シリーズ(NO.1)
           船員ほけん
2002.2号掲載

    今帰仁グスクをめぐる歴史と文化

                              (今帰仁村歴史文化センター)  

1.世界遺産に登録された琉球王国9つの遺産
 
2001年12月に「琉球王国のグスク群及び関連遺産群」として今帰仁城跡・座喜味城跡・勝連城跡・中城城跡・首里城跡・園比屋武御嶽石門・識名園・玉陵・斎場御嶽の九つの資産が世界遺産に登録された。
 琉球(沖縄)は縄文・弥生時代の土器文化の影響もいくらか受けているが、ここでは沖縄の各地にグスクが発達していった時代から見ていく。城と書いてグスクと呼ぶが、その数は三百とも言われている。グスクの分布は北の喜界島から南の与那国まで、かつての琉球王国の範囲に存在する。そう考えるとグスクが琉球王国の範囲にしかない貴重な文化遺産として、世界遺産に登録されたと考えてよかろう。また、それらの城跡は歴史的に重要な文化財として国指定をうけている。

2.北山・中山・南山の鼎立から琉球王国統一へ
 
さて、グスクであるが地名として残っているグスク、御嶽、集落跡地、城壁のあるグスクなど性格が多岐に渡る。各地の小規模のグスクが次第にまとまりをなしていく。さらに中堅規模、そして沖縄本島が三つの勢力にまとまっていく。これは「沖縄の歴史」で三山鼎立時代と言う。北山・中山・南山という国を形成し、三山が中国(明国)と交易をした時代がある。琉球のグスクの発達は、カムイ焼きの須恵器や中国の陶磁器類などの外からの品々、さらに周辺の国々の国情が大きな影響を及ぼしている。


   ▲上空からみた今帰仁城跡(2001.10)        ▲今帰仁城跡の城壁     

 1416年に北山、1429年に南山が中山に滅ぼされ、琉球は中山を中心とした統一国家が形成された。中山の拠点となった浦添グスクは牧港(首里城は那覇港)、今帰仁グスクは運天港と良港を抱え、海を介して文物が移入された。三山統一後、首里王府が抱えた那覇港に三重城や屋良座森城など海外を視野に入れた特殊なグスクや天使館(冊封使が滞在中に使った中国様式の館)などが出来た。
 その中で北山(沖縄本島北部)の拠点となったのが今帰仁グスクである。出土した遺物から海外との幅広い交流を眺めることができる。北山の時代は12世紀あたりからスタートする。明国との交易のスタートは中山王の察度が1372年で、その後1380年に南山王の承察度、さらに1383年に山北王の怕尼芝が始めた。三山が統一される1429年までに琉球を統一した中山が約69回、南山が約29回、そして北山が1416年まで約18回を数える。
 北山王は怕尼芝・a・攀安知と続き、『明実録』に怕尼芝が6回、aが1回、攀安知が11回の交易回数を確認できる。その時の朝貢品は琉球側から主に馬と硫黄である。『同史料』によると明国からは鍍金銀印や暦、絹織物、衣服類、銅銭、陶磁器、船などを賜わっている。

3.今帰仁城跡から発掘された遺物に海を介した文化の流れが
 今帰仁城跡から発掘した遺物は、中国製の磁器で青磁や白磁などの碗・皿・杯・香炉・壺・水注・瓶が目立つ。黒釉陶磁・褐釉陶器・三彩・備前焼(擂鉢)・タイ陶器・ベトナム陶磁・中国の貨銭などがある。また、沖縄ではほとんど産出しない鉄は大和からの移入と思われる。鉄製品は刀子・鏃・鋏・釣り針・釘などがある。その他にヒスイの勾玉など、外来の品々がある。今帰仁グスクが明国と交易していた時代、今帰仁グスクは地元にある運天港も使っていたに違いない。1471年の『海東諸国紀』に「要津運見(天)港」とあり、運天港は重要な港として機能していたことが伺える。



▲今帰仁城跡から出土          ▲近世の面影をみせる運天港
 した中国製など陶磁器
          (『望郷沖縄』より)
                       

