奉寄進の香炉と上国   トップ

 これまで各地にある「奉寄進」の香炉や石燈籠について確認してきました。香炉と言えば祭祀場の祈り、それと複数の香炉が何故置かれているのか気にかかっていました。「香炉はどんな神様を祀っているのですか」の質問が多々ありました。火の神やウタキのイベの神と別の意味合いのものです。「奉寄進」の香炉の奉納は、上国や旅から無事帰ってくることができましたことに対する寄進ではないかとの視点で見てきました。

 そこから奉公人(後の地方役人)と両惣地頭(王府役人)と密接な関わり、それと奉公人は地方(間切)の行政の要となる人物、芸能などを伝える役目を果たした姿が見えてきます。これまで確認してきた香炉と石燈籠の調査記録を集めてみます。ダブリや調査の順や訂正の必要なヶ所があるが、そのままにしてあります。もう少し調査を進めてから全体通して整理します(全体通してのまとめは別稿で)。

 勢理客のウタキにある二基ほ香炉と直接関わるか、まだ特定できていないが、「或る筆算人の一生」(『沖縄文化叢論』所収:比嘉春潮)に「(兼次親雲上)は(今帰仁)御殿の人々のお気に入りで、特に頼りにされていたと見え、彼が39才、疱瘡流行の時は看護等の手配の為御雇として御殿の婚姻に当る宮里殿内に三ヶ月も御用を勤め、又先に守後を勤めた今帰仁里之子親雲上が
道光25年(1845)5月上国を仰付かった時には四ヶ月も首里に上っていろいろ御用を勤めた」(141−2頁)とある。(兼次親雲上本人が上国したのではないが)


2003.4.22(火)

〔弁カ嶽をゆく〕

 首里鳥堀町にある弁カ嶽までゆく。目的は火立毛の痕跡が確認できないかである。弁カ嶽は首里城の東方約1kmに位置し、頂上部分が標高165.7mである。頂上部に香炉がいくつか置かれ、今でも拝みにくる人たちがひっきりなしのようだ。首里や那覇のマチ、首里城などを眼下に眺めることができる。また東に太平洋、西に東シナ海が広がる。

 眺めからすれば、弁カ嶽は遠見台のもってこいの場所である。首里城・那覇港・慶良間島、東側に太平洋、南側に久高島などが見渡せる。御嶽には数多くの香炉と「奉寄進」と刻銘された香炉もあり、航海安全の祈願がなされたに違いない。それだけなく、大嶽は久高島への遥拝、小嶽は知念村の斉場御嶽(セーファウタキ)への遥拝場所としての役割を果たしている。

 首里の都の風水と関わる冕嶽(弁カ嶽のこと)・虎瀬・崎山嶽の一つの御嶽でもある。弁カ嶽には大嶽と小嶽があり、両御嶽の祭祀とも首里大あむしられが掌っている(『琉球国由来記』1713年)。

 弁カ嶽への関心は1644年に烽火の制が敷かれ、各地に遠見台が設置される。連絡網は弁カ嶽(首里王府)に知らせるネットワークである。例えば、沖縄本島の西海岸は伊是名→古宇利島→大嶺原(具志堅)→伊江島→(瀬底島)→座喜味→弁カ嶽へと繋いで知らせる。その最終場所が弁カ嶽の火立毛であった。どんな場所なのか・・・・「奉寄進 玉川王子・・・」の香炉があり・・・・。

 ・1519(正徳14)年に大嶽の前に石垣と石造りの門を建立する。
 ・1543(嘉靖22)年に弁カ嶽に松を植え、参道を石畳道に改修する。
         拝殿を創建する(1543年か)。
 ・1644(順治元(1644)年から正月・5月・9月に国王が詣でるようになる。
 ・1778(乾隆43)年に種子島の船頭が鳥居を建立する。
 ・1800(嘉慶5)年に冊封副使の李鼎元が弁カ嶽で遊ぶ。
 ・1853年ペリー一行が内陸探検のとき弁カ嶽あたりを訪れているようだ。
 ・1944(昭和19)年に日本軍が弁カ嶽に陣地を構築するために石を使う。
 ・1945(昭和20)年攻防戦で国宝に指定されていた石門が破壊される。
 ・1954(昭和29)年にハワイの一心会と鳥堀町の奉仕でコンクリート造り
         の門をつくる。
 ・弁カ嶽は形から航海の目印となる。
 ・弁カ嶽の北東約100mに位置する場所に火立毛があった。

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▲弁カ嶽の門〈現在はコンクリート)   ▲戦前の弁カ嶽(『琉球建築大観』より)

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▲頂上部から首里・那覇のマチを眺める    ▲弁カ嶽の頂上部の様子

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  ▲門の左手に香炉がいくつも...   ▲頂上部への細い坂道


2008年3月12日(水)

 首里の「弁ガ岳」までいく。2003年4月にも訪れている。今回の「弁ガ岳」行きは、弁ガ岳の石灯籠と石塔と寄進された石香炉(玉川王子朝達)のことである。山原にある石灯籠をいくつか見てきたが、それは薩州(薩摩)や上国してきた土産品、無事帰国してきたことへの寄進ではなかったか。すると、石灯籠や石塔は「大和めき物」。近世において「大和めき物」に対してどう対応したのか。

 種子島の船頭が鳥居を建立したり(1778年)、冊封副使の李鼎元が弁カ嶽に訪れたり(1800年)していることからすると、弁ガ岳の石灯籠や石塔は中国的なものなのか、それとも気にするような程のものではなかったのであろうか。

 「弁が岳」の大嶽の前に石門が作られたのは1519年である。石門の前にある石灯籠や石塔は、その当時のものだろうか。古琉球の時代の建立なので「大和めき物」であっても問題はなかった。しかし島津の琉球侵攻後の石灯籠の設置は問題があったのではないか。しかし、石灯籠に年号のあるので、これまで確認しているので古いのは今帰仁グスク内にある「今帰仁王子」(乾隆14年:1749)である。香炉などにある年号は、嘉慶・道光・咸豊・同治・光緒などである。大和めき物の建立は、1700年代以降になると王子や按司クラスのお土産物としての石灯籠や石塔や石香炉の寄進や設置は緩やかになったのか。あるいは「大和めき物」を隠すのは冊封使がきた期間だけのものだったのか。

〔弁カ嶽〕
 目的は火立毛の痕跡が確認できないかである。弁カ嶽は首里城の東方約1kmに位置し、頂上部分が標高165.7mである。頂上部に香炉がいくつか置かれ、今でも拝みにくる人たちがひっきりなしのようだ。首里や那覇のマチ、首里城などを眼下に眺めることができる。また東に太平洋、西に東シナ海が広がる。

 眺めからすれば、弁カ嶽や近くの火立毛は遠見台として、もってこいの場所である。首里城・那覇港・慶良間島、東側に太平洋、南側に久高島などが見渡せる。御嶽には数多くの香炉と「奉寄進」と刻銘された香炉もあり、航海安全の祈願がなされたに違いない。それだけなく、大嶽は久高島への遥拝、小嶽は知念村の斉場御嶽(セーファウタキ)への遥拝場所としての役割を果たしている。「奉寄進 玉川王子朝達」の香炉がある。玉川王子朝達は牧志・恩河事件と関わった人物のようである。『中山世譜』(附巻五)を見ると、道光30年(1850)に正史(尚玉川王子朝達)として江府(江戸)に派遣され、その時王子となっている。謝恩と慶賀を兼ねていたようである。尚氏玉川王子朝達は咸豊5年(1855)にも薩州へ派遣されているので、その時の可能性もある。それとは別に銘が摩耗した香炉がいくつもあるが、その確認は今では不可能である。

 同様な香炉が東風平間切(八重瀬町)の東風平の「神谷の殿」にあるようだ(『東風平村史』)。「寄奉進 義村王子 道光七丁亥 九月吉日」(1827年)がある。『中山世譜附巻五』に「本年(道光七年)に「為稟請帰政事。遣尚氏義村王子朝顕。七月初一日。到薩州。九月十二日。囘国」とあり、「請帰政」がどんな役目かわからないが、尚氏義村王子朝顕を派遣し七月一日に薩州に到着し、九月十二日に国に帰ってきた」とある。薩州へ派遣され帰国しての寄進のようである。尚育王の御同学を努め歌人・琉歌人であったという。

 
   ▲義村王子の銘のはいた香炉(『東風平村史』所収)

 首里の都の風水と関わる冕嶽(弁カ嶽のこと)・虎瀬・崎山嶽の一つの御嶽でもある。弁カ嶽には大嶽と小嶽があり、両御嶽の祭祀とも首里大あむしられが掌っている(『琉球国由来記』1713年)。

 弁カ嶽への関心は1644年に烽火の制が敷かれ、各地に遠見台が設置される。連絡網は弁カ嶽(首里王府)に知らせるネットワークである。例えば、沖縄本島の西海岸は伊是名→古宇利島→大嶺原(具志堅)→伊江島→(瀬底島)→座喜味→弁カ嶽へと繋いで知らせる。その最終場所が弁カ嶽の近くの森にあるのが火立毛であった。

 ・1519(正徳14)年に大嶽の前に石垣と石造りの門を建立する。
 ・1543(嘉靖22)年に弁カ嶽に松を植え、参道を石畳道に改修する。
         拝殿を創建する(1543年か)。
 ・1644(順治元(1644)年から正月・5月・9月に国王が詣でるようになる。
 ・1778(乾隆43)年に種子島の船頭が鳥居を建立する。
 ・1800(嘉慶5)年に冊封副使の李鼎元が弁カ嶽で遊ぶ。
 ・1850年(道光30) 玉川王子朝達 謝恩使(尚泰襲封)で江戸上り。
 ・1853年ペリー一行が内陸探検のとき弁カ嶽あたりを訪れているようだ。
 ・1944(昭和19)年に日本軍が弁カ嶽に陣地を構築するために石を使う。
 ・1945(昭和20)年攻防戦で国宝に指定されていた石門が破壊される。
 ・1954(昭和29)年にハワイの一心会と鳥堀町の奉仕でコンクリート造りの門をつくる。
 ・弁カ嶽は形から航海の目印となる。
 ・弁カ嶽の北東約100mに位置する場所に火立毛があった。そこに「異国」「二艘」などの
  文字が見え、煙で見分ける文面が彫りこまれていたのであろう。

 「火立毛」(『金石文―歴史資料調査報告書X―』沖縄県教育委員会)の碑を確認する(下の拓本)。

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     ▲現在の弁カ嶽(後方が大嶽)             ▲火立毛からみた弁ガ岳

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 ▲「奉寄進 玉川王子朝□」銘の香炉.                ▲弁ガ岳の門の前の石塔 

2008年4月1日(火)

 「各地の石灯籠や石香炉」についても「山原の間切と御殿・殿内」へ集約していくものである。

【糸数グスクの石灯籠】(南城市)

 糸数グスク内に数基の石灯籠がある。石灯籠が置かれている場所は『琉球国由来記』(1713年)でいう「糸数城内之殿」のことか。そこでの祭祀に糸数(脇)地頭やオエカ人、糸数ノロ、屋嘉部ノロ、前川掟などが関わる。石灯籠や石香炉の文字の判読が困難なため、議論を一歩二歩進めるには再調査が必要である。

 ※「糸数城跡―発掘調査報告書T―」(1991年3月)で拓本と文が読まれているので参考にする。
  戦前イブヌメーに9基の香炉と5基の石燈籠があったという。そこで石燈籠の「玉城按司」は寄進
  した年代(上国)の玉城按司である。


2009年3月16日(月)

 これまで「上国之時」と刻まれた石香炉を目にしてきた。それと「上国之時」とは記載されていないが、年号や王子や按司や「・・・にや(仁屋)」と彫られたのも目にしている。それらと薩摩との関わりをまとめた『中山世譜』(附巻)の記事とのかみ合わせをしてきた。『八重山由来記』から「航海と信仰祈願」について三島格氏が紹介している(『琉球』第十号:琉球史研究会 発行1959年)

 それによると、上国の時出発前に「風旗」(カジバタ)の祈願がある。出発後、留守宅も航海安全の願文をつくって美崎嶽や権現堂にお参りをしている。下り船の季節になるとウタキに足しげく参詣したという。帰ってきてからの祈願があったであろう。ウタキや拝所の祠の香炉や石灯籠などは、『八重山由来記』に見る「上国」の時の祈願と無縁ではなかろう。上国する前や途中での祈願があるが、刻銘のある香炉や石灯籠は帰国してからの奉納(寄進)のが多いようである。上国と祈願と香炉・石灯籠との関係はいかに。

 一、美崎、宮鳥、長崎、天川、糸敷、名蔵、崎枝、此七嶽毎年上国役人立願結願仕候是上納船二隻上下海上安寧祈願為也


        ▲糸数グスク内の石灯籠


【中山世譜】(附巻)記事より
 ・崇禎8年(1635)蒙氏糸数里之子親雲上宗正、薩州へ派遣される。
 ・康煕18年(1679)向氏玉城親方朝恩が泰清院公七年忌で薩州へ派遣される。
 ・康煕26年(1687)向氏玉城親方朝御が年頭使として薩州へ派遣される。
 ・康煕51年(1712)向氏玉城親雲上朝薫が尚益王の薨事で薩州へ派遣される。
 ・康煕(1712)向氏玉城按司朝孟が尚敬王の即位で薩州へ派遣される。
 ・雍正元年(1723)向氏玉城親雲上朝薫が薩州へ派遣派遣される。
 ・雍正5年(1727)向氏玉城按司朝雄が薩州へ派遣される。
 ・雍正7年(1729)向氏玉城親方朝薫が薩州へ派遣される。
 ・乾隆59年(1794)向玉城親雲上盛林が薩州へ派遣される。
 ・嘉慶16年(1811)翁氏玉城親方森林が薩州へ派遣される。
   
(Cの石灯籠は嘉慶17年)
 ・嘉慶23年(1818)翁氏玉城親方盛林が薩州へ派遣される。
   (Aの石灯籠は嘉慶24年)
 ・嘉慶25年(1820)向氏玉城按司朝昆が薩州へ派遣される。
   (@の石灯籠)
 ・同治9年(1870)翁氏玉城親方盛宜が薩州へ派遣される(病身)。


