大宜味村のムラ・シマ                 トップヘ



「沖縄の地域文化論」(5回) レジュメ        2010.10.26

      仲原 弘哲

 大宜味村には①津波②江③宮城④大保⑤白浜⑥押川⑦田港⑧屋古 ⑨塩屋 ⑩上原 ⑪根路銘 ⑫大宜味 ⑬大兼久 ⑭饒波 ⑮喜如嘉 ⑯謝名城 ⑰田嘉里の17の字(アザ)がある。大宜味村は明治41年まで大宜味間切、1673年に国頭間切と羽地間切の一部をとって創設された間切である。それらのムラ・シマにどのような歴史・文化があるのだろうか。各ムラ・シマを見るキーワードをあげ、そこから歴史・文化を拾いあげてみる。

 これまで①古宇利島②国頭村比地③国頭村奥間のように各ムラ・シマを構成する数多くのキーワードをあげてみた。今回は大宜味村の南側8つのムラ・シマを紹介する。

 大宜味村は北に国頭村、南に名護市、東側に東村がある。大宜味間切は明治41年まで大宜味間切、そして今回紹介する津波村・田港村・塩屋村・根謝銘村は字・・・となる。大宜味(田港)間切は1673年(康煕12)に国頭間切と羽地間切の一部をとって新設された。

17世紀末頃に、田港間切から大宜味間切となる。その時、田港村にあった番所が大宜味村に移転したため、間切名は大宜味間切となったと見られる。大宜味間切の番所は田港村、大宜味村、さらに塩屋村へ移動、役場(番所)明治44年に塩屋から大宜味へ移転し、現在に至る。

 大宜味でよく知られているのはウンガミ(海神祭)である。塩屋(塩屋・屋古・田港・白浜・根路銘は大正時代塩屋から分離)で行われている。大宜味は集落を区分する呼称で「・・・バール」が分布し特徴を見せている。また、津波(平南)・渡野喜屋(白浜)・田港・屋古・塩屋・根謝銘(公民館に組み込まれる)に神アサギがあり、山原のムラ・シマの特徴を見せる。

 大宜味村は村指定文化財第一号(2005年)として「猪垣(ヤマシシガキ)」を指定した。1776年から1782年にかけて、塩屋、屋古前田、田港、渡野喜屋(白浜)、根路銘等人々や間切役人の指揮で猪垣の大々的な補修を行った。喜如嘉から津波まで全長約30Kmの猪垣があった。村指定となったのは1・3キロメートルである。
  イノシシは頻繁に里に下りてきているようだ。イノシシにとって住みにくい世の中になっているのだろう。大宜味村全域を囲む「十里の長城」は、改修、保全を繰り返してきたが、今では放置されたままである。猪垣を見ることは人々の関わりを考えさせられるテーマである。

 首里王府は大宜味間切と国頭間切は砂糖キビ生産高地域ではなかったため、その制限はなされていなかった。薩摩への専売品であったウッチンの栽培が義務づけられた。また、首里に住む惣地頭や脇地頭などへ、猪の枝肉や燻製を盆や正月に献上していた。




大宜味村津波・白浜

津波(つは)二つのムラの合併―
 津波のムラ名について、津波が何度か押し寄せたことに由来する(『大宜味村史』)、宮城真治は『沖縄地名考』で「津波のことをシパという。シは岩、パはファと同義でハル(原)、即ち耕地。津波は岩原、岩の多い耕地の義」だと解いている。補足するように『琉球国由来記』(1713年)の神名のすすもりのおいべ、石もりのおいべから岩石、石丘だと述べている。実に津波グスクや神アサギ後方の森は岩山だらけである。

     津波は津波村と平南村が合併しているので神アサギは二つある(屋根は一つだが、内部で向かって左が津波神アサギ、右が平南神アサギ)。

白浜(しらはま)塩屋と渡野喜屋(白浜)との渡し舟―
 塩屋と渡野喜屋(現在の白浜)間の渡し舟の往来はいつ頃からはっきりしないようだ。明治14年上杉県令が大宜味間切を視察した際、渡し舟について間切から廃藩置県で不合理が生じている旨報告している。これまで渡し船の運航が夫役で間に合わしていたが、廃藩置県以後、それが出来なくなって困っていたという。ならば運賃をとってどうかと県令から提案される。その後、渡し舟(伝馬舟)は村費で建造して「渡し賃」を取ることになった。渡し番は塩屋と渡野喜屋から、それぞれ出していた。





