 このようにグスクが活発に機能していた時代、その動きの原動力となったのが海外との交易であった。外来の物と同時に文化の移入も数多くあったであろう。その痕跡を示す史料の一つに、時代は下るが首里王府発給の辞令書がある。公式文書である辞令書はひらがなで表記する一方、年号は(万暦35=1605年)中国年号を明治の初期まで用いた。表記は日本、年号は中国と、その使い分けは東シナ海に浮かぶ島国、海を介した琉球の立場を象徴しているかのようである。
 また、16世紀初頭琉球国は各地に住む按司(豪族)達を首里に集居させ中央集権国家を形成する。同時に聞得大君を頂点とする祭祀の制度化を行う。聞得大君などノロが祭祀の時に使うヒスイやメノウなどの勾玉がある。


  ▲古琉球の辞令書(文面はひらがな、年号は中国年号)
     琉球の立場を象徴しているかのようだ。


4.海の彼方からの贈り物
 勾玉などの原石のヒスイやメノウや水晶玉はどこ産なのか?勾玉は日本や韓国などの古墳から大量に出土している。勾玉は日本や韓国では古墳時代の後使われなくなる。ここ琉球(沖縄)ではノロを中心の祭祀が衰退する。しかし、海を渡ってきたヒスイやメノウの勾玉、水晶玉が琉球の文化の根幹をなす祭祀の場で今でも根強く息づいている。それは海を越えた彼方からの文物の贈り物に違いない。


▲勾玉と水晶玉(中城ノロ家所蔵)    ▲東方から眺めた今帰仁城跡    
     


シリーズ(NO.2) 

     国頭村安田のシニグと祈り      
        ―2001年8月調査ノート―

はじめに
 平成13年8月27日(旧暦7月10日)沖縄県国頭村安田をゆく。天気は晴。今回の安田ゆきは突然の決定であった。旧暦7月10日最初の亥の日に安田でシヌグが行われるという。その日は今帰仁村の古宇利島でも海神祭(ウンジャミ)が行われる。国頭村の安波・安田・楚州・奥・辺戸ではシニグと海神祭が隔年交互に行われている。安田では今年(平成13年)がシヌグの当たり年。来年(平成14年)が海神祭の行われる年である。シニグと海神祭が隔年交互に行われている。私はそのことに興味と関心をひく。というのは、山原各地で行われているシニグや海神祭や大折目(ウプユミ)は、少なくとも三つの祭祀が一つにまとめられたのではないか?そんな仮説をもっているからである(すでに、神行事が融合していると説かれている)。
 その痕跡が国頭村の安田や安波のシニグと海神祭に可視的な姿として今に伝えているにちがいないと考えている。それは近世以降の姿かもしれないが、古くは「琉球国の支配形態」にムラとして組み込まれる以前の姿が陸の孤島と言われた安田や安波の祭祀に延々と遺している可能性がありはしないか。つまり支配者と被支配者の関係以前のムラの人々と国ではなく、人々と自然との関わりが、祈りとして形に残っているのではないか。15世紀にはムラが琉球王国に組み込まれてしまうのであるが、祭祀の中に共同体の中で人として生活が始まった時の源初的な姿が引き継がれているのではないか。
 また、安田のシニグに可視的な過去の姿として残しているのではないか。場所・所作・衣装・神人・供え物・唄などから人々の祈り、あるいは神々ヘの祈りとしてとらえていくことができれば考えている。安田のシニグの山や海に向かっての祈り・海や川での祓ぎ・旧家跡での火神・小枝でのお祓い・扮装することの意味など。
 安田のシヌグを通して、人々が住むマクやマキヨと呼ばれる生活空間が形成され、それがムラとしてまとまった時、さらに国の支配権力が及ぶようになったとき、祭祀や人々の祈りの姿に、どうが現在に継承されてきたのか。
さらに、安田のシヌグに今帰仁村古宇利島の海神祭と重ね合わせたときどうなるだろうか。あるいは来年(平成14年)に行われる海神祭はどうだろうか。
 これまで古字利の海神祭と関わり、祭祀の調査や分析をしていく過程で、古宇利の海神祭の中に山・農耕・海の要素を見ることができた。結論めいたことを言えば山の神、農耕の神、そして海の神への所作があり、少なくとも山・農耕・海の三つの祭祀が一つにまとめられた、あるいはまとまっていった。それは国という仕組み、特に支配する側と支配される側、貢(ミカナイ・租税)を取る側と搾取される方の関係が祭祀に見えるのである。そのことをシニグや海神祭から解き明かしてみたい。

