企画展(9月17日オープン・開催中)

    今帰仁城が抱えた村


               【学芸員実習記録ノート】



■テーマ  今帰仁城が抱えた村
■期 間  平成15年9月17日〜12月20日
会 場  今帰仁村歴史文化センター(展示会場)
■主 催  今帰仁村教育委員会(歴史文化センター)
■企画展示 
       
学芸員実習生
         上本くるみ(神戸学院大学)
         川崎祐介(    〃    ) 
         河田和樹(    〃    )
         天野心平(    〃    )   
         並里太一(大正大学)
         玉城夕貴(沖縄国際大学)
         松村真利(金沢美術工芸大学)
         齋藤友紀(広島女学院大学)
         嶋田いずみ(   〃   )
         田村友美  (    〃   )
         新田千代香(   〃   ) 

      歴史文化センター職員
         ・仲原 (館 長)
         ・石野 (学芸係)
         ・梢   (窓口・臨時)

協 力 具志堅区の方々

 ※今帰仁城を抱えた今泊と具志堅を中心とした展示となるが、具志堅も今泊も
   合併・統合・分離・移動などを経て現在に至っている。村々の変遷が今に大
   きな影響を及ぼしている。そのため、今帰仁城を要とした村々まで視野に入
   れることになった。そのため「今帰仁城が抱えた村」(仮題)とした。
    (以下は具志堅を中心とした企画となっている。随時他のムラも追加してい
   く予定)


 「今帰仁城が抱えた村」をテーマとした企画展である。今帰仁城を抱えた村(ムラ)は歴史を視点に見ていったとき、どのような村があり、そして今ではどうなっているのか。ひそかにそのような思いを抱いていた。

@具志堅村
 今帰仁城で北山王が君臨した14世紀から15世紀初頭にかけてのムラを描くことは困難である。具志堅には、
   「北山の世主が利勇(家臣)に滅ぼされた時、難を逃れたところが具志堅
   (古具志堅)」
だという今帰仁城と関わる伝承を持っている。その伝承が史実かどうかは別として、具志堅の故地であることには間違いなさそうである。そこから現在の大島地内に移動している。

A真部村

B上間村

C今帰仁村

D親泊村

E志慶真村

企画展「今帰仁城が抱えた村」の展示風景(工事中

@導入部
「今帰仁城が抱えた村」
 ・今帰仁村
 ・親泊村
 ・志慶真村
 ・具志堅村
 ・真部村
 ・上間村
A具志堅村
 ・現在の具志堅
 ・戦後すぐの具志堅
B今帰仁城を抱えた村
  の移動図

 ・今帰仁村
 ・親泊村
 ・志慶真村
 ・具志堅村
 ・真部村
 ・上間村の成立と赤墓
C明治期の「辞令書」
  ・仲里家の辞令書など
  ・具志堅村の一門
  ・真部村の一門
  ・上間村の一門

【古琉球の辞令書】
 戦前、具志堅の上間殿内(上間家)にあったこの辞令書は宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。
D具志堅の人々
 明治34年の名簿から当
 時の人々を登場させる。
E具志堅の年中祭祀
F具志堅の祭祀
 ・ウーニフジ 
 ・ウプユミ
 ・トン・トト・トン
 ・イナグユバイ
 ・シニーグ

【シニグ・ウンジャミの分布】
シニグ・ウンジャミの分布は非常に興味深い。シニグ・ウンジャミ・ウプユミがが本部半島から奄美にかけて分布する。それが何を意味しているのか。その意味解きが、すでになされているにちがいないが、「北山文化圏」(仮説)との関わりで、みていくことができるのではないか。
G具志堅の豊年祭の衣装
H山原の神アサギ
 ・具志堅の神ハサーギ
 ・国頭村比地の神アサギ
I具志堅の人々の生活
J具志堅を歩く・・・
 ・石垣のある家
 ・具志堅の石敢当
 ・ナカムイ(十三本松森)
 ・大川(フプガー)
 ・クランモー(倉毛)
 ・現在の公民館
 ・クンチリのチンジャ(井戸)
 ・ヤマトゥンチュバカ
 ・イジカタバマの岩(クビンジャイシ)

■具志堅の歴史(略年表)
 「具志堅の歴史」について整理しておくことにしよう。「具志堅の歴史」を紐解く場合、まずは具志堅村・真部村・上間村を分けて考えなければならない。具志堅地内の三つの村の成立時期はどれも不明である。現在の具志堅地内に、
   ・松部原貝塚(3500年〜2000数百年前)
   ・アキキナ遺物散布地(2000数百年〜2000年前)
   ・具志堅貝塚(2000年〜1000年前)
などがあるが、貝塚時代の人達が現在の具志堅の村(ムラ)や人に直接つながるかどうか、まだ定説をみるに至っていない。

   ・松部原貝塚       (3500年〜2000数百年前)
   ・アキキナ遺物散布地 (2000数百年〜2000年前)
   ・具志堅貝塚       (2000年〜1000年前)

