歴史文化センターの調査記録 
          (2011年9月)         
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調査記録(2010年4月)                          (館長:仲原 弘哲)
調査記録(2010年5月)へ   ・天底のタキヌウガン調査

調査記録(2010年6月)へ   ・山原のムラ・シマ講座へ
 平成22年度学芸員実習 北山系統の一族のムラと一門
調査記録(2010年7月)へ   ・企画展―山原のムラ・シマ― ゆらゆら日記1へ  ゆらゆら日記2へ(9月~)
調査記録(2010年8月)へ   ・調査記録(2010年11月)へ  ・2011年の桜の開花状況
調査記録(2010年9月)へ   ・調査記録(2010年12月)へ ・23年度学芸員(博物館)実習
調査記録(2010年10月)へ  ・調査記録(2011年01月)へ ・調査記録(2011年2月)へ 中城ノロが関わる祭祀
調査記録(2011年03月
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・調査記録(2011年10月)

2011年9月29日(木)

 近世初期、島尻(沖縄本島南部)に島尻大里間切と島添大里間切がある。両大里間切の主村となる村名が間切名と同名ではない。何故なのか、そのことに興味がある。両大里間切に南山の要になった城(グスク)が並存してあった時代があった可能性がある。『明実録』で山南王承察度の時、もう一人の山南王叔汪英紫が登場する。南部地域が島尻と島添に分かれる勢力があったことを示しているのであろう。島尻域の拠点となったのが島尻大里城(現高嶺城)、もう一方の拠点が島添大里城(現大里城)であった時代があり、そのことが後に間切の行政区分がなされた時、同名の大里城(村:間切)に島尻と島添をつけて区分する必要があったのではないか。

 二つの大里城とその城を抱えた村(ムラ)との関わりで・・・。


【ノロ相続の手続きの例】
 
『琉球宗教史の研究』(鳥越憲三郎箸:291頁)に高嶺間切大里村の大村渠ノロの相続についての文書を掲げてある。咸豊十年(1860)のものである。
    咸豊拾年庚申六月仕立写之
    大村渠のろ拝所並拝人数西立日記
    高嶺間切大里村西銘


  
口 上 覚
          高嶺間切屋古村
              故ノロ姪
        当歳二十七
    右者恐多御座候得共申上候大村渠のろ事道光元年巳五月のろ被仰付難有相勤来候処
    亥四月廿九日相果申候右うし跡のろ被仰付被下度奉願候此旨宜様被仰付可被下儀
    奉願候以上
         申六月
               親類中
               掟 頭
    右之通人柄相応之者御座候間願出之通被仰付被下度奉存候以上
         申六月  捌理中
               地頭代
    右通相違無御座候間願之通被仰付被下度奉存候以上
               検者下知役
    右申出之通様届相違無御座候間願之通被仰付被下度奉存候以上
               両惣地頭  

        

2011年9月28日(水)

 午前中、古宇利小学校の生徒達がやってきました(担当:新垣綾子先生)。それぞれが以下のテーマを持っての「ふるさと学習」です。職員(仲原・石野・菜美路)が手分けをして、テーマに沿って「まとめ」「発表」まで手助け。一人ひとり、足が地についたまとめと報告をしてくれました。スケッチも、お見事!

  ・古宇利島の海、ウミンチュ(漁師)の歴史・昔の漁法(山川 昭 6年)
  ・古宇利島の戦争について(與那嶺 考輝 6年)
  ・ウンジャミについて(平田 光:6年)
  ・古宇利の農業について―島で収穫される農作物(宮城 海 6年)
  ・古宇利小の歴史―設立・戦後の学校・児童生徒の様子など(小波津 菜々 6年)
  ・古宇利島の農業につて―農家の工夫・苦労・台風対策など(金城 怜菜 5年)
  ・古宇利島の年中行事について(松田 ドナ 5年)
  ・古宇利島探検 地域マップ (小波津 杏樹 4年)

  

2011年9月27日(火)

 講義スタートです。「伊是名島のムラ・シマ」からです。
  はじめに―地域文化をみる視点
  1.伊是名島のムラ(字)
  2.伊是名島のムラの位置図
  3.沖縄の歴史の概要(伊是名島(伊平屋島含む)は沖縄の歴史と切り離せません)
  4.島の火立所と雨乞う場所(アーガ山)
  5.伊是名島の史料
  6.首里王府の神女組織と伊平屋阿母かなし/二かや田の阿母(玉城家と伊礼家)

