は?)
  ウガンが終るとシマンホーが西の方に向って、マタザイで海水をかきあげてイルカを捕獲する所作
  をする。

⑧パーシ(ウムイあり)
   ナガリが終るとヌルの行列は同じ神道を戻る形でシナバへいく。小休止のあとノロが田港の
  御嶽へ祈願をする。ノロが唱えるウムイに神人達が唱和する。ウムイが終ると奉納相撲があ
  り、ノロは途中で田港へ返る。駕籠は塩屋のウガンバーリ(舟)で田港へ送る。


2011(平成23)年9月2日(金) 丑之介 

 やっと、やっと、田港・屋古・塩屋の報告ができまする~~~。

 今年のウンジャミまでには間にあわしたかったのですが~(^^;)。スイマセン・・・・。

 それでは始めまーす!

【屋古の神アサギとその周辺】

       ▲屋古の神アサギ

 屋古ムラの神アサギです。

 コンクリート製ですが、赤瓦でシンプルな、神アサギらしい建物です。

 奥の柱に当たる部分がL型になっていますが、柱の数は8本と見ます。

 アサギの正面と奥の床の端の部分が僅かに高く段差が作られていますが、これはたもと木を模したものでしょう。

 このアサギにも香炉はありません。

 奥に小さく見えるのが、クサティガミ(後述)の祠です。

      ▲神アサギの天井部分

 神アサギの天井部分には木の枝がた~くさん保管されています。

『塩屋・ウンガミ』を見ると、屋古アサギの前に木の棒を組んで芭蕉の葉を乗せた軒が作られますが、そのための棒のように見えます。

ウンガミの日、アサギの前には芭蕉の軒とは別に、クムー(クモの巣の意)と呼ばれる、藁で編んだ大きな日よけネットが張られます。 

さて『塩屋・ウンガミ』には「クムーの欠落の部分根路銘のタムトになっている。元は根路銘も一緒であったが、明治の初期の頃別々になったといわれる」とあります。

「クムーの欠落部分」というのが、現場を見ていないのでよく分からないのですが、かつて参加していた根路銘の神人が今では海神祭に参加していないことが知れます。

その理由が『塩屋・ウンガミ』に元塩屋区長さんからの聞き書きとして掲載されています。簡単に経緯をまとめると・・・

「直接の原因は角力の審判の事らしい。(明治40年代頃)地元の出身ではない役人が、角力の審判の判定に口を出し、根路銘の肩を持った。その時たまたま見物に来ていた源河の人がその役人に抗議をし、塩屋の人達も一緒になって大騒ぎとなった。役人は逃げ出して民家に隠れていたが、塩屋の青年たちに見つかり、手足をしばられ部落中ひきずり回されたらしい。それ以来、両部落の仲がますます悪くなり、根路銘はウンガミ行事に参加しなくなったとのことです。はりゅう船競漕は根路銘の代わりに屋古が参加するようになったとのことです」 

・・・まあ! そんな事情があったなんて!

 恐らく角力事件に至るまでの間、様々なすれ違いや誤解が塩屋―根路銘の間に積み重なっていたのでしょうね。距離も離れているしね~。 

 番所の移動(田港→大宜味→塩屋)も心情的にからんでいたかも知れないし・・・。 

 それにしても、神行事から脱退するなんて・・・明治も後半になって、ノロ管轄もゆるくなっているとは言え・・・スッゲー度胸!

        ▲クサティガミの祠

 

 海神祭の日、御馳走をこしらえて神人たちをお迎えする場所だそうです。

 またウガンマールの二日目、ヤーサグイの行事のとき、ここで豊作と村人の健康願いが行なわれます。

 画像では小さくて分かりにくいのですが、塩の袋が三つ、デーンとお供えされています。

 

 

     ▲屋古アサギの側の井戸                ▲屋古のハーリー船 

 屋古のアサギの側には井戸があり、葉っぱやゴミなどがはいらないように(子供が落っこちないように?)、金網でふさいでいます。

 またアサギの下にはハーリー船が保管されています。

 田港・塩屋の海神祭から根路銘が撤退した事情は上記しましたが、その根路銘のハーリー船の代わりに屋古が参加するようになったとのことです。

 上の船が小さい20人乗りのフギバンで、青年たちが乗るもの。下の大きいのは40人乗りのウフバーリーで成人が乗ります。

 

 

       ▲ハーリーガミの祠 
 
 

 神アサギに向かって右手の奥に、小さな祠があるのに気付きました。

 これはハーリーガミの祠で、ハーリーガミとはハーリーの無事を祈願する神役です。

 屋古のアサギの前に張られたクムーの下に、田港・塩屋・屋古の神人たちが座りますが、このときアシビガミ、ファーリー(ハーリー)ガミ、スリガミに分かれて座ります。

 アシビガミはハーブイをかぶり、弓を持ってクムーの中央の太い柱を7回廻りますが、これは古宇利の海神祭にも見られる所作ですね。

 

 屋古アサギを出た神人の一行はここから二手に分かれます。

 ハーリーガミはフルガンサで待機しているハーリー船に乗り込みます。『塩屋・ウンガミ』の当時は各々のハーリーにハーリーガミが2~3人乗りました。

 

 ノロの一行の方は青年浜(シナバ)に向かい、途中ハーリーの出発を見届け、さらにナガリ(兼久浜)に向かいます。

 

 

     ▲コンクリートのお家だけど・・・
 

 ハーリーガミの祠の近くにあったおうちです。

 コンクリート造り、二階建ての家屋ですが、昭和30年代~40年代初め頃の建築ではないでしょうか?・・・・というのも、コンクリート製だけど、お風呂は薪でお湯を沸かすように作られているからです。

 建物全体を見ると、窓の配置が住居にしてはちょっと不自然な感じ・・・人は住んでいるようなのですが・・・・。なかなかに不思議な建物です。

 

【塩屋湾~塩屋の神アサギ】

  ▲塩屋湾~塩屋から対岸をのぞむ

 

 写真は塩屋湾から白浜辺りを見たところです。白浜は戦前までは渡野喜屋と呼ばれていました。

塩屋大橋ができる以前(昭和38年以前)、津波から北上するには津波の部落から塩屋湾岸7㎞を迂回するか、近道したいなら白浜からお金を払って船で塩屋に渡るかの方法がありました。白浜には宿屋が数軒あったそうです。

 

【塩屋の神アサギ】


        ▲塩屋の神アサギ

 

 柱の数は6本、香炉はありません。右手に見える建物は塩屋小学校です。

 

 さて、屋古のアサギを出たノロの一行は、そのままナガリ(兼久浜)に向かいます。塩屋の神アサギでの御願について、『塩屋・ウンガミ』に記述はありません。「塩屋の」海神祭と言うのに、塩屋での祭祀がないのは不思議です。ナゼダロウ・・・???

 もしかしたら、御願バーリーがスタートして、村人はみ~~んな海でハーリー船が来るのを太鼓を打ち鳴らして待っているので、神アサギで待機する余裕がなかったのかも・・・?

