国頭村比


▲国頭村比地の位置図(沖縄大百科事典沖縄タイムスより)


2.国頭村比地
 比地は国頭村の南側に位置し、集落の中心部は国道58号線から山手に約1km入った所にある。浜から比地に至る一帯の低地は、 かつて水田が広がっていた姿を描くのにそう難しいことではない。 その水田地帯は比地を流れる比地大川と奥間川の二つの川が潤していたにちがいない。

 絵図郷村帳でひぢ村、琉球国高究帳や琉球国由来記(1713年)で比地村と記される。琉球国高究帳にみると田が85石余、畠が6石余であり水田の多い村であったことがわかる。

   比地の集落は山手から平坦地に移動している痕跡を今に残している。そのことを実感するには、「ぬ  ひち原」 と刻まれた原石( 印部土手) のある旧公民館の庭( ナー)を横切り、小玉森に登っていく小路がよい。 登り口の旧公民館広場( ナー) の側にガジマルの老木があり、 適当な陰を作っており、神アサギのある頂上まで登っていくのに一息いれる絶好の場所である。その道は神道を風情を漂わしているが、その側を通る窪道がどうも古い神道で人工的な堀切のような気がする。現在の神道には公民館から電線がひっぱられ電球をつけた跡がある。豊年祭の時は、神アサギまで電灯を灯しているのであろう。

 途中、 根神屋、 ハンダ屋、 チハヌ屋敷跡、 シマンポー屋敷跡などの屋敷跡に火神を祭った神屋や祠としてある。 それらの屋敷の回りに福木の大木や野面積みの石垣、 建物の礎石や豚小屋跡などが散見できる。 家が移動、 あるいは引っ越したり、 また跡取りがなくなっても火神を遺す習慣が根強く残っている。 それが集落移動の痕跡として見ることが可能である。 斜面から集落が移動したのは比較的新しい。 昭和30年代まで生活していた家があるという。


                ▲比地の神アサギへの道

 屋敷跡を通り、 頂上部分の入り口は人工的に切り取ったワイトィ(割取り)となっている。 そこは窪道より後に造られたものであろう。 入り口を登り切ると右手に神アサギがある。 神アサギの前はアサギ庭となり比地の海神祭が行われる。

 『琉球国由来記』(1713年)に記す比地村。番所から距離五町四尺。比地川が山地から平地に出る口の右岸の沖積平野とその背後の丘陵地に発達した集落である。
 まく名(集落名)は「まつがま」であるが、その意味は不明。比地の意味も明らかでない。ただし連関して考えられることは、神代七代神として出てくる古事記の宇比地邇神・須比智邇神の比地・比智、日本書紀の□土煮尊・沙土尊の土である。そしてこの「ひぢ」は、一般には泥・土あるいは泥土・砂土と解されているようだ。
 土地の人のいうユビ田(深田)が多く、そのユビが訛ってヒヂになっ
たという。はっきりしないが、比地川畔の泥土に関係のある地名のようである。『琉球国由来記』には幸地嶽・小玉森・キンナ嶽の三お嶽があり、現在も拝所となっている。幸地嶽のある幸地原にびんの嶽があり、その対岸に嶽の遙拝所たる中の宮と、それに隣れる火神が大川(井)側にある。由来記にいう小玉森が、神アサギのある一帯の森を指しているようだ。

  南斜面に集落移動の形態がよく残ったムラである。集落の南側を比地大川が流れ、また北の方を奥間川が流れ、比地本橋付近で合流する。かつて集落付近まで山原船が遡上していたという。 奥間川と比地川との間の低地は、 水田地帯である。18町歩あった水田は昭和42年頃には7町歩に減っており、現在では畑になっている。


     ▲比地の神アサギ          ▲比地の海神祭(弓で猪を射る)

 比地の集落は、現在三つに区分される。 北側をニシムティ、 中央部をシマナハ、 南側をペームティと呼んでいる。 シマナハの背後に旧集落や神アサギ・山口神社・ノロドゥンチ跡などの拝所がある。 比地は、かつて神アサギ一帯を中心に斜面に集落が形成されている。

