山原の図像

調査報告(大工事中なり

 (仮目次)
1.山原の関帝王の図像
2.山原の福禄寿の図像
3.山原の観音菩薩の図像
4.伝承にまつわる図像
5.
6.

 山原の各地の図像の調査をしていて、いつも頭をよぎる?があった。屋部寺や金武寺などを除いて一般の家に仏教が流布しなかったのかということ。山原のことではないが興味ある記事をみつけた。昭和14年初版の『島尻郡誌』(337頁)に次のように書かれている。
    本県に仏教が渡来したのは、亀山天皇の文永年間、今を去る六百七十年前で、
   英祖王の時僧の禅鑑が漂着して、浦添に極楽寺を開基したのに始まり、わが国に
   仏教が伝来してから凡そ七百年後である。
    それから凡そ二百年後の尚泰久王・尚真王の御代には仏教が盛んになり、寺院
   も多く建立された。慶長年間の始には僧の袋中によって浄土宗が広められ、琉球念
   仏が広く行われるようになったが、由来本県に居った名僧智識は、多く政治上の事
   に用いられ、寛文三年以来は僧侶の布教を禁じ、儒学をすすめた上に島津氏の琉
   球入後は浄土真宗の厳しい禁制にあい、仏教は終に社会的の勢力を失ってしまっ
   た。
     明治三十年の頃から、那覇に真教寺・大典寺の建立をみ、仏教が都市の人々に
   布教されるようになって来たけれど、地方の人々には何の影響もなく、古来の低級
   卑属な信仰崇拝に凝り固まっているために、仏教寺院に対する観念は甚だうすく、
   僧侶も只近在の部落だけが、葬式の時に頼む外に何の交渉もなく、年始年末に慣
   例による拝所詣りに、首里・那覇にある寺院に参る位のものである。

 島尻郡の「寺院並布教所」に祭られているのは?沖縄でもお寺のよって異なった仏像が祭られている。民間にも千手菩薩などが祭られているが、それは真言宗を信仰しているからではなさそうである。

  【旧糸満町】
   
・蓮華院(臨歳斉宗妙心寺派)阿弥陀如来
     ・竜翔院(禅宗・妙心寺派)阿弥陀如来
  【兼城村照屋】
     ・光竜院(天台宗・吉野山金峯寺)金剛大権現
  【大里村与那原】
    
・光照寺(真宗・京都西本願寺)阿弥陀仏
 
 【南風原町宮城】
    ・吉祥寺(臨済宗妙心派)観世音菩薩
  【真和志村識名】
    ・神応寺(真言宗・東寺派)千手観音
    ・興福寺(臨斉宗妙心寺派)釈迦如来
  【真和志村天久】
    ・聖現寺(真言宗東寺派)不動尊・弘法大師
  【真和志村安里】
   
 ・神徳寺(真言宗東寺派)不動尊・弘法大師


4.伝承にまつわる図像



3.千手観音菩薩の図像

 千手観音菩薩が祭られているのは、一般的に神棚や床の間とは別に棚をつくり祀っているのが目立つ。それが仏像であったり図像(絵)であったりする。

 東村あたりではシンティクヮンヌンとかウクヮンヌンと呼んでいる。祀る理由として「病気を癒し身体を健康にし人命を救済する神と言い伝えられてており、病弱者はもとより家族の健康,赤児の無病息災を願って信心する者が多い。中には宗家であるからと称して、一族のために観音像を神棚に祀る家もある」(『沖縄の祭礼―東村民俗誌―渡邉欣雄 30頁』。

【観音菩薩の祈願や供え物】(東村慶佐次・平良・川田)
  ・正月十八日/五月十八日/九月十八日の三回(ジュウハチヤウガミ)
  ・十本の手のある観音菩薩は人の難儀を救う神
  ・人を助けをする神
  ・首里の観音堂や名護あたりで購入する
  ・観音菩薩は生前999人を救ったという。あと一人救えば千人になる
  ・体が弱いから/家族や子孫の健康/家内安全
  ・一族や親類に加わる祈願
  ・供え物(線香・ウブクメー赤飯・ウチャヌクー餅三個づつ三種・酒・米など)
  ・参拝料(ウサンチンという)

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  ▲本部町崎本部(位牌・七福神・千手観音坐像が掲げてある)


