琉球と与論・沖永良部・徳之島の三島

 

                                             

 4、5年前、大学の研究会で報告したレジュメです。2011年後期の大学の講義で「沖永良部島のムラ・シマ」として学生に報告したものです。与論島部分は、与論島で講演したものです。2011年10月27日から徳之島に行くので、徳之島部分は昨年徳之島天城町で講演しています。それを思い出して会議に出席することに。

      (工事中)

 

はじめに

1.島津軍の琉球進攻と三島(1609年)

2.西郷隆盛の流刑と奄美・徳之島・沖永良部島

3.古琉球の辞令書と三島

4.北山と与論・沖永良部

5.グスクと三島


    (工事中)
6.

7.

おわりに

 

 

はじめに

 講演のタイトルが「琉球と与論・沖永良部・徳之島の三島」なので、その一つ沖永良部島と琉球との関わりについて少し整理することに。
  与論・沖永良部・徳之島の三島には、近世にも「まきり」(間切)の行政区分がある。その詳細について、よくわからないが、行政区分の呼称は古琉球の時代からのものである。奄美に残る古琉球の辞令書が20点余あり、首里王府から発給されたものである。間切という行政区分は首里王府の地方や奄美を統治した姿だとみている。三島について具体的に見ていくが、奄美大島と喜界島まで掲げておくことにする。そこから何が見えてくるのか?
 徳之島には徳之島町、天城町、伊仙町の三つの町がある。それぞれの町には十数の字(ムラ)がある。近世のムラは50近い数である。それを実質一日で踏査することになる。そのため、今日は徳之島情報を頭に叩き込む。

 3月の下旬、与論島、沖永良部島、徳之島を含め、古琉球の琉球国(沖縄)との関わりで話をすることに。徳之島行きは講義のレジュメづくりも兼ねているような。徳之島に古琉球の痕跡をどう遺しているか。それらを目と肌で確かめるためでもある。どんな結論を導き出せるのか。
 もう一つは、やはり1609年の島津軍の琉球進攻である。3月25日26日は今帰仁間切の運天(古宇利島)。27日は今帰仁グスクに攻め入る。そこでの出来事は、今帰仁グスクのその後の歴史に重要な影響を及ぼしている。琉球進攻は沖縄(琉球)の歴史を大きく変えていった事件であった。
 
 3月20日に徳之島の秋徳につく。出港したが風がなく22日亀津に着く。そこで山狩りをしている。奄美大島で討伐、亀津で山狩り、今帰仁グスクは無人、首里で射撃戦が行われている。島津軍の琉球進攻は、日本の中世の合戦規模のものでは全くない。その様相は何を意味しているのか。17世紀初期の琉球の人口規模を知りたいのは、琉球側の戦力がどれ程のものだったのかにつながってくる。蔡温が述べているように20万人だとすると、17世紀初頭は15万人ほどか(17世紀初頭イモの導入があり、食料が安定し人口は増え、蔡温の頃には20万人まで増えていったか)。今から二年後には島津軍の琉球進攻から400年となる。それに合わせて県は何か行うのであろうか。

 そのようなことを思い描きながら徳之島を回ってみることに!集落やグスクや沖縄に見られる地名の地も見てみたいものだが、正味一日しかない・・・。

 

1.島津軍の琉球進攻と徳之島(1609年)

 1609年の薩摩軍の琉球進攻は琉球と与論以北の奄美の島々の歴史を区切る大きな出来事である。薩摩軍の琉球進攻後、与論以北は薩摩の領地として割譲し現在に至る。それを境に琉球的なものがどう残ったのか。そして薩摩の統治で消されたもの、統治されながらも根強く残ってきたものにどういうのがあるのか。それを究めていくには、この薩摩軍の琉球進攻は避けて通れるものではなかろう。

1609年3月、島津軍勢の琉球進攻で南下していく途中徳之島の秋徳(亀徳)と亀津での出来事が『琉球渡日々記』に次のように記してある。

  「廿日の卯の刻に、西のこみを出船にと、とくの島の秋徳と申す湊に申の刻計りに着き申し候。
  船道廿五里にて候。廿一日に出船で、十里ほど乗り出したら、少し向い風気味になり、結局はと
  れになったので、引き返し、亀沢(津か)というところに着いた。・・・・廿二日に、深い山を、

おおぜいで山狩りをした。そのわけは亀沢の役人たちが山にかくれているのを狩出すためであった。
  役人を狩り出し、特別に琉球入番衆主取を、致し方なく逮捕された。この人は三司官のうち、謝
  納(名か)の婿である。黄鉢巻の位をもった人を捕らえたのである。」

 秋徳は今の亀徳に改称されたようである。亀徳大橋の向こう側の橋詰がその場所である。亀徳を出たが向かい風で亀津に戻り、そこで山狩をしている。そのようなことを思い描きながらの上陸であった。

 島津側の『琉球渡日々記』で徳之島での出来事は上の通りであるが、徳之島でどうとらえているか興味がある。琉球側の『喜安日記』では「三月十日、兵船大島へ着津して島の軍勢弱して敗軍すと飛脚到来す」と記しているのみである。

  「亀津の役人が逃隠れたので山狩が行われている。この軍勢に対して秋徳の掟兄弟が棒を尖
   らしたり、竹に包丁や山刀を括り付けて敵を打ち殺せと指示しているほか、粟粥をたぎらし

て坂や道に流して火傷を負わせるよう命じている」

 
     ▲大橋の橋詰めあたりが亀徳           ▲なごみの岬からみた亀徳・亀津方面

 
  
     ▲右手の丘手前あたりが亀津           ▲フェリーからみた亀津の遠景

2.西郷隆盛の流刑と奄美・徳之島・沖永良部島

沖永良部島同様、徳之島でも西郷が上陸した湾屋湊(天城町)、そして岡前の謫居跡地など記念とすべき場所としている。近年でも顕彰碑を建立している。それを受け入れる島、受け入れ伝えようとする島の人々。西郷の場合は幕末の薩摩からの有力な人物を受け入れ伝えて行こうとするものである。

