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島袋源一郎の『口碑伝説の研究』(大正7年)
           
(謝花尋常高等小学校長)(沖縄教育第117号)より

一、七日浜と金武節
 琉球古劇の脚本、久志若按司道行口説の一筋に、
   イザャイザャと立出でて、伊芸や屋嘉村行過て
   歩み兼ねたる七日浜、石川港川打ち渡て
   今ど美里の伊波村や、急ぎ急ぎて忍でちやる

という句がある。七日浜は美里村と石川と金武村屋嘉の間なる曲浦を指している。路程一里余、国頭東海岸から首里への通路に当り右に勝連左に金武の二岬相対して金武湾と称し、伊計、高離、平安座、浜等の諸島湾頭に横たわって実に風光明媚の勝地である。けれども白砂長汀踵を没し行客の困難一通りではない。

 俗説に、昔一乞食此の浜を過ぐるに六七日を費したるに依って此の名を得たと言伝へている。しかし私は数年前七日浜の由来について、次のような伝説を耳にしたことがある。

 今より四五〇年目琉球に革命が起り、彼の三山統一の英王尚巴志の血統は七世の尚徳に至って遂に廃せられ同時に尚円推されて王位に即ようになった。

 其時先王の遺族及家臣は此は此の事変に遭って俄に王城を脱し東宿を通って北山に隠遁するに際し、昼は山中又は洞窟に潜伏し夜はなれぬ旅路を辿りかくて金武湾を落ち延びるに六七日を要したので七日浜のを負うているということである。若し之が事実であるとすれば、七日浜とは美里から金武に至る馬蹄形全部を指すのであろう。

 又或る琉球音楽の先生は金武節の本歌
  くばや金武くばに竹や安富祖竹
     やねや瀬良垣にはりや恩納
は尚徳王の遺子が守役(ヤカー)に背負われて北山に落ちて行った時に出来たのであるといっていた。それは七日浜を過ぎて金武にさしかかった時、此処は何処かと問われたから「此処(クマ)は金武の同村」と答えた。それから落ち延びて行くと山岳が突立つている王子はこの嶽は何嶽かと聞かれたから「嶽は安富祖」とお答えした。だんだん下って行くと村落が見える王子は又あの屋根の見える処は何嶽かと尋ねられたから守役は「屋根は瀬良垣であれから少し走れば恩納村です」と申した。それで、
   くまや金武のくま嶽や安富祖嶽
     やねや瀬良垣に走れば恩納
というのが原作であったが、時代は急転して天下は尚円王の

 以上の伝説は直にその真偽を判ずることは出来ないが私は別個に聞いたこの二つの伝説が全く符を合した様な気がしたので少からず興味を起こし遂に昨年の夏休を利用してその探訪に出掛けることにした。
 八月二五日嘉陽小学校長祖慶良信君の紹介に依り屋嘉の宜野座翁(72歳)に就いて土地の口碑を聞く聞くことを得た。翁の語る処に依れば、
 昔首里から二人按司が世を忍んで落ちて来る時、屋嘉の西南なる七日浜の黒岩の所まできたが、此処で空腹の為め二人共足が運べなくなって倒れて仕舞った。その時

     (途中)

 因みに云う。其の革命の後先王の遺臣で北山に退隠した者が頗る多かった。即ち彼の運天の百按司墓は新王に致仕するを好まない徳王の遺臣が釆薮の節を完うして世を終わり而して此処に祀られたのであると云伝へ、又本部村渡久地なる按司御墓の主人公大米須親方もその一人であるということである。

 島袋源一郎は『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で七日浜や按司墓(本部町渡久地)について紹介してある。以下の按司墓調査については承知されている。


翁氏の鼻祖(大米須並をなじゃら)御墓発掘報告書(本部町仲村家)