   ▲「糸数城内之殿」?にある五基の石灯籠

@糸数グスクの石灯籠

 嘉慶二拾五庚辰年七月吉日(右側面)
   奉寄進(正面)
  玉城按司御上国付御供糸数村
      太田仁屋  

 新城徳祐氏が「玉城按司御上国付御供糸数村太田仁屋
            嘉慶二十五年七月」
と読んでいるのがある(『なきじん研究11―新城徳祐資料―』)。



A糸数グスクの石灯籠

 □□己卯年九月吉日(嘉慶24年か)(左側面)→嘉慶24年に翁氏玉城親方盛林が薩州へ。
      知念仁屋
      大□仁屋



B糸数グスクの石灯籠

  嘉慶二十□□(左側面)
   奉寄進 (正面)



C糸数グスクの石灯籠

 奉寄進 知念仁屋 (正面)
 嘉慶十九?年(十七か) (右側面)→前年の嘉慶16年に玉城親方盛林が薩州へ。
  壬申 九月吉日(左側面)



D無 銘



@石燈籠@
   嘉慶二拾五(庚辰)年七月吉日
    奉寄進
  玉城按司御上国付御供糸数村
     太田仁屋

A石燈籠C
   嘉慶十九年
    奉寄進 知念仁屋
   壬申九月吉日

B石燈籠A
   (文字なし)
   奉寄進  知念仁屋/大嶺仁屋
  嘉慶二十四年(己卯)年九月吉日

C石香炉
   知念仁屋
  奉寄進
    □□仁屋(大嶺か)
    太田仁屋 


2008年4月3日(木)

 勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋、そして近くに勢理客のウタキの香炉の確認をする。勢理客のウタキのイベの祠に二基の石香炉がある。それには銘があり「奉寄進 道光十九年? 八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年九月吉日 上間仁屋」である。勢理客のウタキの中のイビに二基の香炉が置かれている。一基はスムチナ御嶽の香炉の年号と一致する。その同治九年は今帰仁王子朝敷が薩州へ派遣された年である。

 道光年の石香炉は年号の確認がぜひ必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったか。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)に以下のような記事がある。奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。(もう少し整理が必要なり)

 勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
  一、嘉慶二十年亥十二月御殿御共被仰付寅年迄四ヶ年御側詰相勤置申候事
  一、嘉慶二十四年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上
屋嘉被仰付丑四月迄十一ヶ年相勤置申候
  一、道光九年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付十月よ里十二月迄昼夜相勤置申候


 勢理客村兼次親雲上(覚)
  一、道光二十五年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇被仰付九月より十二月
     迄昼夜相勤置申候事

  一、嘉慶二十一年卯十一月廿四日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登首尾能相勤
    置申候事
  一、嘉慶二十年子三月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶二十三年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置申候事 



     ▲勢理客のウタキ内のイビの様子      ▲銘のある二基の香炉


  ▲勢理客のウタキのイビの祠にある銘のある二基の石香炉

2008年4月5日(土)

 、勢理客の御嶽とスムチナ御嶽の三基の石香炉の採拓をする。そこに彫られた年号と「・・・仁屋」の人名をしかと確認したくて。それが揺れていると他の史料とのかみ合わせができなくなる。香炉は雨風にさらされ、また線香をたくので摩耗が激しく、判読がなかなか困難である。もう一度20年前に撮影した写真画像を探し出してみる。


       ▲勢理客のウタキ香炉の拓本(二基)            ▲スムチナ御嶽の香炉の拓本

 『中山世譜』(附巻)や香炉や石灯籠には確認できないが、道光二十六年(1846)丙午十月写文書「元祖日記」の記事に、
  一、嘉慶二十四年(1819)己卯四月御殿大按司様御上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同七月十五日那覇川
   出帆与那国嶋漂着翌辰年六月帰帆仕申候

また、「先祖伝書並萬日記」(平田喜信)に、
 
 一、兼次親雲上(道光20年死去)御事第四代ノ長男、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為メ、掟・・・・
   一、二男武太(光緒5年死去)ハ
両惣地頭ノ御奉公向全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役
     被仰付、志慶真大屋子ト云フ・・・
新城徳助の「口上覚」にも、
  一、咸豊九年(1859)譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里之子様屋嘉被仰付光緒元年亥八月弐八
    迄難有御奉公相勤置申候


などの記事を拾うことができる。石灯籠や石香炉に必ずしもないが(あったのもあろうが摩耗したり廃棄されたりしたのも多数あろう)、家文書などから、奉公人(後に間切役人となる)と御殿や殿内(按司や惣地頭)との密接な関わりが見いだせる。奉公人は間切への文物(首里文化)を運びこむ重要な役割を果たしている。石灯籠や石香炉は山川(鹿児島県)石や凝灰岩だときく。薩摩からの帰りの船のバラストとして持ち帰った石を使って石灯籠や香炉を作った可能性が大きい。


2008年4月8日(火)

 各地の石灯籠や香炉の銘の調査は、「北山(山原)の歴史と文化」の「山原の各間切と御殿・殿内」へと結びつくものである。その調査は、もう少し続く。昨日は恩納村の谷茶までいく。谷茶の御嶽の中の祠に銘のある香炉がある。年号は彫られていないが、「奉寄進 □□ 仲村渠にや」の香炉が二基ある。もう一基にも同様な銘が書かれているが判読が困難である。恩納村については、前に少し触れているが、重複する部分もあるが、整理してみることに。

 恩納間切の創設1673年である。金武間切と読谷山間切を分割して創設される。恩納間切が創設されたとき、大里王子朝亮と佐渡山親方安治に領地として恩納間切が与えられた。その後、佐渡山親方家が廃藩置県まで恩納間切と密接に関っている。恩納村や安富祖村に佐渡山家の仕明地が多くあった。

 佐渡山殿内は恩納間切の総地頭をだした家である。その佐渡山家は仕明地を多く持っていたようである。『恩納村誌』を見ると、恩納グスクの下、グランチャマの砂質地一帯の畑、南恩納の馬場の下印場一帯、シルジ、屋嘉の下り口、太田のクビリ、安富祖の川沿いの水田、字名嘉真にもあったいう。

       覚
  恩納村帳内の原に有之候
佐渡山親雲上面付三万三千四百二十三坪七分之内
  潟二万八千二百三十六坪七分・・・

 (だ度山殿内の土地を手放したのは佐渡山安嵩が中国に行く準備のため、借金を負うようになった。その目的が達せず多くの土地を手放すことになった。


     ▲恩納村谷茶(後方の森がウタキ)          ▲ウタキの中にある祠


                ▲祠の中にある銘のある石香炉


2008年5月20日(火)

【中城村新垣の集落と御嶽(グスク)と香炉】
 
 中城村新垣、かつては陸の孤島だといわれていた時代がある。昭和の初期、普天間と与那原との間に道路が開通したことで、新垣も陸の孤島から解放された。その道路開通を記念した碑が公民館の前に立っている。戦後間もないころ、さらに道路の拡張があり、現在立っている碑は100m東側から移動したという。聞いてみると、「あの空き地に米軍が移してあったが、そこは個人の土地なので、現在地に移した。そこは区の土地だからね」とのこと。新垣集落の後方にある御嶽がグスクと呼ばれるのは、「おもろ」に「ねたかもりくすく」と読まれていることに起因しているのであろう。標高170mあり、周辺の丘陵の中で一番高く目につく。
 
 集落は斜面にあり、集落内の道は坂道が多い。集落の後方の一番高いところに御嶽(新垣グスク)がある。御嶽(グスク)の入り口を見つけるのに時間がかかった。歴史ロードの道をそのまま登り詰めればよかったのであるが、へそ曲がりの私はあちこち寄り道しながら丘陵の頂上部へ。新垣の地形は、以下のウタによく表れている。 
   新垣のはんた 里の村やしが ぬがばたるはんた みるきだちゅさ
     (新垣の険しい崖は 恋人のいる村に行く道ではあるが 崖をのぞくと恐ろしい)
 集落の形態は集落の後方に御嶽(あるいはグスク)があり、集落は御嶽(グスク)の内部、あるいは接していたのが次第に麓の方へ展開。御嶽から斜面に発達した集落は今も残っている。グスク時代から今に続く古いタイプの集落。御嶽がグスクに展開しているタイプ。今帰仁グスクと同様な発展過程とみることができる。ただし、新垣グスク(御嶽)は石積みがほんの僅かであるが確認できた。そう遠くない所にある中城グスクに比べると石積みのないグスクとでもいうべきか。

 詳細については別で述べるが、足を踏み入れた印象でいうなら、まず現在の新垣集落後方の杜は御嶽(ウタキ)と呼ばれ、またグスクともよばれている。古い集落は御嶽(あるいはグスク)内、あるいは近接した場所にあった。その痕跡として御嶽(あるいはグスク)内に殿があること。そして火神が祀られている。火神が祀られているのは、これまでの例からすると住居の跡である。それとニードクル(根所)と呼ばれる祠がある。そこも火神が祀られていて、根人なのか根神の出た家なのか不明だが、住居の跡とみていい。集落の展開からすると、御嶽あるいはグスク内、近接してあった住居が、次第に麓の方へ展開している様子がわかる。説明をみると、ニードゥクル近くに旧家の屋敷跡が数カ所あげられている。

 また御嶽あるいはグスクの頂上部に二、三の香炉と石がある。そこは御嶽のイビだとみてよい。『琉球国来記』(1713年)にある「神名:天次アマタカノ御イベ」とあるのは、今帰仁グスクなどの事例からすると御嶽やグスクなどのイベにあたる場所である。同書にある「新垣ノ嶽」は新垣のウタキやグスクをさしているのでしょう。また「ウチバラノ殿」は現在「殿曲輪」にある祠のことか。

 御嶽(あるいはグスク)の周辺をみると墓が数多くみられる。その中の一つに野面積みされた墓口の前に「奉寄進 同治七年戊辰 伊佐川前?親雲上」(1868年)の香炉がある。御嶽やグスクと関わる時代の人物ではないが、確かめてみる必要がありそうだ。 
  

   ▲「同治七年」寄進の香炉           ▲頂上部にある御嶽のイベ    


2008年4月10日(木)

【薩州・江戸上りと楽童子と奉公人】

 琉球国から薩州や江戸上りをした王子や親方などに随行していった楽童子が、帰国してから首里王府の芸能もそうであるが、地方の芸能に影響を及ぼしているのではないか。その学童子の中に各地の間切から殿内や御殿へ奉公した人物が散見できる。それらの奉公人が地方への伝統芸能の伝播の橋渡しをしているのではないか。

 薩州や江戸へ随行していった楽童子達が、どのようなことをしているのか。そして、大和の芸能を見て琉球へ導入したのがあるのではないか。『琉球使者の江戸上り』(宮城栄昌著)で、「江戸における公式行事」や「薩摩邸における行事」や「使者たちの私的文化活動」で楽童子達(楽人)の役割が述べられている。享保3年(1718)の楽人は延44人である。中に獅子舞も演じられている。

 琉球の文化や琉球人に対する評価は別にして、楽師や楽童子など楽人に推挙され、王子や親方等に随行して薩州や江戸上りできることは、名誉なことであった。そのことと各地に寄進されている石灯籠や石香炉など大和めきものと結びついている。それだけでなく、薩州や江戸へ持っていった芸能を各地の村踊(ムラウドゥイ)の番組に取り組まれていったとみられる。その体表的なものが各地の組踊りであり、今帰仁村湧川の路次楽や松竹梅や古典音楽などである。

 今、調査を進めている「操り獅子」(アヤーチ)(今帰仁村謝名・名護市川上・本部町伊豆味)の導入も、王子や親方などの薩州・江戸上りの随行者、そして間切からの殿内や御殿への奉公人(中には楽童子や躍人として随行)、奉公人が間切役人となる。そのような芸能の伝播の様子が見えてくる。

 ただし、大和の芸能を琉球に移入していく場合、そのままの形で導入していくものと、琉球化していくものがある。「操り獅子」について、まだ直接の史料に出会っているわけではないが、江戸や大阪で「操」は見ている。その「操」(あやつり)は操人形かと思われる。その操の技法を学び、操りの人形部分を獅子にした可能性がある(もう少し資料を追いかけてみるが、果たしてどうだろうか)。

 『琉球使者の江戸上り』の研究をされた故宮城栄昌氏は以下のように述べている。

   「使者たちが受けた日本文化の影響も測り知ることのできないものがあった。それが琉球文化の中に
    日本文化の要素を混融させることとなり、琉球文化の領域と内容を豊かならしめることとなった。琉
    球文化は固有性に富んでいるといわれながら、異質性にも満ちている。その異質性は琉球に置かれ
    ている位置からくる外交活動の側面であった。」

   「また、宝暦二年(1752)の謝恩正使今帰仁王子朝義は、薩摩や江戸で島津重年に対し奏楽・漢戯・琉戯を
   演じ、明和元年(1764)の慶賀正使読谷山王子朝恒も同様であり、さらに寛政二年(1790)の慶賀正使読谷
   山朝祥も、薩摩・伏見・江戸で奏楽・作舞をしているから、舞踊が半ば公的に演ぜられることは、早くから行
   われていたようである。そして島津家に慶事があれば、格別盛大な祝賀芸能があった。」


 『向姓家譜大宗尚韶威』などの家譜から、丁寧に拾い掲げている。有り難いものです。
 
【今帰仁】
 ・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能 薩州へ派遣される。
 ・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将 宮古→薩州→長崎
 ・康煕15年(1626) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
 ・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
 ・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ
 ・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ。
 ・康煕48年(1707) 向氏今帰仁按司朝季 尚益王即位で薩州へ派遣
 ・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝季 年頭使で薩州へ。
 ・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲 年頭使として薩州へ。
 ・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠 霊龍院(吉貴公妃)の薨で薩州へ派遣される。
 ・乾隆11年(1746) 尚氏朝忠 王子のとき薩州へ。
 ・乾隆12年(1747) 尚氏今帰王子朝忠 慶賀使として薩州へ。
   (今帰仁グスク内に乾隆14年の今帰仁王子朝忠の石灯籠あり)
 ・乾隆17年(1752) 尚氏今帰王子朝忠 正史として薩州、江戸へ派遣される(謝恩使)。
 ・嘉慶25年(1820)(前年か) 向氏今帰仁按司朝英 前年台風で八重山→与那国島
   (慶賀改めて)
 ・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州へ。
 ・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷  薩州→東京へ 


