歴史文化センターの調査記録 
          (2011年5月)         
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調査記録(2010年4月)                          (館長:仲原 弘哲)
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    平成22年度学芸員実習 
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2011年5月31日(火)

 「勝連半島のム・シマ」(中頭)をテーマに講義。そのため勝連半島を踏査。それと勝連グスクと南風原(移動集落)を中心にまとめる。勝連半島は勝連間切を分割し、勝連間切と与那城間切。勝連間切が分割する以前の番所はどこだったのであろうか。勝連側の南風原と与那城側の西原。与那城間切は西原から平田、さらに与那城と間切名が変更される。それと1676年に分割しからの歴史も330年余。平成の合併で「うるま市」となる。そのような歴史の変遷を辿る勝連半島。どのような文化が形成され、あるいは失ってしまったか。さて、どんな結末の講義になるか。





【勝連グスクの御嶽】(『琉球国由来記』より)
 城内玉ノミウヂ嶽 神名:コバヅカサノ御イベ (南風原村)
 城内肝タカノ嶽 神名:イシヅカサノ御イベ (南風原村)
 ・勝連嶽 神名:マネヅカサノ嶽イベ (南風原村) 
 コト瀬嶽 神名:マネヅカサノ御イベ (南風原村)
 ・ナカイズカサ嶽 神名:マネヅカサ御イベ (南風原村)
 ・マツダ嶽 神名:マネヅカサノ御イベ (南風原村)
 殿(勝連城之内) (南風原村)
 南風原巫火神 (南風原村)

 ・ウタキのイベ名は、植物のコバ(クバ)とマネ(マニ:クロツグ)、それとイシ(石)に因んだ名称。
 ・勝連城内の「殿」は火神を祀ってある場所とみてよいい。
 ・玉ノミウヂ嶽と肝タカノ嶽は特定されている。
 ・南風原巫火神(ノロ家)は集落移動と同時に南風原村内に移動(現在地)
 ・故地のノロ家は、祝女カーがあるので、その近くにノロ家はあったであろう。
 ・コト瀬嶽は浜川の海岸近くにあり、「くとし御嶽」とみられる。
 ・勝連嶽とナカイズカサ嶽とマツダ嶽は特定できているのかな?
  (◎は特定されている。詳細の調査確認が必要。すでに特定されているであろうが)


参考文献


2011年5月28日(金)

 沖縄県地域史協議会の総会と研修会、そして「琉球・沖縄の地域史研究」(沖縄県地域史協議会30周年)の発刊の祝賀会に参加する。沖縄県地域史協議会と20数年の関わりが、代表を勤めたこともある。地域史との関わりは、これからも続く。

 研修会の午前中は、―戦前の那覇市街地を廻る―ということで那覇港周辺の案内があった。先日訪ねたタイ(シャム)国のバンコクやアユタヤの港市と大交易時代(15〜16世紀)の那覇港とを重ねながらの巡見であった(有り難かったです。感謝)。久茂地川(旭橋〜久茂地橋)一帯はタイ国のバンコクとよく似た街の展開(現在)をしている。「那覇読史地図」(明治初期)が配られたので15〜16世紀の大交易時代の琉球の那覇港付近の様子、そして先日訪れたタイ国のアユタヤ王朝時代の港市アユタヤの風景を彷彿させるに十分である。巡見の後、「那覇の成立・発展―それは浮島から始まった―」の田名氏の公講演があったので、なお理解を深めることができた(感謝)。

 @御物城 A三重城 B屋良座森城 Cスラ場(造船跡) D硫黄城跡 E東町市場跡 
 F仲毛跡 G旭橋と旭町 H中島の大石 I泉崎町 J泉崎橋跡 K孔子廟跡 L大門跡
 M天使舘 N親見世跡 O薩摩藩在番所 


        ▲御物城                  ▲かつてのスラ場(造船所)跡


 ▲「沖宮拝所跡」とある(港内)         ▲硫黄城跡地


   ▲久茂地川(旭橋を渡る)          ▲バスターミナルにある「大石」


        ▲現在の泉崎橋                    ▲現在の泉崎交差点

2011年5月26日(木)

