加計呂麻島(奄美大島)

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(時間がなくて作業途中。いつものこと)

 加計呂麻島の歴史や文化を見ていくとき、どうしても古琉球の時代の区分に戻してみる必要がありそうである。それは加計呂麻島は、東間切と西間切に分けられ、間切とも奄美大島側を含んでいるからである。加計呂麻島のみ対象にしては、理解しがたいものがある。そのことを示すのが古琉球の奄美大島の辞令書である。昨年12月の奄美大島行きで加計呂麻島には渡ったのであるが、全ての村(ムラ)を回る時間がなかったので、前回のと一緒に整理することにする。

 奄美大島の南西に加計呂麻島がある。島へは瀬戸内町古仁屋からフェリーで渡る。フェリーは古仁屋港から瀬相、加計呂麻島と生間の間を航行している。今回(平成19年12月24日)、古仁屋港から生間へと渡った。加計呂麻島の集落について、全くと言っていいほど情報を持たないで島に渡る。フェリーを降りたのが生間である。フェリーが生間に着いたのであるが予想以上に小規模の集落である。どこが集落の中心部なのか、まだしっかりとつかむことができていない。

 現在の瀬戸内町は奄美大島の南西部と大島海峡(瀬戸内)を隔てた加計呂麻島、さらに請島水道を挟んだ与路島・請島などからなる。瀬戸内町となったのは昭和31年である。その時、西方村と鎮西村、実久村と古仁屋町が合併する。鎮西村と実久村は源為朝(鎮西源為朝)に因んだ村名であるようだ。奄美大島は平家と源氏の両者の伝承が根強く残っている。

 古琉球の時代の間切(まきり)区分が、現在私たちが常識としているものの見方とは、大部違うようにある。統治する側の見方なのか、それとも地理的な条件、あるいは交通手段(海上交通)による往来の利便さなのか。それらの影響は大きいのではないかと想像される。果たしてどうだろうか。

 平成20年1月14日、再び加計呂麻島に渡る。古仁屋港(瀬戸内町)でフェリーを待っていると(8時10分発)はフェリーは生間とは違う方向(瀬相)からやってくる。フェリー名をみると前回乗った「フェリーかけろま」である。船上で「瀬相と生間を就航しているフェリーは同じですか?」と訪ねてみた。「???船員さんに聞いてみて」と。他の方に訪ねると「同じですよ。瀬相から古仁屋港に行って、そこから池間へ行きます」と。「フェリーかけろま」が瀬相―古仁屋―生間の三港を就航しているわけだ。島の方々にとっては当たり前のことなのである。

 1月14日で加計呂麻島の阿多地を除いたすべての村(ムラ:集落)を訪ねることができた。各ムラを訪ねるのは予備調査と史料に登場するムラの様子を思い浮かべながら考えるためである。ムラの様子を整理するため、今回訪ねた順序で、まずは整理することにする。加計呂麻島のムラ回りは約6時間(約80km)のコースである。隣りのムラに行くには峠やきつい山越えをしなければならない。車のハンドルさばきはレーサー並になったかもしれない。隣りのムラにいくには、ほとんどが舟での往来であったことが実感させられた。

  生間→諸鈍→徳浜→安脚場→渡連→小勝→野見山→秋徳→佐知克→勢里→於斉
  →伊子茂→花徳→西安室→瀬相→俵→三浦→武名→木磁→瀬武→薩川→芝
  (薩川に戻る)→実久→(戻る)→嘉入→須子茂→(戻る)→(阿多地へ行けず)→
  呑之浦→押角→(脇浜)→勝能→諸数→(生間終着)

 これらのムラを踏査しながら、目に見える形での琉球的なものは非常に少ない印象である。琉球の御嶽に相当する場所は神社になり、墓塔を立てた大和形式の墓である。加計呂麻島の西地域に神アシヤギがあり、アサギミャーに相当する広場がある。その広場には大和相撲の土俵が設けられている。また公民館(分館)がある。

 ムラのほとんどが山から見下ろす形で集落が望める。防災用のマイクのある建物は公民館である。集落は非常に小規模なので公民館広場やバス停留所近くに車を置いて散策である。



 ここで古琉球の瀬戸内の間切に関わる辞令書を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年沖縄県教育委員会)から掲げてみる(10点)。奄美諸島と関わる古琉球の辞令書の約三分の一が瀬戸内の両間切のものである。瀬戸内にこれだけの辞令書が残されていたのは、理由があるのであろう。

  @瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(嘉靖13、14年?)
  A瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令書(嘉靖27年10月28日:)
  B瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年8月24日)
  C瀬戸内間切の阿木名目差職補任辞令書(隆慶5年6月11日)
  D瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)
  E瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)
  F瀬戸内西間切の古志のさかい知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)
  G瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(万暦16年5月16日)
  H瀬戸内西間切の西掟職補任辞令書(万暦23年9月22日)
  I瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30年9月10日)

 加計呂麻島の集落について書かれたものに目を通しても、また島の方々の話を伺っても、まだ理解することができないでいる。これまで見てきた視点ではどうまくまとめることができそうにない。

