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 これまで「沖縄の歴史」と関わるテーマでまとめ、そして報告してきた。しかし、腰を据えて歴史書や資料に目を通す機会がなかった。『沖縄の歴史 補遺伝説』(島袋源一郎著)(昭和8年)に興味深い資料を引き出す手がかりとなる記述が数多くあり、その元資料にあたりたく、ここに記事を掲げ、その手掛かりにしていきたい。また、その出来事や記事と関わる資料を添付してみる。通史的というより、個々の出来事を確認するのが主な目的。


【沖縄の歴史 補遺伝説・琉球百話(島袋源一郎著)
         『沖縄の歴史 補遺伝説』等より  
 ・島津氏の琉球入
  (1609年)
  慶長十四年二月、義久・義弘・家久の三公琉球征伐の議を決し、軍律十三章を定め、樺山権佐衛門久高を以て大将とし平田太郎左衛門増宗を副将として総勢三千余人戦艦百余艘に打乗り七島の舟子小松吉兵衛等を先導とし、二十一日前軍鹿児島を発した。義弘・家久・両将を送って山川港に至り、義弘密かに久高に論し、那覇は防備必ず厳重なるべければ、宜しく不意に他港より侵入せよと。久高旨を拝し三月四日山川を発し、七日大島に至り、久高は津津代港、増宗は西間切より攻撃した。
 此の時笠利の大親真牛三千人を率い柵を海岸に設けて防戦したが、薩軍は種子島(銃)を放って攻め掛けたので敵すること能はず、遂に捕へられ島民皆降った。名瀬・焼内(今の宇検)の両地でも大親を大将として奮戦したが共に敗れ、大島駐在のの琉使那覇之大屋子降服して許された。
 徳之島では掟役の兄弟佐武良金・思呉良佐金節を堅くし膂力無双にして降らず都城附近の士六七人を殺したが、遂に火縄銃のために島民三百余人殪された。
 二十一日進んで沖之永良部島を攻撃した。島主嶮岨を恃んで防備をなさず、遂に衆を率いて降った。
 二十三日琉球船洋中を過ぎたので伊集院久元をして之を追はしめたが及ばず、二十四日久高等舟洋中をを過ぎたので伊集院久元をして之を追はしめたが及ばず、二十四日久高等舟師を発して那覇港へ向った。先ず七島の小舟六七艘を遣はして其の動静を偵察せしめしに、港口には鐵鎖を張り警備果たして厳重にして薩兵の来るを見て齊しく銃を発した。久高其の破り難きを知り、二十五日船を返して運天港に向った。

    (続く)
 
 ・琉球政治の要訣
   (『琉球百話』より)
 
  蔡温の遺著を見ると、彼は口癖の如く「御政道の本法」という語を用いてある。要するに琉球の政治に携わるものは何人と雖も、此の政道の本法を諒解していなければならなかった。然らば偉人蔡温は如何なる具体的条件を以て所謂「本法」としていたか。彼は之を箇条書にして示しているのではないけれど、彼の著書独物語・家内物語等を熟読吟味して見ると明瞭に知ることが出来る。以下之を列記して見る。
 一、自給自足を国土長久の計とすること。
    国の成立には木・火・土・金・水の五行必要なり、金は薩州よりの
   輸入にて足るも木は絶対に輸入すべからず、故に農業・林業等琉
   球にて消費すべき衣食住の物資はすべて之を当地にて産出し敢
   て移入せざる方針を樹立すること。
 二、日支両国に対する対策を講ずること。
  (1)江戸幕府に対する謝恩使(琉球王継統の時謝恩をなす)、慶賀
    使(将軍の継統又は儲君誕生等祝賀の場合)、年頭使等派遣に対
    する準備をなすべきこと。
  (2)薩州島津公に対する謝恩・慶賀・年頭使派遣並びに琉球王国太
    子上国(薩摩留学)に関する準備をなすこと。
  (3)支那に対し進貢・冊封及び世替(支那の革命)等に関する対策を
    講ずること。
 三、風旱に対する政策を樹立すること。
  (1)暴風林・抱護林・潮垣・猪垣等の造成をなすこと。
  (2)公儀及び間切に於いて備荒貯蓄をなすこと。
  (3)平時に於いて食糧の貯蓄・甘藷・大根等の切干又は蔬菜類の
    干葉、蘇鉄の植栽等飢饉の対策を考慮すること。
 四、人口増加に関する対策を講ずること。
   衣食住の充実を図ること。
 五、地頭以下士農工商の心得を励行せしむること、殊に上司は一般
   官民の規範たるべきこと。
  (1)各自の職務及職業に精励し、奉公第一主義を奉ずること。
  (2)身持を謹み殊に酒・色欲・財欲の戒を守るべきこと。
 
  附
  (1)南蛮取締を怠らざること(異国船に対する対策)
  (2)国防に注意し、武道(弓・鉄砲等)の稽古を怠らざること。
  (3)通商貿易のため農閑期等を利用して各浦の浚渫及び築港を
   なすべきこと。
 