・墳墓発掘の原因

 □も発掘の動機は翁氏の先祖国頭親方の尊父は大米須公なりと伝られしが近頃歴史家の研究する所に依れば大米須と国頭親方の年齢は殆ど九十余年の差あるを以て御親子にあらずして、或いは国頭親方は大米須の御孫にあらずやとの疑念を惹起し、墳墓を発掘し、具体的調査するの必要を認め一門協議会を開き詮議の結果鼻祖大米須公並御夫人(をなぢゃら)御墓を発掘し、緻密に調査するに決定し、其の調査委員は永山成廉、安谷屋盛堅、東恩納盛起、久志助英等を選定し、本部村渡久地に派遣せらるや、歴史家真境名安興氏に立会を乞い同伴して渡久地に至り大に利する所ありたり。

墳墓発掘ノロ時
 最初は大正七年旧暦八月六日墳墓発掘することに定めたりしが、天天候荒立ち海陸に旅行し難く八月十一日に延期したるに、尚ほ天気静穏に復せず不得■私事の為め曩に出発せる安谷屋盛堅並びに渡久地松太郎等に電報を以て以来し、十一日午前七時は阿さたひ御墓、仝日午前十一時はをなぢゃら御墓を発掘着手の或丈を行はしめ、十二日午後一時より調査委員が墳墓を発掘せり。

・阿可多部御墓の状況

 その位置は国頭郡本部村渡久地うゑの原という山の麓にあり。亥に近方に向かい渡久地の裏路通りに沿へ天然の洞穴を利用し少しも人工を施さず壇もなく至て質素の感あり。而して石棺十二個あり、銅製の逗子四十個ありて、墓内に厨子を以て充満し、或いは厨子を重ねおきて多し、奥面には数人の骨を混合して堆積せり。

 中央に安置せらるる石棺の蓋に大米須の三字を書し、その中には「乾隆三十九年甲午八月十二日翁氏国頭親方の御親父の由永之」と書したる。木札を発見せり。然し厨子に銘書あるものは土地の人民なるものの如し。又銘書なきもの六個ありて大米須の御子孫なるや否判明せず。従って調査の目的達する能はずるは遺憾に不堪なり。
 古老の伝ふ所に依れば墓内に石碑を入れたる趣き、調査したる是亦発見する能はず。石棺に乾隆三十九年午八月十二日云々と書したる木札と、今回延期に延期を重ねて午年八月十二日に発墓したると同年月日も相当したるは実に寄寓の感あり。今回記念の為め左の通り木札に記載し大米須の石棺に入れたり。

  大正七年九月十六日(旧暦七月十二日)一門立会の上御嶽墓を発掘す。古老の指示に従い墓内に入れ置き樽という石碑を捜索するも発見すること能はず。当時石棺十二個陶製厨子四十個あり。銘書明なるもの及び不明のものも一々謄写し置きたり。

 大米須の石棺に別札乾隆三十九年八月十二日云々の木札ありしに依り其のまま複製し、原文の通り書し入れ置けり。
  大正七年九月十六日
  立会人
   歴史家  真境名安興
   翁氏   永山盛康
          安谷屋盛堅
          東恩納盛起
   顧氏   翁長助持
         普天間助宜

        久志助英
 今回墳墓発掘の際本部村渡久地百三番地島袋盛三郎より願出に依り逗子一個渡せり。


御夫人御墓の状況
 その位置は国頭郡本部村渡久地志なきらゑ原という山の麓にあり、渡久地川に面し未申の中に向かい阿さたび御墓とは梢差向かふの方に1檀あり。阿さたか御墓と比し堅牢にして且つ結構なり。外部を高地にして好景色の感あり。墓内は逗子以て充満し、少も余地なし。石棺六個陶製角形六個、逗子五十七個あり。火葬して数人混合して大壺に入れたるものあり。上檀の中央に安置せらるる石棺に二人合納せらるるも銘書判然せざるは最も遺憾とする所なり。下の中央にある石棺には具志川のるくむひと推銘書あり。或いは大米須の御妾たりし具志川のるくむひと推察せらる銘書不明のもの十一個ありて、御夫人の御骨を確実に認むる能はず嗚呼。

