本部町具志堅の調査


 これまで数多くのテーマで調査報告してきました。そこらで一つ一つ「まとめ」る時期にきているように思います。まずは、本部町具志堅から。まずは一ヶ所にまとめ、その後に整理していきます。

 【もくじ】
  ・具志堅の歴史
  ・上間殿内(上間家)の古琉球の辞令書
  ・赤墓と上間ヤーと古琉球の辞令書
  ・上間村・真部村の創設
  ・「赤墓」と上間家
  ・具志堅の企画展
  ・具志堅のウプユミ
  ・トン・トト・トン(シルガミ)
  ・レコーラウーニ(具志堅ウーニ)
  ・マージンのある風景
  ・具志堅の現場踏査
  ・具志堅のミージマ
  ・具志堅のシニーグ(旧暦7月25日)
  ・具志堅のイナグユバイ
  ・具志堅を歩く@
  ・具志堅を歩くA
  ・今帰仁グスクを抱えた村(企画展)
     (追加あり)  

2003.9.19(金)

 「具志堅の歴史」について整理しておくことにしよう。「具志堅の歴史」を紐解く場合、まずは具志堅村・真部村・上間村を分けて考えなければならない。具志堅地内の三つの村の成立時期はどれも不明である。現在の具志堅地内に、
   ・松部原貝塚(3500年〜2000数百年前)
   ・アキキナ遺物散布地(2000数百年〜2000年前)
   ・具志堅貝塚(2000年〜1000年前)
などがあるが、貝塚時代の人達が現在の具志堅の村(ムラ)や人に直接つながるかどうか、まだ定説をみるに至っていない。

■具志堅の歴史(略年表)
 「具志堅の歴史」について整理しておくことにしよう。「具志堅の歴史」を紐解く場合、まずは具志堅村・真部村・上間村を分けて考えなければならない。具志堅地内の三つの村の成立時期はどれも不明である。現在の具志堅地内に、
   ・松部原貝塚(3500年〜2000数百年前)
   ・アキキナ遺物散布地(2000数百年〜2000年前)
   ・具志堅貝塚(2000年〜1000年前)
などがあるが、貝塚時代の人達が現在の具志堅の村(ムラ)や人に直接つながるかどうか、まだ定説をみるに至っていない。

   ・松部原貝塚       (3500年〜2000数百年前)
   ・アキキナ遺物散布地 (2000数百年〜2000年前)
   ・具志堅貝塚       (2000年〜1000年前)

   ・15世紀?   『おもろさうし』に「くしけん」と謡われる。
   ・1438年    伊平屋(現在の伊是名)から尚円王の弟が上間村に漂着
             し、上間子を名乗る。勲があって後に上間大親と改称する。 
   ・1500年頃   その頃には「上間村」は創設していた?(『球陽』)
   ・1563年    『辞令書』にみやきせんまきり(今帰仁間切)「くしけんの
             かない」とある。
   ・1586年    『辞令書』にみやきせんまきり(今帰仁間切)「くしけん
             せさかち」とある。
   ・1646年    『絵図郷村帳』に今帰仁間切「具志堅村」とある。
   ・1648年    『琉球国高究帳』に今帰仁間切具志賢村とある。
   ・1666年    今帰仁間切を分割し、伊野波間切(翌年本部間切と改称)
             を創設する。具志堅村は本部間切の村となる。
   ・1713年    『琉球国由来記』に本部間切具志堅村とある。真部村と上
             間村はみえない。
   ・1719年頃   嘉津宇村は古嘉津宇から現在地に移動?
   ・1738年以降 『御当国御高並諸上納里積記』に本部間切具志堅村・
             真部村がある。
   ・1738年以降  『琉球国一件帳』に本部間切具志堅村・真部村がある。
   ・1781年?   本部間切具志堅村の立石(ヒチ原)の灌漑工事をする。
   ・明治初期頃  真部村と上間村が具志堅村に統合される。
   ・明治6年    『琉球藩雑記』本部間切19カ村に具志堅村・真部村あり。
            上間村は登場しない。
             脇地頭具志堅親雲上の具志堅村からの作得十石余。
   ・明治13年   具志堅村の戸数253戸・1166人(男578、女588)
   ・明治33年   大川から土管による水道を敷設する。
   ・明治36年   嘉津宇村は具志堅村に統合される。
   ・明治36年   具志堅村の戸数358戸・1967人(男985、女982)
            (嘉津宇村の51戸・252人(男139、113)を含む)
   ・明治38年   道路の変更がありウンビラを木墓の前を通す。
   ・明治41年   沖縄県島嶼町村制により本部間切は本部村となり、村(ソン)
             は字(アザ)と改称される。本部村字具志堅となる。 
   ・昭和5年   本部⇔今帰仁間の郡道が整備される。
   ・大正15年  奉行毛⇔穴門⇔松部⇔大港の道路が開通する(昭和元年)。
   ・昭和11年   嘉津宇のウドゥングァーの改築をする。「嘉津宇神社改修
             記念 昭和十一年丙子六月二六日」とある。
   ・明治14年  上杉県令上間殿内(ウイマヤー)で休憩する(11月29日)。 
   ・昭和15年   本部町字具志堅となる。
   ・昭和16年   新里と北里が具志堅から独立する。
   ・昭和17年   ウイハサーギ(旧具志堅)・真部ハサーギ・上間ハサーギが
             一つにまとめられる。拝殿と神殿がつくられる。
   ・昭和18年   嘉津宇が具志堅から独立する。
   ・昭和20年6月本部町・今帰仁村・伊江村の避難民は久志村大浦へ収容。
   ・昭和20年11月 11月中旬に帰村する。ジャニーにあったコンセット(カマボ
              コ型)を米軍から譲り受け具志堅区事務所とする。
  
   ・昭和22年   本部町から分離し上本部村となる。上本部村字具志堅となる。
   ・昭和46年   上本部村が本部町に合併し、再び本部町字具志堅となる。
      
  現在の具志堅をみていくには、古具志堅に具志堅村、真部原に真部村の創設された時期を、まず考えていく必要がありそうである。しかし、具志堅村と真部村の創設時期について今のところ定かでない。村の創設時期は不明であるが、上間村は別にして、具志堅村と真部村の二つの村は、故地から現在の大島(プシマ)に移動してきたことは間違いなさそうである。

【具志堅村の創設と歩み】

 具志堅が地名(まだ村ではない)が登場するのは「おもろさうし」である。
    かつれんのとよみてたがふし
  一ちととのか ささけ そろて
    おや ひやし あまえ 
  又くしけんの かない

 「くしけん」は上間殿内が所蔵していた「古琉球の辞令書」(今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年)と中城ノロ家の「今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年)に登場する。

    しよりの御ミ事
     ミやきせんのまきりの
     くしけんのせさかち
      (途中省略)
    又まふはるともニ 
      (途中省略)
    しよりよりあかるいのおきての方へまいる
     嘉靖四十二年七月十七日

   しよりの御ミ事
    ミやきせんまきりの・・・
      (途中省略)
    又もとはくしけんのはらちのうちより 
      (途中省略)
    しよりよりうらさきのめさしの方へまゐる
     万暦二十年十月三日

 最初の辞令書に「くしけん」と「まふ」とあり、後の具志堅村と真部村へつながる地名とみてよさそうである。真部村の成立は近世中以降であるが、具志堅村の存在は少なくとも1500年代にはあったとみてよさそうである。但、後の間切が仮名の「まきり」であり、村の表現はまだ登場してこない。後の「浦崎の目差宛辞令書」にも「元は具志堅の原地(畑地)のより」とあり、後の具志堅村の存在を伺わせる。

 近世になると『絵図郷村帳』に今帰仁間切「具志堅村」、『琉球国高究帳』に今帰仁間切「具志賢村」と登場する。1713年の『琉球国由来記』以降では今帰仁間切「具志堅村」である。1666年に今帰仁間切は本部間切とに分割されるので、それ以降の具志堅村は明治41年まで本部間切具志堅村である。明治41年に本部間切は本部村、具志堅村は字具志堅となる。昭和15年に本部町字具志堅となり現在に至る。

 明治初期以前に具志堅村と真部村、そして上間村が具志堅村に統合される。神アサーギは昭和16年まで旧村名で引き継がれた。明治明治36年に嘉津宇村が具志堅村に統合されるが祭祀は別である。昭和16年に具志堅から嘉津宇・北里・新里が分離し新設される。昭和16年以降、現在の具志堅の範囲となる。

