歴史文化センターの調査記録
    
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平成22年4月30日(木)

 4月29日久米島にゆく。早朝5時に家をでる。空港へ6時半到着。一便(7時45分)は空席があるようなので。夕方の7時前の便に空席があったのでその場で予約。曇り空で、少し風あり。久米島を今帰仁でやってきた「ムラ・シマ講座」のスタイルでの踏査である。仲里と具志川の二つの間切(村:ソン)を一日で踏査するのは無理(島を反時計まわりに回る。時間切れで仲地〜鳥島まで未踏査)。忘れない内にメモでも。@〜Qは回った字(アザ)の順序(睡眠不足のためか体調不良。車中、仮眠をして何度か体調を整える)

(旧具志川村)
   @大田/A兼城/B嘉手刈/P仲村渠/Q具志川/(以下未踏査・仲地/山里/上江洲/西銘/仲泊/鳥島)
(旧仲里村)
   C儀間/D島尻/E銭田/F真我里/G比嘉/H謝名堂/I真泊/J宇根/K真謝/L下阿嘉/M比屋定/
   N宇江城/O奥武島(以下未踏査・山城・上阿嘉・泊)


 久米島の五ヶ所のグスク(城跡)と集落との関わりが見たくて(今回足を運んだのは以下の五ヶグスク)
  @伊敷索グスク(嘉手刈)
  A登武那覇グスク(宇根)
  B黒石グスク(阿嘉)
  C具志川グスク(仲村渠)
  D宇江城グスク(宇江城)


 ▲丘が具志川間切蔵元跡(兼城)        ▲兼城御嶽の拝所         ▲御嶽内のイベ?


▲伊敷索グスクの石積(サンゴ石灰岩が目立つ) ▲グスク内にある拝石(イベか) ▲城壁外にある祭祀場


▲伊敷索グスクから見た嘉手刈と儀間の集落        ▲アーラ岳林道からみた二つの集落

【伊敷索グスクと三つの村】
 伊敷索グスクと関わる三つの村としたのは、まず兼城港が伊敷索グスクの重要な津(港)だということ。グスクの西側を流れる白瀬川は兼城湾に注ぐ。そこには唐船グムイの場所がある。嘉手刈と儀間は儀間ノロの管轄の祭祀が伊敷索グスクで行われる。伊敷索グスクを軸に三つの村が関わっている。

【兼城港と蔵元跡】
 ・兼城港は兼城港、あるいは大港
 ・伊敷索グスクの要津、白瀬川沿いに唐船小堀がある。
 ・兼城港は久米島の親港
 ・兼城港は唐旅に赴く中継地
 ・首里王府の宮古・八重山への中継地
 ・兼城港(湾)は風向きに関わらず船の出入りができた。
 ・大型船が数隻繋留できる湾であった。
 ・首里王府へ上納物の積み出し港であった。
 ・具志川間切の蔵元は兼城村に置かれた。
    蔵元は兼城集落の東側→大中の拝所に隣接する丘へ(1691年)→乾隆34年(1769)に大田村へ



平成22年4月28日(水)

 今帰仁村今泊でのウガン(三月ウマチー:旧暦3月15日、麦と稲穂)があった。今帰仁グスクの外郭内にあるフイドゥンチの火神の祠でのウガンである。午後2時頃から今帰仁ノロさん、区長、書記さんの三名でウガンが行われた。供え物は、線香・お米・お菓子・お酒である。お米を参加者の頭にチョンチョン。利口になるそうだ。

 フイドゥンチは二月ウマチー・三月ウマチー・旧四月のアブシバレー・プトゥチウガン・六月ウマチーの時に拝む場所である。ウガンにとって重要な拝所である。


    ▲三月ウマチー(旧3月15日)           ▲新しいフイドゥンチ火神の祠(2回目のウガン)

【久米島のグスクから】
 久米島のグスクを整理している(まだ二つ)と、グスクが形成される変遷(過程)が見えてくる。伊敷索(イシキナワ)グスクではどうだろうか。それだけでなく、別の視点が見えてきそうである。