 

 ただ、隔年ごとのウドゥイ(踊り)マールのときは、塩屋のアサギマー(アサギ庭)に字塩屋の塩屋(サー)、大川(ウッカー)、兼久(ハニク)の三つの集落の女性のみが参加して踊りが披露されます。この時、塩屋の神人たちは神アサギの中で白い神衣装を着けて、踊りを見学します・・・・塩屋の神様のまなざしで♪

 

 女性だけのウドゥイは三味線は用いず太鼓だけで踊り、午後2時から始まり6時頃までには終了するそうです。女性は夜遊びできないのね~。

 屋古や田港では、その日神人とムラの人が集まってウフェーヤーやアサギマーで賑やかに「遊び」が行なわれるそうです。

 

 

【森川之子祠】

  

       ▲森川之子祠                         ▲祠の中 

「森川之子祠」と書いて「むいかーのしーほこら」と読むのじゃよ。

 

森川之子というのは、森川さんちの子供、という意味ではありませんよ。

「子(シー)」は簡単に言いますと、家柄の古い士族(里之子家と筑登之家)が15歳で元服してから叙位されるまで(だいたい25歳くらいまで)の無位の期間の称号をいいます。ですから「森川之子」は、士族である森川家の、まだ叙位を受けていない男子、のことです。

さて、森川之子は実在の人物ではなく、組踊「花売りの縁(はなういぬいん)」の主人公です。どのようなストーリーかと申しますと、

 

森川の子は5、6年不幸続きのため、妻子を首里に置いて、遠く大宜味間切津波村へ下り、塩屋田港で塩炊きをするが、生活はうまくゆかず、花売りに身をやつしている。

そこへ、12,3年ぶりに夫をさがしに息子を連れた妻が訪れ、一緒に首里に戻っていく・・・。

 

・・・という、夫婦・親子の人情を描いた組踊です。

森川之子祠は、この森川之子を塩屋の製塩業の祖とし、祠の中には塩炊きに使ったとされる釜石を祀っています。古宇利のお宮や、我部の故地にある塩屋の御嶽も、塩炊きの石を祀っていましたね。

塩屋の隣の津波にも、森川之子の祠があるそうです。

森川之子祠の左隣には、屋古のナーカ門中のお宮がありますが、ナーカ門中は塩炊きの責任者を出す一門のようです。

鳥居の奥に見える建物は、塩屋小学校です。

 

【塩屋ウフンチャ墓】

        ▲塩屋ウフンチャ墓

 

 画像では分かりにくいのですが、右手の木の側に腰に手を当てて立っているのは、心霊写真ではなく、うちのお館さまです、念のため。

 

 お館さまの向かいにあるのが、塩屋のムラ墓であるウフンチャ墓です。

 左手の大きな木はハスノハギリという木で、この木の前に説明版がありましたので、ウフンチャ墓について引用させてくださいね。

 

 「昭和26年に大宜味村に火葬場ができる以前・・・塩屋区内のハスノハギリの周辺は、墓地の場として区民に利用されていたそうです。

 埋葬方法は、亡くなった人を棺に入れ、満2年ウフンチャ墓の中に放置し、その後、ハスハギリの樹の下の隅にムシロを敷き、各部の骨をきれいに洗い(洗骨)、箱(紙の箱)に再び収めてハスノハギリの前にあるウフンチャ墓に納骨していたそうです。

 また当時は幼少期や大病で亡くなった人の骨は、ウフンチャ墓への納骨が許されておらず、ハスノハギリの樹の下に埋葬していました。『お墓に入れてあげることができないけど、この樹の陰で我慢してね』という当時の人々の死者への想いが込められていたそうです。

 当時からこの風習を知る土地の人々は、ウヤファーフジ(ご先祖)や魔物が出るのではないかということで、現在でも当時の風習を知る人たちは、このハスノハギリ付近には近付かないようにしているそうです」

 

 ・・・ということで、ここは塩屋の人たちにとってはコワイところなのですね。

 

 共同墓がいっぱいになり、一族で墓を造る門中墓が出てくるようになり、最近はほとんど個人墓になってきました。

 ウフンチャ墓周辺にはお墓がたくさんあるのですが、左手奥に「故陸軍上等兵 勲八等功七級(?)嶋袋巳之吉之墓 大正十一年十二月建之字有志並塩屋班」の石碑のある墓があります。

【兼久浜(ナガリ)】

 
▲海神祭最後の場面の兼久浜(ナガリ)

 あちこち寄り道をしたので、海神祭のことがスッカリ頭から抜け落ちた方もいらっしゃるかと思いますが、ハーリー競争は海神祭のシメではありません。

 屋古のアサギを出たヌルの一行は、ここ、塩屋の兼久浜にやってきます。

 ここはナガリといい、その名の通り、ノロを先頭として田港からスタートし、屋古・塩屋を通ってきた神人の一行が、各々のムラの汚れを海へと流す場所です。

 行列の先頭を行くシマンホーという役職名の男性が、4本のマタザイを浜に立て、ノロや神人、またその一門の方々が海に向かって御願をします。

 このとき古宇利の方向に向いて御願をするのですが、神人たちは「古宇利ではなくニライカナイを向いている」という意識のようです。

 しかし、同じ日、ほぼ同じ時刻に行なわれている古宇利の海神祭では、シラサでの船漕ぎの動作のとき、「塩屋を向いている」という認識でした。「昔、古宇利の神人の姉妹が塩屋に嫁いだので、塩屋とはきょうだいだから、合図をしている」とのお話でした。

 古宇利の海神祭における塩屋への親近性、古宇利の人類発祥伝説の存在、また古宇利島の先にある北山グスクを考えたとき、漠然とした「ニライカナイ」という概念よりも、素直に「古宇利を向いている」と考えた方が祭祀の輪郭がハッキリするような気がするのですが・・・。

 さて、ナガリでの御願がすむと、シマンホーが西の方(古宇利の方向)に向いて、マタザイで海水をかきあげてイルカを補獲する所作を行ないます。これも古宇利の海神祭のピローシでの場面と一緒です。

【神 門】

  ▲神門を上る参加者のみなさん


 神門はハーミンジョウと言います。
 ついにムラ・シマ講座で天国への門を訪れることができました! 神様に至る階段はけっこうキツかった。やはり天国に行くには普段から足腰をきたえておかないと、途中でリタイヤすることになりそうですな。

 

         ▲ハーミンジョーの祠

 ハーミンジョーは塩屋の拝所で、塩屋の年中祭祀は根神で起こして、ハーミンジョウで祈願するのだそうです。

 祠には三つの石が祀ってあり、それぞれ勢頭屋(スリヤー)、仲屋(ナカヤー)、根神屋(ニガミヤー)が祀る石で、旅の安全祈願、旅から無事に帰ったときのお礼の御願などをしたそうです。


 この場所をハーミンジョーと呼ぶのは、恐らくこの丘の下にあるウフンチャ墓と関係がありそうです。

 塩屋の旧家の拝所でもありますが、丘の下にはムラ墓があり、シマの人達が怖がって近付かなかった場所でした。そのため、この高い場所はグソー(あの世)への入口、ハーミンジョーと呼んだのではないでしょうか。

 

 

▲展望台と「花売りの縁」の歌碑         ▲琉歌の大家、山内先生

 

 神様の門を登りきると、塩屋湾を見渡せるパラダイスビューの世界!

 天国の一歩手前に「花売りの縁」の歌碑があり、

      「宵もあかつきも なれしおもかげの

         立たん日やないさめ 塩屋のけむり」

の歌が記されています。

 歌の解説を、我らが師匠、山内範正先生に解説を頂きました。

 

 「宵も明け方も、慣れ親しんだあの人の面影が立たない日はありません。

   ちょうど塩屋のムラで塩炊きをする煙が、朝な夕な立たない日がないように」

 

 神様への階段で息切れした丑は、山内先生の解説を聞き逃した不心得者ですが、この歌は森川之子が、妻を思って歌った歌・・・なのかしら? それとも、妻乙樽が塩屋を訪れ、細くたなびく塩炊きの煙を見て詠んだものなのでしょうか?