【上間村の創設】
 現在の具志堅地内にあった上間村であるが、上間村の創設も定かではない。上間村について、第二尚氏の尚円が国頭の宜名真へ。弟が今帰仁間切上間村(現在の具志堅の地の一部)に流れ着き(それに因んで着方浜という)、上間殿内(ウイマヤー)付近に住み上間子を名乗ったという。後に尚真王を助けたことで上間大親(ウイマウフヤ)を名乗り、上間村の地頭職を賜っている。内容からすると、1500年前後のこと。『球陽』の記事の「上間村に移居」などの書き方からすると、その時には上間村があったということになる。上間村が登場するのは、その記事のみである。1644年頃の『琉球国高究帳』1713年の『琉球国由来記』などにも登場してこない。

 上間村の存在を示すのが明治15年頃?の『沖縄島諸祭祝女類別表』の
   「ノロ殿内火ノ神所一ヶ所・具志堅御嶽一ヶ所・上アサギ一ヶ所・□□□
    一ヶ所・真部アサギ一ヶ所・上間アサギ一ヶ所」
である。上アサギが具志堅村、真部アサギが真部村、そして上間アサギが上間村と想定できるので、明治の初期に上間村があったことがわかる。しかし、それ以前の資料に上間村が一切登場してこないのは、伊平屋から漂着した尚円の弟が関わっており、特別扱いの村だった可能性がある。上間大親の墓が赤墓(今帰仁村諸志の佐田浜にある)で拝領墓であることも関係ありそうである。

 1500年代に『上間村」の存在を思わせるのは「古琉球の辞令書」(東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年)の存在である。戦前、上間殿内(ウイマヤー)が所蔵していたものである。上間村の創設は自然発生的なムラというより、1500年代に人為的に創設したムラなのかもしれない。

【真部村の創設】

 真部村の成立時期も不明である。真部村も1713年の『琉球国由来記』に登場してこない。登場してくるのは『御当国御高並諸上納里積記』と『琉球一件帳』(共に1738年以降の資料)である。明治初期あたりにも真部村の存在が確認できる。

 真部村の成立は、近世半ばのようである(少なくとも1738年以降)。明治の初期あたり具志堅村に統合されたようである。但、神ハサーギは統合されず昭和16年頃まで存続した。祭祀は具志堅ノロの管轄村であったようで神アサーギは独自にあるが祭祀はほとんど具志堅ノロのもとに行われていたのではないか。

2006年10月30日(月)

 最近よく「赤墓」についての問合せが続いている。この墓が何故赤墓なのか?という質問。結論が出ているわけではないが、一つは墓の外面が赤い漆喰で塗られていたことに由来する(ほとんど漆喰は剥げ落ちている。よく見ると、赤っぽい漆喰が残っている。近くの墓を見ると赤っぽい漆喰が塗られた墓がいくつかみられる)。もう二つ目の理由は、上間大親親子は尚円王や尚真王と親族関係にある人物であること。高貴な人物なので首里城で使われている赤色を重んじて上間大親の墓を赤墓と名づけたのかもしれない。三つ目に墓室に朱色の石棺があったからだと聞いているが未確認。墓室に朱色の石棺があるのであれば、それも理由の一つになるのだが・・・。
 
 この墓に葬られている人物は、銘があるので乾隆55(1790)年からである。それ以前の人物が葬られている可能性はあるが、尚真王を助けたのは1500年頃である。290年後の人物達が葬られているのである。

 それとは別に、尚真王を助けた褒美として惣地頭職を授け首里に住まいを移させようとするが上間大親はそれを断り、上間地頭を賜り上間村に住むことにした。その伝承を持っている上間家である(『球陽』にも登場する)。赤墓は上間家が管理し赤墓の庭にコンクリートの碑を建立している(昭和年)。
 
 赤墓は光緒元(明治7)年に開けて記録を残してある。当時から「赤墓」の名で呼ばれている。墓室の記録に赤い石棺があったかどうか触れていないのは残念である。二枚の板があるが痛んで字面が判読しにくかったようで見分の通り書き抜いて置くとあり、判読した「・・正  七  五撰  西平親  浩  今帰仁親  付奉行 」などの文字が記されている。
(全文を読みおこしてみると、赤墓についてもう少わかるかもしれない)。

 
 ▲今帰仁村諸志の海岸にある赤墓      ▲晴天だと正面に伊是名島が見える

2006年11月1日(水)

【赤墓と上間ヤーと古琉球の辞令書】

 先日「赤墓」について触れましたが、今日も来館者や電話での問合せが続いている。追加するなら、具志堅の上間ヤーは上間大親の伝承と関わる家であることは間違いない。戦前、上間ヤーには古琉球の辞令書(嘉靖42年:1563年)があったこと。それは、首里王府から上間家に「あかるいの掟」(東掟のことか)なる役職の人物がおり、その方に土地(田畑)や「みかない」(貢租)などを引き継いでいる。尚真王を助け、上間大親は具志堅(上間)に土地を賜り、息子の二人は首里王府役人を授けられ、世代も変わり60年近い歳月を経った頃の辞令書であるが、尚真王と上間ヤーとは、密接な関わりがあったと見てよさそうである。

 この辞令書の文面は戦前宮城真治氏がノートに書き写したメモである(宮城真治資料:名護博物館蔵)。興味深いので全文掲げてみる。辞令書に出てくるはる(原)について、四、五ヶ所確認できたような(20年前のことなので再度確認してみたい)。

【東の掟宛辞令書】(嘉靖42年:1563)(具志堅上間家)
  しよりの御ミ事
   ミやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすくミかないのくち御ゆるしめされ
   五おつかかないのところ
   二かりやたに十三まし
   たけのみはる又まへたはるともニ
  又二百三十ぬきちはたけ七おほそ(三百三十ぬきち)
   とみちやはる又きのけなはる又あらはなはる
  又たこせなはる又あふうちはる又ふなさとはる
  又まふはる共ニ
   この分(ふん)のミかない
   四かためおけの なつほこりミかない
  又くひきゆら ミしやもち
  又四かためおけの せちミかない
  又一かためおけの なつわかミかない
  又一かためおけの おれつむミかない
  又一かためおけ又なかう正月ミかない
  又一くひき みしやもち 
  又五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又一くひみしやもち
  又一かためおけの けふりミかない共
    このふんのミかないは
    上申□□□
      ふみそい申候ち
      もとは中おしちの内より
  一ミやうすくたに ニまし
    まえたはる一
  又十五ぬきちはたけ一おほそ
    あまみせはる一
    このふんのおやみかない
    又のろさとぬし
    おきてかないともニ
    御ゆるしめされ候
  しよりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日

本部町具志堅の上間殿内】

 本部町具志堅の上間殿内は尚円につながる旧家である。上間家の先祖の上間大親は尚円王の弟にあたる人物で、尚真王が山原を巡回しているとき暴風にあった。そのとき上間大親の親子が尚真を助けた。そのお礼として子ども達は首里で役職を賜り、上間大親は上間村の土地を賜った。上間大親は墓を伊是名島が正面に見える今帰仁村諸志の佐田浜につくり赤墓と呼ばれている。

 上間殿内の神家に龍が描かれた図がある。龍は首里王に関わるもので、上間家が尚円王(尚家)につながる伝承を持つ家筋なので龍(爪三本)の図像が掲げ、上間殿内が首里の尚氏の系統であることの証として掲げてあるのであろう。その神家には左手から位牌(二基)、中央部に火の神、千手観音、龍の描かれた図像の順に置かれている。

  『沖縄県国頭郡志』
  『具志堅字誌』
  『本部町史』


2003.5.11(

〔具志堅の企画展〕

 母の日のため、おばあ達の来館者が多い。お昼頃、本部町具志堅のおばあ達が数名やってきた。しめしめ。今年の夏、具志堅の集落やシニグなどの調査を予定しているので、「具志堅のどこですか?」と訪ねてみた。「ミージマだよ。フプシマ(大島)から分かれた」という。また、現在の具志堅は具志堅・上間・真部の三つのムラが合併している認識はしっかりと今でも持っている。

