八重山―波照間島(竹富町) トップへ

          


 2007年10月17日から19日まで波照間島をゆく。沖縄県地域史協議会の研修会である。波照間島を中心としたテーマでの研修会である。17日は波照間農村集落センターで「波照間島の歴史と文化」と「波照間島の村落形成」の二本の講演がなされた。

 18日は島の約30カ所の場所の巡見であった。私は数個のテーマを持っての参加である。沖縄本島北部と歴史・文化の関わりが希薄な波照間島を見るのであるが、沖縄本島を含めて見えるキーワード探しでは、それぞれの地が独自性の歴史文化をつくっているのではないかとの視点でみていくことに。それと、沖縄本島との違いは16世紀に首里王府へ統治される以前の先島の歴史・文化が、今にどう伝えているか。そのようなことを思い描きながら島のあれこれを見せてもらった。


 山原、あるいは沖縄本島で見てきた御嶽(ウタキ)と集落との関係、あるいはグスクなどとは異なった説明を必要とした。そこで見える法則性が先島の島々や村、あるいは集落と御嶽(オン・ワー)との関係が島に住んできた人々が持っている本質的なものではないか。島を見る物差と先島域をみる物差、そして琉球国から見る物差しが必要であることに気づかされる。

  ・長田(ナーダ)御嶽は長田大主が祀られている。

・美底(ミスク)御嶽は獅子嘉殿が祀られている。

・オヤケアカハチの生誕地(歴史の評価で御嶽になるのだろうか?)
 ・嶽(ワー)と集落との関わり(集落は村でなく人家がある地域として捉えている)
 ・現在までの集落移動の経過(低地→段丘上→島の中央部へ)
 ・嶽(ワー)と御嶽(ウタキ)
  (住居跡がワーにしていく傾向がある。本島では火神をまつるが香炉を置き
イビにしてある)
 ・嶽(ワー)と祭祀(神人の出自と旧家)と島全体の祭祀関係(行政村以前の
集落形態がみえそう)
 ・スク(グスク)と集落(ワーを中心として集落を形成、故地のワーも遺す)
 ・下田原グスク(大規模)と先島文化(下田原グスクを拠点とした時代を想定)
 ・下田原グスクを中心とした時代(波照間島)→竹富島→石垣島
(先島文化に与えた影響?)
 ・歴史的な人物を排出した島(オヤケアカハチ・長田大主・ミスクシシガドン・
ウヤマシアガダナ・
  ゲートゥ・ホーラなど:伊平屋・伊是名島が排出した
人物にまつわる歴史が彷彿)
 ・石垣の白保にある波照間嶽と移住した民(移住先で嶽をつくる習性を持った民)
 ・『琉球国由来記』(1713年)に波照間村とあり真徳利御嶽(マートゥーリワー)と
白郎原御嶽
  (シサバルワー)と阿幸俣御嶽(アバティワー)が登場する。


 波照間島には天啓6年(1626)8月28日付の首里王府発給の辞令書(八重山間切の新本目差職補任辞令書)がある。その辞令書は『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県文化財調査報告書大18号)と『琉球文化の研究』(加藤三吾)付録の「八重山文化の探究」(河村只雄)に収録されている。ただし、『南方文化の探究』(講談社学術文庫)では辞令書の写真が外されている。

   首里の御ミ事             首里の御ミ事
   やへままきりの            八重山間切の
   あらぬとめさしハ           新本目差の目差は
   一人あらぬとのちくに        一人新本の筑登之に
   たまわり申候             給申候
  天啓六年八月二十八日        天啓六年八月二十八日

 辞令書の「あらぬと」は村名で、崇貞元年(1628)までに波照間村と平田村、そして「あらんと村」が統合されたようである。辞令書は統合される直前である。1628年頃の首里王府と最南端の島との統治関係がうかがえる。新本(村)の目差職に新本の筑登之を任命するというものである。首里王府は辞令書の発給で八重山の最南端の島まで統治している。

 
  
  ▲オヤケアカハチの生誕地             ▲長田大主と関わる嶽(ワー)

琉球国の最南端の波照間島の下田原城を見た時の第一印象は、八重山地域に文化があるとするなら、このグスクが拠点となっていた時代があったのではないかと。15~16世紀にかけて集落遺跡と位置づけられている。島の南東の標高25mほどの台地上の崖に沿って造られている。グスクが独立した形であるのではなく、周辺に石積みの屋敷囲いがいくとも連続してある。その中心の石囲いがグスクの中心部とみられる。50~100×180m規模の石囲いが残っているようである。

下田原グスクに立ってみた印象は、このグスクが栄えていたとみられる15~16世紀の頃、下田原グスクを拠点にして北側に散在する島々を統治していた時代があったのではないか。グスクからどのくらいの遺物が出土するかわからないが、規模と取り巻いている集落の後からいくらか想像が巡らしてみると面白い。竹富町の一島であるが、グスクの時代は波照間島の下田原グスクが統治の要になった時代を想定してみると興味深い。波照間島のグスクの位置する場所は、石垣島や西表島などの島々をつなぐ拠点になっていたのではないかとみた。

 
  ▲ミシュク集落跡にあるミシュクケー(井戸)     ▲集落跡地にある石(イビ?)

  
  ▲アースクワーの拝殿とイベ          ▲ワー内の道筋(隣接して旧家がある)

 

    ▲下田原城遺跡入口               ▲下田原城遺跡の石積み

 

  ▲下田原城遺跡の石積み          ▲下田原城遺跡の石積み(通路跡?)


 
  ▲高登盛(コート盛)(火番盛)          ▲高登盛の上部の様子

 
  ▲波照間島でみた茅葺屋根の建物        ▲屋敷跡の火神(ワー?)と香炉