 

 うーむ。これは次までの宿題と致しましょう。

 

 それでは最後に、ハーミンジョーから見た塩屋の御嶽です。

 
     ▲塩屋の御嶽 

 ハーミンジョーからリュウゼツランの茎に飛び乗って、ビューンと飛んで行けそうですね~。

 

 ということで、9月のムラ・シマ講座の前にやっとアップすることができました。

 めでたし、めでたし~(ヤレヤレ)。

 


2011(平成23)年8月10日(水) 天気:晴れ(石野:まとめ)ゆら~ゆらへ

 

 毎日暑い暑いと思っていたのに、お盆が近づいて立秋も過ぎると、朝晩の空気がガラッと変わりましたね~。

 秋の名物「ケーンケーンゼミ」(大島ゼミ)も鳴き始めています。

 しかも夏休みももう中盤!

 毎日毎日、お腹をすかせた中くらいの子豚にご飯を作ってあげねばなりません。

 給食の有難味をひしひしと感じる夏休み(秋休み・冬休み・春休み)。

 この有難味を、世のおとーさんたちにも分けてあげたい今日この頃の丑です。

 

 ということで、遅ればせながら201179日(土曜日)に行なわれましたムラ・シマ講座の報告を致します。

 

 今回の調査場所は、大宜味村字田港・屋古・塩屋の三つのムラ・シマです。

 

 では田港ムラについて簡単に説明します。

 

田港ムラ】 

 

田港ムラは北山落城のあと、北山の落ち武者が隠れたところとも言われる集落です。

 

田港ムラがある田港間切は、1673年、国頭間切の渡野喜屋・田港・屋古・前田・城・屋嘉比・塩屋・根路銘・饒波・喜如嘉・根謝銘の11カ村と、羽地間切の平南・津波の二つのムラ、計13カムラで創設されました。

番所は主村である田港ムラに設置されます。

根謝銘グスクは、田港間切の創設によって、国頭間切から田港間切への管轄となりました。

 屋古と前田ムラが合併して、屋古前田ムラとなりますが、1713年の『琉球国由来記』を見ると、田港ノロ火ヌ神は屋古前田ムラの所在となっており、祭祀の内訳に屋古前田村百姓も、田港村百姓も記述されていることから、どうもこの三つのムラは共同体的なムラだということがおぼろげながら見えてきます。

 さらに時期ははっきりしませんが、大宜味ムラ・親田ムラ・見里ムラの三つのムラが新設され、田港間切は計15ケムラとなります。

 

1600年代の後半に間切の名称の変更があり、大宜味間切となりました。

「琉球国由来記」(1713年)編纂以前の時期に、間切の方切(境界線の変更)があり、親田ムラ・見里ムラが国頭間切に編入されます。

それに伴い、番所が田港ムラから大宜味ムラへと移動します。

しかしいつの頃か、火災に遭ったようで、番所は塩屋ムラに移転します。

塩屋に番所が移転したのは、火災で焼失したせいでもありますが、大宜味間切の王府への貢納物は塩屋ムラに集積され、塩屋湾から今帰仁間切の運天港に運ばれたため、地理的条件からも番所が塩屋ムラに置かれることとなったようです(『角川地名辞典』)。

番所は塩屋に移ったけれど、間切の名前は塩屋間切にはならず、大宜味間切のままなのでした。

あ~~、ややこしいっ!

 

 では田港ムラの中に入って行きましょう。

 

滝川(ダチガー)ほとりの寺屋敷】

 

 田港ムラの滝川に、定水和尚の屋敷があったとの言い伝えがあります。

 

 定水和尚は首里王府に仕えていた役人でしたが、1665年、北山監守の首里引き揚げに反対し、尚質王と対立、官職を辞めて、仏門に入り、田港のこの地に隠居したといいます。

 

 ・・・・と、こう書いても「ふーん」とゆーくらいですよね、フツ~。

  

 では、この記事は、いったいどういう意味を持っているのでせうか?

 

 キーワードは「北山監守の首里引き揚げ」!

 

 と言うことで、北山監守の歴史をひもといてみませう。

 

 1422年に、中山の尚巴志は北山王攀安知(はんあんち)を滅ぼし、次男の尚忠を見張り役の監守として北山に派遣します。それは、「北山は首里から遠く離れ、地理も険しく、性質も猛々しいのでまた反乱を起こす恐れがある」ためだったと、『中山世譜』(17241749年編集)は伝えています。

 

 ちなみに南山が滅ぼされたのは1429年でしたが、北山のように監守を置くことはありませんでした。

 

 1469年に第一尚氏王統が滅び、第二尚氏王統の時代になっても、北山には監守が置かれます。第一尚氏が滅んで20年ほど経った尚真王の治世でさえ、尚真の第三子を派遣するほど、北山監守の役割が大きな責任を伴ったものだということが分かります。監守の伴侶も今帰仁阿応理屋恵(あおりやえ)などの神職につくなど、首里王府の祭祀をしっかりと担っています。

 

 でも・・・最初は名誉職だった(かもしれない)北山監守ですが――監守一世の尚韶威(しょう・しょうい)などは首里城のお隣の玉御殿に葬られているし~――三世、四世は早世し、五世克祉が28歳のときに薩摩の琉球侵攻があり(1609年)、その直後に克祉は世を去っています。六世の頃、お城の近くにあった志慶真村、今帰仁村が城下に移動し、グスクとしての機能を維持することが難しくなり、監守の一族もグスクを離れて、城下にお引越しをします・・・周りにだ~れもいなくなったら寂しいし、「使える人たち」がいなくなったらお城の皆さんは困っちゃうでしょうしね~。

 

 そしてついに、七世のとき、監守のご家族は首里に引き揚げることになります。

 監守の監守たる役目が意味のないものになってしまったんですね・・・。

 もう反乱も起きないでしょうし、祭祀について言えば、首里からその時期に山原に来ればいいわけですし・・・。

 

 それにきっと、首里に帰りたくて仕方なかったと思うのですよね・・・。

 

 新都心の側に住みたいなー、とか。

 

 とゆーワケで、1665年、監守一族は首里に出戻っていったのでありました~。

 さよーなら~(ToT)/~~~

 

 ・・・おっと、このまま終わりそうだった。

定水クンのことを忘れちまっていたじゃねーか。

 

定水和尚は、この「監守の首里引き揚げ」に反対した人物なのでありました。

『大宜味村史』によると、彼は首里の新城家の祖先で、王府仕えの重職にあり、監守の引き揚げに際して「北山の地は僻地で、まだ教化が普及していないから監守の撤廃は早い」と主張したようです。

新城さんの主張を聞いて尚質王は「なんだとお! 俺様の力量足らずで山原を教育できてないとでも言うのかあ!」と怒ったそうです。

 それに対して何にも言い返せなかった新城さんは職を辞し、仏門に入って、頭を剃り、号を定水とし、塩屋湾の片隅の滝川のほとりに屋敷を構えたというお話です。この屋敷を寺屋敷といい、ダチ坊主(定水和尚のこと)の住居跡と伝わっています。

 

 現在この付近には水タンクがあり、滝川からの水をとっています。

 ここら辺をウロウロしてみましたが、住居らしき跡を見つけることはできませんでした。

  ▲水タンクをえっちらおっちら上る弘哲和尚

 

 これが水タンクです。急こう配で、手すりのない階段を上っていくお館さまです。

 丑も一応上まで上がりましたが、高所恐怖症なので、すぐに下りました。

 菜美路は楽しそうでした♪

 タンクの水面を、トンボがた~くさん飛んでいましたよん♪

 

 定水和尚の話には後日談があります。

 法用で首里に行った定水に、尚質王自ら「俺が悪かった」と謝り、「戻ってきてくれ」と何度も頼んだそうですが、断って直ぐに大宜味に帰って行ったそうです。

 定水は八重山の人頭税の廃止を唱えたり、勉学の為に何度も北京を訪れたり、たくさん和歌を詠んだりした、との伝承が新城家の口碑として伝わっています。

 

 ではもしも定水の意見が通り、そのまま監守制度が継続していたら、山原はどうなっていたでしょうか?