  ・久米島のグスクは御嶽であった。そこにグスクを造っている。
  ・グスクを造った人物は他からきた人物である。
  ・ウタキはムラ・シマの人々が造ったものである。
  ・ウタキを巡る祭祀はムラ・シマの人々の拠り所である。
  ・グスクが形成されると港が重要なキーワードとなってくる。
  ・集落移動、あるいは村移動や合併があったかどうか。
  ・規模の大きいグスクは後の間切(同村)へとつながっている。

【伊敷索グスクと集落】
 今でいう伊敷索グスクは『琉球国由来記』(1713年)で「イシキナワハ御嶽」とあり、そして久米仲里間切儀間村とあり、その時期にグスクではなく御嶽と記されていることに注目すべきである。そしてイシキナハ御嶽が仲里間切儀間村に位置していることも。また、伊敷索グスクは具志川村嘉手刈(小字西新田)にあり、祭祀は儀間ノロの管轄で行われている。嘉手刈の神人も関わる。祭祀の流れは基本的に踏襲されるので、間切境界や村境界の組み換えがなされている。

 仮説を立てると、伊敷索御嶽を拠点とした大きな集団があり、それが後に儀間・嘉手刈・兼城の三つの村(ムラ)となる。さらに間切の線引きがなされるが、不都合があり村の境界線の変更がなされている。

 『琉球国由来記』(1713年)にイシキナハ御嶽について以下のように記されている。
   久米仲里間切
    イシキナハ御嶽    儀間村
  一御前、神名、久米ノ世ノ主御イベ
  一御前、神名、アフライサスカカサ御イベ、
  一御前 神名、トヨムスノキミ御イベ

   由来。古、イシキナハ按司と云う人の亡霊を、崇敬仕たるとなり。彼イシキナハ按司、先祖は不伝。子息四人あり。
   嫡子は兼城大屋子とて、兼城村、今の御蔵屋敷に居住す。次男は中城按司、今の仲里城開基の主。三男は具志川
   按司、具志川城の(主?)。四男はカサス若チャラとて、(トン?)ナハに居住す。イシキナハ按司、終命の儀、当島御征
   伐の時、被封殺。亡霊は、旧跡、イシキナハの御イベに、成たるよし、申伝成。

 『琉球国由来記』(1713年)や『久米島旧記』のグスクと関わる記事をあげるのは、それが事実かどうという史料批判も大切だが、その当時の書き手がどのような「歴史認識」を持って記述したのか。そこに関心がある。


 儀間ノロが関わる祭祀(稲大祭)は儀間と嘉手刈の集落から伊敷索御嶽へいく。そして集落内へ戻るコースをとっている。現在伊敷索グスクと呼ばれているが、祭祀を見ると伊敷索グスクは御嶽としての認識が強い。公儀ノロは複数の村の祭祀を管轄するのが一般的である。今帰仁ノロが今帰仁・親泊・志慶真の三つの村の祭祀を取り仕切り、今帰仁グスクの神アサギ庭に三つの村の神人が集まり祭祀を行うのと同じである。ここで注目しているのは、嘉手刈は具志川間切の村、儀間は仲里間切の村であること。二つの村は間切の境界線で分断されたが、祭祀は分割されなかったこと。それと御嶽をグスクとも呼んでいること。グスク内(御嶽:イベ)で行われる祭祀はウタキと関わる集団(マキ・マキョ)と密接にかかる祭祀場であること。グスクはもちろん祭祀と関わる部分もあるが、地方の支配者の居住地としての機能が見られる。そこでも村と御嶽(ウタキ)、グスクは他の地域からきた人物が造ったもの。


   ▲白瀬川の右手上に伊敷索グスクあり      ▲伊敷索グスク内(御嶽)で祭祀を行った跡

平成22年4月27日(火)

 昨日は、本部町並里〜伊野波。今帰仁村運天港まで。お会いする方々から「太りましたね」の声。歩き回るだけでは、スリムになりません。本部町に初鰹があがったと。もらってきました。午後から「本部〜今帰仁巡り」(名護市文化協会)と「恩納村誌」の事務局との調整。

