企画展

  沖縄県 古宇利島

              
―島に橋が架かる―

                (
終 了

       ■期 間  平成16年10月2日(土)〜17年3月(終了)
       ■会 場  沖縄県今帰仁村歴史文化センター
       ■主 催  今帰仁村教育委員会
       ■連 絡  今帰仁村歴史文化センター
           (0980−56−5767 Fax0980-56-2789)




企画展      古 宇 利 島

                  島に橋が架かる

沖縄県今帰仁村の古宇利島をテーマにした企画展を開催する。歴史文化センターが、ここ16年間島とは様々なところで関わってきた。今回は以下のテーマで展示をする。この企画展は毎年行なっている学芸員実習の実践の場を兼ねている。一部、学生達の手でつくられた作品でもある。

  ・古宇利島の概要
  ・復帰の頃の島
  ・異国船遠見所(台)
  ・歴史的な絵図に見る古宇利島
  ・古宇利の原石(パルイシ)
  ・島の伝説―人類発祥伝説―
  ・島を遊歩する
  ・島の小字と地名
  ・古宇利大橋―人が通る―
  ・石垣のある家
  ・島の年中祭祀
  ・古宇利島の海神祭(ウンジャミ)
  ・島の神アサギ
  ・島の人々の生業
  ・島の遺跡
  ・島の漁業
  ・古宇利島や海の地名
  ・島の戦後の文書(公民館資料)

また、平成17年3月に古宇利大橋の開通が予定されている。それに合わせて『古宇利誌』の発刊を進めている。古宇利大橋の開通時には、古宇利島の企画展が開催されている最中であり、時期を得たものである。企画展は歴史文化センターの調査・研究の成果を一堂に紹介する場面でもある。規模としては限られたスペースでの展示なので、『なきじん研究』を手にしていただければ幸いである。職員や学芸員実習の学生達の力量がどのようなものか試す場面でもある。企画する方としては、手作りの手ごたえのある展示ができたのではないかと思っている。

 まずは、みんなで古宇利島を楽しく展示していければと考えている。歴史文化センターは古宇利島の祭祀や様々なテーマでの調査や学校の総合学習で、十数年近く関わってきた。古宇利島からいただいた資料や情報を企画展を通して還していく作業だと思いながらの展示作業であった。

企画展を開催するにあたり、島の小浜区長をはじめ島の方々の多大なお力添えがあったことをここに記しておきます。ご協力ありがとうございました。
                    
                     今帰仁村歴史文化センター館長 仲原 弘哲


      古宇利島島に橋が架かる(展示の概要)

 古宇利島は沖縄県今帰仁村にあり、離島で一字(アザ)である。古宇利島に古宇利大橋が架かり平成17年3月に開通の予定である。橋の長さは約2kmあり、島の直径にほぼ等しい距離である。
 島の人口は約350人、世帯数が120である。産業は農業で紅イモやサトウキビが生産されている。また漁業を営む漁師もおり、ウニやタコや養殖モズクの栽培が行なわれている。
 現在古宇利港と運天港を一日5回フェリーが運航している。古宇利大橋が開通すると、フェリーの運航がなくなる。
 島のことをフイジマやクイジマと呼ばれる。クイの表記がこほりで、こほりに郡の字が充てられたとみられる。クイジマと呼ばれながら表記は郡→こほり→古宇利と変遷をたどる。
 近世の中頃になると、今帰仁間切の地頭代はl古宇利親雲上を名乗るようになる。地頭代をした家はフイヤーやメーフイヤーの屋号がつく。フイは古宇利のことである。
 昭和30年代の古宇利島には馬や豚が多く養われていた。まだ電気も自家発電で水道も引かれていない時代である。水は雨水利用したり、アガリヌハーやイリヌハーの井戸から水を汲んで利用していた。
 戦前まで古宇利島の海上交通はウプドゥマイと運天のクンジャーとの間を往来していた。運天港からの渡し船の往来は戦後になってからである。運天港付近に大和人墓があり、種子島や奄美との関わりが知れる。古宇利島から天保の貨幣が数多く見つかったことがある。古宇利島は、ある意味では運天港の外港としての役割を果たしている。
 運天港へ出入口としての役割を果たしている。古琉球や近世の絵図の多くに古宇利島のことが描かれているのは、外港としての役割があったからであろう。
 1644年に烽火の制度が敷かれた。冊封船や異国船、あるいは階船がやってくると、烽火をあげて近くの遠見所(台)に伝え、最終的には弁が岳(首里王府)に知らせる伝達である。その遠見所(台)が古宇利島の最高部(107m)にあり、伊是名島や国頭村伊地から連絡をうけ、具志堅と今泊の境にある大嶺原のピータティファイへ、そこから伊江島へと煙で連絡する。
 遠見所(台)のある場所は今では国土地理院管理の「二等 三角点」となっている。
 近世の地図、そのほとんどに古宇利島が描かれている。運天港の外港として重要な役割を担っていたからに違いない。また18世紀中頃になると今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上を名乗り、そしてメーフイヤー(前古宇利親雲上屋)の屋号を賜る。古宇利島が地頭代の所管村となる。



