今帰仁あれこれ
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【集落】
 (しゅうらく)

  (0026)
 ここでの集落は、字(アザ)(=村落、ムラ・シマ)とは区別している。字(=村落)は現在の行政的区分の字のことであるが、集落はその字や村落の中の村人の家々が集った地域をさしている。今帰仁村の字は集落の形態で大きく四つに分類している。集落が一つからなる字、主集落と複数の集落からなる字、幾つもの小さな集落からなる字、家々が散在する字。下図の黒く塗られたところが集落。図全体が字(村落、ムラ・シマ)

【村】(ムラ)
  (0025
 村(ムラ)は現在の字(アザ)のこと。村は近世初期から明治40年まで使われた行政単位である。明治41年からこれまでの村(ムラ)が字(アザ)となる。今帰仁間切の村の例をあげると今帰仁村・親泊村・兼次村・与那嶺村・仲尾次(中城)村・崎山村・平敷村・仲宗根村・玉城村・岸本村・寒水村・天底村・勢理客村・上運天村・運天村・古宇利村がある。湧川村は1738年に創設。天底村は本部間切から今帰仁間切に移動した村である。それらの村は合併や分離などあるが、現在の字(アザ)につながる。
プトゥキヌ
   イッピャ】
  (0024)
 今帰仁村字今泊にある洞窟。クボウヌ御嶽(ウタキ)の後方の中腹にある。プトゥキヌイッピャと呼ばれる。カルスト地形をなし、長年の侵食で岩屋を形成している。プトゥキは解くこと。解くことをプトゥチやフトゥチという。ヌは「の」。イッピャは岩屋のこと。次のような伝承がある。「太古今帰仁城主は天帝子の次男で、今帰仁のプトゥキヌイッピャで降誕し今帰仁に城を築き、ここに住んで今帰仁城主となる。今帰仁大按司といって兄弟が五人。長男が天孫氏(国君の始め)、次男が今帰仁城主(按司の始め)、三男王農大親(百姓の始め)、長女君々加那志(国王の神を祭祀する君々君々職の始め)、次女祝々加那志(庶民の神を祭る神職の始め)。それに因んで子宝に授かる洞窟として崇められている。5月と9月の29日にノロが伴ってウガンがある。洞窟内に珊瑚礁(ウル)があり、持ち帰り子供が授かるとお返しするという。
【百按司墓】(ムムジャナバカ)(0023)
 ムムジャナはたくさんの按司のこと。ムムジャラともいう。今帰仁村の運天港の崖にある古い墓。そこには10余の墓所があり、第1〜3墓所は半洞窟(岩陰)に作られた墓である。主なのは第1墓所。そこには木棺があり、半洞窟に家形の建物をつくり、その中に人骨を入れた木棺が置かれている。『中山世譜』の尚忠王(1440〜1444)の条に「監守貴族」とあり、第一監守時代(1422〜1469年)の貴族の墓を伺わしめる。墓の中の木でできた龕に「弘治十三年九月...」や「巴字金紋」あったという。弘治十三年は1500年当る。その木棺は新しいものだというから、それより古いということになる。第二監守の墓は大北(ウーニシ)墓に葬られているから、第一監守時代(1422〜1469年)の監守の墓だとみていいかもしれない。木棺や家形の建物、巴紋、漆など、まだまだ研究を深めていく必要がある。(下のスケッチは昭和初期故島袋源一郎氏のスケッチ)




【今帰仁ノロ】(ナキジンノロ)0022
 今帰仁ノロは今帰仁・親泊・志慶真の三ケ村管轄するノロである。また今帰仁グスク内で行われる城ウイミや海神祭(ウンジャミ)・シマウイミ・プトゥチウガン・ウマチーなどの祭祀を掌る神人である。現在の今帰仁ヌンドゥルチは今泊集落にあるが、今帰仁グスクの前方のアタイ原に今帰仁ノロ火神の祠があり、17世紀初頭までノロドゥンチは今帰仁グスクの近くにあった。アタイ原一帯にあった集落が低地に移動していくと、ヌロドゥンチも移動するが旧地に火神を残していた。今帰仁ノロ家には簪(カンザシ)と勾玉と水晶玉がのこっている。現在、今帰仁と親泊が合併して今泊となっている。志慶真村は諸喜田村に統合され、かつてのノロ管轄の祭祀の形態がくずれている。しかし城ウイミ(海神祭)の時、かつての志慶真村出身の志慶真乙樽の神役を勤める神人が参加する。(写真は今帰仁ノロの簪)