 以下の文章で「まとめ」としました。

 本島の北部に伊是名島と伊平屋島があります。地理的には沖縄本島の北部に位置し、昭和14年までは両島で伊平屋村(ソン)でした。同年伊平屋村と伊是名村に分かれ現在に至っています。明治29年郡区制が敷かれたとき、伊平屋村は島尻郡区に組み込まれました。山原(国頭郡)に位置しながら、島尻郡です。そのため伊是名・伊平屋は山原ではないですかの声が聞かれます。

 1469年金丸(尚円王)が第二尚氏を擁立すると、生誕地である伊是名に尚円王は叔父の真三良(銘苅殿内)、叔母の真世仁金を伊平屋阿母加那志として派遣します。伊平屋(伊是名)阿母加那志(御殿家)の娘2人に「二カヤ田の阿母」(北・南風の二家)の神職を継がせました。首里王府は四殿内を介して首里化し、中央文化を注ぎ込んでいきます。伊是名島に住む人々は「沖縄の歴史」の要(かなめ)となった尚王氏へ傾倒していきます。首里王府の伊平屋(伊是名含む)への対応は王府の直轄地と言えそうです。

1490年代、山原(北山)に第二尚氏王統の監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵按司(神職)を派遣し、今帰仁グスクに常駐させます。1665年今帰仁按司家の七世従憲の時、首里への引き揚げが許されました。その時期の監守と今帰仁阿応理恵の一族の首里引上げは、山原を十分に首里化できなかったと考えています。伊是名の四殿内は、首里に引き揚げることなく継承されました。近世に伊是名玉御殿(墓)をつくり、清明祭や亀甲墓が導入し、首里化が積極的に図られていきます(銘刈家を向氏の士族に参入させます)。


 言語を見ると「伊是名島の方言は基層部では北部方言に通じるが、中南部方言の影響を強く受けている」(「図説琉球方言辞典」中本正智)といい、人々の言葉は首里方言へとなびいています。神アサギの建物の構造や伊是名グスクの拝所(ナー)でのウンジャミやシヌグは沖縄本島北部と共通し、山原的な要素が根強くあります。しかし、一方では首里王府の祭祀や習俗が前面に出てきます。

 このように島に遺された歴史や文化財などをひもといていくと、伊是名・伊平屋は山原?の疑問を解いていけそうです。伊是名島に行ってみましょう。


 

【恩納間切恩納村の嶽と殿の特定】
 恩納間切恩納村の嶽と殿を『琉球国由来記』(1713年)と『沖縄島諸祭神祝女類別表』(田代安定撰禄)を手掛かりに特定することができそうである。

【琉球国由来記】(恩納間切恩納村)
  (各処祭祀)
    ・ヤウノ嶽(三御前:神名、ツミタテノイベナヌシ、神名、オロシワノイベナヌシ、
         神名、アフヒギノイベナヌシ)
    ・浜崎嶽(神名、ヨリアゲノイベナヌシ)

  (各処祭祀)
    ・城内之殿→恩納グスク(ヤウノ嶽)内の殿
    ・カネクノ殿→東の御嶽(ウガン):浜崎嶽内の祠

【沖縄島諸祭神祝女類別表】(明治17年頃)
    ・神アサギ一ヶ所 ・ヤウノ御嶽 ・仏ノ前御嶽 ・ノロ殿内火ノ神所一ヶ所 ・東ノ御嶽

【ヤウノ嶽―恩納グスク(御嶽)―三御前がイベ】
 城内之殿は恩納グスク内にある殿(祠)は問題なく特定できる。そこに両惣地頭やノロが関わる。恩納間切同村で、両惣地頭が関わるのは間切の中心となるグスクなので恩納グスク。殿やイビは御嶽やグスク内に置かれるもので、城内の殿と別に御嶽のイビがあってよさそうである。ヤウノ御嶽は恩納グスクと想定してよさそうである。
  仲松氏は「グスクの頂きには岩丘があり、・・・石垣にかこまれた面積約五坪の蹄形型の施設があった」(恩納村誌:566頁)とある。そこが恩納御嶽(グスク)、つまりヤウノ嶽のイベ(三御前)である。仲松氏はヨウヌ嶽を海上のヨウ島を充てるが、そこは仏の前御嶽とみた方がいい。

