伊江島(沖縄県伊江村)

トップへ 今月の動きへ  伊江島取調べ(明治14年)

 伊江島の「年中祭祀」は『琉球国由来記』(1713年)で他とは異なった記述となっている。例えば、芋折目は正月(一月)である。伊江島には村(ムラ)がなく島全体が一つになって祭祀を行っている。大ノロ、東ノロ、佐辺ノロ、中ノロ、大水ノロがいて、公儀の御祈願を行っている。本島側のノロは、一村、あるいは複数の村の祭祀を管轄するが、伊江島では明確な村区分がなされていないため、『琉球由来記』(1713年)では村別の記載がなされていない。東ノロ、西ノロは拝む場所があるようだ。

 明治8、9年頃には五ヶ村になっているようなので、その五ヶ村と五名のノロの関係、そして各ノロが管轄する村と祭祀場の確認ができるのではないか。
   東江が東江上と東江前、西江が西江上と西江前、川平を合わせて五ヶ村のようである。昭和18年に馬場以南を阿良、昭和22年に真謝(西江上から)、西崎は西江前から分離。明治以前までは@東江村 A西江村 B川平村の三ヶ村。その三ヶ村と祭祀の関係、さらに五名のノロと土地保有(ノロ地)の配置が、おぼろげながらでも見えてきたらいいのだが。伊江大ノロは伊江按司の息女を任命して伊江島に派遣しているので、三十三君クラスの一人とみていい。 

 @東ノロ A佐辺ノロ B中ノロ C大水ノロは村クラスのノロ、大ノロはそれらのノロの上に位置づけてよさそうである。伊是名のアンガナシや久米島のチンベーなどのクラス。大ノロが関わる祭祀は三月と八月の四度、四品御参りだったかもしれない。そこでの祈りは、首里王様の前の皆々様への祈りである。

    首里天加那志美御前、思子、御シデモノ、十百歳御加ホウ、唐・大和・宮古・八重山、又島々
    御遣ノ船、破風ヤスヤストアラチヘ、御タボイメショワレ。又島国ノ、御万人上下、ノウゴトモ、
    百ガホウノアルヤニ、見守メシヨワレ。デゝ

    御公儀ヨリノ御花、照大寺、権現、観音菩薩、両御前、並嶽々・ノロ火神前ヘ居テ、御タカベ。
    頭々・サバクリ中、ヲエカ人、朝衣八巻ニテ、嶽々・寺ニ、百度御物参、仕リ申也。

【伊江島の大折目】
(旧7月に日撰)

 ここで「大折目」について見てみる。この「大折目」は三日間にわたって行われる祭祀である。

 七月日を撰んで行われる。いろいろな作物の為の祈願、大折目という。拝む場所は根所の
 火神
前。ノロ・掟神が御タカベ(祈り)を朝から晩まで根所を回る。一日遊び。百姓も同じく
 遊ぶ。

  次の日前スカンニヤ(庭)の根所へノロ、掟神が相揃い、神遊びをする。高一石ニ付、粟一勺、
    干魚
ニ勺取り合い、粟神酒を作り、ノロ、掟神を仕り、島中の男女、総ぞろいし御拝をし、
    一日遊ぶ。

  三日目 根所、富里庭、城庭、城庭の両所、ノロ、掟神が揃って神遊びをする。この時、高一石
  につき、粟一勺、干魚ニ勺づつ取り合い、粟で御神酒を作り、御馳走を仕る。これが三日目の折目、
  古くから伝わる。 

 それらの拝所の確認をすることに。
  一日目はニャーグニ(庭踏み)と呼ばれているようだ。
  二日目はメースィカンニャ
  三日目は大アタイという場所があり、午前10時頃になると馬がアタイの集まってくる。
        ノロが白装束の正装で集まり富里に向かって出発する。富里での祭祀。

下の「大折目」の画像は『伊江村史』所収より

  
▲ウプアンシャリ殿で    ▲正装したノロ      ▲メースィカンニャの殿

 
   
 ▲メースィカンニャでの所作             ▲メースィカンニャでの所作

 
     
▲ウパシャドゥにあって池             ▲後方にイイタッチュ(グスクウタキ)