【中城ノロ】(ナカグスクノロ)(0021)
 中城ノロは中城(仲尾次)・崎山・与那嶺・諸喜田(諸志)・兼次の五ケ村の祭祀を管轄するノロである。中城ノロは中城村に居住していたのであろうが、継承の問題で崎山(ヒチャマヌンドゥルチ跡)や与那嶺(ナビンチュミヤー)などに移動した形跡がある。最後は諸喜田村(諸志)の宮城家(ナカグスクヌンドゥルチ)に引き継がれ現在に至っている。
 中城ノロ家にはノロ辞令書(1609年)をはじめ、上間の大屋子や本部めざし・与那嶺の大屋子など、役人関係の辞令書(古琉球〜近世)が遺されていた(戦前)。ノロの辞令書は「志よりの御み事 ミやきせんまきりの 中くすくのろハ 一人 もとののろのくゎまうしに たまはり申し候 志よりよりまうしの方へまゐる 萬暦三十三年九月十八日」とある。同家には水鳥の三彩、勾玉と水晶玉、馬の鞍など貴重な品々が遺されている。

中城ノロの勾玉と水晶玉

【玉城ノロ】(タマシロノロ)(0020)
  玉城ノロはタモーシノロと呼び、玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ケ村の祭祀を管轄するノロである。明治36年玉城村に岸本村と寒水村が合併されるが、村の内でノロが異なるので祭祀は別々に行われている。二つの村は岸本ノロの管轄である。「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年)がある。玉城ノロの継承についての願書である。玉城ノロクモイ職は、先々わが先祖に下命されたが、数百年前ことはわかりません。口伝や記録などもないので、中古の六代前から述べる。先祖の武太平良(六代目)の妹ウトが継承。平良筑親雲上(五代)の姉は玉城村松田方へ嫁いたマカへ継承。平良筑雲上(四代目)の妹カナへ継承。その後、本家内に継承すべき人物がなく五代の先祖平良筑親雲上姉マカの嫁ぎ先の松田方の外孫与那嶺村の内間方から養女なったナベに仮の継承をさせた。その後も血統内に継承する人物がなく、前職のナベの養妹、松田方の次女マツに継承させた。このマツの在職中にわが血統に相当の人物が出てきたので、その際交代してもとに帰すよう協議がなされた。その時、関係する(ノロ管轄村)玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ケ村、並びに松田方へ申入れをし、返すことになった。明治27年5月から見習として本職同様に勤めた。ノロ継承の移動によりノロ殿内は玉城村内に設置されるのが慣例、従ってノロの住む家も必ずノロ殿内の敷地内にあるべきです。前職者の松田マツは自分の血統が継承すべきではないこと悟り住家を去って仲宗根村山城方へ引っ越した(明治31年)。その跡に新しく家を建て、跡職と定めたツルを住まわせたノロ殿内(神社)の管掌させた。前職の松田方では親類中より撰挙しようと考えているようで、そのため提出した採用願に署名(連署)していない。前件のことを御洞察してツルへ下されたく、ここで理由を開陳するものでる。平良一門ののみの連署がなされている(明治35年5月)。
 玉城ノロの継承についての古文書である、中城ノロの継承についても同様な古文書が残っている。ノロの継承ははっきりしているようで、実はそう単純なものではない。古文書から玉城ノロの継承が複雑であったことがしれる。


【岸本ノロ】(キシモトノロ)(0019)
  岸本ノロは岸本村と寒水村を管轄するノロである。岸本と寒水の両村は明治36年に玉城村に合併された。玉城村に岸本村と寒水村が包含されてしまうが、祭祀は旧時代のまま継承されていく。現在の字玉城には玉城神アサギ・岸本神アサギ、そして寒水神アサギがまだあり、三つの村の合併の面影を残している。
 岸本ノロに関する以下の資料があるので紹介しましょう。
 
