大宜味村(2002年の大宜味村記録)                        トップへ


2002.1.16(水)

 15日(火)大宜味村の北寄りの根路銘・大宜味・大兼久・謝名城をゆく。拘束されずの調査は楽しいものがある。天気は曇。ときどき小雨。11時頃から国道58号線を北上する。大宜味村の安根(アンネ)のバス停に車を止め、今帰仁からの道筋を振り返ってみた。安根から名護方面を見て、まず左手に大宜味村の山、旧羽地、そして名護の山が幾重にと重なって見える。名護の市街地から伊差川に至る部分は低く平らとなっている。そこから右手に本部半島が伸びる。しばらく台地状の地形となっている。嵐山一帯である。嵐山の丘陵地の後方に嘉津宇岳と八重岳が一段と高くみえる。再び低い丘陵地があり、その右手に本部半島の満名川を挟んで本部町の今帰仁よりの山々と今帰仁村のパサンチヂやタキンチヂ・乙羽山の山並みへとつづく。さらに右側にいくとクボウの御嶽と馬鞍山(マンクラヤマ)の山並みが識別できる。クボウの御嶽の手前に今帰仁グスク、そして歴史文化センターがある。さらに右手に目をやると運天、手前の屋我地島の島がある。そして運古海峡(古宇利大橋の架設中)、古宇利島へと続く(写真の方が一目瞭然だが)。

 さて、長くなったがその風景は国頭や大宜味の人達にとって今帰仁グスクがどう写るのか。国頭地方の人々の内面やその言葉にある時代を映していやしないだろうか。時々、そんなことを考えながら北のムラへ足を運ぶ。「沖縄の歴史」の三山鼎立時代の話をするのだが、具体的に今帰仁グスクを拠点にした12~15世紀の北山(山北)王が国頭や羽地、名護、金武地方をどのように支配し統治していたのか。まだ、その姿が見えてこないのである。もし、国頭や羽地地方のムラやグスクが今帰仁グスクの北山王に物を献上したり、貢租を納めていたのか。あるいは今帰仁グスクへの勤めがあったのか。そういうことがあったとしたら国頭地方の役人(?)や人々は、今帰仁グスクへの勤めを果たしての帰路、大宜味の安根あたりから今帰仁グスクをあたりを振り向きながら、役目を果たして満足感を味わっていたのか、それとも重い貢租や暴君などに怒りや涙していたのか。

 普段、今帰仁グスクのすぐ側で業務していると、三山鼎立時代の今帰仁以外の人々の動きや今帰仁グスクをみる視点がどういうものであったのか気になるところである。そういうこともあって、大宜味や国頭地方へと調査の足を向けているのである。

 神アサギの調査は別に報告するので、大宜味村大宜味の「霊魂之塔」と「根謝銘グスク」について報告することにする。

 大宜味の「霊魂之塔」(戦後の建立)は前から気にしていた塔である。というのは、塔の石は今帰仁村運天にある「源為朝公上陸之跡」の碑と同質の花崗岩である。明治7年国頭間切の宜名真沖で座礁したイギリス商船の船底に敷いたバラストだという。座礁したイギリス船員の墓地が宜名真にありオランダ墓と呼んでいる。霊魂之塔の向かって右横に「大正十年十一月大宜味村立之」とあり、忠魂碑建立の年である。裏面はセメントが塗られ「忠魂碑」の文字が刻まれていた跡がある。大正十一年に忠魂碑が建立され同年十二月十三日に忠魂碑の除幕式を行っている。向って左横に「元帥公爵山縣有朋」(下線部は埋まっている)とあり、揮毫は山形有朋である。因みに源為朝上陸之跡碑は元帥東郷平八郎である。その忠魂碑を利用して「霊魂之塔」を建立(戦後)してあるが、「忠魂碑」を再利用して「霊魂之塔」を。どんな議論がなされたのだろうか?
 根謝銘グスク..............


2002.1.17(木)

 (前日から続)大宜味村の役場のある大兼久から喜如嘉を通り、急ぎで謝名城へと車を走らせた。途中、国道沿いの芭蕉畑でウーハギ(荢剥ぎ)をしていた。剥いだウーを束ねたのが所々に置いてある。ウーを剥ぎ取る時期なのだろうか。夏場ウーを剥いでいる場面に立ち会ったことがあるので、必ずしもウーハギの時期は決まっているわけでもないのかもしれない。冬場が質のいい糸がとれるのかもしれない。そんな勝手なことを思い浮かべながら喜如嘉の集落を抜けて謝名城へと向った。

 かつての一名代と根謝銘もゆっくりと歩いてみたいのだが、天気と夕暮れの時間もあって根謝銘グスクへと急いだ。根謝銘グスクは大宜味村謝名城にある。根謝銘グスクは国頭地方(後の間切)の中心となったグスクである。謝名城は明治36年に根謝銘・一名代・城の三つの村から一字づつとって名付けた字名である。

 まず、ヌンドゥンチ(ノロ家)を訪ねた。とは言っても無人の建物である。各地から訪ねてくる人がいるのであろうか、お賽銭箱や芳名録が置いてあり、火神を祀ってある壁に親切に「のろ御神」と張り紙がしてある。