大宜味村大保・押川

③大 保(たいほ)―大宜味と東海岸をつなぐムラ・シマ―
 大宜味村の南に、また塩屋湾の奥まった場所に位置する。世帯数34、人口128人の小規模の字である。集落の後部は急な傾斜地となっていて防災のための施設が施されている。東村の平良の東海岸と約4kmの地狭となっている。戦前まで集落はアガリンバール(東の方)とイリンバール(西の方)とに区分されていたが、戦後三班にわけられるようになった。共同売店や公民館、拝所は集落の南側にオミヤがあり、そこに慰霊塔がある。墓地は大保川を越えた対岸にあり(集落の西側)、イクサンザチ(戦ん地)と呼ばれ、今帰仁城主(北山王)ハニジと田港の根謝銘屋の先祖が戦った場所、中山が北山を滅ぼした時、北山の敗兵と中山の兵が戦った場所、島津の軍兵が上陸した場所の伝承のある場所である。

④押 川(おしかわ)―山間部にある集落―
山間地に集落がある。集落は国道58号線から数キロ山手にはいた所にある。集落は大保川と大工又川の上流部の谷間にある(標高100m内外)。バスを利用するには大保川の河口まで下りて来なければならない。字の祭祀は昭和24年に造られた公民館前のお宮の前で行われる。





大宜味村田港・屋古

⑤田港田港間切創設時の番所があったムラ
 1673年に国頭間切と羽地間切の村の一部で田港間切が創設される。後に大宜味間切と改称(1682年頃)される。田港間切創設当時、同間切の番所は田港村に置かれたとみられる。大宜味間切の番所は田港村大宜味村塩屋村字大宜味へ移っている。

   ・1731年には大宜味村にある。

    (1695年頃に田港間切から大宜味間切に改称された時に番所を   田港村から大宜味村へ移動したか)

   ・1760年には塩屋村番所を大宜味村から塩屋村へ移転している)

   ・1925年(大正14)字大宜味に役場を新築し落成する。
  ・田港の御嶽イビナー(イビの庭)(お宮)お宮の中の香炉/
   田港の集落田港の神アサギ田港ヌルドゥンチ跡

       (神人が乗る籠:三カ所にあった。最近は一ヶ所)

   ・ウンガミの時、ハーリーが行われる塩屋が眺めれる位置にある。


⑥屋古塩屋での海神祭を行う 
  屋古は田港に隣接し、塩屋湾に面したムラである。田港ノロ管轄のムラの一つ。塩屋のウンガミ(海神祭)に参加するムラの一つである。屋古の神アサギの側に海神祭に使われるハーリーを納める小屋がある。集落の上の方に神アサギがある。旧盆明けの初の亥の日に行われるウンガミ。田港・屋古・塩屋、白浜(渡野喜屋)の神人が行う。









大宜味村塩屋・根路銘

塩屋―大宜味間切の番所があったムラ
 1673年に大宜味間切(1665年当初は田港間切)は創設される。田港間切時代の番所は田港村、大宜味間切と改称された時には大宜味村(ムラ)に、さらに乾隆年間の絵図には塩屋村に番所が置かれていたという。おそらく番所が移動するたびに、港も移動したにちがいない。塩屋に番所があった時代は塩屋湾に面して港が置かれていたのであろう。明治44年以前は長く塩屋に番所(役場)が置かれ、番所の前(塩屋湾)が港として機能していたのであろう。
 1853年12月25日ペリー提督が率いる三隻のひとつプリマス号の一行が塩屋湾にやってきている。『大宜味村史』(通史)(84-85頁)に次のように記してある。(SHAH BAYの地図を作成してある)12月30日に塩屋湾を引き揚げている。

⑧根路銘―山原船が30隻も・・・―
  国道58号線から根路銘の集落に入り(旧道)、さらに山手に向かうとムラヤー(公民館)があり、最近新築されている。さらに行くと、左右に道が分かれるが、そこにハーリー小屋がある。ハーリーが行われているようで、小屋に三隻のハーリー舟が逆さに置かれている。左手(喜名へ)にいくと、カーがある。シマナハガーと呼んでいるようだ。シマナハは集落の中央部のこと。根路銘の神アサギは公民館に組み込まれ、ウンジャミなどの祭祀は公民館内で行われる。










(続く)