  沖縄県指令第一四五号
       国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
                    大城 清次郎
                     外  七名
      大正二年十月十七日岸本ノ
       加ネイ大城カマド死亡跡職  
       大城カマド採用ノ件認可ス
        大正三年三月十八日
     沖縄県知事高橋琢也 沖 縄   
                    県 知
                    事 印 

  ノロ制度そのものは消失していくのであるが、ノロの継承や保証については大正時代になっても文書でなされていることがわかる事例である。

【今帰仁間切のノロ】(琉球国由来記)(1713年)(0018)
 1713年頃の今帰仁間切(村)内に今帰仁巫(ノロ)・中城巫・岸本巫・玉城巫・勢理客巫(島センク巫)・郡(古宇利)巫がいた。1738年に湧川村が創設されるが、同時に湧川ノロを出したかは不明。明治15年頃の『沖縄島諸祭祝女類別表』には、湧川村にノロクモイ(巫のこと)がいたことが記されている。
 天底巫は『琉球国由来記』の頃は、天底村そのものが本部間切の内。1719年に天底村は本部間切から今帰仁間切へ村移動し、ノロも今帰仁間切となる。ただし、村は今帰仁間切に移動したが天底ノロの管轄は天底村と嘉津宇村・伊豆味村(両村は本部間切内)である。ここでも行政村の移動があってもノロ管轄に変更はない。天底ノロは大正の頃まで伊豆味まで馬に乗って出かけ祭祀を行ったという。
 地方のノロが継承される場合、首里王府から辞令書が交付される(近世?)と同時にノロ地が与えられた。ノロ地は明治36年に手放すことになるが、明治には県庁(郡長)から社録の給付をうけている。

【大北墓】(ウーニシバカ)(0017)
 大北墓は別名按司墓という。運天港付近にあり、左右対称の石積みの形式がいい。墓庭に大正13年に再建された碑がある。墓を建設したのは十世の宣謨(今帰仁王子)で、墓建立当時「元祖今帰仁王子者 尚真様第三之御子ニ而、依旧制国頭方監守被仰付、今帰仁間切江移居七代迄相続彼地江相勤罷在候故、運天村江構墓祖々致安葬置候間、絵図朱引之通為墓地永々所持仕候様被仰付可被下候、此旨御披露頼存候、以上 乾隆二十六年幸巳十二月 今帰仁王子 右朱引之内願之通御達被下候間永々可被致取持者也 己十二月十七日 三司官古波津親方」の碑が建立されたにちがいない。大北墓は第二尚氏系統の北山監守を勤めた按司とその一族が葬られている。1700年代に今帰仁グスクの麓(ウツリタマイ)にあった墓が崩落したので運天に拝領墓を造り移葬したという。明治45年4月に墓室の調査がなされている。中には宗仁公(韶威のこと)の嫡子(二世介昭)、四世克順(真満刈)、五世(記名ナシ、克祉?)、六世縄祖(松鶴金)、七世従憲(思五良)と、その一族が入っている。大北墓は今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司(総地頭職)とその一族を葬った墓で、今帰仁グスクと深く関わり、今帰仁グスクの歴史と一体として考えるべき墓である。  
 大北墓に葬られていない一世の韻威は首里の玉陵に、そして三世の和賢は津屋口墓(別名アカン墓)に葬られている。八世から後は末吉の墓に葬られている。








                                                    
                   
