根謝銘(ウイ)グスクと周辺の村々(トップ)
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 根謝銘(ウイ)グスクについて、これまで個々に報告してきた。それをここに集めてみる。


 大宜味村謝名城にある根謝銘グスク(ウイグスク)を訪れる。このグスクについては、何度も触れてきたが、今回は「グスクと周辺の集落と村」との関わりを確認するためである。この根謝銘グスク(ウイグスク)は海東諸国紀』(1471年)でいう国頭城に相当するグスクを見られる。このグスクのある字謝名城は大宜味村(ソン)であるが、1673年以前は国頭間切の内である。周辺を踏査していると、あちこちにイノシシの足跡や通り道、掘り返した個所があちこちに見られた。

【国頭間切の国頭(クンジャン)は同村根謝銘(インジャミ)?】
 国頭は根謝銘から来ているのではないか! これまで間切の名称が同村名から来ているのが多い。国頭間切に同村名の国頭村がない。1673年に大宜味間切が創設される以前の国頭地方(間切)の拠点は根謝銘グスク(別名ウイグスク)とみられる。すると国頭間切の同村は根謝銘となる。根謝銘はインジャミと呼んでいる。国頭はクンジャンである。間切名と同村との関係からすると、インジャミに国頭(上)の漢字を充てたのではないか。『海東諸国紀』(1471年)には根謝銘グスクの位置に国頭城を充ててあることもあり、インジャミに国頭をあてたともとれる。山原では国頭間切(クンジャン)の同村が根謝銘村(インジャミ)であれば、間切名と同村名が一致しないのは羽地間切のみである。

 宮城栄昌は『国頭村史』(5頁)で「国頭はくにかみ・くにがみ・くんがみ・くんじゃみ・くんじゃん・くんちゃんと転化した形で呼称される」とあるが、逆にクンジャンやクンジャミやインジャミに「国頭」や「国上」の字を充てたのではないかと見ている。

  ・国頭間切(クンジャン・クンジャミ)→根謝銘村?(インジャミ)?
       (番所は ?→浜村→奥間村へ)
  ・今帰仁間切→今帰仁村
  ・金武間切→金武村
  ・名護間切→名護村
  ・久志間切→久志村(番所は瀬嵩村ヘ)
  ・恩納間切→恩納村
  ・田港間切→田港村(後に大宜味間切→大宜味村・塩屋村へ)
  ・伊野波間切→伊野波村(後に本部間切)
  ・羽地間切→田井等村(親川村の創設で番所は親川村)


 現在の謝名城は明治36年まで根銘・一代・の三つの村が合併した。それとグスクの北側に位置する田嘉里も明治36年まで親・屋比・見の三つの村の合併である。国頭地方の要となったとみられる根謝銘グスク(ウイグスク)と周辺の集落との関わりを見ていこうとするものである。間切規模のグスクと集落との関わりを知るモデルとなるとケースだと考えている。

根謝銘グスクと集落と村(ムラ)】
 
根謝銘グスクは大宜味村謝名城にあるグスクである。別名ウイグスクという。ウイグスクの呼称は城(グスク)があるので、区別するための名称であろう。ここで使っている集落は、古琉球の時代のマキ・マキヨ規模の家々の集まりとして捉えている。100軒余の場合もあれば、30軒そこそこの場合もある。それらの集落が、後に行政村(ムラ)として線引きされたと見ている。

 これらの村が明治13年にどのくらいの規模であったのか示してみる。世帯数で20世帯余、多い所で40世帯足らずである。近世、あるいは古琉球の時代になると、もっと小規模(マク・マキヨ)であろう。

  ・根謝銘村・・・・・世帯37戸、人口183人(男92人・女91人)
  ・一名代村・・・・・世帯21戸、人口114人(男64人、女50人)
  ・城 村 ・・・・・・・世帯21戸、人口118人(男52人、女66人)

