勝連グスク・中城グスク                             トップヘ



2002.1.23(水)

 明日は勝連城跡・中城城跡・座喜味城跡、そして恩納村の博物館へ。歴文の運営協議会である。今、「なきじん研究11号」の編集にとりかかっている最中である。レイアウトが決まると、出稿となる。さて、来週から出稿だと公言したとたん、思わぬハプニングあり。それは、発刊してからの笑い話にとっておこう。ここ一週間歯を食いしばって頑張らなければ。ハイ。また、寿命が縮まりそう。「動き」もストップするなり?


2002.1.24(木)

 中山のグスク(勝連・中城・座喜味)の三ヶ所のグスクを行く。世界遺産だから回るという発想はない。先日、久高島の帰り知念城跡と玉城跡に足を延ばしてみた。すると、これまでグスクを何ケ所も踏査してきたが、最近これまでとは違ったグスクとの関わり方(見方)をしていることに気づいた。どのような関わり方(見方)をしているかは、いくつかのグスクを踏査してからにする。それは、さておいて今日訪れた勝連城跡・中城城跡・座喜味城跡の三ヶグスクについての報告である。天気良好。パカポカ陽気。中城城跡では桜がチラホラ咲いていた。まず、勝連城跡から。

■勝連グスク(勝連町)

 沖縄のグスクを呼ぶ場合、あるいは表記する時、面倒くさいことがある。世界遺産では勝連城跡(かつれんじょうあと)、国指定の文化財では勝連城跡(かつれんじょうせき)である。どれが正しいのかとしつこく質問してくるお方がいらっしゃるが、寛容さをもって勝連グスクと呼びたいものである。

 沖縄のグスクはどうも大和の古墳時代に相当する感覚がある。もちろん沖縄に古墳時代がないので、奈良時代が11.12世紀のグスク時代に相当すると考えた方がよさそうである。日本とは異なった歴史を歩むということもあるが、日本と沖縄の時代区分の対応を500年ほど斜めにずらして考えざるえない。各地のグスクが隆盛を極めた時代は、記録がほとんど残されていないためドラマにもなりやすい(「野史」に記さる時代)。勝連グスクも例にもれず、君臨した王代や文字に記録された文献がない。そのため石積や石畳道、礎石・拝所・井戸などの遺構や発掘された遺物、あるいはオモロや後世に記された記録、野史などから引っぱって歴史を描いているのが現状である(それはまだまだ続くであろう)。

 1429年に南山が滅ぼされ(北山は1416か22年)、琉球は統一国家となるが、その後も勢力を温存していたのが阿麻和利(あまわり)や護佐丸などであった。勝連グスクの阿麻和利は1458年に中城の護佐丸を滅ぼし、さらに首里城まで攻めたが大敗したという。阿麻和利や護佐丸など按司の登場は、統一国家が成立した直後の琉球国の様子を伺わしめている。統一国家が成立したものの、まだ各地のグスクに住む按司達が勢力を持ち機能していることを物語っている。そのような社会情勢は、尚真王が1525年に各地の按司を首里に集居させるという中央集権政策へつながっていった。また、グスクが防御的機能を失ってしまうきっかけになったにちがいない。例外的に、その後も機能する今帰仁グスクなどの例はある。 
 
  勝連グスクは勝連(与勝)半島の先よりに位置する。半島の丘陵上に築かれたグスクは四つの郭に区分しているようで、四の郭が駐車場となっている。一帯に井戸(カー)の跡がある。車で登っていくと両側が高くなっていて四の郭は窪地となっている。四の郭へ登っていく途中に門があったのであろう。南風原(南)門(はえばるじょう)と西(北)原門(にしばるじょう)の痕跡が地名に残っているようだ。そこから凹凸のある石畳道を登って三の郭へ。さらに二の郭、一の郭へと。

 一の郭は約98mあり、そこから360度眺望することができる。眼下に見下ろせる今日のような穏やかな海から、発掘された中国・日本、そして朝鮮、南蛮などの遺物を思い浮かべていると勝連グスクが隆盛を究め時代の交易していた姿が彷彿する。もう一方で積み上げられた石積みに耐え偲んだ人々のうめきも聞こえてきそうだ。
 次は中城..........(続く)


