歴史文化センターの調査記録 
          (2011年10月)         
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歴史文化センターの動き過去の動きへ

調査記録(2010年4月)                          (館長:仲原 弘哲)
調査記録(2010年5月)   ・天底のタキヌウガン調査

調査記録(2010年6月)   ・山原のムラ・シマ講座へ
 平成22年度学芸員実習 北山系統の一族のムラと一門
調査記録(2010年7月)   ・企画展―山原のムラ・シマ― ゆらゆら日記1へ  ゆらゆら日記2へ(9月)
調査記録(2010年8月)   ・調査記録(2010年11月)  ・2011年の桜の開花状況 Tam1へ 
調査記録(2010年9月)   ・調査記録(2010年12月) ・23年度学芸員(博物館)実習
調査記録(2010年10月)  ・調査記録(2011年01月) ・調査記録(2011年2月)へ 中城ノロが関わる祭祀
調査記録(2011年03月
 調査記録(2011年04月)  ・調査記録(2011年05月)  琉球のノロ制度の終焉(企画展)
調査記録(2011年06月
 調査記録(2011年7月)  ・調査記録(2011年8月) 調査記録(2011年9月

2011年10月31日(月)

 27日から徳之島。徳之島町の資料館へ。そこには「手々ノロの辞令書」と漆の櫃が展示(徳之島町指定)されている。琉球のノロ関係資料を見るには、奄美のノロ辞令書も視野に入れる必要があるからである。それと手々ノロを出した手々までいく。手々ノロの遺品は徳之島の亀津の資料館(徳之島生涯学習センター内)に置かれている。今回はノロ辞令書を目にするだけで十分。

 手々村は徳之島の北端に位置し、辞令書が発給された頃(万暦28年:1600)「とくのにしめまきり」(徳之西銘間切)の内である。近世の手々村は岡前噯(現天城町内)で、手々が現在の天城町域、あるいは徳之島町内になったり、間切(方切)の変更があり、深見家文書の辞令書の外にノロに関わる近世資料からノロの祭祀や継承についてみていく必要がある。

 首里王府と徳之島手々村との交流(首里王府の奄美の統治)。1500年代首里王府は辞令書を発給し、奄美の島々(徳之島)をどう統治していたのか。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北が薩摩化されていくが、このノロ制度、ノロ家の遺品が今に伝えられ遺されている。琉球的な多くのものが消されていく過程で、このノロ制度が生かされてきたのは?(明治以降の琉球・沖縄におけるノロ制度の廃止に向けての流れと道は一つのような・・・) 

・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)

 
 しよりの御ミ事
     とくのにしめまきりの
     
てゝのろハ
       もとののろのくわ
   
一人まなへたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  万暦二十八年正月廿四日

 
  ▲「徳の西銘間切手々のろ職補任辞令書(1600年)(徳之島町立郷土資料舘)


  ▲掟大八の屋敷の説明板          ▲掟大八の力石(徳之島町手々)

2011年10月26日(水)

 
時差ボケが続いています(怠けクセ?)。昨日がピークなり。夜と昼が逆転状態。以前も二週間近く続いたような。

 間もなく企画展です。山原のノロドゥンチ(ノロ家)、「北山神社創立願所」、ノロドゥンチが持つ遺品、ノロ辞令書から見えるノロ制度などのコーナーと一部現物資料展示にはいります。

 27日奄美の徳之島へ出張。そのため徳之島情報を思い出すために「琉球と三島(与論・沖永良部・徳之島)」をアップ(別のところで部分的に報告済み)。30日まで徳之島です。会議と少し島の調査ができれば幸いです。

 渡名喜島での沖縄県地域史協議会には参加できず。渡名喜島のことは職員に何点か見てきて欲しいとお願いしました。


2011年10月25日(火)

 「沖永良部島のムラ・シマ」をテーマに講義をします。27日から徳之島に出張するので、その下調べも兼ねています。島の歴史・文化を通して、奄美に古琉球の時代からのものがどう残っているかが大きなテーマ。そしてムラ・シマの姿が沖縄本島とどう異なり、どこか似ているのか。






2011年10月21日(土)

