久志間切域のムラ・シマ                       トップヘ

                       「沖縄の地域文化」(第7回) レシュメ 2011年11月8日

                              
                                  仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長)


 沖縄本島北部の村々を回ってみます。名護市の東海岸の久志からスタートしましょう。久志→辺野古大浦→瀬嵩→汀間→安部→嘉陽→底仁屋→天仁屋のコースをとってみます。辺野古(名護市、かつての久志間切)には近世の宿道に設けられた一里塚の土手が復元されています。また、瀬嵩には久志間切の番所があった石碑が置かれています。やはり、地域文化を見ていく場合、間切時代に戻り、見ていく必要があります。というのは、名護市を調査していると、どうしても名護間切、羽地間切、久志間切の間切時代に立ち戻って、比較していく必要があるからである。久志と辺野古の二つのムラは1673年久志間切創設の時、金武間切からのムラであることも注目してみましょう。

 久志間切創設は1673年で間切番所は久志村に置かれます。しかし14年後の1687年に久志村から瀬嵩村へと番所は移設されます。番所の移転は名護間切の負担の軽減だったようです。国頭方の東宿・西宿とも名護間切経由だったのを、久志間切番所を瀬嵩村に移動することで、久志間切から名護間切を経由せず羽地間切をつなぐコースとなります。当然のことながら『琉球国旧記』(1731年)の久志間切の駅(番所)は瀬嵩邑(村)です。

  旧久志間切に15のムラがありました。その内の①久志 ②辺野古 ③大浦 ④瀬嵩 ⑤汀間 ⑥安部 ⑦嘉陽 ⑧底仁屋 ⑨天仁屋の9つのムラを紹介することにしましょう。東村の有銘・慶佐次・平良・川田・宮城なども久志間切ですが、今回は省いてあります。


 
久志の観音堂の石像      ▲辺野古の一里塚のマウンド      ▲久志間切の瀬嵩の番所跡

・久志ノロ

  

 




①久 志


久志間切番所と久志村と瀬嵩村

 久志間切は沖縄本島北部の東海岸を細長く伸びています。久志間切創設後、金武間切の古知屋(現在松田)村を久志間切へ、久志間切の北側の平良村と川田村を大宜味間切に組み入れます(1695年)が、1719年に元に戻されます。久志間切が創設されると番所は久志村に置かれます。ところが1687年に久志間切番所は久志村から瀬嵩村に移されます。間切番所の移転は、名護間切の負担の軽減から東宿道のコースの変更があったからです。

 そのことは按司地頭や惣地頭は間切全体から作得(収入)を得ることに変わりはないですが、祭祀との関わりはそのまま継承されるということになります。そのことが、当初あった間切番所の位置は按司や惣地頭が関わる祭祀の村と言えそうです。
  『琉球国由来記』(1713年)に地頭と出てくるのは脇地頭のことです。按司地頭や惣地頭とは別。按司地頭や惣地頭は間切全体からの作得(収入)を得ます。脇地頭は村から収入を得る)




 



 番所が移ると村の祭祀も一緒に移ったかどうか。久志間切の場合、久志村にあった番所が14年後の1687年に瀬嵩村へ移された。そう年がたっていない段階での番所の移動である。ところが『琉球国由来記』(1713年)を見ると、久志間切番所を瀬久志(同)村に設置したが、惣地頭は久志村の神アシアゲでの祭祀と観音像の招請にしか出てこない。


 久志間切で興味を引くのは、康煕27年(1688)の「観音」(石像)の久志村への安置です。間切番所は移転したのであるから、観音像は番所のある瀬嵩村に設置してよさそうなものでがが、尚経豊見城王子朝良(惣地頭)と久志親方助豊(親方地頭)の両惣地頭は久志村に観音像を設置しまいた。行政は動いても祭祀は動かないのです。因みに久志村と辺野古村は久志ノロの管轄です。


 


③辺野古

 久志の集落はメーヌウタキ(ウイザトゥ)あたりから発達したといいます。そこには鳥居があり、ウタキのイベが祠に祭られています。辺野古にはメーヌウタキとニーヌタキとクシヌウタキがあり、辺野古は少なくとも三つの血族団からなりたっています。


 辺野古に一里塚があり、首里王府から各間切番所をつなぐ宿道(スクミチ)に三里ごとに置かれた塚です。宿道を挟んで二つのマウンドがあります。

 1688年、東の 瀬嵩 ( だけ ) 村から羽地大川を通る羽地間切を結ぶ道が開かれ、番所も瀬嵩村に移されました。東村ができたのは1923年のことで、王府時代から近代にかけては久志間切の一部でした。