2008年4月16日(水)

 浜比嘉島の村は『絵図郷村帳』に「はま村」、『琉球国高究帳』に「はば村」と浜村のみ出てくる。『琉球国由来記』(1713年)には、御嶽のところでは「浜比嘉村」と記されるが、「年中祭祀」になると浜村と比嘉村が別々に記される。それ以前は浜と比嘉の両者を一つの村と扱っていたのかもしれない。勝連間切の地頭代は本島側の村名ではなく浜比嘉島の浜村の浜親雲上を名乗っている。勝連間切の地頭代の曖村が離島であること。与那城間切の曖村も宮城島の名安呉村をとっているようで名安呉大屋子である。

 そのことは今帰仁間切でも同様である。『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子であるが、1750年頃の資料になると古宇利親雲上となる。地頭代の曖村は古宇利村となり、地頭代を勤めた家にはフイヤーやメーフイヤー(前古宇利ヤー)の屋号がつく。勝連や与那城、そして今帰仁などの間切の地頭代の曖村を島にしているのは、上納物の運搬や海上交通と関係しているのかもしれない。


   ▲浜集落にある地頭代火神の祠          ▲祠には二つの香炉が置かれている

【羽地間切稲嶺村の真照喜御宮の香炉銘】

 名護市稲嶺(真喜屋村から分離)の真照喜屋御宮の四基の香炉がある。その一基に「奉寄進 明治廿八年九月吉日 上京之時 真喜屋村上地福重」とある。その香炉は上地福重氏が上京した時の寄進だと明確に記したものである。ただ、氏が上京した記録はまだ確認できていない。どう結びつくかはっきりしないが、その頃の資料に羽地間切稲嶺村十七番地平民の宮里清助の「御願書」がある。その中に、上京と関わる出来事が確認できる。

   ・旧惣地頭亡池城親方東京御使者之時、旅供拝命、上京仕候事 仝(明治)九年
    九月廿七日ヨリ仝十年七月廿日迄
   
   ・東京博覧会ニ於テ当間切出品総代相勤申候 羽地番所 仝(明治)廿三年九月三日

 ここでは、宮里清助氏(天保12年:1853生)が羽地間切役人になる以前、羽地間切惣地頭池城親方家で奉公をしていた。どのような役目をしていたのかをあげると、茶湯詰・側詰・雇詰・宿詰・馬當詰・小鳥当詰・内原詰・手作詰・道具搆・庫理詰・物方取扱搆・惣地頭池城親方上京の時の御供などを勤めている。その後の明治12年に羽地間切屋我村掟となり、西掟・南風掟大掟・首里大屋子・夫地頭・惣山当・惣耕作當代理(明治29年)まで勤めtいる。殿内や御殿での奉公人の奉公をみると、それは首里で培ったことを地方に伝える電流のような役割を果たしている。

 ※香炉を寄進された上地福重は羽地間切真喜屋村八十八番地で明治33年の「決議書」や
   同32年の土地整理の時の持地人総代などを勤めた人物である。明治28年に上京し、香炉
  を稲嶺の真照喜御宮と真喜屋のウイヌウタキ、そして「つるかめ」の拝所に寄進されている。
  砂糖消費税(明治34年)やノロの社禄受領の立会人なども勤めている。 



▲名護市(羽地間切)稲嶺の真照喜屋御宮    ▲上京の時に寄進した香炉


      ▲宮にある四基の香炉         ▲稲嶺村の宮里清助氏の「御願書」(一部)

2008年11月8日(土)

 名護市真喜屋(旧羽地村)へ。真喜屋のろ殿内も訪れる。以前、真喜屋ノロについて触れたことがあるが、ここでもう一度。それと真喜屋の上の御嶽のイベにある一基の香炉。それには「奉寄進 明治廿八年五月 上京ノ時 真喜屋村上地福重」とあり、上京之時とはっきりと刻まれている。同一人物が稲嶺の「マテキヤ御嶽」にも奉納されている。明治以前の「奉寄進」された香炉は数多く見かける。明治になっても、以前からのならわしで行っている。


▲真喜屋の上の御嶽のイベにある香炉    ▲一基に「上京之時」と刻字

・真喜屋のろくもい
 
  社禄の給与額(明治43年) 600円(証券) 11円44銭(現金) 計611円44銭

    証明願
              私 儀
   當村ニ居住目下生存シ且明治十九年三月縣達甲第
   十七号ニ抵触セザルモノニ付御証明相成度此段相願候也
       沖縄県羽地間切真喜屋村八拾番地平民
     明治廿九年一月  社禄受領者 親川タマ
    羽地間切地頭代 喜納豊永 殿

 明治廿九年一月廿一日  税務係   立按者  南風掟 金城松吉
    地頭代 印    主査  印    係 印
   廿八年ノロクモイ社禄第二期分証明之義ニ付伺
 右ハ当間切真喜屋村ノロクモイ親川タマ外三名ヨリ別紙之通リ証明願出候ニ付左按ヲ以テ可然哉
    按
 右願書之通創意ナキヲ証明ス
  明治廿九年一月廿一日    地頭代


2010(平成22)年9月18日(土)

 名護市真喜屋(稲嶺)に「上地重福」が寄進した香炉が三ヶ所にある(稲嶺のマディキヤウタキ、真喜屋のウイヌウタキ、つるかめ拝所)。これまでどのような家の人物か、まだつかめていなかったが、『沖縄の古代マキヨの研究』(稲村賢敷著:135頁)で上地家について紹介されている。このように補足できる資料と出会うことは楽しい。香炉は上地福重が明治28年に上京し、帰ってきてから「奉寄進」したものである。

  ▲マティキヤウタキの香炉(稲嶺)   ▲真喜屋のウイヌウタキの香炉   ▲真喜屋の「つるかめ」の拝所


    ▲[つるかみ」の拝所         ▲真喜屋ノロドゥンチの近くにあった上地門中の家(昭和30年代)


2008年4月22日(火)

 大宜味村田港と大宜味のウタキの祠を訪ねる。近くのアタイグヮーで畑仕事をしている方々と言葉を交わしながら、ウタキの中に香炉について伺ってみるが、「たくさんあるね」「字書いてあったかね」のような会話が続く。字(アザ)の方々は香炉に字が書かれていることは意識していない様子である。「ウートートゥ以外は行かんさ」と。祠には21基の香炉が置かれている。文字が一字でも判読できたのは以下の6基である。田港に何故、21基の香炉が奉納(寄進)されているのか。それは1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港間切が創設され、田港間切の同村であることと無縁ではなかろう。

 田港間切が大宜味間切と改称されると番所は大宜味村に移動したとみられる。その大宜味のウタキの祠に11基の香炉が置かれている。番所が大宜味村(ムラ)に移ったことで、香炉の寄進が二カ所になされたのではないかと考えている。大宜味村からさらに塩屋村に番所が移っているので塩屋のウタキにも香炉があるのかどうか。ニカ村ほどの数はないのではないか。つまり大宜味番所が置かれていた時期が明治の初期か、それより少し古い時期なのかもしれない。@〜Eの香炉は大宜味村田港のウタキの祠の香炉である。(銘のある香炉と石灯籠の確認がもう少し続く。次に移りたいのだが)



@「奉寄進 大□□」(年号なし)

A嘉慶九年甲子 奉寄進 九月□日 宮城仁屋 玉城仁屋」と読める。

 嘉慶9年は西暦の1804年である。『中山世譜』(附巻)に大宜味按司や親方と関わる記事は見出していない。『家譜』の記事から拾えるかもしれない。

B「奉寄進 同治□年  □□□ 宮城仁屋 西掟 大城□□」

 年号の文字の判読が困難であるが、向氏大宜見親方朝救が同治三年に年頭の慶賀で薩州へ派遣されている。それに伴うものか。

C屋古前田村 □□月 根路銘掟 □□□

D□□□月吉日 宮城仁屋 大城仁屋 □□仁屋 

E「奉寄進」の文字のみ


           @の香炉                      Aの香炉


         Bの香炉                        Cの香炉


           Dの香炉                   Eの香炉

【大宜味村大宜味の御嶽の祠と香炉】

 この祠は1953年に建立されている。中に11基の香炉があるが摩耗したためか文字が読めるのは一基もなかった。そのため、田港の香炉との比較ができないのが残念である。


 ▲1953年に建立された大宜味のウタキの祠        ▲祠の内に11基の香炉がある

2004年4月23日(水)

 名護市の安和に部間権現がある。そこに「道光三拾年・・・」(1850)の石灯籠が二基(対)立っている。安和村は名護間切の村なので名護王子や名護親方の薩州や江戸上リと関わる寄進だと見られるが、直接関わる記事は未確認。ただし、道光30年(1850)には、以下のメンバーが薩州・江戸に派遣されており、部間権現に寄進した人物も同行したに違いない。石灯籠や香炉などの寄進をしたメンバーが按司や親方などに薩州・江戸に御供し、帰ってきて大和情報を首里王府のみでなく、間切や末端の村まで伝達する役目を担っている姿が見え隠れする。その頃名護按司の御側使いをした人物(東江親雲上・比嘉筑登之・仲村渠鍋山(惣耕作など)が安和村にいる。

 ・向氏奥武親方朝昇が年頭の慶賀として派遣される(6月〜翌8月)
 ・尚氏玉川王子朝達が王の即位と典礼の謝賀として正使として薩州・江戸へ
    派遣される(6月〜翌4月)
 ・向氏野村親方朝宜が薩州・江府へ福使として派遣される(6月から翌4月)。
 ・毛氏我謝親雲上盛紀が贊議官として薩州・江戸に派遣される(6月〜翌4月)。
 ・向氏伊是名親雲上が耳目官として薩州に派遣される(8月〜9月)。


▲部間権現の石灯籠(左)  ▲右側の石灯籠           ▲部間権現の拝殿と神殿

 部間権現は大正15年に改築されている。設計者は国頭郡組合技手清村勉氏(熊本県出身)で大宜味村の役場にある建物などの設計者である。


 ▲部間権現改築碑(大正15) ▲清村勉氏が設計した大宜味村の役場(現在)

 崎本部の御嶽のイビに二基の香炉がある。「奉寄進 □□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(左)と「奉寄進 同治□年□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(右)とある。同治元年(1859)の向氏本部按司朝章の薩州行き(6月〜10月)と関わるものか(未確認)。


  ▲本部町崎本部のウガミ(ウタキ)        ▲ウガミの上部にある香炉


        ▲左側の香炉                 ▲右側の香炉


2004.7.25(

・国頭村辺戸の安須森(アスムイ)

 
安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。
 
 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
   ・シチャラ嶽  神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽    神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れるの王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」
の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。

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    ▲辺戸岬から見た安須森           ▲辺戸の集落から見た安須森

・辺戸のシチャラ嶽

 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

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  ▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)           ▲御嶽のイビヌメーだとみられる

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  ▲御嶽の頂上部にあるイベ          ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある  


2008年2月23日(土)

 今帰仁グスク内の火神の祠の前に四基の石灯篭がある。「奉寄進石燈爐」「今帰仁王子朝忠」「乾隆十四年己已仲秋吉日」と摩耗してるが辛うじて読み取ることができる。乾隆14年は1749年で今帰仁王子朝忠は今帰仁按司十世の宣謨(1702〜1787年)で、王子になったのは乾隆12年(1743)である。その時、薩州(薩摩)へ使者として赴いている。詳細について触れないが、これら石燈爐の二年後の建立は薩州へ赴き無事帰ってきたことと無縁ではなかろう。それと下記の「覚」の城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目折目の祭祀を行う仕事がある」とも。




2008年2月20日(水)

 『球陽』の尚穆王10年(1760)の条に「知念郡 番所を遷す」とある。
   本年(1760)7月23日、本省検者、総地頭、聞得大君御殿大親等に同じうし、
   題請して本省の城内地勢尤勝なり。乞ふその番所ヲ城内に還すを准すんせん
   ことを。王之れを允す。

 1760年に知念間切の知念村?から知念グスク内に番所を移したということか。「・・・等に同じうし」とあるのは検者や総地頭、そして聞得大君御殿がすでにグスク内にあり、そこに番所を移すことが許されたということか。以前、番所のみ触れたが、全文を通して見ると、1760年に知念番所が知念グスクに移る前から検者や総地頭や聞得大君の殿があり、場所がいいので番所もそこに移ってきたということか(総地頭や聞得大君が、そこに常に住んでいたわけではない。首里に居住)。

 知念グスク内にいくつもの拝所がある。その中には火神が祀られている。検者や総地頭や聞得大君の火神の可能性がある。まだ特定できないが、久高島に向かって遥拝しているのが聞得大君の拝所、セメントの建物の火神は地頭代火神か(そこに番所があったなら)。首里に向いているのは総地頭火神と推定できるが、そこでの祭祀をみないと特定しがたい。

 それと『琉球国由来記』(1713年)の「知念城内之殿は「御殿前之庭に席を設ける」とあるので、知念城殿もグスク内にある。その時には番所はまだグスク内に移動していない時代である。

 そこでは、首里に住む聞得大君と総地頭、そして後に移動してきた間切番所、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる知念里主所火神、地念城御殿、知念城内之殿などと現在の拝所、それと首里に住む総地頭や聞得大君と知念間切との関係はどうだったのか。





2008年3月1日(土)

 国頭間切は沖縄本島の最北に位置する間切(現在の国頭村)である。1673年以前は、現在の大宜味村の津波を除いた大半である。古琉球から17世紀半ばまでの北山(山原)の五間切の一つである。国頭間切と首里に住む国頭按司や国頭親方との関係を見ることに。(大宜味間切と両惣地頭家)

【国頭間切と両惣地頭家】
 国頭間切と羽地間切の村を分割して大宜味間切が創設される以前の国頭間切の間切番所はどこだったのか。大宜味間切分割後の間切番所は浜村→奥間村へ移動している。分割以前は城村、あるいは根謝銘グスクのある根謝銘村だったのか。それとも、大宜味間切分割以前から根謝銘グスクの麓を流れる屋嘉比川下流域の浜村だったのか。『国頭村史』(宮城栄昌著)で「国頭間切の番所は、1673年の田港間切成立のときまで城村にあったであろう」と。