 「北山神社 許可願書」(昭和18年)の資料である。「目次」に 一、北山神社創立願書(同添附書類) 一、土地寄附之証並ニ土地収益調 一、創立後一ヶ年ノ予算書 一、創立予想後ノ神社明細帳、神社地図 一、神社見取図 とある。今回の企画展を「琉球のノロ制度の終焉」とする理由は、「北山神社 許可願書」から、グスクやウタキを神社化することで、ノロ制度を終わらせる政策がとられる。首里城に県社沖縄神社の創立を見たのは大正15年10月20日である。昭和に入ると各地の村(ムラ・シマ)に神社が造られる。昭和5年今帰仁グスクに鳥居が立てられるが神社化されるに至っていない。

 今帰仁グスクに「北山神社」(昭和18年)を創立しようとしたのが、この資料である。それと「ノロ制度の終焉」とどう結びつくかは、六、維持方法で「社禄ノ国債(但シ明治四十三年ノロクモイ職ニ給与セラレタルモノ)金一、五〇〇円及土地山林壱万五百八拾四坪ヲ神社ノ基本財産トシ之ヨリ生ズル利子及寄附ヲ受クルベキ土地ノ収益並ニ氏子崇敬者ノ負担金ヲ以テ維持スルモノトス」とある。ノロ職に与えられていた社禄の国債を取りあげ、神社の基本財産に組み込むことにしたのである。それはノロ制度の実質的廃止である。

 昭和18年に神社建設に向けて、生徒達が動員されているので、この書類は「内務大臣 安藤紀三郎殿」に提出されたと見られる。この許可願書を作成された方は、宮司の資格を取得され、「北山神社」の宮司の予定だったであろう。ところが、昭和19年沖縄本島も爆撃され、神社建設も中断していまう。戦後北山神社が建設されることはなかった。それと戦後ノロ制度の復活はなかった。ノロ制度は法的な区切りがなく、うやむやのうちに現在に至っているのではないか(今回の企画展でもう少し丁寧に見ていけたらと・・・)


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2011年10月21日(金)

 20日までイタリア国へ。大急ぎのイタリアの都市巡り。フィンランド(アムステルダム)からイタリアのミラノに入る。ミラノから以下の都市を訪れる(そのほとんどが世界遺産地区)。時差ぼけ中なので、忘れる前に訪れた都市を掲げておきましょう。

 水の都と呼ばれる水上都市がどのようにして造られたのか。カプリ島の崖プチに造られた家々。それと訪れる人の多さには・・・

 ①ミラノ ②ヴェローナ ③ヴィネツェア ④フィレンチェ ⑤ピサ ⑥ローマ ⑦ヴァチカン市国 ⑧ナポリ ⑨カプリ島 ⑩ポンペイ(行かず)の都市(島)を訪れる。(詳細は時差ボケが抜けてから)


     ▲ピサの斜塔       ▲フィレンツェの街(サン・ロレンツォ地区)    ▲ゴンドラが往来する水路


 ▲ローマの円形闘技場(コロッセオ)      ▲カプリ島の崖ぶちの街     ▲海辺の卵城(12世紀の古城)

【今帰仁村まつりの展示部門】

 11月22日~23日の展示作業。22日と23日に開催されます。他の部門もありますのでどうぞ。

 
    ▲絵画や陶器などの展示                 ▲書道の部分の展示

2011年10月11日(火)

    12日~20日まで更新はありません。(悪しからず!)

 12日~14日はくん蒸のため歴史文化センターは閉館となります。今帰仁グスクは平常通り、ご覧になれます(通常料金です)

【国頭村比地】(まとめ)
 
 沖縄本島北部を山原(やんばる)と呼ばれています。山原と呼ばれるようになるのは近世になってからです。その地域は北山(山北)や国頭方と記されます。山北(北山)は、北山・中山・南山が鼎立していた時代の名残りです。その北山の領域が山原である。近世になって領域(間切)の線引きの変更や町村の合併がなされ現在に至っています。

