喜界島をゆく(平成17年4月30日〜5月2日)         トップに戻る
            

 4月30日の午後4時半頃、喜界島に入る。天気は曇、時々小雨である。那覇空港から奄美空港経由での喜界島入りである。奄美空港から喜界島へは、乗り継ぎのため三時間ばかり待ち時間がある。奄美の(笠利町:現大島市)を回ろうかと、一瞬よぎったのだが、今回は喜界島に集中することに決める。少し時間があるので、空港近くの奄美パークと田中一村美術館で奄美の感覚をつかむことにした。

 喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。

 琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。

 それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。

【喜界島の野呂(ノロ)】
 『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。

  一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
     ただし村々みき造り候義さしとめ候
   一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
   一 右湾方え野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、
     向後差とめ候
   一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候

※ノロの弾圧
  喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシも隠れて、明治に至る。
  赤連の「新山家系図は明治になって不明。

【喜界島の主な出来事】

 ・1441年 大島は琉球に従う。
 ・1429年 琉球国は三山が統一される。
 ・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
 ・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。 
       その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
       之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
 ・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
 ・『球陽』に「鬼界」とある。
 ・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
 ・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
 ・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
 ・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
      尚徳王が築いたともいう。
 ・1266年に琉球王国に朝貢したという?
 ・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
 ・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
 ・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
 ・琉球国王尚泰久のとき(1454〜61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
 ・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
 ・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
 ・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
      (間切・大城大屋子の役職)
 ・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
    (ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
 ・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
 ・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
 ・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
    五間切)
 ・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
    (間切のもとに村々がある)

 ・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
     (豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)


       【喜界島の集落】


 喜界島には源為朝は伊豆大島に流され、1165年に琉球に渡ろうとしたが喜界島の沖合いに流され、船上から島に向かって放った矢がささった所から水が湧きでた場所が「雁股の泉」だという源氏に関わる伝承。そして平家の武将が射場跡だという矢通場がある。また長嶺村には平家森、志戸桶の沖名泊に平家の上陸地などがあり、平家・源氏に関わる伝承を根強く伝えている。それと琉球と関わる伝承も。

 喜界島には「嶺」のつく村名に川嶺・坂嶺・長嶺がある。今帰仁村で大嶺原の小字がある。呼び方としてはプンニである。プンニは大きな骨(嶺)のことである。喜界島の嶺のつく村名は字の通り「嶺」からきた村名であろう。、

 喜界島の歴史を見ていく場合、間切(まきり)である。喜界島には五つの間切があり、間切の村がどうなっているのか。
  @湾間切・・・・・・・湾・赤連・中里・羽里・山田・城久・川嶺
  A荒木間切・・・・・荒木・手久津久・上嘉鉄・蒲原・花良治
  B西目間切・・・・・西目・大朝戸・坂嶺・中熊・先内・中間・伊砂・島中・滝川
  C東間切・・・・・・・早町・白水・嘉鈍・阿伝・塩道・長嶺
  D志戸桶間切・・・志戸桶・佐手久・小野津・伊実久


1.喜界島(4月30日)(1日目)

 一日目、中里(ナカザト)→荒木(アラキ)→手久津久(テクツク)→上嘉鉄(カミカテツ)→先山(サキヤマ)→蒲原(ウラハラ)→花良治(ケラジ)→蒲生(カモー)→阿伝(アデン)までゆく。まずは、各村々の情報を整理することから。一気に整理しないと、どこのことか混乱を起こしてしまう。


1.中 里(なかざと)(湾間切)

 ナートゥやナーツともいうようで、ナートゥは港のこと。今の集落の西側(西原)に集落があったのが、現在地に移動してきたようである。西原に対して中里の村名になったというが、港近くに移動したことによるナートゥ(港)とも考えられる。明治9年にイギリス船がリーフで座礁し中里村の人達が救助する出来事があった。


       ▲中里公民館                    ▲中里地区公民館


2.荒 木(あらき)(荒木間切)

 1854年8月3日異国船の件の書付を持った久高島の人々で船頭内間ら15人が、くり舟五艘を組んだ飛船で那覇から薩摩藩へ向けて出発。風波が強いため、8月9日から10月10日まで大島で避難し、翌11日喜界島の平木村(荒木村か)に乗り入れ、成り行きを伝え、喜界島から拝借米で飯料や船具などを仕立てて11月2日に出発する(評定所文書9巻)。荒木は琉球と関わる伝承をいくつも持つ村である。

