今帰仁グスク内での祭祀                             トップヘ

 ・今帰仁村今泊の海神祭 ・今帰仁グスクでの海神祭(グスクウイミ)
 ・クボウヌウタキでの祭祀  ・ムラの集落移動


 今帰仁グスク内での祭祀は、本来のムラの祭祀と首里王府(今帰仁按司と今帰仁阿応理屋恵)の祭祀が混在していることに注意。1665年まで、北山監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵一族が今帰仁に居住し、祭祀を行っていた。それと混在して今帰仁ノロを中心としたグスクのイベを中心とした祭祀が行われていた。それらの一族が首里に引き上げると、今帰仁ノロが阿応理屋恵の祭祀も一部肩代わりし、今に伝わる。

参考文献 「今帰仁村今泊まの海神祭(ウンジャミ)」1988年仲原調査(まとめ)
     『沖縄文化』第27号:1991年11月


【今帰仁村今泊の海神祭】






【今帰仁グスクでの海神祭(グスクウイミ)】

2007年6月30日メモ

  「北山の歴史」を整理している。その中で祭祀は間切や村々を統治する(租税を貢納させる)琉球国の手段だと考えている。その視点で『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁グスクでの祭祀を見てみた。今帰仁グスクでの祭祀に誰が参加、あるいは供え物を提供するのかである。すると、琉球国の役人である今帰仁按司や惣地頭、それと間切役人であるオエカ人が参加している。もちろん、その村の百姓である。そして祭祀を掌るノロや居神などの神人である。『琉球国由来記』(1713年)が編集された頃、今帰仁阿応理屋恵は地元今帰仁から首里に引き上げており、また廃止されている時期でもある。そのため『琉球国由来記』に今帰仁阿応理屋恵が果たすべき祭祀の場に登場してこない。

 ここで注視すべきは、今帰仁村・親泊村・志慶真村が今帰仁グスク周辺にあった頃のながれを踏襲していることである。

【今帰仁城内神アシアゲ】(今帰仁村)
 ・麦稲大祭(按司・惣地頭・今帰仁・親泊二カ村オエカ人・同村百姓)
 ・麦祭(二カ村オエカ人。同村百姓)
 ・稲祭(同オエカ人・同百姓・志慶真村オエカ人・同村百姓)
 ・大折目(按司・惣地頭・オエカ人・百姓)
 ・柴指(按司・惣地頭・オエカ人・百姓)
 ・芋ナイ(按司・惣地頭・オエカ人・百姓)
 ・大折目次日(オエカ人・百姓)
 (上の祭祀は今帰仁巫とトモノカネ巫の管轄)

(以下、部分は郡(古宇利)村の祭祀の後ろについている。それは祭祀が行われる場所や流れから明らかに今帰仁グスクでの祭祀である。もちろん古宇利島でも大折目(=海神祭)が行われていた。 そこで、郡(古宇利)村の後ろに続く大折目(海神祭)を今帰仁グスクでの流れに合わせてみた。
【毎年七月大折目(海神祭)】
  毎年七月、大折目トテ、海神祭、且作毛之為ニ巫・大根神・居神、都合二十数人余、城内のヨウスイト云所ニ、
  
タモトヲ居ヘ、花・五水(両惣地頭ヨリ出ル)祭祀シテ、アワシ川ノ水トリ、巫大根神、浴テ、七度アザナ廻リイタ
  シ、於
酒祭ル也(自按司出ル)。ソレヨリ縄ヲ引張船漕真似ヲ仕リ、城門外ヨリ、惣様馬ニ乗、弓箭ヲ持、ナカ
  レ庭
ト云所ニ参リ、塩撫、親川ニイタリテ水撫デ、又城内、ヨウスイニテ、祭祀也。

 旧暦七月に行われる大折目は海神祭といい、ノロはじめ大根神、居神など20数人が参加する。海神祭のとき、羽地間切は仲尾村の神アシアゲと池城神アシアゲ(親川グスク)、名護間切は名護グスク内の神アシアゲにの間切中のノロが集まって祭祀を行う。そこに按司や惣地頭が関わる。今帰仁グスクの神アシアゲの20数名の神人が集まるのは今帰仁間切内のノロが参集したものであろう。1666年に伊野波(本部)間切が分割する以前は、伊野波(本部)間切内のノロも海神祭のとき今帰仁グスク内の神アサギに集まったと見られる。その痕跡は本部側に見られる。

