原石の写真(スケッチ/拓本)          備   考

ヲ いれ原
【古宇利】 01 
 「ヲ いれ原」は古宇利島にある原石である。村内で唯一現場に残された原石である。「ヲ いれ原」の石は土手の中央部に設置されている。文献にある土手は原石も含んでいるのであろうが、石をめぐらして積んだものであろう。この原石の立っている小字(原)は現在「立ち原」となっている。一帯は原域の組替えがなされているようで、元文検地の頃は「いれ原」であったに違いない。「いれ原」は西原のことだと思われるが、現在の「西原」は「立ち原」の南側の「野路原」のさらに南側に位置する。大幅な原域の変更があったと見られる。方言音の
「いり原」を「いれ原」と表記したのであろう。高さ50p、幅30pあり。

▲レ いれ原
【古宇利】02
 「レ いれ原」の原石は古宇利島にある古宇利に「いれ原」の原石が三基ある、その一基。移動して上原集落にあった。現在、歴史文化センターに展示。この原石は「いろは・・・・」「イロハ・・・・」の「レ」の符号。縦最大60p、幅最大26p 現在の「立ち原」や「野路原」あたりまで「いれ原」(西原)だったのだろうか。元文検地後に大幅な原域の組替えがなされたにちがいない。 

▲お いれ原
【古宇利】03
 「お いれ原」の原石は古宇利の松田さんの門近くに置いてある。「いれ原」と刻まれた三基の原石の一つである。
同じ原名の原石が三基あるとはめずらしい。この原石に刻まれた文字は「お」であるが手持ちの辞書に登場しない文字。古宇利の下原の松田富士男氏の庭にあるもの。

▲に あ加れ原
【古宇利】04
 「に あ加れ原」の原石は、今年入ってからの確認である(区長さんの案内で)。島の人たちは以前から知っていたようである。「あ加れ原」は現在の東原の小字へつながる。その原石が置かれている場所(土手から移動)は、現在の東原である。方言音の「あがり」を「あ加れ」と表記するとは、「り」が「れ」となる法則性を知った言語学者か。「いり原」を「いれ原」とするのも同じ。方言音の「あがり原」を「あ加れ」原と表記したのであろう。また、濁音の「が」は「加」で表記してある。

▲ほ あらさき原
【古宇利】05 
 「ほ あらさき原」は仲宗根氏の庭先にある原石。現在の古宇利の小字にない原名である。話ではホーバイの方に畑があり、そこから持ってきたという。また、島の北西の方に「あらさきみさき」があり、島の北側に「あらさき原」があったと見られる。そこでも小字(原)域の組換えがあったことを示している。高さ48p、幅25pあり。


▲エ うけた原
【上運天】06
 
現在「エ うけた原」の原石は天底の個人宅の庭にあるが、もとは上運天にあったもの。現在「うけた原」の小字はないが、明治の資料で「うけた原」の原名が登場してくる。現在の「親川原」に含まれているようだ。地名として「浮田港」(現在伊是名や伊平屋行の運天港)やウケタ嶽(『琉球国由来記』)としてある。かつて浮田港一帯は「うけた原」であったにちがいない。ここでも方言音の「うきた」の「き」を「け」と表記している。ここでも原域の組替えが伺える。

▲の 石加き原
【勢理客】07
 「の 石加き原」は勢理客の安谷屋氏の庭にあり、かつてあった場所から移動している。現在、勢理客には立増・中道・石垣・吉事の四つの小字があり、原石の「石加き原」は、現在の石垣原へとつながっているにちがいない。勢理客の金・立石・小禄・浜の四つの小字は昭和16年に字渡喜仁へ編入された。石垣(イシガチ)の義は石の多いところの意味。濁音の「が」は「加」で表記してある。高さ49p、幅23pあり。

▲ノ しつや原?
【天底】08
 「ノ しつや原」か。砥石として使われていたので摩滅し判読しにくい(「しら石原」の可能性もある)。「しら石原」であれば、現在の「白石原」につながってくる。天底は1721年に伊豆味(本部間切)付近から移動した村である。元文検地はその後なので、天底の原石や原名は移動後ということになる。かつて天底の故新城新吉氏宅にあったが、最近不明となっている。高さ60p、幅24pあり。

