久高島(知念村:現南城市)                                  トップへ

 
・久高島をゆく


1998(平成10)年1月19日(月)

  まだ、渡ったことのない久高島。久高島につい、てこれまでテレビや新聞などのマスコミや調査報告書などで地割の遺構やイザイホーについて、少しばかり知識を持っていた。島にイザイホーなどの祭祀がありマスコミや研究者が大勢い島に渡ることに嫌気をさしていることもあり、渡ることをすこぶる躊躇してしまっていた。

 しかし、昨年から何故か島に渡ってみたいと思うようになっていた。その理由は今帰仁村の古宇利島と比較してみたいということと、これまで「山原のムラ・シマ」をみてきた経験で久高島をどう描くことができるのだろうかと内心考えている。

  古宇利島には人類発祥伝承を持ち、久高島には琉球の開びゃくに関わる根強い祭祀や拝所を持っている。両島とも海と関わる漁民や船持ちがいるということ。古宇利島は二つのムラの合併を伺わせる場面がいくつかあり、久高は明かに久高村と外間村との合併である。久高島の古層から古宇利島の二つのムラ(集落)を資料や祭祀から浮き上がらせてみたい。

  古宇利島の一人のノロ、そして久高島の久高ノロと外間ノロの二人のノロのことなど、二つのムラの合併が祭祀や集落の成り立ちにどのように影響を及ぼし、その痕跡を残しているのか確かめてみたい。

  平成10(1998)年 1月19日 (月) 曇、時々雨模様。波荒い。風波のある冬の日である。佐敷町の馬天港から10時発の便新龍丸で久高島に向かった。しばらく右手進行方向に知念半島を見ながら甲板に立っていたが、私は甲板から客室へと移動した。甲板では、頭から波をかぶるからである。

 客室には島で工事を請けおっている作業員が4名乗船している。船に慣れているのか、客室で横になりすでに眠っている。客室で座ってしばらく久高島の資料に目を通し、メモをしながらいくつか確認をしていた。港の湾から海上に船が出ると、船は左右に大きく揺れだし激しくなってきた。資料に目を通すことがきつくなってきた。資料を閉じ、客室の板壁にもたれていると、エンジンの響きが心臓の鼓動をいやがおうにも不規則に震わせ、しだいに気分が悪くなってきた。いよいよ船酔いである。口の中が塩っぱくなり、顔面蒼白であるのが自分でもよくわかる。逆らってもどうにもならないと、自然にまかせることにした。

  時計を見るとまだ25分、20分。後15分、10分、その間二回貧血状態におそわれていた。スーと気が遠くなり、体の力を抜くとグタッとなり、何故か安らかな気分になっていった。あの世へは、船酔いと貧血の混ざりあった、そんな気分を味わいながら抜け出ていくのだろう。そのことを脳のどこかにか、記憶のどこかにとどめておこうと一生懸命である自分がいる。

  頭を持ち上げ時計に視線を向ける力も気力なく、貧血と船酔いの気持ちよい世界にひたっていると、しだいに心臓の鼓動が次第にペースを取り戻し、スーとした気分ななってきた。血の気が全身に広がり、体が動き出すのが感じられた。船が久高島の徳仁港湾に入り、いよいよ到着であることを自然と体が知らせてくれた。帰りもこの船かと思うと、島を見ながら歩き回るのは気が重かった。徳仁港から島の内部へ進み、港の方を振り返ってみるとサバニや流行のボートが何隻も繋がれている。

  船を降りると、すぐ店やレンターカーがないか捜してみたが、そんなものがあるはずがないとすぐあきらめた。まずは、集落の中央部に足を進めることにした。真新しい診療所の前を通り、前方に学校がみえた。学校の手前で自転車を引っぱりながら歩いている島の老人に声をかけてみた。「メインストリート、中央線はどれですか」と訪ねてみた。今きた道の向こう側の道を指さして教えてくれた。教えてもらった道へコースをかえ、集落の中央部らしい所へ向かった。

 途中、石囲いのしっかりした屋敷が何軒も目についた。石囲いのしっかりした久高島の集落に、今帰仁村の古宇利島の集落との違いを景観上はっきり認めながら、いろいろな理由を考えていた。しばらく足を進めていくと、ウドゥンミャーと呼ばれる広場に出た。そこには神アサギ・シラタル宮・バイカンヤーがあり、その後方にイザイ山がある。イザイ山の中には神人のこもる場所が設置されている。イザイホーは12年に回ってくる祭祀であるが、拝所には拝みに使われた植物の束があり、拝まれた痕跡があり日常的に拝まれているようである。バイカンヤーでは今年最後のエラブウミヘビを培乾していた。