【徳之島と西郷隆盛】

 徳之島の天城町岡前に「岡前西郷公園」があり、そこに「西郷南洲顕彰碑」(平成6年)が建立されている。近くに文久2年(1862)6月西郷隆盛が奄美島(龍郷町龍郷)から徳之島に流謫された際、岡本家に身を寄せていたという。西郷が身を寄せていた謫居跡に以下の説明文がある。碑の側に力石が三個置かれている。近くには「岡前曖(あつかい)役所跡」がある。

西郷南洲顕彰碑(平成6年)(天城町岡前)
  徳之島にも遅ればせながら 西郷南洲顕彰碑が建設された 西郷田隆盛は国父島津久光公
  の怒りにふれ 奄美大島 徳之島 沖永良部島に遠島(流刑)の身となったのであるが 時代
  を経て現段階では すでに他島には謫居跡や牢舎が立派に復元されていたのに対し この島
  にはいまだ それに比するものがなかった
  下級武士の出ながら明治維新の最大の功労者となった西郷がこの地で過ごした日々から
  一三二年の年月が過ぎた今日 当時流人の島として位置づけられた徳之島 外面はともかく
  文化的 精神的側面でいかほどの変化を遂げてきたか そして今後ずれどこへ行くべきか 深く
  思いをめぐらす よすがとすべくふるさと・・・

西郷南洲先生謫居之跡(天城町岡前)
  「世界的偉人、西郷南洲先生が藩主島津久光公の不蒙り、そのために遠島の身となり、苦難の
  生活をされたのでありますが、わが天城町の湾屋岡前で約三ヶ月間生活をされております。翁
  は足軽二名に警護されて現在の浅間湾屋に上陸したのでは文久二年(一八六二年)六月十日
  です ちょうど翁が三十六歳のときでありました 翁はこの日 同地の農家湾直道(現山口直為祖
  父)宅にはいり一週間止宿、その後岡前アツカイ惣横目琉仲為のすすめをいれて六月十七日
  岡前の松田勝伝方に移り ここで六十九日間を過ごしておりおられます 即ちこの地が翁の偉業
  をたたえ その遺徳を偲ぶとともに翁のすぐれた訓が後世に継承されることを切に願うもので

ございます・・・

 
  ▲西郷隆盛が謫居した跡地にある碑       ▲碑のそばに置かれている力石

 
  ▲西郷南洲先生謫居之跡の説明板     ▲岡前曖(あつかい)役所跡(天城町岡前)

 

【沖永良部島と西郷隆盛】

 沖永良部島の伊延港に「西郷隆盛上陸之地」の碑がある。側の説明板に以下のように記してある。

  「文久2年(1862)閏8月16日薩摩藩島津久光公の怒りにふれ流罪となった。西郷隆盛は
   この地に上陸した。しかし沖永良部には西郷を囲う牢屋がなかったので牢ができるまでの
   2日間は船牢で過ごした。牢が出来上がって連れにきた代官蔦原孫助や付役福山清茂、
   間切横目土持政照らが乗馬をすすめたが「いや、私は牢に入る身、もう二度と土を踏むこ
   とがないと思いますので、どうか和泊まで歩かせてください」と言って和泊まで一里の道を
   歩いた」

 必ずしも西郷隆盛の人物に関心があるわけではない。西郷隆盛が上陸した地に碑を建てた人々に関心がある。どうも奄美の島々の人々の底流に島に渡ってきた有力者や技術集団などがやってくると、それを伝承や碑などで、その痕跡を残していこうとする習性をもった人々ではないか。幕末に流罪となった西郷隆盛であるが、上陸地に碑を建立し、また和泊には牢屋などが再建され今でも残してある。
 西郷隆盛の流罪は幕末のことである。奄美→徳之島→沖永良部島にその足跡をしっかりと残してある。西郷の足跡を人々は単に残しているわけではなさそうである。そのことを前提に考えてみると・・・。

 
▲伊延港近くに「西郷隆盛上陸の地」の説明板と上陸之碑【沖永良部和泊町の南洲神社と牢屋】

 

 

 

2.徳之島に漂着した船とその処理

  徳之島に漂着した船の記事をひろってみた。徳之島で唐船や異国船などの漂着船をどう処理したか。その中で大琉球に送り届けたり、送還している。島津の琉球進攻後の徳之島と琉球との関係が見えてくる。与論島以北を薩摩に割譲しながら琉球との関わりを堅持し続けている。そのスタンスが漂着船の処理だけでなく、琉球的な習俗や統治を近世まで残しているのではないか。

【徳之島】

・亀津村(徳之島町) 
    弘化5年亀津村沖に異国船が一艘現れ、橋船で七人が上陸、津口番所に来た後本船に戻り、
    大島方面に向かった(「徳之島前録帳」)。
・秋徳村(亀徳)(徳之島町)
    明和5年(1768)尾母村下の浦に漂着した唐船の破損した船尾を秋徳湊で修理し乗組員を帰
    帆させる。
    文化6年(1809)三月井之川湊沖に漂着した唐船一艘を牽引し秋徳湊に回し4月琉球に送り届
    ける。
・和瀬村(徳之島町)
   享保18年(1733)和瀬村下に唐船一艘が漂着、船は破損していたので捨て流し、乗組員15人
    を陸に揚げ琉球に赴く予定。
・尾母村(徳之島町)
    明和5年(1768)尾母村の宇良御口浦に唐船が一艘が漂着し、船尾が破損しているので
    秋徳湊で修理し、乗組員26人は帰帆した。
    安政4年御口浦に薩摩山川の船が着船するが途中大風波によって難船、帆柱を切り捨て漂着
    したという。
・井之川湊(徳之島町)
   文化6年井之川港沖に唐船が一艘漂着する。
・母間村(徳之島町)
    安永2年(1773)村の沖合いに唐船一艘が漂着したが、乗組員58人は水・薪を積んで帰帆し
    た。
・山村(徳之島町)
   宝栄6年(1709)頃、金間湊(山湊)に南京船が一艘漂着、また享保6年(1721)にも金間浜に唐
   船が一艘漂着。
    嘉永2年(1849)に朝鮮人7人が乗り込んだ船が漂着、山村に11日ほど召し置き、そこから秋
    徳に移し、さらに本琉球に送還している。