 原石は元文検地(1737〜50年)のとき今帰仁間切全域を測量したときの測量図根点である。今帰仁間切の検地は1743年頃である。古宇利島には五基の原石が確認されている。「ヲ いれ原」の原石は土手を盛り、土手の中央部に原石が設置されている(村指定).。「いれ原」の原石は三基あり、記号は「ヲ」「レ」「お」である。現場にある「ヲ いれ原」の小字は「立ち原」で、かつては「いれ原」だったのかもしれない。原域の組み替えがあり、現在の原域とは異なる。
 「ほ あらさき原」の原石はムラウチの個人の屋敷に置かれている。古宇利島の北側から持ってきたという。その場所が特定できると、あらさき原がどこらあたりか確定できるのだが。島の北側に小地名として「あらさき」(荒崎)がある。灯台あたり。
 「ユ あかれ原」は現在の東原の土手に放置されていたものである。一帯は東原で、原石設置当時と変っていないのかもしれない。
 島にはいくつもの民話がある。その中でよく知られているのが人類発祥伝承の話してある。物語の二人が住んでいたというのが、シラサの小さい洞窟である。クイジマをコイジマ(恋の島)に例えたりする。
 島には渡海浜やポットホール、イリヌハーやアガリヌハー、池やソーヌ浜など、島散歩するのにいい場所がある。
 島には石垣のある屋敷が目につく。スントーヤー・アガリジョウ・ワクガヌーヤーなど。石垣のある屋敷はムラウチ集落の東側に目立つ。一帯は福木もあり、落ち着いた島の雰囲気がある。古宇利大橋が開通すると橋から目につくのは、福木と石垣のある集落が島を印象づけ、島への玄関口となりそう。
 石垣のある屋敷や家についての情報がもっと必要である。集落整備の重要なポイントになりそう。

 各地の島々を歩いていると石垣の屋敷の家々が目につく。古宇利島でもそうである。古宇利島の石垣は琉球石灰岩と海石(珊瑚石灰岩)が主である。今回の企画展でムラウチ集落の部分が、まだ茅葺きの家があったころをイメージして描いてもらった(松村真利)。

 ムラウチ集落の東側には福木や石垣の屋敷が残っている。それは島のシンボルになるに違いない。スントーヤー・アガリジョウ・ワクガヌヤーなどと歩いてみたいと考えている。ここが「スントーヤーか。きっと明治31年から同41年の間に村頭(スントー)が出た家なのだろう」と。また「そこはワクガヌヤーか。1738年以前に名付けられた家なら、地頭代がでた家なのだろう。きっと1738年以降に夫地頭の一つ湧川大屋子を勤めた人物が出た家なのだろう」と見てゆくのもいい。
 古宇利大橋は平成17年3月には開通の予定である。橋の長さが1960m。島の直径も約2q。古宇利大橋が架かることで島は、待ったなしで大きく変貌していくであろう。
 島の人や島を離れた方々は昭和30年代から40年代の古宇利島の風景や様子に思いはせている。橋の開通後は、橋が架かる前は、架かった後はという議論になりそうである。今回の企画展は、そのことを意識しての展示会である。
 島にはウンジャミ(海神祭)をはじめ、タキヌウガンやサーザーウェーなど、本島側の祭祀に比べるとしっかりと行なわれている。そのこともあって「神の島」とも呼ばれる。
〔古宇利島の遺跡〕
・古宇利A遺跡
・古宇利B遺跡
・古宇利C遺跡
・中原遺跡
・古宇利グスク



             企画展―古宇利島―開催準備にあたって

 沖縄県今帰仁村の古宇利島をテーマにした企画展を開催する。歴史文化センターが、ここ16年間島と関わった様々テーマを展示で紹介してみたいと考えている。展示の具体的なことは、これから詰めていくが、この展示会には学芸員実習を兼ねたものである。また平成17年4月?に古宇利大橋の開通が予定されている。それと『古宇利誌』の発刊も控えている。開通のときに、古宇利島の展示が開催中で、また古宇利をしる『古宇利誌』の発刊を予定している。

 企画展は歴史文化センターがこれまでの調査・研究の成果を一堂に紹介する場面でもある。どの規模の展示になるかこれからつめていくが、職員や学芸員実習の学生達の力量に負う部分が大きい。どんな展示なるか、企画する方としても手ごたえのある展示ができそうである。