 山原の市町村に字(アザ)や区と呼ばれる行政字(区)が180あります。字のことをムラやシマと呼ぶが、明治41年に間切は村に、これまでの「…村(ムラ)」は字(アザ)と改称されました。そのこともあって現在の沖縄の「…村」は「…ソン」と呼んでいます。以前の村(ムラ)と混同を起こさないためでもあります。村(ムラ)と呼ばれてきた行政区が近世初期から明治41年まで長年にわたって使われてきた。そのムラに住む人たちのほとんどが、そのムラで生まれ育ち結婚し、そして人生を閉じています。それは土地制度(地割)との関わりがあります。

 その環境で培われた習慣や伝統が、明治以降の県政やムラ・シマにおける生活改善などで、その多くが失ってしまいました。それでも山原に、まだ生活の一部として息づいています。特に祭祀や神アサギや言葉や生業などに。廃藩置県後、130年という歳月が経ています。それでも、山原の人々がムラの歴史や伝統や祭祀、言葉(方言)、あるいは生業、自然などのことを消すことなく今に伝えているのは、伝統や文化と捉えてもいいのではないか。集落の発生と切り離せないウタキや神アサギやカー(湧泉)、それだけでなく山原に残る自然(ヤンバルのつく動植物)なども、山原のムラ・シマを見ていくキーワードとなります。

 そこでは「地域文化とはなにか?」との姿勢ではなく、山原には180のムラ・シマがあり、それぞれ歴史を刻んできています。その180のムラ・シマのもつ多様性を個性として引き出していく作業。一言でくくる、あるいは一つの答えを出すことも大事ですが、180のムラ・シマの個性を描き出し、記録していくことがより重要です。それまで持続しきたもの、そして将来に継承されていくものを文化と捉えていくべきです。

 学問は「地域文化とは何か」を問う手掛かりであって目的ではない。地域を、そしてムラ・シマが何かを様々な学問を通して究めていく。一つの結論を導き出してことが主ではなく、ムラを構成する要素を幅広く、そして数多く拾いあげ記録していく作業、そのことが「・・・が(も)地域文化である」ことに結びついてきます。

 ムラ・シマに生きる70歳以上の方々は、戦前・戦争・戦後の物のない時代、そして昭和30年代からの高度経済成長期、さらに宇宙に人間が飛んでいく時代。そのような裸足の時代から宇宙に人が飛たっていた時代を体験した方々は、過去にいくつか黄金時代がありましたが、裸足の時代から裸足の時代でした。今の70歳以上の方々は、裸足の時代から宇宙の時代の体験してきた方々であり、そのような時代を経験した方々は過去ありませんでした。

 この時代を生きてきた方々の体験を記録というのは、将来に渡ってないであろう。この時代に生きた方々の記録を将来に届ける義務があるのではないか。100年あるいは200年の未来から、昭和・平成という時代を振り返った時、黄金時代というより、とんでもない時代があったのだとの議論がなされるでしょう。現在に生きる方々の生の資料を届けるということは論や学説ではなく、実態のある議論がなされるでしょう。山原には180のムラ・シマがありますが、それぞれのムラ・シマを記録していくことは、100年、あるいは200年の人々への贈り物です。「昭和の文化は・・・」、あるいは「平成の文化は・・・」の議論が学説ではなく実態を踏まえた記録や資料で議論しているに違いない。そんなことを期待しながら調査記録の蓄積をして行きましょう。


2011年10月10日(月)

 10月になると来舘者が増える。昨日は500人近く。有り難いものである。毎週のように「ムラ・シマ講座」を開催しているような感じがする。

 毎回の講座の中身が数年続くと・・・。それは20年、30年先の人々への贈り物である。そのことに気づかされたのは「国頭村比地」での15年前の調査である。その確認もあって明日の大学での講座は「国頭村のムラ・シマ―国頭村比地―」である。昨年の今頃、国頭村比地をテーマで講義している。今年はどんな話の展開になるでしょうか。(HPを昨年の10月。国頭村比地としてまとめてある。それと100の質問も。・・・楽しようとしているか)





2011年10月8日(土)

 「恩納村のムラ・シマ」講座(5回目)である。曇り空で、雨に降られず、フィールドにはまあまあの天気でした。詳細の報告は他でなされるので、回った場所のみの報告にします。地元の當眞嗣長氏が場所場所で、わかりやすく丁寧に説明いただきありがとうございました。恩納村の村誌の方々も。