【伊江島の祭祀】(『のろ調査資料』中山盛茂・富村真演・宮城栄昌共著

※の祭祀はノロが関わる
※・旧正月 二十日吉日御折目
    神人は各自担当の拝所(十二ヶ所)にえんどう豆二つ、ニンニク二つ、芋二つ、大根二本を備え、
    各作物の豊作を祈願する。
 ・旧二月 麦穂祭(男折目)現在なし。
※・旧三月 麦大祭
       唐豆、えん豆、麦入れの飯を供える。各家庭でも。
※・旧三月三日 ノロだけ、千人ガマ、宮てやがまを拝む。
 ・旧四月    畦払い、虫を海に流す。
※・旧五月  二十日後折目競馬
 ・旧六月 年浴 粟ご飯を供える。綱引き(現在なし)
※・旧七月 大折目(海神祭) 二十日以後の吉日
    第一日 神人たちは白装束ホールンチャゴイ(かづらを頭にまとう)し、斉戒淋浴して
         大船頭がなし
の家に集まり祈願、二手に分かれて各所に祈願して、グスクの
         御嶽
に集まり、東江上御嶽である富里(ヒサト)御嶽へ遥拝。次にメーシカン
         庭
に移り粟神酒を供える。
    第二日 神人たち、昼間飯(ヒルマムン)を持参してメーシカン庭に集まり、弓引きの行事
         をする。
    第三日 神人たちはフサト御嶽に集まる。
          フサト根神(山城氏)が神人達の接待にあたる。フサトで七つの行事を行い門中の
         若者の 牽く馬でグスク御嶽に駆け上がり、グスクの神に祈り、さらに東の方のフサト、
         今帰仁神を遥拝浜下りをなし、そこで行事を行う(舟の回りを七回まわる。ユー(魚)
         取りの所作
をする。
          以前はノロの五人だけが馬に乗った。全神人が参加する。
         住民は第一日目各門中ごとに祈願、三日目はノロたちの祭祀をみる。
  ・旧八月 柴差し
※・旧九月 初種子(ハチダニ)、小麦、大麦、唐豆、えん豆などを選ぶことから、豊作を祈る。各家庭
        でも節日を祝う。
※・旧十二月二十四日 星の御願い、かまどを塗りか火神をまつる。 解御願
     正月元旦 降天  立御願
 


【伊江島のシヌグ】

 伊江島のシヌグは『琉球国由来記』(1713年)で「大折目」(七月日撰三日間)の後に、それも日を撰ぶが「シノゴ折目」として行われる。
   日撰を以、シノゴ折目トテ、御タカベ仕ル。様子ハ、色々作物ノ品品ニ、虫不付タメノ願ニ、高
   一石ニ付キ、雑石二合完取合、御花・御五水・線香ニ仕替シ、城ノ頂ノ御イベ、同所伊江セ
   イノ御イベ
荒ノ浜御イベ・根所火神ヘ居テ、ノロ・掟神、御タカベ仕リ、万ズノ蟲取集、海ニ
   捨テ
、島中男女惣様、一日中遊申。昔ヨリ伝来テ仕ル也。


  城の頂の御イベ→伊江セイの御イベ→荒の浜→集落内の根所火神へいき、ノロ・掟神が御タカベを唱えながら、全ての虫を取り集め、海の方へ捨てる。その流れはシヌグ(凌ぐ)である。

 その様子を宮城真治氏は「宮城信治調査ノート」(昭和3年6月)でシニグは凌ぐであるとの認識で記録
 してある。

【シニグ祭】
   大ゆみの三日目後に行った。
   ウヒャーという男の神職が行う。
   東リンミャ(東りのろ殿内の庭)といりんミャー(中んノロ殿内の庭)とに集まり、シバといって、
   ヤブニッケイやアクチ(ムクタチバナ)の枝を持って悪鬼を追い払う。イッサンネービとて、東西
   各三人宛赤鉢巻をしたものが逃げてあるく。それは鬼であろう。
     ウヒャーは「エートーホー
              エートホー
            ウニジレー(鬼は出よ)
            トゥクワトドゥマリ(鬼は留まり)
            ウニジレー(鬼は出よ)
              エートーホー」
と唱える。ウシャパドモーまで追う。そこでもエートーホーをする。のろ等は、モーで見物する。
  ウシャパドモーの南なるヤイナギ屋敷という空き家敷に竹槍を投げる。
  東のミヤー人々はアラヌ浜に、イリヌミャーの人々はグシヌハマに行く。そこでかぶりもシバも捨てる。
 