                           大北墓の絵図



【今帰仁阿応理屋恵】(ナキジンアオリヤエ)(0016)
 今帰仁阿応理屋恵はオーレーやアットーメーなどと呼ばれいる。久米島の「きみはゑ」(チンベー)や伊平屋(伊是名)の伊平屋大あむなどと同格の今帰仁阿応理屋恵。聞得大君を頂点とする神女組織の高級女官三十三君の一人である。今帰仁阿応理屋恵の伝世品に勾玉・水晶玉・草履の一部(今帰仁村歴史文化センター所蔵)が残っている。
 『おもろさうし』には「今帰仁あふりやゑ」とあり、「あふり」は冷傘だという。冷傘は君真物が出現するとき「今帰仁間切今帰仁村のコバウの御嶽や国頭間切辺戸村のアフリ嶽に傘がたつ」という。今帰仁阿応理屋恵は君真物の出現に関わる役目を担っていたのかもしれない。
 1667年に三十三君の多くは廃止されたようで、伊平屋のおむがなしと久米島の君南風、そして今帰仁阿応理屋恵の三職が残ったという。今帰仁阿応理屋恵はスムーズに継承されてきたわではない。
 第二尚氏系統の北山監守を勤めた監守の夫人や娘や一族ゆかりの女性がその職についた。北山監守を勤めた監守(今帰仁按司)一族の墓が運天港付近にある。大北墓、別名按司墓と呼んでいる。その墓に「アヲリヤイアンシ」と三名の名があり葬られている。大正末期に鎌倉芳太郎氏がウォーレウドゥンの遺品調査を行っているが『鎌倉芳太郎氏ノート』によると曲玉・玉草履・胸当などが あったことがわかる。
 今帰仁阿応理屋恵は国頭地方の最高位の神女と言われているが、君真物出現だけでなく、他にどんな役割を果たしていたのか、北山監守と表裏一体をなした今帰仁阿応理屋恵につい研究を深めていく必要がある。




                 今帰仁阿応理屋恵の勾玉


【北山文化圏】(ほくざんぶんかけん)(0015)
 この言葉は歴史文化センターが独自に使っている言葉である。沖縄の歴史の展開をどうみていくかに関わるテーマでもある。ここで簡単に説明すると11、12世紀ころグスクと呼ばれる施設が各地に出没してくる。各地のグスクがいくつかまとまりを形成していく。それが中堅クラスのグスク。山原(北山)でいうならば、根謝銘グスク(国頭地方)、羽地(親川)グスク(羽地地方)、名護グスク(名護地方)、金武グスク(金武地方)、そして今帰仁グスク(今帰仁地方、本部半島の大半)の五つのグループにまとまっていく(伊平屋・奄美を除いておく)。その五つのグループは、後に国頭・羽地・名護・金武・今帰仁の間切につながっていく(本部・大宜味・久志・恩納は近世に分割した新しい間切である)。
 五つの地方(後の間切)は、さらに今帰仁グスクに統括され北山王を中心とした小国家を形成する。その時代が北山・中山・南山の三山鼎立時代と呼ばれている。北山には怕尼芝・ミン・攀安知の三王が君臨する(怕尼芝の前に何代か王がいた思われる)。攀安知が滅ぼされた1416年まで続いた。

 北山文化が形成された時代は、割拠していた山原のグスクが中堅クラスのグスクにまとまり、さらに今帰仁グスクに集約された時代、さらに北山王が君臨した90年間の三山鼎立時代の範囲と想定している。その間(時代)に形成された文化的なもの。北山滅亡後、中山が取った北山への監守制度の設置などから、中山や南山と異なった文化を持っている地域という認識が根強くある。そのようなことから、今帰仁グスクにまとまっていった過程、そして北山王が与論や沖永良部に次男三男を派遣し、支配下に治めていった時代に形成された文化が、痕跡として沖縄本島から奄美(南側)に及ぶ。神アサギや祭祀形態や方言、集落区分の呼称など、一くくりにできる文化がある。それらは今帰仁グスクにまとまり、さらに北山王が支配下に治めた時代に形成された文化としてとらえている。その時代に形成された文化を「北山文化」と想定し、その範囲を奄美の南側までとし、その範囲と文化のことを「北山文化圏」(仮説)と考えている。
 北山文化圏の中身の吟味は、これから積み上げられるでしょう。

【勢理客】(せりきゃく・ジッチャク)(0014)
 勢理客は浦添市、今帰仁村、伊是名村、それから沖永良部知名町にある地名。沖縄の勢理客はジッチャクと呼び。今帰仁村の勢理客の村名表記は『おもろ』で「せりかくののろの あけしのヽろの」と謡われている。『琉球国高究帳』(17世紀中頃)で「ぜつかく村」、『絵図郷村帳』で「せつかく村」、1713年の『琉球国由来記』に「勢理客村」とあり、その後の文献では「勢理客村」と記され、現在に至る。勢理客のろは『おもろ』で何度も謡われており、古くから世に知られたノロであったことがわかる。その勢理客(ジッチャク)の語義について宮城真治は『沖縄地名考』で「シリサク即ち後ろの谷」と解かれ、「谷間にある部落」であるという。今帰仁村に乙羽トンネルと呉我山トンネルの間の盆地(谷間)にある集落をマッチャクという呼んでいる。チャクは迫や小さな谷間のこと。ジッやマッについての意はなんだろうか? 