   ・15世紀?   『おもろさうし』に「くしけん」と謡われる。
   ・1438年    伊平屋(現在の伊是名)から尚円王の弟が上間村に漂着
             し、上間子を名乗る。勲があって後に上間大親と改称する。 
   ・1500年頃   その頃には「上間村」は創設していた?(『球陽』)
   ・1563年    『辞令書』にみやきせんまきり(今帰仁間切)「くしけんの
             かない」とある。
   ・1586年    『辞令書』にみやきせんまきり(今帰仁間切)「くしけん
             せさかち」とある。
   ・1646年    『絵図郷村帳』に今帰仁間切「具志堅村」とある。
   ・1648年    『琉球国高究帳』に今帰仁間切具志賢村とある。
   ・1666年    今帰仁間切を分割し、伊野波間切(翌年本部間切と改称)
             を創設する。具志堅村は本部間切の村となる。
   ・1713年    『琉球国由来記』に本部間切具志堅村とある。真部村と上
             間村はみえない。
   ・1719年頃   嘉津宇村は古嘉津宇から現在地に移動?
   ・1738年以降 『御当国御高並諸上納里積記』に本部間切具志堅村・
             真部村がある。
   ・1738年以降  『琉球国一件帳』に本部間切具志堅村・真部村がある。
   ・1781年?   本部間切具志堅村の立石(ヒチ原)の灌漑工事をする。
   ・明治初期頃  真部村と上間村が具志堅村に統合される。
   ・明治6年    『琉球藩雑記』本部間切19カ村に具志堅村・真部村あり。
            上間村は登場しない。
             脇地頭具志堅親雲上の具志堅村からの作得十石余。
   ・明治13年   具志堅村の戸数253戸・1166人(男578、女588)
   ・明治33年   大川から土管による水道を敷設する。
   ・明治36年   嘉津宇村は具志堅村に統合される。
   ・明治36年   具志堅村の戸数358戸・1967人(男985、女982)
            (嘉津宇村の51戸・252人(男139、113)を含む)
   ・明治38年   道路の変更がありウンビラを木墓の前を通す。
   ・明治41年   沖縄県島嶼町村制により本部間切は本部村となり、村(ソン)
             は字(アザ)と改称される。本部村字具志堅となる。 
   ・昭和5年   本部⇔今帰仁間の群道が整備される。
   ・大正15年  奉行毛⇔穴門⇔松部⇔大港の道路が開通する(昭和元年)。
   ・昭和11年   嘉津宇のウドゥングァーの改築をする。「嘉津宇神社改修
             記念 昭和十一年丙子六月二六日」とある。
   ・明治14年  上杉県令上間殿内(ウイマヤー)で休憩する(11月29日)。 
   ・昭和15年   本部町字具志堅となる。
   ・昭和16年   新里と北里が具志堅から独立する。
   ・昭和17年   ウイハサーギ(旧具志堅)・真部ハサーギ・上間ハサーギが
             一つにまとめられる。拝殿と神殿がつくられる。
   ・昭和18年   嘉津宇が具志堅から独立する。
   ・昭和20年6月本部町・今帰仁村・伊江村の避難民は久志村大浦へ収容。
   ・昭和20年11月 11月中旬に帰村する。ジャニーにあったコンセット(カマボ
              コ型)を米軍から譲り受け具志堅区事務所とする。
  
   ・昭和22年   本部町から分離し上本部村となる。上本部村字具志堅となる。
   ・昭和46年   上本部村が本部町に合併し、再び本部町字具志堅となる。
    

■企画展の展示(目次)(素案)

  ・ムラの歴史(具志堅・今帰仁・親泊・志慶真など)
    具志堅村・真部村・上間村(三か村の移動)
    三か村の変遷図(展示パネル)
    具志堅の位置図(本部半島図:本部町図)
    仲里家の明治の辞令書(9枚)
  ・現在の具志堅の小字
  ・具志堅の集落の展開
  ・具志堅の小地名
  ・家々の屋号と家のつくり(屋号マップ図と写真)
  ・具志堅の祭祀(シニーグやアブシバレーなど)
     シニーグの流れ図と写真パネル及び解説
  ・シニグの分布図(沖縄本島と周辺離島)
  ・神ハサーギと集落と人々
     三か村の旗頭と神ハサギ跡(写真とマップ)
  ・人々が使った道具と呼称
     道具の方言呼称と道具
  ・明治の具志堅村の人々
     明治36年の「砂糖消費税請願名簿」より
  ・水と生活

      (工事中なり)


          企画展にむけて

 企画展―今帰仁城が抱えた村―に向けてボツボツ作業を進めている。日々の業務の合間を縫っての作業なので、まだ全体プランの見通しまでたどり着いていない状況である。少しづつ積み上げていく作業となる。今回の一つの柱となる具志堅の祭祀調査は8月17日から始まるので、それまで大方物を固めておく必要がある。

 企画展に向けて、職員がまとまった時間が割けるものではない。8月17日から具志堅の調査(祭祀)にはいるので、展示に向けての作業が停滞することになる。そこらから学芸員実習が加わってくるので、そのお膳立てもしておかなければならない。

 このように企画の準備段階からオープンにしていくのは、学芸員実習に関わる学生達が広島・神戸・東京・金沢・宜野湾など遠距離にあって、その期間のみの参加のため、全体の流れがなかなかつかみきれない様子をみてきた。それで今回は学芸員実習に加わるメンバー達に、歴文の動きと企画展の進捗状況や展示の中身について予備知識として持って参加してもらいたいと考えているためである。

 昨年は台風などの事情で、中途半端な作業(実習)となり展示の開催も10日ほど遅れてしまった(台風や停電など自然災害ではあった)。後の学芸員実習の報告会が「台風の状況報告会だった」(冗談!)と聞いている。学芸員として実習した中身での話題になれば有り難いもんだ。

 企画展に関わる調査メモを随時掲載していきます。(全体プランはこれから!)