 この辺りは「 琉球国絵図 ( りゅうきゅうくにえず ) 」を見ると、 大浦 ( おおうら ) 村あたりに一里塚、 天仁屋 ( てにや ) 村あたりにも一里塚があり、さらに 慶佐次 ( さし ) と有銘の途中の一里塚を経て 川田 ( かわた ) 村に続く陸路が確認できます。

 北へ向かう陸路はここまでで、川田村から 安波 ( あは ) 村へ四里の海上の道が記されています。この地域は戦後、軍道が走るまで、長く船が利用されていました。




 

 


⑤大 浦

 大浦の集落南側のメーガー付近に稲倉が群をなしてあったといいます。稲倉を持っていたのはウェーキンチュ(富豪)と呼ばれる人たちで、サンゴ石灰岩を積み上げた屋敷囲いの家は、かつてのウェーキンチュの屋敷にちがいありません。水田は大浦川沿いに広がり集落の後方の山手は段々畑でした。

 大浦の神アサギは、山裾から移動しています。






⑦瀬 嵩



 


⑧汀 間

久志番所の移転久志村誌1516 久志村役所(1967年) 

 久志間切は地勢上交通不便で、しかも西方への横断道路が当時なく、久志から羽地番所への逓送は久志番所から一部逆戻りして金武間切古知屋潟原から名護の許田村に宿次して、名護番所に至り名護番所から羽地、大宜味、国頭へ順次逓送していました。名護は結局西宿と東宿両駅の責任と負担を負わされ、同間切は其の苦難を上訴したので、王府の命により、金武、久志、名護、羽地、大宜味の各地頭会議を開き対策協議の結果、各間切地頭代に命じ五ケ間切地頭代が大浦と羽地仲尾次境界の岳に登り地勢を視察し道路開鑿が出来る事を認めて貞亨四年九月(1719)久志、羽地、両間切の協同工事に至り、久志間切瀬嵩村から羽地間切真喜屋村に至る山野を開鑿し西道が開通せられ、爾後駅路に指定されました。
 
 西道の駅路が開通後の翌年大浦から御飯越地(ウバンクイチ)を越え名護の東江原、三つ城、中山を経て東江へ通ずる。東江原道と御飯越地から川沿に羽地川上に通ずる「タガラ」道が開鑿せられて西方面への交通が愈々便利になったといいます。
 
 間切の新設の時、番所は久志村に設置されたが、其の伝達が間切の地形上一方に偏しているのと、駅路の開通や東江原道、タガラ道の開通が便利になったので番所の移転について王庁へ上申した所認可になり、1720年瀬嵩に移転する事に決定されます。
 
 瀬嵩地内の現役所在地に番所の新築期間中大浦村々屋(現在の事務所)に番所を仮設置し政務を掌っていたので、仮に之を大浦仮番所と称していました。新築中の番所が落成して移転し瀬嵩番所と称せられるヽに至ります。

 久志間切設置後、1696年金武間切古知屋は久志間切に編入されていたが、瀬嵩に移転したので元の金武間切に復帰することとなります。

※御飯越地(ウガンクチ)を、現在は「番越」と表記されています。番越とは?


 


 名護市(旧久志村)汀間(東海岸)にはウプウタキとウタキグヮーの二つの御嶽(ウタキ)があります。琉球国由来記1713年)の久志間切の汀間村にスルギバル嶽(神名:不伝)と小湊嶽(神名:ソノモリノ御イベ)があります。沖縄島諸祭神祝女類別表(明治15年頃)には、大御嶽と御嶽小と、もう一つウカミモリ御嶽があります。

 汀間は御嶽と集落との関わりは複雑のようです。ウプウタキあたりに、まず集落(古シマ)が発達し、さらにウンバハリへ。ウンバリから広がりを見せたのが現在の集落(クシブミ・メーグミ)のようです。古ジマからウンバハリへの移動が川を越えての移動です。現在は嘉手刈橋が架かっています。

 かつての汀間の神アサギは川沿いにあり、折口信夫がアシャギ(あしあげ)は「足上げ」と解したのは、この神アサギのようです。宮城真治も「足騰(あしあげ)はすなわち床下を高くした水上の家の家屋を意味し、古くは海より来る神々を迎えるために水上に設けたのを、後には汀間の如くその敷地を埋立てて陸上の家屋としたのではなかろうか」(
山原その村と家と人と5頁)といいます。外に大浦と瀬嵩にも同様なところに神アサギがあったといいます。