  ①歴史文化センターで恩納の概況や歴史なのレクチャー
  ②恩納グスクへ(ウタキと殿と移動前の二つの集落)
  ③古島(ウガンとハニクの殿と献穀田の場所とその時の様子)(恩納の當眞氏のお話)
  ④恩納番所跡と恩納松下の歌碑(當眞氏から説明を戴く。仲嶺氏が恩納節を披露)
  ⑤恩納ノロドゥンチ
  ⑥恩納の神アサギ
  ⑦恩納ナビの生誕地(マッコウヤー)・メーガー
  ⑧カンジャガー
    恩納奈辺歌碑と万座毛(時間切れでした)


  ▲献穀田の御田植えの様子を語る當眞氏     ▲恩納松下で想いを込めて謡う仲嶺氏


      ▲恩納ノロドゥンチで                  ▲りっぱな恩納神アサギで

2011年10月7日(金)

 
島袋源一郎は昭和3年10月28日、名護神社竣工の式典を挙行するというので、関係団体から神社由緒の起草を懇請されたようである。「名護城史考」として『南島研究5号』(昭和3年)に寄稿されている。その中に名護城周辺の様子や神社建設の経緯が述べられているので紹介する。(ムラ・シマ講座で訪れた恩納ノロドゥンチで、同様な民家の配置をみる)

   名護間切名護村は昔時は今の名護城の中腹に集落をなして居たが、按司は首里へ移住し、漸次人口も繁栄して来た
   ので、終に一部落は今の東江の土地に、一部落は今の大兼久の土地に移り、最後残って居た小部落が大兼久前方
   海岸の新成地即ち今のの土地に引越し、?に全部落が移転して元の城下には現在の如くノロ殿内、根神、内神、細
   目神四軒の神職の家だえk残るやうになったのである。其の移住の年代は明確でないが東江、大兼久は多分按司引上
   の後で三百数十年前で、城は之より凡そ一世位後の事であろうと思われる。琉球由来には単に名護村とあって三部落
   の名称はなく、又御嶽もテンツギの嶽一ヶ所で神アシアゲも一つであるから、元来この三ヶ字は同一の氏神の氏子であ
   ることになるのである。

   名護城神アシアゲは昔ながらに按司の居城であった山上の台地にあるが、ノロ火神殿内は以前は現在の拝殿の位置に
   建つて居た。そこには其の他にノロ位牌殿内とノロクモイ住宅と三棟相並んで居たのを、明治33年下方の風当りのな
   い土地を相し、一軒の瓦葺を建てゝ此の三棟合一してあったのである。

   それを昭和元年町民の発起に依って新に元の三殿内のあった土地に近代日本式の神殿と拝殿とを建築して遷座し、全
   然ノロクモイ舎宅とは棟を別にする様になった。是れ古へに復ったので所謂神と床を同じうしてその神聖を汚すことを避け
   たのである。それと共に祭司の私宅より出る方が神威普く行はれ、隋って、民衆信仰の上から意義深くなる。


 
▲島袋源一郎は「琉球列島に於ける民家の構造と其のは   ▲現在の城ノロドゥンチ(名護神社の側)
  位置」(昭和14年)で名護ノロ家の配置図を示してある。


2011年10月6日(木)

 
「恩納村のムラ・シマ」(山原のムラ・シマ講座)のレジュメをつくってみた。恩納村の恩納をどのような視点で見て行こうか挙げてみた。まずは、15の字(アザ)を紹介し、今回は恩納村恩納を中心にみていく。

 恩納村恩納に間切番所(後の役場)が置かれたことで、歴史的ことや歌人の恩納ナビーのウタ(琉歌)が恩納(岳)を世に知らしめている。集落移動とマキクラスの集落の統合など、村(ムラ)を深く知る興味深いキーワードが転がっている。