 これまで具志堅に関わるメモを「文化センターの動き」で公にしてきたものを、企画展に合わせて、並べたのが以下のメモである。必ずしも企画展を意識しながら具志堅を散歩していたわけではない。しかし、これからは企画展を意識しながら具志堅を散歩することになりそうだ。

 具志堅の調査を進めているが、展示されるのは調査・研究の成果があっての展示である。それがないと薄いぺたいものになってしまう。今回も調査・研究、その成果を展示の流れは踏襲していく。


■シニグの分布
   
〔シニグ・ウンジャミ・ウプユミの分布〕(企画展メモ)
 シニグ・ウンジャミの分布は非常に興味深い。シニグ・ウンジャミ・ウプユミがが本部半島から奄美にかけて分布する。それが何を意味しているのか。その意味解きが、すでになされているにちがいないが、「北山文化圏」(仮説)との関わりで、みていくことができるのではないかと考えている。三つの祭祀の重なりも、そう単純なものではなさそうだ。

 例えば、今泊(今帰仁村と親泊村の合併で今帰仁ノロ管轄)では旧暦の7月の盆明けに行われる祭祀がある。
   ・ウーニフジ(旧盆明けの戌の日)
   ・ウプユミ(ウンジャミ・城ウイミともいう)(旧盆明けの亥の日)
   ・シマウイミ(ムラウガミともいう)(旧盆明けの子の日)
このようにウプユミ(大折目・ウイミ)とウンジャミなどの呼び方がある。日ごとに祭祀の中身が異なっているのかもしれない。一日、一日の祭祀は内容が異なり、呼称も異にしていたのが、呼び方を一つにした地域、今泊のようにウーニフジ・ウプユミ(ウンジャミ)と名称をとどめている地域、国頭村安田や安波などのようにシヌグとウンガミが隔年行っている地域、今帰仁村中部地域(玉城ノロと中城ノロ管轄村)ではウプユミと呼ばれている。今帰仁村古宇利島や大宜味村塩屋あたりではではウンジャミ(ウンガミ)の呼び方で残っている。

 シニグ・ウンジャミ・ウプユミ(奄美のウフンメ)の分布を押さえていく作業は、祭祀の中身を見ていく作業でもある。すでに、いくつか結論(仮説)が出されているが、「北山文化」圏の視点での仮説が導き出せるかもしれない(詳細調査の分布図作成予定)。


 
     小野重朗著作集『南島の祭り』135頁参照


〔具志堅のシニーグ〕メモ
 以下の部分は『沖縄の芸能』(昭和44年発行)からのメモである。今年の調査(8月)は、以下の流れや衣装などを念頭に入れて、参与観察記録(調査記録)をとってみたいと考えている。

 本部町具志堅ではシニグやシヌグのことをシニーグと呼ぶ。
  ・旧暦7月25日に行われる。
  ・当日の午後、ムラの女の人たちが盛装して神アサギの側に集まる。
  ・ノロが先に祈願して待っている。
  ・全員が集まると太鼓を打ち、シニグを歌う。
  ・シニグの歌を謡いながらアサギ庭で二重円をつくる。
  ・内側が未婚の女性、外側は中年の婦人たち。
  ・かつては胴衣袴(ドヂンカカン)だったが、紺地の絣帯を前に結ぶ。
  ・中年の外側の婦人たちは鉢巻を結び、紺地の絣か芭蕉衣に前結びの帯。
  ・老女たちは、鉢巻を前にして紺地のかすりか芭蕉衣、帯をしめないで
   ウシンチー姿。

〔シニーグ舞〕  
  ・11種の曲節がある。 
  ・一節終るごとに小休止をする。
  ・先頭の音頭とりが太鼓を三回打ってから節を謡いだす。それに和して皆で
   謡いながら舞う。
  ・舞の手は拝み手・押し手・祓い手・捧げ手・こねり手がある。
  ・シニーグ舞はノロを先頭に根神以下の神人が続く(これらの神人が太鼓を
   打って音頭をとる)。

〔シニーグの場所〕
  ・上(具志堅)アサギ→真部アサギ→上間アサギ 
  ・上間アサギでのシニーグ舞が終ると太鼓の早打ちに合わせて参加した女性
   たちが一人ひとり円陣の中に入って踊る。
  ・最後は男性たちも円陣に入り踊り群舞をする。

かつては、具志堅・真部・上間の各神アサーギで行っていたが、三つの村が統合してからは上アサギ・真部神アサギ、そして上間アサギの順序で三カ村一緒になって行うようになったという。(現在の流れはどうだろうか?)

