1.平成19年8月4日〜5日の調査メモ

 平成19年8月4日〜5日、沖永良部島をゆく。大きな目的は明治3年まで行われていたという沖永良部島のシニグについて、シニグの流れを押さえたくての渡島であった。その前にどうしても沖永良部島のシマ(大字)の場所や名称、そして歴史的な変遷を把握していないと理解できないことが、多いことに気づかされる。まずは、三つの間切と方、そして明治41年以降から現在に至る大字(ムラ)について頭に入れることから。

 1857年以前は起源は定かではないが、木枇留・大城・徳時の三間切があり、安永元年(1857)に同じく三間切であるが、喜美留・大城・久志検の間切となる。各間切に村を色分けしてみると、間切の境界線は必ずしも必要としていなかったようである。三間切が管轄する村は沖永良部島全域に散在する形である。沖縄本島;における近世の間切と村との関係は、間切の領域とする村は間切内に連続(隣接)している。ところが、沖永良部島と与論島では、そうではなく散在している。もしかすると、古琉球の間切と村との関係は、沖永良部や与論と同様な形態をとっていた可能性もある。

 1857年の「方」になると、方の領内に村が連続する形をとっている。

【正保国絵図】(1644年)の(沖)永良部島の情報(小地名まで)


  「琉球国絵図史料集第一集―正保国絵図及び関連史料」所収より
           (沖縄県教育委員会)


・永良部島
 ・きびる間切 ・きびる間切之内あぜふ村 ・大城間切 ・大城間切之内和村 ・大城間切之内下平川村
 ・時徳間切 ・徳時間切之内西目村 ・徳時間切之内ぢな村

 ・おかミ山((4) ・池(11) ・きひる濱 ・やぎにや崎 ・和泊 ・あまた川 

■1857年以前の間切と村


【大城間切(11ケ村)
  @和泊 A和 B大城 C赤嶺 D多田平 E後蘭 F下城 G田皆 H島尻 I屋子母 
  J瀬利覚

【喜美留間切】(14ケ村)
  @手々知名 A出花 B畦布 C根折 D玉城 E内城 F瀬名 G永嶺 H上城 I大津勘 
  J知名 K上平川 L下平川 M皆川

【久志検間切】(11ケ村)
  @喜美留 A国頭 B西原 C古里 D久志検 E余多 F屋者 G芦清良 H黒貫 I徳時 
  J馬鹿


     ■大城間切の村  喜美留間切の村  久志検間切の村

      バックの「沖永良部島全図写本」(『和泊町誌』より)

■1857年以降の「方」の村

【和泊方】
(14ケ村)(ゴシックは与人役所が置かれた村)
 @和泊 A手々知名 B喜美留 C国頭 D西原 E出花 F畦布 G根折 H内城 I大城 
  J皆川 K古里 L玉城 M和

【東 方】(11ケ村)
 @余多 A屋者 B上平川 C下平川 D芦清良 E黒貫 F瀬良覚 G知名 H屋子母 
  I大津勘 J徳時

【西 方】(11ケ村)
 @瀬名 A永嶺 B田皆 C馬鹿(正名) D島尻 E下城 F上城 G田舎平(谷山) H後蘭 
  I久志検 J赤嶺



      和泊方の村     東方の村   ■西方の村    
     バックの「沖永良部島全図写本」(『和泊町誌』より)

 その一つに城のつく字名が多いこと。それから整理することに。1857(安政4)年に和泊方・東方・西方の三つの方に区分される。明治41年に和泊村と知名村に区分される。1857年から明治41年の間、島全体が12分担、6分担、さらに3分担へと村の分担の変化がある。

2.沖永良部の「城」のつく村(大字)
 まず、頭を悩ませたのは「城」のつく6つの大字があり、場所の特定と位置関係、それと読みが中々頭に刻むことができないでいる。少し整理することに。( )内は現在の読み。

 @大城(おおじろ)
 A玉城(たまじろ)
 B内城(うちじろ)
 C上城(かみしろ)
 D下城(しもじろ)
 E新城(しんじょう)

  (工事中)

3.世の主ロードとシニグ
 沖永良部島の「世之主ロード」を素直に辿ってみた。まだ、詳細な検討を加えたわけではないが、『沖永良部島郷土史資料』(和泊町)所収の「維新前に於ける本島城籠(しにぐ)祭の内容」と同書の「世乃主由緒書」がベースになっている印象を持っている。場所の特定が第一の目的なので、ポイントにある説明板をそのまま掲載させていただいた。