   「神人のおばあいませんか?」
      「神人はいないね」
   「シニグの踊りする方いませんか?」
      「若い時にはね、踊っていたよ」

 逆に、「シリガー知っているね。ウプガーは?」

と、おばあ達に試験をされてしまった。具志堅をどんな切り口で見せていこうか。そろそろ調査や企画展の準備にかかるとするか。おばあ達の来館が、「企画展に本腰入れるぞ」と、決意表明をさせられたようなもんだ。そのような後押しがないと、なかなか進みません。今日は決意表明のみ!やはりおばあ達のためにやらんといけませんね。

   「今年の夏、調査に行きますから、よろしく」
   「具志堅の展示会しますのできてよ」

 本部町具志堅調査は今帰仁グスクを抱える今泊で欠落している祭祀が具志堅では今でも行われているということ。そして今まで今泊をイリンシマと位置づけてきたが今帰仁グスクを視野にいれたとき、現在の本部町(間切)は今帰仁間切のうち。そう見ると今泊と具志堅が中心となる。方言や祭祀や人の交流など、今泊は兼次より本部町の具志堅と密接な関わりがありそうだ。

 今回の調査・研究の成果が結果としてどう出てくるのか、それは重要なことであるが、また楽しみでもある。

 神戸・広島・東京、そして地元の学芸員実習をするみなさん、展示企画はスタートします。ときどき「動き」を見ておいてください。皆さんは仕上げの場面からの参加になると思いますので。それから金沢のきみも。

..
    ▲上空からみた本部町具志堅の様子        ▲来館した具志堅のおばあたち

2003.6.19(木)

〔具志堅のウプユミ〕
(旧暦7月21日に行われる)メモ

 具志堅のウプユミを時間と場所の流れで見ていく。そのために祭祀が行われる場所を近日中に確認しておきたい。ウプユミは旧7月21日に行われる。1922年に「本部町具志堅のシニグ」調査は比較研究ができる貴重な資料である(『沖縄祭祀の研究』所収)。本調査及び予備調査にあたって活用させていただきたいと思う。

  
@ウーニフジ(御船漕ぎ)     (旧暦7月19日)
  Aウプユミ(大弓)          (旧暦7月21日)
  Bトン・トト・トン(シルガミ)   (旧暦7月23日)
  Cヰナグヌユバイ(女の夕食)  (旧暦7月24日)
  Dハートンチミチ(早朝の神酒)
     シニグ・タムトゥノーイ     (旧暦7月25日)
 

■ウプユミ(大弓) 

・公民館
   ↓ 公民館でミチとバイムッチーがつくられる。
・アサトウフヤー
   ↓ 神人(ノロ・ヌルクメーイが神ハサーギに向う途中、あさとうふやーへ行く。
   ↓ (位牌と香炉を拝む) 
・神ハサーギ
   ↓
・お   宮
   ↓
・グシクモー
   ↓
・神ハサーギ
   ↓
・ウフガー
   ↓
・お    宮


2003.6.15(

〔トン・トト・トン(シルガミ)〕
(午前9:30のメモ)

 
本部町具志堅のトン・トト・トン(シルガミともいうようだ)の祭祀の流れを確認するため、これから足を運んでみる。旧暦7月の中旬から下旬にかけて大きく五つの祭祀が行われる。
  @ウーニフジ(御船漕ぎ)     (旧暦7月19日)
  Aウプユミ(大弓)          (旧暦7月21日)
  Bトン・トト・トン(シルガミ)   (旧暦7月23日)
  Cヰナグヌユバイ(女の夕食)  (旧暦7月24日)
  Dハートンチミチ(早朝の神酒)
     シニグ・タムトゥノーイ     (旧暦7月25日)

 
旧暦の7月23日に行われるトン・トト・トン(シルガミ)は一連の祭祀の一つである。まずは、トン・トト・トンが行われる祭祀の流れと祭祀場の確認をしておきたい。
   お宮・大川
   お宮→(拝殿内)→クグンビラ→クランモー(倉の毛)→(家々回り)→
   (太鼓をたたきながら)→大川(フプガーへ)→(大川・ナレミャー・ミハージ)

※トン・トト・トン
の呼称は太鼓をたたくトン・トト・トンのリズムからきたものか?
           リズムは異なるようだが、今帰仁村湧川のウプユミとワラビミ
           チのときに小学生が湧川・勢理客・上運天・運天の祭祀場で
           小さい太鼓をたたくのと類似するものか?

・トン・トト・トンの場所確認(午後6:00のメモ)
 旧7月23日のトン・トト・トンが行われるお宮・クランモー・フプガー(大川)・ミハージの場所の確認をしてきた。この祭祀がどのような流れで行われるのか楽しみである。お宮・大川・ミハージの場所はすぐわかったがクランモーはムラの方に教えてもらった。「一年に一回しか使わんから草ボーボーなはずよ」と。その通りであった。

 農作業帰りのおばあさんがフプガーに降りて手足と顔を洗っていた。フプガーの側の畑の手入れをしたいたおばさんも手を休めて一服。そこで以下の会話。
  「フプガーの側の道、謝花に行くのですか?」
  「嘉津宇に行けるよ」
  「フプガー綺麗に掃除してありますね?」
  「この前よ、中の掃除したさ。あの木(棒)も取り換えたさ」
  「トン・トト・トンは太鼓の音ですかね?」
  「うん、そうだよ。こっけいだね」
  「昔は、家々を回っていたのですか?」
  「今は回っていないがよ、新しい家を回っていたさ」
  「クランモーの場所わかりますか?」
  「うん、仲里・・・、ウイヌジュンサ・・・の側の道を降りていくさ。年に一回
   しか使わないから草ボーボーだはずさ」
  「イェー、どこかで見たさ。館長さんでしょう。ほんものが若いさ!」
  「ありがとさん。ヘヘヘヘ・・・。」
  「みなさんも、シニグ踊るのですか?練習もするのですか?」
  「踊るよ。ウタの練習するよ。中学生の女の子たちもね」
  「今度のシニグ、応援に来ますからね」

.
     ▲具志堅のお宮                   ▲お宮の内部  

.
  ▲草ボーボーのクランモー(倉毛)       ▲フプガーの香炉 

.
  ▲清掃された具志堅のウプガー     ▲ミハージのある具志堅の海岸 

【レコーラウーニ(具志堅ウーニ)

 今帰仁グスクの外壁の内側に今帰仁ウーニと具志堅(本部)ウーニがある。二つのウーニをまとめでレコーラウーニと呼んでいる。ウーニは御船のこと。レコーラウーニとは別にハタイバルウーニというのがある。ハタイバルウーニにも今帰仁ウーニと具志堅ウーニがある。今帰仁グスク付近に今帰仁ウーニと具志堅ウーニがあるのか、理解できないでいる(ウーニと関わる祭祀や資料を読み取っていく過程で、解決できるかもしれない。楽しみにとっておこう)。

 今帰仁グスクの外壁内にあるレコーラウーニに行ってみた。レコーラウーニが今泊(旧今帰仁村と親泊村)の祭祀における位置づけ、そして具志堅村の祭祀での位置づけをする必要がありそうだ。両村における祭祀で、どのような位置づけがなされるのか。
 
 ウーニ(御舟)と呼ばれ、ウーニに置かれている竹の棒で舟漕ぎの所作を行うので、海神との関わりがある祭祀場であるにちがいない。「海上安全・航海安全・豊富な貿易品をもたらす・大漁の祈願である。かつて唐船旗をかかげて、ウーニにあがって北の方(海)に向って船を漕ぐ所作をし、それが終ると唐船旗を持ってウンジャミ道を通ってシバンティーナの海岸までいった」という。

 ここでの祭祀は今帰仁・親泊と具志堅の神人が連絡をとりあって行っていたようである。


▲今帰仁グスクの前方(外壁内)にある左今帰仁ウーニで右具志堅ウーニ

2003.6.7(土) 

 本部町具志堅の資料に目を通したり、地図にメモを入れてみた。8月下旬に企画展を開催する予定である。それに向けて、ボツボツ展示プランを立てなければならない段階にきている。具志堅を10数余のキーワードで描いてみる。どのようになるのかはこれからの楽しみである。具志堅のムラを歴史を軸として、様々な視点で描いてみたい(そろそろ、みなでテーマを拾いをしていくことにしよう)。

 今帰仁グスクを扇子の要とした時、扇子を広げると今泊と具志堅が今帰仁グスクに近いところに位置すると同時に、資料を見ていると祭祀や人の交流が密接であることに気づかされる。