    ※三箇村の神ハサーギ、現在の神ハサーギの位置、そして祭祀の流れを
      場所と時間の流れで記録する必要あり。調査年によって場所の特定が
      不明確のため論をたてにくいところがある。
  
 
  ▲本部町具志堅のシニーグ舞い(上間ハサーギ?)
       『沖縄の芸能』口絵写真
(昭和30年代


2003.6.10(火)メモ

具志堅ノロ
 『琉球国由来記』(1713年)の具志堅村に関わる記事をみると、具志堅村の御嶽はヨリアゲ森、神名は中森ノ御イベとある。そこにおける祭祀は、麦稲穂祭、麦大祭、稲大祭、ミヤ種子、山留がある。具志堅ノロの管轄の祭祀である。『琉球国由来記』のころ、具志堅ノロの管轄村は具志堅一村である。それは具志堅村が規模の大きい村であったことを示しているに違いない。

 具志堅村の祭祀場として、具志堅巫(ノロ)火神と神アシアゲ(神ハサーギ)がある。
  ・具志堅ノロ火神での祭祀
     ・麦稲穂祭
     ・麦稲大祭
     ・籠 廻
     ・ミヤ種子
     ・畦払(アブシバレー)
     ・山 留

  ・神アシアゲ(神ハサーギ)での祭祀
     ・麦穂祭
     ・稲穂祭
     ・麦大祭
     ・柴 指
     ・芋 祭
     

   (工事中)


【上間家にあった辞令書】(写)

 この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。

  志よりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
   五 おミかないのところ
   二 かりやたに 十三まし
   たけのみはる 又まへたはるともに
  又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
    とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
  又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
  又 まふはるともニ
    この分のミかない与
    四かためおけの なつほこりミかない
  又 くひきゆら ミしやもち
  又 四かためおけの なつわかミかない
  又 一かためおけの なつわミかない
  又 一かためおけの おれつむミかない
  又 一かためおけ 又なから正月ミかない
  又 一lくひき みしやもち
  又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又 一くひ みしやもち
  又 一かためおけの けふりミかない共
    この分のみかないは
    上申・・・・・・
    ふみそい申しち
    もとは中おしちの内より
  一 ミやうすくたに ニまし
    まへたはる
    この分のおやみかない
  又 のろさとぬし
    おきてかないともニ
   御ゆるしめされ候
  一人あかるいのおきてに給う
 志よりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日



〔トン・トト・トン(シルガミ)〕(2003.6.15.午前9:30のメモ)

 
本部町具志堅のトン・トト・トン(シルガミともいうようだ)の祭祀の流れを確認するため、これから足を運んでみる。旧暦7月の中旬から下旬にかけて大きく五つの祭祀が行われる。
  @ウーニフジ(御船漕ぎ)     (旧暦7月19日)
  Aウプユミ(大弓)          (旧暦7月21日)
  Bトン・トト・トン(シルガミ)   (旧暦7月23日)
  Cヰナグヌユバイ(女の夕食)  (旧暦7月24日)
  Dハートンチミチ(早朝の神酒)
     シニグ・タムトゥノーイ     (旧暦7月25日)

 
旧暦の7月23日に行われるトン・トト・トン(シルガミ)は一連の祭祀の一つである。まずは、トン・トト・トンが行われる祭祀の流れと祭祀場の確認をしておきたい。
   お宮・大川
   お宮→(拝殿内)→クグンビラ→クランモー(倉の毛)→(家々回り)→
   (太鼓をたたきながら)→大川(フプガーへ)→(大川・ナレミャー・ミハージ)

※トン・トト・トン
の呼称は太鼓をたたくトン・トト・トンのリズムからきたものか?
           リズムは異なるようだが、今帰仁村湧川のウプユミとワラビミ
           チのときに小学生が湧川・勢理客・上運天・運天の祭祀場で
           小さい太鼓をたたくのと類似するものか?

トン・トト・トンの場所確認(午後6:00のメモ)
 旧7月23日のトン・トト・トンが行われるお宮・クランモー・フプガー(大川)・ミハージの場所の確認をしてきた。この祭祀がどのような流れで行われるのか楽しみである。お宮・大川・ミハージの場所はすぐわかったがクランモーはムラの方に教えてもらった。「一年に一回しか使わんから草ボーボーなはずよ」と。その通りであった。

 農作業帰りのおばあさんがフプガーに降りて手足と顔を洗っていた。フプガーの側の畑の手入れをしたいたおばさんも手を休めて一服。そこで以下の会話。
  「フプガーの側の道、謝花に行くのですか?」
  「嘉津宇に行けるよ」
  「フプガー綺麗に掃除してありますね?」
  「この前よ、中の掃除したさ。あの木(棒)も取り換えたさ」
  「トン・トト・トンは太鼓の音ですかね?」
  「うん、そうだよ。こっけいだね」
  「昔は、家々を回っていたのですか?」
  「今は回っていないがよ、新しい家を回っていたさ」
  「クランモーの場所わかりますか?」
  「うん、仲里・・・、ウイヌジュンサ・・・の側の道を降りていくさ。年に一回
   しか使わないから草ボーボーだはずさ」
  「イェー、どこかで見たさ。館長さんでしょう。ほんものが若いさ!」
  「ありがとさん。ヘヘヘヘ・・・。」
  「みなさんも、シニグ踊るのですか?練習もするのですか?」
  「踊るよ。ウタの練習するよ。中学生の女の子たちもね」
  「今度のシニグ、応援に来ますからね」