  (工事中)

@ユワヌ浜
 説明板に「世之主時代(14〜15世紀)に琉球や他の島々と交易した港である。琉球の古い歌「おもろさうし」にも謡われて、ユワヌ浜が交易地として栄え、世之主の勢力を支えていたことが推察できる。」とある。


        ▲ユワヌ浜の様子                ▲ユワヌ浜の説明板

A中寿神社
 「この地は世之主の家来が琉球中山王の和睦船を軍船と誤って合図した所といわれている。世之主自害の責任を感じて切腹した家来の遺骨がこの地に葬られていたので、供養のため地主が昭和2年に建立した神社である。」とある。


  ▲屋敷の中に中寿神社がある            ▲門に掲げられている説明板

B皆川のシニグドー(和泊町皆川)
 説明板に「シニグ祭のとき、世之主が休息したところであるという伝説が残っている。近くにバンドゥルという地名があり、見張り番をしていた所という伝説もある。シニグ祭は世之主時代以前から行われている神祭である。」とある。


        ▲皆川のシニグドウ               ▲シニグドゥ付近

C大城シヌグドゥ

 立てられている説明板に「シニグ祭のとき、世之主が馬をとめて休息したところといわれている。古くはシニグ祭に神酒(ミショウという)を差し上げる儀式が行われた祭場であり、神聖な地であったと思われる。」とある。


   ▲大城のシヌグドゥ(和泊町大城)           ▲大城のシヌグドゥの説明板

Dフバドゥ(和泊町玉城)
 世の主が最初に館を構えた場所だという。説明板に「世之主が沖永良部島で最初に館を構えたのが、この地であったと伝えられている。フバ(ビロウ)は、沖縄の島々においては神の降りる樹木であるといわれ、神聖な場所に生えている植物である。」とある。


   ▲世之主加那志御館之跡の碑           ▲側の広場は玉城小学校跡地

Eウファチジ(和泊町内城)
 世之主神社が近くにある。説明板に「世之主が自害した地と言われ、最後にこの地で遺体が葬られていたという。近くにノーシグシク跡・ヘンダチジ跡・ウンチヂ・ナイバガマ等世之主にまつわる遺跡がある。」とある。



F世之主神社(世之主の居城跡)(知名町内城)




Gウファ世之主の墓(知名町内城)



H後蘭孫八の墓・ヌルバンドー
 説明板に「道をはさんで南と北に石囲いの古い墓が一つある。道の北側の孫八の居城跡、入口にある墓は孫八の墓で、南側の小高い岩の上にある墓はヌルバンドーといいノロの墓である。」とある。



I孫八城跡


Jタシキ俣
説明板に「この地は、その昔後蘭孫八と西目国内兵佐が世之主から呼びだされて登城した折りに争った所で、その大きな立ち石は西目国内兵衛佐が大刀を振り降ろしたときに割れたものと云われている。」とある。近くに新しい説明板が掲げられている。

 


知名町下城の世之主神社
 世之主の生誕の地と言われている。



 


2.平成18年7月23日〜25日の調査メモ 

 平成18年6月23日(金)〜25日(日)まで鹿児島県沖永良部島にゆく。三日間にかけての調査メモである。ここでの「まとめ」は参与観察記録をベースしている。現場での観察記録なので、随時訂正及び補足していく。整理するにあたり参考文献も参照。

 今回の踏査は、大字の集落を中心とした。沖永良部島の集落を見ていくキーワードを探すことも目的の一つである。そこに古琉球の集落形態の痕跡が伺えないか。集落を形成する場合、本質的に持っている特質なども。

 平成18年7月22日(土)と23日(日)沖永良部島の補足調査を行う。随時追補することに。
 
【道の島の琉球的ものの禁止】
 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。

   ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
     ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
          琉球から請けることを禁止する。(寛永19年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
          視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
          謁して辞令を貰っていたという) 
    ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁
         する。
    ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
    ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
 