 山原の首里化が進み、伊平屋・伊是名のように首里の感覚に風土が変わっていったでしょうか?

 それとも、形骸化している監守には山原の首里化を進める力などなく、首里的部分を残しながらも、やっぱり山原のままでいたでしょうか?

 

 

【田港の集落~田港ウタキ】

 

▲田港御願の植物群落の碑    ▲田港で二番目に美人のおばあちゃん

 

 田港集落の入口に「国指定天然記念物 田港御嶽の植物群落」の碑があります。大宜味村史によりますと「御嶽から樹木を伐採することは昔から法度であったため、原生林の様相を呈して現在まで残すことができた。指定を受けている田港御願の地域は、琉球石灰岩地帯の植物群落として、学術上重要であるといわれている」とあり、今帰仁の諸志御嶽の植物群落と同じ性格の天然記念物と言えます。

 今回のムラ・シマ講座では、植物群落には触れませんでしたが、次回は自然にもポイントを置いて調査したいですね~。

 

 御嶽に行く途中で、田港のおばあちゃんを見かけました。

 田港で二番目にチュラカーギーのおばあです。

 何で二番目なのか・・・多分二番目に可愛いのです。

 畑からの帰りで、「赤モーイいるね~? 持っていくね~? 持っていくね~?」と聞かれました。欲しいのは山々の丑ですが・・・ちょっと重いし・・・おばあちゃんのお昼ご飯だろうし・・・。トゥーナーと混ぜて和え物したら美味しいしね~。

 

 

    ▲田港御嶽の鳥居             ▲拝所の香炉

 

 田港御嶽の鳥居は、館長が手を伸ばして余裕で届きます。

 この鳥居はイビヌメーに当たるものです。

 鳥居をくぐると祠があり、中には15個程の香炉が置かれています。

 中に山川石や加治木石で作られた香炉がありますが、この石は沖縄産の石ではありません。恐らく薩摩上りに随行した奉公人が、無事帰ってきたことのお礼として、薩摩産の石で香炉を作り寄進したものと思われます。香炉は船のバラストに使われていた石である可能性もあります。

 

 ところで田港間切は後に大宜味間切へと名称が変わりますが、大宜味間切の主村(ドゥームラ)である大宜味ムラの御嶽の拝所にも田港御嶽の祠と同じくらいの数の香炉があります。

 お館さまによりますと、田港と大宜味の香炉はセットで置かれたものではないか、と。

 最初の主村である田港ムラの御嶽と、次の主村である大宜味ムラの御嶽両方に、旅の無事を感謝し、香炉を寄進したのではないか、と。

 うーむ、どうなのでしょうか。

 大宜味間切になった後も、大宜味按司が田港ノロ火ヌ神での祭祀に参加しており、それはかつて番所があった主村だったためと考えらえれます。

 その例からすると、田港と大宜味両方の御嶽に香炉を寄進することは、決して不自然なことではないんですね。

 これは今度、大宜味ムラの御嶽の香炉をチェックしてみなくてはね!

 

 

【ムラの中の井戸】

   ▲トミゾーヤー井戸

 

ムラの中のスージ小を歩いて行くと、井戸あります。

ここはトミゾーヤーの井戸で、はしかにかかったときに拝んだ井戸だそうです。

トミゾウという人の名前を由来とする屋号のおうちが、管理していたのでしょう。

トミゾーヤーという文字をパッと見ると、トムソーヤーみたいで、何だかキュート☆

 

    ▲メーダガー       

 

前田井戸ですね。前田という地名の場所にあり、水田が近くにあるのでしょう。この井戸は正月のミーミジや、子どもが生まれたときの産湯に利用したそうです。

 

     ▲カンジャヤーの祠

 

井戸のあるスージ小をまっすぐ行くと、カンジャヤー(鍛冶屋)の祠に出ます。祠の中にはフイゴの他、位牌とフーチヌ神(鍛冶屋の神様)を描いた掛軸があります。

参考までに明治31年の資料に、大宜味間切は鍛冶職8戸、職人数8人とあります(今帰仁間切は12戸・12人)。

グスク時代、鉄を扱える者は支配層となり、王府時代になってからは、鉄製の農具を王府からの貸し出し制にし、管理のために鍛冶奉行を置きました。そして各ムラに鍛冶屋を設置しましたが、カンジャヤーはムラのエーキンチュ(富裕者)でした。

 

 ▲カンジャヤーについて説明をする金城良三さん

 

 県内でカンジャヤーについて語らせたら、右に出る人はいないが左に出る人はひょっとしたらいるかもしれないと言われる金城良三氏(宜野湾市史編集室)が、カンジャヤーについて説明して下さいました。残念ながら、私は聞くことができなかったのですが、県内に残っている鍛冶屋の祠で、ここほどきれいにフイゴが保管されているところはないそうですよ~(@_@)

 

【田港のハーリー船】

 

カンジャヤーの隣に公民館があり、公民館の側にハーリーを保管しています。

左は小さいハーリー船で、フギバンとかハーリンクヮといい、20人乗りで、若い青年たちが乗り、海神祭のとき最初に出発します。大きい方はウフバーリーといい、40人余りの漕ぎ手が乗ります。それぞれのハーリーには、ハーリー神が2~3人乗って、漕ぎ手をクバ扇であおぐのだそうです。

 

大宜味は船大工の数が山原で一番多い地域です。明治31年の資料で、大宜味の船大工の数は17人。次いで国頭で14人。三番目は金武で2人。他の地域は0となっています。

 

 

▲賢い主婦の物干し方法

 

 スージ小の通りで見かけた光景です。 

 大きなパラソルの下に洗濯物を干しています。

 これなら急な雨が降っても大丈夫! いいアイディアだなあ。

 

 

【ナゾの祠】

 

 

謎の祠。海神祭のとき、この祠の下の方の道で、田港ノロや神人たちが横並びに座ってヤーサグイを行ないます。お館さまの「調査報告」に、ムラ・シマ講座でヤーサグイをした様子がアップされていま~す(^^)v。

ヤーサグイは海神祭の二日目、ウガンマールの年に行なわれる行事で、ノロを中心に神人たちが、カミンチュのムートゥヤー(元屋)を回り、その家の不浄を払い、一家の健康と繁栄を祈る行事です。

ウガンマールーとは御願を主にした年廻りの意。ウガンマールーの翌年はウドゥイマールーで、その年はハーリーの後の踊りが主になります。

祠を開けてみると(右の写真)、香炉があり、「樽平良」と字が彫られています。平良家所縁の祠なのでしょうか。

 

【ヤーサグイに回る旧家】


ウフェーヤー。ムラの発祥に関わる旧家です。ウンガミの朝、田港ノロが最初に御願に来て、人々健康や繁栄を祈願します。

 


このウフェーヤーの右隣の部分をよ~く見てください。コンクリートの色が四角い形で変わっているのが分かるでしょうか? ウフェーヤーの祠と同じような祠があった形跡に見えませんか?

 

どうも以前、ここには祠があったようです。お館さまは、その祠を見た記憶があるそうです。

祠には「地頭代火ヌ神」と記してあったとか・・・。

 

その祠はどこに行っちゃったんでしょ?

