@ハサギンクヮー(今泊)
 今帰仁村の今泊に二つの神アサギがある。その一つはハサギンクヮ―(『琉球国由来記』(1713年)には安次嶺アシャギ)と呼び、かつての今帰仁村のアサギである。祭祀は今帰仁ノロの管轄で親泊村と一体になった形で行われている。現在四本のコンクリート柱で線香は海側の方向に向かってたてる。神ハサギでの祭祀はシマウイミ(旧盆明けの子の日・旧8月11日・プトゥチウガン新12月24日)に使われる。写真はシマウイミの場面である。

Aフプハサギ(今泊)
 今帰仁村今泊のウプハサギ(親泊村のハサギ)である。公民館の側にあり戦前から数回に渡って付近を移動している。祭祀は今帰仁村(ムラ)と同様今帰仁ノロの管轄である。四本のコンクリートの柱で、香炉は海の方向に向かっている。中にタモト木の代わりにコンクリートの柱が横に置かれている。シマウイミ・プトゥチ御願のときに神ハサギで祭祀が行われる。写真はフプハサギである。

B兼次の神ハサギ
 兼次ムラは中城ノロの管轄である。兼次の旧集落は、かつて山手の古島原にあった。集落の移動とともに神ハサギも移動したようである。古原にハサギ跡地といわれる場所があり、拝所となっている。ハサギは集落の移動に伴って移る傾向にある。その事例の一つである。香炉は旧集落地の方に向かい、タモト木を模したコンクリートがある。コンクリートの8本の柱がある。写真は兼次の神ハサギである。

C志慶真の神ハサギ
 志慶真村は17世紀の初頭まで今帰仁城の後方にあったが薩摩軍の琉球侵攻(1609年)の後、幾度かムラ移動する。最後は明治36年諸喜田村に統合される。志慶真村は、今帰仁ノロの管轄村であったが今では中城ノロが祭祀を行っている場合が多い。ただし、志慶真乙樽の神役は今帰仁城ウイミ(海神祭)のときは今帰仁ノロの管轄で祭祀を行っている。諸喜田村と志慶真村が合併して諸志となるが神ハサギは並んである。左側が志慶真の神ハサギ。

D諸喜田の神ハサギ
 諸喜田村は明治36年に志慶真村と合併して諸志となる。スクジャの呼び方は諸喜田にちなんだ呼び方で、中城ノロの管轄である。戦後神ハサギを統合した時期があるが、具合が悪く再度二つの神ハサギにした。諸喜田村の神ハサギはヌンドゥルチの西側にあったのを戦後一時期志慶真のハサギと一つにしたが、現在地に二つのハサギが並び、二つのムラの合併の面影を遺している。(右側が諸喜田の神ハサギ)

E与那嶺の神ハサギ 
 与那嶺村の祭祀は中城ノロの管轄である。神ハサギは赤瓦屋根の建物で、かつては西側にあったという。そこに石柱が残っていて、神道が側を通っている。ウプユミ(旧7月の最後の亥の日)時、中城ノロは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の村々を弓・ナギナタなどを持ち、ノロは馬に乗って祭祀を行っていたという。香炉は御嶽を背にして海の方に向けて置かれている。

F仲尾次の神ハサギ
 仲尾次は中城村と呼ばれていた。祭祀は中城ノロの管轄である。仲尾次の御嶽(ウタキ)は崎山を超えた平敷地番のスガー御嶽(中城グスク?)である。中城ノロは中城村に居住していた時期もあったであろう。祭祀管轄内の崎山・与那嶺・諸喜田の村にノロ殿内跡があり、その名残りを残している。現在のノロ殿内は諸喜田(諸志)にある。仲尾次の神ハサギは、村屋(ムラヤー)の葺き替えなどで何度か移動している。現在の神ハサギは平成5年建立である。

G崎山の神ハサギ 
 崎山村の祭祀は中城ノロの管轄である。崎山にノロドゥンチの祠があり、中城ノロの住居があった痕跡がみられる。旧暦6月最後の亥の日にノロドゥンチを拝み、そこから崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の5ケ村を神人は弓やナギナタなどを持ち、ノロは馬に乗って祭祀を行っていたという。崎山の神ハサギは茅葺き屋根や石柱・タモト木などがあり、村々にあった神ハサギの古い形を遺している。