【浜崎嶽―東ノ御嶽(ウガン)―カネクノ殿】
 恩納村役所の後ろにウガミと呼ばれる森がある。その麓はフルジマ、そして一帯はカニクである。ウガミは東ノ御嶽で、ウガミ(東の御嶽)を「由来記」の浜崎嶽と想定すると、そこにある祠がカネクの殿である。

【仏の前御嶽―ヨウ島か】


2011年9月26日(月)

 第5回目の「山原のムラ・シマ講座」(10月8日:土)の下見で「恩納村恩納」へ。①恩納グスク(ヤウノ御嶽) ②浜崎嶽(東の御嶽) ③恩納番所跡 ④恩納松下の歌碑 ⑤恩納ノロドゥンチ ⑥恩納神アサギ ⑦根神火神? ⑧恩納ナビ生誕地 ⑨カンジャヤーガー ⑩歌人恩納奈辺記念碑 ⑪万座毛 をまわります。恩納間切の恩納村、そこにどんな歴史が展開されたのか?

  

  

【大学の講義開始】
 明日から大学の講座が始まる。後期の1回目なので「沖縄の地域文化をみる視点」をテーマとする。後期15回のシラバスを知らせることから。一回目はフェリーで「伊是名島のムラ・シマ」へ。どんな「まとめ」にしようか。学生の反応をみながら・・・。






2011年9月24日(土)

【南城市大里城】
(旧大里村大里:西原)
 『大里村史』(資料編)に「大里城主代々ノ位牌」と「按司墓」についての記事がある。位牌は、まず「
嘉慶二十五年庚辰二月仕替之」ているが、後に再び仕立替えられている(戦後か)。

【大里城主代々ノ位牌】
(「沖縄県史編纂上参考資料」)
 西原ノロ殿内にあり。首里、那覇は勿論、諸方々より参詣せるもの多し。仝のろは附近のろの惣領ともいうべく、御祭の際用ふる曲玉、貫玉等あり。位牌写し左の如し(現在のものを記)。   
   今帰仁按司 
    但大里世之主父也
    舜天王御母親
     但大里按司御妹也
      母之業自此始也
     大里奴司
   大里大君 
   大里世之主
    南山王
   察度王 
   武寧王 
    大里按司 
    大里大安茂志 
   大里法茂志多礼 
       諸御奉公人
    一、爬龍舟壱隻   
    一、五穀種子
    一、茶鄭林梁金五姓
   右察度王御世自唐賜□
   誠感後世之子孫無怠致是
   乃至後世不混雑故也若反□□
   其科者也
     
   惣円様 
   熱田親雲上 
   寒水川親方 
   奴司数中
  嘉慶二十五年庚辰二月仕替之
  ○○丙旧○○○御仕立


【按司墓】
 城ノ西北隅ノ絶壁ノ岩ヲ穿テリ。先年地震ノ際破壊サレタルヲ修理セシトキハ墓中ヲ見シ人ノ話ニ依レバ按司及国吉屋ナドノ骨ハ
 丈夫ナル焼物ノ「たらじーし」ニ収メラレ、其ノ他ノ骨ハ整理シテ安置セリト、先年九十九才ノ高齢ヲ以テ死シタル字西原ノ一婆ノ話
 ニ依レバ現在ノ墓ハ近頃移転シタルモノニシテ以前ハ他ノ場所ニ見スボラシキ古墓、木製ノ棺に葬ムラレアリシト移転ノ際丈夫ナル
 ノ焼物ニ収メソノ木棺ノ書写サレタル部分ハ「じーし」ノ側ニ置ケリト云う。

 

 

 



南城市(旧大里村)西原ノロの勾玉(『大里村史資料編』より)




2011年9月22日(木)

 先日、糸満市にある南山城(高嶺城・島尻大里城)と南城市の大里城までゆく。島尻地方の各グスクがどのような関係にあったのか気になる。特に南山には島尻大里城と島添大里城があったといい、その関係の歴史は混迷しているようである。南山の時代まで遡って述べることはできないが、『琉球国由来記』(1713年)のころ、首里王府は二つのグスクをどう見ていたのか。またグスクと関わる一族達が両グスクに何を遺しているのか。その視点で整理してみる。

 その一つに南山城(高嶺城)内に銘が判読できる二つの香炉がある。一つは「奉寄進 同治九年か 今帰仁□□」と「奉寄進 同治六年か 具志川王子」である。今帰仁□□と具志川王子なる人物は何者か。もちろん南山城が機能していた時代の香炉ではないが、後世に何ゆえ香炉に銘を記して寄進したのか。