.
     ▲具志堅のお宮               ▲お宮の内部  

.
  ▲草ボーボーのクランモー(倉毛)       ▲フプガーの香炉 

.
  ▲清掃された具志堅のウプガー     ▲ミハージのある具志堅の海岸 
 

2002.4.20(土)メモ

具志堅のシニーグ
 本部町具志堅の神アサギ(神ハサーギと呼ぶ)を訪ねたことがある。気にかかっている神アサギの一つなので、少しまとめておくことにしよう。山原で茅葺き屋根の神アサギは四軒(今帰仁村字崎山、国頭村字安田、本部町字具志堅・恩納村恩納)あるが、その一軒が具志堅の神ハサーギである。具志堅の神ハサーギが気になっているのは、合併村(ムラ)でありながら、現在一つの神アサギしかないことである。これまで、「行政的に村が合併しても祭祀は一体化しない」原則があると唱えてきたからである。 現在の具志堅は具志堅村・真部村・上間村の合併である。三ケ村の合併は明治初期の段階になされている。『琉球国由来記』(1713年)に具志堅村は登場しているが真部と上間の両村は出てこない。その後の創設だと思われる。
 大正時代、島袋源七氏によって
調査され、まとめられた「本部村具志堅のシヌグ」がある。それは『山原の土俗』に収録されている。三つの神アサギの合併は昭和12年だから、神アサギが一つにされる前のシニグの状況を記録しており貴重な報告である。(『山原の土俗』より概略を示す)

 旧暦七月二十日後の吉日に行う。

  @大ウサイ(ウフウサイ)(1日目)
   具志堅・真部・上間の三神ハサギのシヌグガミーが具志堅神
   ハサギに集る。
15歳以上の男子を報告、15歳以上の男子は粟
   五合づつ、
十五歳以下は一合ずつ各ハーサギに納める(祭祀
   の費用にあてる)。

  Aウーニクヂ(舟漕ぎ)(2日目)
   今帰仁村今泊の今帰仁阿応理屋恵や今帰仁ノロと共に今帰仁
   城跡に行き、テンチヂアマチヂで祭祀を行い具志堅神ハサー
   ギに帰って、今帰仁城での祈願の報告をする。

  B大ユミ(ウフユミ)(3日目)
   神人総出で御嶽に上がる。神人は一段上の拝殿で祈願をし、
   オモロを謡う(このオモロすでに伝わらず)。ノロなどの神
   人の祈願が終ると、一段下に向っていた男神人は、女神人を
   向えて一緒に祈願をする。ノロと島の大屋子、根神だけの組
   をつくり各自弓矢を携え二組になって道を異にして村の西海
   岸に行列をなしていき、そこで祈願をする。

  C男のユバイ(大ユミから3日目)
   島の大屋子が柴山に登って柴と野葡萄とを取って、背から頭
   までの高さにして具志堅神ハサーギに帰り、そこでご馳走を
   うける。男の神人を三つの組に分けて、鼓を打ちながら各戸
   をまわる。字の西方の流庭に行って合流する。そこで鼓を打
   つとノロや根神など女の神人たちが迎えにくる。連れ立って
   大川に行って体を清める。

   そこでの祈願が済むと各自の神ハサーギに戻り、粟の神酒を
  いただく。

  D女のユバイ(男のユバイの翌日)
   その日も神ハサーギに集って神酒をいただき、ノロ以下の神
   人は具志堅神ハサーギで踊りやウタの練習をする。

  E当 日
   その日は午後4時頃から各神ハサーギの庭でシヌグを踊る。
   その後男衆は各自の組旗を持って神ハサーギに行列していく。
   具志堅神ハサーギから上間神ハサーギに行列し、次に上間・
   真部神ハサーギからそれぞれ旗を持って具志堅神ハサーギに
   集り、女性達は合同してシヌグを踊る。
   (具志堅は「神徳霊妙」、真部は「神洋々遊」、上間は
   「三神和楽」の句)

  Fタモトノーヒ(お別れの日)(祭の最終日)
   各自の神ハサーギに行って重箱を開いて遊び、男性達は一定
   の
場所に集って神饌をくみながら祝う。

     
 ▲具志堅・真部・上間の             ▲具志堅のシヌグのウシデーク(1969年)
   三つの神ハサーギが一つになる
 

 ここで具志堅の神ハサーギを扱ったのは、「安田のシニグ」「古宇利島の海神祭(ウンジャミ)」「比地の海神祭」などとの比較j研究が念頭にあるからである。テーマを明確にしておきたいのは「国(くに)―神人の祈り(五穀豊穣・ムラの繁栄・航海安全)―租税制度」(国の統治)の仕組みを祭祀を通して見て行こうとするものである。具志堅のシニーグから、その姿の一端が見えてくる。それと監守制度と関わる阿応理屋恵(オーレー)按司の祭祀に関わっていた姿も。