 まずは、現在の瀬戸内町の歴史や地理的な感覚をつかむことからスタートすることに。奄美大島は笠利間切・名瀬間切・古見間切・住用間切・屋喜内(焼内)間切・東間切・西間切からなる。加計呂麻島そのものが、東間切と西間切とに別れる。かつての間切の領域の区分が今にどう影響を及ぼしていか。古琉球の奄美大島の辞令書から、辞令を賜った時に、ノロは同村やノロ家への叙任となる場合がほとんであるが、男方の叙任の場合は、昇給にともなって結構大きな動きをしている。同間切内とは限らない。今の県庁の役人規模の人事異動のようである。下の地図に大雑把であるが示してみた。

 1.笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(嘉靖8年:1529)
   笠利間切の
宇宿の大屋子→ちゃくもい(もとの首里大屋子

 2.瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(嘉靖□年:1534か)
   瀬戸内東間切の首里大屋子→笠利のひのせと


 3.瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令書(嘉靖27年:1548)
   
西の大屋子→の首里大屋子

 4.屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年:1554)
   屋喜内間切
名音名音のたらつねゐはん

 5.屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1556)
   屋喜内間切
名柄掟→(屋喜内間切)名音

 6.笠利間切の笠利首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年:1568
   笠利間切
笠利の首里大屋子→笠利間切喜瀬の大屋子

 7.瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年:1568)
   瀬戸内
東間切の首里大屋子喜瀬大屋子(笠利間切)

 8.瀬戸内間切の
安木名目差職補任辞令書(隆慶5年:1571)
   東間切
安木名目差→屋喜内間切名柄

 9.屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572)
   屋喜内間切
崎原?目差→瀬戸内間切東間切安木名目差

10.屋喜内間切の屋喜内大屋子職補任辞令書(隆慶6年:1572)
   ・屋喜内間切の
屋喜内の大屋子→大和浜目差

 11.瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦2年:1574)
    瀬戸内間切
須古茂→ねたち(須古茂

12.瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年1574)
    瀬戸内間切
須古茂→たるへ(須古茂

 13.瀬戸内西間切の古志のさかいへの知行安堵辞令書(万暦2年:1574)
    瀬戸内間切
古志古志のさかいへ(古志)

 14.屋喜内間切の部連大屋子補任辞令書(万暦7年:1579)
    屋喜内間切
部連屋慶内の大屋子

 15.名瀬間切の首里大屋子職補任辞令書(万暦7年:1579)
    名瀬間切の
首里大屋子東の首里大屋子

 16.屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11年:1583)
   瀬戸内間切
名柄つる(もとののろのめい)(名柄か

 17.名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15年:1587)
   名瀬間切
大熊まくも(もとののろのめい)(大熊

 18.瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(万暦16年:1588)
   
東間切の首里大屋子→うすくの大屋子(笠利間切宇宿

 19.瀬戸内西間切の西掟職補任辞令書(万暦23年:1595)
   
西間切西掟いんほし大さち(?)

 21.瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30年:1602)
   瀬戸内西間切
古志→まかるもい(古志

 22.名瀬間切の朝戸掟職補任辞令書(万暦35年:1607)
   名瀬間切
朝戸→いしめもいてこくに(朝戸

 23.名瀬間切の西の里主職補任辞令書(万暦37年:1609)
   名瀬間切
西の里主朝戸の掟


          ▲古琉球の辞令書にみる役職地や受給地の異動図


【神アサギのある村(ムラ)】

 加計呂麻島は、どうも各集落ごとにノロいて祭祀が行われていたようである。ノロは複数の村(ムラ)を管轄している場合が多い。一島あるいは一村に一ノロの場合もあるが、複数の村を管轄している。奄美大島の大熊ノロは大熊・浦上・有屋・中勝の四字を管轄しているようである。加計呂麻島は一字一ノロだろうか。

 加計呂麻島の神アシアゲと沖縄本島の神アサギと性格を同じなのか。琉球では『琉球国由来記』(1713年)に神アシアゲとして記載され現在まで祭祀場として引き継がれている。加計呂麻島の神アシアゲは古古琉球の時代から引き継いできている可能性が非常に強い。加計呂麻島のノロ祭祀と神アシアゲは切り離せないものがあるので、須子茂のD瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)とE瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)はノロ(ノロ家)関係の辞令書であり、ノロ祭祀の祭祀場として、辞令書発給の1573年当時から神アシアゲはあったとみてよさそうである。

 (整理途中なり)


【諸 鈍】






【徳 浜】




【安脚場】

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【渡 連】

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【生間】

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【本生間】
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【野見山】




【秋 徳】

 


【佐知克】

 


【勢 里】


【於 斉】



【伊子茂】




【花 富】


【西安室】



【瀬 相】


【俵】


【三浦】


【武 名】

アシアゲあり。 


木 慈】

 アシャゲとトネヤあり。


【瀬 武】
 
 旧実久村役場のある字。


【薩 川】



【芝】

 トネヤあり。建物のつくりは神アサギである。昭和の初期にトネヤをつくったようである(『加計呂麻島ノロ祭祀調査報告(旧実久村編』参照)。

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【瀬 相】

神アシアゲあり。



【俵】


【阿多地】

 神アシャゲとトネヤあり。


【西安室】



須子茂】
 神アシアゲとトネヤあり。辞令書あり。


【嘉 入】
 神アシアゲとトネヤあり。


【薩 川】

 神アサギあり。神アサギとトネヤが接して造られている。神アシヤゲに竈が置かれている。

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実 久】

 神アサギがある。




【押 角】


【脇 浜】


【勝 能】


【諸 数】