 比地川の上流部の右岸にピヌカンヤー(火神ヤー)・中の宮・イビヌタキの拝所がある。『琉球国由来記』(1713年)に、
   ・幸地嶽(神名:アカシニヤノ御イベ)
   ・小玉森(神名:アマオレノ御イベ)
   ・キンナ嶽(神名:中森ノ御イベ)
とある。小玉森は神アサギの一帯の森を指している。幸地嶽とキンナ嶽が、比地川上流部にあるピヌカンヤーや中の宮、イビヌタキなどの拝所どれなのか。想定するにはもう少し調査が必要を思われる。一帯はウチバラと呼ばれ、祭祀に関わる重要な場所だといわれている。

 山原の各村の拝所に年号のある香炉を見かける。「奉寄進」と年号、そして名前が彫られている。比地にある香炉と石灯籠の銘は、奉寄進のある香炉を寄進するヒントを与えてくれそうである。
 1849年国頭間切の船(5人乗)が福寧府に漂着し救助された。そこで船の修理をして福州を経て同年接貢船と一緒に帰国した。この船が国頭間切比地村の船であったことは、比地の「中の宮」と「びんの嶽」(イビヌタキ?)にある香炉と石灯籠でわかる(『国頭村史』171頁)。この石灯籠は現在でも残っており、石灯籠の正面に「国頭王子正秀」、横面に「道光二十九年己酉・・・」とあり、その年は1849年にあたる。また、 「中の宮」の香炉の一基に「道光二十九年九月吉日 神山仁屋 山川仁屋 奉寄進」とある。香炉の寄進は神の加護によって無事帰ってこれたことへの感謝に違いない。
 山原地域の拝所に寄進された香炉は、唐旅や大和旅、あるいは遭難し無事帰ってこれたことへの感謝の意味を持っていると考えてよさそうである。昨日訪ねた名護市真喜屋(旧羽地間切)の「つるかみ」殿内の香炉に「光緒元年乙亥上京之時 奉寄進 前真喜屋掟 嶋袋仁屋」(明治8年)とあり、上京した時に寄進したものである。琉球国では廃藩置県の前で、その年に尚泰王や三司官新城安規が陳情特使として松田内務大丞と供に上京している。また今帰仁王子が台湾事件の謝恩使として上京している。随行員として上京した一人なのかもしれない。

 国頭村奥と同時(昭和12年頃)にお茶の栽培を始めたという。戦後製茶工場ができたようだ。

比地の小字
 字比地は6つの小字からなる。現在の小字に「・・・ 原」がついたのは皆無である。元文検地で使われた「印部石」(原石)には「ひち原」と原がついている。

@比地   A堀川  B蔵前  C長根  D幸地  E長尾

 (工事中

・チンノウガミ

・パンギナグスク

・インヌムイ

■アーマンチュ伝説(『沖縄風土記全集』第1巻)137 〜138 頁参照

 辺戸の天人(アマンチュ)の次男が北山の世主となり、比地村を創設、比地の世主になったと言われている。この子孫が現在の山城家(屋号泉川)だという。

 比地部落の東南方の山ふもとに海人天降り稲の種子を人々に分ち与えたとの伝説あり。海人の初めて種子をまきし、水田(一坪程)ミルク田ありて今も祭田として存して居るので古くより人の住せし事察せられる。又中之宮(ウチノウマー)の由来は詳ならざれども区域全体より参詣せらるるを以て見れば、その氏子にあらざりしや。

 ミルク田は部落より山手に行ってある。アマンチュ(天人)が長者の大主が大主にはじめて稲のつくり方を教えた田であるといわれ、そのクェーナ(歌)が現在も豊年祭で歌われている。

 部落を構成している門中は、古いのは山城姓、山川姓、神山姓、大城姓である。根神は山城門中、シル神は大城、山川門中から出ている。山城門中のもとじめは泉川家で、ミルク田や部落の拝所を管理しており祭祀は泉川家が中心に行っている。
                       
(未完