 もう一点は南山城と同城と関わる集落が気になる。大正4年に納骨堂を造った時に、「大村渠方」と「山川方」は二つのムラの草分け的人物を葬った観念が見られる。それらも念頭に入れながら南山の歴史を素描してみるのも面白い。大学の後期の講義の「島尻のムラ・シマ」は「島尻の二つのグスクとムラ」をテーマとするか・・・。

 

  
 ▲昭和2年に「南山神社」を造営      ▲大正4年に「納骨堂」を造営      ▲大正11年建立の「南山城祉」碑


     ▲「今帰仁□□」とある香炉           ▲「具志川王子」とある香炉

【南山城】メモ
(新城徳祐氏ノート)
 ・高嶺村大里の南方凡そ百米の岡で凡そ五千坪位、現在城内に高嶺小学校有り。
 ・大正四年十月吉日城地を整理し、新しく石垣を積み散乱した骨を集めて納骨堂を造った。
 ・昭和二年に南山神社を造営す。
 ・南山は代々大里按司按司の居城であったが、尚巴志に滅ぼされ以来廃墟と化した。
 (森氏の話:古城で一部石垣(昔のまま)が残っているし、史実もあるので指定した方がよい)


2011年9月21日(水)

 これから『諸志誌』の編集会議なり。テーマは諸志の移民。どんな話が聞けるが楽しみ!レジュメの準備オッケー。しかし、どんな話にするかは一夜づけ。参加者の声を反映させるつもり。なかなか多忙です・・・。

 移民をされた玉城貞二氏も編集会議に出席されていました。

    (工事中)


     ▲諸志の編集会議(移民編)         ▲玉城禎二氏提供の青年団の写真(1948年)


 ▲移民を体験された玉城貞二氏の家族(1975年頃)       ▲諸志の移民をされた方々の家族紹介


2011年9月17日(土)

 今では行われていない祭祀がある。時々、祭祀場や祭祀に、かつてのムラ・シマの姿や歴史を留めていると言うようになっている。そのことを裏付ける場面にいくつもであう。今年の今泊の大折目(海神祭)と旧8月10日と11日の祭祀を見る機会があった。そこで、消えてしまった祭祀と変貌していく祭祀を比較するため「新城徳祐ノート」(1955年)から書き出してみた。

 今帰仁村今泊で『琉球国由来記』(1713年)で大折目(海神祭)と呼ばれる祭祀がある。それは旧暦7月最後の亥の日の前日に行われるウーニフジ(御船漕ぎ)、亥の日のグスクウイミ、そして子の日のシマウイミのことである。シマウイミは親泊ハサギと今帰仁ハサギでのウガンがなされる。その時、神ハサギの中での舞いがあった(ウシデークか)。

【消滅した今泊のトントトン】
(シマウイミの日)
 シマウイミの日、男衆はシニグンニでウガンをして村(集落)へ入る。その時、通り道(現公民館の西側)にある家の清掃された家の上座から台所を通り、棒を地に突き鳴らしながら魔除けをする。その神人をトントトン神という。その時の男の神人のみである。神人は島の大役(シマヌウフヤク:石嶺門中)、川田の大役(ハータヌウフヤク:仲宗根門中)、各門中の代表者一人づつが、その後に従う。

【旧暦8月10日の折目】
 神人を拝んで各門中は帰る。その日は神人の慰労感謝の日か。

【旧暦8月11日】(柴差か)
 かつては親川で牛を一頭を堵殺して各家庭へ一斤づつ分配する。
 神人は今帰仁ハサギを先にウガンをして親泊ハサギへ。それから公民館の後方(東よりにある)小堀(クムイ:池)に行って手足を洗って神衣装を脱いで直会をする。翌日ウッチハタイで直会をする。
(その池は大名屋の間の側)

【テラでの祭祀(3月・6月)】(新城氏は新嘗祭とされる)
 志慶真川と長嶽川との間の畑にある麦を各畑から一束づつ刈りて親川の上にあるテラに供えて祈願する。その時にこの麦を刈りに行く時夜中にして人と合えばやり直す。人に合わないように親川まで行き、そこで夜を明かして刈りに出かける(ママ)。
 米は御初田があり(前田原にあり)、そこは二ヶ部落有である。(麦は脱穀して生といったものを献上する。米も同じ)。