 下の写真は具志堅のプシマ(大島)にある青年クラブ(1953年3月)と具志堅公民館(1953年3月)と大川(フプガー:1951年)である。これらの写真を手がかりに50年前の具志堅の様子を聞いてみる予定である。(1950年代の三枚の写真は故メルビン・ハッキンス氏撮影:歴文蔵)

 カマボコ型のコンセット(横5間、長さ20間、54坪)の建物は米軍から譲り受けたもののようである。公民館は戦争で消失し、天幕張りで雨風をしのいでいた。具志堅の東側のジャニー(謝根)に米軍が二棟のコンセットを建ててあったのを米軍の移動をしり、交渉して譲り受けたもの(当時の区長:金城嘉保氏)。

 フプガー(大川)の戦前の様子は写真でみていないが、昭和26年の様子が下の左である。円を半分に切ったカマボコ型になっているが、その前は半月型だったという。幾度となく工夫したようで、飲料水汲み場、洗濯場、浴び場、野菜洗い場、家畜浴びせ場などと。子どもが産まれた時の産水や正月の若水とり場になっている。

 昭和31年から上本部中に赴任してきた比嘉太英氏は具志堅に間借し、その頃の大川のことを「島の人々は、大川へ水汲みに集まり、列をなすことも楽しみの一つでした。特にその頃、八重岳の米軍部隊の洗濯アルバイトとして、島の御婦人、乙女が何十人も大川に群がり、所狭しと洗い流す中を中を、縫うようにして、水汲みをしたことがありました」(『具志堅誌』819頁)と回顧されている。
 

 ▲茅葺屋根の家々と青年クラブ(1953.3)       ▲コンセットの公民館(1953.3)

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  ▲具志堅の大川(フプガー)(1951年)         ▲現在の大川(フプガー)

2003.6.1(日)

 本部町具志堅まで足を延ばしてみた。シマの方々は八時には畑に出勤しています。ミージマの人たちがブー(夫:共同作業)にでて、道路の草刈りをしていた。国道505号線から山手の方に向っての道路を。昨日の黍(きび:モチキビ:マージン)の件があったので確認をしてきた。よくよく見るとあちこちに植えられている。農作業をしている老夫婦に「これマージンですか?」と尋ねると「ウン、マージンだよ」と。「年に二回植えるのですか?」「いや、一回だよ」との返事でした。今日は旧暦の5月2日だから、このあたりでの収穫は旧暦の5月ということになる。

 南の八重山での収穫は山原より一ヶ月ほど早いということか。昨日の資料では12月から1月にかけて種まきをするということだから、収穫まで4ヶ月かかるという計算になる。具志堅での種まきの時期を聞いてみる必要がありそうだ。植えている面積からすると、家庭用か隣近所に配ったり、ちょっとした小遣い稼ぎ程度のものでしょうか。

 稲作が行われなくなった今、黍の穂がたなびく風景はいいもんだ。この季節に具志堅の畑に目立つほどの面積植えられると、かつてあった水田のある風景と同様、マージンのある風景・・・

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     ▲本部町具志堅のマージン畑        ▲たわわに実ったマージンの穂


   ▲マージン畑の側のシマラッキョウの収穫をしている老夫婦

..2003.8.25(月)

 学生達(広島組)を引き連れて本部町具志堅まで。広島のメンバーは具志堅に行くのが初めてである。展示の主が具志堅なので一通り、現場踏査である。
   ・御嶽(イベ)(具志堅は神殿と呼んでいる)
   ・イビヌメー(拝殿)
   ・神ハサーギ
   ・ハサーギミャー
   ・石垣のある家々
   ・クランモー(倉毛)
   ・旧具志堅の神ハサーギ(ウイハサーギ跡)
   ・上間殿内(祠・石積の屋敷・上間神ハサーギ跡)
   ・シニグンモー
   ・大川(ウプガー)
   ・間部神ハサーギ跡
   ・チンジャ(井戸)
   ・イジカタ浜(ツチキ浜)
   ・ヤマトンチュ墓
をゆく。午後から学生達は本部町備瀬や今帰仁村運天などを回ったようだ。


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  ▲具志堅にある「石敢當」の石           ▲上間殿内の祠

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  ▲具志堅の具志堅さんから話を聞く       ▲大川(ウプガー)で


2003.6.1(日)

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     ▲本部町具志堅のマージン畑        ▲たわわに実ったマージンの穂


   ▲マージン畑の側のシマラッキョウの収穫をしている老夫婦

..2003.8.25(月)


 学生達(広島組)を引き連れて本部町具志堅まで。広島のメンバーは具志堅に行くのが初めてである。展示の主が具志堅なので一通り、現場踏査である。
   ・御嶽(イベ)(具志堅は神殿と呼んでいる)
   ・イビヌメー(拝殿)
   ・神ハサーギ
   ・ハサーギミャー
   ・石垣のある家々
   ・クランモー(倉毛)
   ・旧具志堅の神ハサーギ(ウイハサーギ跡)
   ・上間殿内(祠・石積の屋敷・上間神ハサーギ跡)
   ・シニグンモー
   ・大川(ウプガー)
   ・間部神ハサーギ跡
   ・チンジャ(井戸)
   ・イジカタ浜(ツチキ浜)
   ・ヤマトンチュ墓
をゆく。午後から学生達は本部町備瀬や今帰仁村運天などを回ったようだ。私は午後から休み。


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  ▲具志堅にある「石敢當」の石           ▲上間殿内の祠

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  ▲具志堅の具志堅さんから話を聞く       ▲大川(ウプガー)で


2003.6.6(金)

〔本部町具志堅のミージマをゆく〕

 具志堅のミージマへ。現在の具志堅はプシマ(大島)・ミージマ(新島)・サガヤと大きく三つの集落に分けれる。さらにその下に12の班がある。今日はミージマ(新島)を歩いてみた。

 ミージマ(新島)は名の示すとおり新しい集落である。新しい集落というのは、プシマ(大島)に対しての新旧である。そのプシマもプルグシチン(古具志堅)やマンバルから移動した伝承を持つ。さらに現在のプシマは具志堅・上間・真部の三つの村(ムラ)の合併である。三つの村の合併は昭和16年に三つの神ハサーギを一つにしたことにみることができる。かつての三つの村は現在のプシマの範囲にあった。そこからサガヤとミージマへと広がっていたとみてよさそうである。具志堅の方々の認識もそのようである(具志堅の歴史的な変遷は別にまとめる予定)。

 ここでは具志堅のミージマについてみる(ミージマを歩くにあたり、『本部町字具志堅の方言』仲里長和著所収の「具志堅の小地名・屋号等」を活用させていただいた)。
  @ジャニバシ
  Aアガリガー(東の井戸)
  Bブブジャモービラ(奉行毛坂)
  Cブジャモー(奉行毛)
  Dサニガガー(井戸)
  Eハキキナアジマー
  Fアガリンファーイ
  Gパギター
  Hピータティヤー
  Iパサマビラ
  Jウンサフ
  Kピクルムイ
  Lウイヌトゥムイ
  Mヒチャヌトゥムイ

 ミージマ集落一帯の小地名を拾ってみた。その中でブジャモーやブジャモービラがあるが、それは今帰仁間切と本部間切の番所を往来する奉行(役人)が事務引継ぎする場所、あるいは一服する場所に因んだ地名に違いない。その場所が丘(モー:毛)やヒラ(坂道)になっている(写真)。

 ミージマに掘り抜きの井戸が三ヶ所ある。掘り抜き井戸は、新しい集落に見られる特徴である。ミージマの東側に位置するアガリガーとサニガガーは、ミージマの方々が利用した井戸にちがいない。

 もう一つジャニガーがある。今帰仁村と本部町の境界を流れるジャニガーの側にある。現在は墓地の側にあり、1mほど埋められたのか上部にヒューム管を置いてある(写真)。ジャニガーはミージマの方々か、あるいはサガヤの方々が利用していたのか。現集落から距離がある。その距離でも水汲みをしていたのであろうか。あるいは井戸付近に人家があったのか。その確認はこれから調査である。

 ミーシキヤー(大家)の石囲いはりっぱである。ぱったり出会った近所の老人の説明では「100年はたっているよ。小さいときから、すでにあったからな」とのこと。入り口はコンクリートになっている。コンクリートの部分は「昭和4年建設」である。「これもう、崩れるよ。膨らんでいるでしょう。もう、なおせる人いないよ」と嘆いていた。