 数年前、マレーシアまで行く。今回はタイ(バンコクと周辺、それとアユタヤ)まで。琉球国の大交易時代。タイ王朝のクメール(アンコール)王朝→スコータイ王朝→ラーンナータイ国→アユタヤー王朝→バンコク(チャクリー)王朝とタイ王国の歴史の流れを頭に叩き込みながら。  

 (工事中)

【バンコクと近郊】




   ▲チャオプラヤー川から眺めたワット・アルン






▲木の根に挟まった仏像の顔 




     ▲ダムヌン・サドアク(水上マーケット)        ▲水上を走る小舟(サンパン)

【アユタヤと日本人村跡】







2011年5月25日(水)

 沖永良部島の知名町の小学生がやってきた(49名)。先日は和泊町、今日は知名町。昨日大学で沖永良部島の講義をしたばかりなので、知名町と北山(琉球国)との関係の話をする。

 これから「諸志誌」の編集会がある。「もくじ」で進捗状況の報告。それから「地名」と「方言」の聞き取り調査。特に、小動物と植物の方言呼称と、それとまつわる話をきくことに。

 動物・植物などを画像(画像一覧は豊口氏作成)で示して字(アザ)の皆さんに方言音で.。それと動植物にまつわる話を引き出していく(詳細のまとめは「諸志の動植物の呼称」として『諸志誌』へ収録)。

 動植物の方言音の調査であるが、諸志の方言(イントネーション)の特徴(今帰仁村西部方言)がよく出てくる。語尾が伸びることと、後ろ上りとなる特徴が見られる。
 今帰仁村の西側ではハサーギ、東側ではアサギ。セミのことを西側ではハササー、東側ではアササなど、語のいくつかで語頭のハとアの対応が見られる(hの脱落か、あるいは?のh化か)。(言語を専門としていないので表現が難しいノー)





2011年5月24日(火)

 
(タイ国:バンコクからアユタヤーあたりまで行く。近々報告することに)

 沖永良部島(和泊町、知名町)のムラ・シマをテーマで講義(6回目)。1609年以前の山原的なもの、あるいは琉球的なものを確認していく調査である。地名、城(グスク)の付く村名、御墓(ウッファは御墓のこと)、シニグロードは北山?の一族の島への経路を示しているのかも(西郷隆盛が伊延湊に上陸し、和泊へ移動。上陸記念碑あり)。カー(湧泉)は沖之永良部島はゴー。御墓はウファ(ohaka→ufa)、入れ墨、シニグの分布など興味深いことが数多く見出すことができる。






2011年5月18日(水)

     
5月23日までお休みします!

 沖永良部の和泊町の小学生達(79名)がやってきました。天気がよく今帰仁グスクから、沖永良部島の手前の与論島は見えたようだ。沖永良部島と琉球(北山)との関わりについて。来週は沖永良部島の知名町から60名がやってくる。これから知名町のムラ・シマについて整理することに。沖永良部島の二つの町について思い出していくので、来週の大学の講義を「沖永良部島のムラ・シマ」にすることに。

 和泊の生徒を相手にグスクから出土した遺物を前に、沖永良部島と北山(琉球)との関係。沖永良部島の和泊町畦布に「ぬるばんとうの力石、知っている人?」 「ぬる(ノロ)は沖縄と密接な関わりがあるのですよ。近くの森さんのところに貴重なノロ関係の品々が大事に保存していますよ」。1609年以前の奄美と琉球などなど。


   ▲「ジュゴンのサイコロの目は・・・・」      ▲今帰仁グスクの場所はどこにあるでしょうか?