 

1986年(昭和61年)発行の『塩屋・ウンガミ』(塩屋ウンガミ刊行委員会発行)にウフェーヤーの前らしき道で「ウンケーのためヌン殿内に向かうヌルの山城トヨさん」というコメントの写真が掲載されています。当時はガジマルなどの大木に囲まれうっそうとしていて、今のウフェーヤーの雰囲気と全然違いますが、この写真には、二つの祠がはっきりと写っています。

向かって左側の祠がウフェーヤーの祠。右側の白くて新しいコンクリートのものが、地頭代火ヌ神の祠でしょう。

 

田港に番所があった事実からすると、田港ムラ内に地頭代火ヌ神がある可能性はとても大きいのです。ですからウフェーヤーの隣に地頭代火ヌ神の祠があってもおかしくはありません。

 

地頭代火ヌ神はいったいどこに行っちゃったのかしら~(^^;)

 

 

 

ここはウフヤーです。屋我地門中の先祖が祀られています。

ウフヤーの敷地内には国土交通省国土地理院の水準点があるのでした~。

「ここが基本なんだぜ」と、測量のお兄さんがキッパリ宣言している・・・感じです♪

 

 

桃原。桃原門中の先祖が祀られています。

 

ニジャンヤー(根謝銘屋)のお宮。根神が乗るカゴが保管されています。

怪しげな雰囲気で中を覗いているお館さまと菜美路どの。

 

 

 ニジャンヤーのお宮内部の図像。

 

 

お宮の後ろにあるニジャンヤーの祠。お宮と祠の間に神木があり、木の根元に香炉があります。

ここには人類発祥伝説が伝わっています。

どんなお話かと言いますと・・・・、

「その昔、田港の根謝銘屋の蒲葵の木の下に女の神が天から降りてきた。次に男の神が天から降りてきて『世を建てたか』と問うたところ、女の神は『まだできていません。私一人ではできません』と答えた。それで二柱の神は夫婦の縁を結び、その木の下で子供を産んだ。その子供たちは大きくなって四方八方へ立身していった。首里に登るものもあれば、東の方へ行く者もあり、田港根謝銘屋は神元となった。そのため根謝銘屋には、四方八方から人々が神御願にやって来るようになった」。

 

人類発祥でもあり、神々の発祥でもあり、古宇利の伝説と比べると面白いですね。

お宮内の赤ちゃんを抱いている図は、この人類発祥伝説に関わるものかもしれません。

 

 

【田港のアサギ】

  

ここは田港アサギです。海神祭の朝、ノロさんはウフェーヤーを拝んだ後、ヌンドゥルチに行き、その後田港アサギへと向かいます。

前出の『塩屋・ウンガミ』を見ると、他の神人たちはノロとは別に、メービー(世話役の一人)に付き添われて、アサギに集まります。

ここのアサギには香炉はありません。柱の間の少し高くなったところがタモト木の役目を果たしています。ウタキ後方の山はサンタキといって男の神だけを祀っていますが、タンナ川でミジナリー(水撫で)をした後、アサギに戻り、このサンタキを拝みます。

バサ(芭蕉布)衣装を着ている神人は屋古アサギでの行事にも参加します。シルジ衣装(白い神衣装)の神人は田港アサギだけの参加だそうです。

 

【タンナ川】

 

神アサギの東側を流れるタンナ川です。海神祭の日、神人がアサギに集ったあと、ここにきて川を拝み、3回づつ額に水をつけるというミジナリー(水撫で)の動作をします。

左の写真はタンナ川の突き当たり付近。ここでミジナリーの動作を行ないます。

右の写真は、タンナ川の途中で見つけた、もう使用されなくなった水道パイプ。

 

 


 下調べのとき、アサギの右側の畑で作業していたおばあちゃん。田港で三番目に美人です。

神道のこと、海神祭のことなどを教えてくれました。 

 

【根神屋~田港ノロ殿内】

根神屋。ムラの根神が拝んでいる拝所です。

海神祭のヤーサグイのときにはまわりません。

 

 

 

田港ノロ殿内。身長約150センチの菜美路どのが腰をかがめて入るほどの高さです(^^)。

海神祭の当日、ウフェーヤーからスタートして、次のポイントがここです。ここからシマンホー(島方:神行事を先導する役目の男性)が小太鼓を叩きながらヌルを神アサギへと先導します。

ヌン殿内の中に、ノロの乗るカゴが置かれています。

天井には、「1955718日旧529日竣工」と墨書された「紫微鑾駕」の板がありました。

 

 

 ヌン殿内の香炉。

 中央の黄色っぽい香炉が山川石製のもの。田港の御嶽にもありましたね。

 恐らくノロ家の男方の誰かが薩摩に随行し、帰国の無事を感謝して寄進したものでしょう。

 

 ヌン殿内の右側に、ヌルガー跡があります。

 水は涸れて葉っぱが積もっていますが、コンクリートで固めずに石垣を残しているのがいいですね!

 

 

【謎の祠・・・その2】

 

 ここはムラ・シマ講座では行きませんでしたが、ヌル殿内を降りて行ったところに、ちょっと分かりにくいんですが、小さな祠があります。

 大きな石が一個だけ・・・三つ石の火ヌ神セットではないので、屋敷跡ではないようです。

 石の形から見て、ビジュルかな? 石に立てかけられているお線香には火が点けられていないように見えます。

 何の祠かな~。

 後ろの竹からすると、「田港のかぐや姫の祠」かも!?

 

 さて、謎の祠を確認した一行は、次なる調査ポイント、屋古に向かいます。

 

 ・・・が、この続きはまた今度ね! 丑はお盆の準備があるので帰りますのだよ。

それではみなさん、さよーならー(o)/~~~




【第2回 山原のムラ・シマ講座(参加者に公文送付)
                          (平成23年6月11日開催)

ムラ・シマ講座参加者のみなさん
                                      
        第19期 第2回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ


 台風2号の爪跡が各地の残っているこのごろですが、いかがお過ごしでしょうか。晴れると真夏のようで、梅雨明けが近いのでしょうか。

 さて、第2回目の講座は、本部町瀬底島に行きます。瀬底島は現在一字ですが、瀬底村と石嘉波村が明治36年に両村は統合し瀬底村となります。行政上、一つの村(ムラ:アザ)となっているが、祭祀は別々に行っています。瀬底島に二つの祭祀の姿がどう残っているのか、見ていくことにします。石嘉波村は1736年に本島側(健堅と崎本部)から瀬底島に移動してきた村です。そこでは移動村と合併村の姿がテーマとなります。

 瀬底村側には集落の古い形態が今でもみることができます。グスク(ウタキ)を背に、近くノロドゥンチや旧家の屋敷跡が残り、集落内に根家(ニーヤ)の大城家があり、そこに神アサギやニガミヤーの火神の祠があり、鳥居をつくり神社化されています。

 上間家の二代から五代まで地頭代(健堅親雲上)を出しています。二代目の時、唐旅をして清国から「土帝君」の木像を持ってきて祀ったといいます(国指定の文化財)。

 本島側から移動してきた石嘉波村側には神アサギや旧家の跡やウタキなどがあります。それとティランニーという洞窟などの拝所を訪ねることにします。

☆ 6月11日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
    ↓ 出席の確認

    ↓ 瀬底島の概要説明
    ↓(瀬底島へバスで出発) 
    ↓ ウチマンモー(シニグ・ウシデーク・綱引きなど) 
    ↓ 大城(ウフジュク)・神アサギ・アサギミャー(豊年祭の舞台)
    ↓ 瀬底ノロドゥンチ
    ↓ ウチグスク
    ↓ 土帝君の祠へ 
    ↓ 石嘉波村の神アサギ・旧家跡
    ↓ 石嘉波村のウタキ
    ↓ ティランニー(洞窟)
    ↓ 歴史文化センター(13:00 解散予定)

☆ 持ってくるもの(暑いですので飲料水や帽子など)
☆ ゴツゴツした岩場を歩きますので運動ぐつで来てください! 
  サンダルやぞうりではダメです。ケガをします。
  今回の場所はガジャンがたくさんいます!
  ♪お休みをするときは電話してください! 56‐5767 歴史文化センターまで
  ♪雨がふったら、歴史文化センターの中で行います。
  ♪保険料(600円)まだの方は、当日お願いします。