  (平成13年9月1日シヌグの補足調査に臨んだ。雨のち曇であった。主な目的は
   シヌグの日に参与観察ができなかったメーバ・ササの山、さらにシヌグの流れ
   に沿って場所や所作などの確認と追体験にあった。なお、この調査には沖国
   大の大学院生の協力がありました。感謝))


   ▲安田のシニグ(神アサギの中での祈りと神アサギ)

.安田は三つのマク・マキョからなるムラか
 安田は三つの集団(マクやマキョ)の集った集落ではないのか。そのことは今回見た安田のシヌグの山降りにその痕跡をみた思いがする。12時頃ムラの男性や参加者達が三々五々とササ・メーバ・ヤマナスの三つの山に分かれていく。本来それらの山が三つの集団の各々の御嶽であったとする。合併後もそれぞれの御嶽へ登り、自分たちの神々が山(御獄)から降臨してくるとの発想が根底に流れているのではないか。近世の中頃には安田が行政ムラとして存立しているのであるが、シニグの神降臨の場(三ケ所)に三つのマク・マキョ規模の集団の合併があったことを予測させる。ササ・メーバ・ヤマナスの山の麓にマク・マキョ規模の小さな集落があったと想定するだけでも、棚田を一望したときと同じような琴線が弾かれた思いにかられる。

           しよりの御み事                         首里(首里王府)
            
くにかみまきりの                     国頭間切

              あたのさとぬし[ところ]               安田の里主
              この内に四十八つか[た]は         この内四八束......
              みかないのくち                            貢
              御ゆるしめされ候 
             
一人おたの大や(こ)に                   安田の大屋子

              たまわり申[候]               給わり申し候
          しよりよりあたの大や[こ]か方ヘまいる   首里より安田の大屋子
             萬歴十五年二月十二日

 
  この辞令書は萬歴15(1587)年に首里王府が安田の大屋子に発給したものである。首里王府が
国頭間切の安田の地(後の村か)を支配していたことがわかる。首里王府を中心とした国家体制が確立した頃には国頭間切が成立し、その下にムラ(後の村)があり、人々は首里王府に租税を納める関係にあることが伺える。現在行われている安田のシヌグや海神祭は、首里王府が国頭間切の安田に支配権力が及ぶ以前の祭祀形態と、以後の祭祀や折りの源初的な形態を引き出す手がかりとなる史料と位置づけることができそうである。

                  (もう一枚の辞令書あり、挿入のこと。国とムラとの分析まですること)

   
『琉球国由来記』(1713年)の安田村の御獄はヨリアゲ森(神名、マウサテサクゝモイ御イベ)とあ
る。現在御願原と呼ばれているところが、由来記でいうヨリアゲ森に相当する御獄なのか。共同売店の隣の森をヨリアゲムイと想定しているのもある(『沖縄の祭報一事例と課題』高坂薫編  「安田安波のシヌグ・ウンジャミ」 317頁)。山登りする三つの山は御獄ではないし、村人達の認識もウタキではない。もう少し調査が必要である。いずれにしてもササは御願原の範囲に含まれる可能性は弱い。
    『琉球国由来記』(1713年)でいうヨリアゲ森は集落に寄り添った森、あるいは海から押しあげらた砂地(兼久)の森に名づけられた御獄名に違いない。すれば旧公民館の道を挟んだ古木がはえた森をヨリアゲ森と想定してよさそうである。

   
 ササが部落で古い家系を持つ人々
    メーバはその次 
    ヤマナスは部落東方の新しい家柄の人々

    メーバとヤマナスはアギ橋(安田橋)で合流する。そこでムラの女性達が神酒や飲み物などを持って出迎える。橋を渡り、しばらくして左側に入りトンチバルに向かう。ササから隣りてきた一団と合流し、そこから神アサギヘと進む。トンチバルと神アサギで円陣をなし木の枝を振ってお祓いをする。