【今帰仁ナークニー】(ミャークニー)(0013)
今帰仁は今帰仁村のこと。ナークニーはミャークニー、ミャンクンニーともいう。村内を歩いているとミャークニーと発音するのがほとんどである。今帰仁のことを古琉球(1609年以前)は「みゃきせん」と表記される。ミャークニーのミャはみゃきせんのミャにつながる。ミャーからナーに変化したとの意識が見られる。ミャークニーがナークニーへと音韻変化したものであろう。宮古音の字をあてることもある。首里に奉公した今帰仁出身者が宮古からきた人の唄(音)を聴いて今帰仁に持ち帰り広めたという。仲宗根政善先生は『今帰仁方言辞典』で「ミャーくニー、音曲の一種。哀調をおびた曲である。ナちヂンミャーくニー(曲名)」と説明している。ミャークーは宮古と同音。村内でもイリンシマ(西側の字)、中央部、アガリンシマ(東側の字)とでは違いがある。歌詞は生活と関わる恋、農作業、遊び、美童、湧泉(ハー)、城(グスク)などが詠まれている。
 
運天番所】(ウンテンバジョ)0012)
 番所は駅とも記され、今でいう役場のこと。今帰仁村で番所のことをバンジュという。番所が役場と名称を変えたのは明治29年のこと。今帰仁間切の番所は運天港近くにあったが大正5年に仲宗根に移転し、現在に至っている。番所が運天にいつ設置されたのか、確かな史料は今のところ確認されていない。番所跡地は今では民家が建ち福木の並木が、かつての面影を僅かながら忍ばせている。
 運天に番所があった史料は「薩摩藩調整図」(1756年)があり、それに番所が運天村あったことを明記している。それより以前の1646年の首里王府から各間切の番所までの道程を記した「正保三年琉球国絵図帳」に「名護間切境より今帰仁間切あめそこ村一里山までの二十町」とあり、運天番所の一端が記されている。
 番所は首里王府を頂点とした機構の地方行政の拠点となり、各地の間切(今の村)では同村に番所が置かれたが、今帰仁間切は良港の運天村に置かれた。番所には地頭代をはじめ、総耕作当・総山当などの間切役人が詰めた。
 大正5年に役場が運天から仲宗根に移転するきっかけは「沖縄毎日新聞」の大正2年の記事がきっかけになったかもしれない。今泊から二里、湧川から半里、交通が不便なだけでなく二十、三十戸の小さな寒村である。今泊の吏員は早朝に家を出ても到着は10時頃となり、4時間ばかりで仕事にならないという内容である。