 
                             ▲徳之島町の東海岸
・手々村

(徳之島町)
    元文4年(1739)手々村地崎の干瀬に朝鮮人25人乗りの船が乗り上げ破損したため、西目
    間切の与人達が本琉球に送還する。
・阿布木名村(天城町)
   弘化5年(1848)八月の大風の中、阿布木名村の干瀬に琉球に向かう観宝丸二十三反帆船
   が破船する。
・平土野湊(天城町)
   京和3年(1803)西目間切の湾屋湊を通過したオランダ船が平土野浦に向かい乗組員(84人)
   の広東人と徳之島の通事与人の兼久村の瀏献が対応、本琉球に向かう。
・湾屋湊(天城町)
   享保20年(1735)「澄屋泊り」(湾屋湾?)に朝鮮人男18人、女8人、赤子2人が乗り組んだ船が
   漂着する。
   明和3年(1766)面縄間切の浅間村の浦に唐船(23人)が漂着、湾屋湊から本琉球に送り届ける。
   享和3年(1803)オランダ船が湾屋湊を通過し土野浦に向かう。
・岡前村(天城町)
   弘化4年(1847)沖に異国船(アメリカ船か)が一艘、上陸して鉄砲で鳥などを撃って遊んだ
   あと本船に戻り西の方に向かう。

 
       ▲平土野港(天城町)                  ▲伊仙町喜念あたりからみた朝焼け

 

【沖永良部島】

 

 

【与論島】

 

 

3.古琉球の辞令書と三島の「まきり(間切)」

 近世以前の古琉球の時代、首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島に残っている。徳之島に一点、残念ながら沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が出てくる可能性は十分にある。

 古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名の間切があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)をつけて間違わないようにしている。
 
  ・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
  ・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
  ・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
  ・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
     (受給者不明)(年欠)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
  ・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)

 ・与論島(近世後期に大水間切と東間切があったという。
   【正保琉球国絵図】に間切名出てこない。
    ①大水間切 ②東間切
 ・沖永良部島(安政4年:1857に方制、明治41:1908年に町村制)
   【正保琉球国絵図】
    ①大城間切 ②きびる間切 ③徳時間切
     大城間切/喜美留間切/久志検間切
  安政4年に方制が敷かれ、和泊方・東方・西方となる。
 ・徳之島
   【正保琉球国絵図】
    ①東間切 ②西目間切 ③面縄間切
 ・奄美大島
    【正保琉球国絵図】
     ①笠利間切 ②名瀬間切 ③焼内間切 ④西間切 ⑤東間切 
     ⑥住用間切 ⑦古見間切
 ・喜界島
    【正保琉球国絵図】
     ①志戸桶間切 ②東間切 ③西目間切 ④わん間切 ⑤荒木間切

 

 

 

 沖永良部島のシニグロードは、三山の時代に北山からやってきた山北王の三男一族が世の主神社(グスク)までゆく経路を辿っているのではないか。沖永良部島だけでなく、与論島や徳之島の人々の底流に、どうも有力者がやってくると、その痕跡を残していこうとする観念をもった人々が住む島なのかもしれない。その視点で見ると、弥生・縄文の人々の流れ、三山時代の流れ、三山統一後の流れ、薩摩の琉球侵攻以後の流れ。幾筋もの流れを今に伝えているような気がしてならない。

 

4.琉球の痕跡をとしての地名や役職名など
 徳之島の村名をみると沖縄本島と共通する村名(地名)がいくつもある。その共通性は何だろうか?マギリ(間切)やグスク(城)やアジ(按司)やノロは琉球側から入り込んだ語彙なのか?一つひとつ紐解きする余裕がないが・・・

 伊仙町に面縄がある。面縄にあるウンノーグスクに恩納城が充てられている。沖縄本島の恩納村の恩納と同義だろうか。恩納村の恩納(ウンナー)は「大きな広場」と解しているが、ウンノーは「大きなイノー」のことか。あるいはノーとナーは地域空間をあらわす義でウンノーもオンナも「大きな広場」なのだろうか。

       【徳之島】                      【沖縄本島】
   ・久志村(徳之島町)          ←→久志村(久志間切・現在名護市・クシ)
   ・母間村(徳之島町・ブマ)      ←→部間村(久志間切・現在名護市・ブマ)
    ・宮城村(徳之島町花徳・ミヤグスク) ←→宮城(ミヤグスク・ミヤギ)
    ・手々村(徳之島町手々・ティティ)  ←→手々(今帰仁村湧川・テテ)
    ・兼久村(天城町・カネク)      ←→兼久村(名護市・カネク)
   ・平土野(天城町・ヘトノ)      ←→辺土名(国頭村・ヘントナ)?
   ・瀬滝村(天城町・セタキ)      ←→瀬嵩(名護市:セタケ)
   ・与名間村(天城町・ユナマ)     ←→与那嶺(今帰仁村・ユナミ)?
   ・面縄村(伊仙町・ウンノー・恩納)  ←→恩納(恩納村・ウンナ)?
   ・糸木名村(伊仙町・イチキナ)    ←→イチョシナ(今帰仁村兼次・平敷)
   ・大城跡(天城町松原・ウフグスク)   ←→大城(ウフグスク)
   ・喜念(伊仙町・キネン)       ←→知念(現在南城市・チネン)? 
   ・グスク               ←→グスク
   ・間切                ←→間切(マギリ)
   ・八重竿村(伊仙町・竿・ソー)    ←→川竿・長竿(今帰仁村湧川・・・ソー)
   ・掟袋・里袋(・・・ブク)      ←→田袋(ターブク)
   ・河地(カワチ)           ←→幸地
   ・按司(アジ)            ←→按司(アジ) 
   ・玉城(タマグスク)         ←→玉城(タマグスク・タモーシ)

 
       ▲面縄の集落(上縄面より)            ▲上面縄への途中にある拝所

 
       
▲面縄高千穂神社                  ▲上面縄から眺めた面縄の集落

5.琉球からのノロ辞令

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

 古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたという石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

・徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日


    ▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より

6.三島に残る琉球と関わる伝承


 
                  ▲屋敷内に置かれている掟大八の力石(天城町手々)

 7.道の島の琉球的ものの禁止

 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。

   ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
    ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
          琉球から請けることを禁止する。(寛永19年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
          視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
          謁して辞令を貰っていたという) 
    ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁
         する。
    ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
    ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
 
 【口語訳】
  毎年薩摩へ年貢米を納めるのは當琉球にとっては大そう損亡のように表面は見えるが、詰まりは
  當国の大へんな利益になっている。その次第は誠に筆紙に尽くしがたい理由が存する。というのは
  昔當国は政道もそれ程確立せず又農民も耕作方面に油断があり何かにつけ不自由でいかにも気
  ままの風俗がわるく蔓延りそれに世がわり(革命)騒ぎも度々あって万民が苦しんだいきさつは言
  葉で言いあらわせない位だったが、薩摩の命令にしたがってから此の方は風俗も善くなり農民も
  耕作方にひとしお精を入れるようになり国中が何事も思いのままに達せられ今さらめでたい時代
  になった。これは畢竟薩摩のお蔭でかように幸福になったのであって筆紙に尽くしがたい厚恩と考
  えなければいけない。この事は「御教条」にも詳しく記しておいた。

【沖永良部は?】
 沖永良部は永良部である。口永良部島と区別するために「沖」をつけたという。沖永良部と表記するのは、明治になってなのかもしれない。沖永良部の「沖」はどこから見ての沖なのか重要である。もし、古琉球の時代に沖永良部島と呼ばれていたのであれば、琉球側からみて与論島の後方にある島としての読み取れる。同じ永良部島が屋久島の北西の位置にある。永良部島が二つあり、区別するために「口」と「沖」をつけたという。時代的には新しく、薩摩からみた呼称である。

 古琉球(1609年以前)の『おもろさうし』で、
   一 ゑらぶ、やむまたけ、
     おさんする、かみがみ
     あんまぶて、
     此と、わたしよわれ、
   又 はなれ、やむまたけ
                (13-196)

   一 ゑらぶ、まこはつが、
     たまのきやく、たかべて
     ひといちよは、
     すかまうちに、はりやせ、
   又 はなれ、まこはつ、
     たまの
                  (13-115)
 「ゑらぶ」とあり、永良部は古琉球以前からの呼称である。また『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)には、沖永良部島のことを「恵羅武嶋」とあり、その頃から「えらぶ」である。また『正保国絵図』(1644年頃)では「永良部嶋」である。沖が付くのようになったのは、その後である。宮古の伊良部島も「永良部嶋」とあり、同様な語義かと思われる。その沖永良部の語義は「えらぶ」である。その「えらぶ」が何かということになる。魚のエラブ(イラブ:ブタイ)チャーに因んだ地名だろうか。島の形が似ている、あるいはエラブがよく獲れる島であるとか。


【トゥールバカ】
 沖永良部島をゆくとトゥール墓が気になる。琉球形式の墓だと言われている。琉球形式の墓に間違いないであろうが、トゥールが気になる。崖や岩を横に掘り込んだ墓のことを指している。世之主墓(内城)やイニャートゥ墓(新城)やアーニマガヤの墓(知名町赤嶺)が掘り込み式としてはトゥール墓である。

 トゥールであるが、わたしが知る限り石灯籠のことをイシドゥールといい、石づくりの焚字炉があるが、石灯籠に似ていることからトゥールと呼んでいる。そこを管理していた家がトゥルバンヤー(灯籠番家)の屋号を持っている。もしかしたら、沖永良部島の横への掘り込み式の墓は、四角に掘り込んだところが石灯籠の胴部に似ていることに由来しているのではないか。それより古い墓の形式として洞窟や半洞窟を利用した墓ではないか。

 世之主墓やイニャートゥ墓、アーニマガヤの墓はトゥール墓(横堀り式墓)であるが、沖永良部島の支配者の墓である。トゥール墓も支配者クラスの墓なのか、それと一般的な人々の墓がどうなっているのか。海岸の崖や岩陰の洞窟を利用していたのか。気になるところである。

  いろいろ考えてみたが、以下の記録をみると沖永良部島の墓の変遷
  がみえてくる。琉球と同様、洞窟や岩や岸を掘り込んで、石を積み、石
  屋のように木の扉をつくり戸口で閉める形式があり墓屋と呼んでいたよ
  うである。それが悪臭を放ち不潔なので埋葬するようになったと。

【墓所の儀】
  明治15年墓所の儀和泊、手々知名、西原は数百年前より埋葬其の
  他は洞籠(窟?)墓(岩岸を掘りあるいは石を築き石屋の如く木扉を
  造り戸口占む、又墓屋ともいう)へ葬りしを夫では悪臭不潔の害ある
  に依り総て埋葬すべき旨支庁長より命令ありて埋墓に改定。

 

【和泊町】

①喜美留

 沖永良部の間切の一つ喜美留間切がある。琉球的に言えば喜美留間切の同村が喜美留である。その痕跡が見出せないか。

 クラゴー(暗川)は地下を流れる川のことと説明がある。クラゴーが使用されていた時代の苦労話が次々と・・・・。

 


②国 頭

・クンジェー→沖縄ではクンジャン
・クラゴー→地下の鍾乳洞の湧水(・・・ゴーは沖縄ではハーやカー)
・クンジェーヤタロウ→世之主の家来だという。
・シュウジゴー→集落東側の海岸。世之主と関わる伝説あり。
・国頭崎→「正保琉球国絵図」に国頭崎とある。
・おかミ山→「正保琉球国絵図」の丘陵地におかミ山とある(ウタキ?)。
        溜池が記されている。(東部では一番高いところ)
・国頭村は1857年に久志検間切から和泊方になる。
・「李朝実録」の世祖14年条(1790年)に国頭村とあり、国頭村の高甫と他村4人
 が朝鮮に漂着する。
・1862年に前川(メーゴー)に溜池が開削される。
・明治10年に国頭小学校が創設される。
・明治31年に国頭小学校は現在地に移転する。
・明治に岬神社が建立される。
・学校の名木ガジマルがある。
・沖永良部空港あり。
・集落は沖永良部島の東部の半島状になった中央部に形成される。
・集落の旧道はクモの巣状か。
・空港周辺に溜池がいくつも建設中。
・集落の北側の海岸にフーチャ(吹き抜けの洞窟)がある。