  ・親田村・・・・・・・世帯25戸、人口136人(男65人、女71人)
  ・屋嘉比村・・・・・世帯28戸、人口161人(男82人、女79人)
  ・見里村・・・・・・・世帯27戸、人口166人(男85人、女81人)


 合併した謝名城は城ノロの管轄、そして田嘉里は屋嘉比ノロの管轄である。城ノロ管轄のムラは根謝銘グスク(ウイグスク)の中城(ナカグスク)御嶽(そこはイビだとイビ考えている)に左縄を巡らし、屋嘉比ノロ管轄のムラは同じく根謝銘グスク(ウイグスク)の大城(ウフグスク)御嶽(イビ)に左縄を張り、イビに向かって拝んでいる。本来ウイグスク全体が御嶽であり、それに寄り添うようにあった集落の御嶽であり、大城御嶽や中城御嶽と呼ばれているところはイベに相当する。そう見ていくと、御嶽その中のイベ、そして集落との関係が見えてくる。さらにグスクと集落や村との関わりも(集落移動など含めてのことは別稿で)。『琉球国由来記』(1713年)の頃、親田村・屋嘉比村・見里村は国頭間切である。三つの村が大宜味間切に組み込まれたのは康煕58年(1719)である。

 グスクの上り口にウドゥンニーズとトゥンチニーズがある。宮城真治の『宮城真治民俗調査ノート』に御殿と殿地の場所(屋敷地)が記されているが、昭和2年には御殿敷地に火神が祭られている。


           ▲グスクと周辺の集落と村(ムラ)


 ▲一番麓にある一名代の集落        ▲根謝銘の集落          ▲城の集落とウイグスク

根謝銘グスク内の御嶽(イビ?)の名称は『琉球国由来記』(1713年)とでは混乱しているようである。
  
 ・中城之嶽(神名:大ツカサ)(見里村・屋嘉比ノロ管轄)・・・・・・大城の嶽(田嘉里:屋嘉比ノロ)(当時国頭間切)
   ・小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)(城村・城ノロ管轄)・・・・・・・・中城の嶽(謝名城:城ノロ)(当時大宜味間切)


【根謝銘(ウイ)グスクと村々】
 根謝銘グスクはウイグスクともいう。グスク内に二つのウタキがある。その二つのウタキはウタキの中のイベだとみている。根謝銘グスクと関わる村がある。間切分割、集落移動、合併、ノロ管轄など複雑にからみあっている。そのあたりのことを整理してみる。

 間切や村の変遷をたどってみたが、ここでは根謝銘(ウイ)グスクを取り巻く現在の謝名城(大宜味村)と田嘉里(大宜味村)について触れる。1673年以前はいずれも国頭間切の内。根謝銘(ウイ)グスクは国頭間切の中心部に位置していたということ。1673年の間切分割の時、根謝銘グスクは田港(後に大宜味)間切の領域に組み込まれる(根謝銘グスクが国頭間切の領域に入れば問題はなかったのでは)

 1673年の間切分割の時、ねざめ(根謝銘)村と城村は大宜味間切へ(その段階で一名代村は登場していない)。屋かび(屋嘉比)は国頭間切へ(親田村と見里村は登場してこない)。組み込まれる。ところが、『琉球国由来記』(1713年)以降、国頭間切から大宜味間切への方切(間切の境界線の変更)がなされる。明治の「統計慨表」では、屋嘉比村と親田村と見里村は大宜味間切の村である。