 【口語訳】
  毎年薩摩へ年貢米を納めるのは當琉球にとっては大そう損亡のように表面は見えるが、詰まりは
  當国の大へんな利益になっている。その次第は誠に筆紙に尽くしがたい理由が存する。というのは
  昔當国は政道もそれ程確立せず又農民も耕作方面に油断があり何かにつけ不自由でいかにも気
  ままの風俗がわるく蔓延りそれに世がわり(革命)騒ぎも度々あって万民が苦しんだいきさつは言
  葉で言いあらわせない位だったが、薩摩の命令にしたがってから此の方は風俗も善くなり農民も
  耕作方にひとしお精を入れるようになり国中が何事も思いのままに達せられ今さらめでたい時代
  になった。これは畢竟薩摩のお蔭でかように幸福になったのであって筆紙に尽くしがたい厚恩と考
  えなければいけない。この事は「御教条」にも詳しく記しておいた。





【沖永良部は?】
 沖永良部は永良部である。口永良部島と区別するために「沖」をつけたという。沖永良部と表記するのは、明治になってなのかもしれない。沖永良部の「沖」はどこから見ての沖なのか重要である。もし、古琉球の時代に沖永良部島と呼ばれていたのであれば、琉球側からみて与論島の後方にある島としての読み取れる。同じ永良部島が屋久島の北西の位置にある。永良部島が二つあり、区別するために「口」と「沖」をつけたという。時代的には新しく、薩摩からみた呼称である。

 古琉球(1609年以前)の『おもろさうし』で、
   一 ゑらぶ、やむまたけ、
     おさんする、かみがみ
     あんまぶて、
     此と、わたしよわれ、
   又 はなれ、やむまたけ
                (13−196)

   一 ゑらぶ、まこはつが、
     たまのきやく、たかべて
     ひといちよは、
     すかまうちに、はりやせ、
   又 はなれ、まこはつ、
     たまの
                  (13−115)
 「ゑらぶ」とあり、永良部は古琉球以前からの呼称である。また『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)には、沖永良部島のことを「恵羅武嶋」とあり、その頃から「えらぶ」である。また『正保国絵図』(1644年頃)では「永良部嶋」である。沖が付くのようになったのは、その後である。宮古の伊良部島も「永良部嶋」とあり、同様な語義かと思われる。その沖永良部の語義は「えらぶ」である。その「えらぶ」が何かということになる。魚のエラブ(イラブ:ブタイ)チャーに因んだ地名だろうか。島の形が似ている、あるいはエラブがよく獲れる島であるとか。


【トゥールバカ】
 沖永良部島をゆくとトゥール墓が気になる。琉球形式の墓だと言われている。琉球形式の墓に間違いないであろうが、トゥールが気になる。崖や岩を横に掘り込んだ墓のことを指している。世之主墓(内城)やイニャートゥ墓(新城)やアーニマガヤの墓(知名町赤嶺)が掘り込み式としてはトゥール墓である。

 トゥールであるが、わたしが知る限り石灯籠のことをイシドゥールといい、石づくりの焚字炉があるが、石灯籠に似ていることからトゥールと呼んでいる。そこを管理していた家がトゥルバンヤー(灯籠番家)の屋号を持っている。もしかしたら、沖永良部島の横への掘り込み式の墓は、四角に掘り込んだところが石灯籠の胴部に似ていることに由来しているのではないか。それより古い墓の形式として洞窟や半洞窟を利用した墓ではないか。

 世之主墓やイニャートゥ墓、アーニマガヤの墓はトゥール墓(横堀り式墓)であるが、沖永良部島の支配者の墓である。トゥール墓も支配者クラスの墓なのか、それと一般的な人々の墓がどうなっているのか。海岸の崖や岩陰の洞窟を利用していたのか。気になるところである。

  いろいろ考えてみたが、以下の記録をみると沖永良部島の墓の変遷
  がみえてくる。琉球と同様、洞窟や岩や岸を掘り込んで、石を積み、石
  屋のように木の扉をつくり戸口で閉める形式があり墓屋と呼んでいたよ
  うである。それが悪臭を放ち不潔なので埋葬するようになったと。

【墓所の儀】
  明治15年墓所の儀和泊、手々知名、西原は数百年前より埋葬其の
  他は洞籠(窟?)墓(岩岸を掘りあるいは石を築き石屋の如く木扉を
  造り戸口占む、又墓屋ともいう)へ葬りしを夫では悪臭不潔の害ある
  に依り総て埋葬すべき旨支庁長より命令ありて埋墓に改定。

【主な参考文献】
 ・『鹿児島県の地名』(平凡社)
 ・「エラブの地名伝承」(沖永良部島郷土研究会)
 ・『和泊町誌』
  ・『 知名町誌』
 ・「沖永良部島調査報告書」(沖縄国際大学南島文化研究所)(1981年発行)
 ・『日本庶民生活史料集成』(27巻)三一書房
  ・おもろさうし