 国頭按司や国頭親方などを拾ってみる。以下のことを踏まえて国頭按司(琉球)と薩摩との関係もあるが、国頭間切と地頭家との関わりに踏み込めたらと。

国頭御殿(按司地頭家)(王族以外で明治まで残ったただ一つの按司家) 
 ・国頭按司の始祖は不明。
 ・国頭親方正胤(元祖:馬氏大宗)…奥間加治屋の次男
 ・二世国頭親方正鑑…父子ともに功積あり。
 ・三世国頭按司正格…1537年尚元王が大島遠征中に病気になり正格が身替りとなり按司の位を贈られる。
 ・四世国頭按司似竜…父の功績で位をもらう。(国頭正教)
 ・五世国頭按司正影
 ・六世国頭按司正弥…島津の琉球侵攻後、国質として薩摩に滞在。島津家久から国頭左馬頭の称号をを賜り、
  太刀など武具を与えらえ、大阪夏の陣に従軍。戦は終わっていたという。1632年に再び年頭使として薩摩に
  赴いている。
 ・1644年(順治1) 国頭王子正則 謝恩使(尚賢襲封)で江戸上り。
 ・1653年(順治10) 国頭王子正則 慶賀使(家綱襲職)で江戸上り。
 ・七世国頭按司正則…島津光久の信頼が厚く薩摩との交渉にあたる。羽地朝秀と対立。
   西森ノ御イベ(下儀保村)は1657年国頭王子正則が島津光久の厄難を消すために創建(『琉球国由来記』)。
   首里の国頭御殿は、その近くにある。異国奉行(廃官:旧記)。
 ・八世新城按司正陳
 ・八世国頭按司正美
 ・国頭王子総大は道光29年(1849)に謝恩で薩州へ赴いている。
 ・国頭按司正全の家録高は250石、物成82石(明治6年)の『琉球藩雑記』)
 ・国頭按司は奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・国頭家には家久からの拝領品(各画・鎧・甲などが保存されていたという(沖縄戦で焼失)。

国頭親方(親方地頭家?国頭殿内)
 ・国頭親方朝致→五世国頭親方朝季(三司官)→六世国頭親方朝治→七世国頭親方朝茲→八世大宜見親方朝楷
  朝致は中国への進貢を二年一貢を陳情し許される。福州で客死。
 ・国頭親方先元(呉氏大宗:川上家)尚元王代
 ・二世国頭親方先次(尚寧王代に三司官となる)
 ・国頭親雲上憲宜(嘉靖?国頭地頭職兼大島奉行)(蘇氏)
 ・国頭親方景明→浦添親方(嘉靖38:1559年〜隆慶元年:1567まで久米島へ流される)(和氏)
 ・国頭親方盛順(嘉靖年間三司官)正徳6年生〜万暦8年没:翁姓)(尚元王代に三司官)
 ・国頭親方盛埋(万暦2年:1574)国頭間切惣地頭職となる。1580年に三司官となる。
 ・国頭親雲上盛許(豊見城家:国頭御殿十六世)
 ・国頭親雲上盛乗(十七世のとき、琉球処分となる)の家録30石、物成9石、作得27石(『琉球藩雑記』)。

 ・国頭親方は国頭按司同様奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 
・国頭親方家は首里の大中にある(首里古地図)。

 ・「浦継御門の南のひのもん」の世あすたべ三人の一人に「くにかミの大やくもいしおたるかね」
    (国頭大臣塩太良加禰)(1546年)
 ・浦添城の前の碑文の「くにかミの大やくもい」は国頭按司正教?
 ・
 1667年羽地朝秀(向象賢)は、按司地頭と惣地頭は年に一日、脇地頭は二日に限って使役させることした。また従来按司地頭と惣地頭は領内から忰者(コモノ)を五、六十人、脇地頭は十人から二十人を使用していたのを、按司衆は十三人、親方部は十二人、以下位階に応じて減らすこととした。御歳暮の礼として三司官などに贈っていた猪二枝やからかみ一手などを禁止した。
 
 以前紹介した石香炉と石灯篭である。それらの香炉や石灯篭は国頭按司や国頭親方と関わるものではないかと見ている。ただ、下にある国頭王子正秀が国頭御殿の国頭按司(王子)にみられないが『中山世譜』(附巻六)に「馬氏国頭按司正秀。(道光22:1842)七月十一日。薩州に到り。九月二十七日に国に帰る」とあり、その時は按司である。同人は道光29年(1849)に佛夷(フランス)が来たので使いとして薩州に王子として派遣されている。その時の寄進ではないか。船三隻が運天港に到着しているので道光26年(1846)の出来事のことか。馬氏国頭王子正秀は咸豊9年(1859)にも太守公の継統の大典の祝賀で特別に派遣されている(その頃のことは整理が必要なり)

【国頭村比地の石香炉と石灯籠】
 1849年福寧府に漂着した国頭船には五人があ乗り組んでいた。そこで救□を受け、、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し確認困難)。また中の宮の香炉の一基に道光29年9月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。
 びんの嶽の石香炉の一つに道光29年9月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のものである。






【国頭村辺戸の石灯篭と石の香炉】



【国頭村奥の石灯篭と石の香炉】



 ※奥に拝所が二ヶ所にある。ミヤギムイとウプウガミである。ミヤギムイ(ウガミグヮー)は
  マハハの女神、ウプウガミはイビサトヌシの男神を祀っているという。両者をあわせてシリ
  グチヌウタキともいうようである。二つのウタキのイベに5基づつの香炉が置かれていたと
  いう(『沖縄民俗』(奥部落調査:1965年)。
    道光二九年(1849)玉城某 奉寄進(両ウガミにある)
    咸豊九年(1859)宮城某 奉寄進(マハハにある)

2008年3月3日(月)

 「山原の間切と地頭家」をテーマに少し整理しておきたい。すでに各市町村史でまとめられているのであろうが、山原の各間切から首里に住む按司や惣地頭との関わりをみていくことに。それで名護→久志→金武→本部の各間切にある地頭家と関わりそうな場所などを手掛かりに踏査してみた。各間切に按司や惣地頭と関わる場所が目についてあるわけではないが、「市町村史」や「家譜」や「中山世譜」などの記事を間切(現場)に引き込んで考えてみたい、その試みである。(見通しがついているわけではないが、一度は通過しておかなければならないであろう)

 本部間切は1666年に今帰仁間切から分割して伊野波間切、翌年には本部間切となる。1666年以前の今帰仁間切は今の本部町を含む大きな間切であった。1666年以前の歴史をみていく場合は今帰仁グスクを中心とした領域であったことを念頭に入れて考える必要がある。

【本部間切と両惣地頭家】

(本部按司家:御殿)
 ・尚質王の六子朝平を元祖とする。
 ・本部按司朝完(二世:朝定)…1696年西御殿御普請・南風御殿修補の総奉行を勤める。
 ・本部按司朝智(三世)…1716年那覇津浚濬奉行を勤める。
 ・本部王子朝隆(四世)…1736年総奉行となり国中の河川の改修に努める。
 ・本部按司朝救(五世:朝恒)…薩摩に上国する。(1773年)
 ・本部按司朝英(六世)…薩摩に上国する(尚□王即位)。
 ・伊野波按司朝徳(七世)
 ・本部按司朝章(七世)…薩摩に上国する。
 ・本部按司朝宜(八世)
 ・本部按司朝真(九世)…明治6年の『琉球国藩雑記』で、家録高150石、物成19石、本部間切に作得37石余。
 ・「奉寄進 咸豊九年己未九月吉日旦 本部按司内松田仁屋」とある(1859年:本部町辺名地)。
 ・「奉寄進 咸豊九年九月 本部按司並里仁屋」とあるあ(1859年:本部町並里)

・乾隆16年(1751) 向氏本部按司朝恒 薩州へ(尚穆王即位)。
・嘉慶9年(1804) 向氏本部按司朝英 薩州へ(尚□王即位)。
・嘉慶14年(1809) 向氏本部王子朝朝英 薩州へ。
・咸豊9年(1870) 向氏本部按司朝章を薩州へ特遣。

(伊野波殿内:惣地頭家)
 ・康煕5年(1666)伊野波盛紀(七世)本部間切惣地頭職となる(今帰仁間切を分割)
 ・康煕27年(1688)に伊野波親方盛平(八世)は本部間切惣頭職となる(40石から80石となる)。
 ・康煕38年(1699)に伊野波親雲上盛忠(九世)は本部間切惣地頭職を賜る。
 ・康煕42年(1703)に伊野波親方盛祥(十世)本部間切惣地頭職となる。
 ・乾隆3年(1738)に盛真(十一世)が本部間切惣地頭職となる。
 ・乾隆16年(1751)に盛周(十二世)が本部間切地頭職となる。

(本部間切の脇地頭)

 本部町伊野波の神アサギの側にウルン(御殿)と呼ばれる祠がある。伊野波家(惣地頭家)の殿内ではないか。『琉球国由来記』(1713年)をみると、本部間切伊野波村(同村)での祭祀に関わるのは惣地頭のみである。按司は見られない。それからすると伊野波にあるウルン(御殿)は伊野波殿内の拝所ではないか。

 また本部町の並里と辺名地に「本部按司」と記された奉寄進の香炉がある。まだ確認していないが、本部按司の上国と関係しているとみられる。そこには本部按司だけでなく並里仁屋や渡久仁屋などの名があるのは、按司に仕えた村出身の奉公人ではなかったか。そこから間切や村と按司や惣地頭との関係が見えてきそうである。
  

  ▲伊野波にある御殿(ウルン)跡            ▲ウルンの中の香炉(銘は不明)

 
▲咸豊9年本部按司とある香炉(本部町並里)    ▲並里仁屋とある香炉(年号未判読)

 咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されている。その時の寄進とみられるが、渡久地仁屋は按司家に奉公している、あるいは奉公していた並里出身の屋嘉とみられる。


2008年3月5日(水)

 羽地間切については、「羽地と地方役人」で詳細な解説がなされているので参照する(「地方役人関連資料」(名護市史資料編5)。各間切とも羽地間切と同等のレベルで論ずることはできないが、間切と両惣地頭との関係を具体的に、また体系的にまとめられた研究である。間切から首里王府や御殿や殿地との関係や間切から中央を照らし返してみることのできる絶好のものである。

 羽地間切の事例を踏まえて、各間切と按司地頭家や親方地頭家、首里王府との関わりを間切(オエカ人・ウェーキ・ノロなど)がどう見ていたのか。時代は変わっても、その目線は今も変わっていないのではないか(変わらないものかもしれない)

「羽地間切各村内法」に両惣地頭と関わる条文がある。
  第1条 夫地頭掟ハ平常□村ヘ出張第一身分ヲ慎万端正道ニ相勤百姓中ノ亀鑑ニ相成候様左候…
        百姓迷惑掛候由相聞候ハゝ糾方ノ上頭御役
両惣地頭御差図ヲ以テ重キ御取扱可仰付事
  第43条 百姓地及村持ノ
地頭地オエカ地・・・・
  第95条 …田地御方
両惣地頭ヘモ御案内ノ上当人…

【羽地間切と両惣地頭家】


 ・羽地御殿(按司地頭家)
 ・池城殿内(親方地頭家)
 ・羽地間切の脇地頭家

 「午年羽地按司様御初地入日記」(同治9年:1870)は、解説によると羽地按司が領地に初めてやってきた時の様子を記したものだという。一行の羽地間切での動き、「覚」(日記)を記したのは受け入れ側である。按司様一行をどのようにもてなしたのか。そして、どのような拝所を廻ったのか。羽地間切内の源河と伊佐川を除いた「のろこもい火神」(ノロ殿内)を廻っている。按司家から間切役人への拝領物の進呈、間切から按司家への進上などがある。

 他の間切でも按司や惣地頭などが間切へやってきた時には、同様な対応をしていたのではないか。その事例があるので『琉球国由来記』(1713年)の「両惣地頭」が関わる祭祀の時、首里からやってきた時、間切は同様に対応をする様子が浮かんでくる。

  ・同治9年(1870)9月3日/羽地按司が初めて羽地間切にやってくるのでお迎えに首里に向かう。 
  ・同9月6日/羽地按司の出発の日であるが、5日から6日まで台風のため、出発をひかえる。
  ・同9月8日/羽地按司はじめお連れ衆(総勢16人)が出発し、読谷山間切宇座村で一泊する。   
  ・同9月9日/恩納間切番所に一泊する。
  ・同9月10日/名護番所に一泊する。
  ・同9月11日/羽地間切に到着。羽地番所で御三献して真喜屋村の宿舎へ。

   羽地按司は川さう仲尾親雲上宅

   御内原(按司様の奥方)は前地頭代川上親雲上宅

   役人はおかいら親川親雲上宅

   親泊筑親雲上はたんはら屋

   間切の役々は仲尾筑登之宅
・同9月12日/(翌日の準備、それと休息日としたのか、動きはとして何も記されていない)

・同9月13日/御立願をする。

   @御殿火神(親川村)→A城(親川)→B勢頭神御川(親川村)→C御殿御川→
   Dのろ御火神(仲尾村)→Eのろ御火神(真喜屋村)→F御嶽(真喜屋村)

・同9月14日/屋我地御立願

   @のろこもい御火神(我部村)→御嶽(我部村)→Bのろこもい御火神(によひ名村)→

   Cいりの寺(饒平名村)→D東の寺(饒平名村)→済井出村→屋我村を巡検される。
・同9月15日/間切から招待

・同9月16日/按司様から真喜屋村の宿舎にさばくり(5人)、惣耕作当・御殿に仕えたもの・
   間切役人・神人(14人)・80歳以上の老人を招待される。


       (拝領物あり)  (進上物あり)

  (9月17日〜25日の間についての記録がないが、その間、拝領物や進上物や間切役人など
   の訪問があったであろう

 ・同9月26日/羽地大川のたから(タガラ)から東宿で帰られる。

        (首里までの到着の記録はない)

御殿と殿内への奉公人(後間切役人へ)
 
「地方役人関連資料」(名護市史)に御殿と殿内へ奉公した奉公人がいる。それら奉公人(後の間切役人)と御殿と殿内との関係は、密接な関わりが読み取れる。奉公人の御殿、殿内を崇めたてる気持ちは、平民も同様なものとみられる。まだ確認していないが、出身地の村のウタキなどの拝所の「奉寄進」の香炉に彼らの名があるかもしれない(未確認)。

  ・羽地間切川上村の親川仁屋(羽地按司家)
  ・羽地間切仲尾次村の平良仁屋(羽地按司家)
  ・赤平地頭代プスメー(松川仁屋)(羽地間切古我知村)
  ・上里仁屋(羽地間切振慶名村)(池城御殿)
  ・宮里清助(池城殿内)(羽地間切稲嶺村)
  ・親川登嘉(羽地間切川上村)(羽地按司家)



                      ▲羽地の親川グスク


▲親川グスクにある拝所(池城里主所火神?)     