2.福禄寿の図像

 「福禄寿」には五人像や六人像と「福禄寿」の文字図がある。福禄寿の文字が示す通り、福(幸福)、禄(富)、寿(長寿)の願いが込められているのであろう。家によっては五人像と絵文字の二本を掲げてある。もちろん神棚には位牌が置かれている。

 五人の人物像の描かれた福禄寿は後ろの男性に福、前の女性に禄、そして老人に寿と文字が書かれていることがある。杖を持った老人(寿)の手に桃、杖の頭に巻物が結わえたある。鶴や鹿が描かれているのもある。

 六人の人物像は五人像の男性(福)と女性(禄)と老人(寿)、それと赤子と少年であるが、六人像は女性の旦那なのか赤子を抱えた図になっている。赤子を抱いた人物が加わっている。下に六宝とあり、六人が願いを託した神なのかもしれない。

 「福禄寿」の墨字だけの場合もあるが、文字に絵を組み込んだのがある。絵は鶴・亀と松竹梅である。

 福禄寿の沖縄への導入のきっかけはなんだろうかね?!その思いはよくわかるのだが。もう少し調べてみるべきだな。ハイ

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   ▲本部町辺名地の仲村家。福禄寿の絵図と五人像の福禄寿

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  ▲本部町瀬底(石嘉波)の神棚と床の間   ▲福禄寿の図像

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   ▲大宜味村津波(仲村渠家の図像) ▲「福禄寿」の文字  


1.山原の関帝王図

 これまで調査した「山原の図像」を随時整理していく。

 関帝王について東村ではウクヮンティオウ・ウガミと称して正月十三日、五月十三日、九月十三日の年三回のウガミがなされている。東村有銘では「関帝王の掛け軸を持つ家があちこちにあり、中国から沖縄に渡って五穀豊穣をもたらした神だとして、拝みが行われていたが、戦時中『支那の神だから』と称して、祀らなくなってしまった」。また「他村落では、この拝みは首里・那覇出身の士族が祀るものだととして、元来農民出身の者たちは祀らなかったと言われている」とのこと(『沖縄の祭礼―東村民俗誌―』渡邉欣雄 30頁、129頁)。


【三種の関帝王の図】
 関帝王はウヮーサーオーとも呼んでいるようだ。関帝王図に一人像、二人像、そして三人像の絵がある。関帝王一人図でもいいようなものだが三種の図がある。気になっていた最中、下の民話が目にはいたので掲げておく。

 1691年頃関帝王が琉球に導入されたようであるが、それが各地へ流布していく要因が下の伝承にあるにちがいない。また一人図、二人図、そして三人図の根拠にもなっていそうだ。

 一人図は良馬に跨って領地を回っている勇壮な関羽の姿そのもの。

 二人図に関帝王図がウヮーサー王と呼ばれる所以が・・・。つまり、石鍋の蓋を持ち上げて煮ている豚肉を食べてい関羽に家来にしてくれるよう願い出ている。家来にしたワーサー王の飛毛を抜いたり、後ろからやられないように日差しの向きを考えて歩き、家来を従えた関羽の知恵と武にすぐれていたことが「守り神」として流布していったたのかもしれない。関羽と周倉の二人図は知恵と武力をもって従える。その辺りの話が二人図を掲げることにつながっているのであろうか。

 書物(春秋のようだ)を持った関羽の三人図は、文武にすぐれた関羽、そして知恵と武力で家来を従わせる姿。そして子の関平は父のそのような姿を崇めたてる。三人図を掲げる方々は子は父に従い、そして敬う姿を三人像に見て掲げているのかもしれない。

 関帝王の一人像、二人像、そして三人像のどちらを掲げるかは、下の話のどこかが印象としてあるのかで決まってくるのかもしれない。(何か図像心理学?の分野か)。

 

 ■関帝王とワーサー王(『屋部の民話』名護市教育委員会)