  ・古い琉球の「おもろさうし」で「おんな やきしまよ」と謡われる。
  ・1607年の恩納ノロの辞令書で「きんまきりの おんなのろ」と謡われる。
  ・1658年の恩納ノロの辞令書で「金武間切の おんなのろ」と謡われる。
    (「おんな」の語義は、ウンナで大きな広場、大きな野、あるいは海の辺か)
  ・恩納間切の創設は1673年である。
  ・恩納間切創設の時、金武間切(国頭:山原と読谷山間切(中頭:中山)から村の合併である。
  ・恩納村(ソン)恩納は恩納間切の番所が置かれる。
  ・恩納村(ムラ)は恩納間切の同(主)村である。行政の中心となる。
  ・恩納村は移動集落である。
  ・恩納間切に二人の掟(恩納掟・久留原掟が置かれる。
  ・恩納掟は恩納集落の後村渠へ、久留原掟は前渠村に置かれる。
  ・『琉球国由来記』の恩納村(ムラ)の拝所の確認が必要か?
  ・1719年に冊封使の徐葆光がやってきて書を残す。
  ・1726年尚敬王や蔡温(具志頭文若)が北山巡行でクンシモー(後の万座毛)に立ち寄る。
  ・1756年に冊封使に同行してきた王文治や「数峯天遠」の詩を残す。
  ・1853年にぺりー一行がやってきて番所(公舘)のスケッチを残している。
 などなど。「恩納より上おもろ」があるが、それは恩納間切創設(1673年)以前のことであり、そこに登場する「おんな」は恩納間切ではなく「金武間切恩納村」を指していることに注意。「あふそ」(安富祖)もそうである。

参考文献:
『角川地名辞典』(沖縄県)
       『恩納村誌』
       『沖縄の地名辞典』(平凡社)
       「恩納村勢要覧」(200年)
       『恩納字誌』
       『なきじん研究』(1~17号)
       『国頭の村落』(下)





2011年10月5日(水)

 「中城ノロクモイ本筋嘆願書」(明治16)である。廃藩置県後、各地でノロの継承の紛争が起こっている。その一例である。ノロ制度が1500年代から続いていたとすると、様々な継承問題が生じてくる。そこでの問題解決がどうなされたか。(工事中)

       ノロクモイ本筋嘆願願書
  今帰仁間切中城ノロクモイノ儀其私大宗
  湧川親雲上亡娘始テ相勤二代目迄ハ順々
  相続相勤三代目ノノロクモイニハ勤ナガラ仝間切
  諸喜田村六十六番地平民島袋礒之丞元祖
  不罷居候ニ付是非ナク彼娘子孫エ相勤サセ中
  頃ニ至レテハ島袋礒之丞方ニモ可勤者無之
  候ニ付當今仝村六番地平民宮城仙助祖親エ
  相勤サセ候處當分ニ至りテハ此方子孫ニモ
  勤ヘキ者段々罷在候ニ付私亡父存在ノ時此後
  ノ代合ヨリハ此方エ差帰シ候筋亡ノロクモイト
  約定致置候際代合ノ時ハ宮城仙助相談ヲ
  以テ此方ヨリ相勤候様遺言ノ趣委細聞受
  候ニ付此節ノ代合ヨリハ素ノ如ク此方エ相勤サセ
  候様相談ヲ入候ヘ□色々口能相構張合ニ成リ
  候處近日宮城仙助ヨリ願立ノ趣ハ本筋差犯シ
  午晩モ張合候テ身分不為ニ相懸ル事ナレハ一代
  迄ハ彼方ヨリ相勤サセ其以後代合ヨリ私方相勤候
  様可取計旨私娘相談有之此上ハ難差帰願相達
  置候處彼門中共同者不致由ニテ干今相片付
  不申候依之奉願候義恐緬ノ義ニハ御座候ヘモ
  ノロクモイ□義大切成神職ノ事ニテイツレ先
  祖ノ伝職再起イタシ度相封談判仕候ヘモ彼ノ
  門中ハ彼方ヨリ永代相勤候ニ付テハ今更本
  家の迎此方エ差帰シ□義唯成段申張候右ノロ
  クモイ役地ノ義今迄帳面ノ當村エ御授被仰付
  旧藩言上書モ中城ノロクモイト被申付猶且
  拝領金ノ簪等モ當家ニ格護置申候尤言上
  書ノ義此方ヨリ相勤候分ハ此方挌護可申ノ処
  此方ヨリ出嫁ノ女子ノ彼方ニ手挌護相成申
  □□□□言上書共御用被仰付御賢覧相成リ
  候ヘハ此方ヨリ相勤候ノロクモイト彼方ヨリ相勤
  候ノロクモイト委細御差分相成筈候条彼
  此御厄害ナカラ根源御糾方ノ上何卒本家 
  再発致候様被仰付被下度此段歎願仕候也
    明治十六年
       (続)