  ・荒木間切の内。間切役所が置かれた
  ・荒木泊は琉球との交通の拠点だった
  ・港の広場のクバは天女が天と地を上り下りした木だという
  ・琉球国から派遣された勝連親方は荒木を拠点として島を統治したという
  ・1466年琉球国王の尚徳王の軍勢が上陸した地
  ・1754年の墓碑に「荒木野呂・・・・俗名泊野呂」がある
  ・1841年蘇州船一艘が中里村と荒木村の境に漂着(琉球に送り届ける)


 集落内に「保食神社」があり、境内に再興の経緯が石碑に記されている。
 
      保食神社の由来
  一六九七年永道嘉(先内の人)が先内 坂嶺 荒木 上嘉鉄に馬頭観音を建立し祀った。これは
  豊作物の神様である 豊受姫命を祭神として毎年の豊作を祈った 明治維新に仏教廃止運動に
  よってその名称を保食神社と改めた 当初はめしぬく(小学校の庭)の地にあったが昭和十九年
  学校敷地拡張のため和早池の地に移転した 神社老朽化のため平成元年九月集落民は勿論
  島外の荒木出身者等から多額の浄財が託され この地に造営し再興したものである
 


       ▲荒木公民館                 ▲保食神社の由来の碑

 
          ▲荒木漁港                       ▲保食神社(荒木)


3.手久津久(てくつく)(荒木間切)
 
 集落の山手に湧泉があり、付近では小規模ながら田芋が栽培されている。かつて稲作が行われていたのであろう。


       ▲手久津久公民館                ▲公民館の前は広場になっている


 ▲手久津久集落の山手で田芋栽培           ▲集落の山手に湧泉がある


4.上嘉鉄(かみかてつ)(荒木間切)

 
    ▲上嘉鉄中地区公民館               ▲プナンデー石


         ▲上嘉鉄の集落          ▲上嘉鉄地区復興センターの前庭




    ▲上嘉鉄地区復興センター


5.先 山(さきやま)(荒木間切)


     ▲先山地区公民館                  ▲先山漁港(現在の様子)


▲先山集落と港


6.浦 原(うらはら)(荒木間切)

 

 


7.花良治(けらじ)(荒木間切)


8.蒲 生(かもう)(荒木間切)


9.阿 伝(あでん)(東間切)

 阿伝には琉球国(首里王府)から発給された「辞令書」がある。この辞令書は伊波普猷の『をなり神の島』(全集五巻:鬼界雑記)で紹介されている。喜界島の東間切の阿伝ノロと首里王府との関わりを示す史料である。そこで伊波は、奄美と琉球国との関わりを以下のようなことを掲げている。
  ・大島が琉球王国の範囲に入ったのは1266年である。
   ・喜界島は二回ほど氾濫を起こし征伐される。
   ・1609年の島津氏の琉球入りで大島諸島は薩摩の直轄となる。
   ・寛永元年島津氏は役人や神職の冠簪衣服階品を琉球から受けることを禁止する。
   ・寛文三年に島津氏は統治上、大島諸島の家譜及び旧記類を取り上げて焼き捨てる。
   ・享保17年役人の金笄朝衣広帯などを着ける琉球風を厳禁する。
   ・琉球的なものを厳禁した中で辞令書は秘蔵している。

【鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書】(1569年)

  しよりの御ミ事           首里之御ミ事
   ききやのひかまきりの       喜界の東間切の
   あてんのろは             阿田のろは
      
もとののろのおとゝ             元ののろの妹
   一人ゑくかたるに          一人ゑくか樽に
   たまわり申候            給わり申候
  しよりよりゑくかたるか      首里よりゑくか樽
           方へまいる          方へまいる
  隆慶三年正月五日         隆慶三年正月五日(1569年)

 この辞令書は「喜界島の早町村の阿伝の勇という旧のろくもいの家でもこれを一枚秘蔵している」(伊波普猷全集第五巻)と。太平洋戦争で焼失してしまったという(『喜界町誌』)。阿伝のノロ家は、早町村にあったのか、それとも阿伝村の勇家(現:山野家)なのか。阿伝ノロ家が早町村にあるなら、古琉球の時代の喜界島におけるノロは、複数の村を管轄していたことがわかる。

 

 

 
    ▲日本復帰記念碑(昭和28年)        ▲末吉神社

 
2.喜界島(5月1日)(2日目)

 二日目は、湾・川嶺・城久・嘉鈍・白水・・・の順で回る。丘陵地にある川嶺・城久・島中・大朝戸・西目・滝川などの集落が気になる。沖縄のグスクと近接した集落があるが、喜界島の山手にある集落はグスクとつながるのか。

