羽地地域の神アサギ 備    考

@源河
 拝所が統合され神アサギが独立した形ではない。お宮に統合され、前面の方は神アサギ風に作ってある。『琉球国由来記』(1713年)には源河神アシアゲとある。また「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治15年頃)にも神アシゲ壱ケ所とあり、統合は源河宮を建設した昭和二年だろうか。源河ノロの管轄。
 神アサギのない字(アザ) A稲 嶺
 真喜屋から分字した区。神アサギなし。


▲平成13年に新築の神アサギ
B真喜屋の神アサギ
 赤瓦屋根の神アサギでコンクリートの丸い柱が四本(上の写真)。この神アサギから平成13年に赤瓦屋根に葺きかえられた(下の写真)。後方は御嶽で、右手後方にヌルガーとノロ殿地がある。ここでの祭祀は真喜屋ノロの管轄となっている。御嶽―神アサギ―集落の軸線を持った村を形成している。アサギナーがあり、豊年祭の舞台もある。香炉は御嶽側に置かれて御嶽に向って御願をする。神アサギは新しく作りかえられたが、拝所を一つにまとめることなく、独立した形で残してある。
C仲尾次の神アサギ
 赤瓦屋根の建物で柱は8本。丸い柱は支えのために後に立てられてものか。香炉は後方の御嶽に向って置かれている。真喜屋ノロの管轄で御嶽―神アサギ―集落の軸線がはっきりしている。
D谷田の神アサギ(現在川上)
 現在谷田は存在しないが、谷田村があった。川上に合併されたようだが、神アサギが今での残されている。神アサギの香炉は仲尾次の御嶽の方に向いている。お通しと言っている。明治15年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」に川上村に神アサギ二箇所とある。その一つが谷田神アサギに違いない。
E川上の神アサギ
 新しく公民館の傍にできた神アサギ。四本の柱を模してつくってある。アルミサッシの戸は神アサギに似合わない。屋根は瓦屋根ではなくコンクリート。神アサギの香炉は中城の御嶽の方向に向いている。内部に稲穂が祭ってある。
F親川の神アサギ(池城神アサギか)
 親川(羽地)グスクと隣接、あるいはグスク内にあり、今帰仁グスクや名護グスク、根謝銘グスクと同じ形態と見てよさそうだ。最近立て替えられた神アサギはガラス戸が設けられ、神アサギの形を大きく変えてしまっている。ただ、まだ独立した形での作りかえなので、かつての姿がイメージできそうだ。内部にはいつも稲束が供えられている。
G田井等の神アサギ
 平井等神アサギはいくつかの拝所を一箇所にまとめてある。建物の前方に神アサギを模して、アサキの柱なのであろう。後方は獅子小屋と火神を祭った祠になっている。祠の中に扁額が置かれている(戦前のもの)。

H振慶名の神アサギ
 振慶名は1736年に現在の今帰仁地内から羽地間切地へ移動した村である。神アサギの後方が御嶽となっている。近年側に公民館が建設されたので神アサギも立て替えたはず。近々確認の予定。振慶名の集落の形成は移動村落が故地にこだわることなく高い所に御嶽をつくってある。高い所に御嶽を位置付けるのは人間が本質的にもっている習性かもしれない。御嶽―神アサギ―集落の軸線は故地にこだわっていない。イベは親川グスクの方に向けられている。故地と移動後の集落をどう作ったのかを知る手掛りとなる。

I伊差川
 いくつかの拝所を一箇所にまとめている。そのため、独立した神アサギがなく、お宮の前方に神アサギ風の柱のある建物になっている。このように拝所を一つにつる場合、記録にとどめる作業があって欲しい。
J古我知
 建物の前方の柱部分は神アサギを模してあるのだろう。神アサギのあった場所は、集落の内部にあった。
K我部祖河
L仲尾の神アサギ
 仲尾の神アサギは旧集落地にある。集落は移動したがノロや根神などの火神、それに神アサギも残してある。赤瓦屋根で6本の柱。御嶽を背にして拝んでいる。集落は近世末頃から勘定納港のある海岸へと移動している。
M呉我の神アサギ
 1736年に今帰仁村の呉我山から羽地間切地内に移動してきた村の一つである。いくつかの拝所を一箇所にまとめてある。そのため独立した神アサギがなく、写真の建物のように前方に神アサギを模した建物にし、後方の祠に火神が置かれている。
   旧羽地村の神アサギ

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 旧羽地村は1713年の『琉球国由来記』当時瀬洲・源河・真喜屋・仲尾次・川上・中尾(仲尾)・田井等・谷田・伊差(指)川・我部祖河・古嘉(我)知・振慶名・呉河(我)・我部・屋我・饒辺名・済井出・松田の村がある。「屋我地島の神アサギ」として報告したので、ここでは除いた。瀬洲村は源河に統合されたので村はない。
 羽地間切には呉我・振慶名・我部・松田は現在の今帰仁地内から現在地に移動した村である。移動村落が故地を離れて集落を形成する場合、御嶽―神アサギ―集落の軸線と故地との関係をどうをどう形成しているのか。ここでの神アサギの調査は、移動村落が、集落の軸線をどうつくるのか、それを知る手掛かりとなりそう。また近世の人達が御嶽を中心とした祭祀の神観念をも伺えそうだ。
 羽地地域を踏査していて神アサギに特徴がある。というのはいくつかの拝所が統合されている。特に昭和30年代に。その時、神アサギを茅葺屋根から赤瓦屋根やコンクリートの建物へ作り替えると同時に、散在していた拝所を一箇所にまとめてある。建物の前面を神アサギ風にして、後方に火神を祭った石や香炉などを置いてある。前面を神アサギ風にしてあるのが源河(昭和二年頃)・川上・呉我・古我知・我部祖河・伊差川である。現在でも神アサギが独立した形で残っているのは、真喜屋・仲尾次・川上・谷田(現在字はナシ)・親川(グスクに隣接)・仲尾である。
 振慶名は以前内部は一つであったが、最近できた神アサギは内部で二つにしきられ二つの神アサギの様式にしてある(理由は未調査)。振慶名は1736年に今帰仁間切(村)の湧川地内から移動してきた村である。御嶽―神アサギ―集落の軸線がはっきりしている。その軸線は故地には向いていない。どちらかと言えば羽地間切の親川(羽地)グスクの方に向いている。
 羽地ダム建設による周辺整備の名のもとに、神アサギ一つとっても大きく変貌を遂げようとしている。設計をしたり、プランを練る方々はもう少し基本的な集落景観についての法則性を学んで欲しいと思う。
                (工事中なり)