 ・遠見番と烽火
       
(297~8頁)
  (正保元年:1644年)
 正保元年(1644年)より此の航路及び薩州航路に当っている諸島即ち久米・慶良間・粟国・渡名喜・伊平屋・伊江並に本島各地の要所に烽火台を設け、遠見番という係員を置いて海上を展望せしめ、烽火を挙げて冠船・進貢船・薩州船等の入港を首里王城へ通報することになっていた。若し二隻通過する場合は二炬を点じ、一隻の場合は一炬、外国船の時は三炬を点じていた。
 先ず久米島で烽火を挙げたら渡名喜島で之を受けて応火し、次は慶良間の座間味之を受け同じく渡名喜島に之を知らせ、更に同前島に受けて小録に通じ、小録より直ちに王城に通報する定めであった。若し之を懈怠して烽火を挙げなかったら厳罰に処せられるのであった。
 此の烽火によって一両日前渡唐船又は薩州船の来るのがわかるので夫々通達をなし、当日は大小の役員、使者の家族親戚は勿論町民総出という有様で那覇埠頭を埋め、右往左往の大混雑を極めるのであった。「唐船ドーイー」という俗歌は実に此の歓喜の絶曲で壮快よく其の気分を表現している。
 慶長役後の支那貿易は薩摩のために仲介の労をとっている様なものであった。船が帰着すると、厳めしく大小を差した薩摩の検閲使が、島津氏の紋所を描いた旗を立てた小舟に乗って、唐船へ乗り込み貨物を検めて封印を押していた。

▲国頭村比地の遠見A

▲国頭村比地の遠見A

▲国頭村比地の遠見B

▲国頭村比地の遠見B
・ 明・清の乱と琉球の態度
    (317~319頁)
 承応二年(1653年)王尚質より今帰仁間切中城のろくもいに賜はりし辞令に、隆武八年と記されている。是れ即ち靖南王の稱へた年号で清の福臨の順治十年に当っているのから、考えれば或いは順治を称え或いは隆武を用い其の間和見的態度にいたるものと推定することが出来る。
隆武八年(1653年)の辞令書
 
   寛文9年(1669)首里城火災後正殿の工事未だ全く畢らず尚貞即位の禮を大美御殿にて行い、11年落成を告げ2月本城に遷った。之より前王城は板葺であったが、此の時初めて国殿を瓦葺に改めた。其の改築の用材は進貢船の材木と同じく国頭地方の山から出していたのである。
 寛文9年(1669)尚貞王就位の時、国中官民毎年四月朔日より夏服を着し、十月朔日より冬服に改める
衣替の制を定めた。
 
   天和元年(1681)中山門・臨海寺社共に板葺を改めて瓦葺とした。  
 国王巡視(尚穆)  安永6年(1777)9月尚穆、杣山御見分のため官僚を率い読谷山・越来・美里・具志川・北谷及び国頭九ヶ間切を巡察し10月帰城せられた。  
・明治維新慶賀使の上京
     (381~388頁) 
 明治5年七月国主尚泰は皇政復古明治維新の慶賀使として王叔伊江王子(尚健)を正使、宜湾親方朝保(向有恒)を福使、日帳主取喜屋武親雲上(向維新)を賛議官として東京へ遣はした。一行凡そ三十名汽船豊瑞丸に乗じ那覇を発して薩摩に赴き、八月汽船三邦丸で鹿児島を出立し九月東京へ着いた。朝廷之を寵遇し、華族毛利氏の邸宅をあけて宿泊せしめ、毎日官費を以て盛膳を賜い、屢々勝景の地へ招宴歓待せられ、一同天恩の優渥なるに感泣せざるはなかった。
  九月十四日、使臣等表及方物を奉じて入観した。其の表文に曰く、
   恭しく惟みるに匣

   明治五年壬申年七月十九日   琉球 尚泰謹奏
 上る所の方物は下の如し。
  一、唐筆参匣 一、唐墨一匣 一、唐硯に方 一、唐畫一軸

   (工事中)
 


 明治5年(光緒元年)に上京した羽地間切真喜屋村の人物が寄進した香炉。
     
     
・金川銅山
(沖縄県国頭郡志)

羽地(ハニジ・パニジ)は「金地」に由来する?
 字伊佐川(羽地間切:現在名護市)の南方に金川銅山あり。明治二十九年九月尚侯爵家に於て之が試掘の認可を受け、大阪の人加藤久次郎を雇入れて実検せしめしに、銅鉱含有の見込なれども成績なく、翌二十一年三月鉱山家山田譲を聘用して其有望なる判定を得、同年十月山本勝太郎外職夫十余名を率ゐ来り、採鉱洗練して、大に好成績を収め、二十二年三月借区許可せらる。二十五年十一月金川ナンシャー川合せて四万四千四百十九坪となる。開始以来同年八月迄の起業費実に四万参千百八拾壱円を要せりという。其後十数年継続せしが、一時中止し数年前より再び採掘しつつあり。
口碑に依れば昔金川の銅山にて円覚寺の大鐘を鋳造せしが、後薩摩に取り上げられ、彼地に於て突きしに、
   金がーどんどん 伊佐川珍らさ 元の沖縄に帰ろうやーひやー
と響きたり云々、又此の地旧藩時代以前より金川と称し来りしより察するに、前代亦採掘せられしにあらざるか。

 (羽地間切の
羽地(ハニジ・パニジ)は金地に由来する可能性が大きい。羽地大川に由来するとされるが、それ以前は大浦川で改修後に羽地大川となる。羽地の名称はオモロや1622年の辞令書でも登場するので、それ以前に名づけられている。銅山や金川に因んだ可能性が大である。金属のことをハニやカニという。金川は羽地間切の中心地田井等に近い場所へ流れる)
  ▲金川銅山跡之碑


  ▲銅の鉱石


▲金川の上流に銅山