勝連グスクと南風原集落                         トップヘ



2006.07.18(火)メモ

 勝連グスクと南風原集落まで足を運んでみた(集落内や元島あたり、丁寧に踏査してみたいものだ)。

【勝連グスクと南風原集落】


 南風原の集落は勝連グスクの南斜面にあったのが1726(雍正4)年に北側の現在地に移動している。しかし集落移動なので村名はそのまま南風原村である(村内での集落部分の移動である)。移動前の集落のあったところは、元島原なので集落移動後に付けられた地名ということになる。グスクと集落移動との関係を知ることのできる事例の一つである(24日勝連から10名余の方々が見えるので聞いてみたい)

 今回は現集落から元島原へゆき、南風原門への旧道を通り勝連グスクへとあがってみた。南風原の集落の外れに石獅子が目にはいった。集落が移動した後に設置されたのであろう。もう一基あるようだ。集落の北側の丘に南風原公園があり、公園内に慰霊塔がある。そこから勝連グスクがよくみえる。

 集落内にカーがある。切石で囲われたカーである。もっとあるでしょうが、集落内のマンナカガーとアガリガーの二つのカーをみる。集落の東側にカーがあり、その近くにガジマルがあり四角い空間となっている。その後方に南風原ヌルドゥンチがある。同じ道筋の西側にジーブ大屋子(儀保掟)と報恩社があり、石垣のある屋敷が目につく。一帯に旧家が集まっているのであろう。南風原集落と勝連グスクとの間一帯から右手の浜崎寺あたりの低地が1827年に行われた水田開鑿地なのであろう。

 勝連グスクの元島原への途中に浜崎寺がある。浜崎村も近くにあったのであろう。かつてあった浜崎村は明治の初期あたりには南風原村に統合されたようだ。浜崎寺の東側の集落は南風原の浜屋集落である。そこに南風漁港がある。浜屋集落の中を通る道筋を東へ進むと浜川ガーが道路沿い下にある。浜川ガーは勝連グスクの南風門(正門?)から旧道を通り、元島集落、そして浜川ガーへと下り海岸へのつながる道筋だったにちがいない。おもろさうしで「又 きむたかのたゝみきよ 又 はまかわの なみうちくちおれわちへ」と謡われている「はまかわ」は浜川ガーのことか。

 現在浜川ガーとグスクの南風原門をつなぐ道筋が途中で切れている。浜川ガーと勝連グスクの中間(シートピアかつれん)あたりを東西に道路がとおっている。その道路から勝連グスクへの旧道がある。勝連グスクの南風原門と寺川ガー(元島集落)をつなぐ、メイン通りだったのであろう。また、元島集落は南風原門から浜川ガーへ下る一帯に位置していたにちがいない。元島原に旧ノトドゥンチの屋敷跡や旧家の火神の祠などの拝所が残っていないだろうか。

 南風原門への旧道を登っている途中、与勝中の野球部員が練習試合をしての帰り道として旧道を利用している。「いつも、この道と通るの?」と声をかけると、「たまに通ります」と。「お家はどこ?」「下の集落は浜屋だけど、自分の家はシートピアです」。



   ▲南風原集落からみた勝連グスク          ▲南風原の元島からみた勝連グスク


     ▲南風原集落入り口の石獅子          ▲勝連グスク南風原門への道


       ▲浜崎の寺(テラ)              ▲南風門の麓あたりにある浜川ガー


   ▲南風原集落にあるジーブ(儀保)大屋          ▲儀保掟(又為馬駄)


  ・儀保家は聞得大君の馬の口取り(馬駄)を代々務めた家。
  ・仲間家は勝連按司の御用鍛治を担った家。



【勝連グスクと同村と番所・按司・惣地頭など】

 勝連間切は1676年までは隣の与那城間切を含む範囲であった。分割する以前から勝連村(ムラ)が見えない。しかし勝連間切の同村は南風原村と見られる。それは、『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」をみると、殿(勝連城之内)、南風原巫火神での祭祀に、按司・惣地頭が関わっている。他間切の例からすると南風原村が勝連間切の同村とみてよさそうである。

 現在の南風原は勝連グスクから離れているが、勝連グスクの南方の傾斜地の元島原にあったのが、1726年に北方の現在地に移動したという。南風原の村名は、勝連グスクの南側にあったことに因んでいるにちがいない。東恩納寛惇は南風原村は勝連村だったのではないかと見ている。

 間切レベルのグスクと同村との関係を見てきた。勝連間切が分割する以前の与那城間切域までの時代、勝連間切の番所がどこにあったのか。そのときの、間切番所は南風原村(合併以前の勝連町)なのか、それとも勝連グスクの北側にあった西原村(合併以前の与那城町)なのか。両間切に二つの村名は、勝連グスクを要とした村名の呼称である。与那城間切の西原村にサキヌキノ嶽と松尾之嶽がある。「年中祭祀」を見ると、西原村に殿一つある。そこでの祭祀に按司と惣地頭は関わっている。勝連グスクの祭祀は勝連間切の南風原村の祭祀場である。それから見ると、分割以前の勝連間切の同村は南風原村とみなしてもよさそうである。

 ここでもう一つ述べておく必要があるのは、1500年代の各地の按司の首里への集居の件である。勝連グスクと関わっていた按司が首里に移り住んだとき、勝連按司と勝連惣地頭は勝連間切を管轄すると、同時に勝連グスクを祭祀場とするのは当然である。首里に移り住むが、先祖と関わるグスクへの祭祀は引き継がれたであろう。すると、勝連グスクのある同村、ここでは南風原村に記されている勝連グスク内の拝所と切り離すことができない。『琉球国由来記』(1713年)の城内玉ノミウヂ嶽や城内肝タカノ嶽などの御嶽、それと年中祭祀の勝連城内の殿と南風原巫火神の祭祀に、按司と惣地頭が関わっているのは、首里に住む按司や惣地頭と勝連グスクと同村との結びつきを示しているに違いない。

 与那城間切が分割する以前の勝連間切の番所は、移動する前の南風原村の集落内にあったのか、それともグスク内に置かれていたのか。(ただし、与那城間切が分割したときに、与那城間切の番所は当初西原村に置かれていたようである。間切が分割する以前の勝連間切番所は西原村は勝連間切の村なので、そこにあった可能性もある。与那城間切の検討はこれからなので、覆るかも!。南風原村もそうであるが、西原の村名も勝連グスクの北側に位置していることに因んだ村名のようだ!)

 『琉球国旧記』(1731年)や「薩摩藩調整図」(18世紀後半)では、勝連間切番所は平敷屋村、与那城間切番所は屋慶名村にある。当初、間切番所は同村に設置されるが、移動している場合がある。特に間切分割のある間切は、分割以前の間切の同村から移動している場合が何ヶ所かある。


       ▲勝連グスクの遠景                ▲祭祀場(トゥヌムトゥ)


   ▲グスクから見た西原の集落              ▲グスク内の拝所の一つ


  ▲グスクから見た現在の南風原の集落          ▲グスク内の拝所の一つ


   ▲グスクの南斜面(右側)が元島原         ▲二の郭の建物跡の礎石