唐人の漂着と運天港                                  トップヘ


唐人の漂着と運天港(2009年5月25日)

 1741年12月大島(大和浜)に唐船が漂着した。その船は運天津(湊)に回送されてきた。運天港で修理して運天港を出港している。唐船には53人の中国人が乗っていた。出身地は蘇州と福州で商人が乗っていた。長崎で貿易をし、日本の海産物や銅器・漆器などを乗せて帰る途中、洋上で暴風にあい大島の大和浜に漂着したのである。

 大島に漂着した唐船は、唐人47人と奄美大島人7人を乗せた本船と唐人6人と荷物を乗せた大和船の二手に分かれて、沖永良部島・与論島を経由して運天港に向かった。大和船は名護間切許田村に着く。本船は伊江屋島の具志川島の干瀬に乗り上げて破船してしまう。

 名護間切の許田(湖辺底)に着いた唐人と荷物は名護間切に収容された。天気がよくなったので名護間切船二艘、恩納間切船一艘、数久田村に来ていた那覇の馬濫船一艘、計四艘で名護から運天港へ回送した。運天港に着くと、唐人と荷物は番所に引き渡され、大和横目と在番検見が綿密な船の改めをした。馬濫船は遅れて翌日に到着した。番人ならびに諸事取締り方に次のようなことが申し渡された。

         覚
  一 唐人囲所近く地下人不立寄様、堅く可申渡事。
  一 同所近辺より女性通仕間敷事。
  一大和年号又は大和人名・斗舛・京銭(寛永通宝)、唐人江見せ申し間敷事。
    附、御当地通用之銭相尋候はば、鳩目銭相用候段可申答候
  一 村中に而大和哥仕間敷事。
  一 唐人滞在中、御高札掛申間敷事。
  一 勤番家并村中、火用心別而別而可入念事。

 上のような達しが出された。また唐人を収容するための小屋がつくられた。

        覚
 一 番所屋敷内に長拾間づつ横弐間づつ、之小屋弐軒、長三間横弐間之台所壱軒、
   雪隠所等相調候事。
   附、小屋は奥弐間はいのまん床仕合、前三尺者土地に仕候。台所は床無に、かま大小
     五つ相調居候。
 一 小屋外囲之儀、高すすき・いのまん取交、内外見通り無之様に堅箇固相調候事。
 一 門左右、後表両角四ヵ所に勤番家相調候事。


 唐人が運天村に収容している間、国頭間切の七カ間切に割り当て、運天村に四日づつ詰めさせた。伊部屋島から47人が到着する間、唐人6人のために食糧が尽きると米や味噌など、入用な品々を提供している。

  伊平屋島で唐船は破損してしまったので荷物は泊馬濫船二艘に乗り、通事・評定所筆者宰領などが伊平屋島船に乗り三艘立てで運天港へ向かった。破船した船は厳重に焼き捨てた。その間、大和船が運天港沖に停泊してはならず、天候によっては古宇利島の前に停泊するようにと指示がだされる。大和横目と在番役人は唐人と荷物を綿密に検査をしている。大和役人の藤山藤兵衛や与力の宮之原四郎右衛門、足軽の池田勘助などの名がみえる。大和役人は運天ではなく、隣の上運天村に待機して指示をしているようである。その時、蔡温も運天を訪れている。

 

   ▲1741年唐人が収容された運天の番所跡付近         ▲運天のムラウチ集落