2008年3月6日(木)

 奥と辺戸に立ち寄る。両字に大きな石灯籠がある。風化し記銘は全く読めない。石灯籠は首里の弁ガ岳にあるような大きなものである。今帰仁グスクにある今帰仁王子(十世宣謨)クラスの人物の寄進ではないか。国頭按司(王子)の誰かではないか。国頭間切から大宜味間切が分割し、根謝銘(上)グスクは国頭間切ではなく、大宜味間切内に入ったため、国頭按司(クラスの人物)は国頭間切内の辺戸や奥、比地に大きな石灯籠を設置したのだろうか。あるいは脇地頭クラス。(以前に整理したような気がしているが?)


   ▲国頭村奥のウガミ(神社)にある石灯籠(一基)


    ▲国頭村辺戸のウガミにある石灯籠(二基)

・万暦42年(1614) 馬氏国頭按司正彌薩州(国頭左馬守)へ。
・崇禎3年(1630) 向氏国頭親方朝致、薩州(年頭使)へ。
・崇禎5年(1632) 馬氏国頭按司正彌薩州へ(年頭使)。
・崇禎16年(1639) 馬氏国頭王子正則薩州へ、大守様に随行して江府へ。
・順治3年(1646) 向氏国頭親方朝季、薩州へ。
・順治5年(1648) 馬氏国頭王子正則薩州へ(尚質王即位)。
・順治7年(1650) 向氏国頭親方朝季薩州へ。
・順治9年(1652) 馬氏国頭王子正則薩州へ、大守様に随行して江府へ(将軍家綱公襲封)。
・順治13年(1656) 馬氏国頭王子正則薩州へ。
・康煕3年(1664) 馬氏国頭王子正則薩州へ(年頭使)。
・康煕26年(1687) 馬氏国頭按司正美薩州へ。
・乾隆6年(1741) 向氏国頭親方朝斉 薩州へ。
・乾隆26年(1761) 馬氏国頭按司正俸 薩州へ
・乾隆33年(1768) 向氏国頭親雲上朝衛 薩州へ。
・乾隆42年(1777) 向氏国頭親雲上朝衛 薩州へ。
・乾隆48年(1783) 向氏国頭親方朝衛 薩州へ(慶賀使)。
・道光22年(1842) 馬氏国頭按司正秀 薩州へ。
・道光29年(1849) 国頭王子正秀 薩州へ派遣。(船三隻、運天港へ)
  比地の中の宮とびんの嶽の石灯籠と石香炉
・咸豊9年(1870) 馬氏国頭王子正秀を薩州へ特遣。
  奥のミアゲ森小祠に咸豊九年の香炉あり。

2008年3月13日(木)

 これまでグスクやウタキなどにある年号や銘のある石灯籠や石香炉などを調べきた。線香の火や煙にまかれてそのほとんどが判読できないが、興味深い歴史が見えてくる。地域にある年号や銘のある石灯籠や石香炉から、首里に住む王子や按司の動きと首里奉公した地方の奉公人との関係が密接である。それと御嶽などにある銘のある香炉や石灯籠などは江戸や薩摩への旅との関わりでの祈願である。王子や按司の動きというのは、石灯籠や石香炉の年号や按司や王子名と『中山世譜』(附巻五)の記事と合わせ見ると、その多くが一致する。しかし、煙にまかれて、ほとんどわかりません。

 これまでの例を前提に、摩耗して読み取れなかった今帰仁間切内の四つの香炉の年号と二人の内の一人の今帰仁按司の動きが『中山世譜』(附巻五)の記事を合わせ見ることで判明する。以前以下のような報告してきた(一分訂正)
  
・今帰仁勢理客【2004.7.8】
   
 御嶽の中のイビに二基の香炉が置かれている。「奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進
    同治九年午□□ 上間仁屋」がある。もしかしたら、スムチナ御嶽の香炉の年号と一致しそうである(要
    確認)。今帰仁按司が上薩のときの旅祈願(航海安全)の香炉なのかもしれない。御嶽での祈願の一つ
    に航海安全があることがしれる。  


・複数村(ムラ)の御嶽―スムチナ御嶽―【2004.7.8】

   イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風
   化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本に
   や」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州に派遣
   されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願し
   て香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また、それとは別
   に雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。


 すると、これまで判読できなかった勢理客の御嶽のイビにある二つの香炉と玉城のスムチナ御嶽にある判読できない部分は以下のように補足できる。それは『中山世譜』(附巻五)の記事と合わせ見ることでできる。@Bの道光二拾年(1840)については、再度石灯籠の年号の確認が必要であるが、同治九年(1840)は今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州(薩摩)に王子として派遣されている。勢理客村の親川仁屋と上間仁屋、それと謝名村とみられる大城にやと松本にやは、今帰仁御殿へ奉公した、あるいは奉公人であろう。

  @奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋→奉寄進 道光二拾年八月吉日 親川仁屋
   A奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋「奉寄進 同治九年庚午十月 上間仁屋
   B奉寄進 道光二拾年→奉寄進 道光二拾年(八月吉日)
   C奉寄進 同治九年十月→奉寄進 同治九年(庚午)十月 大城にや 松本にや



   ▲スムチナ御嶽のイベ部(頂上部)        ▲イベにある銘のある香炉(今では判読できない)

2008年3月21日(金)

【玉城グスクの石灯籠】

 「玉城城跡整備実施計画書」(沖縄県玉城村教育委員会)(南城市)に玉城城跡内の石灯籠について、
   「石灯籠は鹿児島県産の山川石で造られている。鹿児島へ米を運んだ船は、沖縄へ帰る時に空船と
    なるため、この石を積んだらしい。山川石を利用した灯籠の作成年代は一時期(嘉慶25年:1820)に
    集中しており、唐渡りのお礼として寄進したか、させられたのであろう。灯籠に「盛林」という名前が彫
    られているが、玉城按司の名前に「朝」とつく家系の次には「盛」の家系が親方についたのでその関係
    者だろう」(湧上元雄氏談)

とある。玉城グスク内に「嘉慶二十五 庚辰 奉寄進 玉城按司」(1820年)と彫られた石灯籠がある。『中山世譜』(附巻五)をみると、その年大守(藩守)様の慶賀で向氏玉城按司朝昆が6月11日に薩州(薩摩)に到着し、11月22日に帰国している。この石灯籠は玉城按司朝昆と関わるものとみられる。

 上の湧上氏の談に「森林」の名が彫られているとあり、『中山世譜』(附巻五)に嘉慶二十三年戊寅(1818)に翁氏玉城盛林が5月19日に薩州に到着し10月29日に帰国している。石灯籠は六基あったようなのでその一基が盛林と関係するものとみられる。年号が彫られた寄進の石灯籠や石香炉は、唐旅というより薩州(薩摩)や江戸上りのお土産品の一つとみた方がよさそうである。何故、山川の石かとなれば、琉球への船出港が山川港であり、空船のバラストとして使った石を石灯籠や石香炉に仕立てて間切のグスク(ここでは玉城グスク)に寄進したみることができそうである。

 玉城グスク内の「中之城ノ殿」は『琉球国由来記』(1713年)によると、玉城按司と惣地頭が関わる祭祀場である。石灯籠の側がその殿跡とみられる。


▲「嘉慶二十五庚辰 奉寄進 玉城按司」の石灯籠と、香炉の付近が「中之城ノ殿」の跡か


    ▲グスク内の「天粒天次」の拝所?

・康煕51年(1712) 向氏玉城親雲上朝薫 薩州へ(尚益王薨)。
・康煕51年(1712) 向氏玉城按司朝孟 薩州へ(尚敬即位)。
・雍正元年(1723) 向氏玉城親雲上朝薫 薩州へ(慶賀使)。
・雍正7年(1729) 向氏玉城朝薫 薩州へ(年頭使)。
・乾隆59年(1794) 翁氏玉城親雲上盛林 薩州へ(尚穆王薨)。
・嘉慶23年(1818) 翁氏玉城親方盛林 薩州へ)。
・嘉慶15年(1820) 向氏玉城按司朝昆 薩州へ(慶賀など)


2008年3年25日(火)

【奥武島の権現堂の石灯籠】
 旧玉城村(現南城市)奥武島の観音堂の境内にある石灯籠を訪れてみた。境内に9基の石灯籠が確認できる。その内4基は摩耗し全く文字が確認できない。他の5基についてはいくらか文字が確認できた。同じ年号の石灯籠があり、対で建立されたようである。玉城按司と玉城親方の上薩との関わりの石灯籠とみることができる。『中山世譜』(附巻五)に嘉慶16年6月9日に翁氏玉城親方盛林が薩州に到着し、翌10月18日に帰国、また、嘉慶25年に向氏玉城按司朝昆が6月11日に薩州に赴き、11月22日に帰国しており、二基の石灯籠と合致している。

 このように、グスクや拝所にある石灯籠や銘のある石香炉は、その間切と関わる按司や親方が薩州への旅からのお土産であり、無事帰国の報告でもある。按司や親方とは別に仁屋クラスの人たちが出てくる。それは按司家や親方家への、その村出身の奉公人だと思われる。中には薩州まで随行していた人物もいたと思われる。他の資料では、随行していった人物を確認することができる。石灯籠や銘のある石香炉の寄進は、村の祭祀とは別のものである。

 薩州への目的は年頭の慶賀使、謝恩使、太守(藩守)様の継承、王の即位などである。

 @ABCは文字が摩耗しいて判読できず。

D「嘉慶二十五年 奉寄進 玉城按司」
E「奉寄進 嘉慶十七年 秋分吉日 比嘉仁屋 當山仁屋 城間仁屋」
F「嘉慶二十五年庚辰 奉寄進 玉城按司」
G「嘉慶□□□(十七年か) 玉城親方盛林」
H「奉寄進 嘉慶十七年秋分吉元旦 嶺井親雲上 與那嶺筑登之上 比嘉筑登之
         大城仁屋 山川仁屋 知念仁屋


 ▲殿の入口の石灯籠(@A文字摩耗)        ▲CDの石灯籠(C文字摩耗) 

 
      ▲EFGの石灯籠                Eの石灯籠          Fの石灯籠


      Gの石灯籠               Hの石灯籠 

2008年3月28日(金)

 『金石文―歴史資料調査報告書D』(沖縄県文化財調査報告書第69集)(昭和60年)に三基の石灯籠の拓本が掲載されている。「宜野湾王子朝祥寄進灯籠銘」(二基)と「普天間宮寄進灯籠銘」と「御船松保丸」の四基である。近々に現物を拝見に。

 宜野湾王子朝祥についての記事は、まだ拾うことができていないが、宜野湾王子朝陽は乾隆56年(1791)に年頭慶賀使として江戸や薩州に赴いている(『中山世譜』附巻四)。尚□王の摂政として務めた人物である。山川や鹿児島の船持ち達が普天間宮に寄進しているのは珍しい。石灯籠は薩州や江戸への使者として赴き、帰国後の寄進である。航海安全(海上安全)を主目的としたものであることがわかる。

@宜野湾王子朝祥寄進灯籠銘(1793年?)
    □□八年癸□九月穀旦
        宜野湾王子朝祥

A宜野湾王子朝陽寄進灯籠(1791年) 
    乾隆五十六年辛亥十二月穀旦
       宜野湾王子朝陽

B普天間宮寄進灯籠銘(1804年)
    文化元申子年十二月吉日
   奉寄進 亀喜丸 海上安全
    山川之
     肥後平助
    鹿児島之
     岸尾吉左衛門
 
C御船松保丸(年号不明)→沈没?
    船頭
   奉寄進 濱崎弥七
   御船松保丸

  
 @A宜野湾王子寄進の石灯籠    ▲BC普天間宮へ大和船から寄進された石灯籠



2008年3月31日(月)

 土は旧羽地村・大宜味村・国頭村と動いてみた。大宜味村でシンポがあったので参加。山原各地の動きをしるために。その後、大宜味村の喜如嘉、国頭村の辺土名まで。国頭村辺土名の「世神之宮」の祠にある四基の石香炉が気になってである。以前にも紹介したような記憶があるが、その時は石灯籠や銘のある香炉と按司や王子、あるいは親方や脇地頭、奉公人などの薩州や江戸登りと結びつけるまでには行かなかった。宮城栄昌氏が遭難や漂着船と結びつけようとされていたため、それにつられて見てきたため結論を見い出すに至っていなかった。

 王子や親方や按司、脇地頭などの薩州行きとの関係でみると、「世神之宮」の石香炉の三基は『中山世譜』(附巻)の薩州行きの記事と三基(@〜B)とも一致する。仁屋クラスのメンバーは殿内や御殿に奉公していた各村の人物とみている。それは他の資料で紹介する予定。(以下の記事の左側は石香炉、右側は『中山世譜』(附巻)の記事)

 @道光二十二年寅年 宮里仁屋(1842年)→国頭王子正秀が薩州に赴いている。
 A咸豊九己未 金城仁屋 仲間仁屋→馬氏国頭王子正秀が薩州に派遣されている。
 B咸豊十年九月?宮城仁屋(1860年)→辺土名親雲上正蕃が薩州に派遣される。
 C光緒十一乙酉 新門謝敷仁屋(1885:明治18年) 



       ▲国頭村辺土名の「世神之宮」      ▲@A宜野湾王

2008年5月15日(木)

 向氏具志川家の十二世鴻勲(朝郁)(1783〜1804年)は嘉慶元年(1796)に楽童子として江府(江戸)に赴いている。楽童子は江戸上の時、琉球音楽や躍りを演じる若者で鴻勲は13歳の時である。江戸上の詳細は『具志川家家譜』の十二世鴻勲のところに記されている。鴻勲が今帰仁間切の村の村踊(ムラウドゥイ)に影響及した可能性は少ない。どちらかと言えば、これまで見てきた間切からの御殿や殿内などへ奉公人や奉公した後の間切役人などが中央の芸能を村踊の演目に取り入れていくことに影響を及ぼしているとみている。また按司や脇地頭などの「初地入」は、按司や脇地頭などを歓迎する演目としたのではないか。