 伊江島は沖縄本島北部にある島である。一島一村(ソン)である。伊江村には@東江上 A東江前 B西江上 C西江前 D川平 の五つの村(字)からなる。五村になるのは明治8年だという。それ以前は東江村、西江村と川平村の三村である。東伊江→東江、西伊江→西江、それぞれの「伊」が略されたという。

 伊江島の地頭代は西江親雲上で、地頭代の屋号は前西江親雲上で・・・メーリ(前の西)と呼ばれる。今帰仁間切の場合は地頭代をすると古宇利親雲上の授かり、屋号はメーフイヤー(前古宇利屋)と呼ばれるのと同様である。

 伊江島には・・・メーリの屋号は数多くある。佐辺メーリ(東江上)、島村メーリ(西江上)、野崎メーリ(西江前)、宮里メーリ(東江前)、永山メーリ(東江前)、川平メーリ(川平)、岸本メーリ(西江前)、島袋メーリ(川平)などである。廃藩置県後に地頭代をした家に名嘉元メーリ(川平)、野里メーリ(西江上)、儀間メーリ(東江上)、山城メーリ(東江前)などである。



 
【伊江島にない村と今帰仁掟・並里掟・謝花掟】

 そのことは『伊江村史』(上巻)に以下のように触れているが…

  「島の掟名に今帰仁掟、並里掟、謝花掟と云う古い三掟名が由来記に出ているが、島の地名にない掟名である。これは後世謝花掟は東江上に、今帰仁掟は東江前に配置されているが恐らく北山時代におかれた役人ではなかろうかと思われる。部落名がなく島として呼ばれていたので適当な掟名が見つからず、他間切の掟名を転用したものと思われる。今帰仁掟は今帰仁城(北山城)との連絡にあたり、謝花掟は島内のことを掌ったと伝へられる。
  もう一つ考えられることは、新領土である。伊江島は入貢に馴れていないとして、始め島に近い今帰仁掟と謝花掟に兼務させたことから、かかる掟名が後世に継がれたことかとも推測できる。



【伊江島と伊江御殿】


【伊江島】


             ▲伊江島


【グスク山】

 グスク山はイータッチュウとも呼ばれ、伊江島第一の拝所(御嶽)となっている。祭祀はそこを中心に行われている。グスク山(ウタキ)を背に集落は麓に広がっている。大和旅などのときに祈願、また船の往来が見える場所なので烽火をあげ合図をしたという。
 拝殿がつくられているが、戦前はイベ(石)が置かれているのみであったが、戦後拝殿がつくられる。





【御殿山】(ウドゥンヤマ)
 伊江ノロ殿内跡の後方にある拝所。クシャティムイともいう。伊江ノロは君ノロや伊江大ノロとも言われている。伊江ノロ殿内の周辺には下知役や勢頭ノロや在番などの屋敷もあったようである。伊江ノロは17世紀半ば(羽地朝秀)に三十三君の大削減があり、首里に引き上げたという。その屋敷跡地は番所にしたという(『伊江村史』)。

 伊江島のノロクモイ地は大ノロの五人に与えられた(五地:14石4斗7升2合8勺)。







【伊江島番所跡】


     ▲番所井戸(バンジュガ)


【諸地頭作得帳】(写:1708年、伊是名・永山メモ)(『伊江村史』所収)
 ・按司掛 知行74石 (雑石 略)
 ・佐辺里主所 知行76石 (雑石 略)
 ・川平里主所 知行26石 (雑石 略)
 ・いるい大屋子(地頭代) 知行34石 (雑石 略)
 ・東江大屋子 知行31石 (雑石 略)
 ・大城大屋子 知行31石 (雑石 略)
       (知行高 計272石 雑石計 294石) 



