東風平町(八重瀬町)富盛(ともり)

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【島尻のムラ・シマと御嶽(イベ)・殿など】

【事例 1】
 八重瀬町富盛へ行く。今回の富盛行きは、二つの狙いが。一つは嘉味田家の墓調査で報告しているが、富盛にあった墓の風水を見立ててた人物と富盛の石獅子の設置に関わった風水師が同一人物であること。嘉味田家の墓調査報告
 
 それと、富盛にあるジりグスクと祭祀場と集落の関係がどうなっているのか。山原で見てきたウタキ・イベ・グスクと集落を見る視点でみるとどうなるのか。

 『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』に「友利村」と出て来る村名で、『琉球国由来記』(1713年)では「富盛村」と登場する。同著の富盛村に八重瀬嶽御イベ、中間ノ嶽、フラウ嶽、比嘉森があり、富盛巫の崇所である。年中祭祀の所に富盛川、富盛城之殿(八重瀬城内)、野原之殿、竹下之殿、山内之殿、波平之殿、比嘉森之殿、仲真森之殿ヒラウ森之殿があり、それらは富盛巫の祭祀場である。

 「中間の嶽、ヒラウノ嶽から北方五百米程離れた山中にチブガマという洞窟がある」(『沖縄の古代マキョの研究』稲村賢敷著)という。今回、そのガマは確認することができなかった。そのガマは、前述の御嶽のイベの可能性がある。それで「イベの前?」としてある。ガマガイベであれば、それらの御嶽を祀る一門(一族)の最初の人物を祀っている。イベに祭ってある人物につながる。そこを源にしている観念が見えてくる。

 八重瀬嶽は八重瀬グスク(別名富盛グスク)、富盛城之殿は八重瀬グスク内と想定してよさそうである。ジリグスク周辺に中間之御嶽、ビロウ之御嶽(別名カニマン之御嶽:フルウ嶽のこと)、波平之殿があり、御嶽(ウタキ)・グスク・殿と集落との関係をしることのできる村である。
 
 シリグスクは富盛集落の後方にあるグスクのことか。シリグスク(森:御嶽)に複数の御嶽もしくは御嶽のイベが近接してある形態。グスクは複数の御嶽(イベ)の上部に造られている。複数の御嶽やイベは集落内の複数の一族あるいは一門と関わるものである。近世の行政村以前の形態を踏襲していると言えそうである。シリグスク内、あるいは関係する一族は他の地域からきた一族。シリグスク内に拝所があり、そこは富盛内の一門(門中)の拝所(ウタキ:イベ)であるのかどうか(確認が必要)。恩納村の山田グスクと山田村との関係と類似するグスク・ウタキの事例(島尻にはその例が多いのかもしれない。随時調査を進めていく)
 
 
 ▲ジリグスク(勢理城)の遠景(八重瀬城から)    ▲主ヌ前川より集落をみる(富盛)

  
    ▲中間之御嶽のイビの前?                              ▲中間御嶽全景(杜)

  
  ▲ビロウ之御嶽の祠(イベの前?)                         ▲波平之殿の祠(イベの前?)

  
   ▲上之拝所の祠(イビの前?)     ▲祠の内部(香炉)

 
   ▲主の前ガー(上之拝所の側)         ▲ジリグスクへの登り口か

 富盛のジリグスク(勢理城)の麓にある富盛ノロについて。ノロドゥンチに神アサギがあること。ノロの祭祀の管轄が富盛の一村であること。
 『沖縄県日誌』(明治13年)に「当間切(東風平)富盛村第十二番地ノロクモイ、マカト死亡候ニ付、・・・」の記録がある。
 また、富盛ノロドゥンチの屋敷内に神アサギがある。旧家の屋敷内にある神アサギは山原地域では数軒のみである。ただし、伊是名・伊平屋の神アサギは全て旧家(オヒヤ:ヒャー)の屋敷内にある。山原の神アサギは集落の中央部に置かれている(事情によって移動や合併もある)

    (工事中)

 
 ▲ノロドゥンチの前にある神アサギ     ▲富盛ノロドゥンチの祠(後方にセリグスクあり)