【宇江城グスクと集落】

 宇江城を見ていく前に、仲里間切(村:ソン)の変遷を辿る必要がありそうである。仲里間切は久米中城間切で、久米中城間切の主(同)村として宇江城(中城)であった可能性があるからである。久米中城間切から久米仲里間切になった経緯を辿ってみるが、羽地間切の中城村や今帰仁間切の中城村が仲尾次村と改称されるのと筋書きは同一と見られる。(「グスク(ウタキ)と集落移動」については、現場踏査と祭祀の流れをみる必要があるので改めて報告することに)

 久米島の宇江城グスクは宇江城の山田原にある。まずは現在の久米島町宇江城につい触れなければならない。宇江城は久米島の北部に位置し、宇江城はウィーグスクと呼ばれ、宇江城岳の頂上部は中城(仲里城・宇江城)を中心に城・堂・仲里などのマキ・マキヨ規模の集落からなっていたという。三つの集落を合併して宇江城村となった(久米仲里旧記)。

 『琉球国由来記』(1713年)に、「久米仲里間切仲里城御嶽 宇江城村」とあり、神名として六つのイベが記されている。由来について「往古城主は久米中城按司と云う人の、亡霊を崇敬の由也。右城の儀、最初は御嶽にて、堂の比屋下女、ヲトチコハラと云う者、走逃、隠居けるに、其の時分、儀間村イシキナワ按司の次男、按司と号し、大城山に、城構へ、石垣積掛ける最中、ヲトチコハラ、御嶽より出来り・・・・・・。康煕六年(1667)丁未、城名改め、仲里城と云う也」と。概略は以下の通りである。

  ・昔の城主久米中城按司の霊を祀ってある。
  ・この城は最初はウタキであった。
  ・儀間のチハナ按司の次男が大城山に城を造るために石垣を積んでいた。
  ・ウタキに隠居していたヲトチコハラが出て来て、中城御嶽は地形は石で、水もあって
   立派な城になるでしょうと奨めている。 
  ・立派な城になることを見究め、そこの神を他に移すことに。
  ・比嘉御嶽は同じ高さなので、そこに移すことになった。
      (略)
  ・康煕六年丁未(1667)城の名を中城と改められた。

 久米中城(仲里)間切は首里王府にとって重要な地位(世子領)に置かれていた。
 
  ・1476年尚円王が没し世子尚真は久米中城王子となり、世子領となる。
  ・尚真王の世子の尚清、孫の尚元王も久米中城王子を称している。
  ・尚豊王は万暦47年(1619)中城を領地とする。
  ・尚豊王の世子の尚賢王は禎年間(1628〜44年)まで久米・中城を領地とした。
  ・尚賢王の世子尚質は順治2年(1645)に中城を領地とした。
  ・尚質王の世子尚貞は順治7年(1650)に「中城」を領地とした。
    (以降の中城は中頭の中城間切とみられる)
  ・尚貞王の世子尚純は佐敷間切を領地とし佐敷王子と称したが、康煕8年(1669)に中城を領地とし中城王子となる。
  その時佐敷間切から久米中里間切への転封である。
 ・尚純の世子の尚益も康煕28年(1689)に久米中里へ転封される。
   (以降も世子は久米島の仲里間切を加封される場合が多かった)
   (久米中城間切から久米中里間切への改称は尚質王の以降のこと)
 ・康煕6年宇江城村の仲城(現在の宇江城グスク)を中里城に改称した。

    (概略を把握するのに精一杯なり)


        ▲久米宇江城(2005年)                   ▲宇江城から麓の集落をみる(2005年)

 


                久米宇江城(1960年)


平成22年4月24日(土)

 近々久米島に渡るので、引き出しの一つを開けることに。カビだらけで、ものにならないかもしれない。カビを払って久米島の具志川城から。

【久米島具志川グスクは具志川村地ではなく仲村渠村地にあるのは?】
 具志川グスクは久米島町仲村渠(具志川間切仲村渠村)にある。具志川間切具志川村ではなく、同間切仲村渠村の場所にあることから、歴史をひも解いてみないと。多くのグスクがその村名や地名と同一である例が多くみられる。そうでないのは何故だろうかとの疑問。その答えを引き出す方法の一つに歴史をひも解いていく方法がある。何故だろうかが面白い。