 今帰仁グスク内の石灯籠もそうであったが、今帰仁阿応理屋恵火神の祠(今帰仁グスク近く)の後側にある四基の「奉寄進」(年号部分は判読できにない)は、今帰仁王子や按司などの薩州や江戸上と無関係ではなかろう。香炉の向きは、伊是名島や辺戸などへの遥拝と言われるが、香炉は伊是名島と辺戸岬との中間に向いて置かれていて、それは薩摩や帰国への航海安全の祈願とみていい。今帰仁阿応理屋恵火神の祠の手前右側にも数基の銘の刻まれた石の香炉があったが不明。
(近くに放置されているかもしれないので探してみるか。その中には年号はっきりしているのもあるかもしれない)


【『中山世譜』(附巻)より薩州や江戸上の親方・按司・王子など】


 ・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能、薩州へ(月日不明)
 ・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将
 ・康煕15年(1676) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として6月27日薩州へ、翌年11月4日帰国する。
 ・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として5月26日薩州へ、翌年11月7日帰国する(翌年病で没)。

 ・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲、鷹府城の回録で8月24日薩州へ、11月6日帰国する。
 ・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲、7月10日薩州へ、11月9日帰国する。
 ・康煕48年(1709) 向氏今帰仁按司朝季、尚益王の即位で9月12日薩州へ派遣、11月6日に帰国する。
 ・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝哲、8月4日薩州へ、翌年11月14日帰国する。
 ・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲、年頭頭として6月21日薩州へ、翌年10月22日帰国する。
 ・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠、吉貴公妃(霊龍院)の弔で閏5月27日薩州へ派遣、10月25日帰国する。
 ・乾隆12年(1747) 向氏今帰仁王子朝忠、慶賀で6月11日薩州へ、翌年3月帰国する。
 ・乾隆17年(1752) 向氏今帰仁王子朝忠、正史として6月13日薩州へ、12月2日江戸へ、翌年3月1日薩州へ、4月9日帰国する。
 ・乾隆52年(1787) 向氏今帰仁按司朝賞、太守様元服で8月2日薩州へ、翌年3月11日帰国する。
 ・嘉慶25年(1820) 向氏今帰仁按司朝英、前年薩州へ赴く(慶賀)前に船は風に遇い、八重山・与那国島に漂着する。
 ・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷、6月22日薩州へ、10月11日帰国する(明治3年)。
 ・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷、9月24日薩州へ、10月24日東京へ、翌年1月29日帰る。



 ▲今帰仁阿応理屋恵火神の祠(グスク近く)             ▲後ろにある四基の石香炉


2008年6月13日(金)

 今帰仁阿応理屋恵殿内(オーレーウドゥン)の祠にあった扁額である。平成5年頃まで祠にあったが、今では失われている。昭和60年頃撮影と採拓したものである。右上に「乾隆歳次丁未□□春穀」と確認できた。「□依福得」と読める。乾隆歳次丁未は乾隆52年(1787)にあたり、当時の今帰仁間切惣地頭職は十一世の弘猷(今帰仁王子、名乗:朝賞)(1756〜1809年)である。オーレーウドゥンの祠にあった下の扁額と十一世弘猷がどう関わっているのか。今のところ直接関わった資料に出会えたわけではないが、オーレウドゥンへの扁額の奉納と今帰仁王子弘猷の動きと無関係ではなかろう。

 乾隆52年(1787)に太守様の元服のときで、向氏今帰仁按司朝賞は使者として派遣される。7月11日那覇港を出て15日に山川港へ到着。鹿児島城での公敷きの儀礼を果たし、方物を献上し、また福昌寺や浄明明寺などを拝謁している。翌年2月11日麑府を出て、翌日山川に到着するが風が不順だったようで帰ってきたのは3月11日である。同じく乾隆52年に三平等許願いのとき、世子尚哲、世子妃などを薩州へ使わされている。

 オーレーウドゥンの扁額はふたつの薩州への派遣と関わっての奉納だと思われるが、果たしてどうだろうか。20年余前に別の視点で扱った扁額を再び扱うのもまたいいものである。




2008年7月19日(土)

【羽地の我部祖河の御嶽(ウタキ)】(現名護市)

 我部祖河は羽地間切の村であった。現在名護市の字である。中央の杜がウタキである。ウタキ一帯の集落をウンバーリと呼んでいる。ウタキの中央部に窪み(空堀?)があり、左右に分けられている。画像でも窪みラインがわかる。ウタキに向かってゆくと鳥居がある。これは近年寄贈を受けて建てられている印象。ウタキは中央部の窪みで左右に分かれている。
 向かって左側にもう一つ鳥居があり、その奥に祠がある。その内部に香炉が一基置かれているのみである。杜全体がウタキで、内部にある鳥居がイブヌメー、奥の祠の香炉のある部分がイビである。その後ろにもう一つ祠があり、同じく祠に香炉が一基置かれている。鳥居の近くから帯綱が左右に巡らされている。

 その反対側に神社風の建物がある。そこは神アサギのあった場所である。建物の前の方は神アサギと見立てている。奥には「後ノ屋火神」「底屋(スクヤ)火神」「仲ノ屋火神」「区長(脇j地頭)火神」がまとめられている。

【羽地の我部祖河の御嶽(ウタキ)の構成要素】
 ・杜がウタキである。
 ・ウタキヌムイと呼ばれている(ウイヌバーリタキ)。
 ・鳥居があり、そこはイビヌメーにあたる。
 ・鳥居の奥の祠には香炉のみ置かれ、イビに相当する。
 ・それでは足りなかったのか、奥にさらに祠が建てられている。
 ・鳥居の近くから左右に帯綱が巡らされている。
 ・杜の中に神アサギがある。
 ・地頭火神があった。
 ・カーの跡がある。
 ・杜に向かって神道がある。
 ・以前、神アサギの軒裏に獅子を入れた箱が置かれた。


   ▲中央部の杜が我部祖河のウタキ           ▲ここは便宜上の入口か。明確な神道あり。


   ▲鳥居があり、奥の祠がイビ         ▲イビには香炉のみ     ▲帯綱が張り巡らされている。


    ▲手前が神アサギ、合祀してある。          ▲中に四ヶ所の火神を合祀してある。

2008年7月15日(火)

 今帰仁村今泊の津屋口墓、平敷のウタキ(御嶽)、名護市の振慶名(移動村)、我祖河、そして屋我地島の饒平名、我部(移動村)などのウタキを踏査する。いずれも別のテーマで足を運んでいるが、やはり講演や報告が近付いてくると、現場まで行かないと、自分自身が納得できないこと、それと説得力をもった報告ができないため、近づいてくると現場確認を含めて足を運んでいる。

【平敷の御嶽(ウタキ)】(今帰仁村)

 今帰仁村平敷にある拝所のある杜はタキ(ウタキのこと)と呼ばれる。ウタキは平敷の現在の集落の北側に位置し、杜の中に散在してあった拝所を杜の中に集めている。杜周辺からグスク土器や青磁器などの遺物が散在している。かつての集落はウタキの南側に展開していた様子がうかがえる。ウタキの中にイビがある。そのイビに四基の古い石の香炉が置かれている。その内の二基に「奉寄進」と刻まれている。その一つに「道光二拾五年乙已上国之時 奉寄進 平敷村 嶋袋仁屋」と刻まれている。道光25年の上国した人物に今帰仁里主親雲上がある。同行していった一人ではなかったか。


      ▲杜が平敷のウタキ            ▲杜(ウタキ)の内部の一段高い所がイビ


    ▲イビに四基の古い香炉       ▲「上国之時」とある香炉

2008年8月17日(日)

 具志堅のウタキはグスクと呼んでいる。ウタキをグスクと呼ぶ例である。またお宮ともいう。お宮と呼ぶのは昭和17年に拝殿と神殿を建立した後のことかと思われる。グスク(ウタキ)は具志堅村のウタキ(グスク)である。もう一つグスクとは別にウガーミ(ウタキ)という杜がある。フプガー(大川)の後方の杜で、そのウガーミ(ウタキ)は真部村のウタキである。村が合併してもウタキの合併はなされていない。拝殿の中にウガーミに向けての遥拝の香炉が置かれ、具志堅のウタキのイビ(神殿)に向ってのウガンが終わると真部のウガーミに向かってのウガンがなされる。合併村のウタキ(グスク)がどうなっているのか、その視点も必要になってくる。二つのウタキそのものの要件は、これまで見てきたウタキとそう変わるものではない。行政村が合併してもウタキまで一つにまとめることはしていない。

 拝殿と呼ばれる祠に銘のある香炉があり、年号が彫られている。詳細については再度確認してまとめるが咸豊九年九月吉日の香炉に「本部按司内」が読み取れる。 


   ▲拝殿内の「奉寄進」のある香炉(左から咸豊9年、明治14年、同治□年)


2008年10月11日(土)

 浜元の方からいくつか話を聞くことができた。そこで「ウルン(お宮)」の中もどうぞということで、中の香炉を見させてもらった。ウルンと呼ばれているように、そこは脇地頭の火神を祭った祠だと思われる。

 「浜元神社」や「お宮」と呼ばれている。脇地頭は「本部間切具志川村作得拾四石余 浜元親雲上」であろう。そこにも、移動前の具志川村、後に村名となった浜元親雲上が見られる。ウルン(御殿:脇地頭火神?)の中に三基の香炉と火神があり、二基の香炉に文字が刻まれている。中央部の一基に文字は確認できなかった(裏面は確認していない)。(正確な年号を確認後に他の資料とのかみ合わせをすることに)。ウルン(御殿)内の香炉は山川石のようである。

  @の香炉
     明治十五年 十月吉日 (奉寄進) 地頭代□□□村
        大城筑登之か
  Aの香炉 年号等なし(裏に?)
  Bの香炉 咸豊五年 奉寄進 仲宗根仁屋


     @向って左側の香炉              A真ん中の香炉

  
   B向って右側の香炉        ▲三基の香炉のあるウルン(お宮)の祠


2008年11月15日(土)

 これまで見てきた弁ガ嶽・糸数城・奥武島・座喜味城(道光23年:1843)・辺戸・比地などにある石燈炉や各地の香炉を見てきたが、今のところ今帰仁グスクの石燈炉の乾隆14年(1749)が最も古い。もしかしたら、今帰仁王子が建立した石燈炉が、その後堂々と建立する発端になったのかもしれない!?

【今帰仁グスク火神の祠前の石燈籠】

 今帰仁グスク城内にある火神の祠の前に四基の石燈炉がある。石燈炉の他に「山北今帰仁城監守来歴碑記」(乾隆14年:1749)がある。それらは火神の整備と同時期に建立されたものとみられる。元文検地の時、今帰仁城も竿入れがなされている。「今帰仁城之儀」の「覚」書きがあり、乾隆7年(1742年)に今帰仁按司の名で提出されている。「今帰仁旧城図」は翌年の乾隆8年(1743)に差し出されている。その旧城図に火神・トノ敷・上イヘ・下イヘが描かれ、当時にもあったことが知れる。それ以前の『琉球国由来記』(1713年)には、城内上之嶽・同下之嶽・今帰仁里主所火神・今帰仁城内神アシアゲがあった。

 「山北今帰仁城監守来歴碑記」と「石燈炉」の建立は乾隆14年(1749)である。それは『琉球国由来記』と「旧城図」の差出より後のことである。石碑と石燈炉の建立は何を記念してのことなのか。どのような意味あったのかということになる。大和めきものは隠していた時代。

 碑と石燈炉に乾隆14年(1749)と今帰仁王子、奉寄進とある。1749年の今帰仁按司は十世の宣謨である。十世宣謨は乾隆12年(1747)に王子の位を賜り使者として乾隆13年6月薩摩に赴き、翌年14年3月に帰国している。「石燈籠」の一つに「乾隆十四年己巳仲秋吉日」とあり、帰国した年の秋(八月)に石碑と石燈炉の建立がなされている。その時、火神の祠の改修も行われたのであろう。

 これまで各地の石燈籠や銘のある香炉を見てきた。その多くが薩州(薩摩)や上国(江戸)の年号と合致する。石燈炉や香炉の「奉寄進」は薩摩や江戸上りから無事帰国できたことへのお礼と、その記念としての奉納の意味合いが強い。

 帰国は麑府(鹿児島)を出て山川港から出港している。石燈炉、あるいは石燈炉に使われている石は山川産の石(凝灰岩)か。


         ▲今帰仁城内にある火神の祠と石碑(1基)と石燈炉(4基)


   @の石燈炉         Aの石燈炉         Bの石燈炉       Cの石燈炉

@の石燈炉  「乾隆十四年己巳 仲秋吉旦(日?)」「奉寄進石燈炉」 「今帰仁王子朝忠」
Aの石燈炉  「奉寄進□□年」(他の文字は判読できず)
Bの石燈炉  (文字判読できず)
Cの石燈炉  「奉寄進」(他の文字は判読できず)


2009年1月7日(水)

 正月2日には今帰仁村謝名の大島(ウプシマー)周辺を歩いてみた。そこは小・中学生時代歩き回った地域である。そこで培われた物の見方というのがある。山原の集落の展開、御嶽・グスク、古島と大島などなど。ムラの歴史を最初に書き上げたのが謝名であった。その成果は『じゃな誌』に納めた。30年近くなっているので、全面的に書き改めたいと筆を進めている。

 謝名の大島(ウプシマー)集落は南斜面に展開している。一番下方は前田原の小字がある。昭和30年代まで水田が広がっていた。前田原の地名は、集落から見た前方にある水田地帯に名付けられた名称である。小地名は集落を中心として名付けられるという、一つの法則を見出すことができる。

 ムラ・シマや村落、行政区などと概念を異にして考えなけらばならない「集落」。その集落はムラ・シマ、字(アザ)や村落と概念を異にして、区別して考える必要があるとヒントを得たのは、そこからである。特に、ウタキやグスクは集落と切り離せないキーワードである。また、ウタキは集落と関わる杜であり、その中に一番神聖の場となるイベがあり、両者は区別をして考えるべきものだと。