      (資料は当日配布します)


       ▲瀬底島の全景(『瀬底誌』より)


        ▲瀬底の「土帝君」の祠                ▲瀬底ノロドゥンチ


   ▲瀬底島(石嘉波の神アサギ)          ▲石嘉波神社(ウタキ)

  (工事中)

底島の概況

・瀬底島は本部町にある。
1471年の『海東諸国紀』に「世々九」と見える。方言でシークという。
1469年第一尚氏が滅びると第一監守も崩壊する。その一人が瀬底島に逃れ、ムラの草分け
 となる(伝承:ウフジュク)。
・1644年の遠見ヤー(ウフンニ:瀬底島の一番高い所、大きな水道タンクあり)がある。伊江島→
 瀬底島→座喜味→首里

1666年に今帰仁間切を二つに分割する。今帰仁間切と本部間切が創設される。瀬底島は本部
 間切の内となる。
・康煕12年(1673)曹姓大宗(平敷家)三世慶均 瀬底親雲上を任じられる。
・康煕19年(1680)明姓五世長満 瀬底親雲上 本部間切瀬底地頭職に任じられる。
・康煕41年(1702)(那覇・泊系家譜:根路銘家)六世恵勇 本部間切瀬底地頭職に任命される。
・瀬底島には瀬底と嘉波の二つのムラからなる。

・石嘉波は1736年に崎本部と健堅の間から瀬底島に移動させられる。
・健堅側と瀬底島には瀬底大橋がかかっている。
・瀬底のウフジュクは第一監守が崩壊したとき逃げ延びた一族で村の草分けとなる。
・瀬底の神アサギは大底(ウフジュク:大城家)の屋敷内にある。
・ウフジュクはグスク近くから移動してくる。
・ウフジュクの側の広場で豊年祭がおこなわれる。
・瀬底島にはノロがいた。その屋敷跡がヌルルンチである。
・旧屋敷跡に祠をつくり火神や位牌がまつってある。
・首里に向かっての遥拝所がいくつも置かれる(門中ごと)。
・ウチグスクがあるが、別名東の御嶽(アガリヌウタキ)とも呼ぶ。
・ウチグスクは岩(イビ)の前に香炉のみであったが、コンクリートの祠と鳥居がつくられる(1991年)。

・瀬底には七ウタキがある。
  ①ニーヒヌカン(ウフジュク屋敷内)
  ②ヌルルンチ
  ③ウチグスク(東のウタキ)
  ④土帝君(瀬底ウェーキ)が中国から持ってくる。一門から村で拝むようになる。ウタキの一つ
   に数えられている。
  ⑤アンチウタキ(瀬底島の入り口) 航海安全祈願
  ⑥イリヌウタキ
  ⑦メンナウタキ(水納御嶽)
・ケーガー(ため池)がある。チンガーもある。①瀬底の神アサギ・根所火神・ウフジュク(大城家)
 ウフジュク(大城家)の屋敷内にある神アサギ。そばに根所火神の祠がある。

 瀬底村  ①神アサギ ②メンナ御嶽 ③ノロ殿内火神 ④イリノ御嶽 ⑤前ノ御嶽 ⑥内の御嶽 ⑦土帝神
 石嘉波村  ①御嶽 ②神社

【石嘉波村の移転】
 石嘉波邑を瀬底島に移建す

 
 「本部郡瀬底島は人少なく地広し、祝んや石嘉波、伊野波、辺名地、健堅、崎浜(崎本部)等の田地、その島に混在
   するをや。是れに由りて両惣地頭及び検官具呈して、陳奏し、海路相隔たり以て耕耘し難く、村邑を移すの事を請う。
   今番、石嘉波邑を瀬底島に移建し、亦その田畝及び瀬底の地を以って、石嘉波邑に均分す。而して石嘉波、素、受く
   る所の田地は、健堅、崎浜二邑に分与す」とある。

  (瀬底島は人が少なく土地が広い。石嘉波、伊野波、辺名地、健堅、崎浜(崎本部)などの土地が、瀬底島に
   混在している。両惣地頭や検者に願い出て、海路で隔たって耕耘しにくいので、村を移動することを願いでる。
   石嘉波邑を瀬底島に移し、瀬底の土地を石嘉波邑に均分する。石嘉波邑の田地は健堅と崎浜(崎本部)に分与
   する)

【石嘉波村側】
 ・明治13年の石嘉波村の戸数32、人口139人(男68、女71)
 ・石嘉波村の神アサギ(タモトギあり。屋根裏に木の梯子あり)
 ・旧家の跡(金城門中・ウチバラドゥンチ:上間家、ペークルンチ:金城家)
 ・ウタキ(タキサン:石嘉波神社)
 ・遥拝所(故地への)
 ・石嘉波の根所(火神)
 ・石嘉波ガー

【石嘉波のシヌグイ】(旧暦)
 
・7月18日 ウカタビ
   午前9時頃から根所火神、タキサン(シヌグイの報告)

 
・7月20日 ウークイ(ウフユミ)
  アサギ・根所火神・タキサンで豊漁・豊作のウガン。根所火神と神アサギとの間にハギヤーをつくる。ハギヤーはマーニ
  の葉と拝所からとった木を4本。一本は七段の梯子状の木を柱にする。タンジク柱と呼ばれ神の上り下がりをするのに使
  われる。
  ハギヤーには青いアダンの実(二個)、デーク棒(竹やサトウキビでつくる。7~8本)。
  女性達はソーキ一杯の餅(カーサームーチー)、各戸から七個づるの餅ガアサギに届けられる。
  男の神人によって生きているカニ二匹、魚(バイイュー)十五尾が吊るされる。
  午後4時頃、神女がデーク棒を火神の拝所の側に移し、アサギのタモト木の前に酒(御五水)、ウブク(御飯・強飯)、
  餅(カーサームーチー、を供える。一人の神女が根所火神の祠に入り、他の神人や参加者はアサギで豊漁、豊作のお礼と
  豊作祈願。
  男の神役はタキサンで同様な祈願をし、アサギに戻る。一緒にサンデー(直会)をする。
  午後5時頃、神女達は神衣装を持って神屋敷跡(ウークイモー)へ行き、供え物して東方を拝む。神女は準備した水で手と
  顔を清め神衣装を着け、頭のサージ(白鉢巻)の上からガンシナー(藁の縄に草をつるす)をする。
  ウークイモーの後、クラントーの屋敷跡とウイヤーの屋敷でウガンをし、供え物いただいた後、水で手を洗い白衣装に
  着替える。
  午後5時15分頃、神女二人がデーク棒で地面を突きながらウークイ・ウークイと唱え、アサギに戻る。
  アサギに戻った神人は神アサギと火神の拝所の間に置かれた供え物の廻りをウークイ・ウークイと唱えながら左廻り
  をする。
  神女二人は吊り下げたアダンの実をデーク棒にゆわえて担ぎ、流れ庭(元サーターヤー跡)へ行き、アダンを草むらに
  投げる。対岸(元はアンチ浜まで行った)
  向ってデーク棒を投げてアサギに戻る。


 ・7月22日 ハンジャレートゥ(祓い)





【瀬底村側】
 ・明治13年の瀬底村の戸数193、人口999人(男539、女460)
 ・公民館
 ・瀬底の土帝君
 ・瀬底ウェーキ屋敷跡
 ・ウチマンモー
 ・ワカサマチウガン(若狭松御願)
 ・大城(ウフジュク)
 ・神アサギ
 ・根火神
 ・ノロ殿内
 ・ウチグスク
 ・按司墓
 ・ケーガー(拝井泉)
 ・石嘉波川
 ・ウフニヤ(遠見台跡地か)
 ・ティランニー(洞窟)
  アンチ御嶽、前の御嶽(南の御嶽)、西の御嶽(宮島御嶽)
  水納島のメンナ御嶽、水納島のウルン、ナガレミャー、瀬底島の七御嶽の
  確認、ハンゼーク跡)


