名護市仲尾

  ▲名護市仲尾の位置図

(工事中なり)


 沖縄本島北部の名護市にある字の一つ。仲尾は羽地内海に面した小さな村(ムラ・字)である。売店と公民館の前の通りが、かつての馬場跡である。現在は道路として使われている。仲尾はヌホーやノホウと呼ばれているが語義についてはっきりしない。大正8年に開通したトンネルが故地のある半田(ハンタ)から現在の集落のある仲尾原へ開通している。
 仲尾のムラを想い描くとき、今帰仁グスク攻略で中山の按司や山原の按司(今帰仁を除く)が終結したという勘定納港、故地に残る拝所(神アサギ・ヌルドゥンチ・ニガミヤーなど)、大正8年開通のトンネル、馬場などが浮かんでくる。
 仲尾の場合まだ納得しがたい祭祀の形態がある。シチグスク(隣接して親川グスクがある)が仲尾の御嶽であれば故地にあった集落との関係は理解しやすい。ところが拝原ににイビとイビヌメーがあり、それらと仲尾の故地の集落とどう結び付けられるのか。まだ納得できるところまできていない(現場を歩くことで理解できるに違いない)。

仲尾の故地にある拝所
 仲尾の故地に仲尾ヌルドゥンチ・ニガミヤー・神アサギ・ウペーフヤーなどの拝所があり、集落が移動したことを語っている。集落は移動したが、祭祀とかかわるノロ家(ヌルドゥンチ)は根神屋(ニーヤー)などに火神を置いていく習慣を示すものである。

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    ▲故地(半田)にある左から仲尾ヌルドゥンチ・ニガミヤー・神アサギ

 旧集落は半田(パンタ・半多原)にあり、そこには集落を構成する向かって右からウペーフヤーの火神祠・仲尾の神アサギ・ニガミヤー(根神屋)の火神・仲尾ヌルドゥンチ火神が並んである。近世末から半田にあった集落が仲尾原に移動した。故地にこのような拝所が、遺されている。神アサギの前方にヒチグスクと親川グスクがある。

 名護市仲尾は旧羽地間切のうち。仲尾村は移動集落、勘定納港・官庫、トンネルを持つ。今帰仁村の運天に近い集落形態をなしている。乾隆羽地間切図によると仲尾村は乾隆図(乾隆7年、1742年)で9、竿入帳では27とある。
 

仲尾の集落移動
 仲尾村の集落に関わる道光15年(1835)の貴重な史料がある。

    長浜東兼久       仲尾村
    山畑二反八畝十六歩  八斗五升六合
    同所西兼久
    山畑一反六畝廿歩  五斗
      合一石三斗五升五合
    右仲尾村之儀、以之外村敷狭御座候に付、頭数百三十四人
    にて、七家内は勘手納村四十七人にて、四家内は右東兼久
    へ罷越、当分家作居申候、依之右両兼久竿入、仲尾村百姓
    特にして被成候は、村敷仕度旨願申出候に付、竿入申候
    間、願之通仰付、来年より上納仰付可然奉存候、
    尤古我知我部祖河村よりも願い申出事候得共、彼之村々之儀
    は、仲尾村より畑持増申候間、弥仲尾村江御召付被下可
    然奉存候。
            (道光十五年乙未六月羽地間切肝要日記)


        ▲現在の仲尾(勘定納)の集落と羽地内海

仲尾ノロの役地
  我部祖河原一敷   四○○坪  四俵叶
  同我部祖河原一敷  三五○坪  四俵叶
  呉我ハタグ原     三○○坪  二俵
  ウーギリ       二○○○坪 一七俵
  振慶名ターラ    二○○○坪 三○俵
  セールマ        一五○坪   二俵
  西ヌハーヂラ(門天) 八○坪    一俵
     計五二八○坪   六○坪叶
         [羽地村誌資料 宮城真治資料ノート 84頁]

   首里の御み事
  はねちまきりの
  大のろくもひ
  一人もとののろのうまが
  一人ひやかに
  たまわり申し候
  天啓二年壬戌十月一日
  ▲羽地間切仲尾ノロの叙任辞令書(1622年)(『かんてな誌』所収)