 神アサギは祭祀だけでなく、一時穀物を集積するのに利用した地域もあり、神を迎える機能もある
ますが、穀物を集積する建物であったといいます。川辺や浜辺に作ったのは、穀物を舟に積み込むのに便利であったので、そのような場所に作ったと見た方が利にかなっています。数ヵ所のあしゃぎの水辺に立っていた神アサギと結びつけた語義の解釈ではないか。多くの神アサギはグスク内や御嶽と呼ばれる杜であったり、集落の中心となる場所にあったりします。どちらかと言うと、集落は高い所から低地に移動しており、神アサギは集落とともに移動する傾向にあります。

 
名護市東江から山越えで東海岸にでる。大浦川を下ると左岸に大浦の集落がある。大浦は1673年以前は名護間切の村(ムラ)、それ以降久志間切の村となり、久志村の字となる。現在は名護市大浦である。

 名護市から出された「民俗地図」を見ていると渡し場やワタシヤー、ウフラナートゥ(大浦港)などの地名があります。大浦川の中流部にタムンザ(薪の集積場)があります。そこから伝馬船で下流域に碇泊している山原船に積み込んだ様子がうかがえます。山手の大川では藍づくりが盛んだった時期があり、大浦のナートゥから積み出したといいます。薪や竹茅、炭などが主な集荷物でした。

 汀間の尚円にまつわる伝承は宜名真や奥間との関連で興味があります。伝承にちがいないが、どうも首里王府は地方を統治するのに尚円(金丸)が首里にあがる経路をうまく利用したのではないでしょうか。沖縄には血筋でつないでいく発想が歴史をみる背景に根強くあります。国を統治する立場にたつと、血筋(系統)と祭祀をうまく利用しているのではないか(支配してる方も意識していないかもしれない)。

 明治
26年に国頭を訪れた笹森儀助も尚円にまつわるカニマンガー(金満泉)を訪れています。

} 汀間ノロの管轄する村は汀間村・瀬嵩村・大浦村です。現在は汀間のみ。



}汀間のウイミ(旧8月10日)

 午後三時頃、汀間のサカンジョウ(三ヶ門)に神人などが集まる。サンカジョウ内でのウガンは世の神、ノロ神、根神の順に拝む。サンカジョウ内でのウガンが終わると、隣の祠へ。その祠はウタキグヮーのイベである。つまり、サンカジョウや神アサギなどがある森はウタキ(ウタキグヮー)である。サンカジョウの側のウタキグヮーの祠(イベ)を拝み、神人達は神アサギ内へ。旧8月10日の祭祀は名護市汀間ではウイミという。

 
サンカジョウ(三ヶ門)(世神・根神・ノロ神はクシグミから移動)(統合されている)
 
ウガングヮー(ウタキ内のイベ)(由来記の小湊嶽か)
 
神アサギへ(ウンバーリから現在地に移動)
 
アサギ内でのウガン(ウプウガンへ遥拝)(由来記の大湊嶽か)
 
アサギ内で勾玉や水晶玉、神衣装などのお披露目(年一回の)。

 神アサギ内にはテーブルと腰掛けが準備されていて、テーブルの上に勾玉と水晶玉とビーズ玉のついた首佩け(首に佩くことはなかった)。それらを入れる櫃が側に置かれる(胴部は茶の漆塗、蓋は黒、中心部から外に向けてヒビ割れあり)。衣装が置かれる。汀間ノロは汀間・瀬嵩・大浦の三ヶ
村を管轄。

 神人にお神酒がつがれ、神人は正面、そして右手(ウプウガン)に向ってお神酒を備える所作をする(二回)。それが終わると参加者にお神酒が配られる。神人の前に御馳走が配膳される。参加者に勾玉、水晶玉、ビーズ、衣装などがお披露目される(年に一度)。(途中大雨となる)

 ・現在行われている祭祀場と以前の祭祀場の比較
 ・ウプウタキとウガングヮーを規模の大きさで見ていく必要あり(古い新しい、あるいは分離したではなく)。
 ・ウガングヮーにも鳥居があり。戦前にウタキを神社形式に仕立ててあったのを公園整備で鳥居は取り払われている)
 ・嘉手刈村と汀間村との統合。祭祀にどう影響しているのか?
 ・神アサギの移動
 ・ウプウタキとウガングヮーの二つの村のウタキが山手ではなく川沿いに位置する(他地域から移住してきた人々の集落?)
 ・
琉球国由来記1713年)に瀬嵩村に大湊嶽・スルギバル嶽・小湊嶽の三つのウタキがある。
 ・スルギバル嶽は大正
14年に分離した三原(汀間のウンバーリ)にある。