      ▲安田のシニグの順路

2.安田の集落の展開

 1713年の『琉球国由来記』の安田村は神アシアゲが一軒で、その当時すでに安田が一つの行政村として成立している。マクあるいはマキヨが合併後、安田ムラの中心となった集落は、ササ→神アサギ→集落とつながる軸線を見ることができる。神アサギ内の線香を置く石や線香を立てる方向はササに向いており、ササと神アサギを結ぶ軸線上に集落が発達している。周辺にニードーマやアサギンシーやナハンメーなどの旧家の跡があり、かつての集落の面影が今も残っている。「アサギを円心として、その近くが安田の発祥の地に当たり、明治の初期まで、安田の集落は、そこにかたまっていた」(『国頭村安田のシヌグ考』149頁参照)という。
 神アサギは柱が13本あり、軒が低くつくられている。柱の数だけ神人がいるといわれている。神人は神アサギの中で柱を背にして座るが、その場所も決まっているし、神人が何かの都合で参加しない場合は、その柱を神人に見たてて、神酒をあげる仕草をする。

3.安田のシニグ(2001年I日暦7月10日初亥の日)
 山降りをしてきた神人達(男性)は神アサギに進み、そこで円陣をなし三回まわりお祓い(スクナレー)をする。神人達は円陣の中の神人や女性達に向かって木の枝を振ってお 祓いをする。神アサギから共同売店の道筋を通り、慰霊塔と香炉が一個置かれた祠がある。 ヨリアゲムイと呼ばれる木の繁った森でも円陣をなしムラ人達のお祓いをする。そこから 学校の門に近いところから海岸へ向かう。
 海岸に着くと山降りをしてきた男性達は座って、まず山に向かって祈り、次に海に向か って祈願をする。区長さんは海に向かっての祈りは「ニライカナイの神への祈りだ」と説明し ている。それが終わると身にまとってきたガンシナー(ワラ縄)やゴンズイ(赤い実のつ いた直物)、あるいは手にしてきた木の枝などを一箇所にまとめて置き、海に入り身を清める。禊が終わると来た道筋を戻る形で神アサギ庭(アサギマー)までいく。神アサギ庭の側を 通りウイヌカーに行き、水につかり禊をする。カーでの禊が終わると太鼓を先頭に旗頭(祝 豊年とムカデ)、禊を終えた人々が神道を通り神アサギまでいく。神アサギで待っていた神人や女性達がカチャシーをして解散する。

4.安田のシニグ(神降り)に見る祈り
 安田のシニグの各場所での様子を神の降臨から川での禊までを一連の流れとして、また 仕草をする。(平成13年現在の神アサギを中心とした祈りや所作を通して素描してみることにする。

@メーバ
 標高約87mの山。山頂まで階段が100段余あり、登りつくと草木が刈り取られた広場がある。草や蔓やマニなどで擬装した男達が神の降臨を受ける場所である。イタジイの古木がなく、若い琉球松やギマなどの植相からまだ若い山である。集落が望める斜面は近年まで段々畑として利用されていたに違しいない。1945年9月の航空写真をみると、メーバの集落寄りの斜面は段々畑が確認でき、メーバー帯まで畑として利用されている。そこに戦前の安田の姿がよくわかる。それらのことや植相から山の若さが伺える。メーバは山と呼ばれ、御獄ではないことの認識と一致している。そこが御獄であれば古木が繁り、御獄同様の神々しさをかもして出しているであろう。御獄であったかは別にしても神の天降りの場として納得させられる。山登りあるいは山降りの流れからすると、メーバの麓にマク・マキヨ規模の集落があったのだろうか。
 メーバ(山)の頂上から東南の方向に見下ろせる安田の集落。シニグのメインとなる神アサギマー、神アサギをはじめ神道・トンチバル・ヨリアゲムイ、そして安田の海岸が一望できる。さらに、神が降臨するというササとヤマナスの二つの山も左右に確認することができる。集落が俯瞰できる場所であり、神降臨の場として最適な所を過去のムラ人達は選んでいる。
 山頂の広場で神降臨の儀式が行われる。ガンシナーを頭にかぶり、それにゴンズイをつけ、さらに蔓やクバなどの植物を身につけると参加者全員が山手の方向に座って祈りをする。今度は海の方に向かって祈りをする。山の神と海の神に祈り、ムラ人達の健康と五穀豊穣の祈願をするという。そのような意を含む祈りもあるのであろうが、ここでは神が擬装した男達一人ひとり(大人も子供も)にのり移ることを主とした祈りと考えてよさそうである。乗り移った神の眼がゴンズイの実(ミーハンチャー)で、その眼が魔物を追い払う役目を果たしでいるという。頭にゴンズイをさしたガンシナーをかぶり、小枝や蔓草やマニなどを身につけ神に扮した男性達がメーバから太鼓にあわせて「エーヘーホーイ」とかけ声をかけながら山を降りていく。太鼓を先頭に縦列に並んだ一団はゆっくり安田川に出て川沿いを下流に向かってアギ橋(安田橋)まで進む。そこでヤマナスの一団と合流する。