H平敷の神アサギ 
 平敷から東側のムラ(字)では神アサギと呼ぶ。神アサギはセメント瓦葺きで御嶽(ウタキ)の中にある。回りにイベ・ペーフドゥンチ・掟ドゥンチ・島田ドゥンチなどの拝所がある。かつて、御嶽の周辺にあった拝所を御嶽に移動したという。御嶽を中心に集落が展開していた形跡が見られる。平敷の祭祀は玉城ノロの管轄である。馬に乗って玉城ノロが平敷の神アサギまできて祭祀を行ったという。ムラ・シマ講座(平成5年)

I謝名の神アサギ 
 謝名の祭祀は玉城ノロの管轄である。神アサギは謝名の大島原にあり、御嶽を背に南斜面に集落が発達している。昭和初期、アサギ周辺に旧家・後の殿内・前の殿内・イリン殿内・地頭火神などがあったという。昭和35年に茅葺き屋根から瓦葺きの建物になった。アサギには庭(ナー)があり、そこに舞台をつくり豊年祭を満4年ごとに行う。

J仲宗根の神アサギ
 仲宗根は玉城ノロの管轄村である。旧集落は御嶽(ウタキ)を背に南斜面に発達している。旧集落の南方の麓に前田原があり、かつての水田地帯である。神アサギは村屋(公民館)一帯を何度か移動している。御嶽の入口に鳥居がたった頃の神アサギは茅葺き屋根の建物であった。アサギ内にはタモト木と香炉が置かれている。現在の神アサギは上の方に移動している。

K玉城の神アサギ
 玉城の神アサギは現公民館の東側の御嶽(?)の中にある。アサギナーに村移動を記念して「玉城殿堂建設記念碑」を建立している。裏面に玉城石・ウペフ殿内・玉城勢・内神殿内・シリトン内など、それに稲蔵祠を整備したと刻まれている。旧暦4月15日はタキヌウガンで、スムチナ御嶽に玉城・謝名・平敷・仲宗根の神人や村人が集り祭祀が行われる。そこでの御願が終わると各字へ戻る。玉城の神人と参加者はアサギナーに集り御願をする。(平成3年のタキヌウガン)

L岸本の神アサギ 
 岸本村は玉城に合併統合された。岸本ノロの管轄。岸本村も1862年に村が疲弊したために王府から移動を許された。明治15年頃の調査で「ノロクモイ火神・神アサギ・島ノ大屋子」が記されている。現在の神アサギは瓦葺きのブロックの柱の建物。アサギの近くに岸本ノロの家跡がある。「大正二年十月十七日附願岸本ノ加ネイ大城カマト死亡跡職大城カマド採用ノ件認可ス」(沖縄県知事印)とある(写)。 

M寒水の神アサギ
 寒水は別名パーマと呼んでいる。村の祭祀は岸元ノロ管轄である。1862年に玉城・岸本の村が移動したとき、寒水村も移動している。寒水の御嶽は昭和30年代まで大井川を越えた対岸に位置していた。近世中頃(?)に大井川の流れを変えるため開削がなされた、そのため御嶽を集落が分断されたという。神アサギの庭(ナー)で豊年祭を行う。近くに獅子小屋もある。(写真は昭和40年頃)

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 山原の村々に神アサギやハサギと呼ばれる祭祀に関わる建物がある。神アサギのある村を「古層の村」と呼んでいる。古琉球の時代から(17世紀以前)からあった村と考えられている。かつては茅葺き屋根で軒の低い建物であったが、現在は瓦葺きやコンクリートになっている。神人たちが祭祀のときに使った施設である。神アサギ内にはタモト木があり、神を招いて座らせたという。以前は香炉もなかったが、香炉が設置されたところもある。神アサギは沖縄本島の北部から奄美の南側にかけて分布している。『琉球国由来記』(1713年)に、当時の村やノロ、そして神アサギ(アシャギ)の存在を確認することができる。
 @ハサギンクヮー
  
      B兼次の神ハサギ
C左が志慶真の神ハサギ
D右が諸喜田の神ハサギ
E与那嶺の神ハサギ
 F仲尾次の神ハサギ 
 G崎山の神ハサギ
  H平敷の神アサギ
  I謝名の神アサギ
  J仲宗根の神アサギ
  K玉城の神アサギ
 L岸本の神アサギ
  M寒水の神アサギ
Aフプハアギ
山原の神アサギ