〔企画展―メモ〕(2003.5.11(日)

〔企画展の準備作業スタート〕
 母の日のため、おばあ達の来館者が多い。お昼頃、本部町具志堅のおばあ達が数名やってきた。しめしめ。今年の夏、具志堅の集落やシニグなどの調査を予定しているので、「具志堅のどこですか?」と訪ねてみた。「ミージマだよ。フプシマ(大島)から分かれた」という。また、現在の具志堅は具志堅・上間・真部の三つのムラが合併している認識は今でも持っているようだ。

   「神人のおばあいませんか?」
      「神人はいないね」
   「シニグの踊りする方いませんか?」
      「若い時にはね、踊っていたよ」

 逆に、「シリガー知っているね。ウプガーは?」

と、おばあ達に試験をされてしまった。具志堅をどんな切り口で見せていこうか。そろそろ調査や企画展の準備にかかるとするか。おばあ達の来館が、「企画展に本腰入れるぞ」と、決意表明をさせられたようなもんだ。そのような後押しがないと、なかなか進みません。今日は決意表明のみ!やはりおばあ達のためにやらんといけませんね。

   「今年の夏、調査に行きますから、よろしく」
   「具志堅の展示会しますのできてよ」

 本部町具志堅調査は今帰仁グスクを抱える今泊で欠落している祭祀が具志堅では今でも行われているということ。そして今まで今泊をイリンシマと位置づけてきたが今帰仁グスクを視野にいれたとき、現在の本部町(間切)は今帰仁間切のうち。そう見ると今泊と具志堅が中心となる。方言や祭祀や人の交流など、今泊は兼次より本部町の具志堅と密接な関わりがありそうだ。

 今回の調査・研究の成果が結果としてどう出てくるのか、それは重要なことであるが、また楽しみでもある。

 神戸・広島・東京、そして地元の学芸員実習をするみなさん、展示企画はスタートします。ときどき「動き」を見ておいてください。皆さんは仕上げの場面からの参加になると思いますので。それから金沢のきみも。

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    ▲上空からみた本部町具志堅の様子        ▲来館した具志堅のおばあたち


企画展―メモ(2003.3.16)

 天気晴の一日になりそう。気分的には日曜日です。これからちょっと本部町具志堅まで。確認しておきたいのがいくつかあり。ちょっとした「ムラ・シマ散歩」だな。

 「ちょと、具志堅」まで(別の目的)が、二時間ばかりの本部町具志堅回りとなりました。東京では「寒い。寒い」とおっしゃていますので、さわやかな風(風邪ではありませんぞ)と、もう泳げそうなプライベートの海辺を送ります。ほんとに人っ子一人の姿も見られず。ほんとに、贅沢だわい。そういえば、外にいるとゴホン・ゴホンが出ませんね。

 本部町具志堅は歴文と隣接した本部町の字(アザ)である。具志堅の神ハサーギやウプガーは何度か紹介しています。集落の中央部の広場に車を置き歩くことに決めた。以前から石垣の目立つ集落だと思っていた。じかに足で集落を歩いてみる。

 今帰仁グスクのある今泊と隣接するが、岩質が異なっている。そうではあるが、結構丁寧に石積みをした屋敷が見られる。空き屋敷になっているのもある。

 具志堅は移動集落であると同時に具志堅・上間・真部の三つの村が合併している。現在具志堅はプシマ(大島)・ミージマ(新島)・サガヤの三つの集落に分かれている。ミージマとサガヤはプシマから分家や移住した人たちでつくった集落の認識がある。合併した三つの村は現在のプシマ内にあったことが、神ハサーギ跡の位置からわかる。ウイハサギ(上ハサギ)は一班、マブハサギ(真部ハサギ)は三班、ウイマハサギ(上間ハサギ)は四班にあった。昭和16年に三つの神ハサーギを今の場所にまとめ一つにした。その跡地は今でも小さな広場となっている。さらにプシマ内にウンバーリ・マブンバーリ(真部バーリ)の地域を区分する名称も残っている(「具志堅をゆく」予定なり)。具志堅のシニグの総日(ソウニチ)に道ジュネーをするがウイハサギの旗頭は「神徳霊妙」、ウイマハサギは「三神和楽」、マブハサギは「神洋洋遊」と書かれる。

 今日の具志堅への目的は、今泊と祭祀が密接な関わりあったこと。今泊では消え去った祭祀が具志堅で行われていること。そして今帰仁グスクの前方にハンタウーニとデーコーラウーニがある。それぞれのウーニ(船)に、さらに今帰仁ウーニと具志堅ウーニが対になってある。グスクウイミ(ウンジャミ・具志堅ではシニーグの一部)のとき、具志堅と今泊の神人が申し合わせて祭祀を行っていたことがある。そのこともあって具志堅の祭祀を調査しておく必要がありそう。

 今帰仁グスク前方の今帰仁村跡地にシニグンニがある。シニグが行われた場所だと思われる。シニグは今では行われていないが、具志堅で盛んに行われている。旧暦7月23日に行われている具志堅のシルガミ(トントト、トン)、今泊では僅かながら記憶にとどめている高齢者がいる。などなど。

 今年の夏の調査は具志堅のシニグになるのかな?