 久米具志川グスクが近世の具志川村の場所ではなく、仲村渠村である。にそこから、具志川グスクの歴史をひも解く面白さがある。具志川グスクは動かすことがでいないので、グスク近くにあった集落が移動していったとの仮説が立てられる。

 古くは具志川村の集落は具志川グスクのすぐ近くにあったはずである。仲村渠村のクシメ原にあるのは何故だろうか。具志川グスクが造られてた頃、仲村渠村があり、その地にグスクを築いたのであれば仲村渠グスクと名づけられたはずである。少し、文献資料の整理をしてみる。

 『絵図郷村帳』(1646年)と『琉球国高究帳』(17世紀中頃)、それと1713年の『琉球国由来記』でもに仲村渠村は登場してこない。仲村渠村の創設は乾隆11年(1746)だという。そこから見えてくる結論は、具志川グスクは築かれた頃から、具志川村(ムラ)地内であったこと。1746年に創設された仲村渠村は具志川村を分割した。分割し仲村渠村とした場所に具志川グスクが位置し、それが今まで続いているとみていい(そのような例に羽地間切の羽地番所が親川番所と呼ばれるのと同じ)。

 具志川グスクが具志川村にあったことを示しているのが、『琉球国由来記』(1713年)の「具志川城内御イベ  具志川村」である。つまり、具志川グスク内のイベは具志川村にあったことを示している。まだ、仲村渠村が創設される前のことである。そこから具志川村を分割し、仲村渠村を創設し、仲村渠村域に具志川グスクが位置することになったことを示している。

 仲村渠は具志川村(行政村)の一部ではなかったか。具志川グスクの周辺に前兼久と後兼久があったと言われ、その地名が今でも伝えられている。具志川村の中に前兼久・後兼久・仲村渠・上村(上村渠か。仲村渠村の古村?)など複数のマキ、マキヨ規模の集落があり、それが具志川村となり、さらに分割して仲村渠村の創設となったとみてよさそうである。

 ・具志川グスクは元はウタキ(具志川嶽)(『琉球国由来記』による)
 ・グスクは青名崎に造りかける( 〃 書)。
 ・築城者は他からきた者( 〃 書)。
 ・按司の入った棺に「正徳元年丙寅」(1506年)とあり。
 ・1506年に具志川グスクは落城したという(首里王府尚真王に攻められる。世那節大比屋の裏切り?)。
 ・落城跡具志川村は田尻へ移転?(仲村渠村と隣接) 
 ・城内に転がっている切石に「天正八年」(1580年?)とある。
 ・1644年に異国船や唐船の往来を監視する遠見番所が具志川村に置かれる(方位石)。
 ・1691年 久米具志川間切諸地頭作得帳によると按司懸(惣地頭)、里主所(脇地頭)を配置
 ・1746年(乾隆11)に仲村渠村が創設される。
 ・1746年(乾隆11)に久米島検地により具志川間切の村々の編成
 ・1750年(乾隆15)具志川村は仲村渠村と接近していて、首里王府の認可を得て「まつ口原」へ移  動させられる。
 ・1800年頃、疫病のため旧地に移動。
 ・今帰仁按司十世宣謨は乾隆22年(1757)に久米具志川間切総地頭職を賜る。
 ・1750年に具志川集落は「松の口」(現在の字具志川地内)に移動する。
 ・1893年(明治26)に具志川村は「松の口原」(現在地)に移転する。

   

   ▲久米島具志川グスクの様子(2009.1)         昭和30年代の具志川グスク(新城徳祐資料)


  ▲久米島具志川グスクの拝所(2009.1)               ▲久米具志川グスク(整備された石積み)



平成22年4月22日(木)

 今帰仁村兼次のウンサヤーまでいく。「ウンサ屋の仏像」という伝承で知られた家である。「ウンサヤーのおばあが、海に貝や魚を獲りに行ったら仏像が流れてきて、何度も寄ってきたので、とうとう家に持ってきて、松の木の下に置いて拝んでいた。そしたら作物がたくさんできウェーキ(富豪)になったという。そういう伝承である。