▲ヤマナスからアギ橋に向う一団    ▲メーバからアギ橋に向う一団

Aヤマナス
 ヤマナスは山手の苗代のことであろう。上ヤマナスと下ヤマナスがあったようで、上ヤマナスの徳門田から出発する。扮装がすむと山手に向かっての析りがあり、太鼓の合図でエーヘーホーイのかけ声をあげながら田を三回廻り、一回廻るごとにスクナーレの声に応じてスクナーレスクスクと唱和しながら田地をあおぎ、あるいは打ちたたく。円陣をとし、て一列になってエーヘーホーイとかけ声をあげながら進む。上ヤマナスの中程から小川を渡って下ヤマナスにでる。かつてはメーシキ田を廻りヤマナス川の下流、スムジ国の中腹、下ヤマナスなどを廻る。下ヤマナスの一番下までくるとメーバの動きがわかり、そこから動きにあわせてアギ橋まで進む。アギ橋でメーバ組と合流しトンチバルヘと進み、そこでさらにササ組と合流する(『国頭村安田のシヌグ考』 59頁参照)。
 ヤマナス(山手の苗代の意か)やメーシキ田やスムシ田など稲作・水田と関わる祈りの彷彿する。稲の豊穣の祈りと稲の外敵である虫払いの祈りの様相が伺える。

Bアギ橋(安田橋)
 メーバから降りてきた組とヤマナスからきた組がアギ橋で合流する。かつてアギ橋はミ
ーゾー川と呼ばれていた。アギ橋にはそれらの組と関わる家族や女性達が待機し、お酒や飲み物などを神に扮した男性達にふるまう。アギ橋で待機していた家族は男性達に乗り移ってきた神との再会や汚れや魔物を追い払って下さいとの祈りを見いだすことができる。

Cササ
 ササ組の山上りはメーバとは一変して山の頂上ではなく、三方山に固まれた谷間である。メーバと同様見通しのよい山の頂上を予想していたのであるが意外な位置にあった。小川があり、川沿いに藍が植えられた痕跡があった。そこは安田の苗代田のあった上手に位置し古堅畑といい、そこから始まる。そこでメーバと同様山手に向かって祈り、さらに海方向に祈り出発する。かつては小川を渡り、ササナスのあぜ道を通り、ヂイナス・ターラーヘと進む。ターラーまでくるとメーバの動きが見えるという(『国頭村安田のシヌグ考』宮城盛編 57頁参照)。新しく道が通っているが、そこは通らず以前からの神道を今でも踏襲している。太鼓を先頭に「エーヘーホーイ」のかけ声をかけながらトンチバルまで進んでくる。そこでメーバとヤマナスの一団と合流する。ササナスのナスは苗代のことであろう。神降臨よりも農耕、特に稲作の神の乗り移りで苗代田やヂイナスや畦道を通るなど稲作と関わる祈りの様相をみせている。畦払いの祭祀の要素も含まれている。

Dトゥンチバル
 トウンチバルは殿地原だろうか。トゥンテバルに集まった女性達の様子は、山から降りてきた神を待ちに待ち、自分の自身、あるいは家族の魔物をいち早く打ち払って欲しくてたまらない姿のように写る。待機していた人々にとって山降りしてきた神に汚れや魔物を追い払って下さいとの祈りがそこにある。
 女性やお年寄りや子供達が集まったところに、山降りしてきた神に扮した男性達が二重三重に円をつくり、エーヘーホイのかけ声、スクナレースクスクと呼応し、持ってきた木の枝を振るわせて女性や老人などの祓いをする。三回程行われる。円陣が解かれると神アサギマーヘと進む。

