奄美のノロ制度(メモ書き)

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 奄美に首里王府発給の辞令書が残っている。そのすべてが古琉球(1609年以前)の辞令書である。1609年以後も発給された気配はあるが、今のところ確認されていない。それは1611年に与論島以北を薩摩に分割され、琉球的なものを政策として消し去っていった。1609年以後の辞令書が確認できないのは、薩摩の奄美諸島への政策が及んだことに起因しているのであろう。しかし、その隙間をぬって、あるいは薩摩に同化できない、政策を浸透させきれなかった一つがノロの問題ではなかったか。特にノロについては祭祀(信仰)と関わる。ノロを要とした祭祀を琉球国が認めてきた宗教であるとの視点でみると、奄美諸島で1611年以後いくつもの改革(薩摩化)を図ったが、ノロクメ(ノロ)が関わる祭祀は廃止することが今に至っても消し去ることができなかった。そのことは、沖縄における明治から現在に至るノロ制度の国の改革(宗教改革?)が今次大戦でうやむやになり、それが消え去ることなく現在に継承され続けていることと軌を一つではないか。奄美に関するノロクメ(ノロ)について、手を染めたばかりであるが、歴史をみていく上で重要なテーマのような気がする。

 『南島文化の探究』(河村只雄著)に「奄美に対する島津藩の文化政策」がある。その史料や他の資料にあたらないといけないが、とり急げ書き記してみる。
  島津氏が奄美の島人に対してあえてなした文化的圧迫は、島人のもてる系図、古文書類を没収・焼棄
   したことであった。以下の四回にわたって大島の代官に命じて、奄美の島人等が所持していた民間の
   系図や諸記録をことごとく取り上げて焼棄したという。
      ・元禄6年(1693)
      ・元禄10年(1697)
      ・宝永3年(1706)
      ・宝永4年(1707)

  宝永3年(1706)に代官に出した命令書は以下の通りである。
   一、大島、喜界島、徳之島、沖永良部島右四島人民の内、家柄可差立先代の由緒有之者は不残系図
     可差出旨申渡可有之尤も御蔵物に被召上儀にては無之必可被返下候内々致其心得持合之者差
     出様有之可然候

  一、系図文書無之者の内にも先祖差立る家筋の由緒有之者委細書記可差出事
  一、寺社方々も右同断
 そのような島津藩の禁止令があっても清算されなかったのは、河村は「いくら政治的に服従していても、文化
 的には何時までも琉球色が清算されなかった。これは一つには島津藩が琉球の「ノロ」の宗教を黙認してい
 たことも大きな要因をなしているといえるであろう」と。

 ノロを中心とした祭祀は奄美で消すことができなかったのではないか。というのは、明治12年の廃藩置県後、沖縄県においてもノロ制度的は段階的に廃止の方向の政策がとられているが今次大戦に入り、うやむやのうち現在に至っている。

 明治8年にも以下のような達が出されている。明治の初期には琉球的色合いが、まだまだ目についたようである(『大島 喜界 両島史料雑編』)。

  大島、徳之島、喜界島、沖永良部島、与論島人容貌服則の儀、往古より琉球より管轄の旧慣にて
  今に一新の場に至り兼ね、方今御維新の時に際し、別紙四件御布告の旨もこれあり候に付き、人民
  容貌を脱却し漸次内地の容姿に模倣候様、心掛くべくこの段布達候事
     明治九年四月十五日    鹿児島県令 大山綱良

      辛未(明治四年)四月十七日御布告
  一自今平民乗馬差し免じられ候事
      同 八月九日 御布告
  一散髪、制服、略服、脱刀共自今勝手たるべき事
    但し、礼服の節は帯刀いたすべき事
      同十八日御布告
  一平民襟割羽織、着用勝手たるべき事
      同十八日開拓使布告の内
  一自今出生の女子、
入墨堅く禁ずる事
    

 1609年以後の首里王府から奄美のノロクメ(ノロ)への辞令書は今のところ確認できていないが、奄美のノロの実態が『南島雑話』(1850〜55年)の記事からすると1623年や1642年に印紙(辞令)を受けることを禁止されている。辞令は禁止されるが、それでもノロクメが関わる祭祀は姿を消すことなく継承されている。それは古琉球から継承され、本琉球から辞令を請けることは禁止されるが、それでも継承され続けられた。『南島雑話』に近世のノロの姿とみることができる。