 その仏像が祭ってあると聞いて、早速訪ねてみた。ありました。りっぱな石積みの屋敷に祠をつくり仏像が祭ってある。仏像と海石(珊瑚礁)なども祭ってある。かつて屋敷に大きな松の木があり、切り倒すことになり、村中の人達が手伝って家に大木が倒れないように引っ張ったという。大木を切った人が寄付したのが祠の仏像だという。家主の諸喜田ナヘさんから、仏像の経緯を聞かせてもらった(あやかりましょうかね)


 ▲ウンサヤーの仏像    ▲仏像が祭ってある祠       ▲ウンサヤーの屋敷の見事な石積み

平成22年4月21日(水)

 今帰仁村兼次の古島原までゆく。古島は兼次の旧集落跡地である(今の古島原と糸川原)。そこに「金満殿内」(平成11年)に建立された祠がある。祠を建てるにあたって、何本かの石柱がでてきたという。そこは集落が移動する前の神ハサギがあった場所であろうとのこと。神アサギが集落とともに移動するのは、いくつも例があるのでその通りであろう。その西側に兼次のウタキ(糸川原)がある。『琉球国由来記』(1713年)にある「兼次之嶽御イベ」の「兼次之嶽」とみられる。郡巫管轄の祭祀のように記されているが、兼次村の祭祀は中城巫の管轄である。

 『琉球国由来記』(1713年)に「神アシアゲ」が出てくるが、その場所は「金満殿内」(平成11年)が建立されている場所とみられる。つまり、兼次の集落が古島原から現在の村屋敷原に移動している。兼次の古島からの集落移動はいつ頃なのか。古島原の呼称は、集落が移動後に付けられた原名と見られる。古島域(古島原から糸川原)は集落が移動する前は「加祢寸原」(兼次原)と見てよさそうである。と言うのは、村名と同様な原名は集落の中心に名づけられる場合が多い。例えば、今帰仁村は今帰仁原、親泊村は親泊原、村によってはアタイ原(当原・當江原)、村内原などである。

 それからすると兼次村の古島からの集落移動(北・南屋敷原への移動)は印部石(原石)が設置された元文検地(今帰仁間切は1742年)以後のことと見られる。因みに、兼次は同村から同村内への移動なので「集落移動」である。明治36年の「国頭郡今帰仁間切兼次村全図」(明治36年)では、古島原と糸川原に家が一軒も記されていない。ただし、山手には寄留の方々の家が数件見られる。

 現在の古島(糸川原)に神アサギ跡地に「金満殿内」が建立されていて、ウタキの方向に向けて香炉が置かれている。また、この祠は神アサギを意識して作られている。神アサギは集落と共に移動する傾向にあるが、集落移動はそう遠い場所ではないので、また同村内での移動なのでウタキは以前からの場所である。ウタキ内にはイビの祠が設けられている。イビへの道筋が今でもあり、祭祀が行われている。古島原から糸川原にかけて、兼次の人々の苗代であった。


▲「ソ 加祢寸原」の印部石(今の古島原にあったか) ▲「フ 加祢寸原」の印部石(今の古島原にあったか)


 ▲神ハサギ跡の「金満殿内」     ▲兼次御嶽のイビへの神道           ▲御嶽のイベ

平成22年4月19日(月)

 NHKの画像撮影。恩納村の村々の踏査。山田の倉波(クラハ)は与論島や沖永良部島の暗川(クラゴー)?
 「山田グスクの北東部、北へ流れるイリガーの上流(サコガー:谷川)付近にクラハウフヌシ(久良波大主)の墓がある」(『国頭の村落』)。谷川矼のある川はサコガー(谷川)と呼ばれている。上流部では窪地やドリーネの下を流れている。そのような川は沖永良部島や与論島では暗川(クラゴー)と呼ばれている。一帯は倉波原である。その倉波はクラハー(暗川)と同様な地名と見ることも可能である。

 明治36年の「国頭郡恩納間切山田村全図」(明治36年)を見ると、旧倉波集落から山手の谷川(谷川矼)、さらに上流部の久良波大主の墓のある一帯まで「久良波原」である。一帯の川は、ドリーネ(
凹地形)を流れている。久良波はクラハ(−)は暗い川に因んだ名称か。