  
     ▲国頭小学校内のガヂマルの大木(全景)                ▲校内のガヂマル

 
  
   ▲大規模の耳付池(溜池)の様子               ▲国頭集落内の屋敷囲いの石垣

 

③西 原
 西原の字名は沖永良部島の北側に位置することに由来するか。沖縄同様、西(ニシ)は北を指した地名である。1694年頃、西原村に唐船が漂着し、111人のうち一人が死亡する。薩摩の山川港に送られる。
 シニグドーがあり、シニグのとき神酒をつくる竈石(ウヮーマ:火神?)があり祭られている。
 
 
 

 

④出 花

⑤伊 延
 

⑤畦 布(あぜふ:和泊町)

 急激な崖の下にワンジョーという湧泉あり。
 大和城(源為朝が畦布に上陸し住んだ跡地。源為朝の末裔の義本王が当地
 にきて、按司として住んだのが大和城だという)
 「きびる間切之内あぜふ村」とある。
 断崖に横穴掘込式古墳(トゥール墓)が数ヶ所にある。

 畦布に森家(旧家)がある。庭に500年とも言われているソテツがある。百田、百畑あり。屋号「アガリ」の速水為広家にも神衣装・曲玉ありという(『のろ調査資料』宮城栄昌調査)。
   ・水晶頚殊72粒(大42、小30)所持
   ・勾玉(戦前持ち出され不明)
   ・絵がき御羽(神羽)一着(一件四方位)
   ・神衣装二着
   ・帯
   ・シヌグ旗(大小二梳
   ・扇(約40cm、鳳凰?)
   ・カンザシ(約15cm、金製)
   ・朱塗り木製円筒箱

 『琉球服装の研究』橋本千恵子著
 森家所蔵
   ・袷□衣(二枚)
   ・ノボリ旗
 速水家
   ・袷男物表衣
   ・単衣□衣

 
 
    ▲数ヶ所に横穴掘込墓(畦布)             ▲手前の右側には現在の墓地



⑥和(和泊町)
 シマアタイ・メーマアタイ・ミームラアタイの三つの集落からなる。メーガーに竿津川が合流する。ここでの「・・・アタイ」が集落を区分する呼称ではないかと考えている。沖縄の「・・・アタイ」とは異なるようだ。沖縄の「・・・アタイ」は集落を区分する呼称ではなく、集落の中心部や重要部を呼ぶ場合が多い。だから一集落に一アタイしかない。和では三つあるので、集落を区分する呼称とみている。

 シマアタイは集落の発祥地(大島や元島)あたり、メーマアタイはシマアタイからみた前方のあたりの集落、ミームラアタイは新しく分かれてできた集落部分を指しているのであろう。ここでのアタイは「・・・辺り」ではないか。

⑦根 折(ねおり:和泊町)

 
⑧玉 城
 玉城区公民館の前の広場は玉城小学校跡地のようだ。玉城がニャートゥと呼ばれているようだが、ニャートゥとは? 広場の向こう側にフバドー跡があり、ノロの祭祀場ではないかと。玉城集落は島の中央部に位置し台地上にある。フバドーは14世紀に世之主がフバドーに館を構えていたという。フバドーのフバはクバ(ビロウ)、ドーは高台の平たいところ。世の主と関わる伝承や祭祀場をもつ集落である。

 集落の近くを石橋川が流れが近くにニャートゥユシリの馬の蹄の跡と呼ばれる窪み石があるようだ。ニャートゥは玉城、ユシリは人物名(玉城のユシリ)で、世の主と関わる人物のようである。またトゥヌチも世の主と関わる旧家で世の主の恋人でミトガネに差し上げて帯が残っているという。また、栄家や伊井家はウヒャー家のようでヒャー(百)が気になる(「エラブの地名伝承:和泊町玉城」)参照。

 

⑨内城

「世乃主由緒書」宗武重所蔵
 沖永良部島先主、世之主かなし幼名真松千代王子
右御由緒先祖より申伝之趣左条之通り。
一、琉球国の儀、往古者中山南山北山と三山為被成御在城由、北山王の儀は今帰仁城主にて
  琉球国の中より国頭九ケ間切其の外、伊江島、伊平屋島、与論島、徳之島、大島、喜界島迄
  御領分にて御座候由、北山の二男右真松千代王子の儀は沖永良部島為御領分被下御渡海
  の上玉城村金の塔(ふばとう)え御館を構へ被成候由、左候処大城村川内の百と申すもの御
  召列毎々魚猟に古里村の下、与和海え御座越海上より右川内の百当分の古城地を指し、彼
  地の儀は大城村の地面に御座候につき、世乃主かなしの御居城為御築可被遊段申し上候処
  忝被思召旨の御返答にて、則ち其比後蘭村え居宅を構へ罷居候後蘭孫八と申すものへ城築
  方被仰付三年目に城致成就夫れより御居城と相成候

一、世乃主かなし御奥方の儀は、中山王の姫にて御名前真照間兼之前と申唱候由
一、本琉球の儀三山御威勢を争ひ度々合戦之有然処北山今帰仁城之儀は中山之大将本部太原
  と申すものより被攻亡され南山も落城終には中山一統に相成為由、右に就て世の主かなし事頼
  むなき小島にて鬱々として被成御座候折柄中山より和睦の使船数艘渡海有之候由、未実否御
  間届も不被成此方事北山之二男にて候得ば中山より軍船相違無之候、左候へば小島を以て大
  国へ難敵と直と奥方を始め御嫡子其の外無残御差違へ御自害の由

 
    ▲世之主の墓(二つ目の門)             ▲岩を掘り込んだ墓室

 
      ▲内城にある世之主神     ▲世之主神社のある森(グスク跡地?)