  イザイ山に沿って右側に折れていくと、まず大里家拝所があり、久高拝所・イチャリ拝所・西銘拝所・外間殿と続く。外間殿の側には西威王の産屋がある。外間殿と産屋の正面にはタムトゥ座がある。

  外間殿付近を散策した後、再び港の方へ向かい食堂を捜した。診療所の隣あたりに食堂が一件あった。そこに入ると島で御願をすませた40代のユタらしき二人の女性がお茶を飲んでいた。線香や供え物をつめた旅行カバンがしっかりと、座敷の角に置いてあった。ユタも荒波を乗り越えて島までやってきたのだと感心してしまった。聞こえてくるソバ屋のおばさんとの会話から、定期的に島にきているようである。私たちもソバを頼んだ。冬の風の冷たさに冷えた身体に熱いお茶がしみた。先程の船酔いや貧血のことはすっかり忘れ去っていた。

  ソバ屋の近くに貸自転車屋を見つけた。ソバ屋の女主人らしき人に自転車は借りられるか尋ねてみると、本島に渡っているので木曜日までは戻ってこないとのことだった。留守だとはわかっていたのであるが、玄関の戸をたたいてみた。やはり留守だった。徒歩で島をまわるのは、船酔い後の疲らた体には酷であった。

  留守の貸自転車屋の玄関の新聞受けに、「3時頃まで自転車をかりています」とメモと名刺を入れて借りることにした。自転車を見つけ、乗ってみたものの、すぐチェーンがはずれたり、ペダルが時々空回りする自転車ばかりであった。庭先に不用心に置いてある自転車のほとんどが、それだとわかり納得してしまった。しかし、それでも借りて片足で土をけりながら走らせた。走らせるというより、片足で無理矢理に押し出しているといった感じである。それでも自転車にまたがり島の北部へとむかった。時々ずれ落ちる重そうなカバンとカメラ。その姿は、島の人達には、こっけいにもあわれにも見えたにちがいない。それにもかまわず、島の中央線を北へと向かった。比較的、平坦な道路であった。

  ナカヌウタキを過ぎ、大浜原からさらにカペールムイを過ぎ、カペール岬まで一気にいくことにした。カペールムイあたりはクバの自然林となっていて、村の天然記念物に指定された看板があった。カペール岬から本島を眺めながら首里はどこか、知念村のセーファーウタキはどこかなど確認してみた。その方向の確認は、後のクボー御嶽のお通しに役立つことになった。

  カペール岬から、先にきた道をしばらく戻り、途中からクボー御嶽の方と進んでいった。御嶽の入口に、次の看板が掲げてあった。
          
               知念村      久  高  島  ク  ボ  ー  御  嶽      
               指定史跡                                         
                                昭和六十一年三月一日指定    
                                所在地  字久高四三四番地    
                久高島の中央部より西側海岸の方によった所    
              にあり、昔神々が天下りされた七御嶽のひとつ    
              である。                                       │
               今でも、この地内の円形の広場は、イザイホ    
              ー、フバワク行事等の祭祀所となっており、久    
              高住民にとって聖域の場である。                
                また、男子禁制の場でもある。                
                                        知念村教育委員会    

          
  御嶽のイビへの道があり、両側にはクバやビロウなどの植物が生い茂り聖域の風情たっぷりである。イビには円形に石が置かれ、中央部に石の香炉がありヒラウコウ(平線香)が残されていた。                


久高島(2002年1月21日:月)

 久高島に渡る。沖縄本島の南部、知念半島の東海上に浮かぶ島。早朝の西の海上は大分荒れ模様。高速(自動車道)から東の海上を眺めるといたって静か。渡れそうだ。三年前、馬天港から小さい船で波に揺られて、貧血状態の船酔いのことを思い出していた。それで安座真港(知念村)から9時の高速艇(ニュー久高)に乗船して渡ることにした。早朝の名護出発となった。月曜日の予定であったが、二つの予定が入り、急きょ繰り上げとなってしまった。曇り時々晴。まあまあの天気。海上は比較的穏やか。船には島へ帰る人。釣り人。そして観光客などなどであった。20人ほど乗っている。胸中、舟の中の人に久高島の顔を見つけだそうとしていた。

  徳仁(トクジン)港に到着。20分程か。港から診療所を過ぎたところに自転車を貸し出している玉城さんのお宅がある。以前にもペダルの壊れた自転車を借りて往生したことがある。「今日は、いい自転車を貸してください」。「空気、はいているかね」と親切に確認してくれた。「ムーチーの日ですが、久高ではどうですか」「? そうね。みんな家庭でやってるさ」とのこと。「イザイホーはやれそうですか?」「できるかね?」と自信のなさと不安そうな返事であった。今回の久高への渡島は、祭祀の調査を目的とするものではない。ムーチー(旧12月8日)の日であるが、個人や家庭の行事として行われていることを確認する程度にとどめた。以下の順で島を回ったが、いたって素朴に島の雰囲気と集落の成り立ちについてみた。もちろん、祭祀に関わるアシヤギやノロについての感心もある。ここでは、わずかであるが集落について印象を述べておきたい。