       ▲谷川上流部の凹地形            ▲谷川上流部(久良波原)の凹地形


平成22年4月17日(土)

【諸々事日記】(今帰仁間切勢理客村大城仁屋)
(島袋源七文庫:琉球大学図書館)
  今帰仁間切勢理客村兼次親雲上の「口上覚」に以下の一文がある。道光16年(1836)12月に恩納間切の安富祖村の外干瀬で唐船が破船したとき、兼次親雲上は昼夜して勤めを果たしたいうもので、それが勤星として加算されたわけである。そのことは『中山世譜』に記されている以下の出来事の時とみられる。

【中山世譜】
  「中国広東省潮州府澄海県の商船一隻が安富祖村の湾内に入ろうとし岩礁に衝突して
   破船したが、乗組員五十名は全員無事に保護され、泊村(那覇)に護送されている」

【諸々事日記】(今帰仁間切勢理客村大城仁屋)
  道光拾六年丙申十二月恩納間切安富祖村外干瀬江唐船破船之時昼夜シテ而差越
  大番詰並諸御用向相済置申候事


 
     ▲恩納村安富祖の河口                   ▲右手が安富祖の外干瀬

 「大城仁屋元祖行成之次第」

 奥間親雲上羽地間切我部村生同間切親川村地頭代立川親雲上と申者間切中問答差起候ニ付、表御方より彼ノ家内御取揚、立川親雲上流刑被仰付候ニ付、奥間親雲上者其時南風掟役ニ而候処□、間切ニ而ハ役職之勤方難仕、今帰仁間切勢理客村江屋敷相奉新村相立於当間切首里大屋子江役職順々戴頂仕□之役目相勤、地頭代並順仕候段伝承候

メモ
【道光10年】(1830)
 ・玉城村之儀、先年村側居候処身買三人請出村被仰付諸事仕立方並田畠御帳面表相糾坪入叶米取立地割松

平成22年4月16日(金)

 今帰仁村の西側の村(字)に目を通す。今泊・兼次・諸志・与那嶺・仲尾次・崎山・平敷・謝名・越地・仲宗根の10ヶ字。久しぶりに故郷に戻ってきた新鮮な気分。次々と各字のことが思い浮かんでくる。歴史・集落・ウタキ・グスク・カー(湧泉)・墓・道・祭祀などなど。


平成22年4月15日(木)

 今日は一日中、テーブルや周辺、そして移動してくる職員の場つくり(自分たちで作っています)。私の机も少しはすっきり。書籍や資料はどこにいったのやら。さてと、勢いをつけてスタートしますか。テーブルもいつまですっきりしていることやら。心機一転、こころもちゆったりといきましょう(強く念を入れておきましょう!)。


     

平成22年4月13日(火)

 
旧暦の3月となると、「薩摩の琉球侵攻」が浮かんでくる。以下の記述は『補遺伝説 沖縄の歴史』(昭和7年発行:島袋源一郎)にあるものである。他の資料で今帰仁城に関わる部分についてまとめたことがある。以下の文章のベースになった資料は何なのか。参考書目として、「球陽」「中山世譜」「南島紀事」「沖縄一千年史」などをあげている。

 島袋源一郎の「薩摩の琉球侵攻」部分は『沖縄一千年史』(真境名安興・島倉龍治著:大正12年)を参照している。当時真境名安興氏(沖縄郷土会会長)で、会員として島袋全発、島袋源一郎、宮里栄輝の各氏がおり、療養生活をされていた真境名会長を坐視するに忍びずと、二版、三版の発行に向けて動いている。そのような関わりがあって島袋源一郎氏も『沖縄の歴史』で「薩摩の琉球侵攻」の項を書き上げたと見られる。

 ここでは島袋源一郎氏の『補遺伝説 沖縄歴史』の「島津氏の琉球入」を紹介するが、真境名安興氏が参照された『島津国史』、『南島沿革史論』、『琉球軍記』、『喜安日記』など、目を通してみる必要がありそうだ。書き手や立場によって異なるのは当然のことながら、書き記す立場から一つの方向に集約していこうとする姿勢があり、それに気づかされる自分がいて面白い。