 仲尾ノロは仲尾・田井等・谷田・川上などの祭祀を掌る。谷田村は後に田井等に加わり、また田井等から親川村が分割する。海神祭(ウンジャミ)の時、羽地間切では中尾(仲尾)・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・源河・伊指川(伊差川)の羽地間切の全員のノロが仲尾神アサギに集って祭祀が行われている。

仲尾ノロ関係資料
 
 
        証
     羽地間切仲尾村八拾八番地平民
                仲尾ノロクモイ
 明治廿六年度第一期渡       大城ナベ
右ハ當社禄支払期ニ付生存シ當間切内ニ現住
ノモノナルヲ証明ス     羽地間切
 明治廿六年八月九日     地頭代 島袋登嘉
  国頭役所長笹田柾次郎殿   
    請求書
          羽地間切仲尾村五拾八番地平民
              仲尾ノロクモイ 大城ナベ
右明治廿六年度第一期渡社禄受領致
度候間御証明仰成下度此段請求仕候也
  明治廿六年八月九日     右大城ナベ
   国頭役所長 笹田柾次郎殿
        証
     羽地間切仲尾村五拾八番地平民
                仲尾ノロクモイ
 明治廿七年度第二期渡  大城ナベ
右ハ當社禄支払期ニ在テ生存シ當間切内ニ現住ノモノ
ナルヲ証明ス
 明治廿八年二月丗一日  羽地間切地頭代 喜納豊永
  国頭役所長笹田柾次郎殿   
 
   請求書
          羽地間切仲尾村五拾八番地平民
              仲尾ノロクモイ 大城ナベ
右明治廿七年度第二期渡社禄受領致度候間御証明
仰成下度此段請求仕候也
  明治廿八年二月     右大城ナベ ?
   国頭役所長 笹田柾次郎殿
    証明願
                 私儀
当村内ニ居住目下生存シ且明治十九年三月県
達甲第十七号ニ抵触セザルモノニ付御座証明相
成度此段願候也
     沖縄県羽地間切仲尾村五拾八番地平民
明治廿八年七月廿二年 社禄受領者 大城ナベ?
  羽地間切地頭代 喜納豊永殿




勘定納港
 ベイジル・ホールは『朝鮮・琉球航海記』(1816年、188頁参照)で羽地内海や勘定納港の様子を以下のように記してある。
 「湾というより内陸の湖のような風景・・・(略)・・・三マイルあまり進んだところで、ついに一つの湖(羽地内海)があらわれた。長さは数マイルにおよび、たくさんの小島が点在している。
 湖の水深は四尋から六尋である。しかし、海に通じる細い頸の部分は、一○ないし一二尋もあった。つまりいちばん狭い場所が、一番深いのである。
 このすばらしい港は、どんな激しい嵐のときであってもまったく安全に船を碇泊させることができる上、海岸は変化に富んでいるので、船が必要とする修理の種類に応じて、ふさわしい場所を選ぶことも可能である。
 岩が天然の船着場を形造っている場所が何箇所かあり、岩のすぐそばでも水深が八〜一○尋もあるので、船を横づけにすることができる。傾船修理に適した遠浅の浜もあるので、船底を修理するために船体を傾けることができる。


     ▲現在の仲尾(勘定納)の海岸、かつての勘定納港である。

 現在の仲尾の海岸である。かつての港の面影をどこに見出せばいいのか思い悩むところである。勘定納が港として機能していた時代は左側の赤瓦屋根の建物(公民館)あたりまで船がつけられたのではないか。公民館の前方(建物の左側の道、海岸通りの現国道は近年開通)にマーウイ(馬場跡)がある。一帯に蔵があったのであろう。
 上記のベィジルホールの表現をみると、いくつか船着き場に適した箇所があり、また遠浅の浜もあり船を修理するのに適した場所があったという。船が着けられることと修理に適した遠浅があり、勘定納港は両方兼ね備えた良港だったわけだ。船が接岸できる港が良港だと思い込んでいた私の常識を打ち砕かれた場面でもあった。そういった自分の常識を打ち砕かれたり覆す出来事や発想に出会えたムラ。そんなムラは実にいい。また行きたくなる。