⑩大城
⑪瀬名
⑫永嶺
⑬皆川
⑭古里
⑮谷山

⑯後蘭



 
 

⑰具志検
⑱赤嶺


【知名町】
①余多
②屋者
③上平川
④下平川
⑤芦清良
⑥黒貫
⑦瀬利覚
(小米)
⑧知名

⑨屋子母
 屋子母に殿家・神屋・ワーテ(高田姓)の三旧家があり、百(ヒャー)田、百(ヒャー)畑を所有している。殿家は没落しているという。これらの家からノロ・根神・百が出たのであろうと。殿家が旧ノロ家ではないか。

 大坪(平?)家は平氏の落人と称し、平姓を名乗る。具民(陽氏祖)、久米氏(前氏祖)は代々与人役を世襲している。大坪家には平安統の記した「世之主由緒書」がある。
  世之主かなし由緒書(嘉永三年・宗武重所蔵)
  世之主由緒書(嘉永三年・平安統) 上と同一文書?
 
 ワーテ家(高田姓)はユタを世襲している。かつて百(ヒャー)家であったか?
 ノロが関わった祭祀は、シヌグのみ(9~10月の乙酉)。

 安政2年以来弾圧を受け、明治2年廃仏毀釈で壊滅し、シヌグ祭も廃止される。

⑩大津勘
⑪徳時

 

 

⑫住吉(島尻)
⑬正名
⑭田皆
⑮下城
⑯上城
 上城に要氏一族があり、世之主の末裔という。
⑰新城

⑱赤 嶺
アーニマガヤ

 

与論島に首里王府から発給された古辞令書の辞令書が確認されていない。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりが具体的に見えて面白いのだが。

【古琉球の時代からの針突(パジチ・ハジチ)】

 与論島と琉球との関わりで、気になるのが針突である。パジチあるいはハジチと呼ばれている。それは手の甲や指に墨を刺すもので、模様は地域によって異なっている。針突の分布は小原一夫の調査報告を見ると喜界島から与那国島に至っている。1609年以前の琉球国全域に分布していたことになる。その起源については定かではないが、1534年の冊封使記録の『使琉球録』や1603年の袋中の『琉球神道記』に「針衝」とあるので、古琉球の時代からあった琉球国での習慣であったに違いない。1609年以降、琉球国では何度か廃止の動きがあったが、最終的に廃止されたのは、沖縄県では明治32年である。針突は琉球はもちろんのこと、1611年に分断された与論以北の奄美でも、古琉球の時代から明治まで伝えた古琉球の痕跡の一つである。

与論島以北では明治5年の廃藩置県(沖縄は明治12年)のとき針突の廃止令が出されたようだが、奄美大島は再度明治9年に出されたようである。しかし、島津の琉球進攻後も根強く続いた針突はすぐ廃止されることはなかった。与論島では明治35年まで行われていた(『与論町誌』)。古琉球の時代から1609年の島津の琉球進攻の後1611年に与論島以北を島津領とした。奄美では島津支配となるが、古琉球の時代から行われてきた針突は明治30年代まで根強く行われてきた。

 針突は喜界島から与那国島に渡る琉球国の領域で行われていたものが、政治支配の圧力はあったものの明治30年代まで根強く受け継がれてきた。1611年後島津(薩摩)支配で奄美では、琉球的なものを禁止されていくが、与論島をはじめ奄美に残った針突は、古琉球からの痕跡の一つと見てよさそうである。今では沖縄、奄美でも伝統的な針突をした女性は見られない。針突を施すと一生消えるものではない。今帰仁村でも調査した(昭和55~56年)ことがある。当時明治10年生まれの上間マツさんと13年生まれの上間タマさんの二人が完全な針突を持った方であった。


  ▲明治10年生まれの上間マツさん(故人)(昭和55年撮影)

【近世の与論の系図にみる琉球的なもの】
 『与論町誌』に収録されている系図に琉球的な役職や位階などが散見できる。それが何を意味しているのか。1611年に与論島が琉球から分断されてしまうが、系図の中に琉球国の時代の役職やノル(ノロ)などの呼称に琉球の時代の痕跡を留めているにちがいない。ここで下の役職について与論と琉球との違いを検討すべきだが、余力がないので改めて述べることに。一例をあげると与論の与人と琉球の先島の与人とは呼称は同じだが役目は異なるようだ。

【東家系図】(城)
 琉球国司・殿内・花城大主・横目・当間横目・首里主・茶花ノル・西大阿武・掟・大掟・東風平首里主・
 大阿武・内侍ノル・親部?・与人? 

【基家系図】(朝戸村)(文政3年)
 大主・花城与論主・殿内・時之百・佐渡山・掟・目指・大阿武・琉球国司・東風平首里主・西大阿武・
 大掟・茶花ノル・内侍ノル・親部?・与人?

【滝野家系図】(麦屋)
 又吉按司・花城真三郎・里子・殿内・首里主・時之百・横目・東風平首里・掟・目差・大阿武・大掟・
 大ノル・与人?・親部?

 系図とは別に『与論町誌』の旧家は琉球北山系、あるいは薩摩役人系との根強く認識されているようだ。(ただ、北山系・第一尚氏系・第二尚氏系までの区別までは充分なされていない)。琉球北山系として石嶺(石仁家)家・竹内家・稲里家・森忠義家・サービバタ・花城(ハナグスク)(第二尚氏系?)・ムッケー・殿内バタ・基家(ヤゴー一帯)・メーダ(市家)・メーガイ屋・後伊名平(ウッスーイナピャー)・前伊名平(メーイナピャー)・前川内・東間(トーマ)・クブ・川内(ホーチ)・後田ハタ(滝野家)があげられている(『与論町誌』1265頁参照)。


    ▲与論グスクからみた沖縄本島(国頭村の奥と辺戸)


  
▲明治13年生まれの上間タマさん(故人)(昭和55年撮影)


   
▲各地における針突の図柄模様『与論町誌』より

 

【近世の与論の系図にみる琉球的なもの】

 『与論町誌』に収録されている系図に琉球的な役職や位階などが散見できる。それが何を意味しているのか。1611年に与論島が琉球から分断されてしまうが、系図の中に琉球国の時代の役職やノル(ノロ)などの呼称に琉球の時代の痕跡を留めているにちがいない。ここで下の役職について与論と琉球との違いを検討すべきだが、余力がないので改めて述べることに。一例をあげると与論の与人と琉球の先島の与人とは呼称は同じだが役目は異なるようだ。

【東家系図】(城)
 琉球国司・殿内・花城大主・横目・当間横目・首里主・茶花ノル・西大阿武・掟・大掟・東風平首里主・
 大阿武・内侍ノル・親部?・与人? 