【島津氏の琉球入】
 慶長十四年二月、義久・義弘・家久の三公琉球征伐の議を決し、軍律十三章を定め、樺山権佐衛門久高を以て大将とし平田太郎左衛門増宗を副将として総勢三千余人戦艦百余艘に打乗り七島の舟子小松吉兵衛等を先導とし、二十一日前軍鹿児島を発した。義弘・家久・両将を送って山川港に至り、義弘密かに久高に論し、那覇は防備必ず厳重なるべければ、宜しく不意に他港より侵入せよと。久高旨を拝し三月四日山川を発し、七日大島に至り、久高は津代港、増宗は西間切より攻撃した。

 此の時笠利の大親真牛三千人を率い柵を海岸に設けて防戦したが、薩軍は種子島(銃)を放って攻め掛けたので敵すること能はず、遂に捕へられ島民皆降った。名瀬・焼内(今の宇検)の両地でも大親を大将として奮戦したが共に敗れ、大島駐在のの琉使那覇之大屋子降服して許された。

 徳之島では掟役の兄弟佐武良金・思呉良佐金節を堅くし膂力無双にして降らず都城附近の士六七人を殺したが、遂に火縄銃のために島民三百余人殪された。
 二十一日進んで沖之永良部島を攻撃した。島主嶮岨を恃んで防備をなさず、遂に衆を率いて降った。

 二十三日琉球船洋中を過ぎたので伊集院久元をして之を追はしめたが及ばず、二十四日久高等舟洋中をを過ぎたので伊集院久元をして之を追はしめたが及ばず、二十四日久高等舟師を発して那覇港へ向った。先ず七島の小舟六七艘を遣はして其の動静を偵察せしめしに、港口には鐵鎖を張り警備果たして厳重にして薩兵の来るを見て齊しく銃を発した。久高其の破り難きを知り、二十五日船を返して運天港に向った。

 尚寧は諸按司及び三司官等を召集して議し、西来院菊隠はかって薩州に在りて三公とも面識の間なれば、之を遣はして和を請うに如かずと、即ち名護親方良豊・江洲親方栄真を先とし、喜安坊主・津見池親雲上等を随へ、彼是三十余人二十六日午前八時に首里を立ちて、同日正午恩納の倉波に着き、二十七日の拂暁舟を出し、今帰仁親泊沖に於いて敵船を発見した。

 彼は船首に五、六挺の鐡砲を指し當てて打とうとしていたが、扇子を以て麾き之に移乗して今帰仁に着いた。その時、大将久高は今帰仁城に在ったが暮方
本艦に還ったので西来院菊隠は尚寧の旨を伝え只管罪を謝した。然るに久高は心事測り難しとて大慈寺の僧龍雲・市来織部・村尾矢柄等をして、之に応対せしめ、且那覇に於いて対談せんとて、西来院長老と江洲栄真とは那覇へ帰し、名護良豊は織部の舟に留まる様にと命じた。此日副将増宗等は今帰仁城を攻め、城兵旗幟を望んで遁走したので薩兵城を焚いた。

 水軍は二十九日払暁運天を発し午後六時大湾渡口に着いた。西来院も同時に出船して其の夜十時計りに真比港(牧港)に着き、舟を乗り捨て、深更直ちに御城へ参候して、其の旨を復命した。

 尚寧大に驚き給い、人々亦色を失ったが、若い公卿殿上人は皆一戦して祉稷を保たんと申し出た。陸軍は四月一日運天に上岸して進んだが、或いは伏兵のあらんことを虞れ到遽火を放ち山林民家を焼き払って進軍し、忽ち殺気地に満ち、婦女幼児泣叫んで所謂阿鼻叫喚修羅の巷化した。・・・

   (続く)
 
        ▲今帰仁の運天港                             ▲今帰仁の親泊沖 

平成22年4月7日(水)

 写真をアルバムを開いていたら、目に止まった写真が二枚。一枚は1958年9月7日(旧7月24日)の日付があり古宇利島の海神祭の一場面(新城徳祐資料)。神行事というと女の神人でやっているように見えるが、男の神人の姿も見られる。フンシ神人をなさる古宇利春夫氏の若い頃の姿が見られる。高膳や供え物が見える。それと前にリュウキュウボタンヅルのハーブイ(冠)が置かれているので、ウンジャミのヒチャバアサギでの所作を終った後なのであろう。