2011年5月17日(火)

【沖永良部島和泊町】

 沖永良部島(和泊町)の小学生達(和泊・大城・内城・国頭)がやってきます。和泊町の大字名から整理しましょう。知名町からは来週やってきます(60名)。調査ノートを引っ張りださないとチンプンカンプン。

  @和泊(わどまり) A手々知名(てでちな) B上手々知名(うえてでちな) C喜美留(きびる) 
  D国頭(くにがみ) E西原(にしばる) F出花(でぎ) G伊延(いのべ) H畦布(あぜふ) I和(わ) 
  J根折(ねおり) K瀬名(せな) L永嶺(ながみね) M仁志(にし) N谷山(たにやま) O後蘭(ごらん)
  P内城(うちじろ) Q大城(おおじろ) R古里(ふるさと) S皆川(みなかわ) 21玉城(たまじろ)

 畦布(あざふ)にはトゥール墓や森家のノロ関係遺品、根折(ねおり)のヌルバントゥ、皆川(みなかわ)のシニグロードなどを思い出しましょう。内城(うちじろ)の世の主城跡やウファ(世之主の墓)なども。沖永良部島はまだ整理していませんね。




    ▲ぬるばんとうの力石(畦布)        ▲森家の遺品の一部(畦布)

【伊平屋・伊是名島】(大学講義)
 
学生達を「伊平屋島と伊是名島」に連れていきましょうかね。沖縄本島北部と共通するもの、あるいは異なるものを探してみましょう。両島の歴史がどう反映しているのか。地理的に沖縄本島北部(山原)であるが島尻郡、もう一方で首里王府と密接な関わりのある島。それが島の歴史や文化、そして生活習慣や島の人々の意識にどう反映しているのか。確かめてみましょう。






    (工事中)

「大城仁屋元祖行成之次第」(勢理客村大城仁屋:島袋源七文庫、琉大)に、
  一、同弐拾六年(1846)午五月阿蘭陀船三艘当津口来差之時諸奉行所御宿拵構被候付首尾
    能相勤置申候
  一、同年運天湊御見分之時御奉行様


2011年5月14日(土)

 「大学での講義」(2本)と歴文の「山原のムラ・シマ講座」を済ませ一段落。とは言っても来週の講義がやってくる。これまで四回の講義を片づける。それとは別に「琉球・沖縄の歴史」(上・下)の二本がこなす。以下の四回は済ませたのでその確認から。次回はどこにしましょうかね? 頭の中を空っぽにしてから。
 
  @今帰仁のムラ・シマ(古宇利島)   A本部のムラ・シマ(瀬底島) 
  B名護湾岸のムラ・シマ(屋部・安和) C国頭のムラ・シマ(比地・奥間)

 歴史文化センターの県年度最初の「山原のムラ・シマ講座」は名護市我部(松田が統合)、それと今帰仁村側の湧川と天底の一部。それらのムラ・シマを扱ったのは、方切(間切境界の変更)と移動村、そして新設村がテーマである。何度も触れているが、村が移動する、させられた理由。移動先でウタキを創設し、祭祀を行わなければならない理由。村が移動してもノロが管轄する村の変更はなし。また、故地に遺しているもの何か?そのようなテーマを持っての調査である(その詳細については、別で報告する)。
 
 ワルミ大橋・ワルミ海峡・ウタキ・神アサギ・アサギミャー・ウチガミヤー・ヌルヤー・平松の跡碑・ガンヤー・オランダ墓碑・石切り場などの確認など。お疲れ様でした。

 我部の平松之趾碑の前で、仲嶺氏と山内氏が「ようてい節」を謡ってくれました。また、山内氏が即興でウタ(琉歌)を作詞してくれました。碑には以下の歌詞が彫られている。

     朝凪夕とり  やがち漕じ 渡て 我部の平松に 想い残ち


   ▲平松の歌詞をようてい節で・・・       ▲両氏の哀愁漂うウタに拍手パチパチパチ・・・


2011年5月12日(木)

 いくつもの編集作業で、多忙中!