【今帰仁】(ナキジン)(0011)
 今帰仁はナキジンやナチヂンと呼ばれている。今帰仁村は、沖縄本島北部の本部半島に位置し、村内には「今帰仁」がつくのは今帰仁城跡と今帰仁村(現在、合併して字今泊)がある。県内で今帰仁の地名がつくのに那覇市松川に今帰仁原がある。今帰仁は方言でナチヂンと呼ばれ、オモロや古琉球の辞令書では「み(ミ)やきせん」と記される。『海東諸国紀』(琉球国之図)(1471 年)には「伊麻奇時利城」とあり、それは「み(ミ)やきせん」より、もう一つ古い形である。 
 今帰仁は、文献史料でみるかぎり、「伊麻奇時利→み(ミ)やきせん→今帰仁」といった表記の変遷をたどっている。「みやきせん」に今帰仁の漢字が充てられたのは、薩摩軍の琉球侵攻(1609年)以後の近世初期からである。「今帰仁」の語義について、伊波普猷は北方からの渡来者が本部半島に移り住み、その新来者(イマキ)に由来する(『あまみや考』)と解し、また島袋源七はナキジンの古い発音はナキズミで、そのナキズミは魚来住だという。つまり、魚が来て住む場所、あるいは魚が多く寄りつく場所(「今帰仁を中心とした地名の一考察」)と解している。両者とは別に、「今帰仁は古くマキジン又はイマキジリ・マキジリと呼ばれ、地勢上国上(頭)に対するマキ(村)下・マキ尻の義である」(『島尻・今帰仁考』泉奇山)といった見解があるものの、今帰仁の語義についてまだ定説をみるにいたっていない。今帰仁城跡のことを別名北山城と呼び、14世紀末から15世紀初頭にかけて君臨した王のことを山北(北山)王と呼ばれた。今帰仁城を拠点にした山北王が、山原(北部)一帯を支配領域として統治した時代があり、明国(中国)からは「山北」と表記されていた。そのことが、現在でも今帰仁城のことを北山城という呼び方がなされる所以である。


【ウタキ】(御嶽)(0010)
 ウタキは単にムイと呼ぶ地域もある。ウタキはムラの一番神聖な場所で、ムラの祭祀と関わる。ウタキ内には大木や蒲葵(クバ)があり神木という。神はその神木を梯子にして降りてくるという。ウタキにはイビ、イベヌメーがあり、イビを中心にワラ縄がめぐらされた。縄は左縄で縄の内側は男性禁制の場となっている。内側に入ることができたのは女性のみだという。『琉球国由来記』(1713年)に登場する御嶽は以下の通りである。由来記には記録されてないが諸喜田(諸志)・崎山・平敷・謝名・仲宗根・天底・勢理客・湧川などにも御嶽がある。
  ・城内上之嶽、同下之嶽、コバウノ嶽(今帰仁村)
  ・兼次之嶽(兼次村)
  ・ムコリガワ嶽(与那嶺)
  ・中尾次之嶽、ギネンサ嶽(中尾次村)
  ・コモケナ嶽(玉城村)
  ・オホヰガワ嶽(岸本村)
  ・中森(本部間切の内、伊豆味・天底村)
  ・上運天之嶽、ウケタ嶽(上運天村)
  ・中嶽、サウ嶽、カマニシ嶽(郡村)
 ウタキは村の祭祀との関わりでみると、ウタキに降臨してきた神をノロをはじめ神人に乗り移り、村人と出会わす役割をになっている。ウタキを中心とした祭祀は五穀豊穣・村の繁盛・航海安全など琉球王国(国家)と深く関わっている。
(詳細は別稿で)


【かなひやぶ】(カナイヤブ)(0009)
 かなひやぶ、おもろさうしに出てくる地名の一つである。おもろさうしでは(第6巻の46)つぎのように謡われている。
   一 もヽと、ふみあかりや、
      みちあけて、
      かなひやふ、てつて
   又 きみの、ふみあかりや
   又 きこゑ、みやき、せんに
   又 こおの、世かるひに
 又 けおのきやかるひに
 今帰仁城跡内には「上の御嶽」と「下の御嶽」があり、「かなひやぶ」は「上の御嶽」にあたる。『中山世鑑』の「琉球開闢之事」のところで、天城に阿摩美久という神がおり、降りてみると島がなかったので天に上り、土石草木賜り下って島をつくった。一番目に国頭の辺戸の安須森、次に今鬼仁(今帰仁)のカナヒヤブと次々と御嶽をつくっていったという。(「聞得大君御規式の御次第」ではコバオの御嶽)
 1713年の『琉球国由来記』に「城内上之嶽、神名テンツギカナヒヤブノ御イベ」とあり、さらに「此嶽、阿摩美久、作リ玉フトナリ」とある。また、書の旧跡のところで山北が滅されたとき、カナヒヤブという盤石があり、千代金丸という刀をぬいて十文字に切り刻んだ。北山滅亡の最後と関わりをもった御嶽のイベである。刀を抜いて十文字に切り刻んだ盤石は、本来城内の上の御嶽、つまりカナイヤブにあるべきであるが、副継の御嶽(下の御嶽)の奥に落城の血を浴びた受剣石があるという(『御案内』。
 「かなひやぶ」(上の御嶽)は、支配者のグスク内の御嶽で、ムラ・シマの御嶽とは性格を異にする。その「かなひやふ」の御嶽に多くの参拝者が訪れる。『琉球国由来記』では今帰仁村の管轄。今泊の海神祭(ウンジャミ)のとき、神人や村人たちが城内のハサギ跡に集まり御願をする。