 謝名御嶽(ウガミやグシクともいう)のイベまでいく。昭和9年に謝名神社を建立し、拝所を統合したようである。お宮の後方の高い所にウタキのイビがある。そこに香炉が置かれている。それに「奉寄進 同治九年午九月 松本仁屋」(1870年)とある。スムチナ御嶽に「奉寄進 同治九年十月 松本にや 大城にや」と彫られた香炉があり、松本仁屋(にや)は謝名村出身の同一人物とみられる。

 同治九年(1870)は向氏今帰仁王子朝敷が中城王子に付いて法司官に命じられ、六月二十二日に薩州に到着し、十月十一日に帰国している。二つの香炉は今帰仁王子朝敷の薩州上りと関係しているのであろう。松本仁屋は御殿(ウドゥン)奉公、あるいは薩州上りに随行していった人物か。


      ▲お宮(ウタキ)への神道           ▲昭和9年に建立された「謝名神社」(お宮)


       ▲同治9年の香炉                     ▲ウタキのイベにある香炉


2009年1月14日(水)

 下の香炉は本部町辺名地の拝所にあるものである。「咸豊九年己未九月吉元 奉寄進 本部按司内 松田にや」とある。咸豊九年は1859年である。「本部按司内」とあるが、本部按司殿内のことではないか。そこに奉公していた人物が「松田にや」なのかもしれない。その年本部按司朝章が、順聖院様が薨逝なされたので派遣されている。六月十日に薩州に到着し、十月六日に帰国している。薩州に赴いている間に御殿奉公していた松田にやが寄進した香炉なのだろうか。他の事例からしても本部按司の上薩と無縁ではなかろう。香炉は神アサギの後方の祠の中にある。シニグの時に、拝所の扉を開けるので拝見することができる。


  ▲辺名地の拝所の香炉(1859年)         ▲本部町辺名地の神アサギ

2009年2月9日(月)

 「沖縄県国頭村南米比地移民誌」の所収の写真や絵を手がかりに比地の集落周辺を歩いてみた。下の写真の様子は戦後間もない頃である。集落の後方の山手は段々畑、集落の前方の比地川沿いは水田である。そのような風景は、近世の様子を色濃く引きずっていると考えている。そのような風景や生活を念頭に入れて歴史を読み取っていくことが必要である。

 この『移民誌』(昭和55年発刊)の中に挿絵が何枚もあり、徳芳(神山?)とあり、「やんばる 古里風俗図絵」(昭和59年発刊)を記した神山清政氏(大正10年生)と兄弟? ほぼ同時期に書かれている。『移民誌』の中に比地を出られた方々のシマへの思いがつづられている。シマに住む方々は、外からの目線でもう一度シマを見直す必要がありそう。

 山手から比地の集落に向けて、いく筋もの空掘がある。小玉森付近だけかと思っていたのだが、シマミーバンタへ続いている。その空掘は山への道筋のようである。山から木材や薪、あるい炭やカヤなどを運ぶ窪地の道筋が雨の日には水路となり、次第に窪みが大きくなったのであろう(未確認)

 小玉杜の祠の一つに香炉が三基ある。その一つに「□□九年己□ 十一月吉日 奉寄進 神山仁屋」とある。読み取れる「九年己」と中の宮の石灯籠の神山仁屋は小玉杜の香炉の年号と一致することから「道光二十九年己酉年」(1849年)とみてよさそうである。その年、馬克仁国頭王子正秀は道光二十九年五月二十一日薩州に到着し、九月五日帰国している。国頭間切比地村の神山仁屋は国頭王子の御殿奉公人であったのか、それもと薩摩まで随行していった人物だったのか。国頭王子正秀は咸豊九年己未(1859年)にも薩摩へ派遣されている。


   ▲小玉杜の中にある香炉三基のある拝所     ▲拝所内にある「道光二十九年」の香炉
                      

2009年3月12日(木)

 
午前に恩納村誌の事務局のメンバーが陣中見舞いにやってきた。一服中、頭は恩納村に切り替えて。明治の図、明治34年の先人達、そこに出てくる番地(世帯)などなど。恩納間切の『琉球国由来記』(1713年)当時のj地頭代は「谷茶大屋子」である。当時谷茶村は明確には登場せず。それより後の乾隆28年(1763)頃の地頭代は「前兼久親雲上」(恩納村役場の扁額)である。地頭代は谷茶大屋子から前兼久親雲上へと変わる。変更の時に谷茶村が行政村として登場してくる(その流れは今帰仁間切でも同様)。ウマチモーのことなどなど・・・。恩納村の香炉について確認調査しましょう。

 スムチナウタキにある香炉である。現在二基しかないが、1989年に撮影した写真を見ると、三基あり文字が判読できる状態にある。ここ20年で雨風にさらされ文字がほとんど判読不能になっている。二つの香炉については、どこかで紹介したが、写真が出てきたので紹介しておきましょう。それと、謝名のウタキ(グシクンシリー:謝名神社のイベ)にある香炉に「松本にや」とあり、スムチナウタキの同治九年(1870年)の香炉の松本にや(謝名村出身)と同一人物とみられる。

【スムチナウタキのイベの香炉】

  ・道光二拾年 上国之時 奉寄進 (1840年)
  ・同治九年 奉寄進 大城にや 松本にや (1870年)



【謝名のウタキのイベの香炉】

 ・同治午九年十月 奉寄進 松本仁屋 ((1870年)

 謝名御嶽(ウガミやグシクともいう)のイベまでいく。昭和9年に謝名神社を建立し、拝所を統合したようである。お宮の後方の高い所にウタキのイビがある。そこに香炉が置かれている。それに「奉寄進 同治九年午九月 松本仁屋」(1870年)とある。スムチナ御嶽に「奉寄進 同治九年十月 松本にや 大城にや」と彫られた香炉があり、松本仁屋(にや)は謝名村出身の同一人物とみられる。

 同治九年(1870)は向氏今帰仁王子朝敷が中城王子に付いて法司官に命じられ、六月二十二日に薩州に到着し、十月十一日に帰国している。二つの香炉は今帰仁王子朝敷の薩州上りと関係しているのであろう。松本仁屋は御殿(ウドゥン)奉公、あるいは薩州上りに随行していった人物か。香炉の銘は「同治九年午九月 奉寄進 松本仁屋」と読める。


   ▲謝名ウタキのイベの香炉(1870年)

【平敷のウタキのイベの香炉】

  ・道光二十五年 上国之時 奉寄進 平敷村 嶋袋仁屋 (1825年)

 今帰仁村平敷にある拝所のある杜はタキ(ウタキのこと)と呼ばれる。ウタキは平敷の現在の集落の北側に位置し、杜の中に散在してあった拝所を杜の中に集めている。杜周辺からグスク土器や青磁器などの遺物が散在している。かつての集落はウタキの南側に展開していた様子がうかがえる。ウタキの中にイビがある。そのイビに四基の古い石の香炉が置かれている。その内の二基に「奉寄進」と刻まれている。その一つに「道光二十五年上国之時 奉寄進 平敷村 嶋袋仁屋」と刻まれている。道光25年の上国した人物に今帰仁里主親雲上がいる。同行していった一人ではなかったか。


   ▲平敷のウタキのイベの香炉(1825年)


2009年9月7日(月)

【本部町具志堅の拝殿内の香炉】


  (左) 咸豊九年己未九月吉日 奉寄進 本部按司内  具志堅仁屋 (1859年)
  (中) 明治十四年辛巳五月 奉寄進 文子 仲村渠仁屋  (1881年)
  (右) 同治三年甲子十二月吉日 奉寄進 □□□具志堅村 玉城ニや (1864年)
 
 ※「本部按司内」は本部按司殿内のことか。同様なのが本部町の辺名地や満名や浜元などで
   確認している。

【本部町並里のウタキのイベの香炉】



 咸豊九年己未九月吉日 奉寄進 本部按司内 渡久地仁屋
 奉寄進 並里仁屋(年号不明)

【本部町伊野波の拝殿の香炉】

 渡久地仁屋は、波里にも寄進している。伊野波村と並里[満名)村は兄弟村ということからか。
  
  咸豊九年己未九月吉日 奉寄進 本部按司内 渡久地仁屋


 

2009年9月26日(土)

【近世に分村した稲嶺村】

 羽地間切稲嶺村(現在名護市)は真喜屋村から分かれた村である。独立した場合、これまで通りのもの、新しく独立させるもの。それらを拾いあげてみる必要がありそう。『琉球国由来記』(1713年)に真喜屋村に真喜屋之嶽とまてきや嶽がある。稲嶺が分村した後は稲嶺村のウタキ(真照喜屋宮)としている。由来記の頃から真喜屋村に二つの神アサギがあり、それは二つの村が統合し、再び分離したのかもしれない。ただし、『絵図郷村帳』(1644年頃)と『琉球国高究帳』に「まきや村」のみしか出てこない。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の稲嶺村と真喜真村の拝所は以下の通りである。
  ・稲嶺村  マテキヤ嶽一ヶ所
  ・真喜屋村 ・神アサギ二ヶ所 ・根神火ノ神一ヶ所 ・チバナ嶽一ヶ所 ・ノロクモイ火ノ神一ヶ所
          ・真喜屋村火神一ヶ所 ・上ノ嶽一ヶ所 

 明治36年の「砂糖消費税改正之儀ニ付請願」に見た稲嶺村は115世帯、真喜屋村は159世帯あり、両村とも羽地間切では規模の大きな村である。真喜屋村と稲嶺村は古琉球の時代に合併し、18世紀に分離した可能性がある。行政村の合併、分離という歴史の流れで見ていくと、神アサギが二つあること。それは村が統合しても祭祀は一つにならない。あるいは統合しても祭祀は一つにならない法則性が見られる(詳細については触れないが古宇利島の例と似ている)。「古琉球の時代に二つのムラが合併、18世紀に分離した」との前提で祭祀や祭祀場(神アシアゲ)や豊年祭(両村で行う)などを見ると説明がつく。

 稲嶺の集落の東側にウィーヌビンジルと少し離れてヒチャヌビンジルがある。稲嶺村は風水見のはいた村である。二つのビンジルも風水の目標にされていたような。

 真照喜屋宮に三基の香炉がある。その一基に以下のように彫られている。上地福重氏は「砂糖消費税改正之儀ニ付請願」(明治36年)に署名された人物の一人である。それによると真喜屋村弘化元年(1844)七月一日生まれで、家の番地は88番地である。明治28年に上京されたようである。同じ記載の香炉が真喜屋の「上之御嶽」のイベにもある。明治28年の上京とは何だろうか。翌29年に稲嶺分教場が設置されるが、それと氏の上京と関係するか。

 「奉寄進 明治廿八年五月吉日 上京之時 真喜屋村 上地福重」




2010年1月29日(金)

 羽地間切稲嶺村の惣山當の履歴書に以下のような記事がある(「名護市史資料編5」地方役人関連資料96頁)。宮里清助は羽地間切稲嶺村の人物で、この「御願書」は明治30年2月に羽地間切の地頭代へ採用願いの履歴書である。詳細には触れないが、真喜屋と稲嶺の「奉寄進」の香炉の人物達と重なる人物の一人である。

 光緒元年(明治8)の真喜屋掟嶋袋仁屋、明治廿八年の真喜屋村の上地福重、そして稲嶺村の宮里清助、三人が上京している。それは羽地間切の御殿と殿内へ奉公した羽地間切の村の人物との関わりを示すものである。明治九年の池城親方は三司官の池城安規で、上京中亡くなった人物で、その時葬式などを執り行っている。三司官池城親方の上京は、「琉球国の存続と清国との国交の継続」などの案件である。

 一 (明治)九年旧惣地頭亡池城親方東京御使者之時、旅供拝命、上京仕候事
    仝九年九月廿七日ヨリ仝十年七月廿日迄
 一 於東京屋我村掟拝命、早速帰帆之筈候處、檀那事明治九年五月ヨリ重病相煩ヒ看病方彼是手
   不足ニ付滞京拝命、仝十年三月ニ至テハ不慮及死亡、葬式並跡香儀向等相済シ、仝年七月十二
   日帰帆、檀那方役人方荷物付届向、仝月十三日ヨリ仝廿日迄首尾能相勤申候
 
   一 旧惣地頭で亡き池城親方が、東京への御使者の時、旅のお供を拝命し上京いたしました。
      明治九年(1876)年九月二十七日から同十(1877)年九月二十日まで
   一 東京において、屋我村掟を拝命し早速、帰帆の筈だったのですが、檀那である池城親方が明治九(1875)年五月から
     重病となり、看病にあたって、あれこれ人手不足なので、東京に留まれとの命を受け、明治十(1876)年三月になって、思っ
     ても見なかったことですが、死亡され、葬式と跡香儀などをすまし、明治十年七月十二日に帰帆し、檀那(惣地頭池城親
     方)及び役人方への荷物を付け届けるなどの仕事を、七月十三日から二十日まで首尾よく勤めました。
  
 上記三人とは別に、羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にやの人物がいる。上京はしていないが、三司官池城安規が上京した際、旅行の「御立願」として、光緒元年(明治8、1875)八月十一日に国頭間切辺戸村へ出かけて「御立願」をし、十五日に帰ってきて間切の役人などに報告している。「口上覚」(羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にや」に、以下のようにある。その時、立願をした上里にやは上京していないが、「光緒元年上京之時 奉寄進 真喜屋村掟嶋袋仁屋」(香炉)の嶋袋j仁屋が上京している。

 一 光緒元亥年八月十一日、檀那様御旅立願ニ付、国頭間切辺戸村江御立願仕、同十五日罷
    帰、間切役々衆江申上候
 一 同年十二月御旅御立願ニ付、主之前前様御下之時、今帰仁間切親泊迄御供相勤申候


2009年10月08日(木)

 「ムラ・シマ講座」の予備調査で諸志をゆく。二つの村の合併(明治36年)であることは、今では常識となっている。二つの村が合併しても「祭祀は一体化しにくい」との法則性を明解にしてきたのは、この諸志と今泊と玉城(玉城・寒水・岸本)である。「移動した村は新地でウタキをつくる」(集落移動ではなく村移動の場合)との法則性は、移動した村(天底・我部・振慶名・呉我・嘉津宇など)から見つけ出したものである。志慶真村は「移動村」であるが、「移動した場所にウタキをつくった」との確証がなかった。