 「琉球・沖縄の歴史―近世〜現代」、近世から現代まで一気に。通史を右に置きながら和題を提供していくことにする。前回提出してもらった170名のレポートに目を通し、学生達の反応や質問や疑問に応えることから始める。

 「沖縄の歴史」にはじめて触れる学生から、沖縄の歴史を日常の生活で必要とする一般の方々まで様々である。奄美諸島まで琉球国の領域だったことに驚いた学生が目立った。それとノロが王府から辞令書をたまわっていた公務員だったこと。グスクが300近いあることにも。グスクにも様々のタイプがあること気づいたなどなど・・・興味深い反応や質問も多い。さて、明日の講義はどうなることやら!これから頭の整理でもしましょうかね。




2011年5月10日(火)

 国頭村比地と奥間を中心に講義を行う。前回(名護湾岸のムラ・シマ)に対しての意見や疑問、また質問に答えることから。今日は「国頭村のムラ・シマ」(20字)を代表して国頭村比地と奥間について。奥間の綱引きは参加した玉城菜美路(歴文職員)に丁寧に説明してもらう。



 それが、終ると抜けの殻。さっそく次のテーマに頭の切り替え。「琉球・沖縄の歴史」(下)のレジメの作成へ。薩摩の琉球侵攻から・・・

2011年5月9日(月)

 国頭村比地と屋我地島(運天原)のオランダ墓までゆく。「琉球・沖縄の歴史」(下)の準備。それと「山原のムラ・シマ講座」の下見で湧川(我部と松田の故地)と移動地(屋我地島)の我部・松田の確認。

 近世から明治・昭和までの流れ。烽火制(遠見台)やバジル・ホールやペリーの来航、明治に訪れた先人達の記録や港、あるいは宿道(番所)などを通して歴史を素描していく。運天原のオランダ墓や国頭村比地の「国頭王子 政秀」などの石燈籠の銘を通してみていく。

 比地の石燈籠の「国頭王子 正秀」と判読できる。国頭王子 正秀は、1846年フランス艦船が運天港に来航したとき総理官(代理)としてセシーユ堤督と会見した人物である。運天原のオランダ墓と関わった人物か。石燈籠は道光29年(1849)である。そのあたり、丁寧に整理することに。


    ▲オランダ墓(1846年)の碑          ▲道光29年の「国頭王子正秀」寄進の石燈籠

2011年5月7日(土)

 来週火曜日の大学の講義は「国頭村のムラ・シマ」をテーマとする。国頭村の奥間と比地を中心とした話題とする。来週は火・金・土と三本の講座あり。二本の講座の準備オッケー。

 奥は国頭間切の番所があった村。番所は浜から移ってくるが、奥間加治屋(オクマカンジャヤー、カニマン)、尚円王と関わる伝承を持ち、それと番所があったことで他の村とは異なった文化を持っている。

 もう一つの比地は小玉杜(ウタキ)に古代の集落形態が今に受け継がれている。集落発生の原初的な姿を小玉杜の内部でのウンジャミや杜の斜面の屋敷跡に見ることができる。かつての山原のムラ・シマの集落を復元した形で見せることができる村(ムラ)である。

 国頭村の20のムラ・シマの確認と、奥間と比地の二つのムラに国頭地方の文化を代表してもらうことにしましょう。二つのムラをまとめて話すので、どんな展開になるかわかりません。お楽しみに!





2011年5月6日(金)

移動村の呉我村と桃原村
(現在名護市)
 「羽地村誌資料」(宮城真治)に「本琉球内羽地間切呉我桃原二ヶ村人数改帳」が記されている。昭和10年頃の調査ノートである。ここに「二ヶ村人数改帳」をここにあげたのは、1736年に呉我・振慶名・我部・松田・桃原の五ヶ村が羽地間切の内部、屋我地島に移動させられる。呉我・振慶名・我部・松田の四ヶ村の移動先ははっきりしている。ところが、桃原村はどこに移動したのかはっきりしていない。宮城真治が昭和10年代に呉我事務所に以下の10冊の帳簿があったと記してある。「本琉球内羽地間切呉我桃原二ヶ村人数改帳」は、以下の12冊があげられている。