・土帝君(ティーティク)
 瀬底ウェーキ(上間家)の先祖は地頭代を何代かにわたってだしている。その二世が山内親方の随行したとき、唐(中国)から持ち帰り祭ったのが始まりだという。旧暦2月2日は土地公の誕生日にあたり、一門で祭ってきた。ある時期から瀬底のムラで祭るようになっている。



・ウチマンモー



・神アサギ(ウフジュクの屋敷にある)


 ▲神アサギに獅子がおさめられている    ▲ウフジュク(大城家)の屋敷にある神アサギ

・瀬底ヌルルンチ
 瀬底ノロの古い時代の住居家跡。ノロ家は何度か移動するが一番古い場所に火神の祠を設置してある。そこも七御嶽の一つと数えている。瀬底ノロが管轄した村は瀬底村・石嘉波村・健堅村・辺名知(地)村である。瀬底ノロが対岸の村の祭祀まで管轄していたことは驚きである。


       ▲瀬底ノロ殿内               ▲瀬底ノロの勾玉とガラス玉、黄金の簪(瀬底誌より)

・ウチグスク(東のウタキ)
 ウチグスクはアガリヌウタキとも呼ばれ、ウフジュクの一番古い住居があったという。住居の観念であれば、祠は火神を祀ってあることになる。グスク(ウタキ)内のイベとも見られる。祠はムーチースネードゥクルと呼ばれ1991年に建てら火神を祀っているようである。それはウフジュク(大城家)が古い時代の住居としていたとの認識がある。すると祠の後ろの岩がウタキのイビあたる。今のウフジュク(大城家)は三度めの移動場所である。二番目の屋敷地にも火神を祭った祠がある。イビの後方に初代(草分け)の内城按司の墓がつくられている。鳥居と祠は1991年に建立。



・按司墓



・地頭代を出した三家(上間家・仲田家・内間家)
 本部間切の地頭代を授かると健堅親雲上を名乗る。瀬底に健堅親雲上を名乗った位牌や健堅親雲上を名乗る家がある。アガーリ(上間家:四代)と下の健堅屋(仲田家:三代)、上の健堅屋(内間家:一代)がある。
・瀬底ウェーキ(上間家:アガーリ)
 ・一世 (□~1740年)細工大主(乾隆5年:1740)死去。アンチ浜の上方にカンジャーガマがあり、
  そこの岩穴で加治屋としたという。同家一門の拝所となっている。カンジャー大主はそこからき
  た名称か。
 ・二世(健堅親雲上)(1705~1779年) 
   山内親方を供して三回も唐旅をする。土帝君を持ってきた人物。アンチ浜に番小屋をつくり
   88斤半の錨、芭蕉綱を備えていた。
 ・三世(健堅親雲上)(1724~1805年)
 ・四世(健堅親雲上)(1753~1819年)
 ・五世(健堅親雲上)(1779~1759年)
   掛床字「善行家風」を賜る。

・仲田家(下の健堅屋)
  仲田門中の本家。乾隆年間の人物。乾隆37年(1772)死去。
   「仁心宗儀禅定門」(嘉慶21年 1816)死去(仲田家三代目)
   「春林宗長信士」(道光12年1832年)死去(同家四代目)
   「梅岳良栄禅定門」(光緒10年:1884)死去(同家五代目)
・内間家(上の健堅屋)
   「健堅親雲上」(光緒19年:1893)死去(内間家の六代)
・ケーガー(ため池)
 周辺の森に降った雨が溜まった池である。後方の杜はウタキではなかったかと思われる。その前に祠があり三基の香炉が置かれている。昭和4年に南洋やサイパンに移住した瀬底の方々の送金で建てた(整備?)したものである。三か月、星、太陽が描かれている。三星は異国からでも見えるので、故郷を偲んでの描いたものであろう。垂直に掘り込み石積みのチンガー(彫り込み井戸)がある。

・ティランニー



 瀬底の行事の全てを記録しているわけではないので『瀬底誌』から行事の概要をみる。

【瀬底のシニグ】(旧暦)
 ・7月18日はウカタビ) ウチグスク(ウタキ)の清掃
 ・7月20日 大弓(ウフユミ)シヌグイ
 ・7月22日 ハンジャレート(ハンプトゥーキ)(神仏)
      (昭和30年代まで男の神人(神仏・神仮装)が各家庭を鼓を叩きながら廻る。家の災い払い、果報の招来祈願) 
     現在、神アサギでの祈願、ウツグスク(ウタキ)、旧集落跡、ナハハラ(仲原)、大城(ウフジュク)など旧家を回る。各家庭
     回りは廃止してウツマンモーで酒・肴を持参し各戸主が参加(男のみ)し、お祓いをうける。

    ハンジャレートが終ると、婦人達のシニグ(ウシデーク)がウチマンモーで行われる。
 ・7月23日 ウヮイ(終り)シヌグイ

【村踊り】(村遊び)
 ・瀬底ウェーキが導入か。
 ・村踊りの場所は神アサギのあるアサギミャー。
 ・踊りの稽古や道ジュネーの準備は土帝君の広場でした。道ジュネーのスタート。
 ・昭和10年頃から村踊りと綱引きを五年毎に交互に行っているようだ。
 ・旧8月9日(スクーミ:予行演習)、11日、13日、15日(三日間は本番)の四日間(アサギの遊び庭)。

  ①獅子のウガン(舞台の中央部に置く。ウフシヌヘー(根人)・祝女・神人、祈願後土帝君の広場へ。 
   ②土帝君の祠 踊り衆は土帝君の広場で衣装の支度をする。獅子が来て道ジュネーの準備。

【綱引き】(本来旧暦の8月11日)(綱引きの実施要項あり)
  明治の頃まで毎年行われていたようである。南北に二分する。 
 ①ウガン(根所火神・ノロ殿内火神・土帝君・綱引き場所の中央線で安全祈願)
 ②道ジュネー(午後2時~)
   ・南方 ウチマンモー 北方 ユギンモー 旗頭を先頭に入場。各支部七芸を披露。次に両支部が場所を変えて演技を
     披露する。

 ③支度
   午後四時半頃から南方は牛若丸、北方は弁慶が、バンクに乗り綱の中央を挟んで互いに睨みあう。太刀と薙刀、空手
   の技を披露。
 ④綱引き
   綱引きは公民館前の県道で行われる。ナンザトゥヤの前の道が中心。
   午後5時頃南北の執行委員がカンヌキ棒をセットする。実行委員長の号砲と同時に旗をたて綱引きが始まる。
   地元の方々や観衆も参加する。勝負時間10分、衷心より3m以上引寄せると時間内でも勝負決定。10分目で中央より引
   寄せた組が勝利。
 ⑤綱引き終了
   勝負が決まると実行委員長が勝負の判定を宣言する。歓声がおこる。
   南北の執行委員がカンヌキ棒を抜いて、綱を道路沿いに寄せて終了する。(綱は競売にふす)
 ⑥相撲
   午後7時~9時(ウチマンモーで沖縄角力:瀬底出身者に限る)
 ⑦慰労会
   角撲が終ると、綱引き行事の無事を祝うと同時に労をねぎらう。






 「山原のムラ・シマ講座」(第19期)を開催いたします。ここ20年で山原は急速に変貌しつつあります。変貌していく過渡期の渦中にいることを意識しつつ、ムラ・シマの調査記録をして行きます。
 今期は以下の地域を、ムラ・シマを描くキーワードを携えながら探訪する予定です。どのムラ・シマも魅力ある歴史文化を持っています。お楽しみに!