 道路の拡幅であったり、舗装されたり、水道や下水道を引くために道を掘りおこしていく。そのたびに石積みの塀が一つひとつ消え去っていく。石積みのある集落は、そこに住んでいる人たちにとっても、ムラを出て行った方々にとっても、形には見えないが宝物を贈り続けている。アガリガーやジャニガーやブジョウビラなどもそうである。

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  ▲ミージマの集落内の現在の道       ▲りっぱな石垣のあるミーシキヤー

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  ▲集落内に立っている「安全運転」の碑    ▲建物の柱に使われた石柱


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 ▲ミージマの東側にあるブジャモービラ ▲ジャニーガーラの近くにあるジャニガー(井戸)


2003.8.24(

 広島女学院大学の学生達の学芸員実習が始まった。すでに調査をしてきた先組の作業を引き継ぐ部分が多いが、展示の柱はこれからである。先グループは今日で終わりなので、一部展示を進めてみた。それは今回調査した具志堅の五つの祭祀(@ウーニフジ Aウプユミ Bトン・トト・トン Cイナグユバイ Dシニーグ)である。

 展示の進捗状況は一割程度である。ここ一週間関わった学生達は終了の日なので、自分達が調査した成果を展示するところまで体験してもらうことがねらいである。自分達で手をかけた作品がストーリーを持たせながら掲げられていくことの面白さと不思議さは興味がつきないものがある。

 広島のメンバーは、全体のストーリーなど全く未知の状態でのスタート。一つの作業に三名も四名も群がる状態である。一人ひとりの持分を作らんといけません。仕事が増える。

 前半の区切りでした。神戸のメンバーご苦労さんでした。後半まで残る並里くんと夕貴さん、そして金沢からやってきた松村さんよろしく。そして今日からの広島組の四名さんも、しっかりお願いします。

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   ▲具志堅に残る辞令書                  ▲具志堅の祭祀

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    ▲展示作業の様子           ▲自分の好きなパネルを手にポーズ

2003.8.22(金)

 午後4時から具志堅のシニグへいく。今日は旧暦7月25日にあたり具志堅ではソウニチといいシニーグが行われる日である。昨日のイナグユバイの最後にハサギミャーで予行演習をしたので、きっと大丈夫でしょう。

 具志堅は明治の初期以前に具志堅・真部・上間の三つの村が合併する。三つの村に具志堅(ウイ)神ハサーギ・真部神ハサーギ・上間神ハサーギの三つの神ハサーギがあった。昭和17年に三つの村の神ハサーギを一つにした。三つの神ハサーギを一つにして作った神ハサーギが現在の具志堅神ハサーギである。ここでウイハサーギというのは、かつての具志堅村の神ハサーギのことをさしている。現在の具志堅神ハサーギは三箇所の神ハサーギを統合した神ハサーギのことである。@のウイハサーギはかつての具志堅村の神ハサーギのあった場所を指している。


【具志堅のシニーグ】(旧暦7月25日)


@ウイハサギ跡(旧具志堅村の神ハサーギ跡)
 具志堅の神ハサーギ跡に「神徳霊妙」と書かれた旗やヤリなどが取り付けられた旗頭がたてられている。この神ハサーギの側のちょっとした広場に四時頃からクンジの着物を着た女性達が集まってくる。13名が後ろにたらした長い鉢巻、前に結んだ鉢巻の女性が26名(居神含めて)であった。時間になると居神を先頭に神ハサーギ跡に鼓を打ちながら、そして女性達がウタ謡いながら反時計回りに二重の円をつくりながら進んでいく。鼓打ちの9名は皆前結び。着物は帯の人と、ウシンチーの人がいた。白衣装は一人で居神だという。

 そこでのウタと舞いが終ると旗頭が降ろされ、具志堅の神ハサーギミャーへ男性達によって運ばれる。旗頭の後ろから行列をなしていく。旗頭は拝殿への正面の階段から運ばれる。シニーグを舞う婦人達は鼓打ちが先頭になり、具志堅の神ハサーギの側の道を通ってハサーギミャーへ登る。

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 ▲ウイハサーギ跡に旗頭がたつ     ▲広場からウイハサーギへ

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 ▲旗頭を倒し具志堅神ハサーギミャーヘ   ▲具志堅神ハサーギミャーへ移動する

Aハサーギミャー(ハサギ庭)
 旗頭は拝殿の上り口に立てられる。神ハサーギの側のハサーギミャーで隊列を整える。後ろにたらした長い鉢巻の組が円陣の内側、前で結んだ組が外側の円陣をつくる。神ハサーギの側から神ハサーギの奥の方へ二列縦隊で進んでいく。しばらくすると、反時計回りに円陣をつくっていく。先頭は居神、つづいて外側の円陣は鼓打ち。今回のシニーグで謡われ、舞ったのは、以下の11であった。
   ・しち踊り(4)
   ・天のぶり星(4)
   ・いんちゃう(2)
   ・うでけらし(4)
   ・坂本節(2)
   ・カナグワー節(4)
   ・真謝の大アサギ(4)
   ・ハンゼーク(金細工)節(2)
   ・本部上リ水(4)
   ・七尺節(2)
   ・今年するシニーグ(5)

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▲具志堅神ハサーギ横から広場へ入る      ▲ハサーギミャーで円陣をなして踊る

Bシヌーグ舞い終了後
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 ▲学芸員実習生達にも一言の言葉が求められた。そして最後のカチャシーまで参加

2003.8.21(木)

【具志堅のイナグユバイ】

 午後3時半頃、供え物は公民館や班の方が準備してお宮に向かう。参加者に配る物は神ハサーギにおいて、線香・御神酒・泡盛・あずきご飯はお宮に持参していく。一部の方々は神ハサーギの所でお宮の御願(祈り)が終るのを待っている。イナグユバイは女性だけの直会(夕食会)のようであるが区長さんと比嘉セイトクさん(トント・ト・トン鼓をたたいた方)が参加する。

@神ハサーギ
 お宮(拝殿)のあがる前に神ハサーギに筵を敷いて参加者の座る場をつくる。

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@お宮(拝殿)
 イビ(神殿)に向いての御願(祈り)。供え物は線香・泡盛・御神酒・小豆ご飯が供えられる。

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A神ハサーギ
 たもと木の側の線香たてに線香が置かれる。三本づつの四セットの線香(板香)が置かれる。

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Bハサーギミャー

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2003.8.20(水)

 調査の日々が続き、ノートの整理が間に合いません。取り急ぎ概要のみの報告。詳細については、学生達とのミーティングで行っています。企画展の方で報告の予定。明日はイナグユバイ(女の直会)があります。参加予定。

【具志堅のトン・トト・トン】

 旧暦7月23日午後3時半から本部町具志堅でトン・トト・トンの祭祀が行われた。

@大川の清掃
13時頃からカーにある香炉に線香を置き、米と泡盛を供え、上間区長が御願(祈り)をする。その後に村人たちがコーサー(熊手)や箒や鎌や草刈機を持参して清掃開始である。大川の排水口を開けて、排水をしながらカー内の藻や水草や石などを取り除いた。9本のクイがあるが、取替えは三本である。清掃している間にウガンに三本の木を取りにいく。三、三、三の木の本数に村人は意味を持たせている。三は具志堅・上間・真部のかつての三つの村で、それが合併したことを記録(記憶)に留めておくことにあるようだ。三本木をツタで三回まわして留める。さらに三本をツタを三回まわして結わえる。さらにもう一回三本の木をツタ三回巡らして結わえて完了。

Aお宮(拝殿)へ
 午後3時半頃からお宮での祭祀が行われる。公民館で準備した供え物(線香・お米・泡盛・神酒など)を車に乗せてお宮へ運ぶ。区長・書記・四五名の女性達が車に分乗してお宮へゆく。

Bクラモー(倉毛)

C大川(ウフガー)

Dナガシミャー(流
し庭)


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  ▲公民館から神酒をお宮へ運ぶ         ▲お宮の中での御願(祈り)

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 ▲お宮の中、ウガミへの御願(祈り)       ▲トン・トト・トンと太鼓をたた
                               きながらクラモーへ

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  ▲クランモーでの御願(祈り)         ▲参加者にお神酒が配られる

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  ▲大川での御願(祈り)          ▲ナガシミャー(流し庭)での祭祀の意か
                              きながらクラモーへ.