【クボウヌウタキ】(0008) 
  「こばうたけ」は今帰仁村の西側、今帰仁城跡の南側にある標高約189 mの山である。地元ではウガミ、あるいはクバンウタキと呼んでいる。そこは旧暦の5月15日と9月15日、今泊の神人や村人たちが御願をする。名の示す通り、クバに由来する御嶽名であるが、クバはあまり見当たらない。かつては、数多くあったという。
 「おもろさうし」(第13巻189)で次のようにうたわれている。        一 くにの、なてしのか、
     なてしのか、ふなやれ、
     なこなこと、
     なこやけて、はりやせ
  又 くに、みちへりきよか 
     みちへりきよか、ふなやれ
  又 かみや、おなりかみ、
     ころは、いしゑけり
  又 かつおう、たけ、とた物
     こばうたけ、とたもの 
 『琉球国由来記』(1713年)には、「コバウノ嶽、今帰仁村、神名ワカツカサノ御イベ」とある。当時「謝名村にアフリノハナがあり、昔君真物が出現するとき、ここに黄色の冷傘が立つときは、コバウノ嶽に赤い冷傘が立つ。逆に、コバウノ嶽に黄色の冷傘が立つと赤い冷傘が立つ」との言い伝えがある。そこでの祈願の主旨は、百果報、子のスデモノ、島国の作物、唐・大和・宮古・八重山、島々の船の無事往還などをあげている。今でも、毎年旧の5月15日と9月15日にフプウガン(大御願)やムラーウガン(村御願)が行われている。御嶽の麓に三段になった祭場があり、ノロやトモノハーニィノロなどの神人が行き祭祀を行う。さらに中腹にイベがあるがノロとトモノハーニィがそこまで登っていたが、今は下の方で御願をすませている。村人や村外にいる方々の多くが、途中にあるサカンケーモーでお通しをし、御願をする。
【ムラ・シマ(0007)
 歴史文化センターはムラ・シマという言葉をよく使う。ムラ・シマは今風に言えば字(アザ)のことである。その字のことを大先輩達はムラやシマという。「あなたの親はどこのムラね」「あなたのシマはどこ?」など。今の字は明治41年まで村(ムラ)であった。そのことが後々までムラという呼び方として残ったのであろう。公民館はムラヤーと呼ぶ。ムラは行政的な呼び方であったのであるが、今帰仁村は19のムラ・シマがあり、ムラ・シマに人々が住み、そしてそれぞれの独自の歴史を持つ。その用語を使う場合、行政的な意味だけではなく歴史性・生業・人・豊年祭・地名などムラ・シマを構成する様々な要素を包含した意味で使っている。ムラ・シマの言葉の根底には、そこに生きる方々が歴史の主人公だとする考え方があり、歴史文化センターは、そのことを一貫して貫ぬいてきた。ムラ・シマは歴史文化センターの根幹に関わる言葉のひとつである。因みに今の村(ソン)は明治41年まで間切(マギリ)であった。(詳細は『なきじん研究 1』参照)


【原石】(パルイシ)(0006)
 原石はパルイシやハルイシという。石に「・・・・原」と彫られていることに由来する。「・・・・原」の原名は現在の小字名につながってくる。1739年の『御支配方仰渡』(大里間切)によると、印部土手に立てられ印石とある。田畠の境界に混乱が生じたとき、この石でただした。今帰仁村に「フ はんた原、れ さき原、よ 加祢寸原、ソ 加祢寸原、よ さき原、□ いち原........」など21基(平成13年9月現在)が確認されている。古宇利島でも「ヲ いれ原、レ いれ原、於 いれ原、ほ あらさき原、に あがれ原」の5基がある。古宇利のいれ原とあらさき原は現在の小字にないが、あがれ原は現在の東原につながっている。(詳細は『なきじん研究7―今帰仁の地名―参照』) 