 浜バラス(ウル)を三個づつ供える。テラにはイビが自然穴の中に安置されてある。それはある程度加工されて普通の石と異なる。これは香炉のような石である。シマ外から持ってきた石と思われる。


 ▲今でも残されているクムイ(小堀)     ▲10年前に獅獅小屋が置かれた「ウチハタイ

2011年9月16日(金)

【玉城のろ】
(今帰仁村玉城)
 「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年:今帰仁村字玉城)は玉城のろ(のろくもい)の継承に関わる文書である。そこから、ノロの継承や養子や他家に嫁いでいくが、それを元の血筋に戻そうと働きが見られる。ノロ地ではないが、玉城における神役地(ニブサジ畑)を区に返還する書類もある。昭和49年と50年である。玉城ノロの管轄村は『琉球国由来記』(1713年)から変わらず玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ字である。

   ・ノロの継承の様子
   ・ノロの継承は血筋でもっていこうとする
   ・ノロの在地はノロの名称と同名の村にあるべきとする
   ・そこに戻そうとする理念が働いている
   ・ノロ殿内をカネイ神社(ノロ神社)としている(それは座間味島でも見られる)。
   ・玉城ノロは玉城村内にあるべとの理念がある
   ・ノロに神社を掌握させる
   ・それらの書類の提出は親類中の連書が必要

 
    ▲玉城の杜にあるノロドゥンチ           ▲玉城野呂(ノロ)位牌


               ▲ノロと関わる文書(
「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年)

 玉城村ノカネイ跡職願い之儀ニ付理由書

 今般玉城ノカネイ職願之義ニ付理由

 奉陳述抑々玉城ノカネイ職タルヤ先々

 我先祖へ御下命相成リ其の後代々吾ガ

 血統内ヨリ継承セシ所タリ然ルニ百百年

 前之事ハ口伝而己ニテ旧記等モ無之候ニ付

 先ツ中古我ガ六代ノ先祖ヨリ順次陳述仕候

  一、先祖武太平良(武太平良ハ六代先祖当)妹ウトへ継承シ

    談跡職ハ 

  ニ、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ二代ノ先祖ニ当)

    姉玉城村松田方へ婚嫁セシマカへ継承シ談跡職ハ 

  三、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ四代ノ先祖ニ当ル) 

     妹カナヘ継承シ談跡ハ 

  四、本家血統内ニ敬称スルベキ人物

   ナキニテ以テ不心得己ニ前記五代ノ先祖平良筑親

 雲上姉マカ婚嫁松□方ノ外孫与那嶺村内間

 方ヨリ松田方へ養女ニナリシナベへ仮ニ継承セ

 シメ談跡職ニ於テ尚ホ我ガ血統内ニ相当ノ

 人物ナキヲ以テ前職ナベ養妹即チ松田方養

 二女マツ(前職松田マツノコト)へ継承セシメタリ然ルニ其後チ

 談マツ在職中我ガ血統ニ相当ノ人物相出来

 候ニ付此際更代ヲ以テ血統ニ相当ノ人物相出来

 各村(玉城、平敷、謝名、仲宗根四ヶ村ヲ云)並松田マツ方申出候処

 種々協議ノ未遂ヒ跡職継承ノ事ニ別紙証

 携書並日記書之通相没シ去ル明治廿七年五月

 ヨリ跡職見習(俗ニ□据ト云フ)トシテ現ニ本職者同様

 相勤メ居候事ハ別紙関係村証明書ノ通リニ

 御座候且ツ談ノカネイ神社(ノロ殿内)ノ位置ハ古来

 玉城村境界ニ設置セラル慣例ナルヲ以テ従テ

 神職ノカネイ住家モ必ズ神社敷内ニ一定セラレシガ

 前職者松田マツハ後来自分ノ血統ヨリ継承セ

 ラザル理ヲ悟リ住家モ去ル明治三拾一年ニハ生家

 仲宗根村山城方引移シタルヲ以テ其跡私方

 ヨリ新ニ住家ヲ建テ談跡職ト定メタルツルヲ現

 住セシメ神社□管掌セシメ居候然ルニ前職故

 松田マツ方ニ於テハ談親類中ヨリ推挙セントノ考

 案ヨリ拙者ヨリ提出致候採用願ニ連書セザ

 ル次第ニ御座候間何前件ノ次第披□御

 洞察道ツルヘ御下命被成下度此段理由奉開陳候也

 