  @享和(1801年) A文化十二年(1815年) B文政七年(1824年) 
  C道光十一年(1831年) D天保九年(1838年) E安政六年(1859年)
  F慶応二年(1866年) G明治三年(1870年) H同治十一年(1872年)
  I光緒二年(1876年) J明治10年(1883年) K享保元年?(1716年)

 その帳簿の中身については不明であるが、タイトルが「呉我桃原二ヶ村人数改帳」とあることに注目している。桃原村が呉我村と隣接してあったことを示している。宮城は西が呉我村で東が桃原と想定している。それと桃原村の神アシヤは東方、呉我村の神アシアゲは字の中央にあるとされる。宮城は「桃原あしあげは字の東部、桃原あたいにあり」と記してある。一般的に「あたい」は集落の中央部に位置し、「桃原あたい」や「あたい原」があれば、そこは桃原村の集落の中心地であった可能性が高い。呉我村が移動してきた場所は我部祖河村の地であったことも注意してみていく必要がある。

 今帰仁村湧川と名護市呉我との間にマリーという地名がある。宮城はマリーは「まれ原」のことで「廻り道をしていくの廻り原」だという。湧川方面からはマリーはマリ(毬)の形をしているからだという。マリーは廻り道から名付けられたと見た方がよさそうである。

 大学で170名を対象に「沖縄・琉球の歴史」(上)の話。


      ▲名護市呉我の現在の集落            ▲神殿と拝殿(呉我の神アサギ)


 ▲村移動記念碑(移動200年と250年)   ▲移動地に設けたウタキのイベ

2011年5月5日(木)

 『琉球・沖縄の歴史」(下)と「山原のムラ・シマ」講座のキーワードを見つけるため、ワルミ大橋と運天原(屋我地島)のオランダ墓、そして古宇利大橋の屋我地島側の橋詰めまでいく。ワルミ大橋の天底側の和呂目原に我部村のウタキがある(ワルミノテラ:イベ)。我部は1736年に現在の湧川地内から屋我地島側(対岸)へ移動したムラである。故地に何を遺してあるのか。そして移動地で何を造ったのか。

移動村の我部村
 我部村は1690年頃以前は今帰仁間切の村。今帰仁間切と羽地間切との間で方切(間切の境界線の変更)がなされ、呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村は今帰仁間切から羽地間切へ組み込まれる。1736年に5つの村を羽地間切の内部、屋我地島へ移動させ、その土地は今帰仁間切へ組み入れるという二度目の方切がなされた。そのような歴史を持つ我部村について、移動先と故地の関係をみると、祭祀が村の歴史に大きな影響を及ぼしていることがわかる。祭祀が民俗の世界でとらえることは当然であるが、もう一方で歴史で扱うことも重要である。

【我部村の故地の拝所】(現在湧川と天底地内)


▲我部の故地のウタキのイベ(ティラ)   ▲故地に遺されたフルガー    ▲塩づくりのスヤーウタキ  

【我部と松田の移動地の拝所】(屋我地島:羽地間切、現在名護市)


▲我部の移動地のウタキ(後方の杜)     ▲ハミヤーと我部の神アサギ   ▲下の神アサギ(松田)

【琉球・沖縄の歴史(上)
 「琉球・沖縄の歴史」(上)の講義のレジメの準備オッケーなり。これまで15回でやっていたのを2回でやることに。それなりに「まとめ」ることにしましょう。今回は先史時代から古琉球の時代(中世)まで。40余の場面を設定したので1ページ、2、3分で。さて、どうなることやら!









※主な参考文献
    ・『沖縄の歴史地図』(考古・歴史)柏書房
    ・「琉球・沖縄の歴史」 新城俊昭著(むぎ社)
    ・「なきじん研究」1〜17号(今帰仁村歴史文化センター)
    ・「名護市史」
    ・「琉球王国の歴史」(月刊沖縄社)
    ・「首里城物語」
    ・博物館展示ガイド(沖縄県立博物館)