 久高島について『琉球国由来記』(1713年)は、伊敷泊(ギライ大主・カナイ真司)、コバウノ森(コバヅカサ・ワカツカサ・スデヅカサ・ヤクロ河)、中森ノ嶽とあり、「年中祭祀」で久高巫火神(久高村)と外間巫火神(外間村)について明記してある。18世紀初頭の久高島には、久高村と外間村の二つの村があり、同村名の二人の巫(ノロ)がいたことがしれる。18世紀の初頭島には二つの村があり、それから300年という歳月がたったのであるが、どんな歴史を刻み、その痕跡がどのように残っているのか.....。

 港から集落に入ると、石垣囲いと福木の屋敷が島の歴史を物語ってくれる。しばらく行くと久高殿庭(西側)と外間殿とその広場がある。その後方にクサティムイに相当する杜がある。ムイ(杜)→ナー(庭)→集落と対になっている。それは二つの村の痕跡とみてもよさそうである。

 ・徳仁港
 ・玉城自転車屋
 ・外間殿
 ・久高殿
 ・アシャギ
 ・アンプシ山
 ・イシキ浜
 ・久高クボー御嶽
 ・アガルガー
 ・ミガー(新川)
 ・イザイガー
 ・ヤマガー(山川)
 ・集落内のアタイ

の順で回ってみた。 
2002.1.22(火)

 久高島に久高村と外間村があった。久高殿のある西側が久高村、そして外間殿のある東側が外間村であった。二つの村は明治36年に合併したという。その認識は今でも島の人たちにはあるようだ。外間ノロと久高ノロがいるので、二つの村の存在もかぶせることができるが、東西の人の気質や言葉などで、その違いを認識しているかもしれない(今では二つの村が混在しているであろうが)。集落の核は久高村が久高殿御殿庭、外間村が外間殿あたりに違いない。現在は徳仁港が使われているが、かつては徳仁港から北よりの旧港が舟の発着場として使われていたようだ。そうではあるが、旧港から久高殿、旧港から外間殿を結んだとしても集落の軸線とはならない。

 二つの村の集落の軸線は、どうも旧暦の4月と9月に行われるハンザァナシー(ハンは神様、ザァナシーは敬称。親愛なる神さまという意味か)の動きに見ることができそうである。この祭祀は「神々が来訪して島の清めと健康祈願」。祭祀の流れをみると、神々は外間殿からユーウラヌ浜へと向う。浜での祭祀が終わり、戻るときに久高村側と外間村側の二手に分かれて、それぞれの集落の道筋を通って外間殿で合流する(『神々の古層②』比嘉康雄著)。その祭祀の流れに二つの村の名残りを遺しているにちがいない。今回、実際にその道筋を意識しながら歩いたわけではないので、まだ実感していない。それは次の渡島の楽しみに取っておくことにする。

 久高島の集落を歩いていると、不思議に思うことがある。集落内の道筋の塀は海石(サンゴ石灰岩)で積まれている。丁寧に積んだ「あいかた積み」(亀甲積み)や「布積み」、あるいは「野面積み」とバラエティに富んでいる。曲がり角は丸くしてあり、島の人達の性格を象徴しているかのようである。その通りかもしれない。不思議さというのは、集落内を何度でも歩いて回りたくなるし、その場を離れるのがもったいない。そんな気持ちにさせられる。また、赤瓦の古めかしい家、福木の並木。久高殿とバイカンヤー、アシャギ、それと外間殿の庭など、その配置がなんともいえない。歴史を含めたバランスの保った集落景観を見せてくれる。

 久高島の集落から外れた畑地をみると、今でも畑と畑の土手がなく、石ころやハッポースチロールなどを使って境にしている。土手をもおしむ程土地の割り当てが少なかったことを示している。土地が非常に少ないのであるが、石積みの屋敷が目立つのは、土地から生産される経済力でなく、もっと別の理由があるにちがいない。「神の島」であるに違いないが.......。『地方経済史料』に「住民は渡唐船・楷船・馬艦(マーラン)船や飛船などの水夫として働き、貢租が免除された」という。なるほど、集落の石垣や赤瓦の家などは、久高島の男衆は船を操る海の男だったことによるものだったのだ。納得、納得させられた。島を訪れ、そのように自分自身の目のウロコがはげ落ちる場面と、自分の常識がひっくり返るときがある。そのことを味わせてくれた久高島であった。久高島はいい島だ。