 裔孫たるものは一生涯遺憾千万なり。期して願くは尚一層研究を重ね探索を継続して鼻祖御嶽夫人の御骨を確認せられんこと


  附 言

本部村渡久地二十三番地士族名城政致より申出に依り厨子一個を渡せり
をなちゃら御墓に入れたる厨子に銘書ありて村民との関係者の様に認めらる者の様に認めらるもの左の如し。
一、満名村松田にや
一、乾隆三十九年五月浜元村
    唐山仲宗根
一、嘉慶十七年大辺名地村
    唐山蒲渡久地
一、乾隆十九年死去八月廿一日洗骨
  浜元村辺名地親雲上アンシ
  乾隆○○○○丁亥謝花掟

一、金状 松
  浜元村前並里親雲上
一、具志川のろくもい女子 まうし
  健堅親雲上女房
一、伊野波村仲程
  渡真理親雲上妻
一、乾隆三十八年三月廿五日
  伊野波村加那玉城
一、渡久地村前石嘉波親雲上
  妻
一、光道三年未八月浜元村
  上渡久地妻
一、乾隆五十六年戌浜元村

  石嘉波大屋子
一、浜元村
  並里親雲上
一、乾隆三十六戌 浜元村
  浜元にや 石嘉波大屋子
一、伊野波村仲程
  渡真理親雲上
一、嘉慶元年辰六月九日
   辺名地村辺名地親雲上母
一、辺名地村
  辺名地親雲上 妻
一、志ひら下こうり浜元村  辺名地親雲上妻
一、道光十七年丁■二月十九日死
  浜元村満名村大屋子 妻
一、乾隆三十五年康寅二月七日
  浜元村島袋筑登之の妻
一、嘉慶七年三月
  浜元村渡真理親雲上
一 ○○○○親雲上
   伊芸親雲上妻
一、辺名地村■山辺名地親雲上
  男子  ■■郎
一、前辺名地親雲上 男子
   太良にや
一、乾隆十六年辛未

    大掟文子
一 浜元村
  並里親雲上妻
一、大辺名地仲村渠親雲上
    具志川のろくもい女子
一、タンチャ掟
   渡口村
一、乾隆二十九年甲申正月十六日
   浜元村渡久地大屋子

一、伊芸親雲上母
  真部親雲上
一、申八月廿四日
   ■■親雲上ウシ
一、乙未
   辺名地掟女房
一、伊芸親雲上
一、渡久地村仲宗根方
   玉城にや
一、乾隆十四年寅十四日
   辺名地村辺名地親雲上
一、渡口にや女房
   武太父親
一、銘書不明十一個

昭和四十九年四月十三日 旧三月二十一日
   ヌール墓を開けた。


【七日浜】

 この浜はナンカハマと呼ばれ、七日浜と記されるが、漢字をあてると「難所浜」あるいは「難ヶ浜」ではないか。今帰仁村運天に「大北墓」(ウーニシバカ)がある。大北と漢字を充ててあるのでニシ(北)はどこからみた北なのだろうかの疑問がしょうずる。この墓は按司墓、あるいは大主墓である。この大主がウーヌシにさらに大北と字をあててある事例である。

 
        七日浜(難所浜)(石川から屋嘉)(2104年10月26日)


二、尚徳王の娘と幸地里之子(山賊の末胤)
 私は数年前「沖縄雑誌」に安和嶽の悪魔退治という伝説を載せたことがある。今その大要を掴んで見ると昔名護の安和嶽に幸地里之子という山賊が籠り支配下の者共を指揮して女を生贄にしたり農作物を荒らしたりしたので遂に村民は竉に協議する所あり、夕闇に紛れて数隻の刳舟を出しは遥かの沖合いで帆先を揃え松明を照らし銅鑼太鼓を乱打して吾が村へ攻め寄せて来る気勢を見せた。賊共は山上より火海を眺めずはや事だと手下の者を遺って尋ねしめたるに、あれは首里方より幸地里之子追討の軍勢だと村人が騒いでいるのを聞き帰りて告げたから山賊の徒黨は夜中何方へか姿を晦まし■

      (途中)