 根神人をなさっていた大城茂子さんが元気な頃、ヌンドゥンチで二、三度お会いしたことがある。また、歴史文化センターにも来館されたことが思い出された。ヌンドゥンチの側に「奉寄進」と彫られた香炉(二基)が置いてある。年号と寄進した人の名もある。しかし磨耗しているため判読しにくい。確か、その年号は『球陽』の記事と一致した人物と年号だったように記憶している。二、三の香炉の年号と『球陽』の記事と一致しているため「奉寄進」の香炉は旅をするときに御嶽などの拝所に寄進し、航海(旅)の安全を祈願したのではないか。帰ってきたら、無事に帰国できたことへの感謝で寄進したにちがいないと考えるようなった。その発想を授かった香炉であるため、いつも感謝している。

 ヌンドゥンチから細い道を通り、根謝銘グスクへ登った。途中に「ゑ くすく原」の原石があったが、二、三年前からその場所からなくなっている。(どこかに保管してあればいいのだが......)しばらく行くとコンクリートの祠がある。内部は二分され火神が祀られている。コンクリートの壁に「トンチニーズ」と「ウドンニーズ」とある。また「一九五二年八月改築」とある。そこから喜如嘉の集落とかつての水田地帯、その向うに大兼久の海岸が見通せる場所である。海神祭のとき、この場所から喜如嘉の海岸に向って両手をあげて御願(神送り?)をする場所でもある。

 さらにグスクの中心部への急な坂道を登っていくと神アサギへたどり着く。グスク内にある神アサギの一つである。山原には根謝銘グスクをはじめ、親川グスク(羽地)・名護グスク、そして今帰仁グスクなど代表的なグスクのいずれにもグスク内部に神アサギがある(あった)。それは神アサギやグスクを考える重要なキーワードの一つである。山原の村々の神アサギを追いかけている目的はそこにある。さらにグスクで行われている祭祀から国家成立後、国家成立以前について考える手がかりとなる(そのことについては別に述べる)。 

 さて、グスクや神アサギについては深く述べないが、根謝銘グスクは歴史文化センターの根幹に関わる考え方を生み出した場所である。「現在の祭祀や出来事を記録していくこと、その記録は歴史史料になりうる」ということ。「学問は物事をひもといていく目的ではなく、手段である」ということへつながっていくスタートの場所である。根謝銘グスクを訪れるたびに調査研究の原点に引き戻される。

 もう17年前なるだろうか。初めて謝名城の海神祭へ誘われた。調査や研究をするというものではなかった。当時、歴史を中心にまとめていたので自分自身の中で民俗学とは一線を画していた。そのため海神祭の参与観察記録をしようなど全く考えていなかったし、感心もなかったように思う。海神祭の祭祀を見学したのであるが、全く意味を解していなかったし、多分記録もとっていないであろう。根謝銘グスクでの祭祀を見学し、全く理解できなかったことがずっと頭にこびりついていた。そのことが平成元年四月からスタートした資料館(博物館)づくりへと連動していく。そのころまとめたのが「古宇利の海神祭―歴史的な視点から―」(1990年)、「今帰仁村今泊の海神祭」(1991年)である。

 17年前の根謝銘グスクでの海神祭(ウンガミ)の体験が後々の歴史文化センターの柱となる考え方や方針へと結びついていった。この頃、よく知る人は「そんなに急いで.....」と言ってくれる。有り難い言葉である。これまでいただいたものは、その地(ムラ)に人に一つ一つ返していく作業である。返すどころか、それ以上にいただくものが多い......



田港ノロ(2002.1.19:土)

 ノロに関する興味をそそる資料がある。明治36年の土地整理でノロのノロクモイ地も処分されたが、そのかわり一種の年金で補償した。昭和10年でもまだ継承されていることが確認できる資料である。今帰仁村の玉城ノロや中城ノロ、岸本ノロ、それと羽地間切仲尾や真喜屋などにも同様な資料がある。ここでは大宜味村『塩屋・ウンガミ』所収の田港ノロの「ノロクモイ襲職届(写)」を掲げておく。いずれ詳細な解説を加えることにする。

      
ノロクモイ襲職届(写)
        字田港六百八十七番地戸主
          前ノロクモイ(亡)当山ウシ
           安政六年一月一日生
        字田港六百七十二番地
          戸主勇三郎二女
        現ノロクモイ襲職者松本トヨ
          大正九年十一月二日生

    前ノロクモイ当山ウシ儀昭和八年一月丗
    一日死亡ニ付キ同人兄ノ孫トヨヘノロク
    モイ就職致シ候ニ付前ノロクモイウシノ
    死亡届旧ノロクモイノ戸籍謄本並ニ新
    旧ノロクモイ系図相添ヘ此段及御届候也
       
       昭和十年三月十二日
         字田港六八七番地同居者
         届人当山ウト
           明治二拾八年五月十九日生
       字田港六二七番地戸主勇三郎二女
       届出人ノロクモイ就職者松トヨ
          大正九年十一月二日生