 これから準備段階から展示項目を順次掲載していく予定である。これまでの調査資料の集約であることと、展示という性格10数項目の展示となる予定である。項目はできるだけ多く掲げるが、あるところから削り取る作業となっていく。途中、職員の力量や時間や予算などの制約もあり変更はたびたびある。まだ企画したことのない島を展示で表現していくわけだから。いいテーマではあるが、展示にならないこともよくある。

 まずは古宇利島を楽しく展示していこうと考えている。歴史文化センターは祭祀や島の調査や学校の総合学習で、これまで十数年関わってきた。これまで島からいただいた資料や情報を企画展を通して還していく作業である。企画展を開催するにあたり、島の方々の力をお借りすることも大きい。ご協力よろしくお願い致します。

  展示項目

■島の概要(島を見る位置・土地利用・地形・成り立ち・人口・島の呼称など)
        (位置図:辺戸・大宜味・伊江島など各地からみた古宇利島)
■島の歴史(島の遺跡〜現在)
■古宇利島を記した歴史的な地図(10枚程)
■島の集落と人々(ムラウチ・ウイバル・ヒチャバル)
■島の小字(原名と小地名と原石)
■島の伝承・言語など
■島で行われている祭祀(サーザーウェー・海神祭・タキヌウガン・
  豊年祭など)
■島の祭祀空間(七森七嶽・神アサギ・神道・シラサなど)
■離島苦(シマチャビ)と生活
■島の港(ウプドゥマイ・チグヌ浜など)
■島の植物や蝶や動物など
■島の漁業(漁法・海や海岸の地名など)
■島の学校
■水と生活(二つの井戸、天水、ため池、運天のクンジャーからの水汲み
  など)
■その他


   ▲来客ありで乙羽岳までゆく。忘れていた古宇利島の企画展!(7.18)

2.
古宇利島のサーザーウェーとピロシー
 古宇利島のサーザーウェーは旧暦6月25日と26日の二日にわたって行われる。村内では天底と上運天で行われる。古宇利島のサーザーウェーはサーザーウェーとピロシーの二つの場面に分けて見た方が理解しやすい。今回は台風のため島に渡ることができなかったので、平成5年(1994)の調査(二日間)をベースに紹介しましょう(『なきじん研究』第4号所収)。

  (工事中なり)

1日目(旧暦6月25日)

 
@ウンナヤー A神道(カミミチ) Bウチ神ヤー C新築の家 
 Dフンシヤー


日目(旧暦6月25日)
 
@農村環境改善サブセンター(公民館) A神道(カミミチ) 
  Bヌルドゥンチ C新築の家  Dしちゃぐやー  Eお宮(クヮサヤー) 
  Fヒチャバアサギ(ピローシ)
@農村環境改善サブセンター
         (旧公民館)
A神道(カミミチ)
 ムラヤーから神道を通りヌルドゥンチへ向かう。かつては、神道を通るときタイコを打ち鳴らしながら歩いたという。
Bヌルドゥンチ
C新築の家
Dしちゃぐやー
Eお宮(クヮッサヤー)
Fヒチャバアサギ(ピローシ)
 イルカを捕まえる所作をするが、「大きなクムイにイルカとガーラが寄っているから、すぐにとっ捕まえてください」といった内容の歌を謡い、イルカを追い込み捕獲する所作をする。豊漁祈願の意を含んでいる。


1.古宇利島を見る位置
 古宇利島を沖縄本島側から見る。西海岸のいくつかのポイントから古宇利島をみてきた。画像にとってきたが絵にならない。労をいとわず絵にしないといけません。絵にする時間がないので、いくつか画像で紹介してみましょう。
 古宇利島は立つ位置によって様々な表情を見せる。特に国頭村あたりから古宇利島を見ると本部半島に抱えられた島である。その視点は伊是名・伊平屋島の方向から眺めたときに実感させられる。島を見る位置図は、島を様々な視点で描いていくことを狙いとする。

  