 

10.湾(わん)(湾間切)

 1765年御用船の出入りを早町のみから湾港も認められる。1767年湾に白嶺神社を創建する。

・坊主前の墓
・仮屋の跡
・御殿の鼻




11 .川 嶺(かわみね)(湾間切)




12.城 久(ぐすく)(湾間切)

 グスクは村名の示す通り、グスクがあった集落の印象がある。現在の集落のあるところは、標高■mの高台にあり、祭りをするハンジャーがある。ハンジャーは崖にあるジャー(湧泉)に因んだ名称か。

 1697年 代官城久村に八幡宮建立する。

 


13.嘉 鈍(かどん)(東間切)

 

 



14.白 水(しらみず)(東間切)

 


15.早 町(そうまち)(東間切)

 明治5年(1872)7月25日、明治政府に対する初の琉球の使者、維新慶賀使節の正使伊江王子らが那覇を出発し7月25日に鹿児島に、9月3日東京に到着する。帰りは10月25日鹿児島に到着するが、那覇に着いたのは翌年の2月5日であった(『那覇市史』)。鹿児島からの帰途、嵐に会い喜界島へ漂着する。早町の東尾昌宅に一ヶ月余逗留する。

・涙石


16.塩 道(しおみち)(東間切)

 1826年塩道村に唐船が漂着する。14人全員生存。翌年、14人を琉球へ送致する。


17.佐手久(さでく)(志戸桶間切)



18.志戸桶(しとおけ)(志戸桶間切)

 1646年に「琉球王の使者として、薩摩へ上る途中、嵐の為乗船が遭難し志戸桶に漂着、そのまま土着して一家をした(319)。1843年5月志戸桶沖(沖名泊)に異国船、29人ほどが上陸する。牛を煮て食べたい様子であったが許可せず、お粥を食べさせた。国はイギリスのようであった(『喜界町誌』310頁)。

【喜界の志戸桶間切の大城大屋子職補任辞令書】
 しよりの御ミ事                 首里の御詔
  きゝやのしとおけまきりの           喜界の志戸桶間切の
  大くすくの大やこは              大城の大屋子は
  ちやくにとみかひきの             謝国富がひきの
  一人さわのおきてに              一人さわの掟に
  たまわり申候                  給わり申候
 しよりよりさわのおきての方へまいる   首里よりさわの掟の方へまいる
 嘉靖三十三年八月二十九日       嘉靖三十三年八月二十九日(1554年)

 1746年志戸桶の喜美治、藩主宗信より褒賞として馬を拝領した。

・沖名泊(ウチニャートマイ)
・七城跡
・平家森
・平家上陸の跡

 



19.小野津(おのつ)(志戸桶間切)

・ムチャ加那
・ウラトミの墓
・雁股の泉






20.神 宮(かみや)(志戸桶間切)




    ▲神宮地区公民館                       ▲神宮漁港


21.前金久(まえがねく)(志戸桶間切)


        ▲前金久公民館

22.伊実久(いさねく)(志戸桶間切)






23 .伊 砂(いさご)(西目間切)

 



24.坂嶺(さかみね)(西目間切)

・うちむすく(グスク? ノロが集まって祭りをした場所(神山)


      ▲ウリガーへの降り道           ▲ウリガーは水が枯れている



25.先 内(さきない)(西目間切)




26.中 間(なかま)(西目間切)


27 .西 目(にしめ)(西目間切)




・西間のろくもめ?

28.大朝戸(おおあさと)(西目間切)

 
・丘陵地にある集落である
 ・西目と隣接してある集落である
 ・公民館の側に豊富な湧泉がある
 ・新山家にノロの祭具が残されている。
 ・琉球国からのノロ叙任辞令書が与えられる。


     ▲大朝戸地区公民館




29.島 中(しまなか)(西目間切)




30 .滝 川(たきがわ)(西目間切)


31.池 治(いけじ)


        ▲住吉神社


32.赤 連(あがれん)(湾間切)

 弘化年間(1844〜48年)に北方から異国船の数名が赤連海岸の一里鼻に来たので、牛と水を与えて立ち去らせたという(『喜界町誌』310)。

 赤連の「新山家系図」からノロの任命?
 初代の新山思三郎は東間切塩道村半田に住み、嘉靖14年(1535)に西目の大屋子となり、長峰大屋子となる。


33.山田(やまだ)(湾間切)