【開催日】(各月第二土曜日)(9:00~13:00)(台風の場合は中止、雨の時は舘内で)

 第1回 5月14日(土) 開講式 天底(ワルミ大橋)・運天原(オランダ墓)など
 第2回 6月11日(土) 本部町健堅・瀬底島
 第3回 7月9日(土)  東村川田~平良(山と水の生活博物館)
       (8月は旧盆のため休みとなります)
 第4回 9月10日(土) 9:00~13:00 名護市久志~辺野古
 第5回 10月8日(土) 9:00~13:00 恩納村恩納
 第6回 11月12日(土) 9:00~13:00 大宜味村塩屋湾岸
 第7回 12月10日(土) 9:00~13:00 宜野座村宜野座(宜野座及び博物館)
 第8回 3月10日(土) 9:00~12:00 (修了式及び展示)

 【集合場所】  今帰仁村歴史文化センター
 【受講料】   無料です。
 【受講者】   一般・学生
  申し込みの締め切り:5月7日(土)

 ※台風や大雨で中止となることもあります。雨の場合は舘内で行います。遠距離になる
  場合がありますので終了時間の変更などがあります。
※ 基本的には弁当の持参はありませんが、暑いですので飲み物は必要。ヤーサノーシの
  おやつも可♪

※万が一のため保険料(600円)が必要です。申込の時か、第1回目の講座の時にお願い
  します。(なお、申込用紙に住所・連絡など記載下さい)

※毎回、バスの利用となりますので定員は25名です(先着順になります)。

・申込・問い合わせなどは、今帰仁村歴史文化センター

                 TEL 0980-56-5767
                 FAX 0980-56-2789
                                        スタッフ  仲原 弘哲
                                              石野 裕子
                                              玉城 菜美路


             【第1回 山原のムラ・シマ講座】(開催済み))

                     (開催日:平成23年5月14日)
                               
ムラ・シマ講座参加者のみなさん

          第19期 第1回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ

 5月の連休は雨の日が続きましたが、いかがお過ごしでしょうか。アカショウビンが飛来する季節となりました。暑い季節がやってきます。

 さて、第1回目の講座は、移動・合併村(ムラ)をテーマで名護市我部を中心に行います。移動・合併村としたのは、我部村と松田村の歴史をたどると1690年以前は今帰仁間切のうち、1690年以降は羽地間切へ、1736年に今の湧川地内(その頃、そこは羽地間切)から対岸の屋我地島に移動させられます。今の湧川地域に1738年に湧川村を新設し、その地を今帰仁間切にしています。

 移動先でウタキや神アサギなどの拝所をつくり祭祀を行っています。我部ノロは1713年の『琉球国由来記』で管轄していた村の祭祀は移動後も掌っています。村が移動してもウタキをつくり祭祀を行い、ノロが管轄する村も変化することがなかった。そこに近世の村の姿をみることができます。

 また、故地に何を遺しているのか。それが村の歴史をたどる手掛かりとなります。そのようなことをテーマに訪れてみます。それ以外にどんな発見があるのか、お楽しみに♪

☆ 5月14日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
   ↓ 開講式・顔合わせ(自己紹介)
   ↓ 9:40 (ワルミ大橋へバスで出発)
   ↓ ワルミ大橋で下車(我部村の故地にあるウタキ(イベ)拝見
   ↓ (ワルミ大橋から我部の故地と移動先の確認)
   ↓ 運天原のオランダ墓・運天原のガンヤー
   ↓ 古宇利大橋(屋我地側)の橋詰めの石切り場
   ↓ 我部のムラウチ集落へ
   ↓ (我部公民館・我部のウタキ・我部ノロドゥンチ・カミヤー・二つの神アサギ)
   ↓ 前垣の塩田跡公園で報告会!
   ↓ 歴史文化センター(13:00 解散予定)

      ☆ 持ってくるもの(暑いですので飲料水や帽子など)
      ☆ ゴツゴツした岩場を歩きますので運動ぐつで来てください! 
        サンダルやぞうりではダメです。ケガをします。ガジャンもいます!

   ♪お休みをするときは電話してください! 56‐5767 歴史文化センターまで
   ♪雨がふったら、歴史文化センターの中で行います。
   ♪保険料(600円)まだの方は、当日お願いします。

                   (資料は当日配布します)


「ムラ・シマ講座で訪ねる場所」(レジメ) どんなストーリーにしましょうかね。

【方切と移動村我部と松田村の変遷】

・1648年『絵図郷村帳』 今帰仁間切:ごが村・まつざ村・がぶ村・ふれけな村

・1640年代『琉球国高究帳』 今帰仁間切:ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村

・1671年(康煕10年)向姓八姓向洪徳 今帰仁間切松田の名を賜わる。

・1672年(康煕11年)紅姓九世 紅自煥(伊佐川親雲上)今帰仁間切松田の名を賜わる。

   1673年に大宜味間切、久志間切、恩納間切が創設される(方切)。

   その時、今帰仁間切と羽地間切との間で方切があったと見られる。

・1674年(康煕13年) 駱姓四世春章 羽地間切呉我の名を賜わる。

・1691年『球陽』康煕30年 羽地郡松田村属本郡我部村(我部移転より45年前)

・1691年(康煕30)毛姓三世 正議大夫毛文善(和宇慶親雲上)羽地間切我部地頭職を拝授する。

・1713年『琉球国由来記』 羽地間切 呉河村・我部村・振慶名村・(松田村)・(桃原なし)
     (それらの村は移動後も我部ノロの管轄)

・1736年 羽地間切の呉我・振慶名・我部・松田・桃原が羽地間切の内部へ移動。

       我部村と松田村は屋我地島へ。

・1738年 五ヶ村が移動した跡地に湧川村を創設し、そこは今帰仁間切の領地となる。

・1750年頃「乾隆図」(1750年頃)の人家:10戸、西方4、東方6

         竿入帳の屋敷 我部11戸 松田?(推定12)




【我部の故地の拝所】


 湧川の地に我部と松田の移動前の痕跡をみつける。


  ▲我部のウタキ(イヘ:ワルミヌティラ゙)  ▲故地にあるスーヤー(塩屋の御嶽) ▲フルガー(古井戸)

【我部と松田は対岸への村移動】

 ワルミ海峡の手前左手にワルミヌティラがあり、そこの杜は我部村のウタキと見られる。ウタキのイビはワルミのティラ(洞窟)である。同様なウタキは運天のウタキ、ティラガマはイベとなっている。運天と上運天はタキヌウガン(年二回)行われている。ガマの中の香炉(イビ)でウガンが行われる。)


【運天原の石切り場】
  大堂原の海岸にある石切り場。石柱や囲いに使うために切りだした跡とだと見られる。



【オランダ墓と運天港】


  ▲運天原(屋我地島)のオランダ墓          ▲オランダ墓の二基の墓碑

【運天原のガンヤー】

    ▲運天原のガンヤー               ▲オランダ墓からみた運天港

【現在の我部】(名護市屋我地島)


    ▲我部ノロドゥンチ          ▲我部のカミヤーと神アサギ        ▲松田の神アサギ


  ※『名護市史』本編 民俗Ⅲより



【塩田にまつわる伝説】(『補遺伝説 沖縄の歴史』325頁)
   「数百年前日本本州の人今帰仁間切湧川の下我部(運天の奥)に漂着して割目の寺に仮寓し笊に泥を塗って、鍋となし
   土民に初めて製塩の法を授けたという。現在も此の地附近は製塩が盛んである」

 ※「昔兼城間切阿波根下り口に北山王族が遁れ来て初めて製塩の法を伝え、此の地を潮平と称し、後市部落をなすに至ったと
   伝えている。」(同上著325頁)