  ▲具志堅のジャニーバマの西側       ▲具志堅のジャニーバマの東側

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▲具志堅のお宮あたりから新里よりみる     ▲マブバーリあたりの石垣の塀

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    ▲具志堅のシリガーの門の塀       ▲マブバーリの石垣の塀(空き屋敷)

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▲後川(シリガー)の湧泉口        ▲一つにされた具志堅の神ハサーギ


〔企画展―メモ〕(2003.6.1)

 朝早くから本部町具志堅まで足を延ばしてみた。シマの方々は八時には畑に出勤しています。ミージマの人たちがブー(夫:共同作業)にでて、道路の草刈りをしていた。国道505号線から山手の方に向っての道路を。昨日の黍(きび:モチキビ:マージン)の件があったので確認をしてきた。よくよく見るとあちこちに植えられている。農作業をしている老夫婦に「これマージンですか?」と尋ねると「ウン、マージンだよ」と。「年に二回植えるのですか?」「いや、一回だよ」との返事でした。今日は旧暦の5月2日だから、このあたりでの収穫は旧暦の5月ということになる。

 南の八重山での収穫は山原より一ヶ月ほど早いということか。昨日の資料では12月から1月にかけて種まきをするということだから、収穫まで4ヶ月かかるという計算になる。具志堅での種まきの時期を聞いてみる必要がありそうだ。植えている面積からすると、家庭用か隣近所に配ったり、ちょっとした小遣い稼ぎ程度のものでしょうか。

 稲作が行われなくなった今、黍の穂がたなびく風景はいいもんだ。この季節に具志堅の畑に目立つほどの面積植えられると、かつてあった水田のある風景と同様、マージンのある風景・・・

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     ▲本部町具志堅のマージン畑        ▲たわわに実ったマージンの穂


   ▲マージン畑の側のシマラッキョウの収穫をしている老夫婦
    

〔企画展―メモ〕(2003.6.6)

〔本部町具志堅のミージマをゆく〕
 具志堅のミージマへ。現在の具志堅はプシマ(大島)・ミージマ(新島)・サガヤと大きく三つの集落に分けれる。さらにその下に12の班がある。今日はミージマ(新島)を歩いてみた。

 ミージマ(新島)は名の示すとおり新しい集落である。新しい集落というのは、プシマ(大島)に対しての新旧である。そのプシマもプルグシチン(古具志堅)やマンバルから移動した伝承を持つ。さらに現在のプシマは具志堅・上間・真部の三つの村(ムラ)の合併である。三つの村の合併は昭和16年に三つの神ハサーギを一つにしたことにみることができる。かつての三つの村は現在のプシマの範囲にあった。そこからサガヤとミージマへと広がっていたとみてよさそうである。具志堅の方々の認識もそのようである(具志堅の歴史的な変遷は別にまとめる予定)。

 ここでは具志堅のミージマについてみる(ミージマを歩くにあたり、『本部町字具志堅の方言』仲里長和著所収の「具志堅の小地名・屋号等」を活用させていただいた。感謝)。
  @ジャニバシ
  Aアガリガー(東の井戸)
  Bブブジャモービラ(奉行毛坂)
  Cブジャモー(奉行毛)
  Dサニガガー(井戸)
  Eハキキナアジマー
  Fアガリンファーイ
  Gパギター
  Hピータティヤー
  Iパサマビラ
  Jウンサフ
  Kピクルムイ
  Lウイヌトゥムイ
  Mヒチャヌトゥムイ

 ミージマ集落一帯の小地名を拾ってみた。その中でブジャモーやブジャモービラがあるが、それは今帰仁間切と本部間切の番所を往来する奉行(役人)が事務引継ぎする場所、あるいは一服する場所に因んだ地名に違いない。その場所が丘(モー:毛)やヒラ(坂道)になっている(写真)。

 ミージマに掘り抜きの井戸が三ヶ所ある。掘り抜き井戸は、新しい集落に見られる特徴である。ミージマの東側に位置するアガリガーとサニガガーは、ミージマの方々が利用した井戸にちがいない。

 もう一つジャニガーがある。今帰仁村と本部町の境界を流れるジャニガーの側にある。現在は墓地の側にあり、1mほど埋められたのか上部にヒューム管を置いてある(写真)。ジャニガーはミージマの方々か、あるいはサガヤの方々が利用していたのか。現集落から距離がある。その距離でも水汲みをしていたのであろうか。あるいは井戸付近に人家があったのか。その確認はこれから調査である。

 ミーシキヤー(大家)の石囲いはりっぱである。ぱったり出会った近所の老人の説明では「100年はたっているよ。小さいときから、すでにあったからな」とのこと。入り口はコンクリートになっている。コンクリートの部分は「昭和4年建設」である。「これもう、崩れるよ。膨らんでいるでしょう。もう、なおせる人いないよ」と嘆いていた。