     ③             ②          ①


       ⑧           ⑦           ⑥        (⑤④は略)

2011年10月4日(火)

 大学の講義は「名護湾岸のムラ・シマ―屋部村と名護村を中心に」である。足元から。

 「まとめ」は以下の言葉でとじました。

 名護湾岸に安和・山入端・屋部・宇茂佐・宮里・名護(大兼久・城・東江)・世富慶・数久田・許田・幸喜・喜瀬のムラがある。名護グスクから名護湾を眺めると、それらのムラが名護湾岸にみることができる。名護グスクを要(拠点)にした時代があったのではないか。
 
 1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に那五とある。それは方言音のナグに表記上「那五」を充てたのではないか(ナゴの方音がナグになったとの見解もある)。 ナグは「和む」意味合いからきた地名ではないかと考えている。名護のナゴマサーの気質からすると、それは願望かもしれない。
 
 名護グスクはグスクのイメージを一転させるグスクである。亥一般的にグスクは防御的な施設である。ところが、名護グスクは石積みがないのである。グスクの後方に丘の丘陵地を堀切った二つの堀切りがあるが、防御的な施設とするには規模が小さすぎる。防御的な施設としては頼りないのであるが、それでも名護湾岸のムラを統治したとするなら、権力で統治せず、統治できたのであれば、グスクの按司は人望の厚い、仁徳のあった支配者だったに違いない。

 山原のムラ・シマにはウタキがあり、集落内にムラヤー(村屋:今の公民館)や神アサギがあり、その周辺に集落が発達している。ムラ・シマに住む人々は、ウタキやカー(湧泉)や神人を出した家(旧家)跡に火神を祀っている。祭祀はムラ・シマに住む人々の休息日にあたり、祭祀を今でも「神遊び」と呼び、神に名付けて休息日をとっていた名残りである。

 山原のムラ・シマを見る時、集落内のムラヤー(今の公民)に行き、そして周辺の神アサギを見つける。さらに神アサギからウタキの確認をする。ムラヤーや神アサギや拝所、旧家などから集落の成り立ちをしる。ムラ・シマの歴史を辿ることで、そのムラ・シマの伝統芸能であったり、ムラ・シマの文化を体で感じとることができる。

 明治以降、名護のマチが山原の歴史や文化や行政の中心となってきた。大学が山原の歴史文化の情報を蓄積し、発信していく拠点となっていくべきだと考えている。将来の山原の姿を見据えていけるような資料の集積をしていかなければならないと考えている。そのような意識で皆さん一人ひとりが、資料収集の役割を担っていると自覚してくれたら有り難い・・・。同時に名護湾岸のムラ・シマを訪ね、地域の歴史や文化を肌で感じ、そして楽しんでもらいたい。(80名余の学生達のレポートが楽しみ!)

 名護市屋部のプーミチャーについては、タイミングよくTamaで報告してくれました。


    



 ▲見上げての講義。首が・・・!途中から後ろの方へ。     講義が終って・・・

2011年10月1日(土)

 企画展―琉球のノロ制度の終焉―の準備にかかる。これまでの調査を展示に向けて整理することに。仮の壁展示の一部をお見せしましょう。
  ・今帰仁阿応理屋恵(アオリヤエ:アットメー)(三十三君の一人)
  ・今帰仁ノロ(今帰仁間切)
  ・中城ノロ(今帰仁間切)
  ・玉城ノロ(今帰仁間切)
  ・勢理客ノロ(今帰仁間切)
  ・山原のノロドゥンチ
  ・ノロの祭祀(山原域)
  ・ノロの継承の紛争の処理(事例)
  ・ノロクモイ本筋嘆歎願書(中城のろ)(今帰仁間切)
  ・玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書(今帰仁間切)
  ・間切とノロ(ノロの管轄村)
  ・奄美のノロ
 などなど・・・


     ▲今帰仁阿応理屋恵               ▲今帰仁ノロ        ▲山原のノロドゥンチ(一部)