 明治36年に根謝銘村と一代名村と城村とが合併して「謝名城村」となり、城ノロ管轄である。一方の親田村と屋嘉比村と見里村が合併して「田嘉里村」となるが屋嘉比ノロの管轄村である。根謝銘(ウイ)グスク内に大城ウタキと中城ウタキがある。『琉球国由来記』(1713年)を見ると、城村と根謝銘村は大宜味間切で城村に小城嶽、根謝銘村にガナハナ嶽があり城ノロの管轄である。また、親田村と屋嘉比村と見里村は『琉球国由来記』(1713年)の頃は国頭間切の村である。親田村にガナノハナ嶽、屋嘉比村にトドロキノ嶽、見里村に中城之嶽がある。屋嘉比ノロの管轄村である。旧暦の海神祭(ウンガミ)が行われる根謝銘(ウイ)グスク内で行われる祭祀を見ると、屋嘉比ノロ管轄村(屋嘉比・親田・見里・浜)の神人や村人達が関わっているのは大城嶽、城ノロ管轄の村が関わるのは中城嶽である。城内の神アサギで行われるウンガミ(海神祭)は城ノロ管轄の神人(喜如嘉・饒波も参加)や村人達である。

 根謝銘(ウイ)グスク内の二つの嶽(イビ)は異なるノロのそれぞれの祭祀場となっている。これまで記録されている根謝銘グスクでのウンガミは城ノロ管轄の祭祀である。屋嘉比ノロ管轄のウガンが大城嶽(イベ)で行われているのを実見したことがある。城内の神アサギでのウンガミは一緒には行っていなかったように思う
(要確認調査)。城内の大城嶽での祭祀が終わると田嘉里の神アサギで祭祀を行う。そこでウンガミの所作がなされるかどうか未確認。

 ここで根謝銘(ウイ)グスクの二つの嶽(イベ)と、その周辺にある(あった)集落との関係を祭祀との関わりで見ていけるのではないか。「根謝銘(ウイ)グスクが抱えた村々」としてとらえた時、「今帰仁グスクが抱えた村々」と共通して見えてくるものがある。それと、根謝銘(ウイ)グスクへの途中に「御殿」と「殿内」屋敷があったことが宮城真治ノートに描かれおり、それは統合され「トゥンチニーズ」と「ウドゥンニーズ」であることわかる。それは国頭按司と国頭親方なのか、それとも大宜味按司と大宜見親方の殿地や御殿の跡地なのか。
 

▲根謝銘(ウイ)グスク内の大城嶽(イベ)     ▲根謝銘(ウイ)グスク内の中城嶽(イベ)


   ▲殿内と御殿が統合される(火神)          ▲城村上城アサギ


 ▲城集落から見た根謝銘(ウイ)グスク全景       ▲城(グスク)ヌルドゥンチ 

 絵図郷村帳
(1648年頃)
琉球国高究帳  間切分割
(1673年) 
 琉球国由来記
  (1713年)
慨 表 
(明治13年)
旧慣地方制度
( 明治27年)
 土地整理
(明治36年)
現在の字  ノロ管轄 
 平良村
 (名護間切)
 平良村
 (名護間切)
   平良村
(大宜味間切)
 (久志間切へ)  平良村(久志間切)    平良
(東村)
 平良ノロ
 川田村
 (名護間切)
 川田村
 (名護間切)
   川田村
(大宜味間切)
 (久志間切へ)  川田村(久志間切)    川田
(東村)
 平良ノロ
                 
