シリーズ No3    津波(大宜味村)を行く

  1998年2月17日は月曜日。大宜味村(ソン)の津波(ツハ)と大宜味、時間がれば大兼久まで足を伸ばす予定ある。月曜日となるのは、歴史文化センターの休館日であることが起因している。来観者のレファレンスや電話など対応に煩わされることなく、歩くことができるからである(もう、何年も続いている)。
 
今、山原のムラ・シマを行くことは9月の初旬に予定している「山原の神アサギ」をテーマにした展示会に向けての調査でもある。
歴史文化センターから車を出し、仲宗根・湧川、そして名護市を仲尾から仲屋次・稲嶺・源河を通り、大宜味村に向かう。津波は大宜味村の一番南側に位置し、名護方面からすると最初の字(アザ)である。国道を国頭方面に北上するのであるが、左手に海を眺めながら車を走らせた。
 津波の集落に入る。集落の中を南北に旧道が通り、海岸線を新しく国道が通っている。津波公民館の前に車を止め、少し北側から山手の方に小道を行くと山の麓から水が豊富に流れている
。いくつも水路が集落の小道に沿って海岸の方へ走っている。しばらく行くと、古めかしい石垣の屋敷があり赤瓦屋根の家がある。その隣に丸い半円をした湧泉を見つけた。それはヌルガーであった。ヌルドウンチと少し離れている。ヌルガーの上に御嶽かグスクらしき森がある。草の茂った旧道が御嶽(グスク?)ヘと通じているようだ。そこまで登るのはあきらめた。ヌルガーの方から南側の方に進むとウイバルガーがある。砂防ダムで土砂が流れるのを防いでいるが、そびえたったコンクリートの壁は風情かない。砂防ダムの裾野から水が流れている。集落が山に迫っているので、土砂崩れの危険に脅かされているのであろう。

 ▲上左 津波・平南の神アサギ      ▲上右 ヌルガー 
 ▲下左 ニーガミドゥンチ跡         下右 津波ヌルドゥンチ跡

 ウイパルガーから水源地まで行ってみようと登ってみた。途中に上の方からパイプがひかれた貯水タンクがあり、水源地はもっと上流のようである。ウイバルガー沿って少し下り、金網の小さな渡しを渡り、石垣沿いの小道を通り南側へ行くとアサギミャーに出た。一瞬、ホ〜と言葉を発した。アサギミャーには大木があり、湧泉の跡、ウドゥン・神アサギなどの拝所がある。神アサギの前方には、舞台があり2年回りの豊年祭が行われる場所である。二つの村(ムラ)が合併し、二つの神アサギが併存してあるのは、今婦仁村の今泊や諸志と同様である。行政は一つになるが祭紀は一体化せずの原則である。
 さて、津波は1673年以前は羽地間切(現在名護市)の村(ムラ)の一つであった。1673年に国頭間切と羽地間切の一部を裂いて田港間切(後に大宜味間切)が創設された。その時、羽地間切の村であった津波村は大宜味間切の村に組み入れられた。その後、大宜味間切(後の村)の村(後の字)となり現在に至っている。その間に平南村(『琉球国由来記』(1713年に出てくる村)が津波村と隣接する形で移動している(今のところ年代は不明)。
 平南について『沖縄県国頭郡志jは、「羽地村源河より平南を経て津波に至る海岸一帯は甚だ潮水の急速なる所にして古来屡々海嘯に襲はる。平南は即ち古への平南村の古祉なれども民屋悉く海中に掻浚はれ遂に其故地のみ津波に併合せられたるなり。又津波も数度侵蝕せられ、現在の海浜は旧時部落の中程に当りし所なりといふ」(328頁)。
 「平南は昔時津浪のさらふ所となり。其故地を津波村に合せりといふ」(38)と記してある。現在の津波は平南と合併村落のため、津波のアサギミャーの側に建っている神アサギは二つに区切られ(向かって左側が津波の神アサギ、右側が平南の神アサギ)、合併村落の面影を遺している。津波村は津波巫の管轄で平南村は『琉球国由来記』に登場する村ではあるが巫管轄については記されていない。津波のヌルドゥンチで旧地に向かって遥拝することからすると、当時から津波巫の管轄だったのであろう。
 ヌルドゥンチは二方壁のない瓦屋根の建物になっている。中に火神の石が置かれている。ノロの継承者かいないのか、往時のノロ屋敷の面影がない。隣接してヘナンウヘーフの祠があり、火神の石が置かれている。津波では祭紀が衰退しつつあるが、祭祀場がかろうじて残り、かつてのムラ・シマの形態を甦らす手がかりを残してくれている。「井 つは原」と「ユ あさか原」の原石が現存している。(1998年2月ノート)

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