【和泊町】

@喜美留

 沖永良部の間切の一つ喜美留間切がある。琉球的に言えば喜美留間切の同村が喜美留である。その痕跡が見出せないか。

 クラゴー(暗川)は地下を流れる川のことと説明がある。クラゴーが使用されていた時代の苦労話が次々と・・・・。



A国 頭
・クンジェー→沖縄ではクンジャン
・クラゴー→地下の鍾乳洞の湧水(・・・ゴーは沖縄ではハーやカー)
・クンジェーヤタロウ→世之主の家来だという。
・シュウジゴー→集落東側の海岸。世之主と関わる伝説あり。
・国頭崎→「正保琉球国絵図」に国頭崎とある。
・おかミ山→「正保琉球国絵図」の丘陵地におかミ山とある(ウタキ?)。
        溜池が記されている。(東部では一番高いところ)
・国頭村は1857年に久志検間切から和泊方になる。
・「李朝実録」の世祖14年条(1790年)に国頭村とあり、国頭村の高甫と他村4人
 が朝鮮に漂着する。
・1862年に前川(メーゴー)に溜池が開削される。
・明治10年に国頭小学校が創設される。
・明治31年に国頭小学校は現在地に移転する。
・明治に岬神社が建立される。
・学校の名木ガジマルがある。
・沖永良部空港あり。
・集落は沖永良部島の東部の半島状になった中央部に形成される。
・集落の旧道はクモの巣状か。
・空港周辺に溜池がいくつも建設中。
・集落の北側の海岸にフーチャ(吹き抜けの洞窟)がある。


 ▲国頭小学校内のガヂマルの大木(全景)         ▲校内のガヂマル


  ▲大規模の耳付池(溜池)の様子        ▲国頭集落内の屋敷囲いの石垣


B西 原
 西原の字名は沖永良部島の北側に位置することに由来するか。沖縄同様、西(ニシ)は北を指した地名である。1694年頃、西原村に唐船が漂着し、111人のうち一人が死亡する。薩摩の山川港に送られる。
 シニグドーがあり、シニグのとき神酒をつくる竈石(ウヮーマ:火神?)があり祭られている。





C出 花




D伊 延



D畦 布
あぜふ:和泊町)

 
急激な崖の下にワンジョーという湧泉あり。
 大和城(源為朝が畦布に上陸し住んだ跡地。源為朝の末裔の義本王が当地
 にきて、按司として住んだのが大和城だという)
 「きびる間切之内あぜふ村」とある。
 断崖に横穴掘込式古墳(トゥール墓)が数ヶ所にある。

 
畦布に森家(旧家)がある。庭に500年とも言われているソテツがある。百田、百畑あり。屋号「アガリ」の速水為広家にも神衣装・曲玉ありという(『のろ調査資料』宮城栄昌調査)。
   ・水晶頚殊72粒(大42、小30)所持
   ・勾玉(戦前持ち出され不明)
   ・絵がき御羽(神羽)一着(一件四方位)
   ・神衣装二着
   ・帯
   ・シヌグ旗(大小二梳
   ・扇(約40cm、鳳凰?)
   ・カンザシ(約15cm、金製)
   ・朱塗り木製円筒箱

 『琉球服装の研究』橋本千恵子著
 森家所蔵
   ・袷□衣(二枚)
   ・ノボリ旗
 速水家
   ・袷男物表衣
   ・単衣□衣





   ▲数ヶ所に横穴掘込墓(畦布)         ▲手前の右側には現在の墓地



E和(和泊町)

 シマアタイ・メーマアタイ・ミームラアタイの三つの集落からなる。メーガーに竿津川が合流する。ここでの「・・・アタイ」が集落を区分する呼称ではないかと考えている。沖縄の「・・・アタイ」とは異なるようだ。沖縄の「・・・アタイ」は集落を区分する呼称ではなく、集落の中心部や重要部を呼ぶ場合が多い。だから一集落に一アタイしかない。和では三つあるので、集落を区分する呼称とみている。

 シマアタイは集落の発祥地(大島や元島)あたり、メーマアタイはシマアタイからみた前方のあたりの集落、ミームラアタイは新しく分かれてできた集落部分を指しているのであろう。ここでのアタイは「・・・辺り」ではないか。

F根 折ねおり:和泊町)