 道路の拡幅であったり、舗装されたり、水道や下水道を引くために道を掘りおこしていく。そのたびに石積みの塀が一つひとつ消え去っていく。石積みのある集落は、そこに住んでいる人たちにとっても、ムラを出て行った方々にとっても、形には見えないが宝物を贈り続けている。アガリガーやジャニガーやブジョウビラなどもそうである。

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  ▲ミージマの集落内の現在の道       ▲りっぱな石垣のあるミーシキヤー

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  ▲集落内に立っている「安全運転」の碑    ▲建物の柱に使われた石柱


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 ▲ミージマの東側にあるブジャモービラ ▲ジャニーガーラの近くにあるジャニガー(井戸)


〔企画展―メモ〕(2003.6.7)

 今日は本部町具志堅の資料に目を通したり、地図にメモを入れてみた。8月下旬に企画展を開催する予定である。それに向けて、ボツボツ展示プランを立てなければならない段階にきている。具志堅を10数余のキーワードで描いてみる。どのようになるのかはこれからの楽しみである。具志堅のムラを歴史を軸として、様々な視点で描いてみたい(そろそろ、みなでテーマを拾いをしていくことにしよう)。

 今帰仁グスクを扇子の要とした時、扇子を広げると今泊と具志堅が今帰仁グスクに近いところに位置すると同時に、資料を見ていると祭祀や人の交流が密接であることに気づかされる。

 下の写真は具志堅のプシマ(大島)にある青年クラブ(1953年3月)と具志堅公民館(1953年3月)と大川(フプガー:1951年)である。これらの写真を手がかりに50年前の具志堅の様子を聞いてみる予定である。(1950年代の三枚の写真は故メルビン・ハッキンス氏撮影:歴文蔵)

 カマボコ型のコンセット(横5間、長さ20間、54坪)の建物は米軍から譲り受けたもののようである。公民館は戦争で消失し、天幕張りで雨風をしのいでいた。具志堅の東側のジャニー(謝根)に米軍が二棟のコンセットを建ててあったのを米軍の移動をしり、交渉して譲り受けたもの(当時の区長:金城嘉保氏)。

 フプガー(大川)の戦前の様子は写真でみていないが、昭和26年の様子が下の左である。円を半分に切ったカマボコ型になっているが、その前は半月型だったという。幾度となく工夫したようで、飲料水汲み場、洗濯場、浴び場、野菜洗い場、家畜浴びせ場などと。子どもが産まれた時の産水や正月の若水とり場になっている。

 昭和31年から上本部中に赴任してきた比嘉太英氏は具志堅に間借し、その頃の大川のことを「島の人々は、大川へ水汲みに集まり、列をなすことも楽しみの一つでした。特にその頃、八重岳の米軍部隊の洗濯アルバイトとして、島の御婦人、乙女が何十人も大川に群がり、所狭しと洗い流す中を中を、縫うようにして、水汲みをしたことがありました」(『具志堅誌』819頁)と回顧されている。
 

 ▲茅葺屋根の家々と青年クラブ(1953.3)       ▲コンセットの事務所(1953.3)

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  ▲具志堅の大川(フプガー)(1951年)         ▲現在の大川(フプガー)


〔企画展―メモ〕

■具志堅の神アサーギ

 具志堅は明治の初期に具志堅・上間・真部の三ケ村が合併してできた村(字)である。神アサギも別々にあったのを昭和16年に一つにした。合併村であることが、はっきりしていて神アサギも別々にあった。そのことは明確に記録しておく必要がある。旧地の神アサギ跡地も確認しておく必要がある。石柱が12本あり、萱葺き屋根の低い建物である。内部にタモト木と香炉があり、御嶽のイビに向って置かれている。

 現在でも上間ハサーギ、ウイハサーギ、真部ハサーギの跡が今でもある。シニーグのソウニチ(総日)にそれぞれの神ハサーギの旗頭のもとに集まり、ウイハサーギの一団(氏子)は、まず上間ハサーギに向かい、上間の氏子とウイの氏子と合流する。両方の旗頭は並べ立てられる。
 真部神ハサーギに集まった氏子はトゥヌ(お宮)に集まり、三氏子がトゥヌに集まるとシニーグ踊りが始まる。


     ▲具志堅の神ハサーギ


2003.8.5(火)メモ

【水と生活】
 
具志堅にいくつか湧泉(ハー)や井戸や川がある。それらハーと集落の展開と密接に関わっているようだ。「水と生活」の項目jをあげて調査してみることにする。●は確認済み。

  ●大川(ウプガー)(大里原)
  ●後川(シリガーハー)(後川原)
  ●アナジョーガーラ(後川原)
  ●ニンガー
  ●チンジャ(片蒲原)
  ●ジャニガーラ
  ●ジャニガー(井戸)
  ●チンジャ(井戸)
 
 ・シンブトゥガー
  
・ハーソー
  ・サニナガー(井戸)
  ・シンナガーラ
  ●アガリガー(井戸)
  ・アンガー
  ●パマガー
  ●ジーガー(水道のこと)(生茂佐原)