 明治三十五年  国頭郡今帰仁間切玉城村拾七番地

                      平良 幸通

            親戚仝郡仝間切仝村拾六番地

                     平良 幸誠

            仝上 仝郡仝間切仝村廿一番地

                     平良 幸佐

            仝上 仝郡仝間切仝村拾九番地

                     平良 幸貴

            仝上 仝郡仝間切仝村廿二番地

                     平良 幸宗 

【神地返還の証書】(昭和49、50年)
 

 

2011年9月15日(木)

 今帰仁中の職場体験学習は今日で終わり(ご苦労さんでした)。午前中、仲宗根のマチの展開として仲宗根を踏査。午後から企画展のタイトルを掲げ、「山原のノロドゥンチ(のろ家)」と「ノロと祭祀」のコーナーまで展示を進める。

 仲宗根はメガネ橋(名前がないようなのでみんなで命名)、ムラヤー(公民舘)、お宮(イベ)、ウタキ(グスクともいう)、神アサギ、仲宗根を琉歌碑、獅子小屋、ウタキから仲宗根の旧集落とマチ。マチの中の市場周辺を廻る。マチの至るところに50年前からの建物や市場の痕跡などが、まだ確認することができた。なかなか感動的な場所が残っている。

 
  ▲ノロと関わる文書(コピー)を手に       ▲山原のノロドゥンチ        ▲「ノロと祭祀」のコーナー    


2011年9月14日(水)

 一日企画展示作業をする。「ノロ制度の終焉」(仮題)の展示を進める。「間切」と各間切ののろ、沖縄本島と久米島、伊是名・伊平屋島、宮古・八重山まで。

     (工事中)


    ▲昨日の報告およびミーティング              ▲展示作業中


  ▲今日の展示作業は終り!                ▲展示の前で一日のまとめ中

2011年9月13日(火)

 中学生の2日目の職場体験。歴史文化センターの職員がどのような仕事をしているのか。その体験である。舘内の職員の業務、今帰仁グスクを案内される方々の働きなどを通して、受け身ではなく、そのような業務をこなしていく立場で職員の動きを見てもらう。昨日の報告は具体的で見たり聞いたりしたことを的確にまとめて報告してくれた。舘の職員の業務の中で重きを置いてあるのに、見たり聞いたりしたことを活字や画像などで知らしていくこと。報告してくれたことを、一歩進めて廻りに伝えていく役目を担っていることに気付いて欲しい。

 午前中、1日目の報告と今帰仁グスクと発掘現場まで。午後は玉城と仲宗根のレファレンス。その後現場まで足を運び、そのまとめまで(2日目の報告は明日)。


   ▲玉城の神アサギ。古い石柱を確認。          ▲寒水の神アサギ前で!

2011年9月12日(月)

 しばらくパソコンの故障で更新ができませんでした。これまでのは急ぎでメモ程度の報告にします。

 午後から中学生の職場体験。午前中は学芸員の石野さんが崎山。午後から今泊の集落内の調査。土曜日の「ムラ・シマ講座」は大雨で現場行は大分省略。中学生の職場体験で、そのコースの一部を廻る。職員の業務の一部を体験してもらうことにした。


                    ▲舘内で調査前のミーティング


      ▲今泊のハサギンクヮーで                ▲今泊のフプミチ(馬場跡)

2011年9月11日(日)


【今泊のかつての風景から集落の成り立ちを読み取る】

 戦前あるいは戦後の写真を扱う場合、写真は歴史資料であるとの認識で扱う場合が多い。写真の読み込みができる写真ほど歴史資料であると。その視点で200枚余の写真を手掛かりにして1時間近く話をする。夕方から今帰仁村湧川の路次楽の調査。8月下旬から9月の上旬まで調査が続いている。それと先日の与論島と沖永良部島調査の情報が頭の中で眠っている状態。

 パソコンの故障で、頭の中の整理ができずグニャグニャ状態。




【湧川の道ジュネー】
(棒術・奉納踊・路次楽・獅子舞)(メンピャー・獅子小屋前・舞台前の広場)

 

 


2011年9月10日(土)

 「山原のムラ・シマ講座」を開催する。スタート直後大雨にたたられ、大分省略をする。出発前のレクチャーで先日調査した今泊の大折目(海神祭)を流れに沿ってタマキが紹介する。雨の止むのが長引きそうなので、バスで通りながらの説明を石野がする。