【基家系図】(朝戸村)(文政3年)
 大主・花城与論主・殿内・時之百・佐渡山・掟・目指・大阿武・琉球国司・東風平首里主・西大阿武・
 大掟・茶花ノル・内侍ノル・親部?・与人?

【滝野家系図】(麦屋)
 又吉按司・花城真三郎・里子・殿内・首里主・時之百・横目・東風平首里・掟・目差・大阿武・大掟・
 大ノル・与人?・親部?

 系図とは別に『与論町誌』の旧家は琉球北山系、あるいは薩摩役人系との根強く認識されているようだ。(ただ、北山系・第一尚氏系・第二尚氏系までの区別までは充分なされていない)。琉球北山系として石嶺(石仁家)家・竹内家・稲里家・森忠義家・サービバタ・花城(ハナグスク)(第二尚氏系?)・ムッケー・殿内バタ・基家(ヤゴー一帯)・メーダ(市家)・メーガイ屋・後伊名平(ウッスーイナピャー)・前伊名平(メーイナピャー)・前川内・東間(トーマ)・クブ・川内(ホーチ)・後田ハタ(滝野家)があげられている(『与論町誌』1265頁参照)。


     ▲与論グスクからみた沖縄本島(国頭村の奥と辺戸)

【与論島の朝戸集落】

 朝戸の集落は城の集落の北側に位置する。「城集落と朝戸集落は、どこで区別しているのですか」と朝戸で聞いてみた。「与論中学校だよ」との返事。朝戸は近世から登場する村の一つである。それからすると、城の集落とは別の集団だと考えてもよさそう。朝戸の集落の道筋も、なかなかわかりにくい。城との境界線も理解できていない中、そこは城?朝戸と何度も頭をひねってしまった。まずは、朝戸自治公民館を基点に見ていくことにした。

 朝戸の集落から上手の方が標高が高くなっている。そこには高千穂神社がある。そこから東側へと次第に低くなっていく。クモの巣状の道筋や石囲いの屋敷、そして福木囲いの屋敷が目立つのは城集落同様である。高千穂神社の位置が気になる。一帯は沖縄風に言えばウタキ(あるいはイベ)ではなかったか。高千穂神社は大和的であり、比較的新しい時代(明治以降)に作られたのであろうか。神社がつくられる前は何だったのであろうか。

 そこがウタキであったなら、朝戸集落は理にかなった集落の展開だといえそう。朝戸集落で気になったのが、按司根津栄神社である。按司は琉球の支配者であり、ニッチェーは根津栄と記されるが、琉球の男神人を務める根人ではないか。それは集落の発祥と関わる家筋である。血筋を一つとするニッチェサアクラは朝戸集落を中心に移動している。按司(アジ)や根津栄(ニッチェ)を称する一族は琉球からの移住者なのかもしれない。(各サアクラについては高橋誠一・竹盛窪両氏著の『与論島―琉球の原風景が残る島』で詳細な調査報告がなされているので是非参照を)

 また、城集落には屋ゴー(湧泉)があるのに対して、按司根津栄神社の近くに木下井がある。前日の大雨で木下井は溢れ出ていた。集落の下は鍾乳洞になっていて、屋ゴーのように地下のあちこちに水路となっていて、ところどころで地上に湧き出てくるのであろう。木下井と按司根津栄神社周辺に旧家がある。高倉のある家もそうである。

 
  ▲朝戸集落の西側の高いところにある    ▲集落の中央部にある朝戸自治公民館



 
  ▲曲がりくねった道筋と石垣の屋敷           ▲旧家にある高倉

 
            ▲按司根津栄神社の鳥居                ▲按司根津栄神社にある拝殿

 
 
        ▲井戸の側から水が湧き出ている        ▲按司根津栄神社にある拝所(墓?)

【与論グスクと城集落】

 与論グスクの東側に城の集落が発達している。グスクに接した集落と見てよさそうである。沖縄のグスクと集落の関わりで見ると、いくつかパターンがある(沖縄のグスクと集落についてはウタキと集落と一緒に別でまとめる予定)。

 ①グスク内にある集落。
     (??)
  ②グスクと接して集落がある。
   大里グスクと南風原集落、超来グスクと超来集落。
  ③グスクと接した古島集落と古島から分離した集落からなる。
   具志頭グスクの側の仲間(古島)集落と前田集落。
  ④グスクから離れて集落が形成される。
   今帰仁グスクと今帰仁ムラ集落、親泊ムラ集落。今帰仁ムラのグスクの前からの移動は
   1609年直後、親泊ムラは1609年にはすでに麓に移動している。知念グスクと知念集落、糸数
   グスクと糸数集落、名護グスクと城集落など。

 今回行った与論グスクと城集落との関係を見ると②のグスクと接した集落にあたる。その例として沖縄本島では大里グスクと南風原集落(現在八重瀬町)、越来グスクと城前集落(現在マチ的要素)(沖縄市)、伊波グスクと伊波集落(うるま市)などがある。朝戸集落も城集落の範囲と見るべきか判断つきかねている。

 与論島の城集落内を歩いていると、なかなか集落の全体像がつかめない。つまり集落の軸線が整然としていないということ。そして道筋がクモの巣状になっている。一過性の調査者には、なかなか集落の成り立ちが掴み難い。それが、グスクを拠点とした与論の城集落の成り立ちなのかもしれない。

 山原の集落を見ていく場合、ウタキ→神アサギ(広場)→集落の中央部を走る軸線がある。与論島の城集落もそう見えないか。そのような興味をもっての集落歩きをしてみた。与論スグク(ウタキ?)→城自治公民館(ヤゴー)→集落、あるいはグスク内の琴平神社とサザンクロスセンター前の鳥居→与論中学校への道筋を軸線(集落の中央線)とみるか。後者を軸線と見た場合、城自治公民館(ヤゴー)あたりの集落は、グスクの北側から城自治公民館の方へ下るように展開していったのではないか。そんな仮説を立ててみた(ただし、ここでは朝戸集落は念頭にいれていない)。
 