 ところで『琉球国由来記』(1713年)の海神祭を流れにそってその場所を確認しておきたい。
  大折目だが、今泊では旧盆明けの亥の日に行われる。三日間に行われる。一日目はウーニフジ、二日目をウプユミ(大折目)、そして三日目がシマウイミ(島折目)である。三日間の祭祀を海神祭と呼んでいる。
 
 城内ノヨウスイであるが、タモトを居へとあり、神アサギ内にタモト木を置くということであろう。するタモト木が置かれる場所なので城内の神アサギだと見ていい。そこで両惣地頭から花・五水がだされる。アワシ川から水をとる。志慶真村跡から志慶真川に降りていった場所はアーシージャーと呼ばれているのでそのカーか。(志慶真乙樽を出す家の方のウガンに参加したことがある。親川にあるような窪み石がある)。アザナは本丸の隅にある。庭は大庭のこと。そこで酒を振舞ったり餅を配ったりする。縄を引っ張り船漕ぎの所作をしたのであろう(そこでの船漕ぎはみたことはない)。
 
 惣様(惣地頭)は城外から馬に乗り、弓矢を持って(弓:ヌミか)を持って、ナカレ庭にゆく。塩撫でをするので海岸である。二日目のウプユミのとき、シバンティナの浜で潮撫でをするので、そこなのであろう。それから親川で水撫でをする。親川はグスクの登り口にある親川(エーガー)のこと。今はシバンティナの浜で潮撫でするとノロ殿内近くでグスクに向かって遥拝して終わる。親川から、再度グスク内のヨウスイ(城内の神アサギ)に行き祭祀を行う。


 20年前から今帰仁グスクでの大折目(海神祭)を、数人いた神人の時何度か見てきた。『琉球国由来記』の大折目(海神祭)は頭になかったので重ね合わせをしてこなかった。重ね合わせ見ると、簡略化されているが、大筋流れに沿って伝えられている。大折目の時、隣の具志堅ノロもグスクでの大折目(海神祭)に参加していたのは本部間切域のノロが今帰仁グスクでの祭祀に参加していた痕跡としてとらえてよさそうである。(具志堅では今でも今帰仁グスクに向かって遥拝している)。

 
         ▲ヨウスイ(神アサギ跡)                   ▲アザナなど七度廻り

 
   ▲神アサギ跡での大折目(海神祭)         ▲ナガレ庭での潮撫(シバンティーナ浜)


【クボウヌウタキでの祭祀】

2003年1月18日(土)

 歴文の後方にあるクボウヌ御嶽の頂上まで登った。標高約189mのカルスト地形をなした山(ムイ)の一つである。地元ではウガーミやクバンウタキと呼んでいる。クボウやクバはビロウのことで、かつてクバが繁茂していたという。名称もクバに由来しているのだろう。
 「往昔の世、新神が出現するとき、八、九月の間、黄凉傘がアフリヌハナ嶽(今帰仁間切謝名村)に立つと、赤凉傘がクボウヌ嶽(今帰仁間切今帰仁村)に立つ。逆に黄凉傘がクボウヌ嶽に立つと赤凉傘がアフリバナ嶽に立つ。また国頭間切のアフリ嶽に立つこともある。・・・・十月になると神の出現あり。・・・」とあり、クボウヌ御嶽は琉球国の国家レベルの御嶽の一つであった。

 国家レベルの祭祀は近世になって廃止されたようである。おそらく、廃止は今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司一族が1665年に首里に引き上げることを許されたことと無縁ではなかろう。というのは、このような国レベルの祭祀を掌っていたのは今帰仁阿応理屋恵だったのだから。監守引き上げが許されなかったのは、阿応理屋恵が掌るこのような重要な祭祀があったからではなかったか。
 今では今泊(今帰仁ノロ管轄の今帰仁村と親泊村)が旧暦5月15日と9月15日にウプウガンやムラーウガンの祭祀が行われている。かつては大勢のムラの人たちが参加し、今帰仁ノロの祈願はムラ(あるいは国)の繁盛、五穀豊穣、航海安全である。クボウヌ御嶽への遥拝場所が歴文の入り口にあり、御嶽まで行けない方々はそこで遥拝する。
 
 世界遺産となった今帰仁グスク、隣接して琉球国レベルで行われていたクボウヌ御嶽での祭祀。このような文化遺産と隣接して山を削りとろうとする計画がある。世界遺産にあげた時、バッファーゾーンをもっと広げて欲しいとの要望もあるわけで、範囲を広げて保護していこうというなら理解できるが、削り取りたいとの計画なら許されるものではない。 