▲ユ うち原
【玉城】09
 「ユ うち原」は玉城の「ウチ原」にある原石である。現在「ウチ原」内にあるが、元の場所から少し移動している。現在の玉城は明治36年に玉城・岸本・寒水の三ケ村が合併している。寒水・ソウーリ川原・岸本原・ウチ原・古島原・外間原・東アザナ原・西アザナ原からなる。高さ46p、27pあり。
 

て かしら原の拓本
【謝名】10
 「て かしら原」は謝名の小字「頭原」につながる原名である。頭原は謝名と越地にあるが越地は謝名からの分字である。分字のとき頭原を謝名と越地に二分したものである。もともとは謝名村の頭原とみてよい。方言音の「カーシリ」を「かしら」と表記したなら「河尻」の義とみることもできそう。ミンナガーラの下流域にあたるので可能性としては充分ある。高さ35p、幅22pあり。

▲ミ うへてな原

【謝名】11
 「ミ うへてな原」は謝名の現在の小字「上手名原」につながる原名である。平敷と隣接し、方言でウイジャナと呼ぶが「上手名」や「上謝名」の字を充てている。謝名の上の方という意味か。左側は拓本。高さ40p、幅22pあり。

▲ウ ちやな原の拓本
【謝名】12
 「ウ ちやな原」は謝名村にあった原石である。「ちやな」は方言でヂャナと発音されたと見られる。しかし現在の小字に「ちやな原」はないが、それに近い「謝名俣原」がある。それでも、原域(小字)の組替えがなされていることがわかる。「ちやな原」は謝名俣原につながる原かどうか、まだ定かでない。縦最大で50p、横幅30pの微粒砂岩である。

▲に 大こふ原 右は拓本
【謝名】13
 「に 大こふ原」は謝名村にあった原石。現在の「大久保原」につながる原名である。ところが明治期の「平敷村略図」に「大コブ原」があり、平敷村の原名の可能性もあるが、ここでは謝名村としておく。大こふ原は方言でウークブバルで「大きな窪地」に因んだ原名。高さ52p、幅22pあり。

▲井 ふ□さ□原
【平敷】14
 「井 ふ□さ□原」か。途中から折れているので文字が不明部分があるが、平敷村略図の位置からすると、「外さく原」の原域にあるので、「ふ原」と彫られていると見られる。現在平敷のマチヌヘーにあり、ガジマルの大木の下に置かれ線香がたかれている。かつては松の大木があり、稲を干す場所に使われていたという。井はゐの真(楷書)。

▲□ □けら原?
【諸志】15
 この原石は諸志の内間巌夫氏の庭にあり上下破損しているので、原名の文字の判読ははっきりできない。判読できる部分が「□ □けら原」なので、現在の竹原はダケラ原やダケラン原と呼んでいるので、その可能性がある。横幅は27cmあり。

▲よ さき原
【諸志】16
 この原石は諸志の内間巌夫氏宅の庭にある。下分部が破損し失っている。「よ さき原」とあり、諸志の小字「崎原」(サチバル)につながる原名とみられる。諸志は諸喜田村と志慶真村が明治36年に合併した村(ムラ)である。二つの村の小字の区別があったのか。諸喜田村の地に志慶真村が入組むように移動しているので、区別はなかったかもしれない。

▲さ ひろ原(拓本)
【諸志】17
 諸志の内間俊彦氏宅の庭にあった原石である。「さ ひろ原」とあり、現在の諸志の小字東広原と西広原がある。東・西の広原に分けられる以前の原域に設置されていたのであろう。高さ56p、幅26pあり。

▲ソ・フ 加祢寸原(拓本)
【兼次】18・19
 兼次の大城哲夫氏宅にある原石である。「ソ 加祢寸原」と彫られている。高さ48p、幅29pあり。カネス原である。方言ではカニシやハニシである。現在の小字ない原名でムラウチの村屋敷原あたりの原名ではないかと想定している。「フ 加祢寸原」は現在歴史文化センター所蔵である。かつて、兼次の民家にあったものである。高さ54p、幅27pあり。

▲れ □□原(さき原)
【今泊】20
 今泊の民家にある原石。「れ □□原」であるが、砥石に使われていたため、字が磨耗して判読できないが、所有者によると「さき原」と彫られていたという。高さ52p、幅25pあり。今泊の現在の小字に「崎原」があり、それにつながる原名と見られる。
原石の写真 備   考