 通りすがりの方に、「水はどこから汲むのですか?」と訪ねると「ヤゴーだよ。公民館のすぐ近く。そこで洗濯もした」と。「すぐそこだよ」と言われたのだが、公民館を探すのに結構歩き回ってしまった。道筋がなかなか掴みにくい。やはりクモの巣状態?なり。

 
▲城(グスク)集落の中央部にある城自治公民館          ▲公民館の側にあるヤゴー

与論島に渡る前日(28日)、宜野座村の松田までゆく。宜野座村松田から金武町屋嘉まで踏査の予定が大雨で宜野座村の松田・宜野座・惣慶まで。大雨になったため金武町まで足を伸ばせず。

 宜野座村の松田の洞窟を利用した墓を何ヶ所か見てきた。洞窟や森の崖を利用した死者を葬る葬制が気になっていた。「もしかしたら、近世から近年に至る以前の葬制(風葬)ではないか」。古琉球の葬制がどうだったのか、まだ不明である。もちろん、王陵(タマウドゥン)や浦添のヨウドレ、今帰仁村の百按司墓などは王家であったり、貴族クラスの墓である。一般的な墓がどういうものだったのか。亀甲墓、掘りぬきの墓などは近世以降のものである。今帰仁村でも1600年代後半からの墓である。それ以前は、崖や森の中、あるいは洞窟を利用した墓が一般的だったのではないか。そんなことを考えていた。

 与論グスクの西側は崖になっている。グスクの南側に崖を降りる小さな道筋が整備されていた。遊歩道だろうと思いつつ降りてみた。崖の中腹に墓がある。先日行った宜野座村の松田の墓に似ている。洗儀礼は近世的な葬制だと考えている。それは一般の人々が掘り込み墓や亀甲墓の導入と時期を同じくするのではないかと。与論島や宜野座村松田の洞窟や岩陰の墓場は洗骨以前、そして掘り込み洗骨して厨子甕を納めていく墓以前のものではないかと。洗骨して厨子甕に納めていくのは、王族や貴族であって、一般の人々は洞窟や崖下などに葬っていたのであろう。すると、与論島や宜野座村松田などの風葬は、古琉球の死者を葬る習慣だったのかもしれない。このように見ていくと、与論島の与論グスクが崖の中腹や海岸の洞窟などの風葬の跡は、古琉球の葬制なのかもしれない。


 
         ▲宜野座村松田の洞窟を使った墓                    ▲洞窟墓への道

 
  ▲宜野座村松田の洞窟を利用した墓             ▲墓の内部

 
   ▲与論グスクから崖へ降りる道    ▲与論グスクの崖中腹にある墓

 
                   ▲与論グスクの崖中腹にある洞窟を利用した墓


 
                 
▲与論グスクにある現在の与論島の墓の様子

 与論島の集落の成り立ちを見ていく場合、どうしても近世から現在に至る行政村(大字)の変遷を頭に置いておく必要がある。合併と分離があるので、集落に行政村がかぶさってくるので複雑である。少し整理してみる。

 【東間切】
  ・麦屋村・・・・・与論町麦屋・東区・西区・城
  ・中間村・・・・・与論町那間
  ・茶花村・・・・・与論町茶花
  (・赤佐村・・・・与論町茶花)

 【大水(西)間切】
  ・朝戸村・・・・・与論町朝戸
  ・瀬利覚村・・・与論町立長・麦屋・城(明治21年に立長村)
  ・古里村・・・・・与論町古里

 大正6年以降に立長(旧瀬利覚)の、
   ・甲立長・・・・城
   ・乙立長・・・・立長
   ・甲麦屋・・・・城
  ・乙麦屋・・・・麦屋(大正8年に東区と西区に分離)大正9年に戸(旧朝戸村)のうち、
  ・甲足戸?・・・足戸(昭和30年に朝戸に改称) 
  ・乙足戸・・・・・叶(カノウ)

【参考文献:『与論町誌』、『鹿児島県の地名』平凡社、『与論島―琉球の原風景が残る島』高橋・竹著】

 海岸地域を回り、後ろ髪を引かれる思いで通りすぎてきた与論グスクに戻る。

【与論グスク】
 与論グスクと北山との関わりについて史料が皆無なため困難である。これまで言われていることを掲げてみる。
  ・築城は1405年~1416年だという。
  ・北山怕尼芝王の三男の王舅(オーシャン)が与論之主として来島し築城
  ・北山滅亡のため未完成
  ・グスクの西方に今帰仁系の子孫の安田墓がある。
  ・大道那太(北山之主の後裔)の墓(国頭墓)
 それらのことが史実かどうかについてはなかなか証明し難い。グスクの呼び方や高台への築城など、琉球のグスクの条件にかなっている。
 上のことが史実かどうかは別にして、与論の人々が北山の三男の王舅を派遣し、その系統だという認識は根強くもっている。そのことが国頭墓や安田墓を国頭(北山)あたりに向けて作られている。先祖を崇めたて、血筋として代々引き継がれているという観念は、史実として証明できないが、琉球の人々が根強く持っている観念である。それは根っこが一つであることから与論の人々も根強くもっている。1609年に薩摩がかぶさって400年近い歳月がたっても消え去ることなく引き継がれている(記録された史料はないのであるが)。そのことも古琉球の時代の痕跡の一つにちがいない。


 
          ▲与論グスクの石積み(近年)                ▲野面積みの石垣(後方に社殿)

 
          ▲与論グスクのテラスに土俵               ▲後世に積まれた野面積みの石垣

 
      ▲与論グスクからみた国頭(奥~辺戸)              ▲画像の中央部が与論グスク

 
  ▲ヤゴーへ降りる階段            ▲城の集落は石積の屋敷と福木が多い 

 
           ▲城の集落の道筋はクモの巣状になっている


     ▲与論グスク跡と城の集落と道筋