 


⑥安 部

 安部は山手のイージマにあったが、現在地に移動してきた。集落後方にフサティがあり、その前方にネガミ(根神)を出す山川家、ジトウヤシキ(脇地頭)などの旧家があります。

 安部は汀間ノロの管轄です。祭祀はアサギマーで行っていました。六月ウマチーには汀間ノロがやってきてニガミヤーでのウガンの後、アサギマーで祭祀が行われてきました。

 


⑦嘉 陽

 嘉陽集落の後方にウイグスクがあります。集落はウイグスクの中腹から移動してきたといいます。ウイグスクに神アサギ跡があります。 集落の東外れに御通しの拝所があります。ウイグスクから移動してきた伝承があり、ウイグスクまで行くことが困難となり、そこで遥拝をするという。旧暦9月9日に村人が集まり、ウイグスクまで行かず、そこでウガンをします。

  嘉陽ノロは天仁屋の祭祀も掌ります。嘉陽の集落内に大きなガジマルがあり、一帯にムラの祭祀場がまとまってあります。嘉陽集落の後方にウイグスクがあります。集落はウイグスクの中腹から移動してきたといいます。ウイグスクに神アサギ跡があります。

  集落の東外れに御通しの拝所があります。ウイグスクから移動してきた伝承があり、ウイグスクまで行くことが困難となり、そこで遥拝をするという。旧暦9月9日に村人が集まり、ウイグスクまで行かず、そこでウガンをします。 嘉陽ノロは天仁屋の祭祀も掌ります。嘉陽の集落内に大きなガジマルがあり、一帯にムラの祭祀場がまとまってあります。






}【移動集落とグスクとウタキ】旧久志村嘉陽
}
 名護市(旧久志村)嘉陽は沖縄本島の東海岸に位置します。集落の北東側にある杜がウイグスク(ウタキ)です。丘陵地のウイグスクから集落は移動した伝承を持っています。ウイグスクから集落は移動したが旧暦9月20日のハツカミンナディには、そこに村人が集まりウガンをします。ウイグスクは木の伐採が禁じられ左縄が張り巡らされ御嶽(ウタキ)の認識があります。

 
琉球国由来記1713年)の頃、嘉陽村に嘉陽城嶽(神名:アカウヅカサノ御イベ)と浜板敷嶽(神名:ソノイタジキノ御イベ)の二つの御嶽があります。嘉陽城嶽の記載はグスクが御嶽を同一視しているのかもしれません。沖縄島諸祭神祝女類別表(明治15年頃)にも嘉陽村には城御嶽と浜御嶽の二カ所があり、現在のウイグスク(ウタキ)とパマイタラシキに相当します。

 グスク(ウタキ)から集落が移動するが、そのままグスク(ウタキ)を遺し、祭祀を行っている例です。そして神アサギが杜(グスク・ウタキ)内にあったが、台風で崩壊し再建されていません。杜(グスク)内に神アサギがあることは名護グスク・親川グスク・根謝銘グスク・今帰仁グスクと同様な位置づけができそうです。集落移動前の形に戻すと、杜(グスク・ウタキ)そのもの中に集落があり、神アサギがあり、そしてイビがあるということでしょうか。

 グスクやウタキは祭祀と切り離すことができないということ。祭祀が「神遊び」と言われているように、ムラの人々の神行事に名付けた休日と位置づけることができます。そしてノロをはじめとした神人は、ムラのための祭祀を執り行っています、つまり公務員としての位置づけができます。集落が移動しても、あるいは合併してもノロ管轄や神人の制度が消えることがなかった。それは琉球国の制度のもとで祭祀は国のシステムを担い、神人が神行事を公務として担っている位置づけが必要です。


 
 時々、祭祀は公務である。あるいはノロをはじめ神人は公務員だという言い方をします。それは、例えば明治政府は明治13年調査に聞得大君加那志や首里大阿むしられ、真壁大阿むしられ、儀輔大阿むしられ、阿応理恵按司など祭祀を司るノロの「神職禄高役俸調」を行なっています。また各間切などの「のろくもい役奉」調査をしています。首里王府から発給された「辞令書」などがあるからです。

 「嘉陽の
ろこもい」の作得表高は
         米 壱石四斗五升五合五勺六才
         現収高 米五斗五升八合三勺四才
            外 米九斗壱升七合弐勺弐才 減 
とあります。        


 


⑨底仁屋
 

 スーナに人が移住してくるまでは嘉陽の人たちの水田があったといいます。寄留士族が住みついて地域なので、首里・那覇の文化を継承していると見られます。


 


⑩天仁屋