G玉 城
 玉城区公民館の前の広場は玉城小学校跡地のようだ。玉城がニャートゥと呼ばれているようだが、ニャートゥとは? 広場の向こう側にフバドー跡があり、ノロの祭祀場ではないかと。玉城集落は島の中央部に位置し台地上にある。フバドーは14世紀に世之主がフバドーに館を構えていたという。フバドーのフバはクバ(ビロウ)、ドーは高台の平たいところ。世の主と関わる伝承や祭祀場をもつ集落である。

 集落の近くを石橋川が流れが近くにニャートゥユシリの馬の蹄の跡と呼ばれる窪み石があるようだ。ニャートゥは玉城、ユシリは人物名(玉城のユシリ)で、世の主と関わる人物のようである。またトゥヌチも世の主と関わる旧家で世の主の恋人でミトガネに差し上げて帯が残っているという。また、栄家や伊井家はウヒャー家のようでヒャー(百)が気になる(「エラブの地名伝承:和泊町玉城」)参照。



H内 城


「世乃主由緒書」宗武重所蔵
 沖永良部島先主、世之主かなし幼名真松千代王子
右御由緒先祖より申伝之趣左条之通り。
一、琉球国の儀、往古者中山南山北山と三山為被成御在城由、北山王の儀は今帰仁城主にて
  琉球国の中より国頭九ケ間切其の外、伊江島、伊平屋島、与論島、徳之島、大島、喜界島迄
  御領分にて御座候由、北山の二男右真松千代王子の儀は沖永良部島為御領分被下御渡海
  の上玉城村金の塔(ふばとう)え御館を構へ被成候由、左候処大城村川内の百と申すもの御
  召列毎々魚猟に古里村の下、与和海え御座越海上より右川内の百当分の古城地を指し、彼
  地の儀は大城村の地面に御座候につき、世乃主かなしの御居城為御築可被遊段申し上候処
  忝被思召旨の御返答にて、則ち其比後蘭村え居宅を構へ罷居候後蘭孫八と申すものへ城築
  方被仰付三年目に城致成就夫れより御居城と相成候


一、世乃主かなし御奥方の儀は、中山王の姫にて御名前真照間兼之前と申唱候由
一、本琉球の儀三山御威勢を争ひ度々合戦之有然処北山今帰仁城之儀は中山之大将本部太原
  と申すものより被攻亡され南山も落城終には中山一統に相成為由、右に就て世の主かなし事頼
  むなき小島にて鬱々として被成御座候折柄中山より和睦の使船数艘渡海有之候由、未実否御
  間届も不被成此方事北山之二男にて候得ば中山より軍船相違無之候、左候へば小島を以て大
  国へ難敵と直と奥方を始め御嫡子其の外無残御差違へ御自害の由


   ▲世之主の墓(二つ目の門)         ▲岩を掘り込んだ墓室


      ▲内城にある世之主神    ▲世之主神社のある森(グスク跡地?)

I大城
J瀬名
K永嶺
L皆川
M古里
N谷山

O後蘭






P具志検
Q赤嶺


【知名町】
@余多
A屋者
B上平川
C下平川
D芦清良
E黒貫
F瀬利覚
(小米)
G知名

H屋子母
 屋子母に殿家・神屋・ワーテ(高田姓)の三旧家があり、百(ヒャー)田、百(ヒャー)畑を所有している。殿家は没落しているという。これらの家からノロ・根神・百が出たのであろうと。殿家が旧ノロ家ではないか。

 大坪(平?)家は平氏の落人と称し、平姓を名乗る。具民(陽氏祖)、久米氏(前氏祖)は代々与人役を世襲している。大坪家には平安統の記した「世之主由緒書」がある。
  世之主かなし由緒書(嘉永三年・宗武重所蔵)
  世之主由緒書(嘉永三年・平安統) 上と同一文書?
 
 ワーテ家(高田姓)はユタを世襲している。かつて百(ヒャー)家であったか?
 ノロが関わった祭祀は、シヌグのみ(9〜10月の乙酉)。

 安政2年以来弾圧を受け、明治2年廃仏毀釈で壊滅し、シヌグ祭も廃止される。

I大津勘
J徳時





K住吉(島尻)
L正名(馬鹿村)
M田皆
N下城
O上城
 上城に要氏一族があり、世之主の末裔という。
P新城

Q赤 嶺

アーニマガヤ



 



      沖永良部島

        
        ―平成19年8月4日〜5日の調査ノートから―

         ―平成18年7月23日〜25日の調査ノートから―

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