     ▲歴文からみたクボウヌ御嶽(標高189m)

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▲クボウヌ御嶽の頂上から麓をみる。左側の写真に歴文、右側に今帰仁グスク

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   ▲御嶽の麓に広場の香炉(イビヌメーか)       ▲中腹にあるイビ(香炉がある)

【グスク内での祭祀】

2003.2.1(土)


 旧正月なり。今帰仁グススの桜や御願の様子をみてきました。今帰仁グスクへ上る道筋は満開です。グスク内の数本も満開。例年通り揃っての満開状態はなさそう。でも来週あたりまで見ごろかな!
 旧正月で今帰仁グスク内の火神の祠の中で御願(ウガン)している方々がいました。何を願ったのでしょうかね。神人というよりユタさんでしたね。カラウカーの水はほとんど枯れています。ここニ、三日雨がなければ、カラウカーの水量はほとんどありませんので、今年は少雨かな。かつては、カラウカーの正月の水量で吉凶を占ったというが(今では行われていない)。

 今日は旧正月なので、近くのカーや井戸で若水取りをしただろうか。例えば、今帰仁村の今泊では元旦の立御願として(『今泊誌』)、
    「早朝火の神に御願をし、次にトバシリ(表座敷)からクバの御嶽
    に御花(米)・御合水(泡盛)・仙香を供えて遥拝し、新年の御願
    をして一家の健康と繁栄を祈願し、更に御先祖の霊に御願をす
    る。それが終わると一家揃って朝食をいただき新年を祝った」
という。また次のような古歌もあるようだ。
       新たまる年に炭と昆布かざて
         心から姿 若くなゆさ

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        ▲グスク内の歌碑の前の桜           ▲今帰仁グスクの大隅(ウーシミ)の城壁

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           ▲今帰仁グスクの大隅(ウーシミ)の城壁

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      ▲今帰仁グスクのカラウカー(旧元旦)       ▲祠の中で御願をしています



【ムラの集落移動】

2003.5.16(金)

 17世紀初頭まで今帰仁グスクの前方にあった今帰仁村(ムラ)の集落が海岸に近い場所に移動している。今帰仁村(ムラ)の集落部分は現在の今泊の西側半分だとみられる。現在、ハタイ原で発掘調査がスタートしている。そのハタイ原域にあった集落がどの範囲まで広がり、そしてどのようなプランになっていたのか。現在の地籍図から見ると、碁盤状といわれているような方形状の区画ではないので、城下へ移動したときに碁盤(方形)状の区画がなされたのであろう。

 集落が碁盤状といわれる方形状であったのか。それとも塊状であったのか。あるいは不規則な形だったのか。ハタイ原にあった集落がどのようなプランになっていたかは、移動後の集落のプランがほぼ方形状なので、その起源について考える手がかりとなりそうである。(現在のハンタ原とハタイ原の地籍からすると方形状ではないので、移動時に計画的に区画された可能性がある)。

 城下に移動した集落が方形状に区画されていると見ると、17世紀初頭に方形状の集落の区画があったと考えることが可能となってくる。今帰仁グスク前方の集落のあったハンタ原とハタイ原の集落のプランの形式によっては、いろいろな議論ができそうである。
 今帰仁村(ムラ)に限定して言うならば17世紀初頭には方形の集落のプランの出現をみることができそうである。今帰仁グスク前方のハンタ原とハタイ原に方形状の集落が確認できたなら、方形状の集落の出現は17世紀以前の古い時期にさかのぼることもできそうである。果たしてどうであろうか。

 現在の今泊の集落プランをもう少し丁寧に見る必要がありそうである。移動してからの集落が、どう展開していったのか。今帰仁グスクの前方にあるトゥムヌハーニー火神の祠や今帰仁ノロ火神の祠、そして阿応理屋恵ノロ火神の祠などが、移動したとき、集落のどのような場所に移ったのか。さらに神ハサギや旧家などの位置を含めてみると、そこに法則性が見出されるのか。なかなか興味深いものがありそうだ。
 

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     ▲道や福木で方形に区画された集落が見られる

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    ▲集落移動の根拠とされる応理屋恵ノロドゥンチの祠とその内部

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  ▲祠の内部にある位牌(左が順治十五年)          ▲今泊のシルバマ(白浜)