    関帝王が神様として祭られているかというと、昔、支那に関帝王という
    王がいた。非常に領土の住民思いで、「みんな安心して暮らしている
    か。外から悪者が入ってないか」と、毎日馬に乗って領土廻っていた。
     この馬というのが一日に千里走るくらいの良馬だった。毎日領土を廻っ
    ていたあるとき、道の側で石鍋に三百斤くらいのを石蓋して、豚肉を煮
    ていた。関帝王は持っていた薙刀で、三百斤ほどの石蓋をこじ開けて、
    薙刀の先で豚肉を刺して食べて、馬にも食べさせた。側で見ていたワー
    サー王は「私達が二つの手でも持てない石蓋を薙刀の先でひっくり返し
    て側に。こんな力持ちはまだ見たことない」と思って、「あなたはなんとい
    う名前の方か」と言ったら、「私は関帝王だ」「はっ、関帝王様、私はワー
    サー王という者だが、家来にしてくれませんか。貴方のような力持ちの
    家来になりたいのだ」「それなら家来になっていいが、だが私は馬に乗
    って見回りをするが、お前はどうするのか」「私は飛毛(とびげ)があるか
    ら何も心配ない。馬と同じように走れる」「そうか」と。


    それで、ワーサー王は槍を持って、関帝王は薙刀を持って領土を廻
    った。そしたら、ワーサー王は飛毛のために馬よりもいつも前になっ
    た。関帝王は、「お前は家来なのに主人の前なって態度が悪い」と
    怒った。そしたら、「私のかかとには、三本の飛毛があるから、この飛
   毛のためにこんな走れるんだ」と言った。「そうなのか」と、関帝王は
    考えて、ワーサー王が寝ているときに、飛毛を一本引き抜いた。した
   ら、それからは馬よりも二、三歩遅れて供するようになった。そうやっ
   て国を廻っているときに、このワーサー王は心が悪いから、「何とかし
   て、関帝王が油断しているときに、槍で突いてやろう」と、ときどき槍を
   突き突きする。あるとき、槍で突こうとしたから、関帝王は薙刀の先で、
   跳ね除けた。ワーサー王は、「何もしていないよ」と、お供していたとい
   うが、関帝王は考えて、「あいつを後ろにすると、いつやられるかしら
   ん」と言って、智恵をしぼって、太陽の上がるときには西の村に向かっ
   て、また太陽が落ちるときには東の村に向かって歩いた。


   影でワーサー王の動くのが見えるから。関帝王は文武に優れていて、
   ワーサー王がどんな悪企みしてもどうにもならなかった。それで、国は
   りっぱに治まって、住民も心配なく安心して暮らしたという。だから、こ
   の関帝王が亡くなった後も、人々は「あのような王様はほかにいらっ
   しゃらない。あの王様のために私達は安心して暮らしてきた。お互い
   の守り神として祭ろう」と、それで、関帝王は守り神として今でも支那
   で祭られるようになった。この支那の文化が沖縄にくるときに支那人
   から話を聞いて、「沖縄でも守り神として祭ろう」と言って、祭るように
   なった。十三夜には、「どうかお守りください」と言って、十三夜の御願
   (うがん)するという。


     『名護市の民話』は山本川恒氏の語りで掲載されている。骨子を崩す、
      ことなく文章化した。関帝王が流布する、あるいは一人像にするか、二
      人像にするか、それとも三人像にするか。その手掛かりとなるなる貴重
      な伝承である。


 
山原の図像の中で「関帝王」がある。関帝王とよばれている図像に一人図、二人図、そして三人図がある。一人図は関帝王が一人馬に跨り刀を手にした図である。二人図は馬に乗った関帝と家来の周倉が描かれた図。そして三人図は、関帝が書物を手にして座り、後方に旗のついた長刀を持った家来の周平、そして関羽の子の関平が立った図である。

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   ▲関帝王(一人図)今帰仁村古宇利(ウンナヤー)

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     ▲関帝王(二人図)本部町瀬底(ウフジュク)



【山原の図像】@
 
関帝王について地域資料に目を通してみた。「毎年諸祭記」と「家内日記」の二つ。「毎年諸祭記」と「家内日記」は羽地村(現在名護市)我部祖河の仲ノ家の家文書である(『羽地落穂墓集』旧羽地間切地方文書集成―小川徹」)所収。両者の内容は光緒五年(明治12年)以後のようだが、後者のは戦後書き改められているようだ。

 「毎年諸祭記」から関帝王に関わる部分だけ抜き出してみた(数多くあったであろうが、欠落しているので一月の一部しか知ることができない)。
  ・正月元旦  関帝王御前并御神御棚御前、おふく差上げの事
  ・歳 夜    関帝王ノ御前、御神御棚御前、おふく差上げ之事
  ・正月初歳日 関帝王御前并御神御棚御前おふく差上げ之事