@大宜味村津波
「ユ あさ加原」の原石。大宜味村津波の現在の「あざか原」に立っている。あざか橋やあざか川などがある。岩の上にコンクリートで固められているので、いくらか場所移動している。その場所はかつての平南村の地であるので、設置当時は平南村の原域だったと思われる。ここでは津波村に組み込まれるが原名はそのまま踏襲されているようだ。
A大宜味村津波
 「井 つは原」の原石。津波の集落内にあり、現在の小字「津波原」に立っている。石積みの土手は失っているが、屋敷裏の土手に少し斜めに立っている。原石の設置当時の原名を踏襲しているようだ。
B大宜味村根路銘
 「ほかま原」(外間原)の原石。現物はまだ未確認。「東り新屋の屋敷内にあり」と写真もある(『根路銘誌』31頁)
C大宜味村謝名城
 「ゑ こすく原」は根謝銘グスクの入口にあった原石。近年どこかなか移動しているようだ。一帯は城(ぐすく)村のあった場所で、城村の「こすく原」(ぐすく原)の原域でろう。現在でも城原の小字があり、地名は踏襲されているようだ。
D国頭村比地
 「ぬ ひち原」の原石。集落入口(旧公民館のガヂマルの木の根元)に設置されている原石。上部に字比地の掲示板があり、集落への入口に設置され石敢当の役目をさせているのか?


E国頭村比地
 「ゐ つはの原」の原石。下部分が破損している。現在の小字に原名はないので原域の組換えがなされている。記号の「ゐ」部分も剥離している。旧集落の屋敷にあったもの。裏側に「ス また□原」とある。両面に彫られているのは珍しい。現在の比地の小字に「また□原」は存在しない。小地名に残っている可能性は十分ある。
F国頭村奥
 「ひ きにふく原」の原石。奥資料館内にある原石。現在の小字にない原名である。原域の変更が大幅にあったのであろうか。


G国頭村奥
 「へ まへふくち原」(前福地原)の原石。奥資料館内にある原石。現在の小字にない原名である。奥は大分原域の組替えがあったのであろうか。


大宜味・国頭の原石
山原の原石
        原石(ハルイシ)って、
        なんだろう??

                 
                 ■今帰仁の原石
              
■大宜味・国頭の原石

「・・・原」と刻まれた石がある。原石というが、それはなんだろう?今帰仁ではハル石やパル石と呼ばれている。それが、どう使われたのか今では忘れられている。そのために、現場から持ち帰って砥石や庭石や拝所の拝み石などにしたりしている。ハル石は文献で「印部土手」と記されている。印土手にも惣方切土手・山野土手・境界土手・杣山土手・田畠土手・原々印部土手・川面土手などがある。土地を測量したときに使った図根点。土地争いなどが生じたときに、境界線や面積や距離などの基準点となったのでしょう。
 蔡温の時代に元文検地(御支配)が実施されている。乾隆2年から14年の歳月を費やして、沖縄本島と周辺離島の測量が実施されている。その時の図根点として使われたものであるが、設置の目的や機能が忘れ去られ、石に刻まれた「・・・原」に因んでパル石やハル石と呼ばれている。
 原石の表記に特長を見ることができる。原名を表記した役人は首里王府に仕え、方言の法則性に精通していたとみえる。例えば方言音の「いり」(西)を「いれ」、「あがり」を「あがれ」。また「あがり」を「あ加れ」、「いしがき」を「石加き」と濁音の「が」を「加」で表記している。それに、現在の小字も近世から何度か組換えがなされているため、語義の議論も復元作業をしながら進めていく必要がありそう。
 これまで、今帰仁村で(平成13年)に確認できた原石を紹介してみたが、原石の調査や研究は、近世の土地制度や土地利用に迫るものであると、同時に原域(現在の小字)や地名研究を深化させるものと考えている。
今年になって古宇利島で新しい原石が三基が確認された。まだ、まだ増え続けていくであろう。
 さて、これまで今帰仁村で確認できた原石を紹介したが、原石が具体的にどのように使われたのか見てみよう。「今帰仁旧城図」は『具志川家家譜』所収のものである。この針図は乾隆8(1743)年に今帰仁城跡の測量図である。本門から測量がスタートしているが、針本は「はんた原 フ」の印の原石である。「はんた原フノ印針本ヨリ戌下小間右小十八間」とある。図からすると本門から戌(西北)の方向18間(約32.4m)のところに原石があった。村内に残っている原石も田畑や山野の測量に使われたのであろう。「はんた原 フ」の原石はまだ確認されていないが、将来発見されるかもしれない。期待したい。




            今帰仁の原石