2003.8.18(月)

 学芸員実習二日目、本部町具志堅のウプユミ(大弓)の調査、その後同町辺名地でウシデークの準備をみる。今日から、地元出身の玉城夕貴さんと並里太一くんが加わる。
 
【具志堅のウプユミ】

@具志堅公民館
 平成15年8月18日(旧7月21日)具志堅でウプユミが行われた。公民館に行くと、すでに神酒(米と麹)と餅(バイムチー)が準備されていた。今回は神人の参加はなかった。ヌルクムイ(ノロ)さんやニガミさんは高齢のため自宅で御願(ウガン)をするという。公民館で準備した神酒と餅を持参して神ハサーギへ向かう。
 

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▲公民館から神酒や餅を運ぶ

 途中、神人が安里ウフヤーの火神を拝むが略されている。

A神ハサーギ
 神ハサギに神酒と餅が運ばれる。


▲神ハサーギに神酒が運び込まれる

Bお宮(拝殿)


  ▲お宮(拝殿)での御願(祈り)

C神ハサーギ


 ▲神ハサーギの中での御願(祈り)

2003.8.17

 学芸員実習一日目。午前中、学芸員実習のねらいや期間中のスケジュール確認をする。16日(日)からのメンバー、17日(月)からのメンバー、そして24日(日)からのメンバーの実習となる。今回はバラバラのスタートなので、どんな実習になることやら。
 午後から早速、展示物の作成にとりかかる。まったく展示についての体験や知識を持たない学生達なので、言葉で説明しても・・・・。それで体を動かしての作業に入る。現場まで行く予定にしていたが、時間がなく明日のウプユミの前に具志堅の集落を散策する。その予備知識として具志堅と今泊の上空写真をみてもらう。今帰仁グスクは自分達で。

 今日から学芸実習がスタートしたのは、神戸のK学院大学の川崎君・河田君・上本さんと、三人についてきた天野くん。手つきが次第にサマになってきました。まだまだ釘打ちやノコギリやカッターなどの使い方はぎこちない。見て見ない振りの方がいい。海の側に宿泊しているので、早く泳いだり、ダイビングなどしたいでしょうね。夕方、早めに開放したので泳ぎに行ったかも。

 明日は本部町具志堅のウプユミの調査や現場踏査がある。いっぱい汗をかきましょう。沖縄のメンバーが加わります。

 

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  ▲失敗はしたが息はあっています    ▲計算が得意でないのか考え込む天野君

2003.8.16(土)

   今日の夕刻、神戸学院大学の四人組が学芸員実習のため到着するなり。
  まだ、顔を合わせていません!


【具志堅のウーニフジ】

 午後3時半ウーニフジの祭祀(旧暦7月19日)が行われた。神人の参加はなく区長・書記の二人でとり行った。書記が公民館で供え物(板香・泡盛・お米)を準備しお宮(トゥヌともいう)へ。お宮に行く前に区長さんが神人(高齢のため現場まで行けず)に「これからウーニフジの御願を行ってきます」と合図をしてからお宮に登った。お宮は拝殿と神殿とに分かれていて、神殿(男性はは入れない)は焼けたという。(ウーニフジの詳細は企画展で紹介)。

@お宮(拝殿)
 お宮の中では正面の火神とウガミに向かっての火神がある。その二箇所に線香が供えられ、泡盛・お米が配膳される。正面のイベ(神殿)に向かっての御願は書記さんが中心になって行った。ウガミに向かっての遥拝はシマンペーフの役目だが、男の神人がいないので区長さんが主になって御願(祈り)をした。(お二人は神人ではないので神衣装は着ない)

A神ハサーギ
 お宮での御願が終ると、階段を下りて神ハサーギへ移動する。タモト木(森)に向かっての祈願はなされず、神ハサーギ内に筵を敷いて、東の方に向かって御願をした。供え物は板香・泡盛・お米(ミパナ)である。東側に向かっての祈願は今帰仁グスクに向かっての祈りだという。(以前は今帰仁グスクまで行って御願をしていましたとのこと)


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   ▲具志堅のお宮(拝殿)          ▲イベ(神殿)に向かっての御願(祈り)

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  ▲具志堅の本日の神ハサーギ       ▲神ハサーギで今帰仁グスクへ遥拝する
 

2003.8.15(金)

【具志堅をゆく】

 祭祀の日程の確認で本部町具志堅までゆく。公民館を訪ねた。区長さんは留守で書記さんが留守番。祭祀の日程を確認してきた。明日から調査スタート。他の行事や会合が重なり動きがとれません。

  ・16日(土)・・・・ウーニフジ(午後3時)お宮・神ハサーギ
  ・18日(月)・・・・ウプユミ(午後3時)お宮・神ハサーギ
  ・20日(水)・・・・トントト・トン(シルガミ)
  ・21日(木)・・・・イナグユバイ(午後3時)
  ・22日(金)・・・・ソーニチ(シニーグ)(午後5時)

 具志堅に昭和17年の三カ村の神ハサーギ統合の時の写真が二枚ある。それを複写させてもらった。一枚は三神を御輿で担いでミチジュネーをしている場面とお宮(トゥン)を新築し、そこでの記念写真である。

 ちょうど干潮時だったので、前回行けなかったイジカタ浜にあるクビンジャ石とヤマトゥンチュウ(大和人)墓までいく。クビンチャ石の下で三名の生徒(仲尾次大地君・与那嶺吉樹・内間貴則の三君)が魚釣りをしていた。釣ってあったのは一匹(ハゼ)。この浜と上間家の話、ヤマトンチュウ墓とクブンジャ石について。

 ヤマトゥンチュ墓は切石で長方形に囲った中に頭蓋骨がしっかりと残っている。その奥は洞窟となっている。そこで「風音」の映画撮影が行われたようだ。


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.    ▲イヂカタ浜の今日の様子           ▲クビンジャ石の下で魚釣り

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   ▲ヤマトンチュウ(大和人)墓             ▲ヤマトンチュウ墓の内部

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  ▲三カ村の神アサギを統合記念(昭和17年)     ▲三神統合の記念でお宮新築


2003.8.13(水)

 本部町具志堅に明治12年から同22年までの「辞令書」9点がある。仲里哲次氏所有である(那覇在)。廃藩置県で琉球藩(藩になるのは明治5年)から沖縄県となる。廃藩置県直後からの「辞令書」である。沖縄県になるが辞令書の内容は旧慣時代のものである。本部間切の「辞令書」の現物は展示しないが、同様な「辞令書」が今帰仁間切にもある(歴文所蔵)ので、それは現物20点を展示する予定である。

 明治初期の「辞令書」から、当時の間切役人の様子が見えてくる。辞令を受けた仲里善太郎(仲里にや)は具志堅村出身である。辞令書の「源太郎」は「善太郎」、「謝名村」は「謝花村」の書き間違いがある(詳細解説は別にする)。

 @西掟辞令書                 A南風掟辞令書
   本部間切謝名村掟仲里にや          西掟
  西掟申付候                        仲里源太郎
  事                         本部間切南風
  明治十二年十二月廿九日          掟申付候事
          沖縄県              明治十五年二月十六日
                                沖縄県

 B大掟辞令書                 C首里大屋子辞令書
    本部間切南風掟                 大掟仲里善太郎
         仲里善太郎            本部間切首里大屋
   大掟申付候                  子申付候事 
   事                        明治十六年七月廿五日
  明治十五年十二月十六日              沖縄県
       沖縄県

 D勘定主取辞令書              E小濱村夫地頭辞令書
    大掟仲里善太郎                 首里大屋子仲里善太郎
  本部間切勘定主取                本部間切小濱村夫
  兼務申付候事                   地頭申付候事
   明治十六年七月廿五日              明治十六年十一月廿九日
       沖縄県                      沖縄県

 F下知人辞令書                G惣耕作当辞令書
    勘定主取仲里善太郎              勘定主取仲里善太郎
   本部間切謝花村                 本部間切惣耕
   下知人兼務ヲ命ス                作當ヲ命ス
    明治二十年四月廿五日             明治廿二年四月十日
   沖縄県国頭役所                  沖縄県庁