【伊江島の元文検地】
 ・伊江島の印部土手(原石)
 ・伊江島の最後の地割は明治32年


【遠見番跡】

 ・一番火立所(ぶれせ原:中央)
 ・二番火立所(西方)
 ・三番火立所(東方)


【西江村15地の地割】(道光9年:1829)(『伊江村史』)




【城山の頂上から】




【ウシャパド】
 番所前の広場のこと。ウシャギモー(祭祀の時に備える)ともいい、そこにウシャパドの名の池があった。現在は駐車場となっている。


  ▲ウシャパドの池(昭和30年頃)(現在駐車場)


【ワジー】(湧泉)

 明治8年(1875)、湧泉(ワジ)へ道を通した記事がある。その時の前地頭代西江親雲上は扇子二本と白木綿布二反を。下知役や検者にも伊江御殿大親と仮惣地頭川平里主親雲上の連名で褒美が与えられたようだ。その文面から当時の伊江島の水事情が知れる。旱魃になると本部間切に水汲みに行っている。


    ▲湧泉(ワジ)への現在の道路              ▲湧泉の取水場

【島村屋】(シマムラヤー)

 島村屋は島村メーリと呼ばれ、メーリは伊江島の地頭代をした家につく屋号である。島村屋も地頭代を出した家である。島村メーリの近くに地頭代をしたミンタマーヤメーリや野里メーリの家があったようだ。ミンタマは水溜り(池)のことで、池の側にあった地頭代ヤーである。古いパンフレットに、以下のように説明されている。

  「180年前(1796)に建造され、昭和11年(1936)に廃墟になった「島村屋」の住宅を、そっくりそのままの形で
  復元したものである。石の壁、竹の造作、土窯など、当時の伊江島を再現してあり、また軒先の屋根瓦は貧
  しかった伊江島では始めてのことで「島村屋」の権力を後世に残したものである」






  ▲島村屋に展示してある印部土手(原石)      ▲山山民俗資料館蔵

 「つなたう原」は津那堂池があるので、砂堂原ではなく津那堂(西江上)か。


【会所跡の碑文】




【煙草乾燥場と畑】



【公設質屋跡】





【マーガ】


      ▲マーガ(真井戸)

【番所井戸】(東江上)



【ミャーサントー】(天水タンク)
 サントーは三和土でつくった天水溜めのこと。ミャーやニャーは庭。庭や広場に三和土でつくった雨水溜めタンクのようだ。





【阿良御嶽】



【御願毛】(ウガンモー)




【昭太寺】(1554年建立)




【ニャーティヤガマ】
 ニャーは貝、ティヤ(テラと同義?)は墓のことだという。ニャーは広場かもしれない。子授かりの神として拝まれている。



【ウシャパドゥモー】
 旧役場(現在教育委員会)の前の広場のこと。
・島民が集まって催し物をする会場
・神人は城のウタキまで、島民はウシャパドゥモーに参集してウガンをする。
・首里王府からの達(たっし)を地頭代が伝える場所。
・五穀豊穣祈願の綱引きをした場所。
・ウシャバドゥーから龕(ガン)は通さず。


2013年12月3日(火)

 伊江島までゆく。10ヶ所ばかりのポイント確認のため。それと島の中央部のウプパンタ森にある富里(フサトゥ)。中城・首里・いちぐむい・かねくら・いへや・わじいへの遥拝への香炉が置かれている。

 「久里拝所経過」として以下のように記されている。
  昭和18年旧日本軍の飛行場建設のためフサト原にあった久里拝所を移設するように命じられ
  山城長吉(山城和弘父)所有の土地(弐壱参坪)を山城門中一族へ無償提供され現在のトニヤ原
  ウプパンタ森に久里拝所を移設しました。
  旧暦7月に行われる村内最大の祭祀である大折目では、イリノロと氏子の山城一族が参加して
  盛大に神行事が行われる。

 『琉球国由来記』(1713年)に登場する御嶽やノロや火神などの拝所、そして島のムラや集落の展開を祭祀や拝所との関わりでみていけそうである。