奄美大島の村々(1)

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 平成19年11月24日から16日まで奄美大島を訪れる。今回の目的地は加計呂麻島であるが、途中の集落も足を運ぶことに。奄美空港近くの和野(旧笠利町)と節田の集落を見て、浦上と大瀧(旧名瀬市)で車を降りてみる。そこから名瀬の市街は素通りして小宿(名瀬)から反時計回りに南西の方へ。24日は大和村今里で日が暮れる(宇検村と瀬戸内町は積み残し)

 集落から集落へは山越えや峠越えである。結構厳しい坂道や曲りくねている。集落と集落を繋いでいたのは、そのほとんどが舟であったことが予測できる。そういう時代の集落の成立ちはどうなのだろうか。沖縄本島の北部(山原)の集落の成立ちとどう違うのか。あるいは何が似ているのか。そのことを確かめたくて、各集落を踏査してみた。沖縄本島の北部(山原)地域の集落をみていく場合、集落内の神アサギを見つけ、そこから御嶽(ウタキ)を確認し、それを結ぶ軸線に沿った形で集落が形成される。奄美大島でも、そのような法則性を持っているか、あるいは別の形で集落が形成されているのか。

 一度や二度で集落名を覚えるのが精一杯である。ここでは公民館(・・・分館)と土俵やおがみ山の確認から。そこで鳥居のある神社(おがみ山:沖縄本島のウタキやグスクに相当するか?)と集落との関係をみる。まだ、十分な調査ができているわけではないが、集落移動の痕跡が非常に少ないのではないか。そんな印象をもっている。

 これまでの調査や研究成果に目を通していくが、どのような展開になるのか全く見通しは持っていない。すでに、奄美大島の集落をみるには、沖縄本島北部でみてきた「物差し」では当てはまらないことには気づいている。奄美の物差しを見つけ出せるか。楽しみである。

 取り急ぎ、集落名と現場が結びつくように、また混乱しないように画像を先に入れておくことに。をした集落は今回足を運んだところ。龍郷町と旧笠利町は今回は一部のみ。宇検村と瀬戸内町は積み残しが多いので再度挑戦することに!)

 『南島雑話』(名越左源太)に「村里」(1850年頃)が記されているので村を見ていく基本資料となるので掲げることにする。
  
名瀬方(12ヶ村)
     根瀬部村・知名瀬村・小宿村・佐念村・朝仁村・金久村・伊津部村・大熊村
     浦上村・有屋村・朝戸村・中勝村
  龍郷方(10ヶ村)
     有田村・芦花村(芦花部村)・阿木那村(阿木名村)・幾里村・嘉徳村・円村・龍郷村
     久場村
  笠利方(7ヶ村)
     屋仁村・佐仁村・用村・笠利村・手花部村・喜瀬村・湯湾村
  赤木名方(11ヶ村)
     辺留村・次野(須野)村・宇宿村・万屋村・節田村・和野村・平村・赤尾木村・芦徳村
     里村・赤木名村
  瀬名方(6ヶ村)
     浦村・大勝村・古里村・中勝村・貞(奥)間村・戸日(戸口)村

      (工事中)

    


         ▲重宝した奄美大島マップ(〇や□は今回踏査した集落)


【和 野】(旧笠利町)




【節 田】(旧笠利町)

 『正保国絵図』」(1644年)に「笠利間切之内 せつた村」とある。




【浦 上】(名瀬市)

 




【大 熊】(名瀬市)

 


【小 宿】(名瀬市)

 『正保国絵図』」(1644年)に「名瀬間切之内 小敷村」とある。






【知名瀬】

 
                                        ▲知根小学校
【根瀬部】(名瀬市)



 





【国 直】(大和村)

 平成19年3月15日奄美空港から名瀬市街を通り抜け、奄美大島の北側ルートで大和村、宇検村、そして瀬戸内町へと。各集落を踏査しながら大和村国直まできた。その日は土曜日ということもあってか国直公民館の広場小学生数人がかくれんぼをして遊んでいる。公民館広場の隅にあるガジマルの木に登っている小学生がいた。声をかけてみた。「あのなー、幽霊ではないが・・・」、すると「それ、ケンムンというよ」と返ってきた。「ケンムンというのか」と何故か感心してしまった。

 奄美空港から帰り際、「奄美、吐□喇の伝統と文化」(下野敏見著)を手にしていた。「加計呂麻島の妖怪伝承」のケンムンについて触れている。ケンムンはケノモノ(化の物、恠の物)で「ノロが琉球文化の所産であるのに対し、ケンムンは奄美固有のものであり」とあり、国直で小学生がさりげなくケンムンと答えたのに感心した理由がわかったような気にさせられた。

 



【湯湾釜】(大和村)

 『正保国絵図』」(1644年)に「焼内間切之内 ゆあんかま村」と登場。


  


【津名久】(大和村)

 


【思 勝】(大和村)




【大和浜】

 大和浜と関わる「屋喜内間切の屋喜内大屋子職補任辞令書」(『辞令書等古文書調査報告書』所収)古琉球の辞令書がある。隆慶六年(1572)発給の辞令書である。屋喜内間切は大和方と宇検方に分けられていて、後の大和村と宇検村の地域である。間切と同村名が屋喜内村はどこだろうか。現在の大和浜の一部だろうか。首里王府は屋喜内大屋子から大和浜の目差職を差し上げたというものである。当時、屋喜内村があれば、そこの大屋子職にあった人物が大和浜村の目差職に昇給?したということか。そうであれば、昇給するにあたって他の村(同間切内)へ配置替えがなされたとみることができる。

  志(し)よ里(り)の御ミ事
   屋(や)けうちまきりの
   屋(や)けうちの大やこハ
   一人やまとはまめさしに
   たまわり申(候)
  志(し)よ里(り)よりやまとはまめさしの方へまいる
 隆慶六年正月十八日

 薩摩の琉球侵攻の途中、3月12日ここ大和浜に着き逗留している。



【大 棚】(大和村)






【大金久】(大和村)

 


【戸 円】(大和村)


       ▲嶺山公園






【名 音】(大和村)
 



【志戸勘】(大和村)




【今 里】(大和村)