 ・奄美諸島は薩摩支配(1609年)後もノロの存在は黙認された。
 ・1628年ノロの琉球王による任命を禁止する。
 ・享保年間(1716〜35年)にはノロの代替り毎に渡琉して聞得大君に拝謁することを厳禁
 ・役地も取り上げる
 ・それでもノロの存在は黙認される
 ・文政14年(1817)薩摩が砂糖総買い上げをおこなう。それに伴ってノロの弾圧強化される。
 ・安政2年(1855)に迷信禁止令を出して懲戒する。
 ・明治2年(1869)の廃仏毀釈カンギヤナシを桎梏に乗せて祭祀を廃止させた。
 ・ノロの衣類、珠玉などを焼く。
 ・寺を廃止し神社を建立する。

 ・大熊ノロは大熊・浦上・有屋・仲勝の四カ字を管轄した。各字にトネヤがある。
   (沖縄ではノロが複数のムラを管轄するのが一般的。その様子が大熊ノロにみられる)
 ・大熊ノロ家にノロ辞令書と名瀬間切の朝戸掟職補任辞令書(1607年)と名瀬間切の西の里主
  職補任辞令書(1609年)があったようだ(『南島雑話』所収辞令書)。同家に三点の辞令書が
  あったのであれば、ノロ家の男方は首里王府から任命される役人が出ていることになる。

 
    ▲奄美市名瀬大熊あたり?                  ▲徳之島町手々


 『のろ調査資料』(宮城栄昌・中山盛茂・富村真映)で、奄美のノロについて以下のように述べている。

  カケロマ島では於斉、花富、伊子茂、武名、木磁部落にノロを残す。
  大島諸島のノロは、慶長14年諸島が薩摩領となった後も、その存在が認められ、就任に際しては首里
  に上って聞得大君を拝し、王府からの朱印の辞令を戴いた。薩摩がノロを認めたのは、歴史的に村落
  結合の中核となっていたノロ機能を利用して社会秩序の維持をはかり、貢租の円滑をはかるためであ
  ったが、しかし薩摩の専制的支配を強化するためには、血縁共同体を基盤とする琉球の支配形態を変
  える必要があった。そのため1623年(寛永元)28年(寛永5)薩摩は琉球王によるノロ任命を禁止した。
  それでも世襲ノロは存在し、代替り期における聞得大君拝謁が行われていたので、享保年間、その拝謁
  を禁止し、役地も取り上げた。ただし徳之島手々の深見家文書によると文化文政の頃も宅地を給したり、
  住家新築に際して労力や茅を供することが行われているから、役地取上げのことはノロ田・ノロ畠につい
  てであったであろう。
   ・・・関係書類や衣装を隠匿して、祭祀をつづけるものがいた。
   明治2年の廃仏廃仏棄釈の折には徹底的に弾圧され、明治4年には安政以後も残っていたノロ殿内
   (とねや、神木屋)やお願所の破壊、神衣装珠玉の破却などがあり、ノロ司宰の神事も廃された。沖永
   良部島では神官鎌田常助がこれを指導したためにシヌグ祭も廃されたが、鎌田は与論島について
   同じ圧迫を加えている。それどほの圧迫にもかかわらず奄美大島・徳之島には隠れノロがいたようで
   あるが、沖永良部島と与論島は全滅した。


【南島雑話】(名越左源太)

 慶長18年(1613)、始めて法元仁衛門を以て大島代官職被仰付、年貢を収、島民を皆土人に準じ、諸事頭取者を一等揚て下士に準じ、頭長は大親を以て長とす。其次与人とす。大島に始めて法令を建てることは、元和九年癸亥(1623)悉被定、同十年の二月十八日(嘉永元年此年改元)法令之帖に、冠簪衣服楷品を本琉球に受ける事を禁制す。
 此時より
能呂久米年々印紙を本琉球官僚に請ることを止らる故に、寛永十九年(1642)迄之免官印を伝て今其三四枚を蔵め伝う。大熊村安加那納置書付なり。大熊村にて富統より内々にて、能呂久米安加那本書押付に為写す間、本書の儘也。本書唐紙也。文面如此かな書也。始と終に朱印、首里之印と云文あり。首里の里の子寮より出ものにて候由。上包の紙の上に里之子寮と有之候。