【フイヤー・メーフイヤー】(0005)
  今帰仁間切の地頭代(今の村長)になった家にはフイヤーやメーフイヤーの屋号がつく。1750年頃から今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上と呼ばれる。位牌や銘書に「古宇利親雲上」とあれば、先祖に地頭代をした人物がいたということである。その家の屋号はフイヤーやメイフイヤーがつく。地頭代になると古宇利島があつかいムラとなる。古宇利島のことをフイジマ(海を越えた島)と呼び、地頭代の古宇利親雲上の屋号のフイヤーは、それに由来する。それ以前の地頭代は湧川大屋子である(『琉球国由来記』1713年)。


【城ウイミ (0004)
 城(グスク)は今帰仁グスクのこと。ウイミは折目で生産の休養日(遊び)。旧8月10日今帰仁グスクの神ハサギ跡で行われるウイミ(休曜日・遊び)のこと。今帰仁グスクの神ハサギ跡で行われる。今帰仁ノロ(代理ノロ)が簪と勾玉を入れた二つの箱をハサギ跡にある香炉の側に並べて置く。代理ノロのため簪を挿したり、勾玉を首にかけたりはしない。平成13年の城ウイミは今帰仁ノロと本部町新里からきた神人、区長、書記が参加した。グスクの神アサギ跡のみ。線香・お米・お神酒・お菓子が供えられる。


すくみち】(宿道)(0003)
 首里王府時代の番所と番所を結ぶ街道筋のこと。今帰仁番所(運天)と本部を結ぶ道筋、運天番所から勢理客を通り湧川に向かう「すくみち」があり、今では小地名として残っている。今帰仁間切の「すくみち」沿いに蔡温松と呼ばれる並木松があった。「今帰仁ぬ 沿道一筋 並松ぬ美らさ 花染芭蕉着と 女童美らさ」と今帰仁ナークニーで謡われる。大正時代になると車が往来するようになり、道幅が狭いので片側の並松が切られ一筋の並松となった。戦後まで大分残っていた大きな松は道路の拡張、あるいは松喰い虫の被害で多くが枯れ、仲原馬場やかつての「すくみち」沿いに並松の面影を残している。


【神アサギ (0002)
 神アサギはムラ・シマを見ていくための重要なキーワードの一つである。『琉球国由来記』(1713年)には神アシャギと記されている。その神アサギは今帰仁村の西側では神ハサギと呼び、東側ではアサギと呼んでいる。神アサギのあるムラ、ないムラ、あるは三つあるムラがあり、ないムラは新しいムラ、二つあるところは二つのムラの合併、三つあるムラは三つのムラの合併を示す。明治36年に合併した村に今帰仁村と親泊村があり、頭の文字をとり今泊村と呼ぶ。諸喜田村と志慶真村で諸志、寒水村と玉城村、岸本村が合併するが玉城村を名乗る。今帰仁村で神アサギのない越地・渡喜仁・呉我山は大正から昭和(戦前)にかけて分字した字(区)である。


間切】(まぎり)(0001)
 間切は行政区分の名称。現在の今帰仁村は明治41年まで今帰仁間切と呼ばれていた。明治41年以後は今帰仁村と呼ばれ、現在に至る。現在の字(アザ)は村と呼ばれ、シマともいう。1665年まで今帰仁間切の領域は、現在の本部町を含む範囲であった。今帰仁グスクに居住していた今帰仁按司が首里の赤平村に引き揚げると今帰仁間切は二つに分割し伊野波(本部)間切を創設した。間切の長は地頭代とよばれてい
域は、現在の本部町を含む範囲であった。今帰仁グスクに居住していた今帰仁按司が首里の赤平村に引き揚げると今帰仁間切は二つに分割し伊野波(本部)間切を創設した。間切の長は地頭代とよばれていた。古琉球の辞令書に「みやきせんまぎり」と登場する。現在の湧川地内は羽地間切の領域だったこともあるが、1738年に湧川村を新設し今帰仁間切地内となり、現在に至る