       ▲舘内での説明           ▲今泊の今年の大折目(3日間の祭祀)


2011年9月8日(木)

 

【シマウイミ】

 旧暦8月11日(9月8日)に行われる。拝む場所はハサギンクヮー(今帰仁神ハサギ)とフプハサギ(親泊神ハサギ)、獅子小屋のあるウッチハタイでウガンをし、獅子はプミチ(大道:マーウィ)に出て、獅子舞と棒の舞がある。この日はヨーハビで、災難払いの日である。今年は豊年祭のシクミの日とシマウイミが重なっている。奉納踊と棒術が今帰仁ノロ家とオーレーウドゥン前で行われた。

 シマウイミのハサギンクヮーとフプハサギでのウガンは終っていたので画像はなし。

 

  

 ▲豊年祭の出演する獅獅   ▲オーレーウドゥンの庭での棒術の奉納   ▲同場所での奉納踊(かぎやで風)     


2011年9月7日(水)

 

【今泊のグスクウイミ】

 旧暦8月10日(9月7日)に行われる。行われる場所は今帰仁グスク内の神ハサギ跡である。参加者のノロ(代理)と区長、書記がでる。ノロは神衣装を持参していたが、雨が降り出したので羽織ることはしなかった。勾玉と簪の入った黒い箱を持参し(ノロドゥンチの仲尾次清治氏)、神ハサギ跡の香炉の向こう側に置いたウガンをした。拝む場所は城内の神ハサギ跡のみである。

 香炉の前にゴザを敷いて、そこでウガンをする。供えるものは線香と神酒(泡盛)であった。お菓子も準備してあった。そこでの祈りはムラや子孫の繁栄とユガフウ(世果報)である。

 

 
     ▲今帰仁グスク内でのウイミ         ▲今帰仁ノロの簪と勾玉と水晶玉

【城折目】(旧8月10日)今帰仁城【新城徳佑氏ノート】(1955.9.25)

 あまつぎの東(西)側にあさぎをしつらへ神人が座る。円座。

1.ノロ、供のかね、崎ムイ、神の三人があまつぎに向って拝礼、祈願す。
2.次いで三人とユムイ、クヌムイも加わり門中から新しく出た神人(これを新田元という)と共にそこで拝む。
3.それが済むと五人の神人(前述)が新田元を拝む。
  それはから神に仕える心構えと神人になった就任を祝うための儀式?それが済むと新田元は就任した喜び
  を神人の前に行って宜しく頼むと御馳走を捧げる。村人も各神人に餅、トーフを捧げて拝む。
  白衣装に白鉢巻(後ろに結ぶ)内二人は男、ノロ、供のかね以下三七人(現在二九人)。
  島の大役、川田の大役は田元拝みをする。
  花の真牛 比嘉カナ(80才)、兼次サンラ屋、しげま乙樽神(チッパ門中) 島袋ウシ(73才)
  ハンゼーク屋、マチペーチ屋、島袋キヨ(28才)チッパ屋
  尚来門中 6人(1人欠)
  上間門中 3人
  ハンゼーク門中 3人
  仲宗根門中 2人
  ナーフク、フグナ、比嘉各1人
  其の他、具志堅、辺名地、平敷等からもいる。



2011年9月5日(月)

 沖永良部島。シニグの島への導入の経路とノロの遺品の確認。

 

 

 

 

 

 

    ▲畦布のヌルバントウの石       ▲ノロ家とヒャー家と見られる森家(畦布)


201193日(土)

 

 与論島へ。4日与論島から沖永良部島へ。目的は与論島と沖永良部島ののシニグと海神祭と墓が中心。それと与論島の与論グスク麓の字城と字朝戸の集落の形態の確認(詳細について報告予定)。 

大字城と朝戸の集落と与論グスク。 

与論島の古い墓の確認をする。

 

  

 

 

 

 



2011年9月1日(木)
 
 企画展示の壁展示をスタ^-トさせている。まだ全体の像の配分の把握ができていない。昨日は今帰仁アオリヤエ、今日は今帰仁ノロと中城ノロ関係の一部まで。まだまだ、先が見えません・・・。


       ▲今帰仁ノロ関係の展示                   ▲中城ノロ関係の展示の一部

 今帰仁阿応理屋恵については「北山監守と今帰仁阿応理屋恵」(論文)としてまとめたことがあるので、それらを利用しましょうかね。