【神事】
 
能呂久米、祝主神之祭惣名女子迄也。男子あずからず。能呂久米の中に役名あり、船頭と云。那留古国より神、毎年ニ月初の壬に渡来す。是を御迎祭と云。
 同四月之壬の七ツメに帰り去る、是を御送祭と云。
 大神祭、島の山神海神を祭る。
 御印加那之
能呂久米は頭にて、島中に雨人あり。真須知、須多共に此支配也。享保以前は、能呂久米一世一代一度ヅツ本琉球にいたり、国主に御目見あり。免許の御印を頂戴して在所に帰る。尤此免文は首里の里の子より出、里之子寮の支配の者也。海頭は御印加奈之よりは下官なり。然共国主免許文は里之子よりいだす。寛永七年(1630)戌五月代官新納用之進禁止す。
 ・・・・・・能呂久米二流に分る。大和浜より屋喜内、西東方迄は真須知組と云、名瀬より笠利までは須多組と云。・・・・・・・
【死葬】能呂久米葬式の法
 始死る者を穴蔵に入処、是をとうふろと云。今笠利間切の宇宿村、又同間切手花部村にも有之。島中所々にとふろあり。桶共に納め置く。とふろの奥の方、南京焼の蓋のある壺、幾所にも並有之、又石櫃に納るもあり。昔は島中なべて如此なりしを、今は大和風に習いて土葬なり。・・・・・

(工事中)
 

【辞令書等古文書調査報告書】(沖縄県教育委員会:昭和53年発行)

 ・鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶14:1569年)(喜界島)
 ・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11:1583年)(奄美大島)
 ・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15:1587年)(奄美大島)
 ・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)
 ・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30:1602年)(奄美大島)

 以下の二枚の辞令は『かけろまの民俗』で須子茂のノロへの辞令として扱っている。ノロへの辞令ではないのではないかと見ていたが、ノロ辞令書とみてよさそうである。これらの辞令書はノロ家が所蔵しているようである。ノロ家の男方は知行を受ける役人を勤めている例がいくつもある。例えば今帰仁間切の「くしかわのろ」(3枚の内ノロ辞令は1枚)や今帰仁間切の中城のろ(9枚のうち2枚がノロ辞令で他は男方の役人)など。のろへの辞令の場合は多くは「・・・・のろの」とあるが、「ねたち」と「たる」など名前の場合もある。「ねたち」はすこものくちのうなり(妹)、あかひとうかの子へ引継なので、ノロ引継による知行安堵である。それを勘案するとノロへの辞令書とみてよさそうである。 阿田のろ職補任辞令書(1569年)が沖縄本島も含めても、今のところ一番古い。

・瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦2:1574年)(奄美・加計呂麻島)
・瀬戸内西間切の巣古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2:1574年)(奄美・加計呂麻島)


鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶3:1569年)(喜界島)

  しよりの御ミ事
     ききやのひかまきりの
     あてんのろは
       もとののろのおとと
     一人ゑくかたるか
          方へまいる
    隆慶三年正月五日

・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11:1583年)

  しよりの御ミ事
     やけうちまきりの
     
なからのろハ
      もとののろのめい
     一人つるに
     たまわり申候
  しよりよりつるか方へまいる
  万暦十一年正月廿七日


・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15:1587年)(奄美大島)

  
しよりの御ミ事
     なせまきりの
     
たいくまのろハ
       もとののろのめい
     
一人まくもに
     たまわり申候
   しよりよりまくもか方へまいる
  万暦十五年十月四日

・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(万暦28:1600年)(徳之島)

 
 しよりの御ミ事
     とくのにしめまきりの
     
てゝのろハ
       もとののろのくわ
   
一人まなへたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  万暦二十八年正月廿四日

・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書
(万暦30:1602年)(奄美大島)
 
  しよりの御ミ事
    せとうちにしまきりの
    こしのろハ
      もとののろのうなり
    一人まかるもいに
    たまわり申(候)
  しよりよりまかるものいか方へまいる
  万暦三十年九月十日