Eアサキ庭(アサギマー)
 神アサギの周辺に旧家があった痕跡を示す火の神の祠がある。ニードーマー・アサギンシー・メハナーなどである。シニグは神アサギ庭で行われる。トンチバルから神アサギ庭にやってきたササ・メーバ・ヤマナスの扮装した男神達は、反時計回りに円陣をつくり神アサギに待っていた神人や女性達を囲むように巻き込んで持ってきた小枝を人々の頭や体に向けて打ち払う所作を幾度もする。エーヘーホーイとスクナーレーのかけ声が繰り返し(三度だという)唱えられる。そこでのスクナーレーはトノチバルより冷静のよう見受けられる。

Fヨリアゲ森
 (神アサギマーと同様な所作が見られる)

G海 岸
 安田集落の中央を横断する道筋(神アサギ→ヨリアゲ森→学校入口)を安田小中学校の方へ向かう。学校の手前あたりから海岸の方へ出る。防潮林として続いているアダンの一部が神道として開けてある。山降りをしてきた男性達はトゥンチバラで合流し、神アサギ→ヨリアゲ森→海岸→神アサギマー→ウイヌカー神→アサギマーへと流れていく。海岸はそのが待機し、お酒や飲み物などを神に扮した男性達にふるまう。アギ橋で待機していた家族は男性達に乗り移ってきた神との再会や汚れや魔物を追い払って下さいとの祈りが見いだすことができる。


   ▲山に向っての祈り       ▲海(ニライカナイ)に向かっての祈り

Hウイヌカー(上の川)
 海での儀式が終わると、来た道を戻るように神アサギマーまで行く。神アサギの側を通りウイヌカーまでいく。そこでは川の中に入り禊ぎをする。ウイヌカーは安田のムラ立て(ムラの発祥地)の観念があり、ムラのウプガー(親川)と見られる。神アサギマーから海岸に男性群が向かっている間に女性達がウイヌカーで先に手足を洗い浄める。男性群と出会わないように前口家付近で待機し、男性達が川での禊ぎが終わると女性達も合流して旗頭を先頭に神アサギマーに向かい、そこでカチャシーや女性の前舞が行われ幕を閉じる。

             (以下未完・メモ書き)
・海での禊ぎと川での禊ぎは意味が違うのだろうか。
・山から降りてきた山の神をウイヌハーで禊ぎをし山に帰す意なのだろうか。

 山降りしてきた男性達は太鼓を先頭に海岸までやってくる。海岸につくと、山手の方に向いて座り祈る。さらに海の方に向かって祈りをする。山と海への祈りが終わると、扮装してきたガンシナや草木の衣装を脱いで何カ所かに置いていく。そして海中に入り蹴ぎをする。

 ここでは山の神に向かっての祈りと海の彼方のニライカナイの神への折りの観念がある。海での峻ぎがどのような意味をもつのだろうか。山から降りてきた海の神を海の彼方のニライカナイヘ帰す意味があるのだろうか。
   (キリスト教の洗礼と共通するのか?)

.田草取り
 田草を取ったり、ヒンメー(弁当)を食べたりする所作をする。三線ひきとヒンメー持ちが一人、田草取りの真似をする十数人の男女。ワラで鉢巻をしたりワラダスキをして田草取りの真似をする。

  田草とりわる ひんめ一くエーびんど一へイ 
  田草とりわる ひんめ一くエーびんど一へイ
   なーうん取りわる ひんめーくエーびんどーヘイ
  うりじんぬてぃらちゃ うらうらと照るゆい
  なまど笠はやが くとど思むいる

 折り返し地点となっている。

6.ヤーハリコー    (未完・続く)


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   シリーズ 

 ここでは、少しまとまったものを公にするものです。すでに新聞や雑誌などで発表したのを中心となりますが、適宜掲載していく方針です。ねらいの柱は、これまでのものを含めて、歴史文化センターが公にした発表資料やノートにある未発表の原稿の整理ということになります。資料整理になるかどうか。写真や図を取り込んでみます。どのような形で、どんなテーマになっていくか、進めてみましょう。

シリーズのタイトル

1.今帰仁グスクをめぐる歴史と文化(2002.2)
2.国頭村安田のシニグ(2001.8調査)
3.津波大宜味村を行く(1998.2.17 調査ノート)
4.今帰仁村歴史文化センターの動き(未発表原稿)

5.古宇利プーチ御嶽調査 メモ(2002.27)
6.古宇利島のサーザーウェー(ピロシー)