 もう一枚は今帰仁グスクでの海神祭の二日目のグスク内でのウガミを済ませ、グスクからシバンティナの浜へ向う途中であろう。七・五・三の階段ができている(昭和34年)ので、その後である。平郎門は、まだできていないので(昭和37年)それ以前とみられる。すると昭和35、36年頃か(メルビン・ハッキンス資料)。神衣装の神人は二人、そこでも男の神役?の姿がみられる。しかし、グスクでの神行事に参加する人は少なくなっている。



 ▲古宇利島のヒチャバアサギ付近(1958年9月7日) ▲今帰仁グスクの階段を降りる神人達(昭和35年頃)


平成22年4月6日(火)

 大宜味村田港の滝川(タキガー)と東村川田へ。田港村(ムラ)は1673年までは国頭間切、その後は大宜味(田港)間切の村(ムラ)の一つとなる。川田村と平良村は複雑に動いている。川田村は「絵図郷村帳」と「正保国絵図」と「琉球国高究帳」では名護間切の内である。1673年以前は名護間切の内である。1673年以後、『琉球国由来記』(1713年)では大宜味間切の村となっている。『球陽』の尚敬王24年条(1736年)に「久志間切川田村」とあり、その時点で久志間切の村の一つとなる。川田村と平良村が名護間切→大宜味間切→久志間切へと変遷をたどっている。二つの村が三つの間切に組み込んでいった首里王府の理念は何だったのだろうか。村数、人口、面積、地理的、石高など理由はあったのであろう。

 その川田には「中北山」と墨書された墓があり、「□次男 御思金樽」とある。その人物は「口碑伝説」などと照らしみているが未確認。川田は北山系統との認識の強い村の一つである。
    

         ▲東村(久志間切)川田にある「中北山 □思金樽」の墓

 大宜味村田港のタキガー(滝川)と北山監守引上げとの関わりで以前報告してある。


   ▲l田港の滝川(タキガー)後方              ▲タキガーの上流部

平成22年4月3日(土)

 
1953年頃の宮古島の写真をスキャナーしてみた(約100枚)。その中に名護市の画像が何枚かある。その中から名護湾と屋部川沿いの風景を選びだしてみた。写真の後ろにメモがあり、「名護湾の海岸でイルカの漁を見守る漁師や学生達」とある。また「左側に屋部の教会、右側に学校の校舎」とある。(撮影は故メルビン・ハッキンス氏)

 各地の風景は50年余で様変わり。歴史や民俗を扱う場合、少なくともそのような風景の中でものをみる必要がある。名護湾沿いも、そこは埋め立てられ国道となり、屋部川沿い、屋部の大島集落と久護集落との間には水田が広がっているが、今では水田のあった場所に家々が立ち並び、大島と久護がつながり集落として一つになっている。
(以前紹介したような!)


   ▲名護湾岸でイルカ狩りを見守る人々        ▲屋部川沿いや集落の様子


平成22年4月2日(金)

 本日は教職員の辞令交付式。歴史文化センターの職員も参加。学校と密接に関わる機関なので、歴史文化センターが、学校との関わりで行っている「総合学習」や「ムラ・シマ講座」など、プロゼクターで紹介する。説明は玉城菜美路さん。先生方、活用してくだされ!


   ▲「ムラ・シマ講座」の様子の説明            ▲「総合学習」の様子の説明

平成22年4月1日(木)

 新しい年度となりました。動きも変わっていくかと。日々の動きのほとんどが調査でした(調査とは思っていませんが)。新年度も同様な動きとなるかと思います。これまで同様、館長としての役割を担います。次第に業務を移し、できるだけ自由な動きとし、それらは歴史文化センターの財産として遺していければと考えています。体力がついていけるかな?

 今朝、メジロの巣を覗いてみました。早いもので、巣だっていきました。あれよ、あれ〜!

     ▲巣立つ直前の雛(三羽)       ▲もうこの巣に戻ってきません!    ▲見守っている二羽は親鳥