 諸志の豊年祭の時、志慶真村で神人を出す家の方にウタキについて尋ねる機会があった。「志慶真のウタキはクボウヌウタキ」とのこと。村が移動する前の志慶真村のウタキということになる。移動した場所にウタキをつくる習俗があること。この志慶真村はどうか。移動地でのウタキのイベを確認することができた。そのイベが確認できると、それを踏まえて志慶真村の移動地での集落の展開が見えてくる。「移動地でウタキをつくる」という法則性は妥当している(詳細については『諸志誌』で報告する)

合併した村―諸 志―(今帰仁村)

 ・諸志は諸喜田村と志慶真村が明治36年に合併し諸志となる。
 ・諸志のことをスクジャというが、それは諸喜田の呼び方である。
 ・志慶真はシジマという。

 ・明治13年の諸喜田村の世帯数94戸、人口438人(男438人、女201人)(明治36年 97戸)
 ・明治13年の志慶真村の世帯数は28戸、人口148人(男82人、女66人)(明治36年 37戸)

 ・諸喜田村のウタキのイベに「奉寄進 嶋袋仁屋か」の刻まれた香炉がある。
 ・志慶真村は今帰仁グスクの後方(南側)から二転、三転して現在地に落ち着く。
 ・ウタキの中をスクミチ(宿道)が通る。(運天番所と渡久地番所をつなぐ道筋)

 ・志慶真村は志慶真乙樽をだす家がある(チッパヤー)。
 ・その近くに志慶真殿内がある。
 ・移動してきた志慶真村は移転先でウタキをつくってある。
 ・志慶真村の集落ははそのウタキを背に発達している。
 ・志慶真村のウタキのイベに香炉が三基あり、少なくとも志慶真村は三つの集団からなるか。

 ・諸喜田村には中城ノロドゥンチがあり、勾玉や水晶(ガラス)玉やノロさんが乗る馬の鞍などがある。
 ・中城ノロ家には、戦前9枚の辞令書があった。その内二枚はノロの辞令書である。
 ・中城ノロは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の五ヵ村の祭祀を管轄する。
 ・志慶真村の祭祀は今帰仁のろが管轄する。今は中城ノロが両字の祭祀を行っている。
 ・神ハサギが並んであるが、別々のところにあった。一時期一つにしたことがある。
 ・神ハサギが二つあるのは二つの村が合併した証拠でもある。
 ・ウタキの内部に約10ばかりの古墓がある(素性は不明。各地から拝みにくる)。
 ・ウタキは植物群落として国の指定を受けている(琉球石灰岩の上に発達した自然林)
 ・両村で五年回りの豊年祭が行われる。
 ・「やぐざい」という踊りと乗り物(ヤマー)がある。
 ・焚字炉(フンジロウ)がある。イシドウロウともいう。石灯籠に似ていることからトゥールともいう。
 ・昭和18年にナハガーラの開削が行われ整備される。土地整理組合の貴重な資料がある。


▲手前の杜は諸喜田村のウタキ(中にイベあり)         ▲諸喜田村のウタキのイベと香炉


2009年11月30日(月)

 29日は恩納村の読谷山間切から分離した谷茶・冨着・前兼久・仲泊・山田までゆく。そこは山原の村を見る視点とは別の視点で見ていく必要がありそう。言葉や人々の気質など。どれが正しいのはではなく、各村(現在のアザ)がどんな特徴をもっているのか。それは何故かということを理論づけていこうと考えている。

【恩納村谷茶】
 谷茶村は『絵図郷村帳』(1646年頃)で「たんちや村」と登場。古琉球の時代からの村とみてよさそうである。しかし『琉球国高究帳』(17世紀)には出てこない。『琉球国由来記』(1713年)でどうでてくるかというと、神シアゲやウタキを持つ村としては登場しない。しかし恩納間切の前兼久村の前兼久根神火神の稲穂祭や富着村の神アシアゲでの祭祀の稲穂祭と稲穂大祭の時、「谷茶・仲泊・前兼久、四ヶ村」と出てくる。

 沖縄本島北部では神アサギの存在は古琉球の時代からの村、つまり古琉球の村として位置づけられてきたが、中南部では必ずしそうではないことがわかる。谷茶村より南の富着村や読谷山村、真栄田では神アシアゲがある。前兼久村と冨着村、そして谷茶村・仲泊村の祭祀は前兼久根神の祭祀である。ところが、富着村の稲穂祭は山田ノロ、また四ヵ村の居神の祭祀となっている。祭祀によって山田ノロ、あるいは各村の居神の祭祀となっていて複雑である。それは四ヶ村の成り立ちと関係がありそうである。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃?)にも谷茶村は神アシアゲを持たず「東ノ御嶽」(一ヶ所)の村である。「殿」(トゥン)があっていいのだが。

 『琉球国旧記』(1731年)の「江港」に「恩納郡の谷茶邑」に谷茶港が南と北に二つの港があることを記してある。それと「谷茶江」と河が一つ。ただ同書の「郡邑」で恩納郡(領邑八座)とあるが、谷茶邑は記されていない。なぜ? その頃の恩納間切の「郡邑長」は谷茶大屋子である。後に前兼久親雲上となる。

 乾隆28年(1763)の額(裏)に地頭代は安冨祖村前兼久親雲上とある。その額は乾隆丙子(1756年)に冊封使全魁、福使周煌が来琉した時の従客の王文治の書である。表に「数峰天遠」(王文治)、その裏面に地頭代の名があり(1756年以前、1731年以後)に谷茶大屋子から前兼久親雲上に地頭代の名称(扱い村)の変更がなされている。

 『御当国御高並諸上納里積記』(1750年頃)による、谷茶村の田畑の村位は、田畑とも下である。
  

 明治6年の『琉球藩雑記』の恩納間切の村が12村、谷茶村もでてくる。
  (恩納村・谷茶村・瀬良垣村・前兼久村・読谷山村・真栄田村・安冨祖・名嘉真村・富着村・仲泊村・久良波村・塩屋村)
  

       ▲東のウタキのイベ(祠内)か         ▲祠内に四基の石香炉あり。年号は不明


2009年11月20日(金)

【恩納村瀬良垣】
    (工事中)
 瀬良垣は金武間切から恩納間切が創設された以前からの村である。『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』では「金武間切せらかち村」とある。瀬良垣村の集落は古島(山手)から移動してきた痕跡がある。古島には拝み川があり産井として拝まれているという。アガリガーは今もあるという。またターヌハタ(田端)やイリ、アガリ、根神屋、マーチの下、横目などの旧家の屋敷跡や畑地が残っているという(『恩納村誌』)。

 『琉球国由来記』(1713年)には漢字があてられ「瀬良垣村」と記される。同著で恩納間切の夫地頭(四員)の一人が「瀬良垣大屋子」である。根神火神と神アシアゲも登場する。根神火神は瀬良垣根神の祭祀で、神アシアゲでの稲大祭は恩納ノロの祭祀となっている。神アシアゲでの稲穂祭と稲大祭の時、脇地頭(瀬良垣親雲上?から五水二合(お酒)が出される。それと神アシアゲでの柴指は居神の祭祀である。祭祀には山留・稲穂祭・年浴・ミヤ種子・十月朔日の竈廻の祭祀がある。(ノロと根神と居神の祭祀の関わり方が興味深い)

 瀬良垣村は恩納間切の夫地頭の一人「瀬良垣大屋子」を出す村である。

 『琉球国旧記』(1731年)で恩納郡のところで神軒(瀬良垣邑)、また「寄揚森」に二人の神がいて、青山威部那主と島根富という。江と港のところで「瀬良垣港」、火神のところで「根神火神」がいる。

 瀬良垣とペリー一行の動き。1853年11月17日「この伝馬は同日、北へ向かったが、八時時分(午後三時頃)瀬良垣浜(瀬良垣村前之浜)へ着いている。瀬良垣でも子豚や庭鳥・羊の押し取りが横行し、・・・・(『恩納字誌』48頁 「恩納間切発砲事件について」(小野まさ子)参照)。

【沖縄島諸祭神祝女類別表に見る瀬良垣の神人と祭祀場】(明治17年頃?)
  @根神 A大コロ神 B辺土ノミ□神? C供神
  神アシアゲ 前ノ御嶽

[瀬良垣塾]
(『沖縄県史11巻沖縄県日誌』
・ 「明治十四年五月九日、国頭役所長六等属山内正上伸す恩納間切瀬良垣学校及今帰仁間切
 岸本学校廃校」
・ 「書面願の趣無余儀相見候条此度限開置候事」

【恩納間切瀬良垣村全図】(明治36年)(恩納村立博物館蔵)

 瀬良垣村は安富祖村と恩納村と接し、以下の10の小字からなる(確認が必要)
   @セバンダ原 A村内原 B瀬良垣原 C瀬良垣山 D都田原 E黒崎原 F満茶原 
   Gギナン原 H前喜原 Iギナン内原?

 
        ▲瀬良垣の神アサギ            ▲祠(イベ?)にある「當山仁屋」の香炉

2009年12月7日(月)

【首里王府から山原への道】

 羽地から塩屋の旅は案外楽な旅であった。源河は源河川に沿う往還の要衝である。・・・塩屋の奥の田港は諸間切の廻船所で、那覇、泊、島々浦々の商人の行きかう港で山原の旅で一番にぎやかな港村であった。
   (略)
 瀬嵩は久志間切の番所で、ここから北は土地が険岨で往環が極めて不便であったので1687年には瀬嵩から羽地の真喜屋村へ山地を開鑿して西宿の道に連絡した。川田村から安波村に至る七里の間は山林がうち続き、殆ど人煙を見ず往来困難極めたところである。尚敬王の24年(1736)川田村から一部をさいて間に太鼓村を置いたことがあったが移住者が疫病でたおれる者が多く廃村となった。安田村から北の村々のうち楚洲は蔡温の山林巡検のとき創設された村で、ここから奥村へ二里、安田村まで二里、この間四里の山道は険峻で不便甚だしかった。
   (略)
 名護から首里に上るのに三日、名護から田港塩屋をすぎて辺戸村や奥村への旅はなお六日もかかった。乗馬さえ使わない庶民の旅路は決して楽なものではなかった。短い芭蕉着にメンダレ笠を被り蓑を打ちかけ貧しい粟の干飯を包んで日がな一日てくてく歩き、・・・(略)農民が首里親国への旅を思い切り行うのは生涯に一度あるかないかの有り様であった。
             (『琉球農村社会史』饒平名浩太郎 97〜98頁参照)


 大宜味間切は1673年に1673年に創設された間切である。国頭間切から11ヶ村、羽地間切から2ヶ村で創設された。その多くが国頭間切からの村である。当初は田港間切と称し、同村は田港村、そこに番所が置かれたと見られる。ところが、田港間切から大宜味間切になる。その時大宜味間切の番所は大宜味村に設置されたと見られる。その後、さらに塩屋村に移動するが、間切の名称は大宜味間切のままである。田港(大宜味)間切の創設以後、1695年に屋嘉比・親田・見里の三ヵ村が国頭間切に移され、それと東海岸の川田村と平良村が一時期大宜味間切に移される。ところが1719年に屋嘉比・親田・見里の三ヵ村は再び大宜味間切に、川田村と平良村は久志間切の村へともどる。

 大宜味間切は1673年に創設された間切である。それ以前はほとんどの村が国頭間切の村であった(津波村と平南村は羽地間切)。羽地間切からの二つの村と久志(名護)間切からの川田村と平良村は除く。すると大宜味間切を考えるとき、国頭地方の中心となった根謝銘(ウイ)グスクを中心となっていた時代に造られたものの痕跡がないだろうか。それと根謝銘(ウイ)グスクが国頭間切では大宜味間切の領域に組み込まれたことで、国頭按司(両惣地頭)の祭祀場を失ってしまった(そのことはどこかで)

 大宜味間切を考える場合、番所のあった村を押さえていく必要がありそう。番所があった村(行政の中心)に他の村は向っていくからである。田港村と大宜味村のウタキのイベに香炉が20基ほどあるのは、間切番所と無関係ではなかろう。それと根謝銘(ウイ)グスクにある惣地頭火神は大宜味按司?それとも国頭按司?
 

▲田港(大宜味)間切同村のウタキのイベの祠     ▲祠の内部にある香炉(奉寄進)


  ▲大宜味間切番所が同村のウタキのイベ       ▲大宜味間切の番所があった塩屋小


2010(平成22)年9月9日(木)

 「金武町金武(金武・並里)のレクチャー。「マチにムラの姿を見る」がテーマ。行政村と行政村になれなかった並里。並里に「つぶた村」(慶武田村)の痕跡を見る。「つぶた村」(慶武田村)が並里へ?

 金武町金武の御嶽原にある中森とウガンの香炉は、金武王子や金武按司の大和旅(薩州や江戸上り(立)、あるいは随行していった奉公人が寄進したものに違いない。しかし、香炉に年号や寄進者銘が摩耗で判読できないのは残念。

【中山世譜】
より
・天啓7年(1627) 尚氏金武王子朝貞、慶賀で2月薩州へ10月帰国。
・崇貞2年(1629) 尚氏金武王子朝貞、謝恩で薩州へ。
・崇貞7年(1630) 尚氏金武王子朝貞、年頭使で薩州へ。
・崇貞11年(1638) 尚氏金武王子朝貞、2月15日薩州へ6月帰国。
・崇貞16年(1643) 尚氏金武王子朝貞、5月薩州薩州へ、翌年江府へ冬帰国。
・順治9年(1652)  金氏金武親方安實、4月25日薩州に到着、江府へ、10月帰国。
・康煕9年(1670)  尚氏金武王子朝興 尚貞王即位で正使として6月薩州へ10月帰国。
・康煕26年(1687) 尚氏金武王子朝興、6月6日薩州に到着10月3日病卒。
・康煕52年(1713) 尚敬王の即位で尚氏金武王子朝佑、正使として6月9日薩州、翌年江府へ、翌3月帰国。
・道光13年(1833) 向氏金武按司朝英、太信院様の香儀で6月22日薩州へ、10月12日帰国。
・道光20年(1840) 章氏金武親雲上正孟、8月19日薩州に到り11月11日帰国。
・道光26年(1846) 章氏金武親方正孟、年頭の慶賀と広大院様の三年忌などで5月10日薩州へ翌年9月23日帰国。



  ▲金武公民館側のウガンの香炉(約20基)          ▲中森の香炉(約10基)