 つは村
(羽地間切)
 津波村
 (羽地間切)
大宜味間切へ   津波村  津波村  波津村   津波(大宜味村)  津波ノロ 
  へなん村
(羽地間切)
 へなん村
 (羽地間切)
大宜味間切へ   平南村    平南村は津波村へ合併      津波ノロ 
 とのきや村
(国頭間切)
・   大宜味間切  ・ 渡野喜屋村   渡野喜屋村    白 浜  
 たミな村
(国頭間切)
 たミな村  大宜味間切  田湊村  田港村   田港村    田 港  田湊ノロ
 前田村
(国頭間切)
 前田村  大宜味間切  前田村    屋古前田村    前 田  田湊ノロ
 屋こ村
(国頭間切)
 ・  大宜味間切  屋古村        屋 古  田湊ノロ
 しおや村
(国頭間切)
 塩屋村  大宜味間切  塩屋村  塩屋村  塩屋村    塩 屋  田湊ノロ
 ねるめ村
(国頭間切)
 ねるめ村  大宜味間切  根路銘村  根路銘村  根路銘村    根路銘  城ノロ
     大宜味間切  大宜味村 大宜味村   大宜味村    大宜味  城ノロ
     大宜味間切      大兼久村    大兼久  
 によは村(国頭間切)  ・  大宜味間切  ・  饒波村  饒波村    饒 波  
 きどか村
(国頭間切)
 きどか村  大宜味間切  喜如嘉村  喜如嘉村  喜如嘉村    喜如嘉  城ノロ
 ねざめ村
(国頭間切)
 ・  大宜味間切  ・  根謝銘村  銘村  謝名城  謝名城  城ノロ
        一名代村   代村      城ノロ 
 城 村
(国頭間切)
 城 村  大宜味間切  城 村  城 村   村      城ノロ
     国頭間切  親田村→大宜味間切1719年へ  城 村    村  田嘉里  田嘉里 屋嘉比ノロ
 屋かび村
(国頭間切)
 屋賀比村   国頭間切 屋嘉比村→大宜味間切1719年へ  屋嘉比村  比村     屋嘉比ノロ 
      見里村→大宜味間切1719年へ  見里村       屋嘉比ノロ
             以下現在の国頭村    
 はま村
(国頭間切)
 ・  国頭間切  浜 村    浜 村     浜 屋嘉比ノロ 
 ひ地村
(国頭間切)
 比地村  国頭間切  比地村    比地村    比 地 奥間ノロ 
 奥間村
(国頭間切)
 奥間村  国頭間切  奥間村    奥間村    奥 間 奥間ノロ 
 へんとな村(国頭間切)  へんとな村  国頭間切  辺土名村    辺土名村    辺土名 辺土名ノロ 
 うら村
(国頭間切)
 うら村  国頭間切  宇良村    宇良村    宇 良 辺土名ノロ
◎ とへざ村(国頭間切)  とへざ村  国頭間切  ・    ・     
辺土名ノロ
 
 いち村
(国頭間切)
 ・  国頭間切  伊地村    伊地村    伊 地 辺土名ノロ
 よな村
(国頭間切)
 与那村  国頭間切  与那村    与那村    与 那 与那ノロ
 ざじき村
(国頭間切)
 ・  国頭間切  謝敷村    謝敷村    謝 敷 与那ノロ 
 さて村
(国頭間切)
 ・  国頭間切  佐手村    佐手村    佐 手 与那ノロ
 へのき村    (国頭間切)   へぬき村  国頭間切  辺野喜村    辺野喜村    辺野喜 与那ノロ 
 おか村     (国頭間切)  ・  国頭間切      宇嘉村    宇 嘉  
 へと村
(国頭間切)
 へど村  国頭間切  辺戸村    辺戸村    辺 戸 辺戸ノロ 
  おく村
(国頭間切)
 おく村   国頭間切  奥 村     奥 村      奥ノロ
 あだ村
(国頭間切)
 あだ村  国頭間切  安田村    安田村    安 田 安波ノロ 
 あは村
(国頭間切)
 ・  国頭間切  安波村    安波村    安 波  安波ノロ
 ◎いたばか村(国頭間切)  ・  国頭間切            
 ◎きにやま村(国頭間切)  ・  国頭間切            
 ◎そせ村
(国頭間切)
 ・  国頭間切  ・    楚洲村    楚 洲  

 ※浜村は国頭間切の村となるが、ノロ管轄は変わらず大宜味間切の屋嘉比ノロ管轄である。間切の境界線の変更があっても
   ノロ管轄は変わらずの例である。


【国頭村浜】(屋嘉比ノロ管轄村)
 国頭村浜は国頭村の一番南側に位置し、大宜味村と接している。その浜に国頭間切番所があった時期がある。『琉球国旧記』(1731年)での国頭間切の駅(番所)は奥間邑(村)である。「国頭間切の番所は、1673年に浜村に移ったが、そこが間切の僻辺に存在し、行政命令の伝達や人民の往還に不均等であるとして、1732年に奥間村に移転した。浜村の番所跡は字浜の両側に最近までみることができた」(『国頭村史』)という。