 H退職辞令書
    本部間切惣耕作當兼謝花村下地人
               仲里善太郎
   依願職務ヲ免ス
    明治二十二年九月十九日
      沖縄県庁

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  @西掟辞令書(明治12年)      A南風掟辞令書(明治13年)


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  B大掟辞令書(明治15年)    E小濱村夫地頭辞令書(明治16年)


【水と生活】具志堅メモ

 
具志堅にいくつか湧泉(ハー)や井戸や川がある。それらハーと集落の展開と密接に関わっているようだ。「水と生活」の項目jをあげて調査してみることにする。●は確認済みです。

  ●大川(ウプガー)(大里原)
  ●後川(シリガーハー)(後川原)
  ●アナジョーガーラ(後川原)
  ●ニンガー
  ●チンジャ(片蒲原)
  ●ジャニガーラ
  ●ジャニガー(井戸)
  ●チンジャ(井戸)
  ・シンブトゥガー
  ・ハーソー
  ・サニナガー(井戸)
  ・シンナガーラ
  ●アガリガー(井戸)
  ・アンガー
  ●パマガー
  ●ジーガー(水道のこと)(宇茂佐原) 


2003.8.3(

【具志堅の上間家と上間大親】
 具志堅の「イヂカタバマ(出方浜)」の地名の浜がある。別名チクカタバマ(着方浜)とも言っているようだ。この地名には尚円と関わる伝承がある。年代としては1500年頃のことである。

 『沖縄県国頭郡志』(329頁)に、次のように説明している。
   イヂ方浜、本部村具志堅の北方にあり。昔尚円王の弟上間大親伊平
   屋島より逃れて此地に漂着せしに依り、着ク方浜と名づけしが後出で
   方浜と称せり。

 上間大親は具志堅にある上間家の先祖で、上間村と関わる人物である。具志堅の歴史で登場する人物の一人である。今帰仁村の諸志にある「赤墓」に葬られている。上間大親の記事は『球陽』や『孟氏家譜』にある。また『沖縄県国頭郡志』375頁にも収録されている。「村内文化財ガイド」で「赤墓」の紹介で概略をまとめたので掲げることにする。

   赤墓(アカハカ)は今帰仁村諸志の佐田浜にあり、墓名は墓室に納められ
  ている石棺が朱塗りだとか、墓の壁が赤色の漆喰が塗られていることに由
  来しているという。本部町具志堅の上間家の先祖の墓である。
   「赤墓」と記された墓碑の下に「上間牛助」(上間家)とある。毎年秋の今帰
  仁上りの頃になると、中南部から多くの門中や一般の人たちが訪れる。

   上間大親亨翁は伊平屋(現在の伊是名)の諸見の人で今帰仁に住んでい
  た(本部も1665年以前は今帰仁間切のうち)。尚真王が海路で今帰仁を訪
  れた時、暴風にあい、これを見た上間大親は長男と次男を引き連れ、荒波
  の中を小舟を出して尚真王の舟を港に引き入れ助けた。上間大親は尚円
  の直弟で、尚真王の叔父のあたることがわかり、今回の働きの褒美として
  今帰仁間切の惣地頭職を授けようとしたが、それを断り上間村(具志堅)の
  地頭と比与喜屋に土地を賜り、長男と次男は首里でとりたてられた。
   三男の上間子は父の跡を継いで具志堅に居住した。赤墓のある場所は
  正面伊平屋に向き、常に対面の心を持ち、報本反始の志を忘れないため
  に墓を諸志の佐田浜につくり赤墓と名づけたという。また、この墓は拝領墓
  でもある。

 
 ▲上間大親と関わる上間家(具志堅)              ▲上間家の位牌


▲上間大親が漂着したという着方浜付近

2003.9.21(

【具志堅を歩く・・・】@

 今帰仁村と隣接する本部町にある「具志堅」。方言でグシチンを呼んでいる。今帰仁村今泊から具志堅に向かう道筋は、かつては松並木があり、それは街道筋、つまり本部間切の渡久地番所と今帰仁間切の運天番所をつなぐスクミチ(宿道)である。今泊と具志堅の境界はジャニー(謝根)といい、渡り場にジャニー橋がある。橋と言っても今では道路に橋が架かっているかさえわからない。その橋から見下ろしたところに井戸がありジャニガーという。・・・ガーは流れる川でなく湧泉や掘り込んだ井戸のことである。

 ジャニー橋から具志堅に足を運ぶと二筋目から山手へちょっとした坂道を上っていくと奉行毛(ブジョウモー)に達する。そこに至る坂道はブジョウビラであるブジョウは奉行、つまり間切役人のことである。その地名に今帰仁間切の運天番所と本部間切の渡久地番所をつなぐ歴史街道(宿道)を実感するのである。

 憶測を挟んで言うならば、運天と渡久地の両番所間の文書(達:タッシ)の受け渡し場所が奉行毛だったに違いない。運天番所の役人がジャニガーラを越え、渡久地番所の役人が運天番所への文書を具志堅の集落を抜け、奉行毛まで持参し、そこで引渡しをしたのであろう。

 宿道(スクミチ)沿いは、昭和30年代まで松並木をなしていたのであるが、現在はでその面影がわずか留めているにすぎない。間切役人や村人達は、この松並木の下を歩いて往来したのである。

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    @今泊〜具志堅に至る道筋(宿道)         A宿道(スクミチ)の遠景(昭和28年)

 奉行毛から、さらに登っていくと大島(ウプシマ)の集落の方へたどりつく。奉行毛の西側に集落がある。具志堅の新島(ミージマ)である。名の示す通り、大島から移動したり分家した人たち、さらに他の地域から来た人たちが集落を形成したのであろう。新島は大島に対しての呼び方である。

 奉行毛から新島を通り抜ける道筋がある。この道筋は大正15年(昭和元年)に「奉行毛⇔穴門⇔松部⇔大港の道路が開通する」とある。クンチリ道、言い換えれば近道である。大島を通ると半円を描くほど遠回りである。そのクンチリ道の開通は、なるほどと納得させられる。ところが昭和5年に開通した郡道(現在の国道505号線)は、車優先の道づくりである。具志堅の道筋を歩いていると、車優先で通された道筋が集落を不自然に横切、集落の成り立ちを理解しにくいものにしていることがよくわかる。


2003.9.25(木)

【具志堅を歩く・・・】A
 
具志堅のブジョウモーあたりの集落はミージマ(新島)である。ミージマや大島(ウプシマ)に対しての呼び方である。それは大島から分かれて新しく集落をなしたということであろう。それが集落の地名になったにちがいない。

 奉行毛からミージマの上(山手)の方を通り、大島に至る道筋がある。この道筋がかつてのスクミチ(宿道)だと想像している。明治14年11月上杉県令一行は今帰仁間切運天番所から本部間切渡久地番所へ向かう途中、本部間切具志堅村を通過している。

    親泊、今帰仁の二村を過ぎ、午後零時二十分、具志堅村平民上間
   権兵衛宅に小休せらる。門南に向かい、蠣石墻あり。床に存忠孝心、
   行仁義事(晦翁の書なり) 源遠の流長、林鴻年の書を掲げたり。平
   民渡久地鍋の母、九十一年なる者を召され、長寿目出度と一言せら
   れしに合掌して拝謝す。長男傍らに侍す。六十二歳なりと云う。老母
   耳聾せず、眼暗からず、平生日々苧を績くと云う。家内は三人のよし。
     御飯を喫す。時に雨亦晴る。午後一時二十分、上間權衛門宅を発す。
   路右に折れ、海に沿い、左に山あり。その間水田薯圃多し。行くこと数
   丁。沙際に出づ。潮風凛々、鬢糸を吹乱る。路左に転じて、両山の間を
   過ぎ、坂路を攀ち上る。(『上杉県令沖縄県巡回日誌』明治14年11月)

 現在でも残っている上間家(上間殿内)の石塀、そして海岸線沿いにスクミチがあったことがわかる。スクミチから山手を見ると水田が広がっていた様子が伺える。水田地帯はグシチンラー(具志堅田)とハニークラー(兼久田)である。二つの水田地帯を分けている現在の国道505号線は昭和5年に開通したものである。 