 「家内日記」から関帝王を拝む日を掲げてみると以下の通りで、祭祀があるごとに関帝王に祈願しているようだ。それは大変だワイ。それだけ祈らないと叶わないのか?
  ・正月歳の夜
  ・正月元旦
  ・正月十四日
  ・正月十五日
  ・二月春分祭
  ・田植付初
  ・田植首尾
  ・四月あふし払
  ・五月十三日(関帝王の誕生日)
     一 花池之事      一 御茶湯差上之事 
     一 美花・御五水・洗美花差上、拝礼之事
     一 おふく差上之事
  ・六月しち満(シチュマ)
  ・六月苗代打チ
  ・六月廿六日折め(ウイミ)
  ・七月十三日
  ・七月十五日
  ・八月九日(スバシ)(折目)
  ・八月十日(シバシ)
  ・八月十五日
  ・八月わら遍神酒
  ・八月秋分朝
  ・九月ミヤ種子折目  
  ・九月御願(御解立願)
  ・十月種子撒入(同仲ノ夜)
  ・霜月大願
  ・霜月廿八日
  ・十二月八日鬼餅
 関帝王は祭祀のたびごと拝まれているようだ。関帝王の誕生日の五月十三日には花をいけ、御茶湯を捧げ、美花(ミパナ:白米)、御五水(お酒)、洗美花(洗った白米)、おふく(ごはんを蒸して湯のみ茶碗に入れて供える)などを供えて拝んでいる。

 下の図像は今帰仁村諸志の大城家の関帝王図である。馬に跨った関羽と旗を持っているのは家来の周倉で、二人像である。左の画像は神屋の様子であるが、左側に火神(画像ではみえない)、二基の位牌、そして右側に関帝王の図像が掲げてある。大城家は士族ではない。旗に描かれているのは日?で、ムカデ旗?か。現在の当主に関帝王を何故掲げてあるのか尋ねたが定かではなかった。各地から拝みにくるようだ。

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 ▲今帰仁村諸志の大城家の神屋の内部の様子   ▲馬に跨った関羽
                         と周倉(二人図)


【山原の図像】A
 「沖縄の民間信仰と図像」の展示会(沖縄県芸術大学)が開催されている。まだ展示を見ていないので明日には見に行かないといけません。展示されている図像調査をベースに講演?をしないといけないのですから。これまで山原で調査した図像を一点一点確認する作業を進めます。ここ4、5日は講演に向けての資料整理の報告になりそうだ。

 さて、『球陽』の尚貞王23年(1691)の条に「関帝王の神像を創建す」の記事がある。
   康煕癸亥、冊封勅使汪楫・林鱗煌、本国の帝王を供することを無き
   を惜しみ、竟に帝王廟を創建するの意を以て深以て許愿し、乃ち白
   銀伍十両を捐して此の像を創建するを請乞す。庚午年に至り、王、
   貢使をして能く関帝及び関平・周倉の聖像を塑せしむ。明くる年の
   夏、此の神像を奉じて回り来る。即ち上天妃廟内に、別に一壇を築
   きて其の像を奉安し、以て聖誕及び春秋の祭礼を致し、永く護国伏
   魔の神と為す。

 1683年に冊封使が関帝がないことを惜しんで、帝王廟を創建することを請うている。そして1690年に五十両を出して三人像をつくらせている。1691年が関帝王の琉球への導入の初めとみなしてよさそうである。そのとき関帝・関平・周倉の三人像を上天妃廟内に図ではなく「其の像」を奉安している。生誕と春秋に祭礼をし、護国伏魔の神として祭られたようであるが、山原では護国は別にして魔を伏させることが祈りが主になったのであろうか。さらに像より図の方が流布して民間に掲げられるようになったのかもしれない。

 下の図像は本部町辺名地の仲村家。福禄寿(文字図)・福禄寿(人物図)、それに関帝王図(三人図)が掲げられている。もちろん、火神・位牌も安置されている。仲村家にある関帝王の図は、左手に書物を手にした関帝王・長刀を持った家来の周倉、後方に包みを持った子の関平の三人図像である。関帝王図に三人像・二人像・一人像がある。

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    ▲本部町辺名地の仲村家の図像    ▲関帝王(三人図)