 1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港(後に大宜味)間切を創設した。大宜味間切が創設される前の国頭間切の番所はどこにあったのか。根謝銘グスク(上グスク)の根謝銘村、あるいは城村にあったのでは。他間切では同名村があるが、国頭間切に国頭村があったかどうか、確認することができない。ただ『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)に「国頭城」とあるので、城村が同村なのかもしれない。(城村は明治36年に根謝銘村と一代名村と城村が合併して謝名城となる) とすると、1673年以前の国頭間切の番所は城村にあった可能性がある。1673年に国頭・羽地間切を分割し田港(後に大宜味)間切が創設されたときに、国頭間切の番所は城村から浜村に、田港間切は田港村に新しく番所を設置したことになるか。
 
 国頭間切の番所は城村(1673年以前?)→浜村(1673年)→奥間村(1732年頃)→辺土名(大正3年)へと移動している。『琉球国由来記』(1713年)による国頭間切の年中祭祀で両惣地頭が関係する村は奥間村である。また、国頭間切と大宜味間切の境にあった親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切である。それらの三つの村は後に大宜味間切の管轄となり、明治36年には合併して田嘉里となる。間切分割の境界線が祭祀との関係で揺れ動いている。そのことが国頭間切の番所と祭祀にも影響を及ぼしている。
(根謝銘グスクを国頭間切域に入れることができたら片付いたのでは?)

メモ
・城ぬほー(中城大屋子)
  上城内に二、三百坪 田二百坪位(百八十坪をチュナーという)
・掟・夫地頭の田は字の夫より出て植える。
・根謝銘はユナハヌマク、城はフガニマク、一名代はユダヌマク
・鼠は山猪の替り。


・根謝銘グスクと屋嘉比津(港)
 根謝銘グスクと関わる津(港)は屋嘉比川(現在田嘉里川)の河口が港として機能しているが、グスクが機能していた時代は、もっと上流部にあったと見られる。現在の屋嘉比川の河口にサバニが数隻あるのみ。
 
 屋嘉比川はもう少し上流部まで入江になっていて山原船が出入りしていたという。


   ▲屋嘉比川の河口付近(屋嘉比港)      ▲後方の中央部の山が根謝銘グスク

【貢納物品領収旧藩慣例並ニ置県後取扱順序】(明治16年)
(『沖縄県史』14巻)メモ
 
  旧藩ノ節ハ鹿児島上納米ノ払下ヲ買受ケタル商人ヨリ在番役ヘ請取方申出テタル時ハ在番役
  ノ照会ニ拠国頭地方今帰仁本部羽地名護ノ四港ニテ近傍間切ノ貢米ヲ収入シ買請ノ商人ヘ渡
  シ来リシ処明治七年内務省直轄以後ハ藩庁ヨリ石代金上納トナリ人民之貢米ハ悉皆那覇納メ
  トナル置県後モ同シ
    ・貢物納入蔵割
     那覇蔵納リ
       島尻地方
       一 拾五カケ間切
        一 国頭地方
        一 大宜味間切
        一 国頭間切但安田村安波村ノ義ハ首里ヘ相納候ニ付除ク
        一 今帰仁間切
       一 羽地間切
       一 本部間切
       一 名護間切
       一 恩納間切
           〆
       一 宮古島
       一 久米島
       一 八重山島
       一 伊江島
       一 慶良間島
         弐拾弐ケ間切
          〆 六島
      首里蔵納リ
       国頭地方  
       一 安田村
       一 安波村
       右ハ国頭間切ノ内船場運送ノ都合ニ拠リ首里ヘ相納来候
       一 金武間切
       一 久志間切
         〆
       中頭地方
       一 中頭地方 拾壱ケ間切
         〆 拾三ケ間切ト弐ケ村