大宜味村謝名城
(工事中)

    ▲大宜味村謝名城の位置図        ▲謝名城の三つの集落

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 ▲前方のの森が根謝銘グスク(ウイグスク)  ▲グスクの中にある神アサギ

 謝名城はグスクと集落、分離、合併、そして神アサギ、祭祀など様々な歴史的な展開をみていくことがでそうである。もう一つの関心は喜如嘉から一名代に至る一帯の水田地帯は、グスクが機能していた時代は入江、あるいは湿地帯ではなかったか。根謝銘の売店あたりにウスチグチ(潮打ち口)の地名があり、海水が遡流したことの痕跡を地名に遺している。

国頭地方を統括したグスク?
 根謝銘グスクはウイグスク(上グスク)ともいう。根謝銘グスクの内に二つの御嶽があり、一つはウーグスク、もう一つがナカグスクという。根謝銘グスクは、現在大宜味村(間切)にあるが、1672年まで現在の大宜味村の津波と平南の二つの村(ムラ)を除いたほとんどが国頭間切の内であった。国頭地方(後に国頭間切)を統括する中心となったグスクであったであろう。


三つに分離、再び合併した村(字)
 大宜味村謝名城は明治36年に根謝銘・一名代・城の三つの村が合併してできた村(ムラ)である。『琉球国由来記』(1713年)に城村と根謝銘村があり一名代村は出てこない。『御当国御高並諸上納里積記』になると城村・根謝銘・一名代の三箇村が登場してくるので、一名代村の分立は1736年以降ということになる。それら以前の『琉球国高究帳』(17世紀中頃)には城村のみ登場してくるので、一つの神アサギからすると、17世紀中頃から1713年の『琉球国由来記』の間に城村から分立したのであろう。
 仮説として整理してみると、根謝銘グスクを拠点として城村があり、『琉球国由来記』(1713年)までに城村から根謝銘村が分かれ、近世末になってさらに一名代村が分立した。しかし明治36年なって三つの村が合併して謝名城村となる。一つの村が二つ、三つの村となり、再び一つの村となり現在に至っているのではないか。
 その痕跡として、神アサギが一つしかないということ。一名代村は別にして、根謝銘村に神アサギがあってよさそうであるがない。城村から根謝銘村が分立したとき、祭祀は分立する前の村で行うので神アサギは必要としなかったのであろう。一名代村も同様に考えてよさそうである。『琉球国由来記』(1713年)に城村と根謝銘村が登場するが、いずれの神アシヤゲの記載がない。明治15年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』に「城村上城アシヤゲ」とあり、上城は根謝銘グスクの別名なので上城アシヤゲはグスク内の神アサギのことであろう。

  謝名城の神アサギは根謝銘グスクの中にあり、親川グスク(羽地間切)や名護グスク(名護間切)、そして今帰仁グスク(今帰仁間切)と同様である。