伊江島のイイータッチュから古宇利島みる。手前の半島は備瀬崎、その向こう側に古宇利島がある。備瀬崎の半分のところに大嶺原のピータティファイがあり、伊江島とつなく。古宇利島と伊江島との間に遠見台を置く理由がよくわかる。伊江島と古宇利島を直接見通すには大分天気に左右される。
今帰仁村と本部町具志堅との境にある大嶺原から見た古宇利島。近世の初期火立所(遠見台)が設置されたところでピータティファーイと呼ばれている。古宇利島や伊是名島からの連絡(煙)を引き継いで伊江島へ。
今帰仁グスクの大内原から古宇利島を見る。
今帰仁グスクからも古宇利島が見える。グスクの大内原・本丸・アザナからも見える。
今帰仁村乙羽岳(標高約275m)から古宇利島を見る。島の前景がわかる。島の南側に港があり集落が発達している。間もなく古宇利大橋が島とつながる。島の後方遠くに見えるのが辺戸岬、手前に見えるのが仲宗根のマチである。島の対岸は運天のクンジャーである。
今帰仁村運天のカンナミあたりから古宇利島を見る。島の前景がよく見える位置である。島の南側の集落やサブセンター(公民館)あたりも見える。
今帰仁村仲宗根・超地・平敷・崎山が大井川の河口で境界線をなしている。炬港から古宇利島をみると二段、三段と段丘がよくわかる。島の前方から伊是名・伊平屋島へのフェリーがゆく。島の南側の集落が見える。島の後方に大宜味の山並みが見える。
今帰仁村崎山のウドゥイバンタ(踊崖)から見た古宇利島。島に橋が架かっている様子がわかる。島の向こう側に大宜味や国頭の山並みが見える。島の右手の集落や学校の屋根がわかる。
名護市源河あたりから古宇利島を見る。本部半島と古宇利島が離れ島として見える。屋我地と古宇利島をつなぐ橋が間もなくつながる。
大宜味村平南あたりから古宇利島を見る。左側に本部半島が見える。
大宜味村根路銘あたりから古宇利島を見る。島影は本部半島と接した位置に見える。古宇利島の左側の後方に今帰仁グスク近くのクボウヌ御嶽や具志堅のウマンクラ山(馬鞍山)が見える。
大宜味村大兼久を過ぎたところから見た古宇利島。左側の家並みは大宜味村役場のある大兼久。古宇利島が大兼久の向こう側に位置する。ここらあたりで、本部半島と古宇利島が接した位置に見える。
大宜味村謝名城にある根謝銘グスクから古宇利島を見る。古宇利島は手前の山の後方に位置する。屋我地島から古宇利島に架かる橋が左右に伸びている。端の橋の後方に今帰仁グスク付近のクボウヌ御嶽が見える。
国頭村宇良あたりから古宇利島を見ると本島側に包み込まれた位置にある。伊江島が備瀬岬の右側に見えている。
国頭村宇嘉から見ると古宇利島は本部半島に重なり、右手に伊江島がみえる。島の北側の渡海浜ともう一つの浜が白く見える。国頭の人たちからすると古宇利島は本島のうちに見えるかもしれない。
宜名真のカヤウチバンタから見ると、古宇利島は本部半島の内側に位置し、備瀬崎が島の右側にくる。島の北側の渡海浜ともう一つの浜が白く見える。
辺戸岬から古宇利島が見えません。もう少し左側に古宇利島は位置している。伊是名や伊平屋島が右手の位置にある。両島より与論島が近くに見える。

3.島の人達が見た本島
 古宇利島に住む人達が本島側をいつもどう見ているのか。島から舟やフェリーで渡ってくきた人々の長い歴史がある。本島側に住んで島に渡るのと、島から本島に渡ってくるのでは、表面には見えない違いがあるに違いない。長い島の生活が生み出した島の人達の個性につながっていると考えている。今年は、何回か島に渡るのであるが、どんな答えを見つけることができるのか。島の方々の言葉で表現できれば幸いである。そのことをテーマの一つにしたくて、途中で忘れないために下のような図を入れておいた。



4.古宇利島を記したr歴史的な地図
 ・『海東諸国紀』「琉球国之図」
 ・ペリー提督『日本遠征記』(1853年)所収図
 ・1816年「Herbert's Island」図
 ・『琉球国運天港の図』(明治6年)
 ・今帰仁間切古宇利村図(3枚)


■学芸員実習生の宿泊する民家

 下の民家は毎年学芸員実習をする学生達が宿泊する民家である。今年も実習生が広島県、石川県からやってくる。地元から二人の学生(自宅から)。回りは福木が屋敷林をなした長閑な集落の一角にある(二軒ではありません。一軒なり)

 近くには馬場跡の230mの直線広場がある(ほとんど駐車場に利用されている)。集落の中には、神ハサギや井戸やノロドウンチ跡の拝所がある。集落を散策しながら、山手の反対側に向っていくと海岸にでる。そこは、いつでもあなたのプライベートビーチである。泳ぎたいなら、いつでもどうぞ! 

 回りの環境がいいかどうかは、あなた方の優しさとムラを見る視点にある。それを見つけることと、その感性に気づくかどうか。この実習の大きな目的はそこにある。答えはいいません。自分で見つけること!

 (実習期間はサバイバルの生活だと覚悟しておいた方がいいかも?!)
中森ヌ御嶽
マチヂヌ御嶽
マーハグチヌ御嶽
トゥングァヌ御嶽
ソーヌ御嶽
プトゥキヌメーヌ御嶽
ハマンシヌ御嶽