 具志堅の大島に具志堅・真部・上間の三カ村が存在していたのであるが、その痕跡を表面的に見つけるのは中々難しい。そこで三つの村の所在は三つの神ハサーギを中心とした地域を想定し、具志堅村はウイハサーギ、上間村はウイマハサーギ、そして真部村はマブハサーギの周辺をそれぞれの村とする。それが集落を区分する大島バーリ(プシマンバーリ:一班と二班の一部)・上間バーリ(ウイマンバーリ:二班の一部と四班)・真部バーリ(マブンバーリ:三班)とほぼ一致している。
 

 

2003.9.20(土)

 
台風接近のため館内に避難させてあったものをもとの場所へ。今回も台風がそれたのでホッである。それても台風対策で、その前後のニ、三日は清掃や片付けに追われる。夕方から館前の前の草刈作業。それも朝の清掃も学芸業務の内なり。歴文では。

 年表づくりに、あれこれ資料取り出しに勤しんだ一日。また学生達の実習ノートに目を通している。一日一日の記録に目を通していると、学生達と過ごした一つ一つが展示につながっていることを実感している。辛口のコメントを書き込もうとすると、送られてきた甘いアンコの詰まったお腹をポンポン。きっと「甘い評価をしてくれ」との哀願にちがいない。「お察し申し上げます」ハハハ。それほどマジマジとノートに目を通したことは、これまでありませんでした・・・・。

 皆さんがつくった看板も掲げてあります。台風接近で避難させてあったのを、再度掲げてきました。画像は明日にでも。来館者の反応もいいですよ。具志堅の方々は来週あたりかな。来館は。その反応も大事なこと。調査したものは、地域に還したことになるかどうか。さりげなくですが。

2003.9.18(木)

 
午後から具志堅の公民館へ。豊年祭の写真をお借りするため。企画展で具志堅の豊年祭で「チョウチトリ」(蝶千鳥)のときに着た衣装が展示してある。どんな踊りか写真があればと思い・・・。それに、@とAの写真の提供である(歴文蔵)。前にも紹介したことがあるが、上間区長から公民館とAの図書館(青年クラブ)について思い出深い話を伺うことができた。

 @はコンセット(カマボコ屋ともいう)は昭和20年11月頃金城嘉保区長のとき、ジャニーへのくだり口にあったのを米軍から譲り受け公民館にしたものである。戦争で事務所や集会所は焼失し、配給は天幕張りの施設で行われていた。昭和21年に建設祝賀会を開催している。

 Aは図書館(青年クラブ)だったと上間区長の話。上間氏の家は左側の茅葺屋根の家。そして後方の二棟立ての茅葺の家はコージュヤー(大村光重)だという(八重山に移住)。上間区長はこの図書館で結婚式をあげたという。その日は大雨で出席者に申し訳なかったと記憶に留めていらっしゃる。「感無量な写真だな・・・。胸がつまる・・・」と。
 後方の右側の茅葺きの家は駐在所(巡査ぬ家)だという。巡査ぬ家に名護市の比嘉太英氏(教員時代)も住んだことがある。公民館で喧嘩が始まったと思っていたのが、後で聞くとサミ(ジャンケン)だった。また昭和26年に猛威を振るったエマ台風で回りの松の大木がはし折られ、五坪ほどの私の住んでいた家は大きく傾いたが家族はつぶされずにすんだことを「思い出の記録」(『具志堅誌』)としてある。

 現在の公民館の前の公民館の写真もあった。さらに、昭和54年・平成2年・平成6年の豊年祭のアルバムをお貸りできた。その中から何枚か展示に使わせてもらうことになった。

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    @戦後最初のコンセットの公民館    A公民館の側にあった図書館(青年クラブ)


  B旧公民館の落成式(昭和31年)         C旧公民館は昭和54年に幕を閉じた


2003.9.17(水)

 「今帰仁城が抱えた村」の企画展が開催されました。本格的な展示作業は学芸員実習からでした。今月の2日から予定していましたが、手間取り今日となりました。今か今かと待ちわびている学生達がいますので、展示の仕上がりの概要だけ画像でお見せしましょう(展示のリーフレットは後ほど報告します)。

 三時から会議があり、留守にしていましたので閉館してから撮影してきました。睡眠不足ですが、もうちょい頑張りましょうかね。企画展に参加してくれた学芸員実習の神戸、広島、金沢、そして沖縄の学生の実習の成果です。ごくろうさんでした。

 それと豊年祭の衣装をお貸し下さった具志堅の区長・書記さん、具志堅の皆様方ありがとうございました。具志堅に何度も足を運んだこともあり、いろいろ思い起こすことがあります。

 今帰仁村の部分は除いて取り急ぎ画像で紹介します。京都、神戸、広島から甘いのありがとさん。カライのも好きですよ(これからの方々は)。ハハハ。疲れました。帰って寝ます。では、では。

企画展
@導入部
「今帰仁城が抱えた村」
 ・今帰仁村
 ・親泊村
 ・志慶真村
 ・具志堅村
 ・真部村
 ・上間村
A具志堅村
 ・現在の具志堅
 ・戦後すぐの具志堅
B今帰仁城を抱えた村の移動図
 ・今帰仁村
 ・親泊村
 ・志慶真村
 ・具志堅村
 ・真部村
 ・上間村の成立と赤墓
C明治期の「辞令書」
  ・仲里家の辞令書など
  ・具志堅村の一門
  ・真部村の一門
  ・上間村の一門
D具志堅の人々
 明治34年の名簿から当
 時の人々を登場させる。
E具志堅の年中祭祀
F具志堅の祭祀
 ・ウーニフジ 
 ・ウプユミ
 ・トン・トト・トン
 ・イナグユバイ
 ・シニーグ
G具志堅の豊年祭の衣装
H山原の神アサギ
 ・具志堅の神ハサーギ
 ・国頭村比地の神アサギ
I具志堅の人々の生活
J具志堅あちこち
 ・石垣のある家
 ・具志堅の石敢当
 ・ナカムイ(十三本松森)
 ・大川(フプガー)
 ・クランモー(倉毛)
 ・現在の公民館
 ・クンチリのチンジャ(井戸)
 ・ヤマトゥンチュバカ
 ・イジカタバマの岩


2003.9.14(日)

 
展示作業に追われています。展示がどんどん変わっていきます。二つの部屋をつなぐためにタイトルの位置が大きく変わりました。まだ壁展示が中心です。これからの二日が大変。それでも、あれこれ予定が入っています。展示する時間がほとんどなさそう。どこまで進められるか・・・。オープンまでこぎつけなければなりません。間に合わないときは、展示作業も展示の内だとしてお見せいたしましょう。。展示の裏側を見せるのもいい。すでにやっていますが。それはいいアイデアだ(ハハハ)。

 明日は休館ですが、展示作業のため出勤なり。午後から。来客の予定あり。展示作業はできるかな?画像のキャプション入れる元気がありません。工事中ですね。

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2003.10.19(

 大分涼しくなってきましたがまだ半袖で大丈夫。本土からストーブをとりだそうか、寒いのは苦手だななどのたよりが届きます。沖縄はまだまだ泳げそう。季節感がうとい沖縄にもミーニシが吹きだしています。過ごしやすい季節です。周辺ではオオシマゼミがゼーン(銭)、ゼーン(銭)と体をふりしぼって鳴いています。

 昨日、具志堅の比嘉セイトクさんが展示を見にやってきた。自分が登場しているので、展示を見ながら祭祀における自分の役目をしっかりと確認。そして、
    「学生達はどうしたの?まだ、いるの?」
    「展示を見ずに帰ったのだよ。きっと、またくるよ・・・」
    「セイトクさん、何年生まれ?」
    「トラ、寅・・・」
    「わたしも、寅年生まれ?!」
その会話を聞いていたうし丸は「・・・ウッウッ・・・」と言葉を飲み込んでしまった。どういうことじゃ。

 広島から新田千代香さんの「調査ノート」が添付されてきた。早速アップ。結構なボリュームなので「学芸員実習記録ノート」の項目をつくることにした。まだの方は、いつでもどうぞ!企画展は、まだ続く・・・である。

 今日、ひよっこり一昨年学芸員実習をした宮城ウミさんがやってきて、しばし思い出話と談笑。先日亡くなった神人のフミさんを気遣っての来館だったようだ。彼女の卒論は、確か古宇利島だった。そのとき、世話になったのでしょう(ウートートゥ)。

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   ▲展示を見にきた比嘉セイトクさん。自分の姿を見つけてニッコリ!



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2003.10.11(土)

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