2002.1.26(土)

 今日は綱渡りの案内役。約束のお客さんにも迷惑をかけてしまった。館内での説明も来館者にあわせての説明となるので大変じゃ。公の仕事ですから、グチなんて言っているとヤメロと言われそう。一気に300名余りもやってくると館内は大変。館内と今帰仁城跡までの案内は、体力を必要とする。体を鍛えていると思えば一石二鳥か。今日は、おじいとおばあが多かったな。でもグスクや出土品や歴史に感心を持った方々が多かったので、まあ楽しい案内。それとは別に、陶磁器の研究会も開催されていて、専門家に陶磁器を観覧いただき、今帰仁グスクから出土した展示遺物は満足したはず。


■中城グスク(中城村泊)

 中城グスクの呼び方は、ダブルグスクなので時々どうしようか迷うことがある。中のグスクという意味に違いないのであるが、周辺にいくつかグスクがあり、その中央部にあるグスクなのか。それとも中規模のグスクのことなのか。あるいは中城間切の村名にある大城村と中城村(後に伊舎堂村改称)があり、その中城と関わりで名付けられたのであろうか。そんなことが頭をよぎる。1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に「中具足城」、「おもろさうし」に「なかくすく」とあり、古くから「ナカグスク」であったことに変わりはない。標高約155~165mの琉球石灰岩の丘陵にある。入城したところは、どうも裏門らしい。裏門が正門といった感じ。一帯はあまりにも出来すぎた感がしてならない。三の郭は別名新城とも呼ばれ、一~二の郭とは築城年代が異なるのであろう。

 正門の方に回り、そこから再度入城する気持ちに切り換えるとグスクが機能していた時代が、凸凹の石畳道や曲がりくねった正殿までの道筋やいくつかの門、そして首里と久高への遥拝所、雨乞いの御嶽などがあり、グスクが機能していた時代を感じさせてくれる。中城グスクの王統に関わる歴史的な史料が非常に乏しい。そのため『毛氏先祖由来伝』や「おもろさうし」や『球陽』の記事で歴史が描かれている。(他のグスクも大方そうである)

 中城グスクはもとの道路や集落跡などとの関わりで見ると理解しやすいに違いない。裏門から入いていくと本来のグスクとして違和感がある。今帰仁グスクの鳥居や七・五・三の階段と同様な違和感である。後で確認してみたら、裏門あたりは学校や馬場に使われている。違和感はグスクと関係ない後世の建物があったことに起因しているようだ。

 中城グスクは正門から入り、そこから出て行く感覚、その視点でみていく必要があることを実感。正門から入城してみると、やはりグスクが機能していた時代が不思議と体感することができる。今回、その視点で中城グスクを回る余裕がなかった。もう一度、正門から入り第三の郭まで踏査してみたい。中城グスクは、沖縄のグスクで桁違いに大きなグスクの印象を受けた。何故だろうか。単なる規模の問題ではなかろう。

 三の郭(新城)部分が護佐丸の築城(拡幅)の可能性が大きいようである。三山統一後も各地のグスクに按司達が居住していた時代である。勝連グスクもしかりである。その当時のグスクが機能していたの証であると同時に、護佐丸と阿麻和利という勢力を持った按司の存在が、1523年に各地の按司を首里に住まわせるという、中央集権国家を形成することにつながっていったであろう。

 後に中城グスク内に中城間切番所が置かれ、明治15年に間切番所の一室を教室にして中城小学校が開設されている。同19年に城外に学校が移されている。大正9年に同校が屋宜に移されると跡地は馬場となる。グスク内にあった番所(役場)は昭和21年に奥間に移されグスクは無人化してしまう。

 機能していたグスクが、本来のグスクとしての機能を失っていった。その後、番所や学校などとして使われていく。グスクそのものの姿や現在に至る歴史を読みとっていく作業も興味がつきない。

 座喜味城跡へ(続く)